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 【link】

「戦時期航空機工業と生産技術形成 三菱航空機エンジンと深尾淳二」(前田裕子著,東京大学出版会,2001年)


 【質問】
 日本の航空技術は,戦前はドイツから伝わったんじゃないの?

 【回答】
 航空機技術の基礎は英国からです.
 ドイツからの航空技術導入は1923年以降になります.
 1925年にドイツから技師が来日し,技術伝授を始めてから,日本の航空技術はドイツ寄りになってきました.
 正確には,米英仏からも機体輸入を行っているので,ソ連以外の当時の航空先進各国からのごった煮に近い状況です.
 ドイツの航空技術が本格的に導入されるのは,日独伊3国防共協定が結ばれる時期からです.
 生産技術については,ドイツにはブランクがあります.

軍事板
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 【質問】
 零戦の設計者,堀越二郎氏の著書を読むと,よく
「2000馬力のエンジンを使えなかった」
「燃料タンクに防弾ゴムを貼れなかった」
とありますが,両方とも陸軍の疾風では実用化された装備なのですが,何故三菱ではできなかったのでしょうか.

 【回答】
 エンジンについては開発時に適当な2000馬力級が存在しなかった.
 もともと1000馬力級のエンジンで設計された機体なので,あとで2000馬力級が出てきても,おいそれとは搭載できない.
 機体も一から設計したほうがいい.

 燃料タンクに関しては,四式戦に限らず,時期的に近い一式戦でもゴム張りになってるのはたしか.
 第一に言われるのは,発注した陸軍と海軍の要求仕様の違い.
 つまり,零戦についてないのは,海軍が特に要求しなかったからと.

 第二に言われるのは,十分なゴム加工技術が「日本に」なかったから.燃料に溶けちゃうの.
 そこで一式戦はゴムをタンク外側に取り付けており,三菱でも一式陸攻は外張りで付けてる.
 後に零戦も,外張りが可能だった胴体タンクにはゴムを追加してる.
 四式戦の頃には,なんとか内張りに耐えうる技術が出来た.
 海軍機でも使う例が出て,零戦にも試験的に用いられた.

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 【質問】
 なぜ日本軍機は米軍機に比べ,防御力が弱かったのですか?

 【回答】
 米軍機と日本軍機の防御の致命的な差は,航続距離を伸ばすために日本は翼内燃料タンクを用いた事.
 撃たれた時に致命的な結果をもたらす部分がやたら被弾しやすく.暴露面積が大きいわけで,これでは例え操縦席周りの装甲板を充実させてもどうしようもない.

 あと,日本の場合現場では
「13ミリに易々と貫通される装甲なんか重くなるだけで無意味じゃん」
と言われてて,改造して装甲板を下ろしてる人も多かった.
 まぁそれはそうかも・・・.

軍事板


 【質問】
 ゼロ戦がほぼ無傷でアメリカの手に渡って,研究・対応されたという事なのですが,逆にアメリカの戦闘機を日本が何らかの方法で入手して研究や,それを元に開発などをしていたのでしょうか?

 【回答】
 『日本軍鹵獲機秘録』(押尾一彦・野原茂編,光人社,2002.5)という本があるので,それを読んでください.
 旧日本軍も鹵獲機や撃墜した機体を研究はしている.

 フィリピンで捕獲した米軍機は綿密に研究されている.
 試作陸攻である連山にはB-17の研究成果が反映されてる.

 でも全体的には
「凄すぎて真似できない(汗」
ということがわかっただけだった.

 あと,墜落したB-29の排気タービン(ターボチャージャー)は分解,研究されたが
「・・・こんなの作れる国と戦争したのが間違いだったなぁ(溜息」
という結論になっただけだった.

 猿が人間の道具を入手しても,研究や真似なんかできないだろ?

軍事板
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 【質問】
 日本はどのようにして,全金属製航空機の技術を導入したのか?

 【回答】
 第一次大戦の結果,ドイツでは航空機の研究,製造を禁じられ,残存物は製造権や材料の製造権に至るまで連合国に引き渡されました.
 日本にも,ジュラルミンの他,ハンザブランデンブルクの水上偵察機,BMWエンジンの製造権,実物が齎されています.

 日本にも先見の明があった人がいました.

 航空学会の泰斗であった田中館愛橘教授は,将来の航空機は須く全金属製となると予言.
 それに共鳴した海軍の山内四郎少将は,ドイツ駐在の高田義満機関少佐,駐在武官の荒城次郎大佐と協力して,三菱商事を通じ,Zeppelin工場で全金属製四発片持単葉陸上機の設計を担当していたRohrbach技師に,新たに6機の全金属製飛行艇の製造を発注.
 また自らも,送受車であり東大工学部航空学科で3年の研究を修了したばかりの横須賀海軍工廠の和田操大尉を長とするチームをドイツに派遣しました.

 1922年5月25日,和田大尉の他,広工廠の岡村純造兵大尉,横工廠技師の野田哲夫,長畑順一郎両氏,技手2名,工員16名,更に,陸軍から佐藤技師,三菱重工からも大塚敬輔,服部譲次の両技手の参加があり,正に国を挙げたチームだった様です.
 これに先立つ3月には,ドイツのジュラルミン技術研究の為,石川登喜治海軍造機大佐を団長とする海軍,陸軍各3名,それに住友伸銅鋼管4名からなる,ジュラルミン製造技術習得団を派遣しても居ます.

 和田大尉一行は,到着後直ちにRohrbach技師と面会して,新飛行艇の要求仕様を示し,未だ工場に残されていた4発単葉機を見学する事が出来ました.
 後に和田大尉は海軍航空本部長にまで昇進しますが,この時の事を次の様に述懐しています.

[quote]

 本機は当時としては画期的なもので,私の到着の頃までただ1機連合国側によって保存されていたのは有難かった.
 本機はその後間もなく連合国側の手で破壊されたが,高翼面荷重単葉翼の採用による空中性能の向上,全ジュラルミン構造の片持翼の前縁に装備した発動機など,現代(1940年代)の大型機の構想は既に本機にその芽生えが認められていた.
 私が特に感心したのは,そのジュラルミンを使用する翼の構造方式であった.
 私はこの方式はJunkers,Dornierの構造方式よりも遙かに優秀で将来性があると思った.
 96艦戦,零戦,陸攻など我が国の近代式航空機の翼構造は全てこれから発展したものである.

[/quote]

 最初,Rohrbach技師は,海軍の注文による飛行艇の成功を危ぶんでいましたが,結局,部品はドイツ国内で造り,機体の組立はコペンハーゲンで行う方法を採りました.
 彼の設計した,RRイーグル365馬力を2基搭載した双発片持高翼単葉飛行艇は,1924年に第1号機が完成し,5号機までこの方式で製造されました.
 このほか7号機までを,半完成や部品として輸入しています.
 この機体は解体されて日本に持ち込まれ,1号機はイーグルを搭載した原型通りで,横須賀海軍工廠で組立てられ,試験飛行が行われました.
 2号機は三菱に於て,三菱で国産化されたイスパノスイザ450馬力を搭載して組立てられ,海軍で試験飛行が行われた後,川西系の日本航空株式会社に払下げられ,輸送機として用いられました.
 3号機については,広工廠で組立が行われ,当時広工廠で国産化していたロレーヌ450馬力を搭載して,飛行しました.

 持ち込まれた部品や半完成品のうち,再組立が行われていたのは,この3機だけで,残りの4機分の部品は,組立てられたのかどうかすら判っていません.
 研究機材として各社に配分されたのかも知れません.

 これは作ってみては良いものの,機体の重量過大とそれに対して発動機はアンダーパワーで,離水が困難だったり,大馬力荷重による平面外板の歪み,凌波性の不足が欠点として上がり,更に初期のジュラルミンは潮風による腐食を防ぐ方法が十分ではなく,実用を諦めざるを得ませんでした.

 しかし,この機体は,広工廠の製造した機体や,三菱の機体に多大な影響を与え,日本の航空技術史に一つの足跡を残した機体だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月22日23:15

全金属製航空機


 【質問】
 超兄貴超ジュラルミンはどのように開発されたのか?

 【回答】
 1919年,住友伸銅所は,「住友軽銀」と呼ばれる品名のジュラルミンの開発に成功します.
 しかし,その需要は旺盛ではなく,1922年のジュラルミン製造技術習得団に参加した技師が持ち帰ったストリップ・ミルで,川崎航空機向けの陸軍の重爆撃機の翼張用に0.3mmの板を製造した程度でした.
 因みに,これら初期のジュラルミン開発については,英国の指導の下で製造技術の指導を受けていました.

 1931年4月,住友アルミニウムが発足しますが,この時の合弁の相手は,アルコア(アルキャン)でした.
 この為,住友は今度は米国系の技術を導入する事になります.
 特に反射炉操業と圧延技術は,住友に多大な影響を与えました.

 丁度,始まった満州事変の時流に乗って,ジュラルミン生産は拡大し,その売上は櫻島工場の40%を占めるに至りました.

