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交渉決裂の様子

(うそ)


 【link】

「塩はうまくてまずいです」:ハリー・ホワイトが悪いのか?

「神保町系オタオタ日記」■(2012-03-27)人類学者埴原和郎の伯父外交官埴原正直
 埴原正直は,いわゆる「排日移民法と闘った外交官」

『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか 「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦』(ジェフリー・レコード著,草思社,2013/11)

『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹,中公文庫)を追加〜<「2010夏の課題図書」<「そっと××」◆(2010/08/03)

『大戦前夜のベーブ・ルース 野球と戦争と暗殺者』(ロバート・K.フィッツ著,原書房,2013/10)

『太平洋戦争の起源』(入江昭著,東大出版会,1991.11)

 太平洋戦争を学ぼうと購入し,軽く読み流してみました.
 私は無知なもので,どうも書かれていることが当たり障り無いような,どちらかというとアメリカ寄りの立場から書かれた本だなとしか思えませんでした.

------------初年兵 :軍事板,2002/06/22

 学生時代に講義の参考文献になってたので,読みました.
 内容はかなり忘れました.
 大東亜共栄圏に一定の評価を与えている点など,日本にかなり同情的だと思いましたけど…

 太平洋戦争については「侵略」か「自衛」という解釈しかない場合が多いので,
「日米が結局は互いの政策を調整することに失敗した」
という正統的な外交史的解釈(?)という意味で,バランスのとれた研究だと思いますけど…

------------軍事板,2002/06/22

『ホノルル日系人の歴史地理』(飯田耕二郎著,ナカニシヤ出版,2013/04)

『山本五十六の乾坤一擲』(鳥居民著,文藝春秋,2010.7)

『ルーズベルトの責任』(チャールズ・A.ビーアド著,藤原書店,2012.1)


 【質問】
 太平洋戦争の開戦に至る経緯を詳しく書いてる書籍がありましたら教えてください.

 【回答】
 学研の新しいシリーズで出た第一巻は,太平洋戦争の開戦に至る経緯を知りたければお奨めだよ.
 今までのような「はじめにハルノートありき」じゃなくて,20世紀初頭からの日米関係(けっこう友好的な時期の方が長い)から,軍事に加えて政治と経済の両面でも追ってるから,ありがちな「軍人思考」で書かれた本とはだいぶ毛色がちがう.
 トンデモ陰謀論からもちゃんと距離を置いてるし,イギリス,ソ連,ドイツの中国との関わりなども面白い.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 「新聞王ハースト」と呼ばれる男が率いるイエロー・ペーパーには連日,何の根拠もない日本脅威論が書き立てられた.
 ハーストは,「新聞の売上を増やすためなら,国を戦争に追い込むことも辞さない」と言われた人物で,総人口の0.1%しかいない日本人が,あたかもアメリカを征服するかのように書き,世論を煽った.

 サンフランシスコ地震の際には排日暴動が起き,日本人移民が暴行,略奪を受けた.
 日本からは地震に対し,50万円(現在の十数億円相当)に上る支援が行われたが,日本人移民の子は,その資金で再建された校舎には入れず,ボロ小屋のような校舎に隔離教育された.

 これを契機に米海軍は詳細な対日戦争計画「オレンジ計画」の作成を開始.
 以後,毎年,改定し続けた.

 日本政府は外交努力を続けるが,事態は打開できず,アメリカでは感情的で差別心剥き出しの「排日移民法」が成立してしまった!

 日本人移民の総数は,ヨーロッパ系移民の1ヶ月分より少なかった.
 にも関わらず,日本人移民は土地所有も帰化も認められず,新たな移民も完全にストップした.

 当時のアメリカでは,特に日本人とユダヤ人に対する移民政策が,最も厳しいものとなった.

(小林よしのり「戦争論」3,p.209)

 【ツッコミ】
 差別的要素に加え,中国・日本系の米国社会での摩擦が深刻になってきたことも触れねば,フェアではありませんな.
 それに,移民制限は様々なエスニック集団に対して行われたものであって,対日だけを狙い撃ちしたわけではありません.

 移民で成り立つ米国が,特定のエスニック集団の入国制限を決めたのは,1882年制定の中国人排斥法が初めてである.
 次いで法律ではないものの,日本人移民の抑制を目的にした日米政府間紳士協定(1907―1908年)も,民族・人種差別の性格において同種類の措置と言える.
 まず中国系と日本系が規制された事実は,差別的要素に加え,中国・日本系の米国社会での摩擦が深刻になってきたことを物語る.
 移民を能力で選別するだけでなく,絶対数の制限を目指した,1924年の差別意図の明白な移民法には,日本からの移民を全面禁止する排日条項も含まれた.
 中国系・日本系を締め出した空白を補充する労働力として,アーリア系を根拠に白人扱いされたインド系も,1917年のインド人移民制限法で入国門戸が閉ざされてしまう.

(浅井信雄「アジア情勢を読む地図」,新潮文庫,2001/12/1,P.236,抜粋要約)

 だいたい,現代日本において外国人による犯罪が急増していることを見れば,安易にバカスカ移民を受け入れるわけにはいかないだろうことは,容易に想像できるはずですが…….

 オレンジ計画も別項で述べるように,軍隊ならごく当り前の準備に過ぎません.対日戦争準備であるかのように書くのは,デマゴーグ以外の何物でもありません.

 小林は,この前のページから延々と「日本人移民に対する酷い仕打ち」を書き連ねていますが,こうした虚実交えた反米扇情は,ハースト新聞,あるいはチョゴリ切り裂き事件があったと言っては,日本全体が差別主義者であるかのように騒ぐ朝鮮総連と,その手口において変わりありません.


 【質問】
 満州事変以降のシナリオを妄想している者です.

親米方針+軍拡回避(国民党を指示するも中国には不介入方針)+満州の完全な独立

を達成し,最終的に大東亜戦争が起きなかったと仮定した場合,欧州での独ソ戦と米の対独参戦のシナリオはどう書き換わるでしょうか?
 無知故の妄想と笑われるでしょうが,ご教授願います.

 【回答】
 「親米方針」からしてまず無理.
 1920年代における英国の衰退と米国の興隆が必然ならば,大陸利権を巡った日米対決もまた不可避.

 というかね,東アジアにおけるワシントン体制と言うのは,ひとえに
「中国を列強の植民地的争奪の場としない」
という約束事で成立してたものですから,日本が一方的にこの約束事を破って満州侵攻に乗り出した時点から,アメリカとの協調なんて絶対に有り得ないんですよ.

 これを如実に物語ってるのがハルノートで,要約すれば
「満州事変以前の状態に戻せ.そうすりゃ関係改善も考えよう」
というモノなんですから.

 まぁとにかく,歴史改変を目論むなら,なんですな,満州事変は絶対起こしちゃいけませんな.
 石原さんを早めに失脚か左遷にでもしときましょう(笑).

(世界史板)

付表:破滅へのカウント・ダウン

 ●日露戦争時,イギリス・アメリカから「ロシアから満州の機会平等を守る」という約束で500万ポンドづつ(当時の国家予算の8年分)借りていたのにもかかわらず,満州の利権を独占.
・日本破滅レベル■■

 ●1924年アメリカが移民法(排日移民法)を制定.日本のナショナリズムを強く刺激した.
 当時の世論,特に新聞社は「国辱」と強く反応し,キャンペーンが繰り広げられる一方,日米開戦説が叫ばれた.
・日本破滅レベル■■■■

 ●1929年浜口内閣は対外的には協調外交を進め,ロンドン海軍軍縮条約に調印し,中国に対してもその主権を尊重し,内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護をはかった.
 陸軍を主体とする軍部は,これを軟弱外交として非難し,これに強く反対した.
・日本破滅レベル■

 ●1931年9月18日に満州事変を起こす.
 軍は根拠も無いまま漠然と,「満州は日本の経済的生命線」と思い込んでいた.
 食糧の供給先としても,資源の供給先としても,自国製品の市場としても,満州の存在ははっきりいって小さい上,中国では日貨排斥が激化し,対中輸出が3分の1にまで激減してしまった.
 そして中国軍の実力を極端に軽視し,日本軍を過大評価するようにな▼り,出先の部隊が軍中央部の命令に従わず独断専行しても,結果さえ良ければ褒章を受けることはあっても処罰されることはない,という風潮が広ま▲る.
・日本破滅レベル■■■■■

 ●満蒙権益をめぐる日中間の紛争やロンドン海軍軍縮問題をきっかけとなり五・一五事件おきる.
 これは8年間続いてきた「話を聞こう」の政党政治の時代から「問答無用」の軍部暴走の時代へと移行する大きなターニングポイントであった.
・日本破滅レベル■■■■■■■

 ●1932年満州国が建国.
 リットン調査団報告書は,関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず,満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった.
 日本に妥協的な内容の,1933年2月国際連盟の日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案が,臨時総会で42:1(反対1は日本)で可決されると,日本は3月国際連盟から脱退した.
・日本破滅レベル■■■■■■■■■

 ●日本は世界に先がけて恐慌からの脱出し 日本は低賃金で生産した製品を,為替操作で円安にして,失業率20%の米英とその植民地に輸出しまくった.
 その結果ソーシャル・ダンピングと叩かれ,輸出制限されたため,排日行動を続ける蒋介石の影響力から「華北」を切り離して親日政権を作り,そこを新しく,外貨獲得のための日本製品の輸出先にしようとした.
 日本の武力によって蒋介石の影響力が弱まったため,「華北(平津 地区)」では共産主義者の勢力が逆に強まった.
・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■

 ●1936年 二・二六事件の鎮圧後,岡田内閣が総辞職し広田弘毅内閣が成立した.
 陸軍は,事件の威圧効果を利用して発言力を強め,陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況になる.
・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■

 ●1937年7月7日盧溝橋事件がおきる.
 11日には現地で停戦協定が成立したが,同じ日に第1次近衛内閣は華北への派兵を決定し北支事変と称した.
 これを機会に中国に一撃を加えておけば抗日運動をおさえこむことができるだろうと,安易に判断する強硬派の意見が通ったのだ.
・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 ●短期決戦の思惑が外れた近衛内閣は対中政策を転換し,11月日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明し(東亜新秩序声明=第2次近衛声明),国民政府との和平交渉の可能性を示唆した.
 しかし同調者は少なく,戦争を終結させることはできない上に,日本が東亜新秩序建設を声明した際に東アジアからの欧米勢力の駆逐を掲げた.
 石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることは確実なのに,1939年日本が抗日運動の拠点とみなして天津の英仏共同管理の租界を封鎖してしまった.
 当然アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告した.
 共産勢力より日本の方がが脅威となったのだ.
・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 ●さらに「アメリカ相手では2年も持たない」 という意見があるのにもかかわらず.
「ABCD包囲網により石油の輸入が不可能となった.このままでは立ち行かなくなるので戦争してでも南方を奪ってしまえ」
という意見が,
「ABCD陣営と妥協して平和裡に石油を輸入できるようにしよう」
という意見を駆逐してしまう・・・・・・・・・・・・・アホすぎる
・日本破滅レベル■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

(ニュース極東板)

満州国軍の「隼」戦闘機


 【質問】
 満州権益の独占についてはどうなの?
 アメリカとしては,わざわざロシアとの間を取り持ったのに見返りを寄越さないなんて,悔しい!戦争しちゃう! みたいな感情が促進されちゃうんじゃなくて?

