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(画像掲示板より引用)


 【link】

「鬼女まとめ速報」◆(2014/10/14) 遠縁の爺ちゃんが「終戦後、皇族の姫様が見舞いに来た」と言い出した

『看護婦たちの南方戦線 帝国の落日を背負って』(大谷渡著,東方出版,2011.8)

 良く取り上げられるのは,日赤の従軍看護婦だが,この本では,日赤だけで無く陸軍看護婦,それに台湾から中国や東南アジアに派遣された,台湾人看護助手にも焦点を当てている.
 今まではこの辺りの人々については,等閑にされてきたと思われるが,今回のこの力作で,看護という部分にも光が当たった様に思う.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2011/08/06(土)
青文字:加筆改修部分

『横須賀海軍航空隊始末記 医務科員の見た海軍航空のメッカ』(神田恭一著,光人社NF文庫,2002/12)

 著者の神田氏は衛生兵→下士官として横空に勤務.
 下士官兵としては,わりといい目を見たほうの人らしく,ときどきトラブルはあるものの,恨み節はほぼありません.
 また,「軍事医療の理論」のような本ではなく,NF文庫らしい体験記なので,エピソード好きにはおすすめ.
 緑十字の一式陸攻の塗粧についての証言など,意外なこともあります.
 ほかにもヒロポンの話や,朝鮮籍の志願兵を試験で落とす話など,けっこう盛沢山.

…という,ヌルい書評はさておき.
 やはり本書の白眉は航空事故の実態.
・墜落した九九艦爆が山奥で見つかった→遺体収容→蛆食ってて重い→ナイフで腹をさばいて蛆ドバー→これで引き上げられる
・零戦墜落→操縦者の目から上がないよ→整備兵,探してね→なんかピンクのもの飛び散ってますけど→この膿盆に集めてね
 さらには,川を流れて下った,東京大空襲被災者の漂着遺体の不思議などなど.

 俺だけこんな読書体験するのは不公平なので,お前らも読むように.

------------軍事板,2012/03/14(水)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 最近,戦記物を読み始めて,こんなものを読みました.
 続けて読むのになにかお勧めはありますでしょうか?
 できれば,WW2日本軍で,医療関係の戦記を希望したいのですが.
 WW2日本軍でなくとも,医療関係の戦記で名著あれば,ご教示いただければ幸いです.

『偽装病院船事件』(御田重宝著,徳間書店,1977)
ニューギニア軍医戦記(光人社NF文庫・鈴木正巳)
メレヨン島・ある軍医の日記(宝文館出版・中野嘉一)

耳鼻科医 ◆8SInHkpG2A in 軍事板,2011/01/15(土)
青文字:加筆改修部分

 【回答】
『鉄の棺』
が潜水艦勤務の軍医中尉の戦記だったよ.

『最前線の医師魂』
も,応急処置などの外科的軍医本.
 指が癒着しないようにするアイディアなど,なかなかブラックジャック的.

歴史群像の2010年10月号
には,戦場医療のルーツをたどる『衛生隊誕生』の記事が有った.
 トリアテージと引っ掛けて書いてあった気がした.

1号くらい前の『軍事史学』
 衛生特集.
 原爆投下時の長崎の医療の様子の記事を,見て鬱入った.

 他には,
ソロモン軍医戦記 平尾正治
軍医サンよもやま物語 関亮
Gパン主計ルソン戦記 金井英一郎
(以上,全て光人社NF文庫)

軍事板,2011/01/15(土)〜01/18(火)
青文字:加筆改修部分

『海軍史と医学史の交点 〜戦没海軍軍医の医学研鑽』(後藤幸一著リフレ出版)
には,血清学とか皮膚科の講義や呼吸器疾患についての話なんかが出て来てますよ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2011/01/15(土)
青文字:加筆改修部分

 ビルマ戦線は,軍医の書いたものが結構多いですね.
 三島四郎氏のはNF文庫でありますが,他にも単行本で出ているものが10数冊あります.
 自治体の図書館でも,「軍医」などのキーワードで調べると,結構蔵書されていますよ.

 防衛衛生など政策面からの検討については,『マラリアと帝国』というのが2005年頃出てますね.
 連合軍,中国軍と対比して記述されています.

岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM in 軍事板,2011/01/15(土)
青文字:加筆改修部分

『キンタマニー湖の魔女』
 元海軍民政部技師の記録.
 医師として赴任した著者の笑える話.
 しかも南洋少女のプルンプルンな写真もアルヨ(笑)

名無しの愉しみ in 軍事板,2011/01/17(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 医者です.
 戦時中に医師免許をとった大先輩には医学部卒業と医学専門学校卒業がいます.
 当然両者とも徴兵されたのでしょうが,階級に差はあったのでしょうか?

 【回答】
 大学卒と専門卒か否かは階級には影響しない.
 在学中に委託学生・生徒に給付される金額には差があった(40円と35円)
 階級の差は委託生が卒業して見習士官になり,軍医学校でどのコースに入ったかで生じる.
(甲種学生という陸大のような軍医のエリートコースが有った.)

 委託生を志願しないで卒業すると当然,どちらも徴兵されるが,衛生部幹部候補生から軍医になれた(軍医は大勢必要なので)
 戦争が進むと短期現役軍医とか軍医予備員(入隊と同時に衛生部見習士官になる)等の制度が出来た.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦時中の医学専門学校の入試や医者のレベルって,どのような感じだったんですか?
 医学部よりは下ですよね.
 戦地や戦後の医療を行うに当たって,レベルが低くて問題になったりはしなかったんですか?

 【回答】
旧制高等学校(現在の大学の教養課程相当)卒業→大学医学部
旧制中等学校(現在の高校)卒業→医学専門学校

 まず,旧制大学ってのは,国公立でも医学部に限らず学費が普通のサラリーマンでは払えないほど高い.
 特に寮がある場合寮費が目玉が飛び出るほど高い.
(寮って全員入らなくちゃならないんだったかな・・識者のレスきぼんぬ)
 当然医学部だから,入試のレベルも激高.そこらの普通の人に入れるわけがない.
 だから,当時の医学部の学生なんて
@金持ちの息子でたまたま秀才
A一般人で秀才だが,金がない.だから出身地の有力者が金を出して卒業させる.そのかわり一人前になったら出身地で開業な
のどっちかのパターンだったわけだ.

 対して医学専門学校は,やはり学費(と寮費)は高かったものの,履修年限が4〜5年と短い.
 だから,医学部に比べてやや金がなくても行けたってわけだ.
 それでも一般人にはなかなか難しいが.

 で,医学専門学校では大学の教養課程をすっ飛ばしているため,外国語ができない人が多かったという.
 現在はカルテは原則日本語か英語で書くが,当時は難しいドイツ語だったから,医者になってから苦労したことも多かったようだ.
 外国語ができないってのは医者としては致命的.
 英文や独文の論文読めないってわけだから.それでもやる気のある人はがんばって勉強したようだが.

 また,当然だが学力的には大学医学部よりは劣る.
 そういう面では,大学医学部の方がやや優秀だったというのは間違いないだろう.

 ただし,大学医学部も医学専門学校も,普通の人から見たら超優秀であることには間違いない.
 なんで学力優秀な人材が集まったかというと,医師が徴兵されても,
入隊直後は曹長→すぐに大学医学部卒は中尉,医学専門学校卒は少尉
と将校になれ,しかも一般の兵・下士官に比べて死ぬ確率が低いからだ(ゼロではない).

 戦後はともに医者として日本の医療に貢献したんだが,やはり「おまいは医専卒だからなw」とか差別される人も多かったらしい.
 でも大学教授になった人もいるから,技術,論文の実績,政治力次第では出世も可能だったケースもある.
 医専卒の有名人って言えば,大阪医専卒の手塚治虫な.

 余談だが,現在の中位以下の私立医学部では,まあぶっちゃけ裏口入学が可能だろ?
 そういううことをして入った現在の医学生よりは,当時の医専の学生のほうが優秀と思うよ.
 独断と偏見だけど.

 現在は,国公立医学部は他の学部と学費が同じ(年50万くらいか?)
 金がなくても頭さえあれば医者になれる.
 しかも最近は,医師不足で奨学金がめちゃ充実しているからな.
 いい時代になったもんだ.

