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「AFP」◆(2011/03/01)氣志團やMTVに謝罪要求,ナチ制服姿の番組出演で 米ユダヤ人団体

The Sugihara Project(英語)

動画ファイル

●書籍

『神戸・ユダヤ人難民1940-1941―「修正」される戦時下日本の猶太人対策』(金子マーティン著,みずのわ出版,2003.12)

『日本人のユダヤ・イスラエル認識』(宮澤正典著,昭和堂,1980)

『日本のユダヤ人政策1931-1945 外交史料館文書「ユダヤ人問題」から』(阪東宏著,未来社,2002.5)

『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(H. E. マウル著,芙蓉書房出版,2004/1/20)

『ユダヤ陰謀説の正体』(松浦寛著,ちくま新書,1999)

『ユダヤ学のすべて』(沼野充義著,新書館,1999)

『ユダヤ人陰謀説』(D.グッドマン著,講談社,1999)

『猶太難民と八紘一宇』(上杉千年著,展転社,2002)


◆◆総記


 【質問】
 WW2までの日本人のユダヤ人観は,どんなものだったのか?

 【回答】
 反ユダヤ主義は国民には殆ど知られておらず,大半の政治家や軍人にとっても未知だった.国民の中には,ユダヤ人とはキリスト教の一派だと思い込んでいる者が少なくなかった.
 そのため他国の知識を借りて来る他なく,ユダヤ陰謀論が翻訳されて輸入された.
 そこから,ユダヤ人の力を過大評価することとなり,その力を日本のために利用することが考えられたという.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.15-23 & 26-27を参照されたし.

 これに関連して,例えばこんなエピソードも存在している.

日本人は抽象的な反ユダヤ主義と,ユダヤ人への政策や態度を切り離したのであり,30年代前半の日本でユダヤ陰謀説が現実の政策や民衆の態度に反映することはなかった.
 この状況を示したのが,ピアニストでシロタの好敵手だったマキシム・シャピロのエピソードである.
 太平洋戦争を目前に控えた時期のこと,シャピロがアメリカに渡ることを告げると,無邪気な弟子は次のように言ったそうだ.
「先生,アメリカに行かれるなら,アメリカにはユダヤ人という恐ろしい人達がいると父が申しておりました.どうか,気をつけてください」
「でも君,私はユダヤ人なんですよ.それも,反ユダヤ主義者の間では最悪のユダヤ人ということになっている,ロシア系ユダヤ人なんですよ」
 それを聞いて,びっくりした弟子の少女は卒倒した.
 名前からユダヤ人であるかどうかを断定できないにしても,シャピロというのはユダヤ系に多い姓である.
 このシャピロという姓の外国人に向かって反ユダヤ主義を語るほど,日本の反ユダヤ主義は現実との接点を欠いていた.

 日本では,冷静な教養人はユダヤ人に好意的で,一方,反ユダヤ主義者は現実とは関係のないところで抽象的理論をもてあそんだ.
 結果として,シロタが
「日本にはユダヤ人問題は全く存在していません」
と断言したように,1930年代の中頃まで,ユダヤ人は迫害や嫌がらせを体験することはなかった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.142-143

 漫画のようなエピソードだが,
「日本にはユダヤ人問題は全く存在していません」
というよりは,
「日本にはユダヤ人について曖昧なイメージしか存在していません」
といったほうが正しいだろう.

 そしてそれは現代でも,イスラーム過激派経由でネガティヴなイメージが日本で広まってはいるものの,「曖昧なイメージしかない」という点では当時と大差ない.


 【質問】
 戦前までの日本のユダヤ人コミュニティは,どのように形成されたのか?

 【回答】
 最初は19世紀末,「開国」によって対外貿易が伸びていく中,ユダヤ人を含む多数の商人が日本に押し寄せ,幕末には横浜にユダヤ人コミュニティができていた.
 また,帝政ロシアによる迫害を逃れてきたユダヤ人が長崎にやってきて,700名余りが東京,横浜,神戸に移住した.
 1940年には,約3000人の外国人が日本に居住.
 そのうち数百人がユダヤ人で,大半は貿易商だった.

 米国の対日制裁は不安と怒りを呼び,日本は攻撃的になった.
 対米開戦の2ヶ月前までに,定住者を除いてユダヤ人は日本を離れた.
 当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には,116人のユダヤ人がいた.
 日本はユダヤ系の学者,芸術家,教育者に高い敬意を払った.日本政府は,ドイツ大使館の激しい抗議にも関わらず,これらユダヤ人をドイツ人同様に遇した.
 隠して少数ながら,戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.26, 156-157, 170を参照されたし.


 【質問】
 WW2時,日本国内のユダヤ人は一致団結していたか?

 【回答】
 当時,日本に在住していた著名なユダヤ系音楽家によれば,それは幻想だという.
 彼は,シナゴーグの例を出して,次のように述べている.

 日本のユダヤ人が団結した社会集団を形成しているというのも,シロタによれば幻想だった.
「日本に住んでいるユダヤ人同士は,特に交流を持っていません.
 まして人口600万人の東京では,ユダヤ人の祭りのときといえどもユダヤ人に会えるチャンスは少ないようです.
 昨年,ベルギーから東京に来た一人のユダヤ人は,元旦にお祈りをしたくてユダヤ人教会を探したのですが,東京には教会がなく,神戸まで行かなければなりませんでした.
 神戸市ではユダヤ人の小さなコミュニティーがあり,祭りのときに集まる教会もあります」(鳥井アンナ訳)
 シロタの観察によれば,日本でユダヤ人達は特定の宗教を信じて共通の文化的背景を持ってはいるけれども,特に差別されることも社会集団を形成することもない,普通の外国人として生活していた.
 当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に,シロタの言葉は,知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい.
 日本では,ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.147

 まあ常識的に考えて,一口に「○○○人」と言っても,そこには様々な考え方や職業などを持つ人間がいるのだから,よほど外敵に脅かされていない限り,団結するはずもないわな.


 【質問】
 ユダヤ陰謀論は,日本にはどんな経緯で流入してきたのか?