 【回答】
 ▼満州権益の独占は,日本がポーツマス条約を破った結果に生じたものです〔要出典〕
 満州権益の独占は,日本が9ヶ国条約を破った結果に生じたものです.▲

 そして国際間外交の慣習では,「条約を破った結果の既得権益は認めない」というのが原則なんです.

 もちろん現代日本も,その原則主義にのっとっています.
 だから四島一括返還にこだわるわけです.

 アメリカが日本軍の満州撤退にこだわるのは,別に間違っているわけではないのです.

世界史板,2009/07/18(土)
青文字:加筆改修部分

▼ ポーツマスじゃなくて9カ国条約ですよ.

 9カ国条約は,以下を参照.

データベース『世界と日本』
日本政治・国際関係データベース
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
[文書名] 中國に關する九國條約
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pw/19220206.T2J.html

鉄底海峡 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年01月15日 08:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカは戦前,中国において門戸開放や機会均等をうたったり,日本の満州利権にちょっかいをかけたりしていますが,アメリカが中国利権に興味を示したのは何か理由があるのでしょうか?

 【回答】
 諸説ありますけどね.

 資本主義が発展していくと,市場をどうしても求めざるを得ない.
 ところが,殆どの地域は19世紀末の時点で,欧州列強各国に分割されて,食い込む余地がない.
(幾ら良いものを作っても,自国産業を保護する欧州列強各国が強力な関税を掛けて,競争力を削いでしまうので,
 市場を拡大できない)
 となると,残る大きな市場は,中国大陸ということになる.
 ならば,中国社会を発展させ,自由貿易を推進し,自由な市場経済に時刻の製品を売り込むことが望ましい.

 しかし,中国が何処かの国の植民地になってしまうと,自国製品の捌け口が無くなるから,先発列強が中国市場を独占し,勢力範囲を設定するのは(・A・)イクナイ!と言うことになる.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/30(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争前,アメリカは資源が余りまくってお金持ちなのに,何で中国の権益が必要だったの?

 【回答】
 欲というより死活問題だった.

 帝国主義に基づく覇権競争はゼロサムゲームだと考えられていたので,あらゆる勢力拡大行動は,つねに他国の牽制を受けた.
 「バスに乗り遅れるな」というスローガンに見られるように,地球上からパイが無くなる前に,どれだけの地域を自陣営に囲い込めるかが,その後の覇権を決定すると考えられていた.

 まあ流石に強欲すぎるから,日本その他とは
「中国から仲良くむしり取りまくろうぜ」
という約束をしてたわけだ.
 それを日本が独り占めしようとしたから,
「俺らのショバで勝手にやってもらっちゃ困りますね兄さん」→カチコミ,
となったわけで.


 【質問】
 日中戦争中「ライフ」や「タイム」は日本軍に不利な報道ばかりしていたそうですが,その理由は何だったんでしょうか?
 ワイロ受け取ったりしていたんでしょうか?

 【回答】
 なんで当時中国利権をめぐって日本と対立してたアメリカの雑誌が,日本に対して公平で正当な報道してくれると思う訳?
 「LIFE」も「TIME」もアメリカの雑誌なんだから,アメリカ寄りの報道するに決まってるじゃん.
 君は,「マスメディアとは常に公平で中立である」ってお題目を額面どうりに受け取ってないか?


 【質問】
 それにしたって,蒋介石をマン・オブ・ザ・イヤーに選んだりと,やけに中国寄り過ぎませんか?

 【回答】
 だって,当時のアメリカって,中国寄り過ぎなんだもん (w`;
 
 米国内での国民党の広報活動が大成功を収めてたのも一因にあるけどね.

ベタ藤原◆RoMNjfnp0E

 宋美齢のロビー力も侮れないですお.

 それに,蒋介石はとりあえず中国の正当な(この辺微妙)政府の代表なんだから,中国に利権を求めるアメリカの雑誌としちゃ,ヨイショしとくのは基本だろ.

 繰り返すが,TIMEやLIFEが日本を擁護しても,何の利益にもならない.
 そんな無益なことする商業出版社はいません.
 雑誌に限らず商業出版物(新聞含め)ってのは読者とスポンサー様を喜ばすために作られるもんです.
 当時のアメリカで雑誌のスポンサーになるような企業は皆,国民党と関係を深めて中国に利権を求めてたわけで,国民党寄りの報道するのは当然です.

 日本人はなぜかマスメディア,特に新聞を始めとしたニュース関係は公平で中立な視点で作られるのが当然のことだと思ってるけど,そんなわけないでしょ(笑


 【質問】
 米国内で,国民党は広報活動をやっぱりやってたわけですね?

 【回答】
 そりゃそうだよ.ロビイ活動は政治の基本.
 蒋介石には対日・対共産党の戦略上,アメリカの支援は必要だったし,アメリカも経済戦略上,中国が日本の傀儡政権に支配されることは,絶対に阻止する必要があった.
 両者の利害はほぼ完全に一致していたわけだ.

 ついでに言うと,蒋介石がマン・オブ・ザ・イヤーに選出された1937年(つまり日中戦争開戦の年)には,既にアメリカは軍事顧問の派遣や金融融資など,公然と蒋介石への支援を行っている.


 【質問】
 日本はロビー活動はやっていなかったんですか?

 【回答】
 当時の日本はやってなかったんだよ.その辺が不得意なのは昔からだし,アメリカは日本の味方って脳天気に信じてたからね.
 で,日本が米で本格的なロビー活動を始めるのは,70年代の日米経済摩擦の後になってからなんだな.

 外交を「自国の屁理屈を何とかして通す場」と考えず,「正しい主張を正しくすれば必ず通じる」としか考えない日本人のメンタリティは,近代の外交には向いてない.


 【質問】
 以下のような見解はどうですか?
全く理解しがたい話だが
アメリカ人は自国に来たシナ人は徹底的に差別し
排斥していながら…
遠い大陸の「中国」には妄想に近いロマンチックな幻想をいだいていた」

その幻想は1920年代後半から始まり
30年代にはパール・バックのノーベル賞受賞策「大地」に書かれた
貧しく悲しい中国人の姿が感動を呼んだ」

さらに当時の大流行作家
ジェームズ・ヒルトンは
中国奥地に神秘的な理想郷「シャングリラ」があるという荒唐無稽な小説
「失われた地平線」を書き
これが巨匠フランク・キャプラの映画となって空前の大ヒットとなった」

また
エドガー・スノーの「中国の赤い星」は
毛沢東の中国をアメリカの「フロンティア・スピリット」にも似た
雄大な不屈の精神として描き出し
共産主義者以外の多くのアメリカ人にも大反響となった」

「タイム」「ライフ」を創刊
ラジオ・映画ニュースにも大きな影響力を持った「出版界の神様」ヘンリー・ルースは
宣教師を父に中国で育ったという個人的な思い入れから
親中・反日の報道に徹し
蒋介石夫妻を「自由中国」の象徴と絶賛した」

かくしてアメリカ人は
民主国家を目指して苦難の道程を歩むありもしない美しき中国の姿を夢想し
その中国を助けてあげたいと陶酔したのだ」

蒋介石は中国のジョージ・ワシントンだ!
毛沢東は中国のリンカーンだ!
中国とアメリカは双子の国≠セ!
中国人は理想を具現する闘士だ!
中国人は名誉西洋人だ!
…現地の外交官がいくら現実を説明しても
本国政府の理解は鈍かった」

こういう奇妙なアメリカ人の性癖を後に
ド=ゴールは
こう切り捨てた
『自分の物質的な力に浮かれ
もはや自分の勢力の十分なはけ口が自身の中にないと感じ
どこかで屈従の身にあるものを助けたいと思い
支配欲を潜ませた
あの干渉趣味』

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.

 【回答】
 不明です.
 小林の場合,原典の改竄・歪曲の事例があるので,原典に当たってチェックする必要がありますが,引用元がここでは記されていないので,それができません.
 いずれにせよ,小林を鵜呑みにするのは禁物です.

 さて,これが仮に間違ってはいないとしても,それだけが全てじゃありません.「一面だけをクローズアップして,自説に有利な論理を組み立てる」のは小林の得意技なので,注意しておきましょう.

 上述のように,
・中国を応援する事はアメリカの国益に叶っていると考えられていたこと
・ロビー活動において日本は中国に大きく水をあけられていたこと
が,米国の中国びいきの要因であって,パール・バックだのなんだのは,その中の一つの事例に過ぎません.

 【質問】
 なぜ日本は中国大陸から撤兵できなかったのか?

 【回答】
・日本軍の犠牲も多く,大陸から簡単に手をひく状態にはなかった
・アメリカの態度が日本には理解できなかった

と,京都産業大学教授 ・須藤眞志は述べる.
 以下引用.

 日本は日清,日露の戦争以来一貫して大陸を目指す北進政策をとっていた.
 満州事変から盧構橋事件を経て日中は泥沼的な戦争を繰り返していたのであるが,その解決策は容易に見い出せなかった.
 日中戦争は戦闘的には日本軍の部分的な勝利であったのだが,広い大陸全体からみれば点と線を押さえるだけで,面を支配してはいなかった.
 また補給の充分でない日本軍は物資を現地調達したため,ときには掠奪に近い行為もあり,中国民衆の反感を煽った.
 しかし,長期にわたる戦闘により日本軍の犠牲も多く,大陸から簡単に手をひく状態にはなかった.

 アメリカは当初より門戸開放,機会均等,領土保全といった原則主義を掲げ,日本の大陸進出を強く非難していた.
 日本としては多大な犠牲を払って獲得した,満州や大陸での利権を簡単に放棄するわけにはいかなかった.
 日本にしてみれば中国大陸にさほどの利害を有しないアメリカが,なぜあれほど強硬に日本の撤兵を要求するのか,また日本と大陸との長い特殊な歴史的な関係を考えれば,日本の立場をなぜアメリカは理解できないのかが不可解であった.

(「『錯覚』この恐るべきもの」)

 米英留学経験者を陸軍の主流から遠ざけてきたツケが,ここに回ってきたと言える.