 また,「需要に比べて」医者が最も充足していた時代は,医専卒の医者が多かった昭和30〜40年代という.
 現在は医者の数は増えているそうだが,見る限り,主婦で休んでる医者,高齢でやめた医者,うつ病で休んだ医者,フリーター医者なんかが多くて,実数は増えてないんじゃないかと思う.
 高齢化で患者が数倍になったのに,医者はぜんぜん増えない.

 現在の病院はまるで戦中の野戦病院だ.
「おーい,いつになったら援軍がくるんだ」
「軍医殿,師団司令部から入電です,補充は送らないが現状を死守しろと」
「もう隣の陣地も後方の陣地も全滅したぞ,孤立してしまったか」
「軍医殿敵襲です,68歳男性,激しい頭痛と吐き気を訴え・・」
「脳出血かもしれんぞ,すぐCT・・やはりあったか.脳外科の医者を呼び出せ!」
「軍医殿,脳外科の軍医少尉殿は先週戦死しました」
「後方の軍病院へ搬送しろ!」
「すでに敵襲をうけて壊滅状態です」

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
>旧制大学ってのは,国公立でも医学部に限らず学費が普通のサラリーマンでは払えないほど高い.
って本当?


 【回答】
http://www.nicol.ac.jp/~hatano/profile/two schools.doc
 旧制帝大がみつからん.私大で勘弁してくれ.
 戦前はかえって私大のほうがやすかったってことだから・・

 明治学院大の寮費(明治44年):月6円50銭
 当時の家族4人の公務員家庭の月収28円(年収を12で割った)

 現在の家族4人の公務員家庭の年収600万円,月収50万円とすると,当時の明治学院大の寮費月は12〜13万ってとこだろう.

 つまり,学費と寮費と生活費と小遣いあわせると月50万円以上はかかる計算.
 やっぱり一般人には無理だったんじゃないかと.
 陸士や海兵や予科練に優秀な人が集まるわけですな.

 また,以下は昭和5年,太宰治の学生生活の記録の一部.
――――――
 当時東大生のーカ月の学費は大体四,五十円が標準で,百円も貰っているのは数えるほどしかなかったから,津島はやはり,大地主の子なのであつた.
 もっとも,慶応あたりの大ブルジョアの子弟などが,一月千円も使っていたのに比べると,浮島の学費は寧ろ寂しいぐらいであるが,それでもかなりの贅沢は出来たのであった.
――――――
 すごいですね,やっぱり大地主の息子は違います.
 当時の200円は今の100万円以上ですかね.

http://www.tokyo-kurenaidan.com/dazai-tokyo1.htm
では,
東大生の1ヶ月の学費:40〜50円
当時の200円=現在の100万円以上

 というと,東大生の1ヶ月の学費は現在の通貨に換算して20〜25万円.
 年にして240〜300万円.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大日本帝国時代の軍医の位置づけはどんなものなのでしょうか?
 戦前に,軍医になりたいと言う人はどうしてたんでしょうか?
 何歳くらいで医者になれたんでしょうか?
 今でも代々医者の家系と言う人はいるでしょうか?

 【回答】
 それについては,『石油技術者たちの太平洋戦争』(石井正紀著,光人社NF文庫,1998.1)という本が,町田保著『横観戦記ー一軍医による南方見聞録』(共栄書房,1985.10)から引用していて,軍医には
・大学在学中から軍籍にあり,卒業と同時に軍医として教育を受けた「現役の軍医将校」
・大卒後,徴兵検査を経て軍医教育を受け,満期除隊する「短期現役の軍医」
(但し軍医不足から除隊と同時に召集される)
・軍医予備員志願者として兵卒の基礎訓練,そして速成軍医教育を受けて衛生軍曹になり満期除隊する「軍医予備員出身」
(但し軍医不足から除隊と同時に召集,曹長として見習士官になり数ヶ月後に軍医に)
と三種類があったそうです.
(これらのコース出身者以外は実務に長けてても一兵卒)

 で,医者としての腕は軍医予備員出身が良い場合が多かったようですが,「見習士官だから」との理由で執刀が許されず,未熟な現役軍医将校の手にかかって落命する者もいたそうです.

グンジ in mixi,2007年09月17日19:53

 陸軍の場合,軍医は衛生部に属しています.
 衛生部というのは,医者,薬剤師,歯科医などが属しており,獣医は獣医部に属しています.
 彼等は,兵科には属していませんので,尉官以上は将校相当官と呼ばれます.ただし,陸軍は昭和12年に相当官から将校になっています.

 大学卒は,二等軍医または二等薬剤官,専門学校卒は三等軍医または三等薬剤官に任官します.
 この将校相当官になる人は,大学医学部,医学専門学校,大学薬学科,薬学専門学校卒業生を見習医官,見習薬剤官に採用し,陸軍軍医学校で教育します(あくまでも卒業生の教育であって,この段階では,軍が医師を養成する訳ではありません).

 陸軍軍医学校は,軍陣医学,薬学,看護に関しての教育を行なうもので,甲種は乙種修了の大中尉に一年,乙種は初任中少尉(大学,専門学校卒の医師,薬剤師)に一年,丙種は少尉候補者(看護)に一年,丁種は下士官(看護)に三ヶ月,他に幹部候補生対象の11ヶ月の教育がありました.
 歯科医は,1940年に新設されたものです.
 乙種学生の課程を経る者の大部分は,医学校在学中には医学校在学中に依託学生(大学)・生徒(専門学校)に志願して採用され,大正末からは在学中から毎年3週間程度の教育を3年に亘り行い,卒業後に見習医官・見習薬剤官となり,歩兵連隊で二ヶ月間教育を受けた後に任官して軍医学校で教育を受けました.

 また,1933年には軍医候補生というのが新設され,医師免許のある志願者を軍医候補生として,一ヶ月歩兵連隊と陸軍病院で教育し,大学卒は二等軍医に任じ,二年間現役,後予備役とする制度です.

 1937年には軍部隊の拡大に伴い,医師が不足した為,医師免許を持つ者は強制的に軍医予備員とし(軍医予備員を志願しなければ,応召では一兵卒として扱われます),短期教育で,予備役衛生軍曹,召集で部隊編入時に,予備役見習士官としています.

 太平洋戦争中は,前線に医師が払底した為,本来は軍医の召集年限を上げたかったのですが,それでは苦しいことがバレバレだからというので,全兵科の召集年限を上げたりしています.

 海軍は,官制としては,軍医科,薬剤科(後に歯科医科,看護科が追加となる)からなっています.
 陸軍と違うのは,軍医科は士官のみであること,大学,専門学校卒の志願者から選び,大学卒は中尉に,専門学校卒は少尉に任ぜられます(1942年以降は二ヶ月の見習尉官を経ます).
 予備役将校相当官というものはなく,短期現役士官制度,現役士官制度という制度を1924年作り,二年現役後,予備役に編入されます.

 海軍の軍医学校は,医師,薬剤師資格を持つ者が対象で,高等科学生(大尉に一年),普通科学生(新任尉官に六ヶ月),選科,専修学生(看護兵曹長で特務士官要員)の制度がありました.

 ちなみに,医者になるのは,初等教育(6年),中学校(5年)あるいは高等女学校(5年)を出た後,高等学校,あるいは大学予科(3年)から大学(3年)に進んで医者になる場合と,中学校,高等女学校卒業後,専門学校(3年以上)を卒業して医者になる場合がありました.
 専門学校は昭和の初めには,東京,岩手,九州,昭和,東京女子,大阪高等,大阪女子高等の各医学専門学校の他,日大専門部医科,帝国女子医学薬学専門学校がありました.

 1939年以降は軍医不足になった為,全帝国大学医学部と医科大学に臨時付属医学専門部が併設され,単独校として,官立の樺太,青森,前橋,松本,米子,秋田県立,徳島県立,和歌山県立,奈良県立,広島県立,県立鹿児島,山梨県立,三重県立,兵庫県立,山口県立,横浜市立,大阪市立,名古屋市立女子,福島県立女子,岐阜県立女子,私立順天堂の医学専門学校と,官立東京,福岡県立の医学歯学専門学校が設けられました.
 これらは,戦後,順次大学になっています.

