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 【link】

沖縄県公文書館


 【質問】
 終戦以降の沖縄の文化行政について教えられたし.

 【回答】
 先日,八重山諸島の引揚げで出て来た川平朝申氏.
 川平氏は台湾総督府で勤務し,その残務処理を行い,沖縄県民の台湾からの引揚げに尽力したのは前回書いた通りなのですが,実は彼自身も沖縄出身者で,自らも台湾から沖縄に引揚げてきました.
 その際,一時帰島した時に見た郷土沖縄の惨状から,既に本など貴重な資料も灰になってしまったであろうと推察した川平氏,台北帝国大学に所蔵されていた沖縄関係図書を持ち出そうとしますが,8月15日の敗戦により官有物は全て中華民国政府資産として移管され,持ち出し罷り成らぬとなっていました.

 そこで,川平氏は考えた.
 持ち出しが不可能であるならば,筆写して写本を持ち帰れば良い,と.
 例えば,『歴代宝案』と呼ばれた,15世紀以降の重要な琉球の貿易記録,そして東洋全域の海洋貿易史である書物も,その「中華民国政府への引き渡し官有物」となっていた為,沖縄同郷会連合会に勤務していた友寄景勝と言う人に依頼し,台北帝国大学図書館で,とにかくそれを一生懸命筆記したそうです.
 しかし,引揚げの時期が刻々と迫ってくるのに,筆写は中々進まず,遂に台北帝国大学図書館からその本を貸し出して貰うと,川平氏の家で筆写を行い,引揚げ前に漸く筆写を完成させて,川平氏の元に原稿を届けたそうです.

 余談ながら,台湾からの日本人引揚げが順調に行ったのは,国共内戦の余波でした.
 本来ならば中国中部にいた国府軍を満州に送り込もうとして,米国は上海に大量のリバティー船とLSTを集結させていたのですが,統制の取れない国府軍はモタモタして集結が遅れ,業を煮やした米国の軍事顧問団司令部が,上海の船舶を台湾の日本人引揚げ用に転用することを決定させ,基隆に船舶を向かわせるから,在留日本人を集結させる様,台北にいた米軍の軍事顧問団が,日本官兵善後連絡部司令部(8月15日以前の台湾軍のこと)に命令してきました.

 とは言え,30万人に及ぶ民間人を基隆に集結させるには,3〜4日では間に合わないので,其の旨を軍事顧問団に伝えると,ではこれらの船は別に転用する,と息巻いてきます.
 そこで,
「軍隊なら電話1本で集結出来,6個師団10万人を輸送する内に居留民を集合出来る」
と答えると,米軍側も「それで行こう」と即決.
 かくして,本来なら最後に引揚げる予定だった軍人を,1945年12月25日から最初に引揚げさせる事に相成ったのでした.

 本土への引揚げに際しては,連合軍は懲罰的意味を込めて,持ち帰り荷物の基準を,
『1人当り1,000円,衣類3点,貴金属美術品禁止』
としていましたが,台湾の在留邦人に関しては,日本官兵善後連絡部司令部参謀の安藤正少佐が,米国留学の経験のある台北高等商業学校の鈴木源吾教授を連れて,米軍顧問団の首席団員ケイプ中佐も交えて,延々9時間に渡る交渉を行い,持てるだけの手荷物を認めさせ,GHQの了解も得ました.
 他地域からの引揚者に比べると,台湾からの引揚者の荷物は結構多かったのですが,これは当時,「軍は居留民に多大の迷惑を掛けたのだから,最後のご奉公だと思って頑張った」台湾軍の努力でした.

 そして,日本兵が引揚げた1946年4月13日を以て,台湾軍の後身である官兵善後連絡部は解散となり,中華民国政府に留用された2.8万人の残留日本人の為に,後に大蔵大臣となる台湾総督府主計長の塩見俊二氏を事務局長に日僑互助会が生まれています.
 また,2,000余人の沖縄籍日本軍人と軍属は,別途「琉球籍官兵」と呼んで別扱いとし,1946年1月から引揚げを開始させますが,半数は日本兵に代わって「琉球官兵隊」として,引揚者掩護事務を引き受けています.

 話を戻すと,1946年12月に残留者も沖縄に引揚げる事になりました.
 その時,手荷物は1人で持てる2個までと制限されていましたが,沖縄県人会連合会の荷物として,官有物以外に別に路上で処分されていた様な沖縄関係図書2万冊の持込みを認められています.
 また,マラリア対策用として,薬品会社から大量のAtebrin錠剤やkinineの在庫を譲り受け,これも沖縄に持ち帰る事にしています.
 民間人は12月17日が最後の引揚げとなり,最後の琉球官兵は,1946年12月24日に駆逐艦「宵月」に座乗し,25日に沖縄に帰ってきました.

 その沖縄ですが,戦禍から逃れた人々は逞しく生きていました.
 コーラの瓶を胴から切ってコップを作ったり,飛行機のジュラルミンや錫を鋳直して鍋釜や灰皿,増槽を半分に切ってサバニを造り,真っ白なパラシュートをウェディングドレスとか三味線の胴張にしたり,米軍がスクラップにしたジープや発電機の部品を集めて,自家用ジープを造ったり,発電機を動かして電灯を点したりと,兎にも角にも,1947年には落ち着いた生活が出来る様になりつつありました.
 着るものと言えば,男も女も米国の軍服,日本軍の軍服を着ている人がいれば,「ジャパニーPW」と呼ばれたそうです.

 とは言え,闇屋や密貿易人でなければ,真っ当な就職口は民政府か軍職場しかありません.
 軍職場は,清掃,大工,家政婦,庭師と言ったサービス業の他,通訳,翻訳官と言った頭脳労働者もいるにはいましたが,殆どの人間は運転手でした.
 当時は,「嫁にやるなら運転手」とすら言われていた時代です.

 民政府も,沖縄戦の経験者は「古参兵」であり,引揚者や疎開者は「新兵」の扱いでした.

沖縄の占領行政は,1945年6月に発せられたニミッツ布告第1号によって,石川地区に琉球列島米国海軍軍政府が配置されたのが始まりで,行政部長には米国スタンフォード大学の政治学教授を務めていたワットキン海軍少佐が任命されました.
 そのスタッフも,選り抜きの大学教授か文官で,文教,財政,工務などの部長として,沖縄の行政機構の整備に当たりました.

 日本の敗戦後の1945年8月20日,志喜屋孝信氏以下15名の沖縄県民代表で,軍政府の諮詢機関が組織され,それを元に,1946年4月24日に沖縄民政府が発足します.
 Governorでない「知事」には,志喜屋孝信氏が就任し,沖縄民政府告示第1号により,行政機構が発令されました.
 因みに,志喜屋孝信氏は私立の進学校であった開南中学校の校長で,副知事だったのは,戦前に琉球新報を経営していた又吉康和氏と,戦前の政治家は一切入らず,他の役職も全て教育者か医者などの文化人でした.

 意外にも日本本土と違って,軍人のパージは無く,川平氏も文化部芸術課長となっていますし,体育担当事務官には知念高校の校長を務めていた屋良朝苗氏の甥で,満州国軍の元大尉だった屋良朝清氏,芸術課に広島で原爆禍に遭いながら無事生還してきた大城長栄陸軍中尉などを配しています.

 1946年6月,米国の占領体制に変化があり,従来占領行政を行っていた海軍から陸軍に代わりました.
 陸軍の軍政府は,余り海軍ほど人材に気配りはしなかった様で,大学教授クラスの人々は少なくなっていました.

 時に,川平氏が持ち帰った本2万冊の行方はどうなったか,と言えば,引揚げ時に1箱が行方不明になった他は,全て民政府に保管されていました.
 民政府文化部では,これを元に図書館を建設する事になります.
 戦前,沖縄には蔵書3万冊を誇り,郷土資料の収蔵では世界でも稀と言われた県立図書館があったのですが,米軍の攻撃で灰燼に帰してしまいました.

 戦前の県立図書館長だった城間朝教氏は,図書館建設について責任を感じており,具志川村にあった教師養成所の文教学校から,知念の山の上にある文化部に日参してきたそうです.
 そこで文化部は,石川市(現在のうるま市)の警察署前広場に,野戦用のコンセット官舎を改造した沖縄民政府立中央図書館石川分館を1947年3月に建設し,図書を運び始めました.
 日参していた城間氏は,中央図書館長に就任し,1947年4月8日,いよいよ石川分館が開館します.
 蔵書の99%は台湾引揚げ者が持参したもので,この中には台北帝国大学の教授で琉球関係資料を集めていた金関丈夫教授の蔵書も含まれています.

 開館と同時に石川市民が続々とやってくると共に,特に石川高校の生徒が放課後になると,大挙して図書館に飛び込んで,片っ端から貪り読みました.
 その為,司書や図書出納係はその時間になると,戦争の様な騒ぎだったと言います.

 その後,民政府内に中央図書館を開設し,本も本土の沖縄出身者から送られてくる事もあって増加し,10月に首里分館,11月11日に名護分館と相次いで開館していきました.

 てな訳で,暫く沖縄戦後初期の文化行政の話を続けてみる.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/23 22:55

 今回は,沖縄画壇の泰斗達の話です.

 大嶺政寛氏は沖縄戦で彼方此方を逃げ惑い,1945年6月20日に捕虜になりました.
 その後,野嵩,石川の収容所を経て,7月に越来に落ち着きました.
 当初は,難民の宿舎割当係などをやらされていたのですが,彼が画家と知られると,登川の米軍部隊内食堂の壁画などを描かされました.
 材料は米軍の油性ペンキを古新聞紙などで油抜きし,米軍の工業用テレピン油で溶いて即製油絵具としたものでした.
 そうこうしている内に,やがてPX勤務の職にありつき,部隊内のホビーショップから画材を仕入れて画家友達に配ったりもしています.

 また,嘉数能愛氏も,屋嘉収容所から解放された後は,専ら米軍部隊の壁画を描いて糊口を凌いでいました.

 当時,ゲリラ的な攻撃があるとは言え,第一線から遙かに後方地帯となった沖縄で,米兵達の娯楽は週1,2回上映される映画の他,スポーツも盛んだったりしますが,文化系の趣味を持っている兵士に対しては,ホビーショップを開設して,その運用には美術や工芸に造詣の深い軍属が当り,その下に各分野の専門指導員が置かれ,油絵,水彩画,木工細工,革細工,陶器作りなどを教えていました.
 また,こうした趣味を実践するのに必要なあらゆる材料も豊富に取揃えられています.
 このホビーショップは,特にクラス別に体系的な教育を行っているのではなく,兵士達は余暇があれば,誰でも何時でも自由に出入り出来,好きな分野で好きな時間だけ自分の趣味に没頭することが出来た訳です.

 この辺,余暇の過ごし方でも,集団的行動を尊ぶ日本軍とは全く違うと,沖縄の人々は思ったそうです.

 さて,大嶺政寛氏は,壁画を描いて糊口を凌ぐ傍らで,難民の娯楽施設の無いのを憂いて,室川小学校の跡地に芝居小屋を建て,照屋林山等の協力で,戦災を免れた琉球三線100挺を集めて大演奏会を開催し,琉球音楽健在なり,と誇示して,軍民双方の聴衆に一大感銘を与えた事もあります.
 その後,室川小学校跡地のグラウンドの一角には,宮城嗣吉が映画上映劇場を建て,沖縄に於ける映画館の先鞭を付けています.

 こうした動きを支援したのは米国海軍軍政府でした.
 先述の通り,軍政府は肩章は付けていますが,実質的には学者達で構成されており,実質的最高責任者の副長官こそ海兵隊のC.I.ムーレー大佐と言う職業軍人ですが,その通訳の丸本中尉はハワイの日系二世で,ハワイと日本の大学を出てハワイで弁護士を開業していたインテリでした.

 政治担当のワトキンズ少佐は,沖縄に軍政を敷いて,人心収攬を担当すると共に,琉球民政府の前身ともなった沖縄諮詢会を設立,指導し,退役後はスタンフォード大学の教授になりました.