 【質問】
 戦前,「満蒙は日本の生命線」といわれてたそうですが,それほどまで重要だったのはなぜでしょうか?
 その当時は,中国東北部で油田は発見されていませんし,農業をするとしても気候は厳しくそれほど楽にはできないと思うのですが,その後,ハルノートでアメリカから中国大陸からの撤退を求められて,アメリカと戦争するしかないとなり,太平洋戦争が始まりますが,アメリカから石油を止められてまで,アメリカと戦争をしてまで,満州を手に入れたかった理由は何でしょうか?

 【回答】
 アメリカの要求を呑めないのは単なる算盤勘定より,国家としての面子が保てないことと,何十万も戦死させて手に入れているものを,外交一つで手放すのは国民感情的に受け入れられないというのが大きい.

 それとは別に満州確保の意味とは,まず軍事的にはソ連に対する緩衝地帯という面があった
 日本の(つか,主に陸軍のだが)仮想敵はソビエトだったから,ソビエトに満州を抑えられるようなことがあると日本は圧倒的に,ソビエトに対して不利になる.
 日露戦争の再来的状況になるが,当時と違ってイギリスもアメリカも味方になって助けてくれない――というか,むしろ敵――し,最悪の場合米英ソで同盟なんて組まれた日には,太平洋と大陸から挟み撃ちにされることになる.
 実際,太平洋戦争の末期にはそうなって,「誰がどう考えてもオワタ.もぅうちの国ダメぽorz」」
となったわけだし.
 日露戦争当時と違って「長距離戦略爆撃機」というものがあるので,満州全域がソビエトの勢力圏になったら,朝鮮と西日本は大陸からの戦略爆撃の脅威にも晒される.

 あと,当時の日本は国内経済が絶望的に行き詰ってたのを,失職者を満州と内蒙古に「満蒙開拓団」として送り出す(体よく追い出した,棄民した,とも言う)ことで,国内経済をどうにか維持していたので,欧米向けの輸出が減った分をカバーする(押し付けるとも言う)ためにも ,植民地がどうしても必要だった.
 移民の数は当初の計画を大幅に下回りはしたものの,それでも30万くらいは送り込んでいるから,失業者がそれだけ減るというのは小さくはなかったはず.

 また,当時の日本の主要産業は綿産業で,満州は綿製品の主な輸出先となっていたから商業面でも日本が確保しておけば有利.

 資源面では,満州では鉄鉱石と石炭の産出が豊富で,日本の産業にとって貴重な資源だった.

 食料問題もある.
 当時の日本も急激な人口増加による食料自給率の低下が深刻な問題とされていて.特に国内で消費される大豆の大半を満州からの輸入に頼っていた.

 それらの理由により,当時の日本の国家予算を越える規模の経済投資を行なっていたから,元を取るまでは人手に渡せないという事情があった.

 結局それが大日本帝国が崩壊する直接的きっかけを作ったのは,歴史と地政の皮肉というしかない.

軍事板,2009/07/18(土)
青文字:加筆改修部分

 ※細部に関しては要修正


 【質問】
 なぜアメリカは,日独伊三国同盟からの事実上の日本の脱退を求めたのか?

 【回答】
 日独両国との同時戦争を避けたかったため.
 しかし京都産業大学教授 ・須藤眞志によれば,それを日本は,「アメリカが本気で三国同盟を軍事的な脅威と感じていると錯覚した」という.
 以下引用.

 アメリカはまた日独伊三国同盟からの事実上の日本の脱退を示唆していた.
 アメリカにとっての最大の関心はヨーロッパの戦況であった.
 ドイツの軍事力は強大であり,もしイギリスが陥るということになれば,ヨーロッパはヒトラーの支配するところとなり,アメリカにとってこれは絶対に許すことのできない状況であった.
 しかし,当時のアメリカの軍事力とくに海軍は,大西洋と太平洋を二分するだけの戦力を持ち合わせていなかった.
 アメリカの本音は日独両国との同時戦争は避けたかった.
 そこで三国同盟からの日本の離脱をもとめていたのである.

 しかしこれには日本の大きな錯覚があった.日独は軍事同盟を結んではいたが,その戦闘地域は大きく異なっており,また戦術も違うので日独連合軍というものは実際にはありえなかった.
 つまり三国同盟はアメリカに軍事的な脅威を与えるような実質的な問題は殆どなく,それはファシズムとの枢軸連合という思想的な意味しかなかったのである.
 それを日本は,アメリカが本気で三国同盟を軍事的な脅威と感じていると錯覚したのである.
 戦後アメリカは中ソ連合に大きな脅威を持った一時期があったが,あのときも事実上は中ソ連合軍というより共産主義の一枚岩といった思想的な側面が強かった.

(「『錯覚』この恐るべきもの」)


 【質問】
 「日米了解案」とは?

 【回答】
 1940/4/16に,井川,岩畔,ドラウトの3名がワシントンで作成した文書.
 その背後にはウォーカー長官やハル国務長官,また野村吉三郎大使も間接的ながら関与していた.
 しかし,自分の関与していない民間人の間での取り決めと知った松岡は激怒し,了解案を潰してしまった.
 了解案を叩き台として交渉が行われていれば,歴史は大きく変わっていただろう,と京都産業大学教授 ・須藤眞志は述べている.
 以下引用.

 日米交渉は昭和15年11月にメリノール派のカソリックのウオルシュとドラウトという,2人の神父が密命を帯びて来日したことに始まった.2人は全く権限の与えられていない非公式な民間人であったが,その背後にはユダヤ系の財閥と,ルーズベルトの選挙参謀をつとめ大統領と極めて近い関係にあったウォーカー郵政長官がいた.
 日本で2人に応対したのは,元大蔵省の財務官で,ニューヨークの日本領事館に勤務したこともある,やはりカソリックの信者であった井川忠雄であった.
 井川は2人を松岡外相や武藤軍務局長に紹介した.
 しかし,松岡は2人に不信を持っていた.
 このルートでの日米国交調整が有望とのことで,近衛首相は当時軍事課長であった岩畔豪雄を野村大使の補佐として派遣した.
 井川はその下準備と通訳ということで一足先に渡米していた.
 井川,岩畔,ドラウトの3名はワシントンで落ち合い,4月16日に「日米了解案」なるものを作成した.
 その背後にはウォーカー長官やハル国務長官,また野村吉三郎大使も間接的ながら関与していた.
 日米了解案は全く公式的なものではなく,ハルも野村もその内容を承認していたわけではなく,それをもって叩き台とすることを了承していただけであった.
 とくにハルは,アメリカ側の全くのめない,たとえば満州国の承認といったことが含まれていることも充分承知の上であった.

 了解案は直ちに野村の説明文とともに日本に送られたのだが,そのとき松岡外相は丁度ヨーロッパからの帰国の途中で満州まで来ていた.留守は大橋忠一次官があずかっていたのだが,了解案が打電されてきたとき閣議中であった.電報を受け取った大橋と寺崎太郎局長の2人が閣議中の近衛首相を訪ね,只今アメリカから重大な提案が参りましたと報告した.閣議中にもかかわらず近衛はこれをアメリカ提案として紹介したのである.これを聞いた東条陸相なども大喜びであったと記録されている.
 早速,主義上賛成との打電をしようということになったのであるが,松岡外相が不在ということで帰国するまで待とうということになった.満州まで来ている松岡洋右に近衛が直接電話することになった.電話を受けた松岡は「そうか,もうきたか」といって上機嫌であった.ここに日本の運命を決するほどの,二つの錯覚が生じたのである.

 第一は,これは「アメリカから来た案」であって,「アメリカ案」ではなかったにもかかわらず,近衛はこれをアメリカ案と錯覚して,こともあろうに「ハル長官の提案」として紹介したため,閣議ではそれでは日本側の修正案を出そうという意見まで出た.
 たしかにアメリカから来た案と,アメリカ案という言い方はまぎらわしいが,その意味するところが全く異なることはいうまでもない.
 この誤解が解けるのに1ヵ月近くかかり,しかも開戦に至るまで完全に解けたとはいい難かった.
 たとえば開戦直前の12月1日の御前会議においても,東郷外相はまだ了解案の一部をアメリカの言い分として使っている.

 第二は,実は松岡は独自のルートでアメリカと接触していた.それは駐ソ連のアメリカ大使スタインハートを通じてのものであった.
 松岡は近衛の電話を受けたとき,その返事が早くも来たと早合点したのである.
 帰国して事情を聞くうちにそうではなく,自分の関与していない民間人の間での取り決めと知った松岡は激怒し,了解案を潰してしまったのである.
 了解案を叩き台として交渉が行われていれば,歴史は大きく変わっていただろう.

(京都産業大学教授 ・須藤眞志「『錯覚』この恐るべきもの」)


 【質問】
 日米首脳会談は何故実現しなかったのか?

 【回答】
 京都産業大学教授 ・須藤眞志によれば,最初から単なるリップ・サービスだった,との由.

 第二次近衛内閣となり,外務大臣に豊田貞次郎がなって,日米国交調整の打開策として近衛・ルーズベルトの首脳会談が浮上したときに,再び〔和平への〕チャンスが訪れた.
 近衛はこれに全面的な期待をかけた.
 ルーズベルトも,会談場所はアラスカのジュノウが適当,と返事を寄こした.
 日本側は空母に改造予定であった新田丸を急遽用意し,外務省,陸海軍の随員も決め,機材も持ち込んだ.

 しかし,当時アメリカ国務省で大きな力を奮っていたホーンベック政治顧問の反対があり,この首脳会談は実現されなかった.
 だが本当のところは,じつはルーズベルト自身最初から会談など行う気はなかったのである.おそらくルーズベルトは日米戦争を決意しており,いまさら日本との実質的な妥協など考えていなかったのである.
 ルーズベルトのリップサービスを本音と勘違いした日本側の大変な錯覚であった.

(「『錯覚』この恐るべきもの」)


 【質問】
 大戦前のアメリカが対日経済制裁案を発動したとき,ルーズベルト政権内部には「これは戦争を誘発する」という危惧の声はなかったのですか?
 あったのだとしたら,そうした声を上げていた人を教えてください.

 【回答】
 基本的には,上院に於ける合同決議案第123号,同143号が可決されているので,これに反対する声は小さいものです.
 但し,日米通商航海条約の破棄については,元々,1911年の条約を破棄すると言う提案を行った上院のヴァンデンバーグ議員は,古い条文を見直して,時代に合うようにこの条約を再締結すると言う意図の下で,決議案を提出し,可決したのですが,実際には,国務省サイドはそれを破棄するだけで,新規に条約を締結する所まで行ってません.