 歯科医は全て専門学校で養成され,大学教育としては行なっていません.
 修業年限は3〜4年.
 官立は東京高等歯科医学校(前述の東京医学歯学専門学校)のみで,私立として,日大専門部歯科,日本,東京,大阪,九州(これは前述の福岡県立となる),東洋女子,日本女子に各歯科医学専門学校が設けられています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2
陸軍軍医へのハローワーク・自衛隊医官の養成と,陸軍軍医の養成とを比較してみよう.
「軍医サンよもやま物語」関亮)

 じいちゃんが軍医だった.
 ある日,腕が皮一枚で繋がってる人が来たので,腕を取って窓の外にぽいって投げたら,外でバッターン!と大きな音が.
 何事かと見てみたら,偉い人が倒れていた.たまたま窓の下を通り掛かったら,いきなり腕が降ってきたので卒倒したらしい.
 ばあちゃんが大笑いしながら教えてくれた.

生活板


 【質問】
 戦前の日本には「陸軍病院」や「海軍病院」という施設はあったのですか?
 あったのであれば,所在地は何処だったのでしょうか?
 海軍病院ならば横須賀と呉にありそうな感じですが・・・.

 それと,それらの病院があったとしたら,今の防衛医大のように,一般人や軍人の家族も利用できたのでしょうか?

 【回答】
 陸軍病院も海軍病院もありました.
 海軍病院は横須賀,呉,佐世保,舞鶴の他,大湊要港・鎮海要港・馬公要港にもあり,それぞれは略称では横病,呉病,佐病,舞病……と呼ばれていました.略すると病気の名称にも読めてしまいますが‥

 独立行政法人国立病院機構を検索してみてはいかがでしょう.
 たいていの国立病院は,陸病・海病を継承していますから.

 また,潜水艦要員の湯治のために熱海温泉・別府温泉・嬉野温泉・山中温泉にもありました.
 ほかにも航空隊所在地や特攻隊演習基地にも設けられています.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ他

▼ 俺の大叔父は陸軍軍医として従軍し,米軍に包囲された野戦病院の分遣隊を指揮して,フィリピンの山中をさまよい,九死に一生を得て帰国したという.
 大叔父はあまり戦争中の話をしなかった.

 記憶に残っているのは,携行した医薬品はもちろん,食糧すらすぐに無くなり,健康な兵も疲労困憊する山道の連続であったため,自力で動けなくなった患者は,その場に放置するしかなかったこと.
 疲労と飢餓で,部下の衛生兵も次々に落伍して行ったこと.
 大叔父が落伍しないで済んだのは,自分で荷物を担がなくてよい将校だったからだということ.
 それでも,大叔父の荷物を担いでくれていた従卒だけは,何とかして日本に連れ帰ってやろうと考えていたという.

 ある日,大休止の後で整列の号令をかけたが,従卒が座り込んだまま立ち上がらない.
 駆け寄って「立て」と命じても,「もう立てません.ここに置いて行って下さい」と言う.
 重ねて命じても,「あとから必ず追い付きますから」と言って立とうとしない.
 そう言って落伍してから追い付いた者など,一人もいないことを知っている大叔父は,哀れに思う気持ちを押し殺し,従卒の顔を硬い軍靴の底で蹴りつけ,地面に倒れた従卒に向かって,
「親でもなければ兄でもない者に顔を蹴られたままで,貴様,悔しくないのか.
 貴様も男なら立ち上がって見よ」
と言うと,従卒は立った.
 すかさず出発を号令すると,隊列の動くにつれて従卒も歩き出したので,大叔父はほっとした.

 のちにその従卒は,大叔父と共に米軍の捕虜になり,敗戦後,無事に日本に帰国できた.
 そんなところです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 赤十字社の活動を記録した写真集や資料集について,ご存知の方いますか?
 併せて衛生部隊や野戦病院,捕虜の扱いの歴史や難民の救援などの活動を記録した書籍もあれば大歓迎です.
 年代は問いません.

 【回答】
『慟哭・痛憤の戦時記録 南方第九陸軍病院―南十字星の下に』

 予想の斜め上を行く「慟哭・悲憤」っぷりに腰が抜ける.
 昼間から日赤の看護婦を司令部に連れ込んで,陵辱する部隊長とか「ソレナンテエロゲ」な展開に,ページを捲る手が止まらない(笑)
 話半分としても,上官告訴で軍法会議にかけられた人の手記は,珍しいので貴重.

 まぁ,真面目なところでは,
「戦いの白衣は遠く』
あたりが,二次大戦時の日赤看護婦の体験記じゃないかな.

軍事板,2011/02/21(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦時中,医者はほとんど徴兵されて戦地ですよね.
 本土では病院に医者がいなくなって困ったと思いますが,どうしていたんですか?

 【回答】
 それを補うために女子医学専門学校(通称女子医専)が国内に多数作られた.戦後は共学に.
たとえば,
東京女子医専=東京女子医大
福島女子医専=福島県立医大
岐阜女子医専=岐阜大学医学部
北海道女子医専=札幌医大
など.
 女子医専の学生は,戦死した将校の未亡人が多かったらしい.
 そういう人たちを医師にして生活を助ける目的もあったという.

 だから,現在90歳前後の医者には女医が非常に多い.

 また,必ずしも医者が枯渇していたわけではない.
 年寄りの医者は徴兵されなかったから.
 それでも非常に医者不足であったことは間違いないが.

 蛇足だが,医者が最も多かったのは昭和30〜40年代.
 上記の学校で養成された医者が非常に多かったからね.

軍事板
青文字:加筆改修部分


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 高尾保養院とは?
 同院は太平洋戦争によってどうなったのか?

 【回答】
 現在,琵琶滝から高尾山頂まで行くコースは,高尾登山6号路,通称「琵琶滝コース」と呼ばれています.
 通常ルートである清滝と逆の方に進み,暫く登って琵琶滝に至り,更に登ると滝の源流らしき沢に行き着き,そこからジグザグに登って一気に頂上に行くコースで,結構ハードなものになっています.
 当時,この琵琶滝は精神障害者に霊験灼かなものであるとして人口に膾炙しており,江戸期より参籠する人が多く,明治,大正,昭和の時代になっても多くの人々が治療をしに集まっていました.

 今の高尾登山鉄道は清滝駅と山上駅を直行するだけですが,その昔には交換設備のある場所に途中駅がありました.

 この途中駅跡の近くに,現在は東京高尾病院と言う精神科の病院があります.
 元々,この病院のある地は江戸期から二軒茶屋と呼ばれていた地であり,文字通り旅館が2軒建っていて,琵琶滝の修行場にも近く,軽症の治療患者とその家族はこの駅で降りて旅館に旅装を解き,強力の助けを借りて御滝場に赴き,滝に打たれ,再び戻って,旅館に寝泊まりして,再び滝に打たれると言った行為を繰り返していました.

 お金に余裕の無い人は,琵琶滝の側にある参籠所と呼ばれる施設に泊まりました.
 この参籠所は,1850年代に一旦精神障害者によると見られる放火で焼失し,20世紀に入って再建されました.
 再建された建物は,2階建ての建物が2軒並び,1階部分しかない構造物で両方の建物を繋いでいました.
 新しい建物には2階部分には興奮した患者を収容する為に,木柵で仕切られた部屋があり,山側は窓の少ない構造となっていました.

 患者の数は,2つの旅館だけでも常時40名ほどおり,1部屋に10名くらいの割合で生活していたといいます.
 滝療法は,滝始めの4月1日から滝仕舞いの10月末日までが期間で,患者の逗留は平均3ヶ月,長ければ半年や冬を越してなお数年いると言う者も居ました.
 暴れる様な患者であれば,浅川駅(現在の高尾駅)から荷車に縄で結わえて,5〜6人で付添う場合もありましたが,大抵は浅川駅から徒歩で登ってきていました.
 つまり,この二軒茶屋は,現在の精神科病院で言う療養型開放病棟の一種と言える訳です.

 現在は勿論,参籠所は存在していません.
 滝修行は行われていますが,誰でも自由に入れるものではなく,予約制になっていて,正しい修行のやり方を習った後に滝打ちをします.
 滝打ちは正式には前,本,後を7日ずつ,合計21日行い,一応,公式の期間としては4月から10月までですが,冬でも行う事が出来るそうです.