 【回答】
 シベリア出兵の従軍将校の中に,「遠からず現れる反キリスト」という本を持ち帰った者がいたのが始まり.
 この本は,「シオンの賢者の議定書」を元に,ロシアの神秘思想家セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・ニルスが,1905年に「小なるものの中の大なるもの」と題して書いたものを,6年後に改題したもの.
 日本の軍部や右翼国家主義者は,議定書を頭から信じ込んだ.
 ユダヤ人についての知的研究者も,この偽書をヘンリー・フォードの「世界の猶太人」やヒトラーの「我が闘争」と同列の,政治的反ユダヤ主義の基本文献と評価した.

 その後,日本がナチス・ドイツに接近すると,アルフレート・ストッシュやアルフレート・ローゼンベルク等の反ユダヤ主義が流入したが,ナチスの人種差別主義に対する警戒感から,さほど浸透はしなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.34-35 & 47-52を参照されたし.


 【質問】
 日本外務省の対ユダヤ人政策の方針は,どんなものだったのか?

 【回答】
 1933年のカスペ事件の頃は,安江や犬塚などの専門家からの情報収集をしていただけで,公式の対ユダヤ政策など決まっていなかった.
 もっとも1934年,外務省スポークスマンだった杉村陽太郎は,ドイツのユダヤ人5万人を満州に移住させる構想がある,と述べている.

 また,日本政府は,満州の状況について世界中でネガティヴ報道が行われ,各国の反応が思わしいものでないにも関わらず,決定的な措置は取らなかった.

 満州占領後,日本外務省は,ユダヤ人に対するテロを容認していると世界中から批判されたことに驚き,かつ不安になって,自国の評判を気にするようになった.
 しかし,その後のユダヤ政策を左右したのは外務省ではなく,満州派だった.

 さらに,ユダヤ人問題に対する理解は,在外公館と本省とでは食い違っていた.
 この問題を処理するための複雑な作業や現場での経験は,本省への報告では充分に説明できない類いのものだった.
 また,在外公館の報告には,外務省がユダヤ人政策の基本方針を策定する際に役立つような,基礎知識に基いた,問題の本質に迫る分析や評価は期待すべくもなかった.

 しかも,国内および海外でのユダヤ人問題は,外務省ではなく内務省の管轄だった.
 内務省の特高は,国内と占領下のシナではゲシュタポと協力していた.

 外務省では,移住問題と旅券問題はアメリカ局第3課が主管していた.
 それまでヨーロッパからの入国者は大半が通過旅行者であり,規定の2週間以内に第三国へ出国するのが通例だった.
 したがって,ヨーロッパから上海への難民,あるいはバルト諸国から日本への難民が急増するといった事態は,第3課にとっては不意討ちと言って良かった.

 対米英戦争開始による欧米大使館閉鎖や,大東亜省設置(1942年)が行われると,外務省自体の地位がさらに低下した.

 1938年11月,ドイツと領事協定を締結し,ナチス・ドイツにさらに近寄ると,有田八郎外相のグループは,ユダヤ人への門戸開放に反対する軍中央の一部の主張に同調した.
 この派のスポークマンである四王天延孝は,ソ連がビロビジャンにユダヤ人を定住させた結果,直面している困難に日本も襲われるだろうと警告した.

 1938年10月には,ウィーン総領事,山路章が査証問題で本省に緊急の照会を行った.
 近衛兼任外相は,原則としてユダヤ人に日本や日本の海外領土への入国を勧奨すべきではない,との訓令を発した.
 目的地国への入国書類があり,250円以上所持していれば日本通過を認めるとしていた.
 注目すべきは,外相がこの訓令は公表すべからずとしたことである.日本が入国拒否国だとされることを避け,同時に,在外の領事部が可能な限り入国を妨げることを期待した.

 11月中旬には,改めて全公館に外務省は通達を発した.船舶によるユダヤ人難民の入国問題について,関係公館は,彼らが日本に向かうことなく,上海に行き先を変更するよう努力せよという内容だった.

 1938/12/6の五相会議では,ユダヤ人定住計画が持ち上がったが,1940/9/27,ユダヤの仇敵と軍事同盟を結ぶことになる三国同盟調印により,その合意は破棄されたと見る他ない.

 日米関係が緊張すると,日本の態度は硬化した.杉原ヴィザは突如神通力を失ってしまった.
 日本の領事が出してくれたのだという主張は,「領事にも間違いはある」という返事で退けられた.
 米国の対日制裁は不安と怒りを呼び,日本は攻撃的になった.
 対米開戦の2ヶ月前までに,定住者を除いてユダヤ人は日本を離れた.

 1941年末,ドイツ大使館は日本政府に対して,外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ,今後いかなる保護も与えられないと通告した.そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが,外務省は無視した.

 一方,上海では日本人人口およびユダヤ人難民の急増のため,難民の日本占領地区への定住と営業を制限した.
 日本当局は,船会社に対し,入国許可が提示された場合のみ予約を受けつけるよう勧告することで,難民流入を堰き止めようとした.

 欧州各地の公館で行われていた査証発給事務は,1940年末からモスクワの大使館に集中された.
 同館ではユダヤ人2千人に査証を出したが,殆どは杉原ヴィザの持ち主だった.
 陸軍退役後,6年目に任命された建川美次大使は難民に理解があり,申請には好意的に対処するのが常だった.
 日本の外交官はブカレストの筒井潔公使や,青島の高岡貞一郎総領事,満州国の梅津美治郎大使を除き,押しなべてユダヤ人に好意的だった.
 難民問題が手におえなくなると,1941年に外務省は通過査証規則を改訂,手続きを厳格化した.

 1941/3/13,ウラディウォストークでユダヤ難民90人を乗せた天草丸が敦賀に入港した際,日本当局は,杉原の査証は持っているが最終目的国の入国許可を提示できない難民の日本滞在を拒否した.
 何週間も前から入国希望者数が出国者数を大幅に上回っていた状況を鑑み,日本政府は突如厳格な態度に転じたのだった.

