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◆◆◆航空史
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<第2次世界大戦FAQ


(画像掲示板より引用)


 【link】

『図説特攻 ふくろうの本』(森山康平著,河出書房新社,2003.8)

 「ふくろう」は実はすごいんだよ.

 淡々と史実だけ書いてて,一切の主義主張がない良い「資料」だった.
 どうしても特攻の本だと,右左出てしまうんだがな.

 年表と史実だけの解説と図説と写真と,ずらっと並んだ特攻命中リスト.
 陸海軍,空と海を,そんなに多くないページでまとめてる.

――――――軍事板,2011/04/22(金)

『ノモンハン空戦記』(ア・ベ・ボロジェイキン Арсе́ний Васи́льевич Вороже́йкин Arsenii Vasilevich Vorozheikin 著,弘文堂,1964)

 ソ連航空隊の一パイロットから見たノモンハン戦について書かれた本です.
 九七戦に対する有効な戦術を編み出し,徐々に劣勢を挽回していく過程が書かれているのですが,5月期にはボコボコにされた九七戦を,事変後半では旧式機扱いしてるのには,自信を持った時のロシア人の豪快さを感じずにはいられませんでした(笑

------------ ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/06/08

『ノモンハン航空戦全史』(ディミタール・ネディアルコフ著,芙蓉書房出版,2010.12)

 先日入手.
 ソ連側視点の従来の資料が,ボロジェイキンの「ノモンハン空戦記」然り,シーシキン/シーモノフの「ノモンハンの戦い」と比べ,「政治的修飾語」も少なく,資料として重宝.

――――――軍事板,2011/03/02(水)

◆◆◆黎明期


 【質問】
 日本海軍では初期の航空隊はどのような位置付けだったのか?

 【回答】
 観測手段⇒主力艦支援⇒「漸減」兵力⇒航空主兵・戦艦無用論噴出
という流れ.

 ワシントン条約締結後,海軍内では航空機の索敵・支援能力に特に注目を集めていた.
 主力艦の主砲の射程距離が3万m前後まで伸びた結果,主力艦にとっても航空機は欠くべからざる観測手段となったからである.
 海軍は航空行政を艦政本部の管轄から独立させる事を決定(航空兵科独立),1927年4月,海軍航空本部を設置した.

 1928年の「海戦要務令(第3改正)」では,航空隊は偵察以外にも,主力決戦時に先制を機して
「戦闘機隊を以て敵航空機を制圧しつつ,攻撃隊を以て敵艦隊を強襲する」
とされ,1928年4月,空母「鳳翔」「赤城」をもって第1航空戦隊を編成,連合艦隊に編入した.
 当時の航空部隊の運用は,戦術的には攻撃的な面もあるが,基本的には,戦艦からなる主力部隊を支援するという補助的なもの,あるいは敵艦隊の行動を撹乱するためのものであったと言える.

 また,「漸減邀撃」作戦構想の「漸減」にも航空部隊を使おうという考え方が次第に強まり,ロンドン会議に際して海軍軍令部が作成した「所要兵力」案では,空母4隻を2隻ずつの航空戦隊に分け,1戦隊を決戦部隊に,1戦隊を「漸減」部隊に配置していた.

 さらに,山本五十六航空本部技術部長は,敵の攻撃に対して脆弱な空母に頼る必要のない長大な航続力を有する,地上発進の大型攻撃機を構想した(巌谷二三男「中攻」,p.2 & 「日本海軍航空史1」 用兵編」,p.115-116 & 241-242).

 そして,それら構想を可能にする世界のトップ・レベルの航空機を国産機で保有することにより,航空本部と横須賀航空隊はこれに力を得て,航空主兵・戦艦無用論を噴出させ,砲術関係者と衝突していくことになる.

 詳しくは,山田朗著『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館,1997/6/1),p.140-143を参照されたし.

1927年4月4日 昭和2年4月4日 [政治]-[軍事]
海軍航空本部が設置される.
(画像引用元:歴史占星学研究所
ワロタ


 【質問】
 日本の航空機に,日の丸が付けられるようになったのはいつ頃からですか?
 それと,初めて日の丸を付けた機体を教えてください.