 また,教育文化行政を担当したのは,ハンナ少佐で,石川在の画家達と交流を持ち,特に沖縄占領初期の美術活動に力を入れています.

 ハンナ少佐は,戦争で荒廃した沖縄の人心を蘇生させる為には,軍の強圧的な統治を行うよりも,もっと柔らかに統治をすべきであり,しかも,沖縄には戦前まで高度な王朝文化があった事を認識していました.
 このため,先ずは文化を復興させるべく,戦災地を駆け巡って,破壊を免れた沖縄の陶器,漆器,織物,彫刻,梵鐘など367点の文化財を蒐集保護します.
 これらは県立博物館に現在は所蔵されていますが,その保存展示の為に,1945年8月に早くも東恩納部落で焼けずに残っていた瓦葺きの家屋を利用し,「沖縄陳列館」を開設し,その館長に共に沖縄の文物の保護に当たった大嶺薫を宛てました.

 また,自ら筆を執って沖縄の歴史照会の英文パンフレットを作成し,これを駐留米兵に配って,沖縄人民の理解に役立てた他,戦後米軍によってフィリピンに持ち去られてしまった円覚寺の大梵鐘の返還に東奔西走して,これを実現させています.

 教育面では「沖縄陳列館」を開設した1945年に,「沖縄教科書編集所」を設置して,ガリ版刷りの教科書を作る事を指導し,1946年1月にはその指導助言の下で,文教学校が開設されています.

 更に,石川在住の画家達を集めて,東恩納にコンセットと呼ばれる簡易野戦住宅3棟を建設し,これを画家達に開放して自由に創作出来る場とチャンスを与えます.
 戦後初めての絵画展もハンナ少佐の提案で行われ,彼の住居を開放して会場とし,兵士を始め米国人に観覧させ,その絵を売って,画家達の収入としています.
 この絵画展はその後も,ハンナ少佐の斡旋で,米軍部隊を巡って幾度も巡回展が開催されました.
 また,その絵の収益は,画家達の画材購入にも充てられましたが,日本画の材料は米軍内に無かった為,ハンナ少佐は伝手を頼って上海から岩絵具を取り寄せ,みんなに与えたりもしたそうです.

 沖縄諮詢会の組織が整ってくると,その中に文化部が設置されました.
 部長には,独り恩納岳に登って,日本軍を降伏させた事で米軍にも知られていた当山正堅氏が就任し,その下に芸術課が設置され,画家達は,「美術技官」となった訳です.
 この時,技官に任命されたのは,山田眞山,屋部憲,大城皓也,大嶺政寛,山元恵一,金城安太郎,糸数晴甫,榎本正治,安谷屋正義で,これに九州から引揚げてきた名渡山愛順が加わりました.

 とは言え,技官の仕事は有って無きがごとしで,これまでやってきた画家活動の延長でした.
 それに加えて,後進の指導,各地での展覧会の開催,Christmas cardの作成とその技法指導が主でした.

 なお,商工部の安谷屋正景部長(安谷屋正義氏の父)も,配下に壺屋の陶工達を集め,1945年11月10日に,壺屋に103名の陶工や作業隊を先遣隊として送り込んで,壺屋復興の礎を築いています.

 1946年4月に沖縄諮詢会は沖縄民政府となり,軍政府の知念地区移動に伴い,佐敷村新里の高台地に移転,画家達も沖縄民政府に引き継がれますが,活動の拠点は東恩納村にあったので石川に残りました.

 1947年7月になると,文化部芸術課課長だった川平氏の提唱で,「沖縄美術家協会」が設立され,会長に屋部憲が選ばれ,技官10名の他,引揚げてきた画家達を含め総勢20名が所属する事になります.

 ところで,1946年7月1日から軍政権は米海軍から陸軍に移ります.
 文化人が多く,大まかだった海軍と違い,陸軍の場合は,かなり厳しい統治でした.

 当初は,東京に琉球列島軍政長官であるW.D.スタイヤー中将が居り,沖縄軍政府長官にF.L.ヘイドン准将,副長官にはW.H.クレーグ海兵隊大佐が就任しました.
 ヘイドン准将は,民政府との関係にも気を遣い,1853年6月6日以来,つまりペリー提督の首里城パーティー以来と言う,民政府部長以上との交歓パーティーを開催したりしたのに対し,1948年5月5日,2代目の軍政長官として赴任したW.W.イーグルス少将は,軍人気質が抜けず,赴任しても民政府首脳と交歓もせず,全住民と親しむべき長官が対話どころか接触しようとせず,副長官を務めていたクレーグ大佐も辟易していたと言います.
 どうもイーグルス少将は,
「私は軍司令官であって,軍政長官はアルバイトに過ぎない」
と思っていたらしく,殆ど親ヶ原の軍政府事務所にも顔を出さず,偶に来ても,指揮棒をパチパチ鳴らして威圧して帰るだけの人物だったようです.

 こうした状況では,沖縄住民達は占領軍による植民地統治と大差ないと考えたのは当然とも言えます.

 その無気力な統治を楯に,民政府の方は遣りたい放題だったりします.
 但し,良い方向に進めばいいのですが,どちらかと言えば,戦時中の日本政府の様な規制規制又規制のオンパレードでした.
 それは文化行政にも反映されていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/24 23:22

 沖縄の演芸にも例によって,ハンナ少佐の影がちらつきます.
 1945年末,ハンナ少佐の発案で生存俳優の調査と集合を命じ,王族の護得久朝章を会長とした「沖縄芸能連盟」を石川で組織,沖縄諮詢会文化部の指導で芸能人の一部を集めて米軍部隊廻りで稼ぐ「沖縄ダンシングチーム」を結成し,俳優達は日々の糧を得る訳ですが,彼らはその代償に米軍兵士達から多くの煙草や缶詰を貰って,普通の人より結構な暮らしをしていました.

 とは言え,こうした芸能活動を行うには,文化部に設置された芸能審査委員会による審査があり,以前触れた様に,戦前に交付された「鑑札」と同じく,琉球芸能の俳優と音楽家として適任とされた証に,文化部長が『芸能審査証』を交付し,これを持つ人々には1946年10月以降,技官として採用され,民政府から給与が支払われる事になりました.
 民政府の給与体系は,15等級からなり,最高棒の15級は志喜屋知事の1,000円,最低の1級は120円ですが,彼ら技官の給与は,劇団の正・副団長の給与で課長クラスまたは画家と同じく400〜500円,劇団員平均でも300円の給与が支払われました.

 1866年に琉球王朝最後の御冠船接待終了後に,王朝政府から禄を打ち切られ,以後,芝居屋(シバイシー:河原乞食と同義語)と蔑まれてきた彼らが,80年ぶりに『公務員』に復権した訳です.

 勿論,米軍キャンプ廻りで懐が潤っていた彼らにとっては有難迷惑でもあったでしょうが,一種の名誉職でもありましたし,いずれは商業演劇で飯を食わねばならない時に備えての予行演習としての意味合いもあったでしょう.

 こうして,文化部では審査に合格した約50名の役者と音曲担当者を,松・竹・梅の3つの移動劇団に編成し,沖縄本島を3地区に分け,松は石川市を中心とした中頭地区を,竹は羽地,田井等地区を中心とした北部一円を,梅は知念,百名,志喜屋を中心とする南部,島尻地区をそれぞれ担当して民衆の慰問に乗り出しました.
 これが沖縄郷土演劇の最初の活動となります.

 その公演に際しては,文化部が巡回日を各市町村に予告し,市町村はそのスケジュールにあわせて仮設舞台を用意し,そこへ民政府陸運課差し回しのトラックに乗った劇団員が,埃を一杯浴びながら,衣装や道具と共に乗り付けるという寸法です.
 当時の沖縄は,1947年1月22日まで各地区間の往来が禁じられていました.
 このため,公演は昼間になりますが,他に娯楽は無く,郷土芝居も戦争の空白期を挟んで何年ぶりかで見るものですから,どこでも熱狂的に歓迎されて大入り満員.
 空缶三線にあわせて舞う役者達に歓喜の涙が注がれ,松劇団初演では,具志川村川田で観客7,000人を集めると言う史上空前の動員数となりました.

 とは言え,急拵えの露天舞台で,雨が降ったら休演ですし,出し物も村芝居に毛の生えた程度の狂言しか行いませんでした.
 文化部が古典の上演を注文しても,決まって「舞台はまともでないし,民主主義に相応しい脚本がない」との答えが返ってくるだけ,しかし,その演劇は昔のままの口移しの勧善懲悪ものばかりで,時代にそぐわないものでもありました.

 そんな6月のある日,軍政部からクレームと指令が来ました.
「俸給を毎月貰っている劇団が,木戸銭を住民から徴収する事はけしからん.
 俸給を直ちに払い戻させよ!」
 理屈ではそうなのですが,公設の劇場が当時は石川市にしかなかった為,各地の巡回では私営の劇場で公演せざるを得ず,仕方なしに木戸銭を取らざるを得なかったと言う事情もありました.
 また,石川市の公設劇場と言っても,舞台があるだけの露天演説会場というべき代物で,地元有志が出資して出来た劇場には,一応楽屋もあれば幕もあるし,で,劇団は衣装と道具だけを持って行けば公演が出来るので,その為には小屋賃を支払う必要があったのです.

 劇場との木戸銭の取り分は,劇場7の劇団3の配分でした.
 劇場の方が取り分が多く,芸術課としては団員が稼いでいる訳ではなく,劇場使用料としての扱いとして欲しい,と軍政府の担当官(その当時は陸軍に代わって,スチュワート少佐が担当だった)に説明をしました.

 一方,敵は身内にもおり,財政部の護得久部長も,「松竹梅の三劇団が俸給と木戸銭徴収の二重取りであるから,文化部支給の給与は差し止め,その上今まで支払った給与は払い戻されるべきだ」と言ってきた上,軍政府の財政部員まで乗り出す騒ぎとなりましたが,何とか文化部担当者の奔走で事は収まりました.

 ところで,文化部では,1947年5月,民主主義の時代に相応しい,旧来の演劇に代わる新しい演劇の脚本を募集する事になりました.
 これまた,ぽっと出の企画で文化部は予算なしの状態だったので,護得久朝章財政部長に三拝九拝してやっと3,000円の予算を貰い,7月25日に全市町村に募集ポスターの掲示を依頼しました.
 この企画の審査員は,歌人で歯科医の山城正忠氏,画家・劇作家で博物館長を務めていた山里栄吉氏,詩人で調査課事務官を務めていた国吉真哲氏,詩人で公衆衛生部事務官の仲泊良夫氏,詩人でうるま新報記者の仲村渠知良氏,詩人で芸術課職員の大城篤三氏が務めました.

 応募作品はこの時代にも関わらず60点余に達し,審査の結果大城立裕氏の『明雲』に決まりましたが,賞金が予算より削減されてしまった為,1等を該当者無しとし,2位として賞金1,000円を授与したそうです.
 次席には前原警察署長の山川泰邦氏の『眠らぬ人』と,同じく前原警察署の巡査部長,川野宗幸氏の『若人の歌』が選ばれました.
 『明雲』は現在の劇団で上演出来るかは難点があるとされたものの,優れた純文学作品として評価されました.
 因みに,2等に選ばれた大城立裕氏は,1967年に沖縄で初めて芥川賞を受賞した作家となります.
 脚本としては,結局,山川泰邦氏の『眠らぬ人』だけが演劇として松劇団で上演されています.

 そのうちに,本土や台湾に疎開していた芸能人達が続々と引揚げてきました.
 大宜味小太郎一座30名も帰還するなど,役者は引張り凧だったのですが,ニミッツ布告第1号と言う障壁が彼らの前に立ちはだかります.
 このニミッツ布告第1号と言うのは,別名を『旧法遵守令』と呼び,沖縄の状態はとにかく戦前の状態を維持すると言うものでした.
 1947年と言えば,日本では新しく日本国憲法が施行された年ですが,沖縄だけは「大日本帝国」のままで時が止まり,1875年以来の新聞条例同様,政府を批判する者に仕事を与えない様に,更にその後,太平洋戦争時に思想監視を兼ね,『巡回皇軍慰問』に協力させる為に情報局が芸能関係者の鑑札性を敷いたのですが,その状態が戦後も維持されていました.