 対米戦争が始まると,アメリカの援助をねらいとしていたユダヤ人利用計画などは吹っ飛んでしまった.
 対ユダヤ政策の舞台から,犬塚は退場させられた.
 安江は軍を去り,非公式ながら影響力のあるユダヤ問題専門家かつ日本政府顧問として満鉄に職を得た.
 上海の難民事務所は,新たに海軍の久保田敦が就任した.彼は四王天の流れを汲む人物だった.
 この移動はマイジンガーの周辺のドイツ側の圧力によるものだったと言われる.
 また,東郷外相は「ユダヤ人緊急対策の件」という訓令を出し,五相会議に基くユダヤ人利用計画を公式に放棄した.

 1942/3/11,大本営政府連絡会議で「時局に伴うユダヤ人対策」が決定される.ユダヤ人の渡来を禁止し,現住ユダヤ人の監視を強化,民族運動支援も禁止とした.
 日本は上海にいる敵国国籍者を,ユダヤ人,非ユダヤ人に関わらず,敵性外人とし,銀行などを接収した.
 開戦後は他国の反応を気にする必要もなくなったので,ドイツに同調し,ナチスのプロパガンダの影響を受けて反ユダヤ的となった.
 「上海ゲットー」設置はナチスの影響によって実施されたものだった.
 同地におけるガスによるユダヤ人殺戮を日本が拒否したのは,柴田副領事と軍の司令官たちのおかげだった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.64-79, 92, 99-100, 118-122, 125-127, 159-160, 164-165, 168, 183-184, 194-198を参照されたし.


 【質問】
 日本政府が,ユダヤ人を迫害するドイツに同調しなかった,主な理由は?

 【回答】
 ユダヤ人を迫害することで,米国の対日世論が悪化することを恐れたためだった.
 日本の海外貿易は多くがユダヤ人仲介業者を経由しており,彼らを怒らせることは,貿易に悪影響を及ぼすことを意味した.

 また,ユダヤ人と連携して日米の経済関係を深めようとしていたグループもいたためだった.

 さらに,優れた学者,医師,音楽家を新たに招聘することも日本政府の方針だった.

 以下引用.

 日本政府はユダヤ人問題への対策を進める際に,米国の対日世論の悪化を招かないことを重視した.
 これは利用論と違って,ユダヤ人を迫害すれば米国民に批判されるという,当然の事実を日本の当局が理解していたということだ.
 日本の海外貿易は多くがユダヤ人の仲介業者を経由していたから,彼らを怒らせれば日本経済全体が苦境に立つのだった.
 さらに,大きな視野に立ってユダヤ人と連携して日米の経済関係を深めようとしていた鮎川義介達にとって,日本がユダヤ人を差別することは交渉の破綻を意味した.
 鮎川は外務次官に,政府の方針はユダヤ人排除ではないかと詰問したが,そこにシロタの事例も挙げられていた.シロタが義妹マリー・ジェクルスを日本に呼ぼうとしたときに,特殊の技能を持たないユダヤ人を日本に招聘するのが困難だと聞かされて躊躇していることを伝えたのだった.

 1938年12月6日に日本の最高意思決定機関の一つ,五相会議は,ユダヤ人の保護に理解があったと言われる板垣征四郎陸軍大臣の提案により,「猶太人対策要領」を決定した.
 そこに,本書でこれまで言及したユダヤ人問題を巡る日本の方針は集約された.人種平等の方針,日本と日本勢力圏への外国の投資を導入する必要,日米関係を悪化させない配慮から,ユダヤ人を差別しないと定めた.
 同時にドイツとの関係にも配慮,一般的な入国管理規則の枠内でユダヤ人が日本や満州,中国の日本勢力圏に流入することを制限して,あからさまにユダヤ人を保護することも避けた.
 この政策を,歴史家の坂東宏は二枚舌と批判した.ユダヤ人を差別しないといいながら,入国を制限したからだ.
 しかし実際には,日本はユダヤ人の極東流入を制限しながら,上海協同租界にユダヤ人が移住するのを黙認した.
 上海では集中豪雨のような難民流入に大混乱が起こり,日本人居留民は困惑,米英や現地ユダヤ人もユダヤ避難民の移住に反対した.
 けれど,日本がユダヤ避難民移住を第2次世界大戦前夜の1939年8月まで黙認したことで,上海はユダヤ人にとって世界で最後の逃亡地となり,結果として多くのユダヤ人の命が救われた.
 日本は,3枚舌外交ともいうべき複雑で巧妙な対応をしたのだった.

 〔略〕

 日本の学校に勤務しているユダヤ人の講師を排除するなど,太平洋戦争以前の時期には日本政府にとって考えられないことであり,優れた学者,医師,音楽家を新たに招聘することも日本政府の方針だった.
 だから日本のユダヤ人政策で,資本導入と言う目的ばかりを強調するのはバランスを欠いている.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.152-154

 ただし,上述の経過を見ると,巧妙な外交というよりは,外務省,関東軍が,ばらばらに外交をやった,統率なき外交の産物であるようにも思えるのだが.


 【珍説】
 日本は八紘一宇の精神でユダヤ人を救った!!11!!

 【事実】
 秦郁彦「昭和史の謎を追う」より,ユダヤ人亡命者の国別受入数(1933〜1945)

ソ連     25万人
アメリカ   19万9千人
パレスチナ 12万人
イギリス   6万5千人
アルゼンチン 5万人
中国     3万人
ブラジル   2万5千人
スイス    1万6千人
ポルトガル 1万5千人
チリ     1万4千人
スペイン  1万2千人
ボリビア   1万2千人
スエーデン  1万2千人
豪州      9千人
カナダ     8千人
南アフリカ   8千人
日本       2千人

 八紘一宇の精神でユダヤ人を救った!!11!!という割にはそれ程受け入れ人数多くないな.
 河豚計画がどんなものか,コヴァ〔小林よしのり盲信者〕は知らないだろうな(笑)

パレスチナ 12万人
イギリス 6万5千人
豪州      9千人
カナダ     8千人
南アフリカ   8千人

 ここらは「英連邦」でひとくくりにもできるよね.
 日本は一ケタ下か.

