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(画像掲示板より引用)


 【link】

「Togetter」◆(2011/03/07)NHKスペシャル「こんな(開戦経過)の絶対おかしいよ」そしてループ世界へ

「Togetter」◆(2011/03/07)日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第4回 開戦・リーダーたちの迷走 周囲の感想

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-28)[文藝] 「ざまぁー見ろ,と辰野隆」考
>太平洋戦争開戦後,辰野隆が「あの十二月八日の朝,感じたことを一言で言いますと,ざまぁ見ろです」と


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 【質問】
 どのように開戦は決定されたか?

 【回答】
 昭和16年9月6日,御前会議で「帝国国策遂行要領」の決定を見,日本は一気に戦争へと突進するのであるが,外務省側から見た「御前会議」は,いかにも杜撰であった,という.

 松岡外相の秘書官を務めた加瀬俊一氏の「日米交渉」に,次の一節がある.
「9月6日の御前会議に至っては,沙汰の限りである.これほどに民族の運命に関する重大決定が,深い省察もなく軽軽に採択されたのは,常識ではとうてい考え難い.
 豊田(外務大臣)は御前会議の僅か一両日前に,書類を見ただけで決定に追い込まれたのだと語り,全く軽率だったと告白したが,無責任,驚くほかない.
 近衛の責任も問われねばなるまい.後日,木戸侯爵から聞いたところによると,この種の重大国策も,政府・統帥部で決定を済ませた後で,初めて宮中に形式的連絡があるのが習慣なので,事前には手の打ちようがなかったと言うことである.
 それだけ首相の責任は重いわけである」
 近衛首相の不決断が,陸軍の主張を押し通させた,ということである.

(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.27-28)


 【質問】
 日本は,なぜ不合理としか思えないアメリカとの戦争を選択したのか?

 【回答】
 それが最も生き残れる確率が高いと信じたから.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

 日本の視点からすれば,日本が戦争に向かうことは完全に非合理というわけではなかった.というのも,日本の見るところでは,それは最も悪くない選択肢だったのである,
 もしドイツがイギリスを破り,奇襲攻撃を受けてアメリカの世論が揺らげば,交渉による和平の道もありえた.
 根拠薄弱な日本の指導者のムードを,塚田攻陸軍参謀次長は次のように表現している.

「全般に,開戦の場合の見通しは明るくない.平和的解決の道はないかと,皆が考えている.
『心配するな,たとえ戦争が長引いても全ての責任を取る』
と言える者は,どこにもいない.
 他方,現状維持は不可能である.
したがって,不可避的に,開戦やむなしという結論に達するのである」

 もとより,日本には中国と東南アジアでの侵略を改めると言う選択肢はあった.
 だが,それは拡張主義的,好戦的な見解を取る軍部の指導者たちには考えられないことであった.
 かくして1941年12月7日に日本は真珠湾を攻撃したのである.

 ※ 真珠湾攻撃は日本時間では12月8日

 まぁ・・日本らしいと言えば日本らしいかも知れない.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
「日本海軍はアメリカとの戦争を避けるつもりだったが,陸軍が押し切った」
と聞きました.
 陸軍はどうやって海軍の決定に関与したんでしょうか? 人事交流とかを利用したのでしょうか?

 【回答】
 1941年7月2日の御前会議で「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が審議決定され,武力南進論および北進論の路線が明確に打ち出されます.南進論について,海軍に関しては,6/5に海軍の中堅層が中心となって作成された「現情勢下において帝国海軍のとるべき態度」という文書が下敷きになっているものと考えられます.
 その後,7/31には軍令部総長が天皇に拝謁し,石油問題の関係から,この際打って出るほかなしとの上奏を行っています.
 その一方で,1940年11月には対米英蘭戦を見越した出師準備第一着作業が始まり,41年8月にはその第二着作業が行われ,9月には戦時編制に移行しました.
 また,時間が前後しますが,8月16日の陸海軍局部長会議において,海軍側は,対米交渉が10月中旬までに妥結しない場合には,対米戦を開始するという骨子の「帝国国策遂行方針」を提出します.
 この時期までには,海軍は完全に対米戦を決意していたと考えてもよいでしょう.

 それのほぼ一年前には,陸軍との合同作戦研究において,海軍は対米戦争の回避を主張しているわけですが,特に蘭印との交渉の失敗,米国の対日石油禁輸措置などの外因や,部内の対米積極論者などの影響を受けて,対米戦に積極的になっていくわけです.

 このあたりの海軍の動きについては,中公新書の「日本海軍の終戦工作」(纐纈厚)など読むとよいと思います.入手しやすいですから.


 【質問】
 天皇陛下は戦争反対だったの?

 【回答】
 開戦について議論していた御前会議で,明治天皇の
「四方の海 皆同胞と思う世に など波風の 立ちさわぐらん」
という短歌を口にし,開戦には反対の意思を伝えたエピソードは有名ですが.

 つーか昭和天皇が避戦派だったのは,語録調べれば歴然とした事実なんだが.
 市販でいくらでも手に入るぞ.ちと高いが(笑)

 対中・対米共に,
「如何に早く停戦に持ち込めるか?」
を度々下問なさってるし,上の和歌のエピソードも有名だね.
 ただ,天皇機関説に従い,あまり政治の方向性を決めるような発言をなさらなかった.
 その先を決めるのは内閣であるから,御自身は賛否いずれにしても踏み込んだ発言をしようとなさらなかったのだよ.
 本心は別にしてね.

 開戦を主導した,というのは完全に間違い.


 【質問】
 昭和天皇は大東亜戦争を止めることはできなかったのですか?

 【回答】
 昭和帝はイギリス留学で立憲君主制に感銘を受け,立憲君主たろうと努めていた.
 明治憲法下でも天皇の権利範囲は制限されていたのだから,完全に立憲君主制ではあるのもの,広範な天皇大権が帝国憲法の特徴だった.

 しかし
ながら,これを民意を無視して行使しなかったのが,明治帝以降の姿勢.
 昭和天皇だけの特質ではない.
「君臨すれども統治せず」
は,日本皇室の専売特許ではないが,伝統的姿勢.

 だから,時折苦言を呈す以上のことはしなかったし,当時の軍部はその程度でどうにかできるものではなかった.

戦争・国防板,2008/09/29(月)
青文字:加筆改修部分

 一方,日本現代史研究家・大杉一雄は,天皇が拒否権を発動すれば,戦争を止めることは可能であったとする見解を述べている.
 なぜなら戦前の憲法学会の通説でも,また天皇機関説の立場をとっても,天皇には拒否権があったと見なされていたからだという.
 ではなぜ拒否権を天皇が行使しなかったのかといえば,
・それを行使することによってクーデターが起きることを恐れていたから
であり,また,
・有能な輔弼者に恵まれなかったから
だとしている.
 詳しくは『日米開戦への道』下巻(講談社学術文庫,p.298-329を参照されたし.

「軍の最高司令官としての天皇」

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 東條英機が対米戦争を回避できなかったのは自業自得だ,ってどこかで読んだのですが(スイマセン書名はよく覚えていません),これってどういう意味なんでしょうか?

▼ 【回答】
 対米交渉が先行きが見えない段階で,陸軍参謀総長だった東條は,対米戦はないだろう,あっても陸軍はそれほど兵力を出すつもりはない…という認識なのに,面子の問題もあって,むしろ対米戦を煽るような発言をしていた.
 対米交渉が先行きが見えない段階で,第2次〜第3次近衛内閣の陸軍大臣だった東條は,対米戦はないだろう,あっても陸軍はそれほど兵力を出すつもりはない…という認識なのに,面子の問題もあって,むしろ対米戦を煽るような発言をしていた.▲

 対米交渉が暗礁に乗り上げそうだとなった時に,近衛は内閣を投げ出した,
 昭和天皇は,近衛の後任として,東條に組閣を命じた,
 もちろん,昭和天皇の意向としては,対米戦は回避.
 敢えて,対米戦について勇ましい発言をしていた東條を指名したのは,東條なら天皇の対米戦回避の意を受け止めてくれるという忠誠心を買ったものであり,むしろ東條を首班にすることで,陸軍内の対米強硬派の意見を抑えることが容易になると踏んでのことだった.

 まあ,取りあえず,天皇にそういう風に見込まれた身としては,取りあえずは,対米戦を回避する線で努力はせにゃならんよな.
 その時点から,果たして対米戦を回避できたかどうか,という点については,いろいろと意見,諸説があるだろうが,結局は,史実としてはgdgdな交渉・検討経緯によって,対米戦へと流れていってしまったわけだけどな.

 ともあれ,組閣を命じられた経緯と,本人の意志,天皇の言葉を実現できなかったという事実からすれば,まあ「自業自得」とも言えるんじゃないかい.

軍事板,2010/04/19(月)
青文字:加筆改修部分

▼ 東條が参謀総長を兼務するのは昭和19年ですね.

ぴぴ in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年06月07日 12:54
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東條英機は戦争を止めようとしていたと,東条英機の孫娘がテレビに出てきて説明していましたが,これは軍事オタク的には常識なのでしょうか?
 また歴史認識上,広く認められている解釈なのでしょうか?

 【回答】
 広くは認められていないが,1941年9月に首相を拝命してから11月の御前会議で開戦に決定するまでの間の 期間限定として,太平洋戦争を止めようとしていたのは当たっています.
 ただ,それ以前の彼は陸軍の開戦派として,さんざん煽って来ていた訳ですから,一貫して開戦に反対していた訳では有りません(むしろ真逆).
 それまでは,自分に責任が無いものだから,イケイケゴーゴーで開戦論を推進していた訳ですが,いざ自分が責任を取る立場に成ったらビビッてしまった,と言った所です.

 宮中としても,開戦派の第一人者を首相に据える事により,開戦派を押さえ込む最後の砦としたかった様ですが,全体の潮流を押し止める事は叶いませんでした.


 【質問】
 日本の軍部に,対英米戦に勝利する見通しはあったのか?

 【回答】
 確固たる見通しがあったわけではなかった,と山田朗は述べる.

------
 参謀本部も開戦を前にして,1941年9月6日の御前会議説明資料においても,
> 対英米戦争は長期大持久戦に移行すへく,戦争の集結を予想することは甚だ困難にして,特に米国の屈伏を求むるは先つ不可能と判断せらるるも,我南方作戦の成果大なるか,英国の屈伏などに起因する米国輿論の大転換に依り,戦争終末の到来必すしも絶無にあらさるへし(参謀本部編「杉山メモ」上,p.322)
などと,自力でアメリカを降伏させることが不可能なことを認めた上で,イギリスの脱落に伴うアメリカ国内の非戦論高揚に期待していた.
 そしてそのために,大陸・南方を結んだ自給自足経済を基礎とした「不敗の体制」を築いて情勢の好転を待つ,というのである.
 結局,アメリカ打倒の決め手もなく,ドイツがイギリスに遠からず勝利するであろう,という観測が戦略の基礎に据えられていたのである.

 陸軍はドイツの軍事力を過信して,強気に開戦論をリードしたが,内心では対米戦は海軍任せの意識が強かった.
 また,「長期大持久戦」を予想しつつも,これから突入しようとする戦争がどのように展開するのか,とりわけ,持久戦段階の戦争のあり方について構想があるわけではなかった.
 対ソ攻勢作戦の研究蓄積しかなかった陸軍にとって,海洋・島嶼や遠隔地での持久戦など,全くイメージが沸かなかった.