 これは,大衆が決めるべき役者の技量を,官僚が判断する悪法ですから,軍政府にお伺いを立てて廃棄出来たにも関わらず,民政府は己の権力示威の為に,これを温存しました.
 こうした『旧法遵守令』に基づいた,非民主的な政治が罷り通っていたのが,戦後すぐの沖縄の姿だった訳です.
 単純に,「米軍が統治したから民主主義の世の中になった」と言う訳ではありません.

 因みに,この鑑札制度は,1人1人テストする暇はないので,纏めてテストをしますが,試験科目は『比良万歳』とかの古典舞踊から古い劇まで様々で,後に大伸座を組織した大宜味小太郎夫妻,宇根伸三郎,八木政男等は,大阪から引揚げて石川市で2回目の芸能審査を受け,全員で『丘の一本松』を演じて合格し,竹劇団に配置されました.
 この合格者は全員文化部に採用し,3つの劇団に配置しましたが,1947年4月に自由開業になっても芸能審査は続けられ,年末には120名にも達したそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/25 23:56

 さて,1947年2月中旬に,米本国から議員やジャーナリストなどが大挙して沖縄を訪れる事になりました.
 一行は30〜40名で,朝鮮や日本を含めた極東の米軍基地視察が目的で,今後の沖縄施政にも影響する使節団であり,その為にも,民政府としては好印象を相手に与える必要がありました.
 琉球王朝時代に良く行われていた,中国から冊封使を迎える様なものです.

 となると,文化部の出番となります.
 文化部長の当山氏は,芸能連盟の理事長でもある護得久朝章財政部長を訪れ,プログラムは文化部の芸術課で作成し演出する事を根回しした上で,部長会議に臨み,志喜屋知事も「沖縄の実態を見せるチャンス」とばかりに覚部長を督励しました.

 そして,松,竹,梅の各劇団の責任者を呼んで,プログラムの編成会議を開催しました.
 各劇団の人々も,「昭和の御冠船だ」と喜び勇んでこのプログラム作りに参加し,3劇団それぞれの得意演目を掲げで,文化部に集まって稽古に励む事になります.

 ところが,竹劇団の団長を務めていた平良良勝氏から,
「台詞が少ない演目で,アメリカさんも理解出来る新作舞曲『浦島』の乙姫役だった女優が,二世と結婚してハワイに渡ってしまって,この演目が出来ない」
という連絡が入ります.
 この代役に立てられたのが,「松の下のカメちゃん」と呼ばれていた遊郭『松の下』の元尾類(美女三千と喧伝された那覇港近くの辻遊郭の遊女のこと)の名花で,名を上原栄子と言いました.

 因みに,辻遊郭には1940年頃250軒の貸座敷,200軒の芸妓置屋,109軒の料理屋に,845名の娼妓,287名の芸妓,255名の酌婦を擁する一大遊郭でした.
 太平洋戦争中もカメちゃんは,お座敷に出ており,1944年10月10日の那覇大空襲の前夜には,南方視察帰りの船舶司令官だった佐伯文郎中将の歓迎を兼ねて,第32軍司令官牛島満中将が催した宴席の二次会で琉球舞踊を踊っていたりします.

 この空襲開始と同時に,佐伯中将一行は『松の下』近くにあった波の上神社の崖下に避難しましたが,カメちゃんは空襲にも臆することなく,弁当を世話するなどして一行に感銘を与えました.
 また,佐伯中将一行は11日に本土に帰任しますが,その時,カメちゃんから『国に殉ずる』和歌を送られた事に感激した副官の林忠男大尉は,船舶司令部副官部の女子挺身隊員の精神教育に,その歌を披露したと言います.
 その後,カメちゃんは牛島司令官にその胆力を賞されて,第32軍司令部で従軍看護婦として働き,南部戦線を放浪した後,戦後は石川で芸能連盟の会員となって米軍部隊慰問に活躍していました.

 さて,この「御冠船」の記事がうるま新報に載ると,東恩納から画壇の長老である屋部憲氏と名渡山愛順氏がやって来ました.
 この頃の画家達は,Christmas cardの作成が人気を呼び,カード2〜3枚と闇値で公務員最低月給の200円もする煙草1カートンと交歓するほどで,画家達は忽ち金持ちとなり,文化部など歯牙にも掛けませんでした.
 しかし,米国視察団がやって来ると聞いて,名渡山愛順氏,仲井間元楷氏が疎開先の九州で10名前後の琉球舞踊の踊り手を集めて結成し,福岡,大阪,川崎の沖縄県人を中心に巡業していた『沖縄芸能団』を用いて「昭和の御冠船」を接待したいと言う要請でした.
 彼らの方が若くて美人揃いで好評であり,松竹梅の3劇団の老優よりも遙かに喜ばれると言うものです.
 ただ,この『沖縄芸能団』は本土では有名でしたが,本土の情報が入ってこない沖縄では,台湾の高安高俊氏が結成していた『疎開者慰問劇団』同様に,沖縄では全く無名の劇団だったので,その絶好のアピールとばかりに名渡山氏が,屋部氏を動かした様でした.

 元々,戦前から沖縄芝居は沖縄でも軽視されがちで,沖縄芝居は,江戸,上方と共に,日本の演劇の原点であると考える文化人は殆どおらず,「沖縄芝居は低劣な演劇で,琉球古典音楽も浪花節以下」などと評されていた事から,沖縄方言を尊重せず,文化部が行っていた演劇保存育成を不要なものと見做す文化人が,まだまだ多かった時代です.
 そんな低俗な芝居を米国人に見せるよりも,無垢な踊り手の踊りを見せた方が良いと考えていた人々も多かったのも事実です.

 文化部はその申し出を当然断りますが,彼らは民政府の実力者である又吉副知事を訪れ,プログラムの変更を申し入れました.
 副知事は当山文化部長と川平芸術課長,それに護得久芸能連盟会長を呼ぶと,再考の余地がないか問いただしますが,3人はこれを拒否しますが,その直後,屋部,名渡山両氏が中に入ってきて,芸能連盟会長と美術協会会長が掴み合いの喧嘩になりかけたそうです.

 そんな幕間劇もありましたが,兎にも角にも,2月14日,フォックス参謀次長を視察団長とする米国国会議員と新聞記者団の歓迎演芸会は,北中城村瑞慶覧のライカムと呼ばれていた米軍司令部構内で予定通り,松竹梅3劇団合同のプログラムとなりました.
 親泊興照,宮城能造の「天川」,「馬山川」など優雅でありながらコミカルな舞踊劇は拍手喝采され,伊良波尹吉氏の長男である伊良波晃の踊り「鳩間節」も絶賛されました.
 特に観衆に深い感銘を与えたのは,代役になった「カメちゃん」の艶やかさで,その美貌は,若い米軍将校達を完全に魅了しました.

 その将校達の中に,シュナイダー少佐と言う人がいました.
 シュナイダーは退役後,劇作家となり,ブロードウェイで『八月十五夜の茶屋』という戯曲を書いてヒットを飛ばしました.
 シュナイダーはこの作品に出て来る女性にCherry,Plum,Wisteria,chrysanthemum,Lily,Violetなど全て植物の名前を付け,女主人公にLotusと名付けましたが,この時のカメちゃんの舞台姿をモデルにしたと言われています.

 この公演は大成功で,軍政府の首脳であるヘイドン准将や副官のクレーグ大佐始め,米国の視察団に好印象を与える事が出来ました.
 因みに,その後「カメちゃん」こと上原さんは,文教部長をしていたスチュワート少佐の世話で,軍政府のタイピストとして働き始め,やがて資金を貯めて,料亭『松の下』の経営者になりました.
 後に,その一代記を出版し,それが好評で続編も出すなど,晩年にも文化人として活動し続けました.

 それはさておき,好事魔多し.

 軍政府のスチュアート少佐から,軍政府将校クラブの視察団歓迎昼食会で琉球菓子を贈呈する際に,包装紙に絵を描いて欲しいと頼まれましたが,東恩納の画家達からは
「我々は芸術家です.
 菓子箱の包装紙などの様なものは引き受けられません」
と,総スカンを食らいます.
 明らかに芸術課に対する,先日の劇団選びの意趣返しであり,民政府から給料を貰い,アトリエも無償で提供され,余得で描いた絵は売って自分の収入にしておきながら,雇い主の仕事を拒否するとは何事かと,喉まで出かかったものの,期限は明日に迫っており,今更東恩納に行っても埒があきません.
 仕方なしに,川平課長自らが山原船の版画を彫り,事務官補と2人で,徹夜をして50枚の包装紙を刷りました.

 幸いにして,この包装紙も好評で,何とか芸術課は面目を施したのですが,画家のグループと芸術課は一触即発の状態になっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/26 23:23

 占領期の沖縄には,ニミッツ布告第1号の『旧法遵守令』にも関わらず,祝日を規定した法律は引き継がれませんでした.
 それが制定されたのは1947年12月の事で,クリスマス,元旦,沖縄民政府創立記念日の4月24日(但しこれは民政府から給料を貰っている者のみ適用),戦死者慰霊祭の5月30日,米国独立記念日の7月4日,旧盆の2日間となりました.
 よって,1947年4月24日は,折角の民政府1周年を祝う根拠がありませんでした.
 とは言え,記念行事は何かしたい,と言う事で,創立1周年式典と祝賀パーティーと芸能大会を開催する事になりました.

 ところが,接待及び祝賀パーティー委員長を務めていた人事課長と,補給委員長の工業課長が対立します.
 その対立点は「酒」でした.
 人事課長側が,民政府創立1周年と言う記念の式典なので,職員や来賓にはせめて1杯ずつの酒を,そして,乾杯用に1合ぐらいの酒を要求したのが発端です.

 当時,酒は金武村伊芸の酒醸研究所で造っていたのですが,原料の米や玉蜀黍は米軍の配給であったことから,戦争中の配給制を引き継いで酒も厳しい統制下にありました.
 一般人に配給されるのは,結婚式とか誕生といった特別時に限って男性1人1合程度でしたし,その酒も現在の質の良い泡盛ではなく,鼻に付く臭いの強い粗悪な酒ですが,量が少ないので晩酌なんぞとんでもないと言う時代.

 このため,工業課長は酒の特配は戦前の官尊民卑を想起させる上に,自分たちが決めた規則を破る事に繋がるとして断固反対し,人事課長と対立します.

 人事課長側は,
「そう固い事言わずに,1人1合くらい何とかなるでしょう.
 民政府創立はウチナンチュにとって画期的な自治への第1歩であり,国家的行事でもあるから,めでたい席に酒を1杯も出さないとは寂しいでしょう」
と発言し,周りの空気もそれを容認する雰囲気でした.
 しかし,工業課長側はこう発言します.
「皆さんは規則を守る必要はないというのですか.
 米軍の配給で生きている現在,酒の配給は簡単ではありません.
 私は規定通りにしているに過ぎません.
 役人達が法を侵して,どうして市民に法を守れと言えますか.
 職員慰労に酒の配給をしなければならないと言うのなら,法を改正してください.
 それならば私は工業課長として,酒の配給を許可しましょう.
 私は法を侵してまで,酒の配給をする気持ちは毛頭ありません!」
 こちらは真正面からの発言で,工業課長の方に道理があり,みんなからの白い目を覚悟しつつの反論で,誰もそれに反対を唱える事が出来ず,結局,この問題は更に上に上げられる事になります.

 こんな厳しい統制であったからには,当然闇酒が流行ります.
 と言っても原料が無いので,手近にあったメチルアルコールを薄めて飲むのが主流です.
 メチルアルコールは毒性が強く,摂取量によっては死に至る事もあります.
 沖縄では,1946年1月から翌年1月までの1年だけで,46名が死亡しています.
 大体週に1人が死んでいるくらいの割合ですから,普段の交通事故と同じようなもので,新聞にも埋め草記事でしかありません.
 因みに,揚げ物に使う食用油も不足していたので,自動車用のモービル油を使用し,下痢患者も続出しましたが,こちらも死亡した時だけ記事になった位の時代です.