軍事板出張スレッド in コヴァ板
青文字:加筆改修部分



 【珍説】
 杉原が発給したビザって3500超えてんだけど?
 その数字はどう見てもおかしいだろwwwwww

 【事実】
 「亡命者の受入数」と書いてあるのは無視なんだろうか….

 杉原が発行したのは,2週間の期限付きの通過ピザなんだが.
 で,そのビザを使って脱出して,ユダヤ人難民が上述資料にある国々に受け入れられたということなんだが.

 つまり,ユダヤ人亡命者受入数の日本の受入数と,杉原千畝のだしたビザの数に相違があっても,矛盾はないわけだけど.

 まさか,通過ビザの発給数=亡命者受入数と思ってないだろうね?

軍事板出張スレッド in コヴァ板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ユダヤ関係調査現地委員会とは?

 【回答】
 1939(昭和14)年,議会でユダヤ人問題が取り上げられたことにより,日本政府としては何らかの具体策を立てざるをえなくなったため,まず現地調査を行うために設置した委員会であり,それより先,犬塚大佐により提案されていたもの.
 陸海外の3省からそれぞれ適任者(陸=臨時に安江大佐,上海常置者としては遠藤主計少佐,海=犬塚大佐,外=石黒上海総領事)を一人選び,上海で以下事項を調査したという.
(1) 欧州ユダヤ避難民の居住区設定に関する基礎的研究ならびに調査
(2) 現状において在上海英国系ユダヤ財閥首脳を,英国依存より日本依存に転向せしむるための具対策の研究および調査.
(3) ユダヤ系資本誘致の具体策に関する研究ならびに調査.
(4) 在支ユダヤ勢力を利用し米国世論,対極東外交および米国大統領周辺を親日的もしくは中立的ならしめ,以て英国の英米協同対日緩衝政策を無効ならしめるための具対策の研究ならびに調査.

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.153-154
を参照されたし.


 【質問】
 ユダヤ関係調査現地委員会の報告書の内容は?

 【回答】
 これは1939(昭和14)年7月に提出されたもので,要旨は以下の通り.

1. 猶太問題の国際的動向

(1) 蒋政権の猶太避難民利用策
 重慶政府は雲南省開発のため,猶太側の資金提供を条件に,猶太避難民の為の居住地区の設定を世界猶太首脳部との間で交渉開始し,カー英国大使も交渉に参画せりと伝へらる.
 地区が僻遠の地にして民度低級なる住民の間に伍して永住することは好ましからすとのことにて猶太人側は乗気せす.

(2) 英国はパレスタイン問題で猶太民族の反感を買い,猶太人の中心は英国を離れて米国に移動せんとしつつあり.
 最近新聞紙に現はるる英国よりの紐育に対する金現送は欧州不安も其原因ならんも,猶太中心の移動も亦其の大なる原因と云うを得べし.
 以上猶太民族の英国よりの離反傾向は我極東猶太人対策の為絶好の機会と思料せらる.

2. 欧州避難猶太人の居住区設定に関する基礎的研究並調査

(1) 上海在住の猶太人の区分

 (イ) 「アシケナジーム」猶太人
 露西亜,「ポーランド,「アメリカ」などの大陸系猶太人で約4千名.
 哈爾賓の極東猶太民族大会に参加しあり,親日的で英国には好意を有せず.

 (ロ) 「セフアラヂーム」猶太人
 主として「アラブ」系猶太人で英国庇護下に発展した所謂英国系猶太人で約5百名.
 極東ユダヤ人大会には参加していない.
 「サー・ビクター・サッスーン」,「カドリー」「エズラ」,「アーノルド」兄弟,「スピルマン」,「アブラハム」,及ひ「ヘイム」等所謂上海猶太財閥の大部はこの種に属す.
 彼らは我戦局の進展に伴い日本の影響を受くるに至り,日英間に挟まれて大いに動揺しており,サッスーンが日本人の招待に応じ喜んで虹口に来り会食するか如きは彼等の心境の大なる変化と云うを得べし.

 (ハ) 独逸避難猶太人
 本6月初旬迄の来着数約1万1千人に達し尚数百人は上海に向け航行中なり.
 5月現在,避難民総数9千の中我警備区域内(主として揚樹浦並虹口)に侵入居住の数4千乃至4千5百にして既に共同租界,仏租界は家屋満員にて余地なく,今後来着の避難民は其の好むと好まざるとに拘らす我が警備区域内,即ち日本人居住圏内に侵入し来る者と覚悟せさるへからす,我方の之に対する処置は手遅れの感あるも至急何等かの処理方法を講ぜざるへからすと思考す.
 避難民の中,約50%余は基督教に改宗(主として「カトリック」教?)しており,猶太教を奉ずる者約40%余である.
 従って,現地猶太人の彼等に対する心境は釈然たらさるものあり.
 その理由は,彼等は猶太血液を有すと雖(いえど)も「ナチス」の原則による猶太人なると共に,多分に独逸的色彩あり,英国系或は露西亜系の意に添はさるものあり,此の点注意必要なり.
 本案に於て猶太避難民と称する見解,
 (1) 独伊より追放の猶太避難民
 (2) 従来極東に在住せる旧露国系猶太人
 (3) 右以外の猶太人にして特に許可せられたるもの

(ニ) 猶太避難民将来に関する永久対策

 (イ) 上海新都市計画に関聯し猶太人地区を設定する件,之に依り上海猶太財閥をして新都市建設に協力せしむ.
 (ロ) 上海市隣接地区(例へば浦東等)に猶太人居住区を設定の件
 (ハ) 上海付近以外の地区に専用猶太地域設定の件

 なお,米国のユダヤ系学者クランツラーによれば,安江大佐の頭の中にあった専用猶太地域設定とは,「満州にイスラエルを作ろうとした」ものだったという.

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.159-164を参照されたし.


 【質問】
 「上海ユダヤ避難民処理の件」とは?