 さらに,日本軍には広域・持久戦の準備がなかった.
 これは,日露戦争で確立した軍事思想に陸海軍が強く拘束され,将来の戦争に対する柔軟な洞察力を欠いていたことを示している.
 日本海軍は艦隊決戦(航空主兵論者は,航空戦力のみによる艦隊迎撃),陸軍は歩兵部隊の機動による攻勢作戦という「決戦」の<型>に拘る余り,現実の戦争の中から戦い方を構想するのではなく,戦争が思い通りの<型>に当て嵌まるのを待っていたと言える.
 いつしか自らのシナリオ通りの戦争に持ち込めると思いながら,当面の戦線の維持と急場凌ぎに終始したのである.

 陸軍に下駄を預けられた海軍にしてみても,長期戦の行方を洞察できず,海軍航空隊の好調な演習成果などから,「今なら勝てる」と戦術的判断を優先させた.
 軍事力バランス崩壊の危機感と,開戦しなければ石油は2年余りしかもたないという「ジリ貧」論が,死中に活を求めようという有力な根拠となった.
 備蓄石油で2年くらいは戦えるが,石油の全面禁輸から4〜6ヵ月以内に開戦すべきだ,というこの判断は,海軍が1940/5/21に行った対米図上演習研究会で出した結論である(戦史叢書65「大本営陸軍部・大東亜戦争開戦経緯(1)」,p.368-369).
 いわば図上演習の結論が,国策の決定を左右したわけで,軍事専門家の技術論・戦術論が,開戦論を協力に牽引したと言える.

------------山田朗「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.221-,抜粋要約

 また,次のような話もある.

------------
 東京裁判のときに連合国側の新聞記者達が東条英樹に,どう計算しても日本の勝利という結果は出てこないのだが,日本は真珠湾攻撃を仕掛けてきたのだからどのような勝利の目算をしていたのか教えて欲しいといったところ,東条英樹は
「人間一度は清水の舞台から飛び降りることもある」
と答えた.
 つまり,当時の軍部にとって勝利の計算は全くできていなかったのであり,それは無謀というより自殺に近い戦争であったともいえる.

 アメリカ人やヨーロッパ人にとっては,勝算なき戦いとか,「一矢を報いる」といった日本人的美学は通用せず,あくまでも負ける闘いはせず戦争は勝つ計算のもとに行うといった,合理主義がその根底にある.
 これは現代の日本人やアメリカ人のものの考え方のなかにも現れることがある.
 アメリカ人と話していて,どうしても理解してもらえない言葉に「出たとこ勝負」がある.綿密な計算をして事に臨んでもしばしば例外的なことが起こるのだから,最初から細かいことに拘らない方がよいという日本人の考え方である.

------------京都産業大学教授 ・須藤眞志「『錯覚』この恐るべきもの」

 上層部でさえそうであったから,まして第一線部隊では以下のような有り様だった.

------------
 うちのじいちゃん曰く「勝てる勝てないなんて考えてる余裕なんかなかった」そうだ
 開戦時に某駆逐艦に乗ってたんだが
「うわぁアメリカにイギリス,オランダと戦争かよ・・・ああどうしようどうしよう・・・
 どうやったら勝てるんだろ・・・頑張るしかないか・・・でも・・・くぁwせdrftgyふじこlp;@」
とまあ,後から聞いたらどう見てもパニック状態だ
 でやっぱり,昭和19年ごろになると
「これはもう駄目かも・・・いやこんな事考えちゃいかん,考えたら負ける」
って風にさすがに変化してたらしいが.

-------------(生活板)

編者

 しかし一方で,昔,大学図書館の貴重本の本棚に,どうして日本はアメリカとの戦争に勝てるのかをトピックごとに延々と書いた,戦前の本を見たことがある.
(タイトルは忘れたけど).
 たしか,トピックごとに理屈をならべて,だから日本はアメリカに勝てるを延々と繰り返した内容だった.
 しかも,ご丁寧にどこそこの軍人の書道(たぶん戦争に勝つとかいう内容のこと)が付録として本についていた.
 「マガジンの付録にあるギャルのポスターじゃないんだからさー」と思わずにはいられなかった.
 戦争中に,こんなノリでアメリカとの戦争をとらえていたのかと思うと,変な気分だった.

 ちなみに,その付録が折り曲げられていたので,それを広げようとしたら破けた.
(図書館のみなさん,ごめんなさい)

うろぼろす:軍事板,2001/02/01(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 山本五十六が近衛文麿との会談で対米戦の勝算を聞かれ,
「やれと言うなら1年や2年は暴れまって見せますが,その後は分かりません」
と答え,近衛がこれで
「1年はやれるのか」
と開戦を決意したと伝えられます.
 井上成美は
「近衛さんなんだから,ハッキリとできないと言えばよかった」
と言っています.
 近衛はそこまで愚鈍だったんですか?

 【回答】
 近衛と山本の会談で言われたとされる有名な言葉だが,山本元帥の御子息曰く「近衛の創作」らしい.
 元帥はあとからこの話を聞いて,
「近衛さんは自分に都合の良いように話を変える」
と言って怒っておったそうだよ.

(レス1)

 山本五十六は
「アメリカを相手にしても,一年か二年ならなんとか闘える.
 しかし,それ以上は日本の国力が持たない.
 アメリカは一年や二年で戦争を止めるような国ではないので,アメリカと戦っても絶対に勝てない.
  なので,政府には戦争回避に全力を尽して欲しい」
 といったのに,近衛文麿は最初の部分だけを引用して
「海軍はアメリカを相手にして二年は戦える,と言っている.
 例え開戦が避けられず戦争に突入しても,その二年の間に和平の道を探れる」
という風に語って回った.

(レス2)


 【質問】
 太平洋戦争で,『開戦回避による無条件降伏(奴隷化)』というのをよく聞くんですが,どうして開戦回避=無条件降伏=奴隷化になるんですか?

 【回答】
 奴隷化とはならなかった可能性も高い.

 アメリカの主張してた「機会均等」ってのは,当時のあの国の基本方針で,例えば中東でも石油利権を巡って英国とガチでやり合ったりしてる.

 よって,中国関連で適当にパイを与えてやれば,あっさり引き下がった可能性も高い.
 試してみる価値はあったと思うんだがね.


 【質問】
 以前NHKか何かで,太平洋戦争中,日本はある一人の情報を元に戦争を始めたって言う話があったけど,本当なんですか?

 【回答】
 大島浩駐ドイツ大使の事かな?
 ヒトラーと仲がよく,ドイツ有利・イギリス&ソ連降伏寸前の秘密電報を東京へ打ち続けました.
 それを聞いて,東京では,東南アジア権益までドイツに持っていかれるのでは?ぐらいにドイツの勝利を確信し,対英米戦開始へ傾斜していったといわれています.
 ヒトラー情報でドイツのソ連侵攻を事前に秘密連絡しことにより,大島電報は東京では信頼度が高かったそうです.
 しかし,皮肉にも真珠湾攻撃前後に,モスクワでソ連軍の反撃が始まった記憶があります.
 さらに,大島暗号電報は,実はアメリカに全部解読されてたそうです.
 アメリカも独ソ戦を当てた大島電報に関心が高かったそうです.
 途中で釈放はされましたが,東京裁判でA級戦犯として終身刑です.

日本史板,2003/05/09
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 あの時代の日本は,開戦するにせよしないにせよ破滅が待っていたのでしょうか?(´・ω・`)

鳥取の赤い雨

 【回答】
 ドミニク・リーベンが述べていることですが,明治維新の元老達が政界から去り,国内と国外の利害をうまく調整できる人間がいなくなったのが,問題の本質ではないかと.

消印所沢

 もはや昭和期において,有力に活動できる元老院は西園寺翁だけになってしまい,国内の利益と国外の利益を調整するための機関を失ってしまいました.(軍部とも)

 元老院が活動できた時代は,軍部からの突き上げも抑制できたのですが,元老院に力がなくなったので,統帥権やらを持ち出したときに,それを抑制できなかったわけですね.

ますたーあじあ

 根っこの部分の国力差は圧倒的なものがあるわけで・・・
 日本という国の立地条件を生かして,立ち振る舞えば何とかなったのかも知れませんけど・・・
 そういう外交センスを持った人材が,なぜか昭和初期の頃には居なくなってたよーな.

seld

 すでに日比谷焼き討ち事件のあたりから,ボタンの掛け違いは発生していたような.

 太平洋戦争の開戦は,決して突発的に発生したものじゃないんですよね.
 もちろん,最終的に開戦の引き金を引いた者達には相応の責任がありますが,それ以前からのさまざまな流れがあって「開戦やむなし」に至っているわけです.
 そのことを無視して開戦当時の責任者や軍部 だけを悪者にしていたのでは,有意な議論にはなりません.

井上@Kojii.net

 まぁ,直接的なリンクをたどっていくと,やはりヴェルサイユ条約に問題があったんじゃないでしょうか?

 太平洋戦争は,他とのリンクを見ないと全容が見えない気がします.

ますたーあじあ

 そういえば秦教授が話してたなあ.
 ベルサイユの頃に近衛文麿が
「日本が米英の次なのはおかしい! 日本は世界一ィィ!!の国」
と言い出したけれども,昔(明治)なら
「やっと米英の次の国なにれた,よかったね」
で済んだはずのものが,ベルサイユの頃になるとそういう感覚が薄れていた,と

島の人

「我がァ,大日本帝国は世界一ィィィ出来ん事は無いィィィィ!!」
と近衛さんが思ってた件について.

 やっぱりナポレオンも負けたロシアに,引き分け同然とはいえ,勝ちを収めた事が大きいみたいですね.
 かといって負けたら悲惨な事になってたろうから難しいところですね.

ちょこらーた

 近衛は,どっちかというと,軍部を制御できなくて,表面上強硬論を唱えただけかと・・・.
 だって,日米交渉でも,アメリカ訪米まで真剣に検討していましたから.(船まで用意していた)
 というか,あの人,西園寺翁に嫌々総理やらされたというイメージがありますね.

 「対手とせず」発言も,軍部の突き上げの結果じゃないのかなと.

ますたーあじあ

 ほんとにギリギリの,きわどいところで日露戦争に勝ったんだという認識を国全体で共有できずに,
「皇軍不敗」
「日本は世界一」
みたいな考えだけが広まってしまったのが,その後の歴史に影響したのだとしたら,実に困りものです.はい.

 やっぱり,リアリズムはいつの世にも必要なんですよ.
 いや,「自衛隊を引っ込めないと日本が焦土になる」とかいう類のリアリズムじゃなくて (爆笑)

井上@Kojii.net

 自称リベラル右翼の私としてはバランスかなぁと.
 まぁ,私のリベラルは「ナイ教授のリベラル」にほぼ限定ですが(笑).

 リベラルと言えば・・・.
 アメリカ・・というかウィルソンがそのままヨーロッパの安全保障にかかわり続けていたらどうなっていたでしょうね?
 少なくとも,フランスのルール地方占領はなかったと思いますけど,大恐慌以降どうなるか,これは読みにくい.

 でも,ヒトラーがあそこまで強力に台頭することはなかったような(する余地がなかった)気がします.
 ルール地方の占領が,伍長閣下に「我が闘争」を書かせるきっかけとなったそうですから.
 それに,ウィルソンは最後までヴェルサイユ条約でドイツに過大な賠償金を払わせることに反対していましたし.