 結局,部長会議では祝賀会で酒を出さないと自らの不人気に繋がりかねないと言う政治的判断が働いて,出席者に酒1合を配給する事で決着します.
 しかし,工業課長はお咎めを被る事なく,筋を通す官僚として逆に名を挙げたそうです.

 1947年4月1日,沖縄民政府創立1周年記念式典は,総務部庁舎のバトラーコンセットを片付けてホールとし,舞台を設営した会場で行われました.
 沖縄県民の前には,琉球列島米国政府軍政長官のヘイドン准将を始め,副長官クレーグ大佐,総務部長ドウトリー大佐,キーリング中佐等の将星が初めて並びました.
 また,その式典では民政府通信部機械課の職員が苦労して製作した,手製の拡声装置が活躍しました.
 米軍政府の首脳達は,舞台上に立っている奇妙な物体を訝しげに見ていましたが,志喜屋知事が通訳と共にステージに立ち,会場の隅に掛けてあるスピーカーから声が出て来て,納得の表情をしています.

 式典は午前中に終わり,午後から芸能大会が始まりました.
 最初のプログラムは琉球古典音楽だったのですが,当時は粉ミルクの空缶にパラシュートの布を張った「カンカラ」三線や渋紙張りの三線しかなく,芸能課長は手を尽して蛇皮張り三線を探し,名手の幸地亀千代さんに弾いて貰いました.
 亀千代師匠は,
「戦後初めて,本物の三線で演奏が出来ました」
と泣かんばかりに感激したそうです.

 その後,沖縄民謡の披露と,バレエ「白鳥の湖」,ヴァイオリン独奏などが続いていったのですが,糸満成人会の特別出演でハプニングが起きました.
 彼らの出し物はハーモニカ合奏だったのですが,何と曲目は禁止されていた筈の『軍艦マーチ』.
 事前に演目をチェックしなかった芸能課長の失態ですが,まさか,民政府職員がそんな禁止された曲を合奏するとは思っても見ませんし,彼らも張り切って賑やかな合奏をしているのですから,途中でこれを停止させれば逆に大騒ぎになってしまいます.
 遂に,腹をくくって彼らと心中するつもりで悲壮な決意をしたその時,合奏が終わります.

 案に相違して,米軍政府の高官達は拍手喝采で応え,観衆達も安堵して拍手喝采し,芸能課長の首も繋がりました.

 続いて首里文化協会が「琉球わらべ歌」と「琉球の童謡舞踊」を披露し,これまたやんやの喝采で,年配の人たちはハンカチを取り出し目頭を押さえていました.
 当初の酒を巡る対立や,酒の配給量が少ないと言った不満は吹っ飛び,芸能大会はかくして予想以上の大成功に終わりました.

 ところで,沖縄民政府と言うのは,英語で言う所のGovernmentではありません.
 正式には沖縄民政府は,"Okinawa Civilian Administration"であり,Administrationとは,行政庁的な意味でしか無いのです.
 従って,その民政府の長は,GovernorでもなくDeputyでもなく,"Chiji"でした.
 邦訳する時に,誰かが気を利かせて,いかにも権限がありそうな「民政府」と言う訳を当てたのですが,真の施政権者は米軍で,彼らこそ,政府でありGovernorでした.

 "Chiji"は,県民の意志を軍政府や軍政長官に報告もしくは申請するのが任務であり,本来の意味の施政権は無く,そう言う意味では満州国の政府と似た様な傀儡政府(と言えば言い過ぎかも知れませんが)にしか過ぎないのです.
 従って,県民(彼らは県民ではなく「住民」と呼ばせた)に対しては「知事」や「副知事」として威張っていても,軍政府の通訳や運転手に対しても腰が低くならざるを得なかったりしたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/27 22:46

 さて,沖縄の民政府は,例の『旧法遵守令』を楯に,何でもかんでも規制規制をかけます.
 企業の設立についても免許制を敷きました.
 普通の企業はフリーパスだったのですが,副知事が経営していた「うるま新報」に関係する業界,つまり,映画演劇興行や新聞は厳しい規制や指導が行われています.
 それも,かなり恣意的な形で行われました.

 例えば,軍政副長官の庭師をしていた宮城嗣吉氏が,1946年夏頃に沖縄映画興行社を設立し,映画興行の申請を警察部に申請した事があります.
 ところが,この会社自体も許可を得てから出資者を募り,機材やフィルムを購入しようとしたのに,それが皆無の状態で申請した事に難癖を付けられ,申請書は各部を堂々巡りした挙げ句,年末に漸く「資材が有れば」と言う条件付で許可されたものの,映写機もフィルムも入ってこないので,その申請を出した宮城氏は文化部職員の映画チーム主任として採用される事になり,自然保留の形になりました.

 因みに,文化部の映画チームには,1947年8月に米軍政府文教部が16mm携帯用映写機2台と,ニュースや文化映画のフィルム9本を提供した事でやっと仕事が出来るようになり,視聴覚教育の一環として2台の1.5トントラックに発電機1台づつを積んで各地を無料で巡回上映し,大歓迎されました.

 同じ頃,日本本土から石垣,宮古測候所に資材を運んできた船が,職員娯楽用にと有料で『エノケンの天界坊』を公開した所,けが人が出るほどの大騒ぎになった事もあり,人々は娯楽に飢えていました.
 因みに,沖縄諸島を始め奄美大島,宮古,八重山諸島は軍政府の施政下にありながら,各諸島間での公式の交易や輸入物資の取引は禁じられていました.
 私的取引は密貿易と見做されましたが,米軍の目の届かない与那国島から沖縄本島南部の糸満町には密貿易船が通っていると言う風評が絶えなかったと言います.
 そのうち,密貿易の話は書くとして….

 戦時中までの映画フィルムは,戦場となった本島では1本も残っていませんでした.
 従って,密貿易船で持ち込まれた闇フィルムの上映も不可能でした.
 1947年1月,又吉副知事の推薦で,戦前那覇で旭館と言う映画館の経営をしていた人が映画の営利興行の申請をしてきましたが,これも,映画館も持たず,映写機材もフィルムもないので,これも映画興行に必要な条件が完備するまで保留となっています.

 「まともな」映画興行の第1号は,戦前那覇の映画館で弁士をしていた山田義認氏が,外地からの引揚げの際に持参したとして手回しの映写機と35mmの無声映画のフィルムを持って来訪し,「山田巡回映画社」として巡回興行の申請を出してきたのが最初です.
 映画を試写し,山田氏の活弁で検閲,機材も個人所有で密貿易でない事が確認され,認可されて晴れて劇場での封切りが行われました.
 世の中はトーキー,カラーの時代ですが,こんなアナクロな映画でも,大入り満員で,客足が退いて打ち切りになっても,地方の劇場で引張り凧の状態だったりします.

 時に1947年10月,この頃沖縄ではGHQの指令に基づく時代劇禁止問題でゴタゴタしていたのですが,那覇市牧志の県道沿いに劇場を建設し,映画を上演したいから許可を得たいと言ってきた人がいました.
 この人は後に沖縄の映画王となる高良一氏でした.
 当時高良氏は「うるま新報」那覇支局長でしたが,フィルムと映写機が手に入るので映画興行を許可して欲しいと言ってきたのです.

 次の日,川平氏は軍政府のスチュワート文教部長を訪ね,映画の規制緩和を強く主張しました.
 スチュワート文教部長も,知念の山にある軍政府構内の映画館で,週末毎に映画を見ていた人なので,諸手を挙げて賛成し,映画を担当している情報部のハウトン大尉を紹介してくれる事になりました.
 彼も「映画,大いに結構」と賛成し,話はとんとん拍子に進んでいきます.

 因みに,民政府の非民主的体質に常々不満を持っていた軍政府は,これを機会に,民政府の文化部を,新聞,ラジオ,映画,演劇,世論調査,統計調査,博物館,図書館,史跡,天然記念物の保護などの行政権を全て包含した情報部にする事を提案してきます.
 当時,本土の方も,文部省を文化省としてはどうかと言われた程ですから,情報部よりは文化部のままの方が良いと日本側は主張し(情報部と言えば,何か戦前の情報統制を思い起こさせて相応しくないとの理由),文化部の機構改革が進み始めました.

 ところが映画については,例によって副知事のところで却下されてしまいます.
 高良氏は金策に走り回り,当時のお金でポータブル映写機2台とフィルム3本を5万円で買う事になりました.
 しかし,当時のお金でも5万円は大金で,知事の月給の4年分に相当するお金です.
 そこで,石川の中央銀行に借りに行く事になりましたが,保証人がいない.
 と言う事で,文化部を頼ってきました.
 とは言え,副知事をひっくり返すのは出来ないので,軍政府の威を借りようと,情報部のハウトン部長に相談し,そこでOKを出して貰って,高良氏は早速宮古に飛んで,映写機2台とフィルム,いずれもそれは戦前の映画で,片岡千恵蔵主演の『富士に立つ虹』,川崎弘子主演の『母は強し』,入江たか子主演の『白い壁画』を持ち帰ってきました.

 ハウトン部長には,「宮古に残っていたフィルム」と高良氏は説明していますが,実際には台湾から密輸されたものです.
 ハウトン部長もそれを知っていたと思われますが,そこには触れずに知らん顔でした.

 映写機とフィルムを手に入れた高良氏は,牧志にあった輸送隊の隊長と交渉し,それを那覇市の旧市内に移転させると,跡地に大車輪で劇場を建て始めました.

 勿論,副知事は赫怒し,当山文化部長宛に知事名で
「那覇市牧志町の国際劇場を没収せよ」
と言う命令書が送られてきました.
 翌日,当山文化部長と川平課長は知事室に呼ばれ,民政府首脳の前でつるし上げをかけられます.
 民政府首脳の主張は,
「みんなが貧乏で食うのがやっとなのに,劇場を建てるのはもってのほか,時期尚早」
と言うものでした.

 しかし,建築材料については米軍の那覇駐屯部隊司令官から,市民への健全娯楽を提供する為のシアターを建設する為なら,喜んで資材の供出と運搬に協力するとの書き付けや証明書もあり,民政府工務部や那覇市役所,那覇警察署にも手配済で高良氏には何ら落ち度がなかったりします.
 しかも,既に軍政府の情報部,文化部長がOKを出しているのに,民政府でその劇場を没収してしまったら,米軍政府から何を言われるかも判らない.
 民政府が,本物のGovernmentではない痛い所を見事に突いた形で,文化部は首脳達の攻撃をかわし,見事に高良氏の劇場を守りきりました.

 そして,那覇の国際劇場は米兵達にも映画館と判る様に,頭に伊江島で取材中に戦死した新聞記者であるアーニー・パイルの名を冠して,Ernie Pyle 国際劇場として命名しました.
 こうして,テント張りであるにも関わらず,相当大きな劇場が,戦場となった沖縄本島に初めてお目見えしたのでした.

 1947年12月20日から興行を開始した国際劇場は,1948年正月に「こけら落とし」を行いました.
 こけら落としは軍政府の肝いりで行われた為,民政府はぐうの音も出ませんでした.
 この時,米軍政府は,雨になっても来賓の婦人方の裾が泥などで汚れない様に,米軍トラックを動員し,浜から砂を運んで場内外の周辺に敷き詰めたりもしています.