 1932年9月,海軍より鍛造素材の納入だけでなく,完成金属プロペラ製作の要望が出て来,住友アルミニウム側と航空本部技術部長の山本五十六との間で交渉が行われました.
 その結果,プロペラの研究施設は海軍の設備を利用可能とする,海軍のみならず,陸軍用にも納入する事を了承すると言う条件付で,11月22日に,「飛行機用プロペラ製作統一に関する覚書」を締結します.

 1933年2月25日,中島飛行機とハミルトン・スタンダード・プロペラが締結していた契約を引継ぎ,ハミルトン・スタンダード・プロペラからの設計技術の指導と資料の提供,固定ピッチプロペラの製造に関する一切の権利,資料,中島の所有する工作機械,工具類一式など製造権関係で55,000円,設備,機械,工具に137,000円を支払うことで合意し,契約に調印しました.
 こうして中島から受け取った機械30台は櫻島工場に移設し,プロペラ生産一貫工場を完成させました.
 初期の頃は,精密加工の経験が浅かった為,生産に難点がありましたが,次第に量産効果が上がり,1本2,100円で納品する事になりました.

 1934年には,ハミルトンの可変ピッチプロペラの技術導入を行い,製造権実施料45,000ドル,技術改良通告料12,500ドル,定速回転式についての通告料12,500ドルを支払って,ハミルトン・スタンダード・プロペラのハートフォード工場に2名の住友の技師と1名の海軍技師を派遣して製造指導を受け,必要な機器を買い付けて帰国,1935年11月から可変ピッチプロペラの製造が始まりました.

 一方,部材に関しては,アルコア規格24Sを目標にした合金の開発を行います.
 これは原料事情と加工技術水準の稚拙さから,24S相当のものを作る事は出来ませんでしたが,ドイツの新合金系統の製品と同等のものを,1934年に完成させ,これを超ジュラルミン(SD)と名付けました.
 更に,この超ジュラルミンの海水に対する防食性を高める為,これにマンガンやマグネシウムを添加したSA1合金を表皮とするクラッド材(SDC)の生産も開始されました.
 このクラッド材の実用化は,米国やドイツには後れを取りましたが,実は英国より早かったりします.

 そして,熱処理上難点のあった超ジュラルミンを改良して,アルコア24S部材に近いものの実用化に成功し,同時にクラッド材も,SA1からSA3を合わせ板としたアルコアの24Sアルクラッドよりも純度の高いものを生産する事が出来ました.

 1935年8月から,住友伸銅鋼管研究陣は,五十嵐勇博士を開発責任者として,SDを越える新合金の開発に着手し,最強の成分範囲を突き止めると同時に,「時期割れ」の欠陥を克服した,当時の世界水準を抜く新合金を発明しました.
 1936年6月9日,彼らは「亜鉛3~20%,マグネシウム1~10%,銅1~3%,クロム0.1~2%(マンガン0.1~2%),残部アルミニウム範囲内配合成分を有する新鍛錬用強力合金」の特許を出願します.
 この合金は1937年,研究の基礎となった英国ローゼンハインのE合金,ドイツのザンダー合金,超ジュラルミンSDの頭文字を取って,ESD合金と名付けられました.

 強度はSDに対し20%増の抗張力60kg+/mm^2で,耐海鹹水性もSDに劣らなかったのですが,更に合わせ板材の開発も進め,ESDCを完成させました.
 1938年3月,三菱航空機の十二試艦戦の主翼桁材にESD押出型材,主桁ウエブにESDCが採用され,12月に海軍航空規格「高力アルミニウム合金第三種」として採用となり,零戦の主要材料になりました.
 因みに,これは1939年10月24日に特許公告されています.

 五十嵐博士は当時の事を1952年1月の軽金属研究会誌に寄稿してこんな文を書いています.
 一寸長いですが引用します.
 なかなか辛辣な事を書いていますけどね.

[quote]

 学校を卒業以来会社の研究室でずっと軽金属を弄っていた.
 始めはアルミをやれという事だったが,丁度日本に於けるアルミ合金の勃興期で,先輩諸賢が皆アルミに手を付けられるので大変気楽にボヤボヤしていることが出来た.

 やがてマグネシウムを取扱わねばならぬ時代が来た.
 僕はその方の手伝いをする事になった.
 マグネシウムは取扱いにくいので誰も手を出さぬ.
 不精な僕も止むを得ず,いろんな実験をやらねばならなかった.

 あるとき,外国土産に腐らないという小さなマグネシウムの一片をもらった.
 塩水に漬けてみた.
 初めは少し泡が立つが其の後何の変化もない.
 すこし表面が黄色みを帯びる程度で,重量は少し増加の傾向を示し,一年経って何の変化も起こらなかった.
 種々分析してみたが何も見あたらぬ.
 ふと,外国規格に鉄の不純物に厳しい制限がある事を思い出した.
 そしてやっと純マグネシウムが腐らない事に気がついた.
 こんな場合,第三者が一寸指摘してくれると大変有難い.

 又或時はマグネシウムの防蝕をやれと言う事で種々やってみた.
 弗化水素で処理すれば弗化マグネシウムの被膜が出来て大変良い事を見出した.
 しかし,時々pitting(円形の穴)を起こすのに弱った.
 之もやっている時は気づかなかったが,後で考えると材料に悪い点が有れば止むを得ぬ事であった.
 誠にわかりきった事であるが,其の時は気がつかぬ.
 其の後,米国の防蝕の大方は,弗化物処理をしている事が明らかとなった.
 “バカの智慧は後から”とはよく言ったものだ.
 先輩が夫夫立身出世されると馬鹿な我輩も止むを得ず研究の凡てを見ねばならぬ事になった.

 丁度その頃,ジュラルミンは板につきSD,SDCも工業化できてやれやれと思っていると,トム合金というものが華やかに宣伝された.
 第一次大戦当時,英国にはE合金というものがある.
 別に珍しい合金ではないが,時期割れがあるので使い物にならぬ.
 卒業成績は優秀でも,Loadが掛けられない秀才の様なものである.

 とは言っても世間は五月蠅い.
 止むを得ず我々は,使い物にするようにしようではないかと相談した.
 割れるヤツなら大いに割って見ようと言うので,最も時期割れの甚だしいのを作って,そのよって来る原因を掴もうと努めた.
 種々の気体の中,液体の中,真空中などで割らせてみた.
 其の結果から,この種の時期割れは水分による結晶粒界の局部腐食が重大なる原因を為す事が判った.

 其処で腐るものに腐るなとは無理な話だから,腐りたければ大いに腐らせてやろう.
 それも局部腐食などと言うケチな事を言わずに,全面腐らす様に持っていこう.
 それには全面に折出するマンガンを増して,1.2%に持っていけば全面腐食になり時期割れはなくなる.
 処が大物鋳塊ではマンガン化合物が大きく発達して物にならぬ.
 其処でマンガンを減じてクロムで補う事にした.
 そしてそのlimitがESDのマンガン,クロムの成分になった.
 他の成分は量産の目的で最も加工しやすいものを取った.
 量産を考えないならば80kgs/mm^2程度は出せる.

 かくてESDは出来上がったが,素人は恐ろしいもので,
“完全に時期割れはないか”
等と詰問されたものである.
 我々の見解からすれば,ジュラルミンでも時期割れを起こさせる事が出来るのであって,絶対に割れないなどと言い切る事は出来ない.
 実用上差支えないと答える以外に道はない.
 大事な事は,実用の限度と量産と力との兼合いである.
 そして少し成分を弄れば,注文通りの物が作れる.
 これについては面白い話があるが略する.

 早目早耳で外国技術をいち早く真似て行くには,例え浅くとも広い必要がある.
 それが現代日本に丁度相応しく尚又経営者としての資格の一端である.
 だがもしそれでは,我々の技術は永遠に後塵を拝していく事になる.
 例え狭くとも深く深く掘り下げて各自の領域に於ては世界の尖端を切って行けないものだろうかと思ったりして,新しく入社した気鋭の氏に根底を作る様な問題に専念して貰ってみた.
 そろそろ軌道に乗り掛けてきたと思う頃には,敗戦となり動けなくなった.
 そして凡てを徹底させようと考えたのは,僕の悲願に過ぎなかった.

 研究者は事実を直視せねば成るまい.
 事実はこれでもか,これでもかと天地の理法を露骨に示してくれる.
 我々は正直に白紙で之を受容れねば成るまい.
 実験を始めるまでには色々と屁理屈も考え,斯うも有るべきかと考えを纏めて進むのは当然の事であるが,実験の結果が思った通りに出た時は考えの正しさは確立するが,其処には進歩も発展もない.
 思った結果と矛盾した事実が示された時にのみ,進歩があり発展がある.
 こんな判りきった事を言いたくなったのは,大学に来てからである.
 老衰した証拠ででもあろうか.
 我々の学問は非常に未熟な理論が少なくない.
 その未熟な理論を,動かすべからず鉄則かの如く考えられては困る.
 理論も実験も日に日に進んでいって,工業の発展も望めるであろう.