 ところで,修験道では火と水は一対のものであると言う考えがあり,滝修行の対極として,護摩修行があります.
 一般の人の場合,琵琶滝を巡り,蛇滝を経て,本堂に詣でて護摩を焚いて貰うと言うコースでした.
 ただ,こうした患者の場合は,先ず30分以上座っておく必要があるのですが,精神症状が不安定な患者だとそうした行動は困難を伴います.
 また,狭い部屋で護摩を焚く行為は,軽い酸欠状態を引き起こします.
 この酸欠状態によるトランスで,幻覚が見えたりする訳ですが,ついでに狭い場所で酸欠状態を引き起こすことで,護摩による建物の火災をも防いでいたりする面もあります.
 逆に,精神症状がある患者には悪影響の方が強いので,彼らは水垢離のみとなっていた様です.

 余談ですが,日光や高尾山の護摩堂は世界遺産になったり,重要文化財になったりして,中で火を扱えなくなったそうです.
 その為,日光ではコンクリート製の護摩堂を建てざるを得なかったりする訳で.

 二軒茶屋の旅館には,強力と呼ばれる人々が数名働いていました.
 彼らは,ケーブルカーが出来るまで,その名の通り高尾山に生活物資を運ぶポーターとしての役割を果たしていましたが,この他に,精神症状がある患者に対する接遇も行っていました.
 その昔,精神病院には,看護人と呼ばれる存在の男性が必要不可欠な存在でしたが,その祖先に当るのが「強力」でした.

 この強力達は,そんなに若い訳ではなく年齢も大体50代くらいで,他に商売をやっている人もいましたが,患者の家からの手当は昭和初期の頃で100円と,当時の浅川駅長,浅川町長並みの給与だったそうです.
 仕事は,患者と一緒に起居して,滝療法の世話をする他,食事や洗濯といった身の回りの世話を行い,散歩に連れて行ったりと言うものでした.
 とは言え,そんなに簡単な仕事ではなく,場合によっては精神運動興奮状態の患者を取り押さえなければなりませんし,24時間患者に付きっきりになり,家に帰るのも交替でした.
 1人の強力は5名程度の患者を受け持ち,滝修行の際には半袖の行着に着替えて一緒に世話をしますが,冬などは手拭いも凍る冷たさだったそうです.

 滝療法は1日2回,午前10時と午後3時に行い,夏10分,冬3分くらい滝に打たれていました.
 こうした治療法で回復することもあり,電気ショック療法よりも再発する可能性は少なかったと言います.

 さて,この二軒茶屋にあった旅館2軒ですが,明治期に入るとうち1軒の佐藤旅館と言う方が隆盛を極めていきました.
 ところが,1927年に大正天皇の多摩御陵が出来た為,その聖域近くに精神障害者が闊歩し屯するのは好ましからざる事態であると,時の警察が干渉してきた事から,1935年に佐藤旅館は衣替えし,高尾保養院と言う精神病院を建設しました.
 敷地約700坪に,ベッド数は開設当時25〜27床,最盛期は40床になり,医療費は全額自費負担で,2円50銭から3円を前納する形でした.
 当然,これだけの費用を負担出来る層は限られ,富裕層から患者を受け入れています.

 強力達も横滑りして看護人となり,滝治療も継続して行われていました.
 滝治療は,患者10名に看護人2名と看護婦2名が付添って,滝に連れて行ったそうです.
 この滝治療については,興奮や昏迷を主訴とする統合失調症緊張型には効果がありますが,無為自閉の破瓜型の様な陰性症状には効果がないとして,次第に廃止されていきました.

 この高尾保養院は1935年から凡そ10年間続きましたが,太平洋戦争末期になると看護人が徴兵,徴用などで不足し,敗戦後は富裕層が没落したことから手元不如意となって閉院の憂き目を見ました.

 その後,同じ敷地に同じ様に精神科病院として,現在もある330床の病院が出来ましたが,これは直接この高尾保養院とは関係ないそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/06 21:59


 【質問】
 ダチの医者に聞いたんだが,マラリアやアメーバ赤痢やデング熱って,簡単に死ぬような病気じゃないっていうことらしい.
 でも,先の大戦では,こんな病気でたくさんの兵隊が死んでますよね.
 何が原因で,こんな悲惨な事になったんですか?

 【回答】
感染症の分類(厚労省,1類が凶悪,5類はあまり凶悪ではない)

 1類:エボラ出血熱,クリミア・コンゴ出血熱,痘瘡(天然痘),南米出血熱,ペスト,マールブルグ熱,ラッサ熱

 2類:急性灰白髄炎,結核,ジフテリア,重症急性呼吸器症候群(病原体がコロナウイルス属SARSコロナウイルスであるものに限る.)

 2類同等とみなす:インフルエンザ(H5N1型に限る)

 3類:コレラ,細菌性赤痢,腸管出血性大腸菌感染症 (O157等),腸チフス,パラチフス

 4類:E型肝炎,A型肝炎,黄熱,Q熱,狂犬病,炭疽,鳥インフルエンザ(H5N1型については二類感染症の規定を準用する指定感染症の指定がある),ボツリヌス症,マラリア,野兎病(以上法第六条第五項 10疾患)
ウエストナイル熱,エキノコックス症,オウム病,オムスク出血熱,回帰熱,キャサヌル森林病,コクシジオイデス症,サル痘,腎症候性出血熱,西部ウマ脳炎,ダニ媒介脳炎,つつが虫病,デング熱,東部ウマ脳炎,
ニパウイルス感染症,日本紅斑熱,日本脳炎,ハンタウイルス肺症候群,Bウイルス病,鼻疽,ブルセラ症,ベネズエラウマ脳炎,ヘンドラウイルス感染症,発しんチフス,ライム病,リッサウイルス感染症,
リフトバレー熱,類鼻疽,レジオネラ症,レプトスピラ症,ロッキー山紅斑熱

 5類:ウイルス性肝炎(E型及びA型肝炎を除く),クリプトスポリジウム症,後天性免疫不全症候群,梅毒,アメーバ赤痢,急性脳炎(ウエストナイル脳炎及び日本脳炎を除く),クロイツフェルト・ヤコブ病,
劇症型溶血性レンサ球菌感染症,ジアルジア症,髄膜炎菌性髄膜炎,先天性風疹症候群,破傷風,バンコマイシン耐性黄色ブドウ球菌感染症,バンコマイシン耐性腸球菌(VRE)感染症,麻疹
RSウイルス感染症,咽頭結膜熱,A群溶血性レンサ球菌咽頭炎,感染性胃腸炎,水痘,手足口病,伝染性紅斑,突発性発疹,百日咳,風疹,ヘルパンギーナ,流行性耳下腺炎
インフルエンザ(鳥インフルエンザを除く)
性器クラミジア感染症,性器ヘルペスウイルス感染症,尖圭コンジローマ,淋菌感染症
クラミジア肺炎(オウム病を除く),細菌性髄膜炎(髄膜炎菌性髄膜炎を除く),ペニシリン耐性肺炎球菌感染症,マイコプラズマ肺炎,成人麻疹,無菌性髄膜炎,メチシリン耐性黄色ブドウ球菌感染症,薬剤耐性緑膿菌感染症

 上のようにデング熱,マラリアは4類,アメーバ赤痢は5類.
 たいしたことない.
 でも,体力や栄養を失っている人間は,簡単に死んじゃうものなのよ.
 現実の生活でも,90歳のじいちゃんはカゼでかんたんに死んじゃうでしょ?
 兵隊たちは,体力を死ぬ寸前まで失っていたってことだろう.

耳鼻科医 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 実際,太平洋戦争でも,簡単には死んでないんです.
 マラリアが慢性化してたまに熱発が来て,というのを繰り返して体力が消耗していく.
 部隊行動についていけなくなり落伍して,食料も水も得られずに死ぬ.
 アメーバ赤痢なんかの場合,下痢が激しくても点滴も出来ませんから,死につながる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南方に従軍していた祖父は風土病にかかり(たぶんマラリア),その特効薬を処方されたせいで精子が出なくなった(父は養子)と祖母から聞きましたが,その副作用のある特効薬ってのは何なんでしょうか?

 【回答】
 マラリアなら,当時はキニーネしかないぞ.

 ただ,キニーネを要因とする無精子症に関しては聞いた事が無いんで,マラリアによる発熱事態が原因である可能性が高いかと.
 高熱で精巣機能が壊れることはあること.
 もtもと栄養失調ぎみだと抵抗力はさらに下がるから,尚更怖いな.