 緊張の式典が進む中,突然,雨が降ってきました.
 従来の野外劇場だと全員退場となるシーンでしたが,テント張りとは言え屋根の付いた劇場では,濡れる事もなく,時折テントの屋根を叩く雨音や風の音が気になる程度で,映画をゆっくり鑑賞出来たと言います.
 そして,たった3本の映画フィルムだけですが,兎に角沖縄本島に映画館が誕生した年となりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/29 23:22

 さて,太平洋戦争中の日本ですら,ラジオを聴く事は別に罪ではありませんでしたし,寧ろ権力側の情報管制ツールとして積極的に利用されてきました.
 現在の北朝鮮でも同様だと思うのですが,1945年頃の沖縄では,これまた意外な事に,ラジオの聴取は禁じられていました.
 しかも,民政府の役人達もラジオを聴いたらいけないと思い込んでいたらしく,誰も軍政府にお伺いを立てた事がありませんでした.
 本土ではGHQの手によって,着々と民主化が進んでいたのですが,沖縄ではニミッツ布告第1号の呪縛に捕われ,本土の新聞や雑誌すら入って来ていませんでした.
 その新聞や雑誌が手に入るのは,本土からの引揚者が持参した時でしか有りません.
 本土のラジオすら聴いてはいけないと信じられていたのですから….

 1947年6月13日の軍民連絡会議で,志喜屋知事がレイトン政治部長に漸くラジオについて尋ねました.
 レイトン中佐の答えは,
「申告すれば聴いて宜しい」
と言うものでした.

 1947年と言えば,本土では新憲法が制定され,民主化のうねりが全土を覆っていたのに,沖縄だけは疎外されていました.
 情報を遮断され続けていると,そのうち,日本と沖縄はそれぞれ別々の方向に進みかねないと文化部では危機感を抱いていましたが,民間新聞の創立と電波による国民情操の陶冶,並びに世界情勢を知る事については,民政府が頑なに拒んでいました.

 文化部では新聞の発行とラジオ局の設立構想を練り,軍政部と連絡を取りつつ,設立案を民政府に提案することになりました.
 「琉球放送局案」は部長会議に掛けられましたが,ここでも例によって又吉副知事の横槍が入ります.
 副知事曰く,
「住民の住宅さえ50%も建っていないのに,沖縄人の手で放送局を設置するとは極めて時期尚早である」
と言うもので,この提案も一蹴されました.

 その考えも尤もで,当時,民政府と米軍しか就職口がなかった為に,民政府では過剰に人を雇い,軍政府からは支出予算額が多く,特に人件費が嵩んでおり,警官を含めて1万人からの削減を要求されていました.
 また,軍政府に予算を1.6億円要請したのに対し,収入見込みが0.3億円しかない為,予算は0.7億円まで削られています.
 そして,1947年9月9日付の「沖縄に於ける徴税」と題する指令が軍政府より出されました.
 これは,
「1948年4月1日から1949年3月31日までの支出予算額は,歳入予算額を超えるべからず」
と言う厳しいもので,これに伴う行政改革,民政府の機構改革が不可欠になってきました.

 民政府の新機構では,農務,商務,工業,水産の4部は経済部に統合され,文化部が文教部に,労働部が総務部に統合されて1房9部制となりました.
 また,多くの離職者が発生する事になりますが,これはそのまま失業者になってしまいます.
 そうなると,食べる事が出来ないので勢い彼らは犯罪に手を染めざるを得ず,実際に1949年1月〜9月まで,窃盗で1,994名,次いで軍需物資不当所持563名など3,186名が検挙されています.

 文化部も例外ではなく,と言うか,副知事から完全に敵視されていた為に,機構改革案を軍政府と共に作り,知事に提出したのに,結局は,部は解体,部長は解任,各課長は文教部成人教育課付事務官と言う結果に終わってしまいました.
 政治力の勝る副知事には対抗出来なかった訳です.
 総務課・文化事業課・博物館課は文教局に吸収され,芸能課は官房直属の情報課に移籍されました.
 情報課の業務は,新聞,演劇,映画,調査,統計の業務をやり,再び戦前の情報の官僚統制が復活した訳です.

 こうして,川平課長も干されました.
 しかし,軍政府は民政府の中で異端者であった民政府文化部の人々と共に機構改革案を作り,その機構改革案が通ると思っていたので,かなり不満でした.

 この為,軍政府は民政府の文化行政を自前で行う事に方針を転換し,新しく,本島だけでなく大島,宮古,八重山の文化行政を軍政府で一括する事になり,その為に,川平課長を軍政府に出向させる様に命令を下しました.
川平氏は新たに民政府から軍政府統計長と言う役職に就きます.
 これは軍政府に於て,沖縄人に最高待遇を与える役職で,将校待遇であり,米国では大統領補佐官並みの職種でした.

 そして,情報部長のハウトン大尉は民政府総務部の所管していた新聞,出版,演劇,映画の営業認可に対する権限を川平氏に与えます.

 先述の様に,民政府と言うのは沖縄に於ける正式な統治機関ではありません.

 沖縄を統治しているのは軍政府な訳です.

 民政府は,軍政府の傀儡の様な立場であったのに,軍政府に対し,今回の施策でその顔に泥を塗った事になります.
 元々は本土のGHQと同じく,民主主義のレールや占領政策から踏み外さない限り,民政府の自主的判断に任せていた訳ですが,今回の件では相当怒りが大きく,軍政府側で文化行政を担当し,逆に民政府の文化行政担当をお飾りにしてしまおうとしたのでした.
 結局,又吉副知事は,策士策に溺れるを地でいった事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/30 23:10


 【質問】
 終戦前後の沖縄における,米軍基地就労者について教えられたし.

 【回答】
 さて,沖縄の米軍基地には今も昔も多数の人が勤務しています.
 彼らは上は部長,顧問,班長から下は草刈りに至るまで種々雑多な職種をこなしておりましたが,民政府の官僚達は,彼ら軍作業員を格下の様に見ていて,関心も払いませんでした.

 1947年当時,軍政府には沖縄人職員が1,400名も働き,その職種は事務職,技術者,通訳,翻訳,ドライバー,ハウスボーイ,ハウスメイド,ガードマン,ガーデナーなどでしたが,他の軍職場と違っていたのは,その大半がホワイトカラーだった事でした.
 しかし,こうした軍勤務者への生活保障は当時一切ありませんでした.
 部長職でさえ月々の月給以外の手当は全くなく,その金額も二世のタイピストや秘書,部長が使役している下役よりも低いものだったりします.

 その上,支払い通貨は1946年4月15日に日本円からB円軍票に切り替えられ,8月5日には再びB円を回収して新日本円に変わり,1947年8月1日には再びB円が法定通貨となるなどして,通貨政策が目まぐるしく変わった際に,民政府はどさくさに紛れてベースアップを行いました.
 しかし,軍勤務者は取り残されて,昇給もなければ給与調整も実施していませんでした.
 民政府は軍作業員の事をすっかり忘れ,誰も軍政府に文句を言わなかったので,完全に無視されていたのです.

 当時,軍政府を始め米軍施設には米軍勤務者の宿舎であるカンパンというものがあり,軍政府構内のカンパンには500〜600名の軍勤務の男女職員が住んでいて,カンパン・クラブと称する自治会を組織していました.
 しかし,これは生活改善の団体ではなく,住民の親睦と米軍人軍属との交流が目的でした.
 とは言え,大抵のカンパンにはミニ暴力団が蔓延っていて,『戦果』と称する米軍需物資の隠匿なども行っていました.

 因みに,沖縄戦直後の無通貨時代は食糧・衣服は全て米軍持ちであり,沖縄の首都となっていた石川市役所には,労務事務所から割り当てられていた作業員を送迎する米軍部隊の大型トレーラーや大型トラックがひっきりなしに走って朝はラッシュアワーの様相を呈していたそうです.
 勿論,まともな仕事など有りませんでしたから,住民達も挙って米軍の仕事にありつこうとしていました.
 沖縄本島に30万人の米軍人が駐留していた時代には,こうした住民達は8万人もいましたが,通貨が復活すると5万人前後で推移しています.

 通貨が無い時代は,米軍側も労賃代わりに在庫の軍需物資を与えて帰しました.
 その際,ゴミ箱やお釈迦になった品物の持ち帰りも大目に見ました.
 軍作業に慣れてきたら,作業員達は貰い物の多い部隊に殺到する様になります.
 軍政部の様な物資の蓄えのない,事務系職場は敬遠されました.
 行きは弁当箱1個,帰りにどっさりお土産を担いで帰ってくる常習犯達は,『戦果揚げ屋』と持て囃されました.
 また,この頃はまだ敗残の日本兵が北部山中を徘徊している頃でもあり,その『戦果』を日本兵達に分け与える者もいました.
 その『戦果』は,米軍の『戦力』を削ぐ戦闘行為であるので,本人達も罪悪感がありませんでした.

 以後,軍作業に出たら『戦果』を得るのは,軍作業に出る者達の特権となり,賃金制が復活しても,『戦果』は軍作業員の収入であり,アルバイトだったと言います.

 さて,そんな事をするのも給与の低さが原因でした.
 当時,民政府はB円の新ベースで3桁から4桁に給与が上がっているのに,軍勤務者は3桁のままになっていたからです.

 因みに民政府では,1948年9月3日に,5〜10%の英語手当を支給する事を決定しました.
 審査基準は,1級は自分の英語力で用が足せる者,2級はそれに近い者とし,英語の出来る教員は学校の内申で優遇する事になっていました.
 志喜屋知事に関しては,特別に20%の加棒があったと言います.
 現在,在日米軍も日本人秘書や通訳の英語力に応じて,本給の10〜50%に当たる「語学手当」を加棒しています.
 米国の統計では,語彙の豊かさと収入は比例すると言います.

 軍作業者の給与の改善については,軍政府のカンパンクラブで検討会を開催し,検討結果を英訳して軍政府副長官のクレーグ大佐,総務部長のドウトリー大佐,キーリング補佐官に面会を申し入れて,詳細に報告して改善を訴えました.
 首脳達は理解はしてくれましたが,軍政府職員の予算は国防総省の予算でまかなわれていた事から,すぐに改善する兆しはありませんでした.

 ところが,それが大騒ぎになりました.
 1948年8月18日,那覇軍港の荷役作業労務者の待遇が悪い事から遅刻者が多くなり,滞貨が貯まって,那覇港沖に貨物船が10数隻も沖待ちした事件が発生したのです.
 丁度,クレーグ大佐は奄美群島に出張していて,残っていたのは行政代行者のチェス大佐という人.
 彼は怒って,
「働かざる者に配給せず」
と沖縄本島の全売店を閉鎖し,住民への食糧配給を停止してしまいました.

 この措置に,沖縄の住民達は震え上がります.
 元々が給与の悪い軍作業の中でも,重労働の割に報酬が少なく,欠勤が多く,それが偶々船が集中した時に欠勤者が多かった事から,「マッカーサー元帥でもやらない」と言われた食糧配給停止を実行したのです.
 前日の8月17日に,特別布告第31号にて米人とウチナンチュとの間での国際結婚禁止を解禁した朗報がもたらされた直後の措置で,沖縄本島の反米感情が急速に高まりました.

 前回の映画の時に出て来た高良一氏が,国際劇場を無料で提供し,2,000名の聴衆の熱気に煽られて,
「住民に飯を食わせられなければ日本に帰せ」
とぶち上げて,軍政府の怒りを買い,劇場用の発電機を『軍需品不当所持』と因縁を付けられて,半年間臭い飯を食う羽目になったのも,この時の騒ぎが原因でした.

 元々軍労働者の話なんかは全く無視していた態度を取っていた民政府も,この時ばかりは志喜屋知事始め首脳部が軍政府と必死に折衝し,クレーグ大佐の帰任後の26日になって漸く配給停止が解除されました.
 しかし,軍労働者の生活改善に民政府が乗り出す事もなく,政治的に無視されていたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/01 23:59

 さて,那覇港騒動があってから,軍政府はカンパンの人々の待遇改善に真面目に対応し,熱心に解決策を探ってくれる様になりました.
 少なくとも,まずは食事の改善をと言う訳で,カンパンの食堂にドウトリー大佐を案内し,そこでの食事の実態を確認して貰う事になります.
 その食事の内容のひどさに驚いた大佐は,その改善を軍政府人事部長兼カンパン担当のパーハ少佐に命令しました.