[/quote]

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月23日21:37


 【質問】
 旧軍機には自動操縦装置の類が装備されていたのでしょうか?

 【回答】
 水上偵察機など,長距離を飛ぶ機体には装備されていました.
 尤も,それに任せきりにして,全員寝こけ,位置が判らなくなって自爆と言う例も中にはあります.
 どなたかがこれを一般的と言い張るかも知れないので,あくまでも,ほんの一握りと言う事になりますが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/07/19(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 航空機搭載の対水上レーダーについて教えられたし.

 【回答】
 光人社NF文庫「海軍技術研究所」によれば,昭和十七年に空技廠が俗称『空六号電探』あるいは『H-6電探』と呼ばれる航空機搭載の対水上レーダーを開発した.
 大艇や中攻に搭載され,重量百十kg,大型艦艇なら百km,小型艦艇なら五十kmの探知距離を持ちましたが,海面からの反射があるため三km以上遠方の目標でないと探知できなかった.
 『空六号電探』は天山艦攻に搭載され,マリアナ海戦において索敵を行った.

 この電探は終戦までに二千台余り作られたが,これに対しアメリカは,昭和十八年の時点で,艦爆搭載の対空見張り用,同雷撃補助用,B-24搭載のパノラマ型,夜間偵察機用など四種類,二万数千台の航空機搭載レーダーを装備していた.

(極東の名無し三等兵◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS)


 【質問】
 「トラ・トラ・トラ」か何かで日本機を再現するのに,既存の機体に魔改造ほどこしたり合体させたりしたそうだけど,そんな機体がまともに飛ぶのかな?
 いや流石に飛行に問題がない範囲での改造だろうけど,「飛ばすの大変だったぜ」みたいなエピソードとかあるのかな?

 【回答】
 そう思っておっかなびっくり飛ばしたら,却って前より早く飛ぶので驚いた,というエピソードが あったりする.
 1月号(だったか?)のモデルグラフィックスでやってた『トラ・トラ・トラ!』特集の記事に載ってた話だが,テキサンを零戦風に改造したら空力特性が良くなったらしい.
 でもさすがにそれは,「ただまっすぐ飛ぶだけ」で,怖くて急旋回とかは間違っても指示できなかったし,するパイロットもいなかったとのこと.

 そのせいで,あの作品中では99式艦爆は水平爆撃を,それもひょろひょろと落ちるFRP製の爆弾 (実際の真珠湾でロケってるので,間違って建物に当たったりすると大変な事になるため,錘入れた撮影用爆弾が落とせない)を落とすだけなのが残念なところ.

 「遠すぎた橋」にはテキサン改造の英軍戦闘爆撃機(何のつもりなのかがイマイチ不明)が出てくるが,あのシーンはオランダ軍の演習地で,人がいない森めがけてコンクリ詰めの爆弾落としてるので,弾道がリアルでかっこいい.

軍事板
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◆◆◆◆◆発動機


 【質問】
 日本のエンジンの命名規則について教えてください.


 【回答】
 発動機は1938年5月23日に,「航空発動機ノ名称竝ニ製造番号付與様式」が定められ,漢字名で種別,形式名となりました.
 例えば,栄の場合は榮発動機一二型となります.
 最初の一桁目の数字は,重要な構造の相違,残りの一桁目の数字はその他の構造の変更を示していました.
 また,試作中の制式発動機の場合は,形式を示す数字の後に「改」が付き,改修の順番に一,二と番号が振られていきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 三菱の発動機は,金星とか火星とかネーミングするなら,瑞星とかつけず,いっそ全部太陽系で統一したらよかったのでは?

 【回答】
 瑞星=瑞々しい+星=水星,の意味
 開発の順に,太陽系の内側からつけてるんだよ.

14気筒小形1000hp級……瑞星
14気筒中形1000hp級……金星
14気筒大形1500hp級……火星
18気筒大形2000hp級……木星? 陸軍ハ-104だが海軍の採用実績無し
18気筒中形2000hp級……土星? 統一後ハ-43,A7M2の発動機

軍事板,2003/03/05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 零戦など大戦期の日本の航空機は,ことごとくエンジンの馬力が低かったようですが,それはなぜでしょう?
 工作機械が貧弱だったとかはよく聞くのですが,それにしてはあまりに差が開いている気がします.
 エンジン開発者が無能だったのか,それとも工作機械がそれほど貧弱だったのか,根本的な構造が米国のエンジンと違ったのか……
 教えてください.

 【回答】
 終戦後の米軍がテストしたときに,点火プラグと高オクタンの燃料を使用してるので,ますそれが,1つ.
 大戦中の日本のエンジンは,元が外国のライセンス品からの発展系なので,オリジナルの発展系に比べて,発展の世代が遅れてたのが1つ.
 エンジンの部品にレアメタルが使えず,性能的な制限が加わってたのが1つ.
 この上記の3つにより,馬力上の不利があるので,それを空力でカバーするため,極端な小型化を設計に要求して,工作精度が追いつかないものを設計し,製作に走ったのが原因.

 さらに根本的な原因として,エンジン開発には試行錯誤が付き物だが,日本は技術蓄積が乏しく,試行錯誤から前に進むことが困難だった,という面がある.
 エンジン設計して,その試作品が出来上がるまで時間がかかり,そこから試行錯誤を繰り返すが,材質や条件を変えた交換品を作るのにまた時間がかかり,その間にも,軽金属の使用量を減らせといった指示があり,その検討に時間が掛かり,高高度性能上げるための過給機を取り付けた場合の検討を行い……といった状況だったので,アメリカみたいに確実に設計経験を積んでいく ということが困難だった.

 戦争前は先進国から情報が入ってきたので,無駄な試行錯誤はあまりしなくてすんだのだが,それができなくなると,技術層の薄い日本では,開発者が過負荷状態になってしまった.
 何人かは,低栄養とあいまって過労死や病気になってしまった.

 ちなみに,実際に金星(零戦が搭載した栄よりも大きなエンジンで,爆撃機に多用されていた)を零戦に搭載した試作機も出来てるが実用化にはいたらなかった.
 更に大きなエンジンとして火星もあるにはあったが,サイズの差が大きすぎるエンジンの搭載に伴う,機体構造の強化とかバランスの変化とか,やったとしても到底物にはならなかったと思われる.

軍事板
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 【質問】
 第二次大戦期の日本軍の航空機は,米国軍のものに比べてプロペラ径が小さいものが多いようですが,プロペラ径を小さくしていた理由として,
1)大直径だと主脚が長くなり,重量が増す,
2)大直径だと加速が悪くなる
3)技術力が足りなかった
というような事を聞いたことがあるのですが,これで正しいのか,他の理由があるのか教えて下さい.

 また,2)の加速が悪くなる,というのは戦闘機なら加速性が重視されるであろうことから何となく分かる気がするのですが,攻撃機にも適用するのでしょうか?

(のりんこ ◆hj2qSUtMV2)

 【回答】
 プロペラの設計/製造技術自体も日本は欧米に比べて遅れていたようです
 戦前はアメリカのハミルトンからライセンス買ったりNACAからデータ貰ったりしてたのが,日米関係の悪化で技術が入ってこなくなっちゃいました.
 戦中はドイツのVDMなんかのライセンスに頼ってましたが,プロペラ設計に関しては日本独自の技術は確立できなかったようです.

 その辺の経緯については佐貫亦男先生(プロペラ設計の専門家で,プロペラグ術習得のために戦中にドイツ留学されてた方)の著作に縷縷嘆き節が書き連ねてあったと思いますので,興味があれば一読されてはいかがでしょうか.


 【質問】
 プロペラシャフトから機銃を発射する形式のエンジンが,日本に無かったのはなぜですか?

 【回答】
 一応,三菱にてHispano-Suiza 12XCrs/12YCrsの国産化が図られましたし,川崎ではDB601,愛知ではDB600の国産化が行われていました.

 で,1935年にフランスからMotor Cannonを装備したDevoitine D.510J戦闘機を陸海軍共同で1機ずつ購入してテストし,陸海軍とも一時的にこれを装備した戦闘機を開発させています.
 陸軍は中島にキ-12を,海軍は三菱に九六式三号艦戦を試作させました.

 しかし,D.510Jの評価に関しては,高空に於ける速力,上昇力,運動性は優れているものの,4,000m以下の中,低高度での運動性は,九六式艦戦,九七式戦闘機に劣り,昇降舵,補助翼の操作が重く,各舵の釣り合いに難があり,当時の操縦士には余り好まれませんでした.
 またCannon自体,給弾装置に欠点があったために,実用性が劣ると判定されています.

 キ-12は,D.513の様な国産初引込脚式の野心作でしたが,運動性が他の機体に劣り,発動機の製作困難で中止,九六式三号艦戦も,運動性に難があり,同様に試作のみで中止されました.