 ちなみに,この時期の新聞論調はパネー号誤爆事件もあって,今の日本の北朝鮮に対するような感じで,反日一色だったりするので,その意見に反する立場を取ることは,議員達にとっては死活問題だったりします.

眠い人◆gQikaJHtf2

 てか,アメリカは「日本の黄色い猿どもは軽く鞭を当てれば降りる」と判断していた証拠が多数残ってる.


 【質問】
 ルーズベルトが大統領でなければ,日米戦争が回避された可能性はあるか?

 【回答】
 「ルーズベルトが大統領にならなければ」という前提が成り立つのであれば,可能性はあったと思う.

 アメリカの世論は,ルーズベルトの積極的・対決姿勢の政策に憂慮を示していた.
 1941年当時は,アメリカにはモンロー主義が根強く残っており,国際政治に積極的に関与することには反対していた.
 もし,孤立主義を信奉する人物が大統領になっていれば,状況は全く違っていただろう.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

「もしバートン・ウィーラー(Burton Wheeler)上院議員(モンタナ)やジェラルド・ナイ(Gerald Nye)上院議員(カルフォルニア)のような孤立主義者が大統領であったなら,アメリカは日本の侵略に対決姿勢をとるよりも,宥和しようとしたかもしれない.
 そしてその結果,日本はアメリカを攻撃する必要を全く感じなかったに違いない.
 当然,日本の侵略は阻止されず,日本は西太平洋で地域大国としての地位を確立したであろう.」

 だが,その後共産主義との戦いにおいて,最前線に立ったであろうことは想像に難くないが・・・.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
>当時の日本は,輸出で20%弱,輸入で10%でしかない中国のために,輸出入共に60%を
>超える英米を敵に回したのです.
>経済関係は必ずしも,戦争を抑止しえません.

あなた,頭,大丈夫 ?

真珠湾攻撃 理由 で検索してごらん.

「ABCD包囲網」で経済や貿易を封鎖されていたぐらい勉強しとけよ.

この無知野郎が.

日本は石油の備蓄が無くなる前に資源の確保をしようとして,つまり封鎖をしているアメリカにケンカを売ることにしたわけだ.

やすし in mixi,2009年12月17日 18:53
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 その原因が,中国との戦争です.
 つまり,原因を作ったのは日本のほうなのです.

 本当に経済が戦争を抑止しえるのなら,こんな事(←中国侵略)は出来ないはずです.
 日本の経済が,ぼろぼろになるのは目に見えてます.

 そして本当に経済が戦争を抑止しえるのなら,アメリカから経済制裁を喰らった時点で,対中戦争を中止してアメリカとの関係正常化を模索するはずですが,そうはなりませんでした.
 つまり,経済で英米に依存していたにも拘らず,英米に喧嘩を売るような真似をしたのです.
 経済は二の次にされたということです.

 また当時の経済構造からも,日本は英米抜きではどうにもなりませんでした.
 当時の日本は,日本で生産される生糸の大半をアメリカに輸出して,その代価で綿花,石油,工作機器,鉄屑,パルプ等を輸入しておりました.
 輸入した綿花は加工して綿布にしてイギリスへ輸出,イギリスからは鉄鉱石,石炭,ゴム,亜鉛,鉛,アルミ等を輸入しておりました.
 中国とは工業製品や機械類を輸出し,農産物,食料品などを輸入しておりました.
 つまり,英米との関係が絶たれたら,それだけで日本の経済は崩壊します.
 中国との貿易ですら,輸出品の原材料が英米からの輸入であるため,英米を失えば自動的に中国をも失います.

 このような状況であるにも拘らず,日本は英米を敵に回す対中戦争を実行したのです.
 本当に経済が戦争を抑止しえるのなら,中国との戦争など出来ないはずです.

 以下は,英国の評論家ノーマン・エンジェルの言葉です.
「これほど世界各国の経済の相互依存性が高まった状態で,戦争は考えられない.」
 第1次大戦の前に,彼が言い放った言葉です.
 当時のヨーロッパでも,経済の相互依存が進んでいましたが,現実には第1次世界大戦が起きております.
 つまり,経済は戦争の抑止の決定打にはならないのです.

鉄底海峡 in mixi,2009年12月18日 08:39
青文字:加筆改修部分



 【質問】
>以下は,英国の評論家ノーマン・エンジェルの言葉です.〜〜経済は戦争の抑止の決定打にはならないのです.

 R.Keohane&J.Nye『Power and Interdependence』(1977)により「複合的相互依存」という概念が提唱され,各国同士の政治的・経済的・軍事的依存の深化が国際紛争の防止に繋がると論じられていますが?
 その本の記述ではこのようになっている.
【国際関係における結合の多元性,国際政治における争点序列の不在,国際紛争の多元化に伴う国家軍事力の相対化 】
 事実,「冷戦」が「熱戦」にならなかったことにより,国際関係論においては,一定以上の確からしさがあるものとして認識されている.

七師三等兵 in FAQ BBS,2010/1/14(木) 11:23
青文字:加筆改修部分

 【回答】
>各国同士の政治的・経済的・軍事的依存の深化が国際紛争の防止に繋がると論じた.

 WW1または太平洋戦争の開戦に際して,経済的にはともかく「各国の政治的・軍事的依存」がどの程度存在していたかを具体的に検討した上であれば,追記に値するかと思います.

 ノーマン・エンジェル氏の言葉は
「WW1以前にも経済依存が戦争を抑止すると考える人がいたにも関わらず,現実にWW1は生起した」
ということがポイントです.
 WW1は経済依存があったと当時考えられていたにも関わらず戦争が生起したが,冷戦が熱戦にならなかったのは何故か,この違いはどこにあるのか?
 七師三等兵氏の質問からすれば,
「WW1は依存の深化が足りなかった」
となるでしょうが,経済依存は十分と考える同時代人がいたにも関わらず,依存の深化が足りないのはなぜか,何が足りなかったのか?
 ここは具体的に指摘・検討されるべき箇所かと思います.

 原質問も原回答も経済的依存しか問題としていませんから〔略〕

名無しT72神信者 in FAQ BBS,2010/1/16(土) 14:11
青文字:加筆改修部分

>この違いはどこにあるのか?

 Keohaneは「international regimesの成熟」を提示してます.

七師三等兵 in FAQ BBS,2010/1/18(月) 11:15
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 ところで私は国際政治学については無知ですし,概書も読んだことないのですが,上を書いた後にこちらのBlogのエントリを見つけました.
http://perlegi.blog72.fc2.com/blog-entry-43.html

 こちらのQ2の項目が正しいなら,原質問と原回答は該当エントリ中の,
「通商関係の発展が戦争の合理性を引き下げると考える,伝統的な経済的リベラリズム」
の妥当性についての議論であり,ナイとコヘインは,
「自分たちの相互依存論はそれとは違うよ」
と述べているのではありませんか?
 私の手には余りますので,識者の方の解説を期待しております.

名無しT72神信者 in FAQ BBS,2010/1/16(土) 14:42
青文字:加筆改修部分

 【回答】
>「自分たちの相互依存論はそれとは違うよ」

 これが曲者でして(笑)

 該書中で,
・「敏感性(sensitivity)」(「経済的」な相互依存関係において,一国の経済的変化が他国の政府や社会に与える負の影響)

・「脆弱性(vulnerability)」(相互依存関係を断ち切られた場合に,それを回復するための費用)

という概念を提示して,経済的相互依存関係がパワーの源泉となることを論じておりまして,結果的にはネオリベラリズムの中心的概念と捉えられております.

七師三等兵 in FAQ BBS,2010/1/18(月) 11:15
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 あなた自身も,かつての日本人たちが気違いじみた行動を取ったことを認めている.
 なぜ,かつての日本人たちはあのように愚かだったのでしょう ?

やすし in mixi,2009年12月18日 19:57
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 原因は複数あります.

 まず第一に政治の失敗が挙げられます.
 政治の腐敗が軍への期待に変わり,軍部に権力を持たせる最大要因となりました.
 特に犬養毅の責任は重大です.
 政権を獲る為に,ワシントン軍縮条約による海軍軍備制限を“統帥権干犯”と言い立て,それを通してしまった事が,軍部の独走につながりました.

 第2には,当時の日本国民の政治に対する怠慢.
 確かに当時(昭和初期)の日本の政治は腐敗しておりました.
 それに嫌気がさしていた国民は,自分たちが(政治の腐敗をなくす為に,より良い政治家を見極めて個会へ送り出すという)努力することよりも,軍ならこの状況を改善してくれると過剰な期待を掛けてしまったのです.
 当時の国民の支持なくして,軍部が政治を牽引する事は出来ませんでした.

 第3に政治・軍事制度上の欠陥.
 大臣を出さないという手段により,安易に政権を潰す事ができたことが挙げられるでしょう.
 これは軍部に限らず,他の省庁でも,やろうと思えば可能でした.

 他にも挙げれば幾つもありますが,それらの要因が複合して,あのような事態へと到らせました.

鉄底海峡 in mixi,2009年12月19日 06:45
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
「太平洋戦争については,日本は蒔いた種を刈り取る羽目になっただけですね.石油禁輸はリアクションに過ぎません」というのはおかしい.
 石油禁輸され,ほんの僅かしか石油が輸出されず,俗に言うABCD包囲陣の打破を目指したのは,日蘭会商の決裂が理由の一つじゃないか.

 それにこの交渉の推移を知っているのか?
 日本側の要求量に対する回答を示しただけで,日本側の交渉を全く受けなかった.
 ついに担当外務官小林や芳沢が交渉打ち切って帰ろうとするほど,態度が悪かったそうな.
 たぶんもうすでにアメリカから圧力掛けられていたから,交渉を続ける気がなかったんだね.

 【事実】
 あなたの意見には,「石油禁輸が何に対する対抗処置であったか?」という視点がまったく抜け落ちていますね.
 また,あなたの意見には,蘭印側が日本に対して持っていた疑念が,全く材料として登場していませんし,交渉の経緯を客観的に記述したものとも言えません.

 以上,あなたの意見は独断的である上に,主客関係も転倒しており,また,客観的な事実を反映したものとも思われません.

(軍事板)


 【珍説】
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6S_NERAI.htm
 ここにある蘭印回答量は,平時では足りるが,当時は日中戦争中で,日本が要求した100%にはまったく足りず,日本は日中戦争の続行が不可能になるという危機に直面していた.
 そこで日本は,100%の資源獲得と,援蒋ルートを断つことを目的として南部仏印への進駐を行った.

 更に,南部仏印進駐の結果,アメリカは,日本との交渉を放棄し,石油の禁輸に踏み切ったと書いてあるが,日本は日米交渉の最中,ハル・ノートが提示された後,最後の打開策として乙案というものを出している.