 と言う事で,その改善策の第1弾として,バーハ大佐は軍政府の資金で5隻のサバニを購入し,それに糸満の漁夫を付けて,カンパン用の漁撈を委託する事になりました.
 その計画は当初は順調でしたが,毎回糸満漁夫達の行動を海岸で監視する訳にも行かず,漁夫が持ってくるのを受け取る以外術はなく,不漁の時にはカンパンには魚が届かず,魚は漁夫の労賃として下げ渡されてしまい,遂にはそれが常態化し,結局元の木阿弥になりました.

 その後,那覇騒動の影響か,軍政府の副長官がクレーグ大佐からグリーン大佐に替わりました.
 以前のクレーグ大佐と違い,今度のグリーン大佐は物静かで学者とか大学教授と言った感じの人でした.
 トップが変われば政策も変わるのが米国社会の常ですが,今度の交代では特にそうした政策の変化は無かったようです.

 そんな1949年3月11日,現在の「全駐労」の源流の1つである,「沖縄人MG共済会」が発足しました.
 住み込み職員600名,通勤者約800名,計1,400名が会員となり,発足式には軍政府幹部も出席して行われました.
 当時は沖縄に労働法と言うものがなく,しかも,冷戦たけなわで軍政府内にも反共主義者は多く,こうしたある意味進歩的な軍内での労働組合的な活動は,屡々批判を受けていたそうですが,その批判は副司令官のグリーン大佐が一手に引き受け,共済会の方にはその批判が及ばない様にしていたそうです.
 グリーン大佐は,このMG共済会の催しには必ず夫人同伴で出席し,軍勤務者を激励していたりする関係を築いていました.
 このため,MG共済会も先鋭化することなく,交渉は常に和やかな雰囲気で進みました.

 ところが,グリーン大佐にとっての泣き所は,軍勤務者達の給料でした.
 軍政府財務部長は,
「もし沖縄人の給与体系を米軍人軍属並に引上げた場合,沖縄が日本に返還された時には,ドルと円の交換レートから不合理になるのは一目瞭然である(当時は1ドル15円程度でした)」
と理路整然と反対し,副長官と雖も,給与の引き上げは一存では決められませんでしたから,この問題になるといつも言葉を濁していたそうです.

 しかし,軍政府の誰のアイデアか判りませんが,軍政府は給与ベース引上げに,素晴らしいアイデアをひねり出してくれました.
 尤も,国防総省の予算もありますから,軍勤務者の給与引き上げはおいそれとは行きません.
 そこで,その解決が出来るまでの応急措置として編み出されたのが,「現物支給」です.

 具体的には,米軍に対する日本政府からの見返り物資を,米軍政府の輸送船で沖縄に入れ,それを米軍施設内に置いたPXで,軍勤務者にカードを発行して安くは配給すると言う方法でした.

 当時,沖縄と本土との間で貿易が開始されていませんでしたから,中央倉庫の配給所があるくらいで,沖縄に商店と言えるものは,全くと言って良いほどありませんでした.
 あっても軍靴や時計の修理店,米軍制服の仕立て直しをする洋裁店くらいなものでした.

 そんな処へ,軍勤務者に限り,PXで高価な品物が市価の1割程度で安く買えたのです.
 新品の日本製自転車や,精工舎の時計も市価の半値で手に入りました.
 こうして手に入れた品物は,各人が平和通りと呼ばれた那覇市壺屋の闇市場に転売します.
 その品物は,PXで購入した価格の10倍で売れ,結果的に軍勤務者は民政府職員の給与ベースを遙かに上回る収入を手にする事が出来た訳です.

 因みに,前に取り上げた「カメちゃん」こと上原栄子さんは,当初,軍政府財政部で1ヶ月176時間働いて,158円40銭の給料を貰っていました.
 当時,煙草1カートンが200円でしたから煙草より安い給料でした.
 その後,グリーン大佐のお気に入りとなってハウスメイドになっていましたが,グリーン大佐の帰国前にMG共済会売店の権利を貰い,軍政府が那覇に移転すると2階の階段裏にコーヒーショップを開店します.

 コーヒーショップの頃は1ドル120円で,当時,ウチナンチュはコカコーラの会社から直接仕入れが出来ず,闇市で1本30円していたコーラを,軍政府米人職員向けに5セント(6円)で仕入れ,ウチナンチュに10円で,アメリカーには2円の手数料を加えた7円で販売し,大当たりを取ったそうです.
 尤も,本来5セントで飲めるコーラが5セントプラス手数料でしたから,米国人達は渋い顔でしたが.

 結局,この商売の御陰で,彼女は自家用車としてジープを1,000ドルで購入するほどの羽振りとなり,後に料亭『松の下』を再建する元手となりました.

 こうして,商売の才覚のある人たちはこれらの奇貨を元に,新たな商売に打って出ていきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/02 23:50


 【質問】
 「シーツ善政」とは?

 【回答】
 今日は凄い雨風で目が覚めました.
 気がつくと,家の前の通路は,くるぶしまで水に浸かっており,このまま出て行けば,濡れるのは必至.
 おまけに,ここ数日の過労が祟って,遂に体調不良となったので,お休み.

 1時間ほどすると晴れてしまいましたが,起きる気になれず,一向おねんねしていました.
 しかし,ここ最近の気象は無茶苦茶でございますわな.

 さて,暴風雨と言えば,沖縄では台風が良く来襲します.
 1949年7月23日朝,軍気象台からの通報で,大型台風が北上中,正午には本当に上陸の見込みと言うことで,職員は全員帰宅となりました.
 この台風は,"Gloria"と命名され,最大風速が78mに達する超巨大な台風でした.

 米軍政府は,5段階ある台風警報の中では最高の"Condition-One"を発令し,民政府を通じて各市町村にも台風対策に万全を期す様通達しました.

 風は11時頃から酷くなり,一旦静かになったものの,再び返しの風が吹き荒れ,沖縄本島は台風で揉みくちゃにされました.
 民政府構内の建物は殆ど壊滅し,官舎も2棟を除けば全部倒壊しました.
 中には1棟そのまま上空に舞い上がり空中分解したり,家族諸共官舎が風に飛ばされ移動すると言う現象も起きたりしました.
 米軍が,
「どんな風が来ても耐えられる」
と豪語していた蒲鉾型兵舎も壊滅状態となり,死傷者272名が出た事に軍政府もショックを受け,住民達への食糧と建築資材の無償特別配給を実施する事になります.

 軍政府工務部は,民政府工務部宛に通達を出し,沖縄住民の貧窮者の家屋被害者は軍政府社会事業課に救済を求め,生活力のある者は,沖縄民政府貿易庁に申し出て資材を購入する様に指導しました.
 基本的に軍工務部が工事指令を出さない限り,民政府工務部は家屋修理や建築に対する資材や労務者の提供は出来ませんが,この時は,軍政府公衆衛生部社会事業課が上手く動いてくれました.
 民政府の非効率な機構の中でも,英語の達者な部長がいる文教部や渉外部,工務部は,逸速く直接米軍政府と交渉して,住民の救済策を立ち上げていきます.

 これを機会に,軍政府は民政府の那覇移転を促進します.
 元々,台風前から民政府庁舎として那覇市の上之山小学校跡地を指定し,松岡工務部長に修復工事を命じ,台風襲来時に殆ど完成して,何時でも使用できるようになっていました.
 民政府の建物はこの台風で壊滅的な被害を出し,職員は浮き足だって行政事務はストップ状態となってしまいました.
 このため,志喜屋知事は軍政府に民政府の早期移転を申請し,工務部は職員住宅の敷地として真和志村与儀にある農業試験場耕作地に,テント175張りを建てて350世帯分の仮住宅を建設し,8月1杯に移転する予定でしたが,敷地問題が解決せず,三原に30戸の規格住宅を建設し,移転を開始しました.

 民政府は7月25日に佐敷村新里の丘陵から那覇市上之山小学校跡地に移転する事になりましたが,軍政府はそのまま知念に残ったので,民政府職員は毎日の様に連絡に通って不便をかこっていました.

 しかし,例によって軍政府勤務者には官舎の割当が無く,一般市民として市町村長の建築許可証明を貰い,貿易庁に提出して建築資材の購入を行うという仕組みでした.
 貿易庁では1軒分の資材を,ツーバイフォーで141本と定め,価格は杉材で6,136円,松材で4,042円と定めていました.
 単価は9尺杉で36円,松24円,13尺杉50円,松35円,10尺杉40円,松27円,12尺杉48円,松35円,20尺杉80円,松53円で,床板は7坪で1,260円,壁板は13坪で1,462円となっています.

 一般市民としての住宅建設とは言え,例の貿易事業などで軍勤務者の懐も温かく,何とかこの費用は捻出できたようでした.

 そんなこんなで1948年は暮れていき,1949年10月1日,堅物でいかにも軍人然としたイーグルス少将が1年半の勤務を終えて,沖縄軍政府司令長官の任を解かれ,後継者として,ジョセフ・R・シーツ少将が赴任します.
 前任者は完全に軍人然とした人で,余り業績を上げていませんでしたが,シーツ少将は卓越した軍政家で,この時期の事を沖縄の戦後史では,『シーツ善政』と呼んでいます.

 シーツ少将は,沖縄戦で戦死したバックナー中将麾下の砲兵連隊長として中城城に砲兵陣地を敷き,日本軍と戦った人でした.
 そのシーツの赴任第一声は,
「私は沖縄の全住民の幸せと平和の為に,アメリカ合衆国から派遣されてきた.
 私は沖縄の人々に何が出来るか?,何をなすべきか?を,日夜考えている.
 それには沖縄の人々の協力が必要である」
とぶち上げ,12月1日には那覇市を沖縄の首都にすると宣言し,その言葉通り,旧市内を占領していた米軍を郊外に移転させる行動力を示しました.

 12月9日には久茂川北西の軍施設を移動させて,旧市内を開放しました.
 これは戦後最初の軍用地開放で,米軍の発電機により夜11までの制限付きですが,電灯が点りました.
 また,軍用地2キロ以内に集客施設を作ってはならないと言う禁令が,この移転で無意味となり,那覇の旧市内に近い場所に設置許可が出されていた映画館も,建設が再開されました.

 それに先立つ11月21日,民政府は上之山小学校跡地から天妃小学校校舎に移転し,庁舎の西側入口にはフィリピンから戻ってきた円覚寺の梵鐘を吊す事になりました.
 その跡地である上之山小学校跡地に,今度は軍政府が移転する事になります.

 次いでシーツ少将は,4つの民政官府を持ち,4つの独立した行政機関があって,4つの知事がいる現状の統治機構を,不合理だとして行政機構を統一し,比嘉秀平氏を委員長とする臨時琉球諮詢委員会を任命し,那覇市大門前の丸山号百貨店跡を補修した議事堂で任命式を行いました.

 この他,1950年4月12日には,B円の対ドル交換率を50円から120円に上げました.
 これにより軍作業員の賃金は2倍になり,2日後には土地所有権の補償を認め,更に沖縄住民の生活福祉の問題にも熱心で,自らのポケットマネーを投じて母子家庭援助も行っています.
 また,対日貿易も開始され,放送局の開局も認めるなど,前政権から打って変わって,沖縄の雰囲気が変わっていきました.

 そして,朝鮮戦争勃発で世の中が騒然としている7月3日,シーツ少将は各群島の知事と議員の公選を実施する事を発表します.
 知事選挙では,沖縄民主同盟が松岡政保氏を知事候補に祭り上げ,平良辰雄氏,人民党委員長の瀬長亀次郎氏の三つどもえの争いとなりましたが,9月17日の選挙では,平良候補が158,520票と2位の松岡候補に圧勝し,平良新知事が誕生しました.
 平良知事は余勢を駆って社会大衆党を結成して委員長になって日本復帰運動を起こし,軍政府は心穏やかでない情勢となりました.
 また,人民党は此の後,軍政府から『共産党』として敵視する様になっていきます.

 シーツ善政は結局,1950年7月3日に群島政府の機構改革と知事公選の公布をしてまもなく,病気療養のために帰国したために終了します.
 後任にマックルアー少将が着任し,民選の結果を受けて,沖縄民政府は沖縄群島政府となりました.