 三菱の12YCrsは,そもそも650馬力エンジンの実用化に手間取ったのに,更にエンジン負荷増大による精度,材料対策不足があり,また,三菱自身も空冷にシフトしたため,頓挫しました.
 12Xでは接合棒は叉状式で,これに悩まされたのに,12Yになると副接合棒方式になるため,技術の蓄積が無く,実際量産化しても,モノには出来なかった可能性があります.
 また,減速歯車も,歯車相互の中心距離を240mmから300mmへと拡大する必要がありましたし.

 愛知のDB600や川崎のDB601も装備しようと思えば装備出来ましたが,軸部の熱処理不良に始まる各種の技術的障害があり,装備せずに終わりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/21(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 三菱がイスパノ系列の水冷/液冷発動機に見切りをつけたのは何時頃でしょうか?

 【回答】
 1934年までHispano-Suizaのエンジンが製造されていますが,450馬力でまず製造困難に直面し,650馬力に至っては手に余る有様で,それを発展させた九三式も同様に少数生産に終わっています.
 これは,熱的設計が今までの経験と全く異なっていたことと,燃料の問題もあり,更に今まで補機類はフランスから買い付けていたものの,これを国産品に改めたために,品質の問題が発生したためです.

 この対策費が莫大になったことと,そのHispano系エンジンの故障に業を煮やした海軍から,「使用ニ耐エス」と言う通告があって,ついには工場で生産するエンジンが無くなり,三菱航空機の経営に相当の支障を来すようになったため,三菱財閥の岩崎小彌太主導で,造船と航空機の合併が,1934年6月に実施され,三菱重工業が成立します.

 この時,発動機部長に就任した深尾氏が立てた目標は,
 1. 性能,信頼性,および安価であることに於いて,世界一の航空発動機を作る.
 2. 水冷か空冷のどちらか一方の開発に絞る.
   (海外優秀メーカーはどちらか一方に特化している.二兎を追う者は一兎をも得ず)
 3. 海軍用,陸軍用を区別すべきではない.
 4. 軍と合作では世界一のものは作れない.他の掣肘を受けることなく,独自に設計すべきである.
として,水冷,空冷の方針検討を行います.

 ちなみに,1934年6月に三菱重工常務の郷古潔の渡欧時に,Hispano-Suizaとの間にライセンス契約の更新を行い,水冷650馬力エンジンのLicenseを締結したばかりでしたが,年末には,深尾は空冷一本の方針を打ち立て,以後は空冷一本に開発が絞られます.

 その理由としては,
 1. 水冷論者は直列型の前面抵抗が小さいことを重視するが,馬力向上に従って差が無くなる.
 2. 水冷よりも吸気弁を大きくできるから馬力が大となる.
 3. 気筒数は複列にすることで,水冷より多くできる.
 4. 水冷式は部品の大きなものがあるから廃却品の影響が大きい.
 5. 同型部品数が多いから量産に適する.
 6. 水冷式は機関砲の取付が容易だと言うが,回転同調装置の使用により,優劣はない.
 7. 冷却器が不要である.
としています.

 但し,そのボア・ストローク径は爾後,ほぼ一貫して,三菱系航空機エンジンに用いられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/14(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 DB601エンジンのライセンス購入のエピソードで,陸海軍両方が支払って二重払いになったというものですが,学研で出てきた説に,「二重払い」ではなく「ドイツ側の提示額が高すぎるのでワリカン」という話がありましたが,これの信憑性はどれほどあるのでしょうか?

・最初にDB600の購入に海軍が興味を持つ.
・陸軍も欲しいと思ったけれど話し合いの結果海軍優先になる.
・ところがダイムラーが提示したライセンス料280万円に対し,海軍が提示できたのは40万円.
・揉めに揉めたあげく,お役所的で予算の大幅増額が難しい海軍を通してでなく愛知が交渉の前面に出る.
・具体的な金額は不明だが,ライセンスの範囲をDB600CIIIまでに限ることによって当初の要求の半額以下で契約した.
・おかげでDB601のライセンスは別途契約するはめになった.

こんな感じだったと思います.

●反論情報掲載

・元々買おうとしていたのはDB600で,最初は海軍がドイツ当局を介して交渉
・この契約はその気になれば陸海軍どちらでも使えるもの
・海軍の予算は30万から40万,相手の希望価格は280万だったが,どうもドイツ当局が説得したらしく140万円で購入が纏まる
・軍が川崎の主導でDB601を購入したときの価格は180万円
・海軍の交渉が難航していた時,陸軍がやろうとしたが海軍の話が一段落するまでは手控えろ,とこのときは相談していた

 なんかよく分からなくなりました.

マチムラ in FAQ BBS

 【回答】
 古書『丸メカニック 飛燕&5式戦』を入手.
 その中に土井武夫・元川崎航空機試作部長の記述がありました.(p.51-52)
 以下に引用させていただきます.

――――――――――――
 陸軍はいったん空冷式エンジンで進むことに決めたが,当時英米独ソの戦闘機が主として水冷式を装着しており,ことにわが国と友好関係にあったドイツにおいて,水冷式エンジンのダイムラーベンツDB601(出力1100ps/ 4000m)を装着した戦闘機,メッサーシュミットMe109(単発)およびMe110(双発)が高性能を誇っているのを見て,昭和13年の中ごろから川崎をしてダイムラーベンツ社との間にDB601の製造権購入の折衝に当たらせた.
 両者の間で製造権購入に関する契約がまとまったのは昭和14年1月で,川崎は直ちにその製造技術習得のため山崎精氏を団長とする技術者10名をダイムラーベンツ社に派遣した.
 このDB601については,これより少し前に海軍においても愛知航空に製造権を購入させ同社で製作することになっていたが,改めて陸軍の分として川崎が製造権を獲得したのである.
 製造権の金額が当時の金で50万円というから陸海軍を合わせると100万円(現在の金で約20億円に相当)になる.
 日本政府しとて(原文ママ)購入すれば半額の50万円で足りるものをと,ヒトラーは日本の陸海軍の中の悪いことを皮肉っていたという.
 このことは筆者が川崎重工の鋳谷社長(川航社長兼任)から直接きいた話である.
――――――――――――

 学研の新説がどのような資料的根拠に基づいているのか,当方は拝見しておりませんが,関係者のこのような証言がある以上,従来の二重払い説のほうに信憑性があると愚考いたします.

消印所沢 in FAQ BBS

▼ 【反論】
 ところが二重払い説にも微妙な食い違いがあって,例えば「液冷戦闘機『飛燕』」(渡辺洋二)p.38によれば

>ハ9の性能向上が限界にきたことから,
>いったん液冷エンジンに見切りをつけた日本陸軍だったが,
>DB601Aの高性能を耳にするや,俄然興味を示し,
>昭和13年(1938年)に入って 商社の大倉商事にライセンス生産権の獲得にあたらせた.

となってて,陸軍が“初めて”興味を示してライセンス交渉に動いたのは,DB601Aからとなってるわけですが,現実は,昭和11年の時点で川崎の山崎技師(ドイツ駐在)を代理に立てて,DB600のライセンス交渉に食指を動かしてるわけなんです.
(海軍側にもメモが残っている)

 また,川崎の林貞助技師によれば(丸メカ「飛燕&五式戦」p.122)

>昭和12年末か13年始め頃(と記憶),ベルリンの陸軍事務所を差し置いてパリの加藤中佐に
>「ドイツのDB601の製作購入交渉をせよ」との命令が入り,私がお伴を仰せつかって同道,
>ドイツ航空省に行き,第1次折衝を終えて・・・ (以下略)

となってて,最初から林技師がライセンス交渉に関わったように読め,
あれ?,「大倉商事」は?
あと,何でパリ駐在の林技師が出てくるの? ドイツ駐在の山崎技師はどうなったの?
となるわけです.

 ちなみに林技師は
>昭和12年末か13年始め頃(と記憶)
と書いていますが,土井技師によれば
>製造権取得に関する契約がまとまったのは昭和14年1月で,
>川崎は直ちにその製造技術取得のため山崎精氏を団長とする
>技術者10名をダイムラーベンツ社に派遣した.
と書いているので,渡辺氏も林氏も土井氏もなんだか微妙に食い違ってる気がします.

 個人的には,土井技師が記載している二重払い説については,ソース無しのまた聞き(社長から聞いた話)である上に,一次資料としてそれに反する資料があるので,少なくとも
「陸海軍が反目しあい,お互い連絡も取らずに二重払いをした」
という話は出鱈目であると考える方が,自然かなと愚考する次第です.