>高熱やその他の様々な要因によって精子が作られない,もしくは精巣から精子が出ずに
>精液中に精子が確認できない状態を総じて無精子症と言います.男性不妊症の一種で
>勃起等には問題ありませんが,女性を妊娠させることはできません.
http://www.marukomekun.jp/x1d.html

 より正確な話は,医療系の板のほうが適切かも.

 余談だけど,終戦直後,メンソールタバコやコーラ等,進駐軍経由で広まった嗜好品には,
「アメリカが日本人を断種するための薬物が混入されてる」
との流言(勿論嘘)が広まったので,それとの混同の可能性も.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本に於けるペニシリン研究の始まりは?

 【回答】
 先日はインフルエンザの話を書いた訳ですが,未だウィルスというものの存在が判らなかった当時は,その原因は病原菌であると言う説が流布しており,各国の病理学者はその病原菌を見つけるために血眼になっていました.
 その為,予防注射と称して,今の目からするととんでもないものを注射したりしています.
 また,実験と称して,インフルエンザ患者の唾液を希釈したものを被験者の前で噴霧するなんてのまでしていたり.

 更に,日本の細菌学の権威である北里柴三郎率いる北里研究所と,東大医学部の細菌学研究室とが,その病原菌を巡って激しい対立を行ったりしています.
 実際には両方とも間違っていた訳ですが….

 予防注射としてはありとあらゆるものが注射され,中にはジフテリア血清を注射したケースもありました.

 さて,時は第二次世界大戦中の事.
 この大戦中に「奇跡の治療薬」が開発されました.
 よく,この治療薬はWinston Churchillの命を救ったと言われていますが,実際にはその治療にこの「奇跡の治療薬」が使われていなかったりします.
 ただ,英米の宣伝にメディアが載せられたのは事実だそうです.

 その「奇跡の治療薬」,名称をペニシリンと言います.

 ところで,舞台は日本へ.

 1943年12月2日,総力戦研究所が解散し,陸軍軍医学校研究部に調査室が出来て,総力戦研究所にいた稲垣克彦少佐が調査室長に着任しました.
 その調査企画を検討するため,12月19日,稲垣少佐の私邸で物理担当の増山元三郎,臨床担当の鳥井敏雄,基礎医学担当の東大伝染病研究所の梅沢浜夫,科学担当で根津化学研究所の佐藤弘一,笠松章の5氏,それに外科1名,翻訳者1名,統計1名,筆生1名,給仕1名,打字手1名が集まりましたが,丁度その時,文部省の長井氏から渡された外国雑誌に,「ピルツ及び細菌より得られた抗菌性物質による化学療法に就いて」の総説を見て,その研究を行う事を認識し,出席した梅沢氏が語学堪能であったため,彼に翻訳を依頼しました.

 梅沢氏は正月を返上して翻訳を行い,翌年早々,翻訳を稲垣少佐に引き渡しました.
 これが,日本に於けるペニシリン研究の第1歩です.
 因みに,ペニシリンと言う言葉を最初に用いたのは,1943年7月に軍医学校の卒業式で,元陸軍軍医中将で厚生大臣を務めていた小泉親信氏が来賓講演での事だと言われています.

 1944年1月18日にペニシリン研究態勢の研究を調査室にて開始しました.
 その9日後,朝日新聞の「戦争科学」欄(当時はこうした専門欄があったんですね)に,
「敵米最近の医学界〜チャーチル命拾い 『ズルホン剤を補ふペニシリン』」
と言う見出しの記事が掲載されました.
 先にも書いたように,実際にはWinston Churchillにペニシリンを治療に用いた事は無かったのですが,英米のマス・メディアでも挙って取上げており,それを配信した中立国メディア,更にそれを転載した日本の朝日新聞を介して,人口に膾炙してしまったのが真相です.

 こうした記事が出た折も折,陸軍衛生課長の依命を経て,陸軍大臣は臨時軍事費より15万円の予算を支出し,「ペニシリン研究」を命じました.

 そして,2月1日にペニシリン委員会を結成しました.
 軍側から,軍医学校長を始めとする幹部一同を始め,関東軍防疫給水部の石井三郎医師なども参加し,民間側からは,久保田勉之助(東大化学),服部静夫(東大植物),藪田貞治郎,住木諭介,坂口謹一郎,朝井勇宣,棟方博久(東大農),柴田桂太,薬師寺英二郎,奥貫一男(岩田研究所),竹内松次郎(東大細菌),小林六造(慶大細菌),田宮猛雄,梅沢浜夫(東大伝研),相沢憲(東大衛生),小南清(わかもと研究所),大槻虎男(東京女高師植物),久保秀雄(名大理植物),浅野三千三,石館守三(東大薬学)と官民の第一線級の科学者達,更に,鳥井敏雄,増山元三郎(東大物療),佐藤弘一(根津化学研究所)が顧問として名を連ねています.

 この委員会では,早速,当時同盟国だったドイツにペニシリンの「種」と構造式の送付を要求しますが,返事がありませんでした.

 一方で,各研究室にて保存されていたペニシリウムの株70種を軍医学校に送り,最終的にはこれは2,000種に達しました.
 そして,これらの株の中から有望なものを見つけ出し,合成をするという事になります.
 この為,委員会の中に合成部が作られ,東大化学,東大植物,東大農業化学,東大薬学の各部門から委員を集めました.

 3月の委員会で研究資料が不足しているとして,18日に技術院との共同研究を申し入れることになりましたが,技術院側は敵の謀略を考慮し,成果の予測も付かず,人材,資材の分散を恐れたことからこれを断ります.
 一方で,棟方氏の地道の努力の末,120号株が5倍有効株であるとの報告を出すに至ります.
 研究資材に関しては,坂口,藪田,田宮,竹内教室に肉エキス,綿,照内ペプトン,エビオス,エーテルなどの資材を特配し,彼等の研究を促進させることにしました.

 4月9日,外国文献からペニシリンの情報を入手し,軍医学校にて翻訳して文部省他,関係諸機関に配布しました.
 4月21日に棟方氏は更に100倍有効株を発見しました.
 翌日,文部省調査局は,岩波書店の雑誌『科学』に海外で入手したペニシリン論文の掲載を許可しました.
 また,関東軍防疫給水部の差し金で,本来この部隊に送られる筈の研究資料が,何故か北大植物教室に送られ,そこの宇佐美教授が研究について連絡を行ってくると言う椿事がありました.

 5月に入ると,岩田研究所の柴田氏から,500倍有望株の発見が報告され,7日にはソ連のペニシリン文献を入手しました.

 6月に入ると,英国でペニシリン類似のビヒシリンを民需用に供給しているとの情報が入り,28日に外国文献の更なる入手を外務省に依頼しています.

 7月には夏のため気温が上昇し,菌株の力価低下するのが続発,研究が沈滞し始めますが,兎にも角にも,昭和農産加工に大量生産を依頼し,更にペニシリン合成班が作成した「フェナヂン」の臨床使用を開始しました.

 8月になると軍医学校乙種学生の卒業式で初めてペニシリンを台覧に供し,御下問を拝します.
 つまり,公の場で天皇陛下にお見せすることになった訳です.
 岩田研究所の奥貫氏は,比較的不純分が少ない株50株が250倍で有効という報告を提出し,培養で100倍抽出物にて40万倍と言うソ連論文に近いものを得る事が出来ました.

 因みに,此処に至るまでに全く海軍は関与していません.
 9月には東大伝染病研究所がペニシリンの中核研究機関となり,大量生産設備として,昭和農産加工の他,わかもと製薬,三共製薬,更にミルクプラントをペニシリン生産に活用しているとの英国の外国写真を入手し,こうした設備を持っている森永製菓をも大量生産に加える事になりました.

 10月からペニシリンがサンプル生産が開始され,10月25日に軍医学校にペニシリンの補給が開始されました.
 ドイツからはやっと26日に「ペニシリン・コリロフクルム」が到着しますが,既に国産化は始まっていたので余り意味を成さなかったようです.

 12月12日に海軍杉田中佐と連絡を取って,海軍のペニシリンの状況について連絡すると共に,ドイツから菌株の要求があり,50株と176株を送付しました.
 それが着いたかどうかは判りませんが.