 【回答】
 1939(昭和14)年7月18日,外務省で開かれた,回教およびユダヤ問題委員会幹事会によって審議,結論されたもので,以下のような主旨だったという.

1. ユダヤ人地区設定について
 (イ) 地区の位置について意見不一致のため,さらに現地で調査すること.
 (ロ) 外務省側は従来ユダヤ人地区を設定した外国の実例について,その利害得失を調査し,かつ独伊ユダヤ避難民を入国させた諸国における取扱いぶり,特に特定地区設定問題に関する資料を集める.

2. 対策機関設置について
 中央直系の独立機関は設けず,現地関係機関をして連絡を計り,対策に当たらせる.

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.165を参照されたし.


 【質問】
 アメリカのユダヤ人はなぜ反日的だったのか?

 【回答】
 同コミュニティを率いるラビ・スティーブン・ワイズが反日だったため.
 彼は,日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていた.
 彼は,ユダヤ人のアジア移住についての日本・ユダヤ協力構想には賛成しなかった.
 ハルビンの実業家レフ・ジクマンはラビ・ワイズに,同地のユダヤ人の提案について詳しく説明する手紙を送ったが,日本との協力を拒否するワイズは,こう答えている.
「ユダヤ人にとって,ファシズム国家である日本を支持することは,道義的に全く許されないと思う.
 この問題について,これ以上議論するつもりはない.
 日本によるユダヤ人の保護を実現しようとする貴兄の動機は,それがいかなるものであるにせよ,はなはだ遺憾である.
 貴兄の計画を潰すために全力を尽くすつもりだ.
 日本は反ユダヤ主義であり,そのように振舞っている」

 また,上海のユダヤ財閥の代表格だったヴィクトル・サッスーンも,1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.75, 89, 123を参照されたし.


 【質問】
 五相会議とは?

 【回答】
 近衛首相の内閣改造後,それまで政策決定に大きな役割を演じていた各省会議に代わって設置されたもの.
 ここで1938/12/6に公式のユダヤ政策が決定されたが,それまでには賛否両陣営間の粘り強い交渉があった.
 有田八郎外相のグループは門戸開放に反対だったが,池田成彬蔵相は鮎川義介や犬塚惟重の移住計画を支持しており,穏健派の代表として,満州派の板垣征四郎陸軍大臣を協力に支持した.
 池田の主張の要点は,日本は好むと好まざるとに関わらず,ユダヤ人を必要としているということだった.

 五相会議の決定は両陣営を満足させた.
 安江も犬塚もこの会議には出席しなかったが,この決定によって,自分の努力が報われた感じを持った.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.92 & 103を参照されたし.


 【質問】
 五相会議ではユダヤ人問題に関し,どんな政策が決定されたのか?

 【回答】
 ユダヤ人問題に中立的態度をとるべきことが確認され,日本は独伊が排斥しているユダヤ人を積極的に包容することは避けるが,極端に排斥することもしないとした.
 そして,一方でユダヤ人の入国を拒みながら,他方,利用価値のある資本家と技術者は例外とした.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.104-105を参照されたし.


 【質問】
 ドイツの反ユダヤ宣伝攻勢は,日本にどんな影響を与えたのか?

 【回答】
 上海では1939年初めからの難民急増後,それを奇貨として反ユダヤ宣伝を強化.
 ナチ系の日刊新聞「東アジア・ロイド」」やナチ党機関紙「東アジア・ベオバハター」には,当初は慎重に,やがて大々的に反ユダヤ的な記事が載るようになった.

 1940/9/27に三国同盟が締結されると,ドイツ大使館の強力な支援により,日本語の反ユダヤ出版物が市場に溢れた.
 東京と大阪を中心に反ユダヤ主義の講演会や展覧会が続々と催されたが,誰もこれを妨害しなかった.
 しかし,それらが日本政府の人種平等・ユダヤ無差別の原則的態度を変えることはあまりできなかった.

 日本人にはもともとユダヤ人への知識や関心が乏しかったこともあり,急に難民を憎め,嫌えと言われても受けつけるはずはなかった.
 そもそも日本では,争いを避け,調和を図るのが美徳なので,反目を強いるナチの宣伝は非日本的なのだった.
 反ユダヤ主義者はどちらかと言うと軍部に多かったが,彼らと言えども大量殺戮など考えたことはなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.109-111, 117-118, 166-167を参照されたし.


 【質問】
 ナチス・ドイツは日本において,どのような反ユダヤ活動を行ったのか?

 【回答】
 音楽界に例をとれば,著作権問題を持ち出すなどして,ユダヤ人音楽家を排除させようとする試みを繰り返したという.
 ただ,日本への文化的な影響力をフランスとの間で競っていた関係上,便宜主義にならざるをえなかった.

 また,日本国内勢力を巻き込んでの外交戦を展開したという.
 本国におけるナチス・ドイツ滅亡後も,日本では,ドイツ秘密警察の残党による圧力によって逮捕された人々がいたというから驚きである.

 以下引用.

 1930年代に,ドイツでは急速にユダヤ人音楽家が排除されていった.
 圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって,希望の地の一つが極東の日本だった.
 この時期の日本は,ユダヤ系音楽家を歓迎した.
 来日演奏家招聘の中心となったマネージャーのストロークはユダヤ人で,招聘業務でもユダヤ人音楽家を優先した.
 ベルリン・フィルを追われたゴールドベルクやシュースターも演奏旅行で来日して,シロタと会った.
 当時のゴールドベルク夫人でピアニストのリリー・クラウスを迎えたパーティーの写真も残っている.

 ナチスは日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた.
 日本における国際著作権協会代表のヴィルヘルム・プラーゲ博士は,作曲家の代理人として著作権料を徴収するために多くの演奏会に意義を申し立てた訴訟を起こしたが,これにはユダヤ系作曲家の作品が関係する場合も多かった.
 ところが国際団体の代表者でありながら,ドイツ人プラーゲは在日ドイツ大使館や,日本に於ける反ユダヤ主義の中心である国際政経学会とも繋がっていた.
 在日ドイツ大使館も密かに,シロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して,日本からユダヤ系音楽家を排除,代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した.
 また,ユダヤ人を優先する音楽マネージャーのストロークの活動について,日本外務省に向かって不満の言葉を伝えた.