1 日米両国は,仏印以外のアジア・太平洋に武力進出を行わず
2 日米両国は,蘭印の物資獲得について協力する
3 日米両国は,通商関係を資産凍結前に戻す
4 米国は,日支和平の努力に支障を与えない
5 以上が成立すれば,日本は南部仏印から撤兵する

 簡単に言えば,日中戦争続行に必要な資源さえ輸出してくれれば南部仏印から撤退するというものだ.
 しかしこれをアメリカが蹴ったということは,南部仏印に進駐したから石油を禁輸したというものは,単に石油を禁輸したかったから口実として南部仏印を利用したという事実が浮き彫りになっただけだと言える.

 この乙案をアメリカが蹴ったため,12月1日,日本は開戦を決定した.

かわぐちかいじ「ジパング」スレッド in アニメ板

 【事実】
 ぜんぜん浮き彫りになんかなっていませんが(笑).

 第一に,別項目で述べられている様に,南部仏印駐留は援蒋ルート遮断が目的であって,「資源100%確保をも目的にしていた」なんて,寡聞にしてどの資料にも見当たりません.

 第2に,アメリカとは友好国である中華民国を攻撃し続けたいから,その資源を輸出してくれ,なんて要求を,アメリカが受け入れるわけがないでしょうに.
 ゆえに,「口実である」などという証拠にはなりません.


 【質問】
 日蘭会商を日本が蹴ったのは何故ですか?
 要求量の半分以上は貰えたんだから蹴る理由が解りません.

 【回答】
 「戦史叢書 大東亜戦争開戦経緯4」P51によれば,
「今日までの蘭印のやり方は不都合にして,又応諾量も不足故,調印すれば国民は不承知なるべく,佛印や泰等にも日本の弱くなった感想を与え好結果とならず,調印せざるを可とす」

軍事板
青文字:加筆改修部分

 モーラル・エンバーゴ(道義的禁輸令)の発動が39年12月.
 この時点で既に南方資源確保に食指を動かし始めた.
 その前にサウジアラビアやメキシコ,アフガンと交渉したが芳しくなかった.
(唯一の成功は,エクアドルのマナビ・エメラルダス両州の鉱区を獲得した事)
 日蘭交渉の前に,それら交渉失敗の背景に米国の意図を感じ取っていたから,尚更強硬に出てしまった.

シチュー砲 ◆STEW.ibjrE in 軍事板


 【質問】
 アメリカの対日石油禁輸はドラム缶詰は例外とする抜け穴があったという事についてですが,この状態でアメリカから日本はどれ位の石油が輸入できたんでしょうか?
 また,この状態は真珠湾攻撃まで続いてたんでしょうか?

 【回答】
 アメリカは1939年7月26日に日米通商条約破棄を通告,翌年8月1日にオクタン価87以上の揮発油およびオクタン価を高める4エチル鉛の対日輸出を制限する決定を下しています.
 これ以後いわゆる太平洋戦争終結まで,この事実上の禁輸措置は続きました.

 が,オクタン価の低い揮発油や原油・重油の輸出は,制限付きながらまだ許可されていたため,日本は相当量を輸入しています.
 1940年8月10日〜1941年7月26日までの間日本が輸入した石油類は,原油1091万6491バレル,重油582万4279バレル,オクタン価87以下のガソリン498万4198バレルです.

 なお,1941年7月25日(日本時間26日)アメリカは日本資産を凍結し,続く8月1日に対日石油禁輸措置強化策を発表しました.
 この結果,アメリカは決済にアメリカおよび南アフリカに日本が保有するドルを要求し,日本側が求める極東に保有しているドルおよび金による決済を拒否したため,事実上日米貿易は完全停止しています.


 【質問】
 乙案は究極の譲歩案だと聞きましたが,読んでみると,甲案とあまり変わらない内容にしか見えません.
 どのへんが「究極の譲歩」なんでしょうか?

 【回答】
 太平洋戦争直前の対米交渉について平たく言うと,
甲案;俺らの好きにさせろ,口を出すんじゃねぇ,ボケ
乙案:手を引いてもいいけど,その代わりのブツはだせよ?
ということになる.
 まー,どっかの北のお国みたいですね.

▼ ちなみに歴史家のサミュエル・モリソンは,この案を以下のように評価している.
 強調,編者.

――――――
 東条の平和への代価,彼が最後通牒と呼ぶものが,ワシントン駐在大使を通じて提出されたのは,1941年11月20日だった.
 それは次のように要約できる.

 アメリカは,日本にインドシナと中国におけるフリーハンドを容認すること.
 アメリカは,蒋(介石)に対する援助を止めること.
 日本との通称関係を回復し,南太平洋あるいは極東,フィリピンへの軍事力の増強を中止すること.

 このような,敗戦国だけが受諾できるような異常な譲歩の見返りとして,日本が提案したのは,東南アジアへの軍事力増強の中止と,中国に平和をしいた後のフランス領インドシナからの撤退だった.

――――――『モリソンの太平洋海戦史』(Samuel Eliot Morison著,光人社,2003.8.31),p.60

 たぶん小林よしのりなどは上記太字部分を,全く真逆の意味にとってしまったのではないかと.
 確証バイアスの強い人にはありがちなこと.▲


 【質問】
 太平洋戦争開戦前の近衛首相とルーズベルトの首脳会談は,なんで実現しなかったんですか?

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 サミュエル・モリソンによれば,ジョセフ・グルー駐日アメリカ大使もルーズベルト大統領も,このサミット会談には賛成していたが,国務長官コーデル・ハルが反対していた.
 ハルは近衛の性格をスリッパリィ(当てにならない,ずるい,不安定)だと見ており,また,仮に会談が開かれたとしても,日本が三国同盟を放棄するなど,従来の基本的合意以上のものは得られないだろうと考えたのだという.
 彼は1941/10/1,会談を拒絶するよう,FDRを説得した.

 詳しくは『モリソンの太平洋海戦史』,p.58-59を参照されたし.


◆◆◆◆ハル・ノート関連

 【質問】
 ハル・ノートについての質問なんですが,よく聞かれる日本の中国以外の海外領土の喪失なんてこと明記してありますか?
 実際に読んでみると,この案の内容というのは ,中国問題のアメリカによる解決策(と日米の経済摩擦の解消)が書かれているだけで,日本の権益をそれほど損ねるものではないのでは?

 【回答】
 そんなことはありません.

 ハルノートの主な内容です.

 (1) 米国政府及び日本国政府は,英蘭支ソ泰及び米国の間にと共に多辺的不可侵条約締結に努力すること.
 (2) 両国政府は米英支日蘭及び泰政府間に仏印の領土主権尊重に関する協定を締結するよう努力すること.
 (3) 日本は支那及び仏印より一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤退させる.
 (4) 日米両国は中華民国政府以外の如何なる政権をも軍事的,政治的,経済的に支援しない.
 (5) 日米両国は外国租界及び居留地内およびこれに関連せる諸権益をも含む支那にある一切の治外法権を放棄するものとす.
 両国政府は外国租界及び居留地に於ける諸権利に,1901年義和団事件 議定書による諸権利を含む中国に於ける治外法権放棄につき,英国政府および其の他の政府の同意を取り付けるべく努力する.
 (6) 日米両国は互恵的最恵国待遇及び通商障壁引き下げを基本とする新通商条約締結の交渉に入る.
 (7) 日米両国は相互に資産凍結令を廃止する.
 (8) 円ドル為替安定につき協議する.
 (9) 両国政府が第三国と結んだ如何なる協定も本協定の目的即ち太平洋全地域の平和と矛盾するが如く解釈されてはならない.
 (10) 両国政府は他の諸政府をして本協定に定められある基本的な政治的及び経済的諸原則を遵守し且つ之を実際に適用せしむる為其の影響力を行使するものとす.

 この(3)と(5)だけでも,日本の権益は完全に失われると思います.
 対して,元々中国での利権獲得に遅れていたアメリカは大したダメージを受けません.

 さらに,アメリカは満州国を承認していなかったと思いますが,そうするとハルノートに於ける中国には満州も含まれる事になり,日本は満州の権益も放棄する事になります.
 ただし,満州国はハル・ノートには含まれないという説もあります.
 このへんはまだ未確定です.

 こんな物をそのまま受け入れたら,まず世論が黙っていませんよ.怒り狂った国民によって暴動が起きます.

 その他の項目については,交渉次第で妥結の余地があると思いますが.

 まぁハルノートに関しては試案であるし,それ以前の外交関係の結果に過ぎないので,これをもってアメリカの挑発云々というのは的外れですが.


 【質問】
 ハル・ノートの言う「中国」には満州は含まれていたのか?

 【回答】
 アメリカ側の研究者から近年,ハル・ノートの中国には満州は含まれていなかったとの説が出されている.
 京都産業大学教授 ・須藤眞志も,次のように述べている.

 11月になり東条内閣が成立し,東郷茂徳が外相となった.
 天皇の意向もあり東条内閣も日米交渉には最後まで外交的努力をすることとなり,最後の提案というべき甲案・乙案を用意し,また栗栖三郎大使を野村の補佐として派遣した.

 日本の暗号電報をすべて解読していたアメリカ側は,このままでは戦争になると危惧し,国務省は日本への対案として3ヵ月休戦の暫定協定案を作った.
 これはかなり妥協的な案であり,戦後東京裁判でこれを見せられた東条英樹は,これがくればと絶句したと伝えられている.
 しかしアメリカはこれを手渡すことなく,結局強硬な原則を示した,いわゆるハル・ノートを寄こした.

 11月26日にこれを見た,さしもの和平派であった東郷も,これは日本の国家的な自殺を要求するものとして絶望感にとらわれ,御前会議でも日米開戦やむなしとの結論になったのである.
 日本がハル・ノートを絶対に受け入れられないと感じたのは,満州をも含む全中国大陸からの撤兵を要求し,実質的に満州国の放棄を要求していると解釈したからである.
 現在でもこのことを信じている人達が大部分である.

 だがここにまた重大な錯覚があった.
 アメリカ側の研究者から近年,ハル・ノートの中国には満州は含まれていなかったとの説が出された.これは悲劇的な誤解であったというのである.
 日本側がほぼ全員といってよいほど「満州を含む全中国からの撤兵」と解釈しているのとくらべると大きな違いである.
 たしかに現在ハル・ノートを読んでみれば,満州を含むなどとはどこにも書いてない.思い込みとは恐ろしい.

 ハル・ノートが,その作成の過程でソ連の秘密工作員の関与があったことは最近の研究で確証があり,ロシアにその張本人が今も健在である.
 ハル・ノートはそれ自身が戦争の原因ではないが,日米開戦の引きがねとなったことは確実である.
 もしハル・ノートの満州条項での解釈に錯覚がなければ,あるいは事態は大きく変わったかもしれない.
 少なくともそのことはアメリカ側に問い質すべきであった.