 彼は現実を把握する能力が欠けていたのかもしれませんが,少なくともヨーロッパの安全保障に関わり続けていれば,第二次世界大戦は起きなかったのかもしれませんね.

ますたーあじあ

 黒野耐氏の「たらればで読む日本近代史」(里子に出してしまったので題名はうる覚え)では,日露戦争に勝った事が根本的な原因.

 で,Harrimanとの共同経営を小村寿太郎が引っ繰り返して米国の経済界を敵に回し,朝鮮併合で更に米国を政治的に刺激し,第一次大戦で火事場泥棒的に中国権益を獲得しようと対華二十一ヵ条要求を出して,英国,米国の恨みを買い,山東出兵などの中国への出兵を繰り返して,更に疑心暗鬼を買い,遂には米国では排日世論が沸騰し,英国との同盟は破棄され,それでも気にせずに満州事変を起こし….

 事此処まで至っては修正不可能.
 それ以後は,何をやっても米国とか英国との戦争は回避出来ず,其の儘ずるずると….

 結局,日露戦争まで行き着いてしまう訳で.
 もし,勝ったのではなく痛み分けというのが国民に浸透していれば,少なくともその後の歴史は変わっていたんじゃないか,と.

 そう考えると,まともな言論人を養成してこなかったのが日本の限界だったりして.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 その場しのぎの方便の引っ込みが付かなくなった挙げ句,己をも騙くらかすようになったのは何故なのかだが.

丼炒飯

 日露戦争後って
「勝ったんだから沿海州まで日本のもんだもんね!」
とかガチで思ってた人とかいたしね・・・

島の人

 日露戦争に関しては,バランス・オブ・パワーの面で,キッシンジャーがアメリカの立場から分析していました.

 日露戦争までは,極東においてロシアが脅威だったけど,日露戦争後は,日本が極東におけるバランス・オブ・パワーの脅威になったと.
 でも,ジョージ・ケナンは,日本を満州から追い落とした後のことを考えていなかった,と批判しています.
(これはルーズベルトへの批判かも知れませんが)

ますたーあじあ

 佐藤大輔氏の小説で,確か,タイムマシンが発明された後の事.
 ミッドウェー直前の利根のカタパルトを修理しようとした連中が,片っ端からタイムパトロールにつかまる っていう下りがあって吹いた記憶が(笑)

 小説だと,無理矢理勝てるように強引に修正するか,かなり前から流れそのものを修正するかに分かれる感じですね.
(中島の工場に大量のインゴットを置いた,リトルグレイ…なんて小説まであったのはさすがに頭痛が)

 上記の佐藤大輔氏の小説(『レッドサンブラッククロス密書』)は,一足先に貿易大国に変貌して戦力を蓄える という感じだったかな.

ちくお

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より


 【質問】
 これって本当?

――――――
日米戦争は人種偏見が原因だった!?

 アメリカの人気映画俳優・トム・ハンクスさんは,映画監督のスティーブン・スピルバーグさんと共に制作した映画「ザ・パシフィック」に関する「タイム」誌のインタビューで
「太平洋戦争は日米両国民の人種差別思想が原因」
と断じ,さらにアメリカの日本人に対する人種偏見が,太平洋戦争の原因と評しました.
――――――

 【回答】
 いや・・・全部間違ってるんですが・・・.
 そもそも太平洋戦争の原因は,中国を侵略した日本と,当時の中国を支援していたアメリカとの対立が原因で,経済的要因でもなく,まして人種差別は関係ありません.
 強いて言うなら中国への利権争いの結果なのでしょうけど,人種差別はないなあ・・・.

 一方,これを批判している著名な軍事史研究学者のビクター・D・ハンソン元カリフォルニア州立大学教授の解説も間違っています.

 以下引用.

――――――
「太平洋戦争の原因はあまりに多様なのに,人種的敵対が最大要因だと主張するのは幼稚にすぎる」
と述べ,第一次大戦や日露戦争では日米両国の仲が緊密だった歴史を強調した.

――――――引用終了

 日米関係が緊密だったのは,明治維新から日露戦争までです.
 アメリカのユダヤ系投資銀行「クーン・ローブ商会」のヤコブ・シフは,2億ドル(現在の1兆円)の日本国債を引き受けています.
 これはヤコブはユダヤ人で,当時ロシア帝国ではポクロムと呼ばれるユダヤ人迫害・虐殺が横行しており,同じユダヤ人として,ロシア帝国と対峙する日本を助けたいという思いがあったからです.
 シフの国債引き受けのおかげで日本は日露戦争に勝利したと言っても,過言ではないでしょう.
「ヘブライの館 2」
「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏
〜 イギリス,ロシア,アメリカの極東戦略の実態 〜
■■第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ


 さらに,日露戦争の仲介で講和を仲介したのは,当時のアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領です.
 その講和にあたり,アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンは援助と講和の見返りに,南満州鉄道の日米共同経営を提案しました.
 この提案はいわば,満鉄を日米で共同経営するというもので,日米で満州を共同防衛するという意味でもありました.

 日本は日露戦争の戦勝国でありながら,領土はまるで手に入れられず,賠償金も雀の涙.
 唯一戦果と言えるのは満州利権だけでした.
 そのため当時の国民は,増税による苦しさと戦没者の遺族の塗炭の苦しみから,日比谷で暴動が発生(日比谷焼き討ち事件)が発生するほどでした.
日比谷焼打事件 - Wikipedia

 日本側は結局,ハリマンのこの提案を電報1文で拒否.
 激怒したハリマンは
「日本は十年後に後悔することになるだろう!」
と罵倒すらしています.
 これ以降,日米関係は悪化.
 ルーズベルト大統領も親日から反日になったと公言しています.
■■第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら,満州の共同経営の約束を破った日本 〜 「ハリマン事件」の実態

 このハリマン構想が実現していたら,日米は同盟関係になり,日中戦争も太平洋戦争もなかったはずです.
 それだけに,このハリマン事件の影響は大きいのです.
 すべてはハリマン事件から始まったと言ってもいいでしょう.

 ちなみに現在のハリマン構想は,横須賀の米海軍基地によって成し遂げられています.

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年04月12日17:12

 ただし『検証 戦争責任』(だったかな?)によれば,アメリカ政府の側にも
「日本との間で戦争になるかもしれないが,そうなったところで一捻りするだけだ」
と,旧日本軍の戦闘能力を侮っていた勢力があり,開戦の一因をなしたと言う.
 そういう意味では,ある種の人種差別的発想があったと言えなくもない.

編者

▼ 私は何故トム・ハンクスさんがその発言をしたのか,共に「ザ・パシフィック」を制作したスティーブン・スピルバーグさんが,何故それを容認したのか,その原因を調べてみましたが,どうやらこれが理由なのかも知れません.
米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断 - Wikipedia

 太平洋戦争中,米軍兵士は日本軍兵士との戦闘で捕虜に取らず,降伏をしようとした,もしくは降伏した日本軍兵士を殺害した上に,首や耳を切断して頭蓋骨や耳をコレクションにしたケースが相次ぎました.
 これは戦時国際法に違反する戦争犯罪ですが,前線の兵士の間では横行していたようです.
 さらに当時の日本のマスコミが,これを反米宣伝として報じていました.
 エドウィン・ホイトさんは「日本の戦い:太平洋戦線(Japan's War: The Great Pacific Conflict)」で ,それら日本人の遺体を切り刻み持ち去る行為と,日本軍部やメディアが行った反米宣伝が,結果的に連合軍上陸後にサイパンや沖縄で発生した民間人の集団自殺などにつながったと評しています.

 〔略〕
これを見た人や兵士の遺族にしてみれば,まさに許せない物で日本が無条件降伏,つまり国家崩壊まで戦った理由は,日本本土への戦略爆撃とこれが原因ではないかとも思えます.
 そしてこの米軍兵士の「遺体損壊コレクション」は,なかなか改まらず,ベトナム戦争でも横行していました.
【ベトナム,カンボジア戦争跡地見学】@ベトナム戦争が残したもの:フォートラベル

 これは人種差別に起因しているものがあり,これを知ったトム・ハンクスさんが,人種差別が原因と思い込んだとしても不思議ではありません.
 おそらくベトナム戦争での米軍の戦争犯罪が,脳裏をかすめたのかも知れません.
 さらにはアブクレイブの収容所での捕虜虐待事件も,脳裏をかすめたのでしょう.
 ちなみにザ・パシフィックでは,海兵隊の手記を元に制作された映画ですが,日本軍兵士戦死者の死体損壊が出てくるそうです.
 ただ,米軍も戦時国際法の不文律で死刑にした他,米海軍法務部も日本軍の報復を招くと批判しているように,当時から批判がありました.

 それにしても,米軍によるこの手の戦争犯罪は今も昔からもあり,米軍の頭を悩ませていたのですね.

バルセロニスタの一人 in mxi,2010年05月31日01:06


 【質問】
>昭和26年(1951年)5月3日,米国議会上院軍事外交合同委員会において,
>ダグラス・マッカーサー元連合国最高司令官は,日本が大東亜戦争
>(太平洋戦争)に踏み切った理由を,「大部分が安全保障の必要に
>迫られてのことだった」と証言しました.
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1100292762/282-286

 これを持ってして
「日本は悪くなかった.日本の立場は他ならぬアメリカの総司令官自身が認めているじゃないか」
という声があるのですが.

 この証言が出たアメリカ上院の外交防衛委員会の聴聞会での直接の質問は,マッカーサーが唱えた中国の海上封鎖に対してなんですが,どうも前後の質問が分からないので,何で唐突にマッカーサーが日本を弁護したのか良く分からないのですが,知ってる方いますか?

「日本を封鎖したのと似ているが?」
という質問に対してなので,
「その通りです」
と答えるなら分かるのですが,何故に弁護?
 どうも故意に証言をカットしてあるような感じで不審なんですが・・・

▼ 【回答】
「主権国家として,中華民国の不誠実な対応に対して然るべき対応を取った事に関しては正しい」
って事だろ.
 満州事変だって,他の列強の場合だったら程度の差はあれど軍が出てくる.
 南京事件では英米は報復を行っているし.
 ただし,その後のアフターケア(満州国建国,汪兆銘政権樹立等)が最悪だったのは事実.

軍事板

▼ 保守系の連中がよく言う「マッカーサーは自衛と認めた」ってのは,

>They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.
>Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

の二行目の文のみを持ってきて,securityを安全保障と訳して,自衛のためとしてる.

 しかし,この文には前段があって,1000〜1200万の失業者が出るという予測が先にあって,その結果として二行目の文につながってる.
 つまりこのsecurityは,対外的な安全保障(=自衛)を示しているのではなく,内的な社会の安定について示している言葉と見るべき.

軍事板

――――――
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら,一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました.
 したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は,大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです.
――――――

 一応,上の英文が原文,それを和訳したとされるのが下の日本文.
 失業者の話がいきなり安全保障の話になっていますが,これは文脈を無視してsecurityを単に「安全」と訳したため.
 この前で日本には資源が無いとか何とか話していたので,名詞のsecurityがどう変化したのか考えると,securing of resourcesあたりが妥当.
 そうすると安全保障ではなくて,「資源の確保」という意味になる.
 ちなみにsecurity自体に確保って意味もあります.