 しかし,日本でドイツ外交官は複雑な立場に置かれていた.ドイツは1930年代の日本でフランスと文化的な影響力を競ってもいたのであり,日本に確固とした基盤を築いていたユダヤ系ドイツ音楽家は,ナチス・ドイツの外交官にとって,ユダヤ人の影響力を代表する敵であるだけではなく,フランスと対抗してくれる味方でもあった.
 そんなわけでドイツ外交は,反ユダヤ主義と,ドイツの文化的な宣伝のための便宜主義の間を複雑に揺れ動くことになった.

 1934年に日独交換放送で,ユダヤ系のプリングスハイムが指揮する東京音楽学校管弦楽団によるリヒャルト・シュトラウス作品の演奏がドイツに向けてラジオ放送された.
 この在日ドイツ大使館の政策に反対するナチス強硬派の妨害工作があって,この時使用された楽譜は上演権つきだったのに,著作権問題すら持ち出された.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.135-136

日本側で警察を統括する内務省は,プラーゲ〔ユダヤ人問題で暗躍した国際著作権協会駐日代表〕を支援する日本陸軍参謀本部独逸班やドイツ大使館,日本の反ユダヤ主義者(全面的にユダヤ人を憎んだ一派)の介入をはねのける必要があった.
 国内勢力を巻き込んだ外交戦は熾烈だった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.155

 ドイツ降伏以降,東京の天主公教会に収容されていたプリングスハイムやクロイツァーなどのユダヤ人や反ナチスのドイツ人は,空襲で施設が炎上して焼け出されて,日本女子大の建物に移った.
 この人々はドイツ秘密警察の残党による圧力によって逮捕されていた.
 あるドイツ人の回想では,日本の警官は不本意であると弁解しながら丁重に逮捕者を扱ったそうだ.
 ナチス政権滅亡後まで圧力と影響力を発揮したドイツの秘密警察は,大変に厄介な存在だった.

 〔略〕

 ドイツの圧力により,一部のユダヤ系ドイツ人はスパイ容疑で逮捕されていた.
 ユダヤ人技術者フーゴ・カール・フランクや日本外務省に招聘された新聞記者で夫人がユダヤ人だったアルヴィト・バルクもつかまり,フランクは栄養失調により獄死した.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.218-219

 なんだか,腐ったゴミを近所にぶちまける主婦的な,ねちねち,せこせことした嫌がらせを連想してしまうが,なんでそんなことを大の大人がするかなあ……?


 【質問】
 フランク事件とは?

 【回答】
 ルイス・H・フランク博士は山梨工専で教鞭を取っていたが,1943年,マイジンガーの圧力で退職させられた.
 長男フーゴーは,日本IBMの前身,ワトソン・ビジネス・マシーン社に職を得ていたが,翌年7月,同じくマイジンガーの手が回り,強羅の自宅でスパイ容疑により横浜の憲兵隊に逮捕された.
 隊長の大谷敬二郎大佐はマイジンガーと密接に協力しており,戦争末期に,吉田茂が近衛上奏文に関与していたとして逮捕された事件に関係して悪名を残した男である.
 フランクは過酷な拷問を受け,巣鴨拘置所に拘留されている間に健康を損ね,3年の刑期の完了を待たずに死亡した.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.177を参照されたし.


 【質問】
 第2次大戦が進むにつれ,日本国内のユダヤ人の立場が次第に悪くなってきたのは何故か?

 【回答】
 日本国内のムードが次第に国粋主義的になってきたため.
 また,戦況が悪化すると,それに伴ってユダヤ人に限らない,外国人全体への排外ムードが高まったため.その排外傾向は,同盟国であるドイツの人々にまで及んだという.

 例えば,次のような事例が記録されている.

 〔1940年〕当時の日本では,外国人は警察によって厳しく監視されていた.
 ユダヤ人音楽家のシロタも,もとより警察に監視されていた.シロタは官立学校である東京音楽学校で外国人教師を務めて奏任官相当という高い位にあったが,警察は手を緩めることなく,その一挙一動を追い続けていたのだった.
 娘のベアテは,ドイツ人の子弟のための学校だった,大森のドイツ学校に通っていたが,ここでも国粋派が増えて居心地が悪くなっていった.
 例えば学校で,ザール地方がドイツに返還されるよりも国際連盟のものになったほうがいいとベアテが発言したことがあった.
 この地域はドイツの一部で,第1次世界大戦後は国際連盟が統治していた.
 ドイツ人教師は激怒する.
 その話を学校から知らされたアウグスティーネ夫人は,帰るとベアテを諭した.
「公の場所では,政治について触れてはなりません.私達は,この国ではいつも『ゲスト』であることを忘れてはなりませんよ」

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.189

守勢に立った日本は,様々な面で次第に余裕を失っていった.
 こうして音楽界にも,とうとう反ユダヤ主義的な論調が起こってきた.
 ローゼンシュトックが指揮した日本交響楽団の演奏会を聴いて,音楽評論家の吉本明光は次のように糾弾した.(『音楽之友』 1942年12月号)
「日米海軍が壮絶なソロモン開戦を戦い続けている折も折,大東亜戦争が敵米英を撃滅し,その背後に糸を操るユダヤ謀略を破砕せんとしてこの戦争を戦い続けている折も折,ナチス後の清掃によりドイツを追われたこのユダヤ人を,単に極めて優れたる音楽的技術の所有者ということだけでかくも熱狂的拍手を贈ったこの3千の聴衆の心理の諒解に苦しんだ」
 この偏見に満ちた文章は,聴衆がユダヤ人音楽家の演奏に耳を傾けて「熱狂的」に歓迎したことを示してもいた.
 戦時中から戦後初期に,演奏会はいつも満員だった.娯楽が少なかったから歓迎されたという話もあるが,危険が身近な時代によい音楽はとりわけ切実に求められたのだともいえる.
 〔略〕
 音楽界の現実と新聞や雑誌で流布された反ユダヤ主義的な見解は完全に分裂してしまっていた.
 人々は新聞や雑誌で米英の背後に「ユダヤの陰謀」があるという妄想を読まされて,それを半分信じながら,けれどユダヤ人音楽家が出演するコンサートに通った.