(京都産業大学教授 ・須藤眞志「『錯覚』この恐るべきもの」)

 【珍説】
 ハル・ノートは,日本を日露戦争以前に戻させるもの.

軍事板

 〔甲案,乙案に対し,〕しかしアメリカ国務長官ハルの返事は,妥協の余地のない「ハルノート」だった!
 支那からの全面撤退.日露戦争以前の日本に戻れ!
 門戸開放.日露戦争以降のアメリカの要求を飲め!

 日露戦争以来くすぶり続けた,日本に対する白人の悪意は,こうして爆発した.

(小林よしのり「戦争論」3,2003/7,p.234)

 【事実】
 小林よしのりか誰かのプロパガンダを真に受けているみたいだね.
 ハル・ノートは要するに,「9ヶ国条約」違反の権益を返せと言う内容であって,ベルサイユ体制下で確立した日本の既得権益に文句をつけてなどいないよ.
 ※ ベルサイユ体制とは一次大戦後の世界秩序を指す.太平洋方面についてはワシントン会議でほぼ完成を見たのでベルサイユーワシントン体制とも言う.ベルサイユ条約のみを指すものではない.
 ちなみに,以下は某サイトより拾ってきたハルノートのタイトルとその邦訳です.

Strictly confidential, tentative and without commitment November 26, 1941
「機密,試案であって義務を伴わない日米交渉11月26日米側提案」

 ここからも分かる通り,ハル・ノートって交渉の叩き台に過ぎないんですな.「妥協の余地のない」どころか,此処から交渉を始めましょ,って内容の.

軍事板 改

 【珍説】
 ハル・ノートは例えて言えば,アメリカに対して,王国を滅ぼして併合したハワイや,ロシアから買ったアラスカ,更にメキシコから「戦利品」として奪ったカリフォルニア・ニューメキシコ・テキサス等の諸州を全て放棄し,建国当初の東部十三州に戻れ,と言っている様なものです.

推定林間≒「一応仮コテ」

 【事実】
 ????????????
 ハワイはともかく,アラスカはきちんと「商取引」で買った土地.
 他の土地は戦争できちんと条約を結んで併合したものですが・・・・.
 その時,世界各国が文句を言いましたか?
 どこぞの満州国と違って,アメリカの行動は世界に容認されていましたがなにか?

 一方,日米の場合は,その勢力圏はベルサイユ体制下で相互承認されている.
 ハル・ノートは,その相互承認を超えた範囲を超えた所を問題にしている.
 「坂上田村麻呂以前の領域に戻れ」とハル・ノートが要求していたのなら,上記の様な例えに当てはまるが.上記珍説は,ハルノートは不当であるとしたいがための言いがかりに過ぎない.

軍事板


 【珍説】
 〔日本の軍部は〕 欧米列強の,東アジアの植民地化におびえながら,経済封鎖され,石油禁輸され,ハル・ノートで誇りを傷つけられ,日本の自存自営のため,「政策」の延長として,戦争という策をとったのだ(小林よしのり『戦争論』)

 【事実】
 経済封鎖,石油禁輸というのは,事実ではありません.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6S_NERAI.htm


 【珍説】
 ハル・ノートは,アメリカが日本と戦争をするためにわざと無理難題をふっかけた.

 【事実】
 ルーズベルトとハルは強硬でいったけど,最後通牒のつもりでは出してはいません.
 これは,開示された当時の機密文書からも明らか.

 ただ日本側が,これは最後通牒って判断しました.
 それでも若槻,平沼,米内,阿部,岡田,広田なんかの重臣会議では,まだ妥協の可能性はあるといっていましたが,東郷(茂徳外相)が
「いいや,もう無理」
と,打ち切りで進めました.

 東條も東條で,陸軍を押さえて開戦回避のため,首相に推薦され裁可されたのに裏切って,
「いつが勝機だ」
とか和平派の東郷に怒ってます.
 この東条の実態を見抜けなかったのが,木戸・昭和の人選ミスです.
 さらに,東条採用はアメリカに戦争開始のサインを与えたようなものです.

 昭和天皇は,10月には英米協調派よりで和歌を披露したが,12月には内部工作が効果を挙げて開戦認可派になっており,御前会議では無言と言うかたちで裁可したそうです.
 木戸日記などによると,東条あたりから,早期講和(=ローマ法王やソ連仲介)で領土拡大の見通しを聞かされて,その気になって行ったようです.
 穏健派の木戸らの言うことに耳をかさなくなって来たと,愚痴めいた記述があるようです.

 昭和天皇は明治天皇を尊敬してましたから,領土拡大は天皇の務めの一つと考えていたようで,喪失は恐れていたようです.
 「火事場泥棒のようにではなく,八紘一宇の精神で」領土拡大して欲しいとは,語っていたようです.

 ハル・ノートも含め,近衛以来,日米交渉では,3回くらい日本は誤解をしたようです.
 ハル・ノートも,満州からの撤兵はいらないという,抜け道解釈もできました.
 吉田茂ラインは,ハルノートに日付がないのを利用して,再交渉しようと画策したらしいですが.
 甲乙案2つあるのがばれてなければ,東京裁判で東条が「これが来てれば」と絶句した,「3ヶ月間戦争回避案」てのもアメリカは準備してたらしいです.
 つか,ナチのモスクワ敗退情報が早く入ってれば回避したか,などと夢想.

 ハル・ノートと日米の最終交渉に関しては
『ハル・ノートを書いた男』(須藤真志著,文春新書,1999.2)
をどうぞ.
 日米政府関係者の認識の違いや,内部での駆け引きが分かり易いです.

日本史板,2003/05/10
青文字:加筆改修部分

▼>日本側がこれは最後通牒って判断した.

 これには外務省の誤訳(抄訳)って問題もある.
 外務省はわざとか意図的かしんないが,
「極秘,試案にして拘束力を持たない」
という最初の文を,飛ばして翻訳してんのよ.

軍事板,2009/06/09(火)
青文字:加筆改修部分

▼ 歴史家のサミュエル・モリソンも,ハル・ノートについては最後通牒ではなく,それどころか意味のないものだと述べている.
 以下引用.

――――――
 当時の危機に際して,そのような約定は全く意味がないが,このノートはアルティメイタム(最後通牒),つまり戦争の代案,ではないことを強調しなければならない.
 このノートには,もし東条が拒否したら,大統領は日本に対する宣戦布告を求めるだろうという脅しは,まったく表現されていなかったし,ほのめかされてもいなかった.
 日本が新たな侵略的行動を取らない限り,ワシントンに関しては,コールド・ウォーは無限に続いたかもしれない.
(コールド・ウォーがどんなに長く続くものかを,我々は知っている)
 さらに,日本がタイ,英領マレー,または蘭領東インドへ侵入した場合,それをアメリカ議会が「カーサス・ベリ」(宣戦の口実)とみなしたかどうかは疑わしい.

――――――『モリソンの太平洋海戦史』(Samuel Eliot Morison著,光人社,2003.8.31),p.61



 【質問】
 当時の機密文書って何ですか? どっかで読めます?
それに,あれが最後通牒のつもりではないにしても,到底呑める内容ではないと思うのですが,どうなんでしょう?
 仮にあれを呑んでも,交渉の席で「禁輸解いてやるから・・・」とかいって,また新たな条件を突きつけられてたと思います.
 んでズルズルと日本が植民地化するか,ブチ切れて戦争に突入するまで要求は続いたでしょうしね.
 あっちは日本とより,ドイツと戦争できる理由が欲しかっただけみたいだし.
 【回答】
 以前,HN「海の人」が,海上護衛戦スレ vol.3で抄訳を紹介していたかと記憶しています.国会図書館に確かあったとか.

 ちなみに,以下は某サイトより拾ってきたハルノートのタイトルとその邦訳です.

Strictly confidential, tentative and without commitment November 26, 1941
「機密,試案であって義務を伴わない日米交渉11月26日米側提案」

 ここからも分かる通り,ハル・ノートって交渉の叩き台に過ぎないんですな.最後通牒どころか,此処から交渉を始めましょ,って内容の.

 本サイトでもしばしば指摘されていると思いますが,国立公文書館 アジア歴史アジア歴史資料センター(アジ歴)によくそろっています.
 今回のハルノートについては
http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/pop_26.html
から閲覧できます.
 私の勉強がたりないことによるのでしょうが,この「アジ歴」は非常におもしろいです.

HDK in FAQ BBS,2010/2/13(土) 21:54
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハルノートを日本が飲めば,アメリカ資本が満州に雪崩れ込んでいたのではないか?

 【回答】
 これは疑問で.
 何せ当時のアメリカには「戦争法」と言う法律がある.
 ソ連と事を構える覚悟を持った上で,対英支援のように戦争法を拡大解釈せん限り,アメリカ人は満州にやって来られないんじゃ無かろうか?
 何だかんだ言っても,当時の満州を安定化できる実行力を持った組織は関東軍以外には存在しない.
 アメリカはどれだけ文句垂れようが,せっかく得た市場を守る為にも日本と関東軍を支援・協力する立場に追いやられるじゃなかろうか.

 いや,ホントにざっと考えただけなんで,そんなに単純じゃないとは思うんだけど.>ハルノート受諾後の仮想満州
 でも,もしそうなった場合.
 釜山で陸揚げされて,満鉄経由でソ連に運ばれる対ソ支援物資(そしてソレを馬賊から守る関東軍)・・・と言うシュールな光景が見られたかもしんないね.
 何せ史実でも,ウラジオ行きの援ソ物資輸送船団を律儀に見逃していたんだからねぇ.

 そういや,作る会系の連中も
「ハリマン提案を呑んで,満州地域の安定を計るためにアメリカ巻き込むのも ,一つの案」
だと言っていましたなあ.
 何故か小林よしのりは嫌ったようですが.
・米資本に(後の)満鉄が乗っ取られる.
・皇軍兵士の血で得た黄土を米帝に!(以下略)
などと考えたんでしょうね.

 前者については,日露戦直後ならまぁ充分にあり得ましたが(見た目,ですけど).
 ただ,肝心の米政府はフィリピンの開発と防衛に頭一杯で,シナ大陸進出なんて気がサラサラ無いので,どこまで満州進出企業をバックアップ出来たかどうか疑問です.
 加えて当時のアメリカ経済ってのは,金融経済が未成熟なクセに規模ばっかりデカイから好不況の並みが激しく,アメリカ政府はその安定化の為に欧州金融業(ハッキリ言えばロスチャイルド)の誘致を積極的に進めてました.
 が,欧州人から
「アンタんところ不安定過ぎるからイヤ! ゴム景気で沸くブラジルの方がマシ!」
と肘鉄食らってます.
 当時のアメリカは,ハリマン達民間人(の大金持ち)は威勢が良かったんですが,国を挙げての海外雄飛なんて時代じゃ無かったんですな.
 ルースベルトの事だから「満州に騎兵隊はいないぞ」ぐらいの事は言ったでしょうし.