軍事板

 それに,朝鮮戦争勃発以後のマッカーサーは,ちょっとイッちゃっててまして.

 中国の参戦の情報をちらほら手に入れていたのに,本国に伝えなかったことなども確認されています.
 彼の主張通り満州を爆撃すれば,ソビエトや中国とのまさに全面戦争を引き起こす可能性がありました.
 だからこそ,トルーマンはマッカーサーを罷免したのです.
 シビリアンコントロールを離れて勝手に攻撃を叫ぶマッカーサーが,「日本を擁護」してくれても,全然根拠にもなりゃしません.

 それに元々,フィリピンから兵士を置き去りにして逃げ出すわ,自分の政治的立場のために作戦を自分主導にしろと要求するわなど,軍人と言うより2流の政治屋でしかありません.
 そんなマッカーサーの保身絡みの発言に,どれだけの意味があるのか疑問です.
 こんなものに頼らねばならない事こそ,「日本の自衛戦争」と言う主張の薄弱さの証拠ともいえるでしょう.

軍事板


 【質問】
 太平洋戦争勃発直前にルーズベルト大統領が海軍に,
「小船に星条旗を掲げてカムラン湾の日本艦隊を偵察させろ」
と命じたそうですが,日米関係が深刻な時にこんな命令を出すなんて,あわよくば日本艦隊に撃沈させてそれを開戦理由に…というつもりだったのでしょうか?

 【回答】
 海軍作戦部は
「こんな命令を独自に出す予定はない」
と海軍調査委員会で明言していますし,
「大統領命令が無ければスタークも命令を出さない」
と述べています.

 また,ルーズベルトは,
「被害が少なく日本に一発撃たせる方法はないか」
と述べていますから,その可能性が大いに有ったと言えるでしょう.
 海軍調査委員会では,大統領の陰謀とは結論づけていませんが,今や死人に口なしですし.
 但し,実際に小さな船を攻撃するという実効性に関しては,非常に小さかった訳で.

 ともかくも実証出来ない以上,可能性があるとしか言えないでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/15(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大東亜戦争,開戦の詔勅の資料を探しています.
 みすず書房から出版されている,『現代史資料』を調べてみたのですが,残念ながら,見当たりませんでした.
 何を調べれば,原文を確認できますか? 誰か教えてください.お願いします.m(__)m

 【回答】
 当日の新聞.

詔 書
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司
ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的
ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル
遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦
帝国カ常ニ国交ノ要義卜為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国卜釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得
サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和
ヲ撹乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ
帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟
尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レ
テ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ
帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神
ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従
セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国
ノ存立亦正ニ危殆二瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕
スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ
東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

御 名 御 璽 昭和十六年十二月八日 各大臣副署

(日本史板)


 【珍説】
 「大東亜解放の聖戦」は,ちゃんと太平洋戦争開戦の詔勅の中に書かれている.

 【事実】
 太平洋戦争開戦の詔勅の全文はここ
http://homepage1.nifty.com/sira/war/index.html
にあるが,その中では要するに
「米英が重慶政権を支持し,さらに経済・軍事面で圧力を加えてきたんで,このままじゃ日本は商売ができなくなっておしまいだから戦争するよ」
と言ってるだけで,東亜解放云々は一言も言ってない.
 「東亜の安定」とか「(米英両国は)東亜の禍乱を助長し・・・(略)・・・東洋制覇の非望を逞うせむとす」という文言はある.
 ただ,これだって前後の文脈からすると,米英の政策が日本の利害と衝突すると言っていると解釈できる.

 まあ少なくとも,日本にとって得になるかどうかもわからない抽象的な「大東亜解放の聖戦」よりははるかに明確な開戦理由ではある.
 そこに至るまでの経緯は別にして.

 そもそも,明らかに軍の連中の行動は,東亜の資源を奪いに行ってるんで,東亜の開放なんぞ考えちゃいねえよ.
 戦争で一番大事なのは善悪のよりも「国益」だろうが.善悪は二の次.

軍事板派出スレッド in コヴァ板


 【質問】
 今日友人と話しをしていて答えに窮したのですが,
 例えば第二次大戦とか「宣戦布告」の文章というのは,記録として閲覧できるのでしようか?
 野村外相が送った宣戦布告の書類が,
「師走になり,気忙しい季節となりましたが,米国におかれましてはご健勝のことと存じます.
 さてこの度,私ども大日本帝国は貴国に対して宣戦を布告する事となりました」
と,時節の候からはじまった文章だったら面白いな.

 【回答】
 下のページで
・米英蘇支四国ニ対スル八月十四日附帝国政府通告
を見つけるがよろし
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/010/010tx.html

 なお,日本がアメリカに渡したのは外交交渉打切通告です.
 なぜ米国にだけ外交交渉打切通告をしたのかというと,米国とは「通商交渉」継続中で,交渉打切の最後通牒 を出す必要があったからです.

 本来だったら,原案の
「日米交渉を打ち切りになったからには,将来どんな事態がおこっても,それはアメリカ政府の責任である.
 日本政府はこのことを厳粛に通告する」
みたいなのが通告書の最後に来るはずだったのですが,この部分が削除されたから最後通牒らしい体裁に欠けているのです.

444 :緑装薬4 ◆3lto9dDpe2 :05/03/02 17:58:39 ID:uorUmt9v

 ひとこと,「かかってこいやぁ」とか書いてあったらイヤだな(笑)

 【質問】
 なぜ日本の宣戦布告文書手交は遅れたのか?

 【回答】
 駐米日本大使館の怠慢.ちなみに,この件について,責任者は何ら処罰されていない.

 以下,抜粋要約.

野村大使の応援として,11月15日に来栖三郎が特派大使として着任した時点での大使館員は,両大使を含めて28人.両大使以外の幹部は,公使・若杉要,参事官・井口貞夫(館務統括)の他,1等書記官が奥村勝蔵(政務),松平康東(条約),寺崎英成(情報),結城司郎次(来栖大使付きとして出張)の4人.電信官は堀内正名だった.
 他に,ワシントン市内で独立していた陸軍と海軍の武官事務所が,日米交渉決裂の事態を予測して9月に事務所を閉じ,大使館に移ってきていた.その陸海軍武官と武官補佐官が計6人.米国人の雇員は,タイピスト3人と運転手など計8人.

 既に状況緊迫化は,武官事務所転入に続く幾つもの『非常措置』によって,充分に館員にも感知されていなければならなかった.
 10月16日には外務省から大使館全員に,「帰国準備を始めよ」の訓令が来,10月30日には公邸の日本人料理人夫婦が,帰国のため解雇され,以後,大使の食事は日本人職員が調理.
 11月20日には本省から,「日米国交断絶の危機が迫れば,日本の海外向け短波放送の気象情報の最後に,『東の風,雨』を2回繰り返す.それを聞いたら緊急態勢に入れ」との訓令.
 ハル・ノートが出た11月26日以後は日米間の緊張は極に達し,12月1日には寺崎書記官ら6人に,急な出発を命ずる異例の転勤命令.後任の補充発令ない.
 翌2日,暗号機3台の内2台を破壊せよとの訓令.暗号機は粉微塵に砕かれ,深夜,ポトマック川に投棄.
 12月3日,遂に「東の風,雨」の放送.

 その3日後,12月6日,土曜日.
 午前中早い時間に,短いパイロット・メッセージ(予告訓令.901号電)が入る.電報は民間電信会社が配達する.901号電は,これから11月26日の米国案(ハル・ノート)への覚書(回答)を,長文だから14部に分け,別伝(902号電)で送る.全部届くのは明日になるかも知れぬと言い,さらにこう付け加えていた.
「右覚書を米側に提出する時期に付ては追て別に電報すべきも右別電接受の上は訓令次第何時にても米側に手交し得る様文書の整理其の他予め万端の手配を了し置かれたし」
 さらに別電(904号電)が来て,902号電の清書には米人タイピストを使うなとの指示.
 続いて902号電が入り始め,13部までが午後3時までに配達された.
 堀内以下電信室担当者6名は,1台になった暗号機を使って解読を進め,解読を終わり手書きされた電文は,その都度奥村書記官と,公邸の両大使に届けられた.

 このとき奥村がパイロット・メッセージの指示通りに,「何時にても米側に手交し得る様」にするために,すぐにタイプ清書を始めていたならば,宣戦布告手交遅れは起こらずに済んだ.
 しかも,1本指での雨だれ式ながら,なんとかタイプが打てる者は彼だけだったというのだから,902号電清書は自分がやらなければならない事は,奥村には分かっていたはずだった.

 だが奥村はやらなかった.

 彼はその夜8時頃から,結城書記官と6人の電信室担当者を呼び,メイフラワー・ホテルの中華料理店で,転勤の出発が遅れている寺崎書記官を送別する夕食会を開く.
 同じ時刻に井口参事官も,松平書記官と藤山ら若手外交官補など計6〜7人を中華料理店「チャイニーズ・ランタン」の個室に集め,寺崎書記官を送別する夕食会を開く.
 3人の一等書記官がお互いに仲が悪いため,同じ晩の同じ時刻に,同じ職場の同僚達が,2ヶ所に分かれて送別会を開いたのだ.
 寺崎書記官は気を使い,両方の夕食会に,時間をずらせて出席した.
 しかも,寺崎の正式の送別会は既に終わっていた.この晩の送別夕食会は予定されていたものではなく,奥村と井口が,自分と仲の良い者達を「夕食に行かないか」と誘って,寺崎を送別する夕食会にしたものだった.
 かくして大使館事務所は,幹部も電信室員もおらず,奥村の机中には902号電が未清書のまま,という状態に.

 夕食会を終わった2つのグループは,電信室関係以外の者は殆ど帰宅.
 電信室員は10時頃に大使館事務所に戻り,902号電解読の続きを再開.
 13部目の解読を終えたのが,翌7時午前3時頃.
 14部はまだ届いていなかったので,そこで帰宅.
 井口参事官も事務所に戻ったが,既に電信室に「適当に切り上げよ」と声をかけて帰宅しており,奥村参事官も既にそれ以前から姿が消えていた.アメリカ人知人の家に,トランプのブリッジをしに行ったからだ.
 大使館事務所に残ったのは,通常通りの当直者,20過ぎの館務補助員ただ一人だった(電信室員が一人残ったという説あり)

 彼らに緊張感が欠けていたのは,かねて野村大使に非協力的態度を取ってきたからだった.その理由は,野村が予備役海軍大将であって外務省の人間ではないことに加え,井口は日米交渉不成立を望む軍部に盾突きたくないとの事情があることだった.また,奥村にも日米交渉には深入りしたくないとの態度が見られた.

 12月7日,日曜日.海軍武官補佐官,実松実中佐が午前9時に出勤してくる.すると玄関のドアの前に,配達された新聞が山となり,郵便受けには電報が溢れんばかり.
 その電報の中に,902号電の14部と,そして米側に覚書手交時間を指定した訓令電報(907号電)が入っていた.
 当直者は早朝から教会に行っており,事務所は無人だった.

 9時より遅く出勤した奥村は,ようやく机中から902号電を取り出し,1本指の雨だれ式タイプ打ちで下書きを始めた.彼はおそらく,日曜日一日をかけて13部の下書きと清書をする内に,14部と,手交時期指定の別電が来るだろうと考えたのではないか? 電信室員もそう証言している.
 つまり奥村書記官は,この緊迫時に,「何時にても米側に手交し得る様」「万端の手配」をしておけとの本省命令を守らなかった.