 一方,『歴史群像 太平洋戦史シーリズ56 大戦末期航空決戦兵器』(学習研究社,2006年)記載の,p136~p147 「ダイムラーベンツ「DB601」発動機と日本陸海軍」を,補足を加えて要約すると
1.最初にDB600の購入に興味持ったのは海軍
2.陸軍も欲しいと思ったけれど話し合いの結果海軍優先に(この段階では協調 ※一次資料有り)
3.ところがダイムラーが提示したライセンス料280万円に対し,海軍が提示できたのは40万円
4.もめにもめたあげく,お役所的で予算の大幅増額が難しい海軍を通してでなく,愛知が交渉の前面に
5.具体的な金額は不明だが,ライセンスの範囲をDB600CIII(DB600G)までに限ることによって,当初の要求の半額以下で契約?
6.おかげでDB601のライセンスは別途契約するはめに
7.ここで問題になってくるのは愛知のエンジン生産能力.(もし愛知が三菱や中島くらいの生産能力があれば,問題は無かったはず)
 例えば,ハ40の生産台数は3360基.アツタ20系の生産台数は843基.
8.DB600のライセンス購入に関しては蚊帳の外で,陸軍向け発動機の生産に不安を感じた陸軍は,独自にDB601のライセンス購入に乗り出す.ライセンス料は180万円?


 180万円の根拠は以下を参照して下さい.
アジア歴史資料センター
件名:D,B発動機購入に関する為替資金の件
レファレンスコード:C01004669700

ps.
 提示したアジ歴の資料に書いてある,川崎が支払ったであろう“180万円”というのは,『製造権の分担金』と『DB601エンジン自体の購入』を合算した金額なので,ライセンス料=180万円ではないと言うことを明記しときます.
 個人的なイメージで言えば,川崎が分担したライセンス料自体は100万円前後ってとこなんでしょうかね?

名も無き名無し in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分

 よって2009.1.14時点では,どちらが正しいとも断定しがたいため,両論を併記しておく次第です.▲

アツタ・エンジン
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 DB601エンジンについては,燃料直噴技術と無段変速過給器に惚れ込んでライセンス生産権を日本は取得したらしいのですが,この無段変速過給器や燃料直噴技術は,そのまま日本の航空機エンジンに応用されてるんでしょうか?
 震電に搭載予定だったハ43が無段変速過給器を装備しているらしいのですが,これはDB601のものを改良したものだと思って間違いないでしょうか?

 【回答】
 三菱の航空機エンジン開発に於いて,ドイツの影響は弱いものです.

 三菱は,Hispano-Suizaに学び,またP&W社との技術交換(技術者間では,実用化前のTwin Hornetを見せられたり,金星のアウトラインを話したりしています.)をしており,三菱のエンジン開発の総元締である,深尾は,欧米視察の際,総じてヨーロッパのエンジンに見るべきものはないと結論づけています.

 この辺の技術は,三菱に於いては国産開発か,P&Wの技術の応用のいずれかで,DB社の改良などは,まず,社内で採用されなかったでしょうね.

 ただし,DBの燃料噴射装置については,製造会社のボッシュがライセンス提供を認めなかったので,三菱の燃料噴射装置は実質的にボッシュの無断コピーをしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/09/09
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 DB601Aをライセンス生産したのは,日本の工業水準を考えると無理があったの?

▼ 【回答】
 これについては,普通にライセンス生産してそれなりの物を作っている.
 渡辺哲国によれば,当時の日本の航空発動機移管する開発・生産技術レベルは,米英独に比べて5~10年ほどの遅れがあり,愛知飛行機でのDB601A国産化は苦心,改良の連続.
 その過程で無酸化調質法などの特許技術も開発したという.


 元701空整備分隊士,青海中尉の手記によれば,問題が起きたのは多かったのはアツタ21型では
・理解不足による整備不良や破損箇所の修理ミス.
・粗悪な燃料が異常燃焼を起こす.

・後期に入り,圧縮比を上げて出力向上を狙った結果,生産ラインの変更に対応できずにを起こす
・燃料噴射量を補正する温度感受器の不調による振動,爆音不調
・倒立V型の宿命ともいえる,燃料室への燃料,潤滑油の残留による点火栓汚損
・出力調整を行うための各管制器の不調

――といった点.

 その後,努力が実ってアツタ21型の生産と品質がやっと安定した頃に,出力向上を目指したアツタ32型への大幅な設計変更があり,それに伴う準備の遅れと技術的問題
冷却液の代わりに加圧水を用いるように改設計した結果,冷却系が内圧に耐えられないということも起きた.
 また,エチルアルコール入り燃料が発生する蟻酸対策を施したり,ニッケル輸入途絶という日本の国情に合わせた改修をしたりもしていて,そうしたニッケルクローム鋼からシリコン・マンガン・クローム鋼への切り替えに伴うクランク・シャフト・ピン軸部の剥離・研削割れやローラーのピッチング等が発生している.
,そのままコピーした上での製造ミスによる不具合を生じていた訳ではない.

とが発生して,そのために立ち上げが3~4ヶ月遅れて生産遅延,「首なし彗星」が発生する原因となったが,立ち上げ後は一時期を除いて敗戦まで,アツタ32型の生産は継続されたという.

 詳しくは『世界の傑作機69 海軍艦上爆撃機「彗星」』(文林堂,1998.3.5),p.68-73を参照されたし.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 また,『液冷戦闘機「飛燕」』(渡辺洋二著,文春文庫,2006.7) によると
(今手元に無いんで正確ではないですが)
・液冷の為,長いシャフトが必要だが,必要な強度を得られなかった
・途中からモリブデンなど使用禁止され,さらに強度が落ちた
・同軸機銃の装備も構造が複雑になるので見送られた
なんて記載もありますね.
 エンジン製造遅延はかなり最初から起きてるようで…

 工具などにしか貴重な金属が使えず…という貧乏体質が,こういうとこにも出て何とも…

ちくお in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 戦時中日本で国産化されたDB601.
 製造上のトラブルとしてクランク・シャフトが上げられることは多いですが,フルカン過給器の製造トラブルとかはあんまり聞きません.

 フルカン過給器の国産化はネックにならなかったの?
 実はそうとう梃子摺ったけど,さらに梃子摺った部分があったから,クローズ・アップされないだけ?

 【回答】
 フルカン過給器より前の段階で,既に技術的限界に達しており,過給器のトラブルは目立たなかったようです.
 と言うか,日本の技術水準でDBを国産化するのが無謀の極みでした.Jumoなら何とかなったかもしれませんが.

 そもそも,フルカン接手式過給器というのは,流体カプリングの内部に入る油量を高度(空気密度)に応じてアネロイドで自動的に調節し,過給器のブースト圧力を制御すると言うものです.
 これは,ディーゼル機関車とか自動車のトルクコンバータと仕組みは同じです.
 この実現には油量制御が重要なファクターとなってきますが,日本のシールド技術は,今とは比べものにならないくらい低いものでした.
 従って,潤滑油制御が出来ませんから,これもネックと言って良いのではないでしょうか.

 余談ですが,日本でトルコンがまともに実用化できたのは,1950年代後半から60年代に掛けてで,最初に手がけたのは,1950年のこと.
 これを実用化したのは,今はオフィス家具の大手である岡村製作所だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/27(金)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 なんでまたDBを?
 フルカンと直噴があったればこそこれを選んだんだ,って気もしなくもないですね.
 わざわざ常識的なJumo買い直すくらいなら,むしろイスパノ捨てずに進んでおいても良かっただろうし

 【回答】
 一応,「ドイツの技術は世界一ぃぃ~~~」ですから(苦笑.
 スペイン戦争で活躍した,Bf-109やHe-111が装備していたエンジンで,しかも最新技術を利用していると言うことで,日本の軍部が勇んで購入したみたいです.
 ドイツに於いても生産や稼働状況に難があったのですがねぇ.

 川崎航空機のParis駐在員で,このエンジンの技術導入交渉に当たった人が,
「Daimler-Benzの精緻な構造と斬新なアイデアは日本の技術水準では無理だから,寧ろ設計がオーソドックスなJumoが良い」
と意見具申をしていたそうですが,無視されたそうです.

 歴史に「たら・れば」は禁物ですが,万一,Jumo装備のHe-111が伊式重爆の代わりに入っていたら,Jumoで行ったかもしれません.

 Hispano-Suizaの12Yシリーズは,エンジンの回転数が低かったので,馬力が出なかったですし.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/27(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸海軍はDB601のライセンスを買ったが,ハ40は設計段階から材質を落とした.
 そのハ40の出力向上型がハ140で,首なし飛燕に搭載されるはずのエンジンはこちらになる.
 二重に「日本向け」な改設計を行っており,ライセンス生産の要件を満たしているとは言えないのでは?

 これでライセンス生産なら,栄だってライセンス生産だ….

 【回答】
 ライセンスを買って生産した物を「ライセンス生産で無い」とは,これ如何に?

 改設計といったって,心臓部のシリンダとクランクは,材質を変えた程度でほぼ手付かず.
 冷却系がやや変更になったくらいで,改良の域を出てない.
 ハ140は,圧縮比と回転数を上げ,水メタ噴射装置をつけたのみ.
 逆に言えば,それ以外はほぼ手付かずでDB601のままなんですけど.