 で,満州事変以後の満州にアメリカが参入してどうなったかと言えば,鉄道を満鉄が抑えている以上,どうにもなりゃしませんわな.
 満鉄に並行して競合線を作ったとしても,サービスの面で満鉄に勝てたかどうか怪しいモノで.
 結局は消費市場に進出して「Made in USA」旋風を巻き起こすのが関の山かと.
 それで日本企業が大打撃を食うかと言えばソレも疑問で,価格差による棲み分けが出来たんじゃないか,と.
 客観的に見て,アメリカが政治経済の両面から満州に参入可能なタイミングは大恐慌以後の30年代しか無かったと思う.
 ハルノートが出た時期だと,その前にノモンハン紛争があり,間違いなく戦争法適用地帯になってるでしょうから積極的な資本投資は無理でしょうし.

 結局,ハルノートの満州関連条項は,日本への嫌がらせ・イチャモン付け以上のモノじゃなかったと思うんですよ.

(鳥坂 in 軍事板出張スレッド,コヴァ板)


 【珍説】
 アメリカの主張を受け入れていたら,戦前日本はフィリピンのような,アメリカの半植民地にされていただろう.

 【事実】
 フィリピン人でも,江戸時代に毛の生えたような生活(by池波正太郎)でも良いんだけどさ.

 本気で,当時のアメリカが日本を植民地化しようと考えていたなんて思っているのか?
 収奪出来る資源もロクに無く,農地はプランテーションに向かない(北海道じゃバナナもパインも作れないシナ).
 今さら鉄道利権を独占出来るはずもなく.
 工業生産力で言えば,ピッツバーグや東海岸に新工場でも建てた方がマシ(失業対策にもなるし).
 消費市場として見れば,都市部を一歩離れたら南部黒人の方が購買意欲がありそうな,慎ましい生活をしている民衆ばかり.
 植民地化っつー事は,工業資源(石油・鉄鋼)の最大需要者の帝国軍が消滅しているんだから,石油メジャーや屑鉄業者は大打撃を食うし.
 世界戦略(政治・軍事)の策源地として日本の立地条件に注目するのは,中国の大地が赤く染まった後の事だし.
 戦前日本は,当時のアメリカから見れば植民地としての魅力なんざ,これっぽっちも無いと思うんだが.

(鳥坂 in 軍事板出張スレッド,コヴァ板)


 【珍説】
「日米戦争は,ソ連の陰謀で大東亜戦争時のアメリカには,米共産党やソ連の秘密警察であるソ連人民内務委員会(NKVD)の工作員が,ホワイトハウス,国務省,財務省,司法省,CIAの前身である戦略情報局(OSS),陸軍省等に100人以上いたことが判明しているのです.

彼らは巧妙な手口で日米戦争を誘導し,ときの大統領補佐官ですらソ連のスパイだったことが冷戦崩壊の極秘資料公開によって事実確認されています.
その資料によれば,第二次世界大戦すらもソ連が意図的に起こしたことが判明しています」

http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kokkakiki1.htm

 実はハル本人は,より寛容な暫定協定案を作成していたが,ルーズベルトはそれを握り潰し,財務省高官,ハリー・デクスター・ホワイトが作成した強硬案をハルに提出させていた.

 そのホワイトはソ連のスパイだった!
 日米を開戦に追い込む最後の一手は,ソ連の手によるものだった.

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.234

 【事実】
 事実の誇張という土台の上に作り上げられた妄想.

 ハル・ノート作成に関わった米政府高官の中に,ソ連スパイがいたのは事実.
 モーゲンソー財務長官の首席補佐官ハリー・デクスター・ホワイトは,「日本との緊張を除去し,ドイツ打倒を助ける問題へのアプローチ」というタイトルの長文メモを纏める.これは,米艦隊の太平洋からの引き揚げ,日本軍の中国・仏印・タイからの撤兵,期限20年の日米不可侵条約などの内容を含んでいた.
 コーデル・ハル国務長官は,「モーゲンソー長官は財務省で作った草案を送付してきた.……良い点もあったので,我々の最終案に組み入れた」と,回想録にそう記している.

 1945年秋,レポ役の女性とカナダ駐留のソ連軍情報部(GRU)暗号官イゴール・グゼンコがそれぞれ別々に自首,ソ連スパイ網の存在を自白した.これを受け,FBIの捜査が急展開し,ホワイトの関与が判明した.
 この女性は「赤色スパイの女王」と呼ばれたアメリカ人,エリザベス・ベントレーである.ベントレーはFBIに百人以上の名前を供述した.このうち27人は米連邦政府職員だった.その中に,ホワイトや国務省のアルジャー・ヒスの名前もあった.
 FBIは,ベントレーらの証言と,NSAのソ連暗号解読記録をすり合わせ,重要スパイのリストを作成.'45年11月8日,J. エドガー・フーバーFBI長官名で,ホワイトハウスにトップ・シークレットの書簡を送った.
 この書簡では財務長官首席補佐官ハリー・デクスター・ホワイト(後に財務次官補),故フランクリン・ルーズベルト大統領補佐官ラフリン・カリー,農務省のグレゴリー・シルバーマスター博士,戦略情報局(OSS)の要員4人と元要員1人など,計14人の名前を挙げた.
 カリーは,対日強硬策を求める蒋介石の主張を直接ホワイトハウスに伝えた.

 だが,頑固なハリー・トルーマン大統領は耳を傾けず,放置.結局,ホワイトは刑事訴追されなかった.決定的証拠を欠いていたからだ.1948年8月16日,ホワイトはニュー・ハンプシャー州の別荘で,心臓発作のため,死去した.55歳だった.

 詳しくは,春名幹男著『秘密のファイル』上(共同通信社,2000.4),p.90-96を参照されたし.

 つまり,ソ連スパイはハル・ノートにある程度の影響を与え,また,中国問題を巡る強硬派の主張をホワイトハウスに伝えるなどしたが,それが直接日米開戦の原因になったとはとうてい言えない.
 百人という数字も,スパイの総数であって,政府内に百人以上いたということでもない.

 また,
「我々のアメリカでの情報活動は,相変わらずドイツと日本に対する作戦に焦点が当てられていた.サンフランシスコのNKVD駐在官グレゴリイ・ヘイフェッツは,ドイツでの情報活動のできる諜報員をアメリカで徴募しようとしていたが,彼が繋がりを持っていたのは,専らユダヤ系アメリカ人ばかりだったため,適材を見つけることができなかった.
 ヘイフェッツのもう一つの重要な任務は,アメリカにいる白系ロシア人の,反ソヴィエト的発言を押さえることだった.米国の対ソ武器貸与が始まっていたので,ソヴィエトのイメージを変えることが重要だったが,アメリカ政府は,ソ連との繋がりに対する批判的世論に非常に神経質になっていた.
 我々は,この批判がどの程度まで白系ロシア人亡命者の影響を受けているのか知りたかった.
 だが,この関心も,ヘイフェッツからアメリカの大規模な原子爆弾開発の報告が送られてくると,一遍にかすんでしまった.
 特殊任務局長としての私の主要な任務は,ドイツと日本に対するゲリラ戦と諜報活動を組織することだった.
 だが,ヘイフェッツ,セミョーノフ,マクリーンからの報告が一致していたので,我々は原子力の問題を重視した」(P. スドプラトフ他著「KGB衝撃の秘密工作」p.290-298,抜粋要約)
と述べられているように,当時のソ連の関心は他にあり,米国の対日戦への働きかけなど一行も出てこない.

▼ 【余談】
 直接関係はないのですが,あまりにも愉快だったので...

 「ハル・ノート」とハリー・ホワイトのことをこつこつと調べてるんですけど,ハル・ノートというのは一種の和製英語で,アメリカ側では全然重視されていない.
 だから,Hull noteでググってもろくな情報にヒットしないし,Wikipediaも日本語版からの翻訳みたいで,たいしたことが書いてない.
http://en.wikipedia.org/wiki/Hull_note

 しかし,最後に

――――――
The draft of the Hull Note was not written by Cordell Hull himself, but was written by a high official Harry Dexter White. It turned out after the war that White had been a communist spy working for the Soviet Union.
――――――

などとトンデモなことが典拠なしで書いてあるのです.
 それで,その他の編集履歴から考えると,これを書き加えたArimasaというハンドル名の人は,どうやら久保有政という聖書研究家のようなのです.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%9C%89%E6%94%BF

 この人が他に何を言ってるかというと...

・進化論は健全な科学に基づいていない→創造論(インテリジェント・デザイン?)
・イスラエル人の古代日本渡来説(日ユ同祖論)
・神の日本への深い愛を知るには,日本人が東京裁判史観や左翼の自虐史観を脱する必要がある

 トンデモだったらなんだっていいんかい!って感じなんですけど,いろんな理由で自虐史観を脱する必要性があるんだなあって.

バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi支隊」



 【珍説】
 日米戦争勃発に関してソ連が裏工作していた事実について,「妄想だ」と冗談ではなく真面目に言ったアホがいたので,ソ連に関する資料を二つほど紹介しておきます.
 
 尾崎秀實 〜 日中和平を妨げたソ連の魔手
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog263.html

 操られたルーズベルト・米国が日独と戦ったのは間違い
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.html

 当時のソ連には,対日参戦してほしい「切実な」動機があったんだけどねえ.
 んで,パブロフとホワイトの密談は無視ですか?
 「KGB衝撃の秘密工作」を証拠として採用するなら,パブロフ氏の回顧録も採用しなくちゃ.

 どこが電波なのか証明しろよ.
 【事実】
>パブロフ・ホワイト密談

http://www.jca.apc.org/~altmedka/d-1-7-29.html
ソースは木村愛二か….

 「働きかけた」のは事実だろうし,ホワイト・スパイ説は上でも述べられているが,それがどうやれば「操った」に進化するのやら….
 「スパイを通じて干渉する」ことが決定的な要因になったという史料でもあれば兎も角,普通に考えれば「操った」という結論にはならないよ.
 【珍説】
 ハリマン構想(1905:日米による満鉄共同経営計画.小村寿太郎の強い反対により却下)
オレンジ計画(1906:対日戦略の確定)
→日英同盟解消(1921:日本外交の要が米国の強い働きかけにより消滅)
→絶対的排日移民法(1924:米国内法)
→ホーリー・スムート法(1930:米国内法.超高率関税法の成立)
→オタワ会議(世界経済の四分の一を占める大英帝国による超高率関税障壁の決議)
→ABCD包囲陣の完成(1941:説明不要)
→日本資産の凍結・通商航海条約の破棄(同:アメリカ,イギリス,オランダによる)
→ハル・ノート(同:説明不要)

 一連のこの流れを理解した上で,「まだ妥協する余地がある」などと言うのでしたら,最早私には言うことはありません.
「機密,試案であって義務を伴わない」という文言があったからと言って,相手がまともな交渉をしてくると思いますか?