 【回答】
 飛行機出現当初,陸軍は尾翼に通し番号を振っていました.
 根拠法令については定かではありませんが,1915年から陸軍では日の丸が識別用に採用されています.

 当時は翼だけに塗られていた様で,それが明確にとらえられている写真は,1918年に上野の空中文明博覧会に展示された,Grahame-White 13高速研究機が最初かと思います.
 また,1916年に試作された陸軍制式一号飛行機の場合は,方向舵に日の丸が付いていました.
 しかし,1917年のNieuport 24C1の輸入機では,陸軍機標識として,主翼と方向舵に白地に赤星を付けていますし,1919年のSpad S-7C1にもその標識は使われているので,明確に日の丸に統一された訳では無いようです.
 一方で,1920年に日本向けに輸出された,Fokker D.8は,胴体に日の丸が付いています.
 多分,ソ連赤軍の赤星との混同を避けるために,シベリア出兵前後に日の丸に統一したのだと思います.

 海軍の場合は,1921年の英国から招請した教官団の持ち込み機材に日の丸が付いていました.
 1920年の横廠式イ号甲型水上練習機の試作機には,付いていません.
 従って,海軍の場合はその前後ではないかと思います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/30(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ戦前日本に独立空軍はできなかったのか?

 【回答】
・空軍独立論者は海軍内にいたが,海軍の中でも異端であり,主流とはなれなかった.
・また,用兵上,航空機に要求されるものが陸海軍では余りに異なっていたため,その統一は困難だった.
・空軍独立論がドイツの影響で出たこともあったが,陸軍主導を嫌った海軍が反対した.

 海軍において航空主兵論の牙城は海軍航空本部だった.
 その急先鋒,大西瀧治郎大佐(教育部長)は,1937年7月に小冊子「航空軍備に関する研究」を発表.
 その中で彼は,戦略空軍の建設,すなわち,航空戦力を打撃的軍事力として,一つの戦略単位として建設することを構想していた.
 大西は,大陸においても洋上においても使用できる,大航続力を有する航空機により編成された「純正空軍」を建設すべきであると説いた.
 そして彼は,この陸海のいかなる方面にも使える「純正空軍」を,「海軍自体が空軍化すること」によって建設しようとした.

 しかし,大西瀧治郎の提案は,当時の海軍の総意にはなりえないものだった.
 航空本部は海軍内の異端児であり,また,航空関係者はことある毎に,大艦巨砲主義の擁護者である「鉄砲屋」(砲術関係者)と衝突した.
 それは,航空主兵論者・山本五十六航空本部長(1935年12月就任)自身が「火消し」に奔走しなければならないほど激しいものだった.

 一方,陸軍は,日露戦争で確立した歩兵中心の軍事思想に基づき,航空部隊を陸戦協力兵力ととらえ,陸戦場付近の制空権確保と敵地上部隊への直接攻撃を重視し,この傾向は太平洋戦争が始まるまで変わらなかった.※
 したがって,後方を空襲する重爆撃機は余り注目されなかった.

 さらに,海軍航空隊が洋上でのアメリカ艦隊との艦隊決戦を支援することを表向きの任務(密かに航空独自の『邀撃』を目指していたが)とし,陸軍航空隊は,大陸でのソ連軍との戦いを想定して作られたため,航空戦力の整備が進むにつれて,陸海軍の航空作戦思想にも航空機の特徴にも,それぞれの独自性が強まり,独立空軍建設はますます難しくなった.
 同じ航空機メーカーで作られた航空機であっても,海軍機と陸軍機では全く別個に開発され,速度表示(海軍はノット,陸軍は㎞)から計器の位置,レバーの回転方向など悉く異なり,機体部品も陸海軍でそれぞれ別の物を使った.
 これは,陸海軍相互の秘密主義・官僚的縦割り行政の現れであると共に,陸軍と海軍では,航空機に要求したことが細部に至るまで異なっていたからである.

 それでも,ドイツの再軍備・空軍建設に刺激され,1936年に空軍独立論が陸軍主導で登場するが,航空作戦思想の違いと,政治力の強い陸軍に主導権を取られることを危惧した海軍の反対によって結局,具体化しなかった.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.144-156を参照されたし.