 午前9時過ぎから10時までに出勤した電信室員達が,「大至急」指定のある907号電を解読すると,それば覚書の手交時間指定の訓令だった.
「7日午後1時を期し米側に(成る可く長官に)貴大使より直接手交あり度し」
 時に10時10分.堀内電信官が血相変えて奥村に届ける.事務所は一転して緊迫.
 のんびりと902号電13部までの途中をタイプしていた奥村は,懸命に打つが,かえって緊張して間違えて,またそのページを最初から打ち直すなどして,余計に遅くなる.
 奥村の周囲には,他の書記官らが集まり見守るが,誰一人手伝う者はいない.職員の中にはやはり雨だれ式ながらタイプができる者が何人かいて,手伝いを申し出たが,奥村は拒否したと,戦後に証言した者もいる.
 11時には902号電の14部が解読されたが,まだ13部までが途中までしか清書されていない.

 14部は短い文章で,明確な宣戦布告の言葉はなく,ただ交渉打ち切りを告げていた.だが日曜日に,しかも午後1時と限定して,さらに国務長官に直接渡せというのは,もはや意味するところは明らかだ.「マジック」(日本外交暗号解読機)で902号電14部と「午後1時手交」訓令を読んだホワイトハウスと国務省は,戦争を確信する.
 だが日本大使館では,今なお国交断絶即戦争とは思わなかったとは,後の証言者の談.

 正午が過ぎる.もはや午後1時にはとうてい間に合わない.野村の秘書が国務省に電話し,面会を午後1時45分に延期してもらう.
 だがそれにも間に合わず.
 ようやく清書が終わった覚書を持ち,両大使の車が大使館を出たのは,午後1時50分.真珠湾攻撃開始から25分後だった.
 攻撃を知らない両大使がハル長官に面会したのは2時20分.
 両大使はハルから侮蔑の言葉を浴び,顎をしゃくってドアを示された.これ以上はない屈辱だった.
 こうして,プロの外交官達の鈍感極まりない情報感覚が,日本人に「Treacherous Attack」(騙し討ち)の長い汚名を着せることになった.

 戦後に奇怪なことが起きる.
 これほど重大な怠慢と過失を犯したワシントン日本大使館の幹部達が,誰一人責任を問われることなく,殆どの者が出世していく.外務省OB吉田茂が,責任調査の動きを押さえた結果だ.

 それでも,ほんの形式的な調査が昭和20年秋に行われ,その当時の資料9点が,やっと平成6年11月になって外務省から公開される.
 これには奥村書記官の陳述書もあるが,パイロット・メッセージについては「何時にても米側に……」との肝心の部分があったことを抜かしてある.12月6日の内に,自分が訓令通りに902号電の清書をやっておかなかったことが,覚書手交遅れの最大の原因であったことには,全く触れていない.
 翌7日に自分が出勤してから以後に,大急ぎでタイプを打ったことばかり強調した挙げ句,遂には「私は電信課に対し,最後の1通(902号電14部)はまだかまだかと矢のような催促をした」と,明かな嘘まで述べている始末.
 このような人物を,吉田茂は,敗戦直後の天皇とマッカーサー元帥の会見の通訳に登用し,さらに奥村の公職追放解除後には,外務事務次官という外務官僚最高のポストに抜擢している.

 井口参事官は,昭和17年に帰国した際,東郷茂徳外相に覚書手交遅れの原因を問われ,こう答えている.
「あれは自分の管掌事項ではないので,承知いたしません」
 彼も戦後の公職追放解除後,吉田茂によっていきなり外務事務次官に抜擢される.

 他のワシントンの幹部職員は誰も,だんまりを決め込む.
 寺崎書記官は戦後,皇室御用掛となり「昭和天皇独白録」を編纂する一方,詳細な日記を残しているが,この件に関しては殆ど記述がない.

 当時の中堅・若手職員は,誤魔化しに走る.
 外交官補・藤山楢一は「一青年外交官の太平洋戦争」を著す.
 同書は,送別夕食会が二つあったことも,パイロット・メッセージに「何時にても……」との指示があったことも触れていない.
 覚書手交が遅れた原因は,
「一に『最高機密文書にタイピストを使用してはならない』との訓令にある」としている.
 自分は歴史的大事件のそばにいたから「体験を相当克明にメモしていた」と言いながら,「ではなぜ解読できた分からたいぷを打ち始めなかったか,という疑問がある.この件に関しては関係者は全て個人になっていて,正確には分からない」と逃げ,「私の推測」を述べている.
 曰く,パイロット・メッセージに「文書の整理」とあったのが問題で,「歴史に残る最重要の文書」だから,「結論も分からず出たとこ勝負でタイプしたもの」では,ハル長官に渡すのにはお粗末だから,最後の14部が出るまで清書を待とうということになったのではないか,と.
 タイプに「出たとこ勝負」もへったくれもないのだが…….
 また,「最重要の文書」と認識していたというのなら,奥村書記官がトランプ遊びに出かけた理由が説明できない.

 電信室員,吉田寿一は「諸君」平成4年1月号に,「通告遅れの内幕 日本大使館員にも言わせてくれ」なる手記を発表.送別夕食会から大使館に帰った後で,奥村書記官がタイプを叩いているのを見たと述べるが,そんな証言は吉田以外存在しない.
 そして彼は,奥村がいつまで打っていたかは知らないとする.
 さらに覚書手交の遅れについては,既に決まっていた「7日午後1時」と言うことを知らせずにおいたなどの小細工をした本省のせいだとし,様々な弁解をするが,「何時にても……」の訓令があったことには全く触れず,奥村書記官が訓令通りに6日から清書にかかっていたなら……ということだけは書いていない.

 他にも雑誌記事や本での証言は幾つかあれど,皆,「何時にても……」の訓令には触れていない.

 近年では,井口参事官の息子の井口武夫(元ニュージーランド大使.東海大教授)が,「真珠湾攻撃 駐米大使館に落ち度なし」(「Ronza」 平成8年1月号)などの記事を発表しているが,やはり「何時にても……」の訓令があったことには触れていない.

 何よりも,平成6年に外務省が前記資料を公開した際に発表した見解,
「申し開きの余地はないものと考えている」
との言葉が,全てを物語っているだろう.(from 「別冊歴史読本 太平洋情報戦」新人物往来社)

 さらに言えば,この通告書には,肝心の宣戦布告にあたる文章が欠落している,
 すなわち,交渉を打ち切る宣言でしかない(執筆者は加瀬俊一アメリカ局第1課長)ので,米国側はこれを受け取った時刻ではなく,帝国議会において開戦の詔勅がなされた時刻をもって,日本からの宣戦布告があった時刻と解釈している.

 【質問】
 開戦時のワシントンの日本大使館への電報は,アメリカの電報会社から紙で配達されたのですか? それとも直接無電ですか?
 また,暗号の解読を手で行ったらしいですけど,パープルはそんな暗号なんですか?
 【回答】
 商用電報です.ルートは
外務省電信室
→東京中央電報局
→電文の95%は米本土へ無電(この段階で米海軍が傍受)
→RCA電信会社経由でワシントンへ
→大使館ポストへ配達
です.
 残り5%は海底ケーブル経由ですが,こちらについては米諜報機関は,電信会社から横流ししてもらいました.
 ちなみに開戦前夜では,大使館職員が暗号電報を目にする前に,米国側が先に解読・翻訳を済ましてました.

 九七式欧文印字機の解読作業はまず紙と鉛筆で攻略し,暗号化プロセスが判明すると彼らは模造機を製作しました.

 【質問】
 三国同盟条約では日本開戦時のドイツとイタリアとハンガリーには参戦義務はあったんですか?なかったんですか?

 【回答】
 別に参戦義務は無かった訳です

 条約条文の法理上の解釈では,「日本国,ドイツ国およびイタリー国間三国条約」の第三条には,

「日本国,独逸国及伊太利国は前記の方針に基く努力に付相互に協力すべきことを約す.
 更に三締約国中何れかの一国が現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国に依て攻撃せられたるときは,三国は有らゆる政治的,経済的及軍事的方法に依り相互に援助すべきことを約す」

とありますから.

 ちなみに,これとは別に秘密往復書簡三通があり(これはHitlerが関知していないものでしたが),その一通には,
「締約国が条約第三条の意義に於て攻撃せられたりや否やは三締約国の協議」
によって決定されるとして,自動参戦を抑止することが盛り込まれています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 日本が米国に布告したのを見て,他の国が日本に宣戦布告ということってあったのでしょうか?

 【回答】
 あった.

 対日宣戦布告の流れ

1941年 アメリカ,イギリス,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ,南ア連邦,コロンビア,エルサルバドル,コスタリカ,ドミニカ,ニカラグア,ハイチ,グァテマラ,ホンジュラス,パナマ,オランダ,キューバ,ベルギー

1942年 メキシコ

1943年 イラク,ノルウェー,ボリビア

1944年 リベリア,フィンランド,ルーマニア,ブルガリア

1945年 エクアドル,ペルー,パラグアイ,ベネズエラ,ウルグアイ,トルコ,エジプト,シリア,レバノン,イラン,サウジアラビア,アルゼンチン,スペイン,チリ,デンマーク,ブラジル,ギリシャ,ソビエト連邦,モンゴル


 【質問】
 亡命政権がした対日宣戦布告って有効なの?

 【回答】
 一応,日本の外務省的対応としては,中国の重慶政権,フランスのド・ゴール政権, ユーゴ,ポーランド,エチオピア,チェコスロバキアなどの亡命政権,イタリアのバドリオ政権などは,日本政府が承認している政権ではないため,彼らが行った宣戦布告は国際法上無効として交戦関係を認めていません.

 但し,国交が無くても日本が否認していない限り,宣戦布告は有効となります.
 なので,ニュージーランド,インド,ドミニカ,ハイチ,シリア,レバノン,サウジアラビア については,対日戦勝国となっています.

 ちなみに,ルクセンブルクも連合国の一員という理由で,対日宣戦をしたわけではありませんが,対日戦勝国の一つに数えられていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/09/13(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本が大東亜戦争開戦を余儀なくされた直接的な理由は,英米蘭による石油禁輸だと小生は解釈しています.
 で,40年5月にオランダはドイツに降伏したわけですが,この機に乗じて蘭印を保障占領してしまえば,日本の石油問題は全部解決でき,無謀な対米戦に打って出る必要も無かったのではないでしょうか?
 まあ,極東の米英軍がどう動くかにもよるのでしょうが,この案には実現可能性はあったでしょうか?

 アメリカはモンロー主義で不介入,イギリスは亡国の危機で極東如きに構うヒマも兵力もない.
 真珠湾をやる羽目になるよりも,日本にとって,まだマシな戦略かなと思いましたが.

 【回答】
 仮定の質問に答える義理はないけどね.

 蘭印を占領しようと場合,かなりの抵抗が見込まれる(蘭印政府は,かなり広範な自治権を認められていたため,独自に抗戦した可能性が高い)うえ,油田施設が破壊されれば数年間は石油の輸入が見込めない.おまけに間違いなく米国は石油禁輸に踏み切る.
 さらに当の日本軍内部に,日蘭戦争が,この地域に利害を持つ英米を巻き込んだ戦争に拡大する可能性があると考えていたことがあります.