 マックルアー少将時代は短く,12月12日に帰任,代わってビートラー少将が赴任し,15日には軍政府を琉球列島米国民政府(USCAR)と改称して,民政長官にマッカーサー元帥を推戴し,ビートラー少将は民政副長官となりました.

 ところで,シーツ司令官時代,シーツ善政を称えて,有志の手によって中城城跡公園に記念碑が作られています.
 それはシーツ少将が沖縄戦で戦闘指揮所を置き,日本軍と一進一退の攻防を繰り広げた場所に作られたのですが,朝鮮戦争の折の金属高騰の際に盗まれてしまったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/03 23:21

カマボコ型兵舎


 【質問】
 終戦後の沖縄における,台湾人の国籍問題について教えられたし.

 【回答】
 以前,石垣島には台湾人が多く入植していたと言う話を書きましたが,今回はその続き.

 1945年8月15日,日本はポツダム宣言を受入れ,連合軍との停戦を行いました.
 これにより,日本の植民地であった朝鮮や台湾の出身者は,日本国籍を失うことになります.
 これは,「台湾領有乃至日韓併合が無かりせば,台湾人乃至朝鮮人であったであろう人々の国籍を回復する処理」が為され,「原状回復」が行われたと言う解釈です.
 台湾人の場合は,日本国籍を失うと同時に,中華民国籍を得ることになりました.

 因みに,台湾人が日本国籍を失った時点は,1952年4月28日締結の日華平和条約発効時,1945年8月15日のポツダム宣言受諾時,1945年9月2日の降伏文書調印時の3つの説があって何れも一定していません.

 ややこしいのは沖縄県です.
 以前にも書いた様に,沖縄の場合は,1945年6月23日に米軍の占領下に置かれて「終戦」となります.
 そして,米軍の統治下に置かれた沖縄は,台湾人や朝鮮人などの旧植民地出身者だけでなく,沖縄で生まれ育った県人も日本国民としての法的な地位を失いました.

 八重山諸島では,多くの台湾人が農業労働者として入植地に入って開墾に勤しんでいたり,パイナップル産業に従事していたり,西表の炭坑で坑夫をしていたりしていましたが,戦争の激化で一旦八重山を離れ,台湾に疎開していました.
 しかし,戦争が終わると,台湾では外省人がやってきて原住民や台湾に元から住んでいた中国人と対立し,遂には1948年に2.28事件の様な衝突を起こすなど,余り政治的に安定しているとは言い難い状態にありました.
 そこで,元々生活の基盤を築いていた八重山に戻ろうと,琉球列島との出入国禁止もものともせず,ヤミ船に乗って台湾人移民一世は続々と帰還してきましたし,八重山にずっといて台湾に戻らなかった人々もいました.

 八重山に残った台湾人達の扱いは,「原状回復」の考え方に則って,同じように中華民国籍が与えられました.
 台湾では,敗戦時に海外に渡って台湾にいない人々の戸籍に,「赤線」が引かれているそうです.
 つまり中華民国政府は,彼らを何時でも自国民として受入れる準備があると言う意味でした.

 ところで,1945年9月2日を期して,日本と中華民国との間の国境線が復活した訳ですが,台湾出身者にとっては,「同じ日本である台湾と沖縄の間を移動しただけである」と言う感覚でいました.
 しかし,日本人(と言うかこの時期は沖縄県人か)から見れば,
「日本が台湾を植民地支配していたからこそ,台湾人は八重山に自由に移住することが出来た.
 終戦によって植民地支配は終わったのだから,台湾人は自由に八重山に来ることは出来ない.
 だから,台湾にとっとと帰れ」
と言う感覚を持っていたので,良くこうした台湾移民に「台湾人は台湾に帰れ」と罵られる場面が出て来たそうです.
 勿論,八重山から台湾に移民し,夢破れて引揚げてきた人が多かったのも有ったかも知れません.

 この排斥の言葉は,やがて行政権力として作用することとなり,台湾人達は戦前に石垣町から借りていた土地の返還を求められました.
 元々,契約農業移民として八重山に来て,土地を石垣町から借りて開墾していたのですが,台湾人が外国人の扱いになった今,公有財産を貸付ける訳にはいかないと言う理由でした.
 新たに宛がわれたのは,嶽田地区から名蔵ダムの手前辺りまでに当たるカード地区と言う,石塊だらけの土地であり,一時は生活基盤を築いたかに見えた台湾人達は,再び一から出直しする羽目になっています.

 彼らには中華民国国籍が付与されていると言っても,それは実質を伴わないものであり,また日本国籍も持たない人々でもあった為に,「無国籍者」として扱われていました.
 時代は下りますが,1965年10月に行われた臨時国勢調査に於て,八重山地区には「中国」国籍を持った人々が230名暮らしていました.
 沖縄県全体で「中国」人は940名ですから,そのほぼ4分の1が八重山地区で暮らしていたことになります.
 因みに,当時「中国」は中華人民共和国ではなく中華民国を指します.
 無国籍者は,15歳になると外国人登録をさせられ,登録証を常に携帯する様に求められました.
 属地主義ではない日本では,台湾人の父母から生まれた子供も,中華民国籍,或いは無国籍を選択しなければならず,そう言う意味で理不尽な扱いです.

 そこで,台湾と関わりの深い移民一世は兎も角,八重山で生まれた,或いは八重山で幼少期以降育った二世達には,日本国籍を与えたいと言う考えが強まり,帰化運動が始まりました.
 二世になれば,自然に覚えるのは日本語で,幼少期に八重山に来た子供でも台湾語は忘却して,日本語がメインになっていきました.
 それはまた,親子間でコミュニケーション・ギャップが起きる可能性も孕んでいたりするのですが….

 兎にも角にも,1962年,先ずは4名が石垣在住の台湾人として,日本国籍取得に挑戦することになりました.
 4名と支援の1名は石垣を発ち,2日かけて那覇に辿り着きます.
 那覇では,那覇日本政府南方連絡所で日本国籍取得について相談しましたが,その為の第一条件は,「国籍離脱証明書」の提出を求められました.

 「原状回復」により,中華民国国籍が与えられたと言っても,政策的に日本政府が占領下に入り,台湾が中華民国に戻ったことで付与されただけで,実質的なものは何もありませんでした.
 そこで中華民国政府では,植民地統治下で日本国籍とされてきた台湾人の中国国籍を回復する為,1946年6月に在外台湾国籍処理辨法を公布・施行しました.

 この法律では,台湾人の扱いについて,1945年10月25日以降台湾人は中国国籍を回復するとし,中国国籍回復を願わない者については,1946年12月末までに政府に申し出なければならない,としています.
 政府レベルでは,既にこうした台湾人に対しては,国籍が回復され,しかも政府への申し出が為されていないので,それは有効であると言う扱いでした.

 従って,彼らが日本国籍を取得する場合,中華民国国籍を離脱したことを示す証明書が無ければ,もし日本国籍を与えてしまうと二重国籍の状態が生じると言う訳です.
 結局,彼ら八重山の台湾人達は見事に宙ぶらりん状態になりました.

 因みに,占領していた米軍側は彼らの扱いをどうしようとしていたか,と言うと,1945年12月の米国海軍軍政府本部指令第65号「琉球列島外地域出身の住民」について,次の様にしていました.

――――――
1. 当本部は,琉球列島外地域出身者として,本国帰還を希望している住民の数について,沖縄基地司令部G2より照会を受けている.
2. 地区隊長は,前記に該当する者の氏名及び現住所を調査の上,出来るだけ早急に当本部に報告すること.
 出来れば,本国帰還の希望有無も確認すべきである.
――――――

 これは,在外台湾国籍処理辨法の公布,施行と対応しているのですが,最後の条文ではこう書いています.

――――――
3. なお,この資料は単なる参考の為に要請するものであり,目下の所本国送還の計画はないので,其の旨を関係住民に知らせておかねばならない.
――――――

 いずれにしても,八重山の台湾人は,日中両国の狭間に落ち込んだ人々でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/14 22:10

 さて,八重山の台湾人は,その生活基盤を八重山に築いたことで,日本の敗戦後に与えられた中華民国国籍でなく,日本に帰化するか永住権を得る方向に進みました.
 その為,1962年に先ず4名が日本国籍を取る試みを行いました.

 本来,帰化には中華民国国籍の離脱証明が必要だったのですが,何故か当時の那覇日本政府南方連絡所では,離脱証明が無くとも申請を受け付けることにしました.
 こうして在留許可証明や外国人登録を根拠に,日本国籍付与の審査が始まります.

 その国籍取得の為には,義務教育を修了したことを示す証書類,犯罪歴や触法歴がないことを示す警察の証明書類,預金証明,身元引受人に関する書類,資産証明,諸登録の状況を示す謄本,学齢期の子供の場合は,真面目に学校に通っていることを裏付ける成績証明が必要とされましたが,この他に山積みになるほどの書類と彼らは格闘しなければなりませんでした.

 その頃,学校では既に日本語がメジャー言語となっており,二世の間では着実に日本人化が進んでいましたが,一世には日本語の義務教育を受けた人は少なく,大多数は日本語による教育すら修了していませんでした.
 当時の集落には台湾部落と呼んで良い様な場所があり,その場所にいれば多少日本語が不自由でも暮らしていくことが出来ました.

 日本国籍を申請した4名の内,1名だけは新城国民学校下地分教場を卒業したのですが,その卒業も1945年3月24日で卒業証書もなかった為,日本国籍を取得する為に,同分教場で担任を務めた教員に会って事情を説明し,その教員が同校で彼を教えた事を証明する書類を作成した上で,担任に卒業を証明してもらうという手順を踏む必要がありましたが,残りの3名は小学校卒業の証明もなかった為,那覇から係官に来て貰い,小学校4年生で使う教科書レベルの日本語能力があるの試験を課せられました.

 こうして,1964年7月31日付で申請者4名とその家族,それに親戚も含め22名が日本国籍を取得することが出来ました.

 因みに,台湾人移民一世達の中には無国籍を選んだ人もいます.
 彼らは,身分証明書として日本政府から2種類の書類,海外,つまり母国台湾に行って帰ってくる際の再入国許可書と,八重山で暮らしていく為の在留資格証明書を持たされていました.
 何れも国籍の欄には「無国籍」と記され,再入国許可書には日本側が押した「再入国許可」のスタンプが押されています.
 つまり,日本政府はこうした人々を日本以外の別の地域からやって来た人々として位置づけていました.
 一方,在留資格証明書には,在留期間の更新を許可したことを示すスタンプが,3年ごとに押されていました.

 他方,彼らは中華民国発行の身分証明書も2種類持っていました.
 1つは,中華民国護照,護照とはパスポートのことですが,発行番号にはアルファベットで「X」が打たれ,7桁のアラビア数字が並びます.
 「X」は中華民国政府が在外華僑向けに発行したパスポートを指します.
 また,この護照の身分証明書番号には「NIL」と言うアルファベットが示されているのも特異です.
 但し護照には,「このパスポートを所持する中華民国国民」に保護を与える様求めており,そう言う意味では,此処では彼らは中華民国の国籍保有者として扱われている訳です.
 とは言え,このパスポートだけで台湾に入国することは出来ず,ビザが必要となります.
 このビザは,「琉球僑胞専用」記されているものです.

 つまり,無国籍者となった者達は,「無国籍者」として石垣や那覇から出発し,台湾に到着すると,今度は中華民国国籍を持つ者として中華民国発行のパスポートと「琉球僑胞専用」ビザで入国審査を通過する訳です.
 沖縄に戻ってくると,彼らは再び「無国籍者」として扱われ,3年ごとに在留期間の更新許可を受けねばなりません.

 因みに現在,日本国籍を有していれば,30日以内なら台湾にビザ無しで滞在することが出来ます.
 パスポートの有効期限を確認し,滞在期間が30日以内であることと矛盾しない往復の切符を手配すれば,後は船や飛行機に乗り込めば煩雑な手続きは必要有りません.
 そう言う意味では,無国籍者は非常に煩雑な手続きが必要な訳です.