 1945年5月に最後のペニシリン委員会が開催されています.
 この中で梅沢純夫委員は,スペインのゴンザレス研究室より送付された注射液の分析を発表しています.
 スペインからどうやってこの注射液を入手したのかは,また興味のある所ではありますが.

 時に,当初の昭和農産加工や三共製薬は,最後迄生産が出来ませんでした.

 これは日本の発酵技術そのものが,味噌・醤油・酒と言った知識による未熟なもので,クエン酸発酵設備を応用する場合に,従来の開放培養の範疇を出ない設備を転用したので,無菌培養でないと効果が発揮出来ないペニシリンの生産が出来なかったからです.
 昭和農産加工に於ける大量生産の問題は,戦後になってタンク培養に成功した理研栄養の幹部技術者が,多くの仲間を連れて昭和農産加工に乗り込み,設備を改造して生産に漕ぎ着けました.
 御陰で,理研栄養は解散する羽目になっています.

 三共製薬もタカジヤスターゼの概念に基づく,旧来の農芸化学,発酵産業の延長として捉えていて,空中の雑菌が持つ強力なペニシリン分解酵素の威力を知らなかった為に提案があったもので,これまた失敗に終わるのが目に見えていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/04 21:47

 碧素研究でも色々な方面から「雑音」が入ってきていました.

 曰く,軍医学校からは,「大学の協力を医校が求めるのは,軍にプライドが無い事を示している.けしからん!」
 曰く,関東軍防疫給水部からは,「汝は速やかに研究を中止してこちらに研究成果を引き渡せ」という介入があり….
 曰く,夏の暑さで培養不調の上,栄養不足から病魔に倒れ,来訪者が多く来てその対応に追われて研究が中々進まない状況を見て,教官から「敵謀略に惑わされているのだ.研究資材は続かぬから即刻委員会を中止せよ」と横槍が入ったり….
 曰く,委員会制度にして,全員の研究成果を平等に公開したことが,一部医系の委員から見て不満が出ていた.
 因みに,農学系統の人はそんなことは全く意に介さなかったそうな.
 曰く,検定の基準株が外国の治験から見ると甚だ見劣る形になったのがよく判らなかった.

 そうした数々の困難を乗り越えて,委員達をまとめ上げたのがProject managerたる稲垣軍医少佐でした.
 もう一つ,稲垣軍医少佐の功績と言うのは,ともすれば陸軍のお歴々が,員数合わせでしか物事を考えられない時代に,既に敗戦後の日本を考えて,一高の秀才達を頭脳労働者としてこの作業に採用した事です.
 もし,この活用がなければ,あたら有為な人材達は,員数合わせの根刮ぎ動員で徴兵され,もしかしたら,その地で果てていたかも知れませんから.

 こうした人々が戦後の復興に大きな柱として活躍したのですから,ちょっと気にくわないことを言ったからと言って,一兵卒として大学教授を徴兵するような上等兵殿とはだいぶん違う人だったのでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/06 23:15


 【質問】
 太平洋戦争中の日本での,ペニシリン生産の状況は?

 【回答】
あおかびん

 〔略〕

 戦時中の日本に於ける碧素(ペニシリンの和名)生産状況の記録として,現在残っているのは,萬有製薬,森永,山形合同食品,明治製菓・明治乳業の各社です.

 萬有製薬では,1944年11月に,梅沢浜夫氏から碧素委員会で選定された株の内2〜3株を分与され,合成薬しか経験のない技術陣により行われました.
 その指揮は,岩垂社長を始め幹部連中が脚にゲートル,背には鉄兜を付けて陣頭指揮していたと言われています.

 記録に因れば,最も困ったのが,空襲による停電だったそうです.
 培養温度が低下するくらいは未だ許容出来ますが,最終段階で行う真空冷凍乾燥(俗に言うフリーズドライ)の時に停電すると真空ポンプが停止し,折角冷凍した最終濃縮液が溶けて力価が低下したからです.
 とは言え,当時の粉末はカレー粉状の色をし,純度は高々10%前後かそれ以下の代物でした.

 1945年春からは日産数10本から200本の生産単位(当時の1アンプル中の単位は500単位で,現在の標準検定菌での単位換算にして2,000単位くらい)と伝えられますが,真空ポンプのオイル不足により乾燥作業が完璧に行えず,結局は,Final richi waterを濃紫色付瓶にて液状の儘出荷されました.

 これらは,広島や長崎に投下された原爆負傷者に使用された他,万一を考慮して,宮中に50万単位を献納したと記録に述べています.

 5月25日と26日の東京大空襲では,主力工場である目黒工場も全焼しましたが,ペニシリン生産の為に,陸軍作戦部隊が出動して焼け跡の処理を行い,利用出来るものは,機械ばかりでなく電線,埋没している水道管,仮設の鉄管に至る迄解体し,それを軍用自動車に載せて大崎に向かい,其所から軍用貨車で,疎開工場であった岡崎工場に搬送されました.
 しかし,資材不足はいかんともし難く,結局は生産再開は果たせませんでした.

 森永は,1944年12月10日に三島工場で液体(溶剤)抽出に成功したことが始まりでした.
 稲垣少佐から相談を受けて,梅沢浜夫氏,相沢憲氏の指導の下,大橋保技師と利岡益夫技師等が刻苦勉励して,たった2ヶ月で実験株の培養に成功しました.
 森永が選ばれたのは,菌の培養に脱脂乳が好適であると言う理由でした.

 1945年5月27日付の報告では,培地はホエー(乳清)に0.5%ペプト加培地で,これに菌株P176を培養して,濾液を特殊装置で10分の1に濃縮した後,エーテル抽出してCa塩としている,とあり,20リットルの培養から粉末1gを得ていました.
 1日生産量は10gとされていました.

 最終的に工業化する際は,食品部門のある三島工場から,事業自体を森永薬品の事業とし,静岡県田方郡大場工場に移して,生産を行う事になっていましたが,こちらも資材不足で移転が進展せず,工場は1945年10月に移転が完了しました.
 因みに,森永では精製工程でエーテル抽出とした事から,後日この設備より出火して工場を全焼し,生産は1946年5月まで延期されています.

 山形合同食品は,戦時中統制によって明治系の会社を母体に発足した会社で,軍用に供される牛肉の大和煮や赤飯の素,いなり寿司の素と言った缶詰を生産していました.
 東京の空襲激化により,軍医学校が山形に疎開した事から,この工場で碧素生産が進められました.
 その結果,1944年末に褐色無定形ペニシリンを生産出来るようになりました.

 この工場では,山形の冬を利用しています.
 夜間に零下何度にまで下がる気温を利用し,培養濾液をビーカーに入れて一晩外に置いておくと,外壁に純氷の氷結が出来て,天然冷凍濃縮され,その濃縮液を利用して抽出製造したことが特徴的でした.

 1945年2月以降,明治製菓では川崎工場で生産を準備していましたが,4月の空襲で焼け,再開は戦後になっています.
 また,明治乳業は1944年11月末に内命を受け研究を開始しました.
 これも,目的は培地で,この培地には乳糖が必要だったのですが,乳糖の輸入が途絶していたため,チーズ生産の副産物である乳清から乳糖を抽出する以外に無かったと言う理由です.

 こう言った訳で,明治と森永,北海道興農公社の3社に研究試製を下命し,年末には試作が完了しています.
 とは言え,こうした工場での生産は未だ雀の涙,いや蚊の涙ほどであり,多くは臨床研究用として学校の研究室で生産されています.

 例えば,東京女高師(現在のお茶の水女子大学)の植物学教室では,大槻教授の研究室で生産されていました.
 大槻教授は,蒟蒻のマンナンの研究者で,糖源にこれを用いる事を考えており,陸軍は衛生材料本部指定の学校工場となり,1945年3月20日に碧素工場の開所式が行われ,学徒20名が作業に従事しました.
 その後,この工場は長野県南佐久に疎開しますが,成果は上がりませんでした.

 この他,三共向島工場,小林研究所も焼失し,稲垣少佐は遊休工場を手当たり次第に探したものの,万策尽きて,現地生産を目的に,各軍管区で生産する方針を立て,外地派遣軍も含んだ担当官が集められて,1945年4月25日から1週間の講習会が行われましたが,結局これもモノに成りませんでした.