 ※ただし大正期には,陸軍でも空軍設立が検討されたらしい.
 生田悖著「日本陸軍史」(教育社)より

 陸軍は,井上幾太郎少将(のち大将)を起用して航空の充実を図った.
 大正八年,フォール大佐を長とする航空団を招いて,進歩したフランスの軍事航空技術を学んだ.
 翌九年,陸軍には空軍独立論が生まれ,海軍と正式に検討したが,時期尚早の結論に終わった.
 独立論の根拠は,技術開発と戦時の膨大な消耗に対処するには,国と陸海航空の全力を傾ける必要からでがあり,反対論は陸・海の航空用法の相違を理由とした.
 けっきょく,陸軍は,地上作戦協力を主目的とする,独自の航空戦力を建設することになった.
(P.113)

名無し四等兵 in FAQ BBS

▼ 他方,高橋秀幸によれば,空軍独立に至らなかった原因として,以下の諸点が挙げられている.
・陸軍のほうが空軍独立問題において主導的だったが,海軍は終始反対した
・陸海軍どちらの内部でも一枚岩ではなく,そのため,政策案レベルで纏まらなかった
・空軍独立を後押しするような決定的なきっかけもなかった
・陸海軍が対象とする脅威や作戦様相が双方で異なっていたことから,空軍独立に関わる政策案が纏まらなかった
・統帥権独立を唱えつつも,「天皇の統治権全般に関する輔弼を担当する国家機関が存在しなかった」上,天皇自らが単独で大権を行使できなかったため,軍令・軍政双方にまたがる懸案事項は,先送りや自然消滅となる可能性が高かった

 加えて高橋は,「賛否両論あると思うが」と前置きしつつ,
・帝国憲法改正の困難性のため,このハードルの高さが,政策担当者の心理的負担となった可能性がある
点も挙げている.

 詳しくは
『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12.25),p.128-145
を参照されたし.▲


 【質問】
 大正9年(1920年),日本において空軍独立が検討されたのはなぜか?

 【回答】
 陸海軍は第1次世界大戦の影響を受け,新兵器である航空機の活用の研究を個別に進めてきたが,膨大な経費を必要とする航空の拡充は財政上,簡単に実現できる状況になかったため.
 同年,田中義一・陸相から加藤友三郎・海相に対し,共同研究の申し入れがあり,陸海軍航空協定委員会が設立された.
 しかし陸軍の一部と,海軍との反対によって独立は実現しなかった.

 【参考ページ】
『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12),p.58-62

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/08 21:00
を加筆改修


 【質問】
 陸海軍航空協定委員会って何?

 【回答】
 大正9年,田中義一陸相から加藤友三郎海相に対し,空軍独立または陸海軍航空戦力総合指揮に関する共同研究の申し入れがあった結果,設立されたもの.
 同委員会は大正11年に答申を行い,答申結果に基づいて陸海軍は,航空予算の共同審議,航空関係諸器材の統一などを内容とする,陸海軍航空協定に関する覚書(大臣間)および陸海軍航空任務分担協定(参謀総長および海軍軍令部長間)を締結した.
 しかし空軍独立は,「技術的に時期尚早」として見送られた.
 高橋秀幸はこれに関し,技術的にも航空機は飛躍的に進歩しており,独立は技術的には十分可能であったとしている.

 【参考ページ】
『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12),p.60-61

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/16 22:00
を加筆改修


 【質問】
 昭和10年ごろに空軍独立論議がなぜ起こったのか?

 【回答】
・沿海州方面に出現した大量のソ連大型機への危機感
・ドイツ空軍の独立
・昭和10年8月に石原莞爾大佐が参謀本部作戦課長に補職されたが,彼は昭和維新の必要性を唱え,満州国育成強化,大陸戦備急速増強,航空軍備本格増強などを核心とする施策の推進に努めたこと
から,陸軍内において空軍独立問題が再燃した.
 しかし,海軍では一部を除き,終始空軍独立に反対だったため,政策案として成立することがなかった.

 【参考ページ】
『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12),p.62-63

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/07 21:00
を加筆改修


 【質問】
 なぜ日本海軍は,空軍独立に最後まで反対し続けたのか?