 〔略〕

 1943年7月3日と4日の報告団演奏会で,シロタは生徒の演奏を伴奏した.東京音楽学校奏楽堂では,かれの最後の演奏だった.
 このころ批評家は,ユダヤ系音楽家を支持する日本の聴衆に憤懣をぶつけるようになり,公衆の面前でユダヤ系音楽家と親しげな態度をとることはタブーとされた.
 このころには新聞や雑誌でもユダヤの陰謀を叫ぶような論調が主流となり,日本は反ユダヤ主義に染まったようだった.
 それは西洋音楽が排斥されて「ピアノを弾いていると石を投げられた」(黒田睦子)時代でもあり,ピアニストはしばしば極端な国粋主義に染まった人々に怒鳴りこまれた.熱血漢の豊増昇などは反撃して喧嘩になった.
 しかし,西洋音楽が公式に禁じられたわけではなかった.
 音楽愛好家だった大本営報道部の平出英夫海軍大佐は楽壇関係者とも親しく,「音楽は軍需品」という有名なキャッチフレーズを作り出した.
 これは国民の戦争意欲を維持するために余暇や娯楽の普及を重視する総力戦体制に応じた考え方で,国が慰問の目的で音楽会を主催する場合もあった.
 つまり日本国民の意識そのものが分裂していたのであり,日本政府の方針はまだ日本国内ではユダヤ人を厳重に監視はするが差別はしないというものだった.
 〔略〕
 ただ,米英の音楽は禁止された.
 誤解があるようなので書いておくと,戦争中に敵国の音楽を禁止するのはめずらしくない.ナチス・ドイツはユダヤ人の作品を禁止したが,第1次世界大戦のときアメリカでも,バッハ,ベートーヴェンなどドイツ音楽の演奏が抑圧されたといわれている.

在日ユダヤ人音楽家の追放

 しかし,1943年の10月に,日本音楽文化協会は会員の日本人音楽家が枢軸国(ドイツ・イタリアなど日本の同盟国)以外の出身の音楽家とは共演しないように希望する旨の通達を出した.
 これはユダヤ系音楽家の活動が不可能になることを意味した.
 摩擦の少ないあいまいな形で,日本音楽界はユダヤ系音楽化を演奏活動から排除したのだった.
 〔略〕
 実際は,皮肉な意味で人種平等は維持された.国粋主義と外国への反感が高まるなかで,ドイツ人音楽家の演奏も難しくなったのだ.
 日本音楽文化協会の通達は枢軸国の外国人を特別扱いした.
 ところが現実にはドイツ政府の支持する音楽家まで,音楽界から排除されたのだ.
 ドイツ人指揮者で,東京音楽学校でオーケストラを指導していたフェルマーの活動も妨害されていた.かれが政治的な活動をしたことは知られていないが,とにかくドイツ政府の推薦によって送りこまれたはずの人物だった.
 ユダヤ系の音楽家でありながら,演奏活動の便宜を図ってもらうためにナチスの大使館と接近したグルリットも1944年中頃には演奏ができなくなった.

 〔略〕

 1944年には任期満了の契約を更新しないという方法で,在日ユダヤ系音楽家が東京音楽学校から追放されることが決まった.
 シロタも東京音楽学校の教壇を去ることになった.
 〔略〕
 太平洋戦争末期には,外国人ピアニストの弟子は強制的に日本人教師に指導を受けさせられることもあったようだ.
 権力を用いた弟子の横取りととられても仕方なく,ピアノの世界では遺恨を残す思慮に欠けた行為だった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.206-212

 これらを読むと,官が主導したというより,民のほうで勝手に自主規制ムードをした気配が濃厚.
 まあ,「英語禁止」と同じパターンですな.



 【質問】
 ユダヤ人音楽家を日本音楽界から排除したのは誰の仕業か?

 【回答】
 不明.山根銀二と山田耕筰,およびその支持者が,互いに責任のなすり合いをしている.

 また,東京音楽学校では,井口基成が戦後に非難されて学校を追われている.

 以下引用.
 ユダヤ人音楽家を日本音楽界から排除した責任の所在は謎とされている.
 この頃日本音楽文化協会の会長となっていたのは,いつもシロタに親切な山田耕筰だった.
 戦後に山根銀二はユダヤ人問題を持ち出して山田耕筰を戦犯だと非難したが,山田は山根銀二こそ責任者だとやりかえした.
 ふたりとも日本音楽文化協会の首脳でこの問題に関与した可能性があり,どちらの主張にも支持者がいるようだ.
 ユダヤ系音楽家を排除した関係で,井口基成も戦後に非難されて東京音楽学校を追われた.
 潔く当事者としての責任を認めて辞任した井口を,さかしげに非難したくはない.自分達は積極的にユダヤ人排除を推進したのではないというのも正直な話だろう.
 また西洋音楽に対する逆風が強いとき,日本音楽界の指導者が受けた圧力は猛烈だったはずだ.
 井口基成の胸中には日本のピアノ演奏は日本人が指導すべきだという信念もあった.
 欧米ではいまも日本人に偏見をもつピアノ教師やピアニストがいて,本音を聞くとうんざりさせられることがある.
 井口基成がヨーロッパにいった当時,偏見はより強烈だったはずだ.
 偏見に立ち向かうなかで,音楽家が民族的な自負を持つのは悪いこととはいえない.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.206-212

 真相は藪の中になるだろう.
 これもまた,いつものパターン.


 【質問】
 これはナチスの制服なのか?