 因みに,中国派遣軍の現地生産計画の中には,窒素源に人尿を用いたりするものもあったと言います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/05 23:41


 【質問】
 日本軍のシェル・ショック対策と,シェル・ショックにかかった者に対する治療はどのような物だったのでしょうか?

 【回答】
 第一次世界大戦で戦争神経症の患者が多数発生していたことから,陸軍でもある程度は戦争神経症を認識していました.
 しかし,建前として神経症は臆病者が罹る病気だとして,皇軍には神経症はないという論理がまかり通っていました.
 実際には,戦闘時にたまたま神経症が発生することもあるかもしれないとして,「戦時神経症」と呼び変えて対処を行っています.

 日中戦争が始まって間もなくすると,神経症による患者は大量に発生し始めました.
 そこで,昭和13年に千葉県市川にあった国府台陸軍病院を拡張して,千数百人を収容できる精神病院を建設し,そこに患者をすべて集めて治療に当たりました.
 しかし戦争の拡大と共に患者は増え続け,また爆撃のために患者を一箇所に集めるのが困難になったため,昭和20年には京都と大分に精神病院を設けています.

 後送された戦病者のうちに精神疾患者のしめる割合は,昭和13年には1.62%でしたが,この割合は年々上がっていき,昭和17年には9.89%にまでなっています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 なお,ある社会学研究では,天皇やヒトラーへの忠誠,明確な戦争目的(大東亜共栄圏の建設やアジア解放,あるいは東方生存圏の確立)などを与えられた枢軸側の兵士は,「民主主義の防衛」という曖昧な目標しか提示されなかった米英連合軍の兵士に比べ,ショック・シェル(というか戦争神経症全般)の罹患率が有意で低かった,という結果だったと聞いたことがある.

unknown

▼ 戦争神経症ではありませんが,「よもやま陸軍物語」には,シナ事変中に書類整理の事務作業に追われ神経衰弱を起こした准尉が,書類一面に自分の官姓名を書き込んでしまい,それを見た中隊当番や給養係の曹長が,目配せして准尉に気付かれないよう,刀架の軍刀をとって室外に退去.
 報告を受けた軍医が,万が一准尉が暴れ出し場合に備え,縛衣をもった衛生兵三名を伴い,准尉に陸軍病院に行くように命じている話があります.

遠吠えすいぬ in 「軍事板常見問題 mixi別館」
2010年02月19日 21:18

 戦時中の日本の戦争神経症について,この本にほんの少しだけ触れていた記憶が.

 内容はうろ覚えで恐縮ですが,第二次大戦中のアメリカは“神経症”だったのに比べ,日本の場合は何ともないのに,身体的な痛みを訴える症状だったために,「臓そう病」との扱いをされ,上記のとおり「臆病者」みたいな扱いだったと書いてあったような…

ぎんなんそう,「軍事板常見問題 mixi別館」
2010年02月19日 21:44


 【質問】
 太平洋戦域での,米軍の輸血体制について教えられたし.

 【回答】
 米国赤十字社で全血の輸送開始が最も遅かったのが,太平洋戦域向けでした.
 米国赤十字社でそれを始めたのは実に1944年秋からです.

 これは戦域が米国本土から最も遠い場所にあり,東海岸からだと地球を半周して全血を輸送しなければならなかったこと,目的地が原始的な状況と高温の為に血液が使い物にならなくなる恐れがあったからです.

 赤十字社では輸送距離を縮める為に,サンフランシスコ,オークランド,ロサンゼルスに献血センターを設けてOガタの採血を開始し,後にポートランドやシカゴに,更に東海岸にそのネットワークを拡げました.
 再試した血液瓶は,オークランドにある海軍貯蔵所に集積され,合板製の保冷箱に詰められて,ハワイ経由でグアムの海軍基地に空輸されました.
 そして,グアムで再度冷却され,南太平洋及び中部太平洋全域の島々に輸送されましたが,所要時間はどんなに急いでも5〜7日掛りました.

 その間に,戦況は変動し,収集を準備する時間差とも相まって,軍部が提示する割当量が目まぐるしく変わり,血液センターに混乱を生じさせました.

 その混乱が起きたのは後方の血液センターだけではありません.
 前線への血液輸送は効率よく行われたのですが,軍はその使用許可と適切な取扱い指示を,事も有ろうに手抜かりにより,通常の船便で送ってしまいます.
 その為,血液は届いたのに何週間も書類が到着せず,受け取った医師はそれをどの様に使うべきかの指示が無かったので,戸惑ったり,苛立ったりしました.

 この混乱が顕著に起きたのが,レイテ島を巡る上陸作戦でした.
 上陸部隊が揚陸する前に,初めて神風特攻隊が襲来し,ショックや火傷の負傷者が出たので,血漿やアルブミンが不可欠の装備となりました.
 侵攻の時には,主に血漿やアルブミンが持ち込まれました.
 全血はオーストラリアやニューギニアで収集したものが少しありましたが,これらはマラリアに感染している可能性が高かったので,積極的には使用されませんでした.
 そこへ,本国から大量の新鮮で清潔な血液が届いたのですが,適切な使用方法についての説明書が無かったので,彼らは瓶を保冷箱から取り出してしまい,通常の補給用トラックの荷台に載せ,気温の高い熱帯地方で,でこぼこ道を何時間も走ったのです.

 太平洋戦域の血液使用状況を視察しに来たケンドリックは,その光景を見てぞっとしました.
 そして,「中部太平洋でも南西部太平洋でも,全血プログラムについて,陸軍からも海軍からも公式の指示が何も来ていません」と上官に書き送りました.
 それどころか,ケンドリック自身も,必要な書類が届いていなかった為,軍医達から拒絶され,全血使用についてのレクチャーが出来ない状態が続きました.
 ある駐屯地では,中央の人間が輸血業務のやり方を指図する必要は無い,とまで言われています.

 一方,赤十字社と一緒に仕事をしていた海軍のヘンリー・R・ブレイク大尉は幸運でした.
 ブレイクは最初の血液と一緒にサンフランシスコから船でレイテ島にやって来ており,野戦救護所に入ったブレイクは,脚の動脈が千切れて出血している若い兵士に遭遇しました.
 医師達は血漿輸血をしていましたが,赤血球が補給されなかったので,その命は風前の灯でした.
 側に横たわっていた戦友が既に何度も血を提供していましたが,それでも,更にもう1度血を採ってくれと懇願していました.
 軍医がどうすべきか迷っていた時,ブレイクが重そうに血液瓶の入った箱を抱えてやって来たのです.
 すぐさま,全血輸血が開始されました.

 ケンドリックは引き続きこの地域の軍医将校達に会い,新鮮な血液を取り扱う上での技術的な注意点を教え込むと共に,今後は必要量さえ知らせれば,事実上無限の供給を受けられると言う驚くべき情報を提示して回りました.

 もし,指示書が同時に届いていれば,こうした光景が彼方此方で見られたのでしょうが,残念ながら,レイテ島の場合は,輸送された血液の凡そ半分が利用できない状態になってしまいました.

 なお,こうした指示書が行き渡ったルソン島では更に効果が上がり,負傷者に最大で,人間の全血液量の半分に当たる最大6パイントの全血輸血が普通に行われています.

 この様に,太平洋戦域の全血輸血は手抜かりと混乱の内に始まりましたが,太平洋戦域の米軍軍医達は全血輸血の利点や血液製剤の利用法,それに血漿輸血のノウハウをこの戦線で溜めていきました.
 そして,この知識が本格的に役に立ったのが,硫黄島の戦いだったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/21 23:01
青文字:加筆改修部分

 フィリピンを攻略して,サイパンを攻略した米軍の目標は沖縄であり,東京を空爆する際に必要な航空基地を設置できる硫黄島でした.
 当然,日本軍も硫黄島の重要性は理解しており,網の目のように地下道を張り巡らし,そこに2万人を超える兵士を配置して守りを固めていました.

 激戦になる事は上陸前からある程度予想はされており,海兵隊員1名当りの補給物資として1,322ポンドの物資が用意されました.