 オランダ本国降伏時には英仏軍が一時的に蘭印キュラソー島に一時的に上陸するなど,蘭印の現状が変更されるような場合には,米英が保障占領する動きすらあったこと,などなど,日本が好機に乗じてやってしまうには(当時の政府ですら),不利な条件が目白押しだったからです.

 太平洋戦争については,日本は蒔いた種を刈り取る羽目になっただけですね.石油禁輸はリアクションに過ぎません.

 日本政府は,満州事変式の軍事行動を少壮将校が行うことを恐れていさえいました(有田外相がそう言い残している).とにかく日本にしてみれば,石油が手に入りさえすればよかったのですから,冒険的な行動を行うことは可能な限り回避するのが基本方針でした.
 平和的に石油を入手できるなら,その方がよかったのです.
 もっとも,戦争回避の基本方針は米英側も多分同じで,チャーチルは後の回想で,
「フランスが崩壊したときに日本がシンガポール・蘭印の占領に出なかったことを,我々は不思議に思った」
と語っていますね.


 【質問】
 もし日本海軍が太平洋戦争開戦初期に全力でカリフォルニアを攻め,同市を焼け野原にしてアメリカ人の士気を挫けば,講和に持ちこめていたのではないでしょうか?

 【回答】
 その程度の目的で貴重な戦力すり減らすなんて,馬鹿じゃないのか?
 日本最大の弱点にしてアメリカ最大の長所が,再生能力の多寡なんだが.
 アメリカは新造艦どんどん作れるが,日本の戦力は今あるだけの貴重なものだぞ.
 カリフォルニアをちょっと痛めつければアメリカは講和に応じるかも,なんてお花畑の妄想のためにすり潰すなんて,並の馬鹿では思い付かない愚策中の愚策だ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ あと,初期作戦が終了した時点で日本が講和したがってもアメリカが,ぶっちゃけ「アメリカ国民の復讐心が」許さなければ,講和なんてできない.
 アメリカの立場になって考えてみれば,自国がボロ負けして圧倒的に不利な状態で講和なんて,したくないに決まっている.
 反撃してから,と考えるに決まっている.

 で,大戦後半は1943年の時点で,「連合国は枢軸国に対し,単独講和はしない」ことが決められていた.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカに宣戦せず,英蘭だけに宣戦布告していれば,戦況は有利になっていたでしょうか?

 【回答】
 対英蘭のみに宣戦した場合,フィリピンは手付かずのまま残すしかありません.
 その側を通過して,蘭印シンガポール方面に行くことになります.
 それに対して,米国はフィリピンに戦力を集中しておいて,なんらかのきっかけでトラブルを起こさせれば,日本と南方との間を分断することが可能となり,日本側はお手上げとなるでしょう.
 しかもその時点では,米艦隊は圧倒的に優勢になっています.
 日本の一方的な敗北は必至です.

 当時の政治状況を前提とすれば,s16年でのあの選択は,各種の可能性のうちで,相対的に最も可能性の高かったもの(絶対的には低いとしても)と言うしかないでしょう.

インドネシアのオランダ空軍


 【質問】
 太平洋戦争勃発前後の,日露外交について教えられたし.

 【回答】
 1941年と言えば,日本は米国や英国と開戦を模索し,ドイツは6月にそれまで盟友と思われていたソ連を突如攻撃し,欧州とアフリカで戦われていた戦争が,全世界に拡大します.

 余談ながら,イタリアも1940年にフランスに宣戦するのですが,ムッソリーニは元々開戦の時期を1943〜44年と考えていて,1940年に行われる予定のオリンピックや万国博覧会で戦費を調達しようなどと考えていたそうな.
 実際は,何ら準備もしていない内に,「バスに乗り遅れるな」とばかりに開戦に踏み切ったのですが,その時の国家予算の殆どは,万国博関係のパビリオン建設や,首都改造などの各地の建設予算に回っていて,軍には殆ど予算が回ってこなかったと言います.

 この頃,ドイツと全力で戦っていたソ連にとっては,背後から日本が開戦して,シベリアに出兵しないか否かが関心事でした.
 間の悪いことに,日本はソ連との間に中立条約を締結していて,宣戦するにも戦争できない状況ではあったのですが,一方で,日本も,米国や英国と開戦するに及び,その後背をソ連に突かれないかが関心事でした.

 こうして,8月5日に日本の豊田外相はスメターニン駐日ソ連大使と会談して,日本は日ソ中立条約を誠実に履行する意向であり,ソ連側もどう条約を厳密に履行することを望む,また,ソ連は第三国に対して領土の譲渡或いは軍事的拠点を提供しないこと,第三国との間に,日本を目標とする同盟等を締結しないこと,更に蒋介石政権に援助を与えないことを求める旨の申し入れを行います.

 これに対し,8月13日付でスメターニン駐日ソ連大使は,以下の様に返答しています.

――――――
 ソ連政府は非常な満足を以て,日本政府の中立条約に関する言明を了承する.
 中立条約が完全に効力を保有するとの,先に成された本使の言明を重ねて確認する.
 また,対華援助問題はソ連の為に重要なことではなく,英ソ間の協定はドイツだけを考慮したものであり,極東のソ連領土を第三国に提供するなどと言うことは絶無である.
――――――

 一方で大使は,豊田外相に向かって,こう問いただしました.

――――――
 満州方面で大規模な軍事的準備を行っているが,これについて日本政府の説明を求めたい.
 何となれば,このような事態は,中立条約に関する大臣の言明と一致しないからである.
 これはソ連に向けられるものではないと理解して良いか.
――――――

 これは所謂,関特演の事であり,ソ連としても重大な関心事であったことが判ります.
 これに対し,外相は,ソ連政府が中立条約に関する大使の言明を重ねて確認されたことと,その他の問題についても大使が言明したところを了承すると共に,満州に於ける軍事的準備は同地の治安維持に対処する措置であり,ソ連に向けられるものではないと説明し,最終的に関特演は8月に中止となります.

 それから3ヶ月,日米交渉は殆ど進展せず,手詰まりの状況で南進論が高まり,日本としてはその際に,ソ連が米国と組んで攻め寄せないかを確認することになり,11月22日,新たに外相に就任した東郷外相は,再びスメターニン駐日ソ連大使を外務省に招き,ソ連の対日態度を確かめることになります.

 この席上,東郷外相は,前任の豊田外相に向かって成された,スメターニン駐日ソ連大使の言明を想起しながら,このソ連の政策は今日も変更無いものと考えるが,これは日ソ関係の根本問題であることから,特に明確にしたいと述べて,改めて大使の回答を求めました.

 それから6日後の11月28日,再度,東郷・スメターニン会談が開催され,8月13日の言明については個人として,この言明が中立条約に基礎を置くとの建前である以上,何ら変更がないものと考える.
 そこで外相も,日本政府の見解に依れば,ソ連が第三国との間に締結した軍事同盟の効力を東亜に及ぼす事,ソ連が今後日本を目標とする軍事同盟を第三国と締結すること,ソ連が極東に於ける領土を第三国へ租貸し,これを譲渡し,または第三国に軍事基地を提供する様なことは,いずれも中立条約の義務と両立しないものと見做すものであるが,ソ連政府は8月13日の大使の言明に変更を加えていないとの説明を了承すると答えています.

 更に,12月1日,東郷・スメターニンの第3回会談が開かれ,ソ連外務人民部からの正式回答が東郷外相に伝えられました.
 それによると,
「ソ連は,ソ日中立条約を侵犯せんとは考えていない.かつ8月13日のスメターニン大使の声明は,効力を保有するものであることを言明する.
 勿論それは,日本が中立条約の義務を遵守することを条件とするものである」
とありました.

 これに対し,東郷外相は,8月13日の大使声明は全部維持されることを承知すると共に,この陳述中,滞日軍事同盟不加入,領土不譲渡,軍事基地不供与の項に対する日本側作成の記録を読み上げ,更に書面を以て記録に残したいとしますが,大使は,既に日本側に立派な書き物があるので,更に文書にする必要はない,と婉曲に断っています.

 とは言え,12月6日になると,スメターニン大使は東郷外相に対し,モロトフ外務人民委員の命によるとして,
「本使が前回会談で貴大臣に対して成した言明は,完全に効力を保持する」
と改めて伝えてきます.

 この辺の外交戦は,狐と狸の化かし合いと言う感じですね.

 ともあれ,これで日本の南進の背後からの一突きの危険性は無くなり,一方でソ連側も,日本からの不意打ちが無いことに安堵した訳ですが,ソ連側の資料である『ソ日外交関係史』にはこうあります.

――――――
 日本外交は,準備されている対ソ攻撃を糊塗しようとして最大の努力を払った.
 彼等は日本の支配層が持っている,中立条約を遵守する誠実な意図を,ソ連政府に信じ込ませることを,自分の主要な任務と考えた.
 日本の政治家は,公式発言の中で,「日ソ関係は中立条約を基礎として,常に変ることはない」と,反復言明するのであった.
 しかし彼等はソ連外交官との会談では,日本自身が条約を遵守するかどうかを語るよりも,ソ連が条約遵守の意図を言明したことを好んで語った.
 彼等はいつも,この戦争では日本の同盟国である独伊がソ連の敵であり,ソ連の同盟国である米英が日本の敵であることによって,ソ連と日本の立場はデリケートであることを協調した.
 日本外交は,もう一つ自己の真意を隠蔽する方法として,中立条約を遵守するかどうかを,度々ソ連政府に質問するのであった.
 しかもソ連が困難辛苦をなめている時期に,それを質問するのである.
 すなわち,敵がモスクワ,レニングラードに迫り,ウクライナ,白ロシア,沿バルト海地方を占拠しているその時に,である.
 ソ連国民はヒトラー軍を撃退する為に全力を挙げていた.
 従ってソ連が,何時にも増して極東の平和維持に関心を持っていたことは,誰にも明らかであった.
 それにも拘わらず東郷は,1941年11月22日,ソ連の中立条約遵守の意向を確認すべき事をソ連大使に訊ねた.
 1941年12月1日,大使はソ連政府の回答を伝えた.
 それは双務的原則に於いて条約を守ることであった.
 そのことは1941年12月6日,日本大使との会談で外務人民委員によって確認された.
――――――

 一方,ドイツとしては日本がソ連の背後を突いてくれることを願っていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/23 22:56

 さて,ソ連と日本との関係,1941年の後半には,双方とも満足行く関係を築いていました.
 しかし,セヴォスチヤーノフの著した『太平洋戦争外交史』によると,1941年初期の段階では,ドイツはしきりに日本に対し,ソ連の背後を突く様に依頼しています.
 2月23日,リッベントロップは大島駐独大使に対し,アジアと太平洋に於ける日本軍の積極的な攻撃は,米国の欧州介入を牽制することになる,と伝えています.
 この頃,ドイツではソ連の攻撃を準備し始めた段階でしたが,その後,電撃戦作戦計画が失敗し,東部戦線が膠着状態に陥り始めると,ベルリンでは益々日本の対ソ攻撃を待望することになりました.

 ところがリッベントロップの話術も,日本側には魅力に映らなかったみたいです.
 ヨハン・オット駐日ドイツ大使は,9月4日,ベルリンに対し,次の様に申し送っています.

――――――
 独軍ほどの軍に対してロシア軍が示した抵抗は,日本参謀本部をして,冬の到来までにロシアとの戦闘が決定的成功を収めることに不信感を抱かせた模様である.
 大本営は過日対ソ行動を一時延期することに決した.
――――――

 更に1ヶ月後の電報ではこう記しています.