 沖縄に暮らす台湾移民が,日本国籍の取得を願ったのも無理はありません.

 ところで,現在,外国人参政権について色々言われているのですが,1972年に日本に復帰する沖縄でも同じ問題が生じていました.
 つまり,彼ら台湾人移民には公民権が無かった訳です.
 確かに彼らには国籍はありましたが,公民権を行使する様な権利は満足に与えられて居らず,中には無国籍の者すらいました.

 また,1960年代には八重山のパイン産業の担い手として多数の台湾人が働きに来ていました.
 若い日本人達は,高度経済成長の日本本土を目指して島を出て行き,労働集約産業であるパイン産業にも影響が出ていました.
 若者の郡内の採用枠は僅かに20名に対し,本土からの採用は中卒4,000名,高卒7,000名の空前の売手市場だった訳です.
 従って,賃金の安い労働集約産業であるパイン産業には殆ど八重山の若者は就職しませんでした.

 そこで雇い入れたのが台湾人女工でした.
 台湾はパイン産業の先進地でもありましたから,彼ら労働者も訓練が十分に出来ており,八重山の人々が1個パインを処理するうちに5個以上のパインを処理していました.
 能率が高く,しかも低廉に雇える人々,こうして,彼らは新たな台湾からの移民になりました.
 こちらは,以前の植民地時代からの交流と違い,国境線が出来てからの移民です.
 ただ,彼らも永住許可を取ろうと動いていましたし,従来からの移民の二世達も,日本復帰後に将来の生活を切り拓く為には,日本国籍取得をしなければならないと考えていました.

 丁度,時代も動いていました.
 1970年に入ると,米国と中華人民共和国が国交を樹立し,中華人民共和国が国際舞台に躍り出る可能性が強まったのです.
 これは取りも直さず,中華民国が国際舞台から追放される事に繋がるのでした.
 この状態では,中華民国国籍は何の役にも立たないかも知れないと移民達が考えたのも当然のことです.

 石垣市議会では,1970年4月3日の定例会で,八重山在住の台湾人二世,三世に永住権を認める様に求めた決議「八重山在住台湾出身者の身分処遇について」の議決を行っていますし,石垣島から出た1人の帰化した中学生が,"The immigrants and citizenship."と言う表題で,高松宮杯全国中学校英語弁論大会で2位となった実績もあり,帰化や永住権取得運動が盛り上がって行きました.

 しかし,国籍取得には障害がありました.
 日本政府が,1962年当時は中華民国国籍の離脱証明が無くても,日本国籍取得が認められていたのですが,その後,国籍離脱証明が無ければ,日本国籍を認められないと言う態度に変化していたのです.
 これが変わるには,国際情勢の変化を待たねばなりませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/15 22:50

 さて,石垣に渡った台湾人移民は,1970年頃から日本への大量帰化を申請します.
 台湾からの移民は,パイン加工に極めて重要な役割を担い,その労働力確保もあって,石垣市は彼らの帰化を支援しました.
 しかし,1964年に初めて帰化をした時に比べて,日本政府の方針は変わり,国籍離脱証明書が必要になりました.

 そこで,日本への帰化を支援していた石垣市議達は,中華民国当局に直談判に行きます.
 中華民国側は,台湾の人々が渡っている事は知っていましたが,彼らが日本国籍を取得しようとしていることは知らなかった様で,その事を知ると顔色を変えました.

 勿論,国籍離脱証明書を発行するのにも強硬に反対しました.
 彼らの論理は「国を守る為に若者が必要であり,若者をどうやって国外に出さない様に出来るのかと必死になっているのに,国籍離脱などとはとんでもない.」と言うもので,逆に「彼らの大半は中華民国籍を持っているのだから,若者は民国に返してくれないか」とまで言われる始末.
 結局,話し合いは不調に終わります.

 しかし,二世,三世は既に日本語で生活しており,既に八重山に生活拠点を持っています.
 従って,今更台湾に戻るのは非現実的です.
 因みに,この頃台湾では,「毋忘在呂(実際には草冠に呂)」と言う標語が町中に溢れていました.
 これは中国の戦国時代,現在の山東省呂県に当たる呂の国で再起のタイミングを狙っていた武将が,70余城を取り戻すのに成功したと言う故事に因んだもので,「呂」と言うのは台湾,「70余城」と言うのは中国本土を指す訳です.
 つまり,大陸反攻の為にも中華民国政府は,兵士や国民を確保しなければならない台湾にとって,在外華僑の帰化など以ての外だったのです.
 市議達は,直談判を諦めざるを得ませんでした.

 ところが,1971年10月25日に国際情勢が転換し,中華民国政府の姿勢も転換せざるを得なくなります.
 この日の国連総会で,中華人民共和国を招請し,中華民国を追放する通称「アルバニア決議案」が賛成多数で可決され,中国の議席が中華人民共和国に取って代わられたのです.
 この事実を受け,中華民国政府は,これまでの姿勢を転換し,国籍離脱証明書の交付に転じました.

 これは国際社会が,「在外中国人の国籍は中華人民共和国だ」と解釈を変更してしまい,在外中国人が総て中華人民共和国となるのではないか,と中華民国政府が強い懸念を抱いた事が挙げられます.
 在外華僑が一斉に中華人民共和国国籍に変更されてしまえば,中華民国の国力は大打撃を受ける事になり,例えば石垣島の中国人が中華人民共和国国籍となれば,ほんの近くに大量の敵国人が存在し,そこを根城に台湾に浸透をかけてこない友限りません.

 そうなるよりも,第三国の国籍取得を認め,中華人民共和国の影響力を削ぐ方が得策だという判断が中華民国当局に働いたと考えられます.

 10月30日の土曜日,国籍離脱証明書交付を認めるとの連絡が八重山華僑会に入りましたが,月曜には申請書類を東京に送らねばなりません.
 石垣市役所では,土日閉庁にも関わらず,日本国籍の取得を希望する台湾人200名に対して関係書類を作成し,台湾人達はこうして入手した国籍離脱証明を添付して日本国籍の取得を申請し,1973〜75の3年で178名が日本国籍を得ることが出来ました.

 その国籍選択は,彼らに様々な影響をもたらしました.
 一世の老人は中華民国国籍のまま,二世,三世の若手は日本国籍を取得した一家では,一家そろっての食事の際,一世の老人がこう言ってからかったそうです.
「あんたなんかはみんな日本人,私だけ台湾人」

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/16 23:16


 【質問】
 沖縄の本土復帰運動が変質していったのは,いつ頃から?

 【回答】

 保守系の元県議によると,沖縄で本土復帰運動が一段と強まった昭和38年ごろから,全国的に展開されていた安保闘争の高まりが波及.
 「沖縄を階級闘争の拠点に」と訴える活動家たちが参入し始め,このころから変質していったという.

 たとえばそのころから復帰協は,
「米軍が沖縄基地を原水爆基地化しているため,極東の緊張が作り出されている」
として,原水爆基地の撤去を求め出したという.
 また例えば,ベトナム戦争激化に伴い,軍事基地反対が盛り込まれていったという.
 さらに,あと少しで祖国復帰というメドがついたときから,「日の丸を掲揚しないように」とする指示が来たという.

 前出の元県議は,彼らが沖縄を『最後の砦(とりで)』と口にしていたのを覚えている.

 少なくとも12012.4.20付け産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120420/plc12042012520020-n1.htm
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/557700/
は,そのように報じている.

 ただしもちろん,産経新聞一紙だけの情報では心もとない.
 上記報道を裏付けるような資料は,何かあるだろうか?

 では当時のそうした活動家側の発信情報を見てみよう.

 たとえば
「進む本土の沖縄化 −沖縄の日本復帰とは何だったのか 2012年 5月 21日 時代をみる 岩垂弘 沖縄」
<岩垂 弘(いわだれひろし):ジャーナリスト・元朝日新聞記者>
(キャッシュ)
では,次のように述べられている.

------------
 沖縄の人たちは,なぜ日本への復帰を目指したか.
 まず,沖縄の住民もまた日本人だから,親のふところに戻りたい,という意識だった.
 次いで,頻発する基地公害と米軍による人権侵害から逃れたいという願いだった.
「日本には,戦争と軍備を否定した平和憲法がある.
 だから,日本に復帰すれば,米軍基地もなくなるだろう」
と考えたのだ.

 したがって,復帰協が掲げたスローガンは,「即時無条件全面返還」だった.
 つまり,施政権の日本返還にあたっては,何ら条件をつけることなく,全面的かつ直ちに返還すべきだ,というわけだった.
 具体的には,沖縄にあるすべての米軍基地を撤去し,核兵器も引き揚げよ,という要求であった.
 復帰協は,こうした復帰のありようを「反戦復帰」と呼んだ.
 本土の革新陣営(社会党,共産党,日本労働組合総評議会=総評など)も,こうした復帰協の運動に呼応し,沖縄返還運動に取り組んだ.

 [中略]

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
------------

 また,中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題二十年』(岩波新書,1965)
(孫引き引用元はこちら)
によれば,以下の通り.

-------------
P102
 各大学や職場に数多くの「沖縄を守る会」が誕生した.
 自民党の沖縄問題対策特別委員会(委員長野村吉三郎)と,社会党の軍事基地対策委員会(委員長加藤勘十)は,沖縄問題に関する協議をくりかえした.沖縄問題解決国民総決起大会の主催団体は,沖縄問題解決国民運動連絡会議(沖縄連)を結成した.」

⇒しかし,運動の退潮・衰退.

P102-105
 第一に,この運動の奇妙な超党派主義に問題があった.
 それは本質的に運動の味方に変質しえない運動の妨害者まで含むという意味では,無差別超党派主義であり,共産党を排除するという意味では,反共超党派主義であった.
 この点が,沖縄の超党派主義と基本的に異なっていた.
 […]
 沖縄問題解決のイメージは多様であり,必ずしも沖縄返還国民運動の方向ではなかった.
 自民党は[…]組織の内部に共産党系の団体(全学連など)が存在していることを理由に,沖縄連を脱退した.
 こうして,沖縄連は,いわば,社会党=総評系の団体としての色彩を強めていった.

 第二の問題は,革新勢力の間で,沖縄の土地闘争が本土の基地反対闘争とまったく同一のものである,と理解されたことである.
 […]
 沖縄の基地反対闘争は,なによりもまず,この民族の分断と政治的支配に対する闘い,つまり祖国復帰運動でなければならない.土地闘争も,そのような性格をもっていたことは,これまでにみたとおりである.
 だが,本土の,革新的で指導的な立場の人ほど,沖縄の基地問題の特殊性を理解しようとしない傾向があった.
 […]
 "民族"という言葉のニュアンスは,沖縄側と本土の革新勢力では,やや異なっていた.
 本土の革新勢力の間では,民族分断の痛みを感じないまま,ただ観念的にだけ,沖縄基地反対のスローガンをかかげる傾向があった.
 それは沖縄側の感覚とも,さきにみた多くの本土の民衆の感覚ともズレていた.
 […]
 たとえば,
「沖縄の教員は言いたいこともいえず,その表情はつねに暗い」
という話があると,この人たち[本土の進歩的で意識が高いといわれる人たち]は,大いにうなずいて,
「日本でもまったく同じなのです」
と答えたという.
 […]
 はたして問題は,本質的に同じだったのだろうか.
 話をする沖縄側の教員は,なんともいえぬもどかしさを感じたという.
 革新勢力の公式的な本質還元主義とでもいうべきものが,沖縄問題を基地反対闘争一般のなかに押し込み,沖縄返還運動の発展をはばんだ第二の原因であった.


P106
 上京した沖縄代表団は,祖国政府の冷笑さと,一般国民の強い激励と,革新勢力に対するもどかしさを噛みしめながら,沖縄に帰っていった.
------------

 以上の記述から考えるに,少なくとも
1) 活動家たちが参入し始め,
2) 原水爆基地の撤去を求め出した
ことは確かだったようである.

軍事板,2012/12/12(水)
青文字:加筆改修部分


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