 【回答】
 高橋秀幸は,空軍独立後の主導権争いにおいて,海軍が負けるだろうと予測していたことが,その最大の理由だったと推測している.
 空軍を独立させた場合,その指導層には陸軍出身者が多く,これが指揮権を握って陸軍の用兵思想(陸戦協力を主とし,陸戦場付近の制空権のみを重視)に基づく空軍になる可能性が高く,海上作戦に必要な航空兵力の弱体化は免れないと考えていたようだという.
 彼はその根拠として,当時の関係者の証言内容や,海軍軍令部が昭和12年4月に発表した文書,「海軍ノ立場カラ見タ空軍ノ独立ニ付イテ」の中の記述を挙げている.

 詳しくは,
『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12),p.69-75
を参照されたし.

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/17 21:00
を加筆改修


 【質問】
 これってホント?

――――――
日本では,陸軍航空隊と海軍航空隊がそれぞれあって,空軍というものは創設されなかった.
 憲法上の問題で,空軍は持てなかったのである.
 戦前の話だろう?……と首をひねった向きもあろうが,実はこういうことだ.
 大日本帝国憲法第11条に,
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
とあるのだが(いわゆる統帥権),これは普通に考えて,陸軍と海軍とをそれぞれ統帥する,という意味だと受け取られる.
 そうなると,陸軍でも海軍でもない,新たな軍隊を創設するためには,憲法改正の手続きが必要だということになってくる.
 しかし,戦前の日本で「不磨(ふま)の大典(たいてん)」とされていた大日本帝国憲法を改正しようなどと,言い出せる人はいなかったのだ.

――――――林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.110-111

 【回答】
 ……うーん,そういう俗説が一部にあるらしいのですが,はっきりした論拠は今までに見たことがないですねえ.
 帝国議会で空軍独立論が取り上げられた時には,憲法とのからみの話は出てこなかったよ,ってな話も聞きますし.
 同書の誤謬の多さから見て,著者が何か明確な論拠をもって書いたとはとうてい思えませんし.

 こういうときこそ,山田朗先生に聞いてみようかな?(笑)

消印所沢

 とりあえず大日本帝国憲法73条には改正規定があるのですよ.

 それだけでも,「不磨の大典」というのは単なる文飾で,改正不能でもなんでもないことは明らかなのですが,
 公布と同時くらいに,解釈書である『憲法義解』(伊藤博文の名前だがおそらく井上毅あたりの著作)が刊行され,つまり最初から解釈の可能性と余地を想定して作っているのが,帝国憲法の一つの特徴でね……はふう.

おおや in FAQ BBS

 一方,高橋秀幸は,
>賛否両論あると思うが
と,前置きしつつ,帝国憲法の改正の困難性が,空軍独立の妨げになった一つの要因であった可能性があるとしている.
 彼の主張について,正確を期するため,以下に引用する.

――――――
 また,賛否両論あると思うが,政策に関与する軍人の「問題認識」を妨げていた可能性のある,もう一つの原因として,帝国憲法の改正の困難性※2が挙げられる.
 空軍創設のためには,帝国憲法の改正が必要で,このハードルの高さが,政策担当者の心理的負担となった可能性がある.
 これを立証するものとして,陸海軍航空協定委員会における審議結果において,「憲法上ヨリ見タル利害」の中に,
「害トシテ特ニ挙クヘキ程ノコトナキモ憲法ノ如キ重要法規ハ成ル可ク手ヲ付ケザル方宜シカルヘシ,殊ニ統帥権ニ関スル規定ノ如キハ……」※3
という記述がある.
 心理的抵抗があるために,このような記述に至ったと思われる.
※2 明治憲法第73条の改正手続きによれば,
(1) 天皇の勅命で憲法改正案を帝国議会に発議,
(2) 衆議院・貴族院それぞれ総数の3分の2以上が出席,
(3) 出席議員の3分の2以上の多数の賛成を得る
という3つの条件を満たしたときに,改正の議決が成立するとされている.
 制度的に改正が困難であり,かつ,当時の日本人にとっての明治憲法は,
「千載不磨(千年経っても続く)の大典」
という認識が強かった.