 医療補給品としては,沖に停泊させる病院船が2隻,島から病院船に送り込む為に負傷兵輸送用に改造した4隻のLST,天幕張りの野戦病院設備一式が数セット,血漿やアルブミンと言った血液製剤や冷蔵全血を含む30日分の補給品を完備した野営貯蔵所がありました.
 兵士達は,予めチフスやツツガムシ病,ペストと言った伝染病の予防接種を受け,軍服にはDDTが散布されました.
 衛生兵は,ガーゼや脱脂綿,包帯のセット,モルヒネ,サルファ剤,外科用のメスや鋏,血漿,アルブミンなどを詰め込んだ背嚢を背負いました.
 因みに,軍の計画では,硫黄島上陸作戦の死傷者の割合は,ノルマンディー上陸作戦の20倍近くになると予測していたりします.

 作戦が開始され,第1次揚陸では,4つの医療部隊が上陸し,砲弾で出来た穴に急いで救護所を設置しました.
 しかし,その揚陸中,衛生兵が1名,上陸用舟艇から降りきらないうちに顎を撃たれましたし,ある医療班は,背嚢を砂浜に隠して匍匐前進して救護所を設置しましたが,戻ってみると装備は砲弾で粉々になり,乾燥血漿の箱も全て粉砕され,他の装備を搭載している別の舟艇は途中で爆撃され,破壊されている状態でした.

 死傷者の数は,事前の予想通り1日当り1,000名を超え,医療班は英雄的とも呼べる活躍をしました.
 ある衛生下士官は,首を撃たれて出血している兵士の元に這い寄り,その負傷兵を数メートル後方まで引きずると,標的になり難い様に下半身を砂に埋め,出ている部分の静脈を探り当てて砲火の中で輸血をする事までしています.

 この様に,衛生兵達は負傷兵達の元に這い寄って手当をする為に,集中砲火を浴びることも多く,死傷者の割合は想像以上に高いものでした.
 ある衛生大隊では,死傷者の割合が実に60%に達する部隊もあったほどです.

 海兵隊が沿岸から奥地へと徐々に進んでいくと,医療部隊はその要所毎に救護所を設営して,前線から後方へ負傷兵を送りました.
 2隻の病院船であるサマリアン号とサラス号は硫黄島の20マイル沖に停泊しており,毎日夜明けにどちらか1隻か或いは2隻とも沖合から2マイル足らずの所に近付いて,負傷兵を搭載した水陸両用車両から負傷者を受取り,血液を輸送車に補充していました.
 全血は,レイテでの失敗を教訓に,持ち運びの出来る冷蔵庫に入れて,以前よりも前線に近く,後送救護所に運ばれるようになりました.
 乾燥血漿とアルブミンは,更に前線に近い場所に送られ,衛生兵が前線まで携帯するようになりました.
 こうした血液製剤と全血の利用が徹底的に行われたのは,この硫黄島が初めてでした.

 前線に近い場所に全血が持ち込まれたり,衛生兵が血漿やアルブミンを携帯するようになると,兵士の士気は目に見えて高くなりました.
 海兵隊の従軍記者であったラルフ・W・マイヤーズは,「この苦闘の島で最も貴重な積荷だ」と表現しているほどです.
 その記事には続けてこうありました.

――――――
 医療部隊の前線用救命装備品の中でも最も重要な全血が到着すると,戦闘地域内の海軍軍医の口元や過労で充血した目元に笑みが浮かぶ.
 前線が砂浜の端にあった時は,全血は軍隊の直ぐ後ろに,病院船や,何十隻ものLSTの病室や,負傷兵を後送する輸送船の中にあった.
 そして,交戦地帯が徐々に北上するに連れて極めて貴重な液体の入った小さな携帯容器が,中隊の救護所まで持ち込まれるようになった.
 救護所は北の本山第二飛行場に繋がる砲弾の炸裂する中間地帯からほんの何分か後方に有った.
 第3分艦隊医療部隊B救護所に,巨大なトラックに積まれた氷の大型冷蔵庫2台に入った最初の補給品が到着した.
 それを受ける人間は沢山いた.
 土嚢の陰の防水シートの下に,横たわったり蹲ったりしている,テント2張り分の男達だ.
 数分の内には,俯せになった身体の上にワイン色の瓶が高く掲げられ,スタッフが奇跡のような仕事を開始していた.
――――――

 何週間かすると,更に多くの血液や血漿が陸揚げされ,それらが兵士の士気を高揚させることがはっきりしてきました.
 これは,生き延びるチャンスが増えると言うだけで無く,敵が血液や血漿を持っていないことを知ったからでもあります.
 外見的な効果も励みになりました.
 死人のように見えていた戦友が,血漿を補給されただけでも顔色が良くなるからです.

 勿論,こうした出来事の陰には,衛生兵の,時として普通の兵士以上の献身的な努力があったことも挙げられます.

 例えば,ジョン・H・ウィルスという衛生兵は,摺鉢山南西斜面を這い上りながら,負傷兵に包帯を充てたり血漿を輸血したりしている時に,肩に榴散弾の破片が当たりました.
 彼は救護所に戻って自分の手当をした後,速やかに前線に戻りました.
 山の中腹に来た所で,1人の海兵隊員が爆弾の穴の中で血を流しているのを発見しました.
 ウィリスは銃剣を下にして小銃を地面に突き立てると,血漿の瓶を安全装置に吊し,注射針を刺して輸血を開始しました.
 片手で輸血チューブを固定している間に,立て続けに手榴弾が8個飛んできました.
 彼はもう片方の手で,急いでこれらの手榴弾を穴の外に放り投げましたが,最後の9個目を放り出すのが間に合わず,爆発してしまいました.
 それでも彼は片手でチューブをつかんだまま絶命しています.
 この行為により,ウィルス衛生兵は死後名誉章を受けました.

 間もなく戦闘は佳境を迎え,摺鉢山に星条旗が翻った訳ですが,その陰で,ウィリスの様な衛生兵の英雄的な行為は勿論,ジープで負傷兵を後方に送り届ける医療班についても,神様のように見られました.
 『ライフ』のカメラマンであるカール・ミダンズは次のように書いています.

――――――
 彼らは片手でジープに掴まり,片手をトーチを掲げるように高く上げて血漿の瓶を持ち,傷ついた身体に生命を注ぎ込む.
 膝を突いて屈み込む兵士達は,一人残らず,何らかの形で髪のような風格を身につけ,永遠の命を刻み込まれ,不滅を運命づけられているように見えた.
――――――

 海兵隊の軍曹と言えば鬼と言われますが,この様な兵士でも,衛生下士官の気骨のある忍耐強さについて,次のように述べています.

――――――
 彼らは蛸壺に仰向けに寝て,腕が麻痺するまで血漿の瓶を高く差し上げる.
 後方へ送られる負傷した海兵隊員が,傾きながら走るジープやトラックの上で生きる闘いをしている間,瓶を高く掲げ続ける.
 砂浜沿いの殺伐とした救護所には,更に多くの血液や血漿の瓶が逆さに立てた銃の台尻に括り付けられている.
――――――

 また,陸軍の輸血主任だったケンドリックも,太平洋のとある島で,日本軍の機関銃掃射に直に晒された窪地の中に負傷兵が倒れているのを見た時のことについて書いています.

――――――
 手当をせずに放置すれば,ショックに陥ることは免れない.
 しかし彼を連れに行けば,小さな分隊に間違いなくかなりの死傷者が出るという状況だった.
 1人の2等軍曹が…彼は後で殊勲十字章の銀星章を受けたのだが…負傷者の所まで匍匐して,傷の手当てをし,骨折の添え木を充ててから,横に寝て片手で血漿の瓶を持ち上げて3パイントを輸血した.
――――――

 この様に,血液や血漿はアメリカにとっての力の源泉,自分たち自身の力や相違や人間愛を象徴するものに昇華されていきます.

 因みに,米国では血液を大量に,しかも様々な形で利用した為,些か妙な偶然も起きました

 例えば,パリのある病院で,ケネス・L・ジョンソンと言う伍長が輸血を受けた血漿が,ドワイト・D・アイゼンハワー将軍が献血した血液から作り出されたもので有ることが判明し,新聞に「将軍の血を持つ伍長」という見出し付の写真が掲載されたり,太平洋では,ハリー・スターナーという海軍の砲手が,負傷して血漿を輸血されていた時,ふと瓶を見て,そこに自分の名前が書いてあることに気づいたり….
 スターナーは,休暇中にワシントンで献血したのですが,それが回り回って,自分の身体に戻ってきた訳です.
 まぁ,偶然の一致とは恐ろしいものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/22 23:02


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