 一方,栄は「寿」をベースに,複列・小型化,高出力化したものであり,シリンダやピストン,クランクなどのエンジン心臓部が完全なオリジナル設計となっています.
 栄とハ40は,どう考えても同列では無いでしょう.
 そんなこと言ってる資料見たこと無い.
 あるならぜひ見せていただきたいものです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WWⅡ当時,三菱の金星はちゃちゃと動き,中島の誉は「国を滅ぼす」と言われたのかな?
 馬力数だけの問題だったのでしょうか?
 中島は三菱に比べて粗製濫造だった,というような話を聞いたような気がするのですが.

 【回答】
 三菱のエンジン開発は,深尾という造船のdiesel engine部門にいた技師が,発動機部門を統括し,彼を中心に回っていました.
 彼はDiesel engine実用化で苦労したことから,エンジンの設計を整理し,金星を作るに当り,そのシリンダーのボア・ストロークを140mm×150mmとして(これは当時ライセンス生産していたイスパノスイザの水冷エンジンと同じもの),これをベースに,ストロークを短くして排気量を小さくしたものを瑞星,排気量を大きくしたものを火星として開発しています.
 火星は排気量を大きくするために,ボア・ストロークを150mm×170mmと拡大していますが,気筒数など大きな変更はありません.

 即ち,大幅な設計変更をせず,今まで実績のあるシリンダを組み合わせることで生産の効率を上げ,トラブルを招かなくても済んだのです.
 実際,三菱で製造されたエンジンは,ボア径は140mmか150mmのいずれか,ストロークは130mm,150mm,170mmのいずれかしかありません.

 方や,中島には深尾の様な全てを統括する技師がいませんでした.
 このため,各設計者が自分の考えでボア径,ストローク長を決めていました.
 信頼性のあるエンジン開発で,手慣れたボア径を変更することは危険です.
 一方で,新機構,馬力などの性能に拘り,ボア径は110~160mmまで5種類のものを用い,また,コンパクトにすると言うことは剛性が弱いと言うことも言えるでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/08/24
青文字:加筆改修部分

 【反論 kifogás】
 「誉」は単純に熟練工の不足で,ちゃんとした部品精度が出せなかったのが原因だと思うが.
 勿論設計そのものにも多少の無理はあったのだろうが・・・

 零式艦上戦闘機は生産数を上げるために中島にも生産させていたが,中島製のほうが仕上げが丁寧だったそうだ.
 なので,中島飛行機の生産技術が低かった,とは考えにくい.

軍事板,2004/08/24
青文字:加筆改修部分

誉(ハ45)
グズグズのタペットカバーとかプッシュロッドカバーが泣けて来る
faq110219hm.jpg
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肥後守 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年02月18日 09:18


 【質問】
 「誉」エンジンには,どこに問題があったのですか?

 【回答】
 戦時用としては理想に走りすぎていたため,耐久性に問題があった.
 戦時用としては理想に走りすぎていた.
 以下ソース.

--------
「昭和17年7月,(零戦後継機の)計画要求書が三菱社へ届いた.これにはエンジンの指定はなかった.
 堀越技師は,会社の主張が通る余地があるものと解釈した.
 しかし9月になって,「誉」を使用することを海軍側で決定し,三菱社へ通達してきた.
 堀越技師としては当然,不満であるが,烈風は本来,海軍の戦闘機であり,海軍が使うのである以上,これ以上に言うことはないと考えた.
〔略〕

 19年4月,〔烈風〕1号機試作が完了,5~6月にかけ,会社および官の試験飛行が行われた.操縦系統その他振動などの問題はなかったが,エンジンの調子が不良で,出力不足は歴然としていた.
 19年7月,官民合同研究会で性能不足は第一に取り上げられ,大問題となったが,「その原因がエンジンの出力不足にあり」と指摘する人は,海軍側には一人もいなかった.
 「誉発動機取扱説明書」冒頭部分には,
「本書記載の諸元は計画上ないしは試製発動機により得たる数値にして,本発動機の標準値を示すものなるも,各発動機の諸元に関しては,所属の来歴簿記載の検査成績を参照し,取扱上注意を有す」
という記載があったという.
 これは,量産された機体に搭載された「誉」エンジンの性能は保証しないとも解釈できるのである.

 三菱社は「誉」エンジンを機体から外し,地上テストをした結果,海軍提供データより25%も少なく,また,このデータは,飛行試験で測定した性能データから逆算した出力に一致した.
 また,「誉」エンジン装備の,川崎社の紫電改や中島社製の彩雲について調べてもらった結果,いずれの「誉」についても性能低下が起きていることが分かった.
 昭和19年9月,空技廠で研究会が開かれたが,「誉」装備の新型機の試験飛行は必要なしの空気が支配的だった.
 堀越技師は,最近のエンジン出力低下のデータを見せて説明し,三菱の「MK9A」を装備しての試験飛行をさせてほしいと要望した.
 航空本部と軍需省の関係者は行きがかり上,賛成はしなかったが,航空本部関係者の一部が共感を示した上,航空本部長,和田中将が熱心に支持斡旋し,烈風改の設計データを得るために,三菱社のリスクで5,6号機に「MK9A」を装備して試験することが,航空本部によって認められた.
 ところが8月に入って突然,軍需省から三菱に対し,「烈風の生産を中止し,紫電改の生産準備をせよ」の指令が届いた.これは三菱社内の関係者にとって,相当なショックであった.
 しかし〔略〕飛行試験は7月4日の会議で公式に認められている.

〔略〕
 「ハ45(誉)」エンジンは,「ハ25(栄)」エンジンと殆ど変わらぬ直径で大出力を実現した,夢のエンジンだった.
 しかし,ピストン・スピードは世界常識を超えており,戦時用としては理想に走りすぎていた.
 耐久性に問題があったのである.
〔略〕
 戦闘機開発計画に関しては,操縦者が強すぎたようである.
 往々にして,敵機を全く撃墜していないパイロットも,次期戦闘機はかくあるべしとの主張は持っていた.
 そして海軍には,『技術者は用兵上の意見を具申すべからず』という伝統的不文律があったといわれている」

--------(「陸海軍『戦闘機開発システム』を検証する」是永明彦,from「丸」 Feb., '01)

▼ 上記の通り,誉は小さく作りすぎて製造上の支障が出ていた.
 また,
整備性も悪かったが,「きちんと整備されれば」悪いエンジンじゃなかった.
 悪評が酷かったのは,他のエンジンにもよくあった初期不良を解決する時間無しで量産に移ったことで,案の定出てきた初期不良が過大に宣伝されてしまったことと,何より,性能のいい潤滑油を使わないとすぐ故障する設計だったこと.
 実戦ならともかく,飛行機をどこかからどこかに移動するぐらいだと,一回回したらススがべっとりつく,
 オイルシェールだのピーナツ油だのを使ってた末期の日本では,運用は厳しかった.
(アメリカ軍が残した高性能潤滑油の倉庫を差し押さえた部隊では,調子よく動いた)

 他方,同期の三菱のエンジンは高空性能が悲惨で,4000m以上上がったら極端に能力低下する金星とか,直径が巨大な上に重量あたりの出力も不足な火星だから.

漫画板,2015/01/31(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海軍が誉エンジンにこだわったのは何故ですか?

 【回答】
 対抗馬A20はカタログ性能上,海軍の要求に合致せず,また,中島に対する軍の肩入れもあったため.

 誉エンジンは,1940年に企画が立てられました.
 それは,栄エンジンと同じボア・ストロークで,外径寸法は栄の僅か30mm大というもので,栄の18気筒版というものでした.
 使用ガソリンは,米国から輸入する100オクタンを想定していました.

 海軍は性能の良い航空機を開発するには,軽量で出力のあるエンジンが必要と考えており,誉は正にそれに合致するものとなった訳です.

 一方の三菱は,金星を18気筒化したA20エンジンを開発しています.
 こちらは,手堅く,将来のオクタン価が低いガソリンの使用も考慮し,若干大型で放熱設計などもきちんと為されていましたが,こちらもクランクシャフトの焼き付きなどの問題が発生しています.
 ただ,誉に比べエンジン外径で50mm大きく,乾燥重量では115kg重かったのと,カタログ性能上はパワーウエイトレシオが低く,海軍の要求に合致しませんでした.

 ついでに,三菱は,製品全般に言えることですが,官に無条件に従うものではなく,言うべき所はきちんと主張するために,結構軍との軋轢もありました.
 このため,軍の意向をある程度汲んでくれる,中島飛行機の方に肩入れをしたと言うのもあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/10/16
青文字:加筆改修部分

 例えば,烈風の開発に関する記述を読みますと,烈風計画が具体化した昭和17年夏,堀越技師はMK9A(のちのハ45)を推したが,海軍はNK6A(誉)を推し,押し切られた形となったそうです(碇義朗「幻の戦闘機」,サンケイ出版).
 また,19年5月の試験飛行により,エンジンの出力不足が明らかになっておりますが,
「なおも海軍側は機体の設計や工作上に,速度不足の原因を追求して,発動機側の問題を正式に取り上げようとしないので,我々は全く苦しい立場に追いこまれて,何か我々の過失を責められているような気持ちで,実に耐えられないものがあった」(曾根嘉年技師)
という状況があり,海軍側も,
「我々は余りにも誉に首を突っ込みすぎ,愛情を持ち過ぎたため,冷静な客観的判断に欠けたきらいがあったかもしれない」(空技廠発動機部・松崎敏彦少佐)
と証言しております(「幻の戦闘機」).