※3 「空軍組織問題ニ関スル利害研究意見書」大正10年5月(防衛省防衛研究所所蔵)
――――――『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12.25),p.131

 ただしこれを仮に全面的に信頼するとしても,「要因の一つである可能性」があったに過ぎず,林の主張とは,なお隔たりがある.

消印所沢

▼「戦前の日本は大日本帝国憲法改正が不可能だったため,日本は空軍を持てなかった」
という林氏の説は,北村賢志氏の『虚構戦記研究読本 兵器・戦略篇』の孫引きと思われます.
162ページに「反戦軍事学」の記述と全く同じ記述が登場してます.
 というよりも,北村氏以外の軍事書籍でこんな説を聞いた事ないです.

 疑問に思ってWARBIRDSのAns.Q(航空機関係の6161番です)に質問した人がいます.
http://www.warbirds.jp/ansqn/
 その回答によると,大正時代に空軍独立が論議された時,報告書では
「憲法条文にある『陸海軍』は本来『国軍』の意味であるので,空軍を組織しても憲法違反にあたらない」
という解釈を示したそうです.
 憲法は法解釈でどうにでもなる問題なんです.

 ただし軍部が憲法改正を嫌がっていたのは事実です.
 というのも,もし憲法改正をやるとこれが薮蛇となって,よりシビリアンコントロールが強い方向に改憲されてしまう可能性があったからです.

 なお,林氏は最近出た「「戦争」に強くなる本」でも,この説を事実だとして書いてます.
 この俗説を言い出した北村氏にも問題がありますが,林氏の本が「朝日」「筑摩」という権威ある大出版社から出ていることで,こうしたおかしな俗説が無批判に広がっていく危険性の方が,より深刻だと思います.

モーグリ in FAQ BBS

▼ 大日本帝国が空軍を持たなかったのは「大日本帝国憲法第11条に,『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』」,だなんてありえないでしょう.

 陸海軍の間で協議されてたようですが,艦載機重視の海軍の反対で潰れたそうです.

 アジレキに史料があるかもしれませんが見てられないので,

鮭缶 by mail,2008年01月20日 01時08分

▼ 最近,防衛庁戦史部に行ったんですが,見つけた史料で「独立空軍に関する意見」(中央・軍事行政・その他163)を見ましたが,憲法云々の話は書いてなかったですね~

鮭缶 by mail,2008年09月02日 01時55分


 【質問】
 支那事変初期の中国軍の航空兵力は?

 【回答】
 事変当時,中国軍は軍用機,約800機,そのうち第一線機175機
(カーチス・ホーク2型&3型が主力.他に少数のP-26,ブレダ27,フィアットCR.32等)
を保有し,日本軍機と積極的に交戦した.
 しかし損耗も増加して,昭和12(1937)年12月までには約100機を残すだけとなった.
 その後は兵力温存策に切り替え,残存兵力を奥地に疎開させ,ソ連からの援助も得て,翌年5月までには約200機まで回復.
 うち,60%がソ連製で,残りが米英製だった.

 【参考ページ】
『戦車マガジン別冊 中国大陸の機械化戦争と兵器』(デルタ出版,1993.2.1),p.129
『第2次大戦 世界の戦闘機隊』(酣燈社,1987.7.1), p.298-302

【ぐんじさんぎょう】,2009/12/12 23:00
に加筆

 重慶爆撃ではI-15,I-16とソ連製戦闘機がインターセプトしていましたね.

バルセロニスタの一人 in mixi,2009年12月12日 06:07

戦前の講談社絵本43「支那事変美談」(昭和12年)より

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月15日00:17

アサヒグラフ昭和12年度の北支戦線写真(支那戦線写真)特集号
創刊1号から11号まで

 11号は,例の絵本にあった,撃墜したカーチス戦闘機の上でポーズを取る海軍陸戦隊!
 やっぱりこうした写真から描き起こしていたからリアルだった訳だと独りごちる.

よしぞう@30西や-12a in mixi,2007年08月17日02:30


 【質問】
 日中戦争のときにソ連は中国を支援したそうですが,中国空軍への支援の規模と,ソ連から派遣された義勇兵パイロットの数を教えてください.