ナチ制服姿でTV出演の「氣志團」に謝罪要求 ユダヤ人団体「文明国で許されない」

2011年03月01日 22:41 バグってハニー

 【回答】
 ただの長ランにしか見えないんですけど…

2011年03月01日 23:01 ゆずこせう

 うーん,どっかの高校にこんな制服があったような.
 思い出せんです.
 少なくともナチはないですわ.

2011年03月01日 23:02 バルセロニスタの一人

 氣志團はもっと,ナチスのコスプレだったみたいだよ.

2011年03月01日 23:51 しまだ

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分

 リンク先の産経新聞のサイトの画像は,学ランなので言いがかりみたいに見えますが,
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51679764.html
の2枚目の写真を見ると,しまだ氏の言うとおり,ナチス親衛隊の制服に似てますね.

SOS in FAQ BBS,2011/6/17(金) 0:38
青文字:加筆改修部分

 「ふたば」から引用.
 これアウト.

2011年03月01日 23:50 遠吠犬

 帽子をかぶって,グースステップで行進すれば完璧ですね.
 とりあえず,二度とアメリカに行かないことをお勧めしないと.

2011年03月02日 00:25 tacticaltomahawk

 その上で片手を上に上げつつ「はいる まいん ぼへみあん げふらいたぁ」

2011年03月02日 00:35 憑かれた大学隠棲

 「氣志團のオールナイトニッポン」の聴取経験から言えば,ノンポリもいいところなんですがねえ,彼ら.

2011年03月02日 00:34 消印所沢

 ナチ制服姿で超人オリンピック出演の「ブロッケンJr」に謝罪要求 ユダヤ人団体「超人で許されない」

2011年03月01日 22:49 遠吠犬

 マジンガー○のブロッケン伯○にも,抗議しないといけませんね.

2011年03月01日 22:51 tacticaltomahawk

 仮面ライダーなんか,元親衛隊の大佐が世界征服を企ry

2011年03月01日 22:55 島の人

 ヒトラー姿で仮面ライダー出演の「ヒトデヒットラー」に謝罪要求 ユダヤ人団体「ヒトデで許されない」

2011年03月01日 23:00 遠吠犬

 そのうち,甲子園とかの選手宣誓でローマ式敬礼するのにも,文句つけるのかな?
(一昔前は,小中学校の運動会入場行進で,観客席に一斉にローマ式敬礼やらせる学校があって,今見ると
『ええええええ!?』
ってなる)

2011年03月02日 04:14 唯野

 子供に押し付ける…いや,教育的効果を持つものならオーケーでそ(笑)
 一糸乱れぬ行進やマスゲーム的な統一的な行為は,それはそれは全体主……いや,集団的な行動の美しさの発露であって,全然へーきな大人にこの世は満ちているのれーす.

2011年03月02日 05:19 ソフトヒッター99

 東京オリンピックかな?
 その前の奴か?
 昔の画像見てたら,日本選手団,堂々たるローマ式を入場行進でかましてましたねえ.

798 2011年03月02日 07:34 ゆずこせう

 確か,東京オリンピックで「閉会式」の方で進行の手違いから,整然とした入場行進が崩れて,
「お,それ,いーじゃん」
みたいな感じになり,ロス五輪あたりまでに,開会式の方も軍隊調の行進をする国がしだいに無くなって……
 確か日本は,軍隊式の行進をやめるのが遅かった方で,戦前の軍国主義みたいでキモイみたいな批判があったんじゃなかったかと記憶.
 正確な時系列を思い出せないっすが….

2011年03月02日 08:55 ソフトヒッター99

 国体の開会式ではやってましたよ(経験者)
 ただ最近は,(やりたい人だけ答礼して下さい)だったかな.

2011年03月02日 09:05 島の人

 連投失礼.

 昨日,「太平洋の奇跡」観てきたんですが,最近の映画の中では,軍人の所作がしっかりしてました(行軍とか)
 日本人は運動会なんかで整列したり行進したりするんで,「野性の証明」でしたかな?,アメリカで役者を訓練させた時に,整列や行進がすぐできて,教官の人が,
「彼らは軍隊経験者か?」
と聞いたとか.

2011年03月02日 10:19 島の人

 管理教育とかアメリカにはないですからねえ.
 管理教育は嫌な事も多くなった反面,社会常識に対応は出来ましたよ.

 ただ,千葉と愛知はやり過ぎってところもありましたから.

 もっとも自称ファシスト・外山恒一が若いころにやっていた,管理教育反対運動は問題外です.

2011年03月02日 10:22 バルセロニスタの一人

 管理教育って,左も結構熱心ですな.
 年に1回強行軍やってた学校は,輿石君のお膝元だったし.
 学校じゃないけど戦中,読売新聞で陸軍報道部入りしてるのがたたって,しばらく会社休んだ柴田秀則氏が復職したら,会社は労働組合が威張ってて,共産党系の幹部が若手を日比谷公園に集めて,突撃訓練させてたと.
「なんだ,俺たちが戦時中にやってた軍事教練と,同じことをまたやってる」
と呆れたと,佐野真一氏の本に書いてありました.

2011年03月02日 10:47 ゆずこせう

 そう言えば私の母校でも,明らかに左の人が管理教育に熱心でしたね.
(例外もいまいたが)
 多分,ある程度多様な価値観を否定しておけば,教室という密室で左翼思想教育が可能だろうと思ったのかな?
 そこまで下衆とは思いたくはないですが・・・.

2011年03月02日 11:00 バルセロニスタの一人

 へぼ担当氏と,日記のコメント欄で議論したんですが,行き過ぎてディストピア化した管理教育の根源に関しては,ちゃんと研究した方がいいでしょうね.
 ゆとりだ脱ゆとりだ,生きる力だ学力崩壊だと,いろいろ教育に関しての議論があるわけですが,過去の教育方針の総括と反省や,メリットデメリットの冷静な議論がないと,同じ過ちを繰り返すだけです.
 右左というよりは権威主義自由主義,あるいは集団主義個人主義の対立なんでしょうね.

ここは酷い誰得教育ですね 障害報告@webry/ウェブリブログ

“熱中高校”って,なんだ - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−

2011年03月02日 14:36 憑かれた大学隠棲

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分


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