 移民である同胞が迫害され,破廉恥なまでにバカ高い関税(最低で40〜50%,最高で800%)をかけられ,海外資産も凍結され,挙句の果てに石油等の戦略物資が調達困難な状況まで追い込まれる.こういった状況で,当時の誇り高いサムライの国の民が「妥協」を受け入れると思いますか?今の日本人とは精神構造からして違うのですよ?

付け加えるならば,今の我々はアメリカ(ルーズベルト)が「やる気まんまん」であったことも知っていますね.

最後に,当時の国際法の専門家であるパル判事のハル・ノートについての見解を蛇足ながら付け加え
「こんなものを突きつけられたら,モナコ公国やルクセンブルク大公国でもアメリカに戈を取って立ち上がったろう!」

軍事板

 白人達はひたすら4世紀以上の白人全能の歴史にただ一国で立ち向かった有色人種がどうしても許せなかった.

 日露戦争以降,連綿と作成してきた「オレンジ計画」を実行し,さらには主要都市をことごとく空襲で焼き払い,原爆を2発落とすまで収まらなかった.

 それがインディアンを滅ぼしたアメリカの,いや,16世紀のインディオ虐殺から始まった白人の「マニフェスト・ディスティニー」だったのである!

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.243-244

 【事実】
それは,このへんからのコピペかなあ….

http://www8.ocn.ne.jp/~senden97/daitouasensou1.html

 事実を点的に拾っていくと上のような文章になるんかもね.大学の論述問題なら零点だろうけど.

 悪いこといわんから,他人にかみつくなら学術的にちゃんとした本をよんでからのほうがいいぞ.雑誌の記事とか,自称文化人とか,マスコミあがりのブンヤ崩れとか,漫画家とか論外だよ.
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062117517/ref=sr_aps_b_/250-7965070-5492264

 外交というのは相互の流れがあって,帰結にいたるもので,それを無視して「一連のこの流れ」とかいっても,意味はないな.

 日英同盟破棄も,英国の意向その他の情勢の考察を無視している.これについては,平間洋一著「日英同盟」(PHP新書)に詳しい.

 オレンジ計画は別に日本に対する締め付けのためのものではありません.

 アメリカでは1904年,カラー・プランと呼ばれる一連の作戦計画が立案さました.これは将来アメリカと利害が対立するであろうと予想される国々に対し色名を冠してそれぞれに作戦計画を立てたもので,仮想敵国を,ドイツは黒,イギリスを赤,メキシコを緑,日本を橙というように「色」で表していました.「オレンジ計画」はその内の一つで,仮想敵国としてドイツ,イギリスが含まれていることからも明らかなように,日本だけを想定したものではありませんでした.
 具体的には,「オレンジ計画」は日露戦争で急速に大陸進出をはじめた日本に対し,危機感をつのらせていたアメリカが,対日作戦計画として立案を開始.その結果「有事の場合,在比米軍はスビック湾を防衛するとともに,速やかに米艦隊を比島に派遣する」事を大統領に勧告しました.
 そして,この検討の中で,比島の維持は困難である事,太平洋に海軍基地が必要である事,が確認され,海軍基地をハワイに設けることが決定されました.

 これが1924年に決定された「オレンジ計画」で,西太平洋で米国が勝利する為に,
@.マニラ湾の保有もしくは奪還
A.日本の支配下にある島々およびフィリピン諸島にある全ての港の支配
B.日本にとって死活的に重要な海上補給の支配
C.日本の海軍と経済活動に対する海と空からの攻撃作戦
D.日本を降伏させる為,さらに強い行動を取る事
が必要とされました.
 その後,「オレンジ計画」は何度か改定を加えていく内に具体性を持った対日戦争計画へと修正されて行き,海軍大学ではその計画のもとに図上演習を重ねるのが恒例化していきました.

 そして第二次世界大戦が起きると,対枢軸国相手の「レインボー計画」として発展していく事に成ります.
 作戦は具体的に,
@.主力艦隊のハワイへの集結
A.フィリピンの奪還
B.海上封鎖による日本の屈服
を骨子に立案されており,当初の案ではノンストップでフィリピンへ急行する物が,後期では前進基地として中部太平洋の島を確保しながら進撃する,あとハワイへの奇襲に備える為に,要塞砲として40cm砲を配備すつ提言を行うなど,若干の更新は有りますが,根本戦略は変化はありませんでした.

 ニミッツ提督は,この「オレンジ計画」について,
「(海軍大学での)講義や演習は微に入り細をうかがった物だったので,太平洋戦争では実際に起こった事で予想外だった物は一つも無かった」
と言っています.

(なお,「時代は航空機が戦争の主体となってますから,巨艦巨砲主義を前提としたオレンジ計画に出る幕はありません」
と言う意見を見ることがありますが,戦争を表層的にしか見る事の出来無い人の意見であって,ツールが戦艦から空母機動部隊と潜水艦に変わっただけで,戦略の根本は何ら変わっていなかった(日本が地政学的に抱える弱点も含めて)と言う事です)

 つまり,軍事に携わる者なら常識的に行っていること,「可能性が有るなら常に備えはしておく」の例に過ぎません.
 「仮想敵国に設定=敵視政策」ではありません.
 「仮想敵」と言うのは,あくまで軍事技術においての方便であって,本当に敵対していくかどうかは,政治が判断する事です.
 「平和 を望むなら戦争に備えよ」と言う訳です.

 それに,オレンジ・プランは対日軍事行動の効率を高めるもので,それがそのまま対日政策になったわけではありません.
 対日戦略ではなく,対日軍事戦略であるに過ぎません.経済戦略は含まれません.
 石油の禁輸や日米通商航海条約の破棄といった経済的な対日政策は,米国が日本の政策を慎重に見つつ,段階を踏みながら取っていったものです.
 基本的に米国の姿勢は,ヨーロッパに努力を傾注するために,日本との直接の戦争はなるべく避けつつ,日本がワシントン体制に復帰することを促す,というものでした.

 このあたり,非常に細かい部分まで解説しないといけない部分があるので,詳細に話をするとここでの回答の範囲を超えてしまいます.ですので,入江昭の「太平洋戦争の起源」あたりをとりあえずお勧めしておきます.
 そもそも基本データが間違っています.

 「カラープラン」は,1904年にチャフィー陸軍参謀長の提案で着手した物.
 1906年は加州で日本移民に関する決議案が採択された年です.

 「最後は日本の都市を無差別に焼き払って制圧することまで盛り込まれていた」といっても,それは添え物的な物でした.
 「オレンジプラン」は何度も改定されていますが,その骨子は,
@.主力艦隊のハワイへの集結
A.フィリピンの奪還
B.海上封鎖による日本の屈服
で変わっておらず,日本が(と言うより島国,海洋国家が)宿命的に抱えている弱点を衝く,と言う事で,海上封鎖に力点が置かれており,無差別爆撃に関しては幾度か改定されており,且つ何度も行われた図上演習において,日本に降伏を促す手段として検討された事が有る,と言った程度の物です.
 重要のテーマは日本の海上封鎖であって,それに関しては当初の水上艦艇主体から,WWTの戦訓と技術の進歩等で,潜水艦の活用,さらに航空機の登場で変遷していく事になり,初期の主力艦隊のノンストップ太平洋横断作戦から,補給,航空機の基地を確保しつつ島伝いに侵攻する形に変化していく事に成ります.(実際に,太平洋戦争はその様に推移していく事に成りますが)

(軍事板)

レインボー計画・国別カラー分類
 
 黒…ドイツ
 茶…インドネシア
 淡黄色…ブラジル
 真紅…カナダ
 エメラルド…アイルランド
 金色…フランス
 ガーネット…ニュージーランド
 グレー…アゾレス諸島
 緑…メキシコ
 藍…アイスランド
 オリーブ…スペイン
 レモン…ポルトガル
 オレンジ…日本
 紫…ソ連
 赤…イギリス
 ルビー…インド
 緋色…オーストラリア
 銀色…イタリア
 黄褐色…キューバ
 スミレ…中国・国内問題介入ver
 黄…中国・国際紛争ver
 青…アメリカ・交戦国ver
 白…アメリカ・内乱ver

 「第二次世界大戦 あんな話こんな話」(ジョン・ダニガン著,文春文庫,1995)より.
 何年当時のものなのかは記述がないので不明.
 明らかに国じゃないものとか国だけどそれが敵か?というのが平然と混じってるなあ.

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in 軍事板)

<僕が勝手に考えたレインボー・プラン>

 群青…南極
 桃…インスマス沖の海底
 金…火星人
 白金…地底人
 ワイン・レッド…グランドフェンウィック
 黄緑…クーデター
 赤紫…コスタリカ


 【質問】
 東條英機は戦争に積極的だったのでしょうか?

 【回答】
 陸軍の代表に推されるだけあって,南進論の人だった.
 アメちゃんと戦争する気満々で足場を固め,意見調整して首相に就任した.

 しかし就任して天皇としゃべってみたら,天皇は戦争にかな〜り消極的だと言う心情を知り,戦争回避に動いてみたが,もはや歴史の歯車を回し始めてしまった後なのでどうしようもなかった.

へち ◆kK77XB6/ug in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東條英機は,ヒトラーのように個人レベルで大きな影響を及ぼしたのか?

 【回答】
 たしかに影響を与えたが,ヒトラーのように,個人の独裁ではないだろう.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

 東条英機のような軍部指導者は,政府の政策決定に主要な役割を果たした.
 しかし東条は,他の軍事・政治指導者の多くと一致した政策を支持した.
 ドイツでヒトラーは軍部や産業界の支持を得たが,彼は主として彼自身で決定を下した.
 日本では上層部の権力がより拡散しており,決定はむしろ政治・軍事エリート層のコンセンサス(合意)の産物であった.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

 ちなみに,東條英機の役割について,猪瀬直樹は
「開戦よりも国内勢力の利害調整のほうを重視した,無責任な小役人」
的な評価をしていました(from 「ニュースの考古学」)

消印所沢 in mixi

 そのあたりは,人事に個人的な感情を優先させたりとか,問題のある人物を重用したり(つじーん・富永)とか,枚挙に暇がないような(笑).

ますたーあじあ in mixi


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