――――――
 戦闘能力に於いてなお強力である極東軍に対して,日本軍の軍事行動の発動は,来春以前に於いて期待し得ない.
 対独戦に於いてソ連が示した頑強さにより,日本の攻撃が例え8月或いは9月に開始されたとしても,今年中にシベリア経由の通路は開けないと予想される.
――――――

 その上,決定的となったのが11月17日の公電です.
「日本軍は1942年はるまで,ソ連領土への侵入を延期することに決した」

 ベルリンではこの為に全く困惑状態に陥ったばかりでなく,日本政府の対独同盟に対する忠実ささえも危惧するに至ります.
 そのことは9月初旬以降,日本の外務省幹部が東京駐在ドイツ大使に対して,日米交渉の経過情報の提供を拒絶する様になったことが切っ掛けでした.

 この為,この極東の国に苛立ちを募らせたヒトラーは,直ちに東京の真意についての諜報資料を収集する様に命令しました.

 マドリード駐在のシューレンベルクは,日本の諜報者から,近く日本が米英に対して攻撃することを諜知しました.
 この情報は,10月中にドイツの各諜報機関が収集した広範囲の情報によって裏付けられました.

 結局,この報告はヒトラーを爆発させはしませんでしたが,幾分,ヒトラーを慰めるものでもありました.
 日本がソ連領土への侵入を延期した以上,せめて米英だけでも攻撃させよう,と考えたのです.
 彼の予想では,米英をして欧州以外に注意を向けさせるばかりでなく,米国からソ連への補給路に大打撃を与えることになるはずである,との読みをしていました.

 11月に入ると,東京からドイツに対し,ドイツは日本が対米開戦をした場合,日本を支持するかと言う正式の照会がありました.
 11月30日に,東条内閣は独伊両国政府から日本の対ソ意図を改めて質問してくる場合に備え,自国大使に対する特別な訓令を発しています.

 この訓令により,大島大使は次の様な言明を為すことになります.

――――――
 今や南方に向かって行動するに当たり,我が方はソ連への圧力の緩和を何ら考慮するものではない.
 若しロシアが英米と更に関係を深め,我が方へ敵対行動を採るならば,我が方は全力を挙げてロシアに立ち向かう用意を有する.
 尤も,現在我が方は,南方へ向かって行動することを有利とする.
 若干の期間,我が方は,北方への直接行動を差し控えようとするものである.
――――――

 ヒトラーとしては太平洋戦争の勃発は,彼の為に有利なものであり,安心してしかるべき事柄でした.
 その上,1941年4月,ヒトラーは訪独した松岡洋右に対し,日米戦争勃発の際は,直ちにドイツは対米攻撃を行うと言明していたのです.

 ところが,この11月の時点では事態が一変していました.
 これは言うまでもなく,東部戦線の状況です.
 特にヒトラーが焦慮していたのは,10月のモスクワ攻撃の失敗であり,もしもこの時点で日本がソ連に侵攻していたら,その防衛の為に兵力が分断され,モスクワは容易に陥落していたはずだと考えていたからです.
 この為,東京がソ連攻撃を急がず,南方への進出を準備しているとの話をヒムラーが報告した際には,ヒトラーは怒気を含んでこう述べたと言います.
「今,私が知りたいことは何もない.
 私の欲することは,行動の完全な自由を保留することである」

 尤も11月になると,再度モスクワ総攻撃が開始され,ヒトラーは大分平静になりました.
 正にこのタイミングで,日本からドイツに対し,対米開戦時の支持照会が為されたのです.
 11月のモスクワ攻撃が成功すると楽観していたヒトラーは,応諾の回答を伝え,11月19日,ドイツ政府は正式に日本政府にその事を通報しています.
 そこで,オットー大使も,
「ドイツの今後の態度については疑いないことである」
と回答します.

 この回答は日本政府を満足させませんでした.
 日本政府は,米国との単独不講和の日独伊条約を,開戦前に締結したいと申し出てきます.
 この時,正にソ連軍の総攻撃により,クライスト軍が退却を始め,ヒトラーは急遽前線に赴くことになりました.
 しかし,東京では対米宣戦への準備が完了し,攻撃日が迫ってくるので待つことが出来ませんでした.

 日本政府は,ベルリンでの交渉と並行して,ローマへの申し入れも行い,12月3日,日本の堀切大使はムッソリーニとチアノ伯同席の上で,日米交渉が行き詰まった事を報告し,自国政府の名に於いて,前述の太平洋戦争勃発の際には,対米単独不講和に関する日独伊条約の調印を急ぐ様,長広舌を振るいます.
 この時,ムッソリーニはその条約調印をする用意があると言明し,ベルリンとも交渉の上,最終回答をすると約束しました.
 因みに,ムッソリーニは,その席上,大戦を太平洋にまで拡大すると言う日本の壮挙を賞賛し,「今や我々は,大陸間戦争の瀬戸際に立つ.この様な戦争は余が既に1939年9月に予言した事である」と述べています.

 そのイタリア政府からも,日本政府と同様の照会が早速ベルリンに為されましたが,ベルリンからの回答はありませんでした.
 これは,11月のモスクワ総攻撃も失敗に終わり,ドイツ中央軍はソ連軍により甚大な損害を被り,完全に阻止された時期に照会した為です.
 ヒトラーは爆発し,東洋の一小国の些末な話や,アルプスの向う側の田舎者からの世間話の聞く耳を持っていませんでした.
 リッベントロップもチアノからの電話に対して,逃げ口上で答えています.

 その後,漸く気を取り直したヒトラーは,ソ連の首都占領の新計画を立て始めますが,この時を於いてヒトラーに日本の要請を聞かせるのは他にないと考えたリッベントロップは,総統に日本からの提案を報告し,その際,日本をして対ソ戦を即時開始せしめ得ない事はもはや明らかであるが,対英米攻撃は,米英の注意を欧州から逸らせるばかりでなく,米ソ間の太平洋航路に打撃を与え,東部戦線に於けるドイツ軍の士気を鼓舞しうると説明しました.
 その結果,漸く12月4日深夜にヒトラーは日本の提案に承認を与え,リッベントロップは直ちにヒトラーの回答を,ローマと駐独日本大使に伝えています.

 12月5日のチアノ日記にはこうあります.

――――――
 夜の休息はせっかちなリッベントロップの為に破られた.
 彼は2日の遅延で,日本側への回答を一刻も延し得なかった.
 3時というのに,彼はマケンゼン(駐伊ドイツ大使)を,私の家に派遣してきた.
 日本の攻撃と単独不講和の義務について,厳粛な協定案を提示する為である.
――――――

 しかし,ちょうどその翌日から赤軍の大反攻が開始されました.
 もし,その時期がちょっとでも前にずれていたら,日本の照会は完全に闇に埋もれていたかも知れませんし,太平洋戦争も少しは変ったかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/24 23:51

 太平洋戦争前夜の独ソ戦の様相はどの様になっていたかと言えば,一言で言って泥沼でした.
 ヒトラーは,今までの戦争の内容からして,「ロシアがドイツに抵抗しても,それは高々2ヶ月程度であろう」とみていましたが,ドイツが戦時編制の精鋭約190余個師団と大空軍を以て,怒濤の如くソ連国境を突破し,領内深くに突入するのは確かにものすごい勢いがありました.
 3ヶ月にして,中央戦線では,スモレンスクを抜いてモスクワ近くに迫り,北方ではレニングラードを脅かし,南方ではキエフを占領してハリコフ,ドンバス,クリミアの線に迫るに至ります.
 正に,フィンランド湾から黒海に至る広大なヨーロッパ・ロシアを南北に分断した形で,冬までには赤軍を壊滅させ,モスクワに到達する予定でした.

 モスクワ攻防戦では,ドイツの中央軍は精鋭77個師団で編成され,その人員は100万人を超えて,砲や迫撃砲など約14,500門,戦車,装甲車など戦闘車両1,700,航空機950機を擁していますが,対するソ連軍は西部及びブリャンスク正面で95個師団,その人員85万,砲及び迫撃砲6,800門,戦闘車両780,航空機545機を擁して互角に戦っていました.
 そして,9月30日から10月2日にかけて,モスクワ正面で凄惨な戦いが繰り広げられた訳です.

 10月5日,スターリンはレニングラード戦線にいたジューコフを直接電話で呼び出し,飛行機でモスクワに来る様命じます.
 ジューコフは10月7日にモスクワに到着し,早速各方面の司令官と連絡を取り,分断された各部隊の整理に当たりますが,正にそれから1週間後の10月13日からモスクワに通ずるすべての重要地区で同時に戦闘が始まり,ジューコフをして「これは恐るべき数日であった」と述懐するほどの激しい戦闘だったと言います.
 そして10月15日,国家防衛委員会は政府機関の一部と外交団を,モスクワからクイビシェフに疎開する事を決定し,日本大使館も含めクイビシェフへの移転が開始されました.
 因みに,この時,スターリンの娘,スヴェトラーナもその対象になっています.

 10月20日からは,モスクワとその周辺地区に戒厳令が敷かれ,首都防衛に当たる全ての部隊には,厳しい規律が適用され,違反者には断固とした措置が執られました.
 ドイツ空軍のモスクワ空襲は日一日と厳しくなり,空襲警報は殆ど毎夜の様に出されて,爆弾は市内各所に投下され,共産党本部も爆撃で破壊されます.
 外国人の目から見ると,「モスクワ危うし」の感じを与えたのですが,赤軍はドイツ軍による10月の攻撃を凌ぎきりました.

 この為,一旦ドイツ軍は進撃を停止し,11月前半に体制を整えて再度11月15,16日よりモスクワの北部と南部への迂回戦術に出ました.
 それから半月後,ドイツ中央軍は,モスクワ郊外のモスクワ・ヴォルガ運河の線にまで到達しますが,これがモスクワ進撃の限界点で,ドイツ軍もこれ以上の進撃は出来なくなっていました.
 それを見た赤軍は,12月5,6日から大反攻を開始して,ドイツ軍を押戻すことに成功したのです.
 正に,この戦いこそ,第二次大戦のドイツにとって分水嶺の戦いとなった訳です.

 そしてその2日後,ドイツが下り坂に差し掛かった丁度その時,遅れてきた極東の島国は,太平洋戦争に突入したのです.
 この時期は丁度日本では,対米交渉から対米開戦を決意する時期と一致している訳ですが,日本の軍事指導者は,開戦準備などに忙殺され,独ソ戦の研究が余り出来ていませんでした.
 日本はソ連側の正確な状況が分析できず,ドイツ側の楽観的な情報だけを鵜呑みにしていたと言われても過言ではありません.

 ところで,この時期のソ連の外交はどうなっていたか.

 5月6日,スターリンはソ連人民委員会議議長の要職に就きました.
 そして,独ソ戦開始後の6月30日にはソ連最高会議幹部会,共産党及び人民委員会議の決定によって,国防委員会議長にも就任します.
 更に7月19日には国防人民員をも兼ね,8月からはソ連軍最高司令官となり,ソ連の全権力をその掌中に掌握することになりました.

 その外交スタッフとしてまず挙げられるのは,外務人民委員であったモロトフです.
 モロトフは,1930年以来ソ連人民委員会議議長であり,1941年にスターリンがその職に就くとソ連人民会議議長代理兼外務人民委員として,スターリンの片腕となる役割を果たしました.
 因みに,モロトフは1957年に解任されますが,没年は1986年と言いますから,ペレストロイカが始まった翌年まで生きていた訳です.