 一方,異なる見方もあります.
 学研の「烈風と烈風改」は,「拘ったのではなく,当時は『誉』以外に選択肢はなかった」説をとっています.

 同書によれば,誉のライバルとして挙げられているA20(ハ43)ですが,設計開始が誉の昭和15年2月に対してハ43は昭和16年前半,初号機完成が昭和16年3月に対して昭和17年4月,量産開始が昭和18年9月に対して昭和19年11月と,ほぼ一年の開きがあり同世代の発動機とは言いがたいものがあります.
 一見すると海軍は誉にこだわっていたように見えますが,早期戦力化を望む海軍としては誉以外に選択肢は無かったというのが実情のようです.

 その根拠として,
(1)「A7M1計画説明書」の中に
「MK9C(「ハ43」51型)及びNK9K(「誉」22型)の二者を候補として諸性能の基礎研究をなしたる結果,性能上は前者の方が有利と認めたるも,発動機完成時期の確実さより後者を採用することに指令せられたり」
と書かれている事,
(2)・昭和17年12月に出された「十七試艦戦計画要求書補足事項」において発動機換装が容易に行えるように要求されていること,
・十七試局戦及び十七試陸戦の発動機にはハ43が指定されていたこと等,
海軍が状況にあわせて発動機を選んでいることが示されていること
が挙げられています.

 烈風について言えば,
・昭和18春以降,陸上戦闘機の主力化が進み艦戦の価値が低下したこと.
・九州飛行機に対して発注されていた量産型烈風の部品が,初飛行前にすべてキャンセルされていたこと.
・烈風と同じ発動機を積み,烈風と同じく発動機の不調に悩みながらもそこそこの数字を出し,烈風より先に飛んだ紫電改が,昭和19年春に次期艦戦に内定していたこと等,
海軍は初飛行前から烈風に見切りをつけていたことが述べられています.

(B7A2 in FAQ BBS)

▼ ちなみにハ42(4式重爆のエンジン)を海軍が採用しなかったのは,量産が間に合わなかったためと,火星を発展させれば事足りると考えられていたから.
 個人的には,これこそ疾風に乗せるべきだったと思うけど…….
 疾風の計画時点で陸軍向けの「誉」は一台も無く,海軍向けとしても制式じゃあなかったのだから ,「失敗が許されない」次期主力戦闘機のエンジンとしては,後知恵じゃなしに「誉」は不適格だったと思う.
(ハ42-―この時点ではハ104――は,疾風の計画時点で制式になっている)

軍事板,2000/09/08(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 航空用空冷エンジン,栄と瑞星について質問です.
 太平洋戦争中,主力エンジンとなったのは「栄」でしたが,最終的には「瑞星」も相応の出力向上に成功しています.
 しかし,大々的に量産された栄に対し,瑞星は微妙に影が薄いです.

 栄と瑞星を分けたものは何だったのでしょうか?
 瑞星は栄に対して何が劣っていたのでしょうか?

 【回答】
 一番大きいのが,中島の方が量産化技術に関しては一日の長があったことです.
 三菱は,各工程に「名人」がいて,仕事は丁寧なのですが,量産には向かず,これを是正するのに幹部は苦労しています.※

 一方,軍部に対する姿勢は,三菱が,軍部の意向と関係なく,独自の姿勢を貫いたのに対し,中島は,軍部の意向を積極的に取り入れたこともあります.

 更に,三菱は,金星を主力とし,瑞星は小型機用,火星は大型機用と割り切ったこともあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/20(金)
青文字:加筆改修部分

 ※学研ムック「疾風」所載の数字ですと,

瑞星(ハ26)の総加工時間 最大5,090h 最小1,970h に対し
栄10の総加工時間      最大6,560h 最小3,392h

ハ102の総加工時間 最大9,250h 最小2,080h に対し
ハ115の総加工時間 最大7,177h 最小3,621h

となって,やや瑞星系が優位に立っているようですが.

軍事板,2005/05/20(金)
青文字:加筆改修部分

 この優位は三菱が内製を好んだのに対し,中島が外注を多用したことも一因です.
 三菱の名古屋製作所の場合,
第一次工場が130(エンジンに直接関係する工場数60,直接利用できる工場数37),
第二次工場が234
で,エンジンについては20%しか外注していません.
 このため,需要が急増した際には生産能力が不足し,協力工場の保有能力を発揮出来ていません.
 また,生産の際には,信頼性維持に重点を置き,試運転中に事故を起こしたエンジンは徹底的に分解.
 その部品一つ一つを調べ,原因を追及することに重点が置かれており,生産機械はあるものの,それを生かす状態にはありません.
 また,内製でも加工不良率は45~49%で,素材重量の25%が製品化出来ると言う状況でした.
(参考ながら,ライトの場合は材料不良率,加工不良率共に10%程度でした.)

 中島は,早くから部品に関しては外注先を育成しており,84社の協力工場の本社作業の割合は70%に達しています.
 気化器,燃料ポンプ,マグネトー,軸受,バネについては全量外注工場で製作.
 敗戦近くになると,吸排気弁,ピストンピン,弁てこ,弁てこ軸,サブコネクティングロッドに至るまで,協力工場に移しており,協力工場も技術的向上があります.

 後,余談ですが,三菱が金星を作った時,これは陸海軍に反対されている状態の中で製作を強行しています.
 しかも,金星は海軍向けとなり,陸軍向けに開発していたハ6は結果的に後回し.
 更に,金星の性能が高かった上に,三菱の所長がハ6は不合格になっても構わないと発言したと伝えられたこと,加えて,別のエンジン試作での陸軍の研究指導が拙劣だと言う内部文書が見つかって大騒ぎになり,陸軍は赫怒しています.

 このため,陸軍は金星とほぼ同じ機構に改良したハ6は,1937年に理由無く不採用となり,中島のハ5生産を命じられます.
 陸軍が金星を採用したのは,1941年のことです.
 また,堀越技師は本来,零戦に金星を使いたかったみたいです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/21(土)
青文字:加筆改修部分

2007年,ヤフー・オークションに出された「瑞星」エンジン
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 【質問】
 栄エンジンをパワー・アップさせることは考えられなかったの?

 【回答】
 栄のパワーアップ版が誉ですよ.誉の設計は,基本的に栄の18気筒版でしかありません.
 単純に言って,栄の3割り増しの排気量で3割り増しの出力.
 さらに高回転型にチューンすることで無理矢理1500から1600馬力を絞り出したチューンドエンジン.
 だから生産性も悪ければ扱いもややこしかったのです.

軍事板


 【質問】
 ハイオク燃料が日本軍にあれば,誉エンジン装備機は活躍できたでしょうか?

 【回答】
 100オクタンの燃料があっても無理でしょう.
 整備,燃料なども理由でしょうが,一番の理由はエンジンの工作精度の低さに尽きると思います.
 ピストンのクライアンス,冷却フィン,点火プラグetc・・・
 欧米の10分の1の精度の工作機械しかなかったのに2000馬力はやはり無理があるかと・・・.
 ちなみに戦後飛ばした分はアメリカに渡って徹底的にオーバーホールされた上,構成部品や補機類などがかなりの部分米国製に替えられています.
 単に100オクタンの燃料があれば2000馬力が出る・・・という問題ではないのですよ.
 現に独逸は低オクタン燃料でDB605を満足に稼動させているのですから.

MASTERAT in 軍事板


 【質問】
 ハイオクガスがあれば,誉もあっさり2000馬力で回ったのではないでしょうか?
 誉が無理な設計だったと言うよりも,低オクタン燃料での運転が無理だったと思っていますが.
 構造的には,誉は単なる栄の18気筒版だと思うのですが.
 で,栄よりも高回転かつ高ブーストと言う運転条件の面でハイオク燃料が必要だったと思います.

 【回答】
 「誉」は構造的に無理がありましたから,性能低下や信頼性不足は燃料の質だけの問題ではないです.
 アメリカで行われた疾風の試験時,誉には入念な整備が行われ,なおかつオクタン140の特殊ガソリンを用いて,その時点で離昇出力は2040psでした.
 あっさり2000馬力はどうかと....
 低オクタンで高回転まで回そう,というのに無理があるのは事実ですが,それ以前に高回転で回すことそれ自体による無理がそこかしこにあるエンジンでした.

 とにかく,燃料とかプラグとかどれか一要素が良くなっただけで飛躍的に性能が上がる程,当時の日本の航空エンジン事情は甘くは無いのです.

軍事板

 本来,誉は1600HPあたりを狙っていたのですが,問題は要求出力をさらに欲張りすぎた事と,仕様どおりに製造できなかった事があると思います.
 末期においては数をこなすために,不良チェックがかなり甘くなり,いいかげんなものまで納品されてしまったようです.
 今に通ずるお役所仕事的な事が横行していたと聞きます.

 実際,誉も部隊(47戦隊でしたっけ)によってはちゃんとした稼働率を誇っています.

 ていうか,その原因は当時の日本の技術知識水準が低過ぎる事に有ると思います.
 なにしろ自動車に乗れるのがまだ特殊な技術でした.
 軍隊に入ってはじめてエンジンに触る人も多かったでしょう.
 ましてや,そういった行政を取り仕切る高級将校などはさらに世代の年代なので,さぱっぱりわからなかったのではないかと想像します.
 ここで大きな差が出てくると思います.
 他国では,エンジンのプラグやオイル交換,オーバーホールをするのは当然ですが,日本ではほとんどそういった習慣がありません.
 その部隊は,ちゃんと整備をする事によって稼働率を維持できたようです.
 それが日本では特異な方式だったようで,他の部隊から良く見学者が来たとの事ですが,アメリカ軍の整備方式は(当然ながら)同じようにやっています.,

 また,失策としては本来リスクの大きなエンジンの開発を一本に絞り,他のエンジン開発を中止させた事が有ると思います.

軍事板


 【質問】
 大戦末期の日本軍の空冷18気筒エンジン,ハ44について質問です.

 信頼性・稼動率を重視し,「誉」よりは常識的な設計に抑えたものの,トラブルが頻発したとの説明をよく見かけます.

 1)このトラブルはどんなものだったのでしょうか?
 2)このトラブルは当時の技術では解決できないものだったのでしょうか?
 ハ44を玉成させるために必要だったものは(時間以外),なんだったんでしょうか?

 【回答】
 え~っと,ハ44は川崎が特殊連絡機用に試作した直列6気筒エンジンなのですが,統一名称の方のハ44ですかね.

 寿系の最終発達型ではありましたが,後列シリンダの冷却が不十分で,性能が上がらない状態だったようです.

 後段に関しては,思いっきりたらればの話になるので,明確な回答にはなりませんが,三菱のようにエンジン開発体制として中心に一人責任者を置き,彼が全体を統括,彼によってボアとストロークの関係をきちっと整理出来ていれば,また,前列シリンダと後列シリンダの間隔を適正なものに変更できていれば,更に,工作精度が戦前並みに確保出来ていれば,醸成が可能だったでしょうし,更に言うならば,誉開発に手が取られなかったら,もっと楽になっていたかもしれません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ハ5 ハ109 ハ41は失敗作だという説を聞きました.
 基本的に使い慣れた寿の14気筒版としか思えないのですが,何が問題だったのでしょうか?
 まったく新規のボア・ストローク・14気筒でベストセラーになった「栄」を見てると,中島の技術力が逝けてなかったとか言うのは解せない気もします.

 また,コレがダメダメだったと言うことは,発展型のハ44がなぜ企画されたのか,それも教えて下さい.

 【回答】
 誰がそんなことを言ってるんですか?
 そのソースは?

 ハ5系列はおっしゃる通り,基本的に寿を2列化エンジンですから基本設計の部分でダメダメってことはないですよ.
 実際,三菱のハ6と競争試作の結果,正式採用を勝ち得たんですから.
 ハ5系列が失敗作だとしたら,陸軍の爆撃機に大量採用された実績をどう解釈したらいいんでしょうね.

 まあ,強いて言えば,ハ5系列は中島が初経験した2列エンジンですから,設計の新しい栄に比べたら,未熟な部分はあったでしょうけど.

軍事板,2005/07/17(日)
青文字:加筆改修部分

 確かに,初期のハ5については,寿の9気筒から7気筒複列にすることによって,後列シリンダの冷却対策をとりましたが,吸排気系統の取り回しが複雑になり,クランクシャフト周りが複雑になるため,第一号エンジンではこれらが上手く機能せずに,再設計したものを製作しています.

 しかし,失敗作と言うのだったら,7千余基も作られはしませんわな.

 後,ハ44の計画ですが,栄系列のエンジンは直径を小さくすることで,前面面積を減らし,機体設計の際の空気抵抗軽減に寄与しようとしていましたが,逆に言えば,ボアやストロークが小さいので,馬力を無理に向上させようとすると無理が生じ,信頼性が低くなります.
 なので,手堅い寿系のボア・ストロークを採用することで,余裕のあるエンジンを目指したと言えるのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/07/17(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 光エンジンと護エンジンの生産台数を教えてください.

 【回答】
 手元資料では「光」については,正確な生産台数が判りませんでした.

「光」は,1934~40年に掛けて,約1,200基.
「護」は,1941~44年に掛けて,176基.
となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/05(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハ5,ハ41,ハ109の生産台数も分かればお願いします.
 これらのエンジンは金星系とか寿系のように「ハ5系」とでも呼べばいいのでしょうか?

 【回答】
 ハ5とハ41については,NAL系と言うことで一纏めにされています.
 NAL系は,資料によって異なるのですが合計で7,366基(うち,ハ5の1,831基は三菱で製造).
 ハ109も上記数字に入っていると思いますが,こちらの生産台数は3,554基です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/05(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 隼2と3じゃずいぶん最高速度が違いますが,これは水メタ使ってブーストあげているためですか?

 【回答】
 水メタ使っても,過給器が変わらないなら,ブーストかかる高度は変わらない.
 例えば6000mで全開できるエンジンに水メタ使っても,6000mでかかるブーストは変わらないので馬力も変わらない.だから速度は変わらない.
 6000m以下なら過給器の性能に余裕があるから馬力は上げられるけど,空気抵抗も大きいので,相殺になるので「最高速度」は殆ど変わらない.
 もちろん,その高度における速度は上がるけど,最高速度を書き変えるかどうかは微妙.
 だから隼の2型末期と3型で最高速度は殆ど同じ.
 水メタはブーストが同じでも吸気冷却効果で多少馬力が上がるから,実際には少し速くなるけど,まあ水メタ積んでも最高速度は殆ど変わらない.


 【質問】
 日本の航空エンジンについて質問です.
 戦争末期になると,おもな航空機エンジンに水メタノール噴射装置が追加されているみたいですが,おもな航空機エンジン(栄とか金星とか)の水メタ噴射装置の装備時期を教えてください.
 だいたいが19年以降みたいなのですが,ときおり18年末には登場している(金星60系?)とする資料もあったりして,どれが正解なのかわかりかねています.

 【回答】
 試作品ならば,火星23型で1941年12月に追加されています.
 金星52型も1942年頃でしょうか.

 手元の資料は三菱系のものしかありませんが,元々,オクタン価の高いガソリンで稼働していたエンジンを,オクタン価の低いガソリンで稼働させようとした場合,異常燃焼の発生に伴う馬力低下をどうするか,その対策のために種々検討されたもので,1941年頃までに水・メタノール噴射の研究が行われていました.

 その成果としての水・メタノール噴射装置の装備については,1941年末の火星を奔りとして良いのではないか,と思います

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/11/30(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍の兵器工場で働いていた人から,「物資不足の末期には航空機エンジンに陶器を使用していた」と聞きましたが,本当でしょうか?
 陶器性の手榴弾などと記憶を混同されているのかもしれませんが.

 【回答】
 実際,その兵器工場と言うのが,どんな会社なのかが判らないとはっきりした答えは出ないと思います.

 エンジン部品だと点火線用碍子とか特呂号用のロケット部品や隔膜板ではないか,と推定できます.
 他に航空機エンジンの部品で陶器が使われるものは考えられず,実際に東洋陶器,名陶,高島製陶,村万製陶が生産したのはこの辺りです.

 フィクションなら,松本零士の漫画の1篇に,そういう話があった.
 各種パイプを竹で,シリンダを陶器で作った4式戦闘機「疾風」を,わざと遺棄して米軍に見せ,米軍を油断させようとする話.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大東亜戦争時のジェット戦闘機について質問です.
 橘花はネ-20エンジンを始め,Me-262のコピーといった性格が強いのですが,ネ-20以前の日本独自開発のジェット・エンジン,ネ-10その他は,搭載する機体のデザインも出来ていたのでしょうか?

 【回答】
 海軍は昭和16年12月からジェット・エンジンの開発を始め,昭和19年にはTR-10(ネ-10)の完成にこぎつけましたが,この段階まではエンジン単体の開発でした.
 ジェット・エンジンを搭載する機体は,昭和19年8月に海軍が提示した「興国二号」計画によって開発が始まりました.
 この機体はネ-10二基を胴体に並べて収納する形式や,両翼下のナセルに装備する方法などが検討されています.
 また,暫定案として「初風」発動機を使用したモータージェットを二基ないし四基搭載することも検討されたようです.

 しかし,エンジンが決まらなかったこともあって,機体の具体的な形状は定まらず,昭和19年12月に試製「橘花」の計画要求案が中島飛行機に提示されたことで,ようやく本格的な機体の開発が始まりました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


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