 モロトフの下には外務人民委員代理が2人います.
 1人はヴィシンスキーで,彼は1935〜39年に検事総長を務め,1938年3月にブハーリン裁判で処刑論告を下し,即座にブハーリンを断罪したことで頭角を現しました.
 1940年以来外務人民委員代理となり,戦時中その職にありました.

 もう1人はロゾフスキーで,彼は1909年以来パリに亡命し,労働組合運動に身を投じますが,1917年に帰国して全ロシア労働組合会議書記となりました.
 1918年に一時共産党から追放されますが,1919年には復党して,再び労働組合運動に携わり,赤色プロフィンテルンの書記長として活躍しました.
 そして,1939年以来外務人民委員代理兼情報局次長となり,1948年には情報局長の職に就いています.

 この様に,モロトフを核にして,片や老練な法律家であるヴィシンスキー,他方国際労働運動の大家ロゾフスキーがトロイカ体制を組んで,ソ連外交を支えていました.
 そのうち,対日外交で表に出てきたのは極東問題に詳しいロゾフスキーの方で,彼は事務処理と人材運用の才に長じ,党と政府の外交問題に関する指南番であったと言われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/26 22:21

 さて,1941年12月8日,日本は米英に対して宣戦を決意し,真珠湾攻撃に突入しました.
 この日,東郷外相はスメターニン大使を外務省に招き,日本の対英米宣戦を通告すると共に,更に日ソ中立条約の遵守を重ねて申し入れています.
 また,ソ連に於いても,クイビシェフに移転した建川大使が,12月9日にヴィシンスキー外務人民委員代理を訪れて,対英米宣戦を通告し,こちらでも日ソ中立条約の遵守を求めています.

 ソ連としては既に,諜報の結果や日本外交の分析の結果から,日本の動向を見極めていたので,既に不意打ちの様な状況ではなかったのですが,12月12日付のプラウダ社説には以下の様な文章が掲載されています.

――――――
 日本は危険な道に入ったが,敗北は不可避である.
何となれば,力関係に於いて連合国側が有利であり,その軍事工業能力は日本の相当に制限された能力に比して幾倍も高く,米国だけでもその関係は日本より10倍も優れているからである.
――――――

 プラウダの社説と言えば,ソ連政府の公式見解と見て間違いはないでしょうから,スターリンやモロトフは,いずれ日本は消耗して崩れると言う認識でいたのでしょう.

 そのソ連政府は,太平洋戦争開戦後間もなく,スメターニン駐日大使を召還し,1942年1月20日には同大使と,マリク参事官が外務省を訪れ,東郷外相と会談しています.
 この席上でもまたしつこく東郷外相は,中立条約に言及してソ連側の約言を求めました.
 即ち外相は,日本の対英米開戦がソ連に対して何ら影響のないことを告げると共に,ソ連が日本を目標とする軍事同盟を締結することなく,第三国に自国領土を譲渡又は租貸し,軍事基地を提供しない旨の言明に何ら変更のなかるべきことを期待すると述べ,更に日独伊三国間の軍事協定は,三国共同の敵にだけ関係のあるものであると説明しました.

 これに対し,スメターニン大使は,日米英戦争も日独伊協定もソ連に関係しない点に満足の意を表明しますが,マリク参事官は,
「日本も第三国との間に,ソ連を目標とする軍事同盟を締結しないとするか」
と質したので,外相はその通りであることを伝え,また,ドイツとソ連の和平に関して仲介の労を執ろうと言明しています.
 後のソ連側の分析では,東郷外相は,日本の対英米戦争は既に勝ち目がない事を知り抜いていたので,ドイツの対日援助を進めさせる為にも,独ソの和解を演出して,ドイツ軍の主力を英米に向けさせようとしたとされています.

 一方,日本の戦争相手である米国は,戦略的に日本の背面にあるソ連の利用を検討しました.
 その方法とは,ソ連を日本との戦争に引き入れるか,少なくともシベリアを基地として利用しようと言うものでした.

 米国時間の12月8日,即ち開戦の翌日,ルーズヴェルト大統領は,リトヴィノフ駐米ソ連大使を召還し,枢軸諸国に対する協同動作の必要性を強調して,東方での協同動作の望ましい意向を示し,ハル国務長官も米軍爆撃機の為に極東のソ連基地を提供してほしいとの正式提議を行いました.
 リトヴィノフは,米国政治の細部に精通した外交官で,ハル国務長官とは古い知己でもあり,1933年にソ米外交関係回復の交渉に当たった仲でもありました.

 リトヴィノフは,驚きを以てハル国務長官の申し出を聞きながらも,ハルの提案をソ連が受け入れた場合,どう言った結果が起きるのかを彼等は理解していないのだろうかと訝ったりしています.

 3日後,リトヴィノフは再びハル国務長官に呼び出され,太平洋戦争に於いて,ソ連が対日宣戦を為す準備があるかどうかを聞いています.
 この時,リトヴィノフは「赤軍は既に主敵ドイツと欧州に於けるその衛星国との間に,困難な戦争を継続中であり,ソ連の現状に於いて,西と東の二正面に動じ戦争を意図しないことは,当然のことである」と明確に回答しています.

 しかし,米国は執拗でした.
 今後は,米国の持つ情報を披瀝し,それによれば日本は中立条約を破ってソ連攻撃を検討しており,それはヒトラーの要求によるものであると言ってきました.
 これは既に,ソ連の分析や諜報で明確に否定されたものであり,リトヴィノフは苦笑するしかありません.

 米国は更に,日本の対ソ攻撃が不可避である状況を説明しながら,日本が太平洋及びインド洋に進出する場合,ソ連は東方及び南方に於いて孤立する虞があり,武器貸与が減少する危険もあるが,ソ連が対日宣戦を行えば,その危険も排除できると説得してきますが,これもリトヴィノフは拒否しています.

 そこでハルは,せめて極東の航空基地だけでも米国に提供する様に希望し,これを拒否されては,米国世論に悪影響を与え,対ソ武器貸与の停止要求も引き起こしかねないと警告してきました.
 リトヴィノフはこれも拒否し,対独戦の段階で対日関係を尖鋭化することが危険であり,極東戦争にソ連を誘引する試みを避ける事こそ,ソ連外交の任務であるとして動きませんでした.

 更に米国は外交努力を続け,英国や中華民国を通じて,ソ連の参戦を呼びかけています.
 蒋介石は在中国ソ連大使に対して,ソ連の対日戦参加を求め,極東に米国を首班とする連合国の組織を提唱しました.
 英国も同様に,極東に於けるソ連の役割を考えていますが,流石に老獪な大国だけにそれは劇薬である事を承知しており,慎重に行動しています.
 イーデンがモスクワを訪問してスターリンと会談した時,太平洋戦争に対するソ連の態度を質しますが,スターリンは対独戦に勢力集結を主目的とする以上,極東の戦争には不参加であり,もし,ドイツの強圧で日本が対ソ攻撃に出るとするならば,それは1942年9月以降であると言う見解を披瀝しています.
 即効性のある答えを得られなかった英国は,以後,ソ連に対する対日宣戦や対米基地提供問題に言及する事は断念しました.

 ソ連としては,自ら二正面作戦を行う愚を避け,まずはドイツに対する最良の条件を確保し,あらゆる手を尽くして日本の対ソ宣戦を阻止して,二正面作戦に巻き込まれる事も回避する事が最大の目的でした.
 これが12月9日に行われた,建川大使に対するソ日中立条約の厳守通告だった訳です.

 最終的には12月12日,ソ連政府は中国政府に対して極東戦線への参加を拒否する旨を正式に通報し,米英政府に対しても同様の回答を行いました.

 しかし,米国は最後の足掻き的に,1942年1月19日のサンフランシスコ放送から,
「クイビシェフにてサーストン米国駐ソ代理大使とロゾフスキーとの間に交渉が行われ,非公式に某方面で,米国がソ連極東沿岸を航空基地として使用する事になったと伝えられる」
との放送を流します.
 東郷外相は慌てて,帰国前のスメターニン大使にその真偽を確かめようとしましたが,大使は事実関係を確かめなければ,確たる事は言えないとの立場を取ったので,外相は日本側の注意喚起を本国政府に伝達する様要請しています.

 とは言え,太平洋戦争勃発後の日本とソ連との関係は,決して平坦な道では無かったりします.
 特に,船舶を巡る対立は激しいものがありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/27 22:26


 【質問】
 もしWW2で日本が対米戦をやらず,ウラジオストクを足がかりにしてソ連へ侵攻していたら,どうなっていたでしょうか?

 【回答】
 WW2のソ連海軍の潜水艦戦力は,質はともかく,量は世界でもトップクラス.
 史実の日本の対潜作戦のお粗末さ加減から類推して,海上輸送はかなり困難になる.
 朝鮮経由の陸上輸送も,比較的少数の部隊によるゲリラ的な攻撃で,締め上げることが可能.

 そんなわけで,ウラジオストックに大部隊を駐留させると,補給が難しい.
 逆に,簡単に補給を維持できる程度の兵力では,ソ連の反撃ですぐに奪還される.

 そもそも浦塩を落とすのが困難だろう.
 浦塩が帝国陸軍にとってのスターリングラードになるよ.
 貧乏性の帝国陸軍に,街ごと消し去るような選択肢があるか?
(弾薬の物量的に,越冬する根拠地的に)
 逆に,主力は撤退して温存ってのもソ連は選択できる.

 なんていうか,もうね.
 対米戦に突き進んだ史実の日本でも,ここまで楽観主義的じゃなかったろうよ.

 1934年の時点で既に,
世界第3位の人口による巨大な予備兵力に,
その全てに潤沢な装備を供給できるだけの生産力
世界最高の将校団
世界水準の一歩上を行く航空,戦車,ロケット,砲技術
殆ど全ての戦争物資を自国のみで賄うに足る膨大な資源
自国民全てを養うに足る世界最大規模の食料生産
殆ど無限といっていいほどの戦略縦深

 これだけのものが揃ってる国と喧嘩して勝てるわけ無いだろうが.
 陸続きな上に,開戦の時点で十分な戦力が整っている分,対米戦より分が悪いといってもいい位なのだが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争で,メキシコは日本に対して宣戦布告していましたが,戦闘は行われていたでしょうか?
 それらしき資料を探しましたが,P‐47やB‐25をアメリカから供与したことやフィリピンでの戦いに参加したことしかわかりませんでした.
 後方支援をしたのでは?と考えていますか・・・.

 【回答】
 1941年4月の墨米相互扶助協定締結時には,GrummanG-23を中心とする小規模飛行隊しかありませんでした.
 1942年5月29日の対枢軸宣戦を機に空軍の近代化が始まり,DouglasA-24,North American NA-16,Fairchild PT-19,Vultee BT-13/15,Douglas Dakota,Lockheed Roadster,Beech C-45などの供与が開始され,近代空軍の要員養成が開始されます.
 その後,乗員の養成が完了して,次の段階として1945年初頭にRepublic P-47Dの供与を受け,飛行隊を編成して,実戦訓練が行われます.
 しかし,南太平洋戦線への出動を企図していましたが,編成中に終戦となり,実戦への参加はしていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


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