 【回答】
 戦闘機としては,1937年8月21日に中ソ不可侵条約締結に伴い,4個中隊のPolikarpov I-15が引き渡され,その後,1938年には改良型のI-152が347機引き渡されています.
 この機体は,第一飛機製造廠で忠-28乙として国産化されたものもあります.
 有名なのは Polikarpov I-16で,当初2個大隊分が引き渡され,南京失陥後にはI-16 Type6とType10が第4,第5大隊で使用されています.
 その後,各型合計216機が引き渡されて,Hawkの後継機となりました.
 また,I-153は1938年の重慶遷都時に,93機が引き渡されて,第3~5戦闘大隊に配備され,零戦と戦闘を繰り広げました.

 偵察機としては,Polikarpov R-5が1934年頃に地方軍閥へ先ず12機引き渡され,その後100機程度が中央空軍に引き渡されました.

 爆撃機は,1937年9月にTupolevSB-2が2個飛行大隊分送られ,その後,爆撃大隊に順次装備され,最終的に292機引き渡されています.
 大型爆撃機としては,TB-3が第8大隊19中隊に6機が引き渡されましたが,流石にこんな機体での爆撃は無謀で,輸送機として使用されました(唯,2機が日本軍機に破壊されています.)
 このほかの爆撃機は,Ilushin DB-3で第8大隊とソ連志願兵に対して,1939年に24機が引き渡され,四川や武漢,それに渡洋爆撃も計画されました.

 訓練機としては,Polikarpov I-16 UTI-4を若干機,南川第二飛機廠で製造し,忠-28甲として用いたほか,Yakovlev UTI-2wo初等練習機として,1937年10月に中央航空学校で少なくとも4機が使用されています.

 こうして,1941年までに各型合計1250機に達しましたが,1941~43年頃に米国製機が行き渡るに伴い,順次廃棄されています.

 中国に派遣されたソ連軍人は,1939年2月までで3,665名です.
 彼等は,ザバイカル軍管区とその周辺の軍管区と太平洋艦隊第9独立戦闘機大隊,第32独立戦闘機大隊と言った海軍の所属も選抜されています.
 この中にはスペイン内戦で撃墜15機の記録を持つエースも含まれています.
 1937年11月に第一陣が送られ,12月2日にI-16戦闘機23機が南京に到着しました.
 以降,日本軍と激闘を繰り広げ,1938年2月23日には渡洋爆撃を決行したと言う話もあったりします.

 この中から14名にソ連邦英雄の称号が与えられましたが,200名以上が戦死しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 敵飛行場への着陸を日本軍機が行ったことがあるって,本当?

 【回答】
 多少は話に色が付いていますが,飛行場襲撃で着陸して敵機を拳銃で撃って離陸,は本当です.
 これを初陣まもない零戦で中国戦線でやりました.
 本来は懲罰もんです.
 下手すりゃエンジンが回っている新鋭戦闘機を敵にそっくりプレゼントする事になりますから,一歩間違えば利敵行為です.
 これは誉められた行動ではないでしょう.

軍事板


◆◆◆重慶爆撃


 【質問】
 重慶爆撃は何度行われ,どのくらいの死者を出したのか?

 【回答】
 重慶爆撃は主に,1938年12月から1941年9月まで行われました.

 まず,12月22日に陸軍が22機で爆撃をしたのを皮切りに,1月7日,10日,15日と四回に渡って約30機ずつ,ここまで陸軍が担当しましたが,被害は,1月15日に死者119名,負傷116名を出しただけに終わります.

 次いで海軍に担当が変わり,第二連合航空隊の中攻45機が,1939年5月3日に市街東部と東南部,4日に27機が北部を爆撃し,3日に死者673名,負傷1,023名,4日は死者1,973名,負傷3,318名で,これはゲルニカ爆撃を上回るものです.

 その後,5月,6月に各2回,7月4回,8月6回,9月4回の出撃を行い,1940年5月から陸海軍共同で,百一号作戦という重慶爆撃作戦を展開します.
 陸軍は山西省運城から重爆54機,海軍は漢口から中攻122機を出撃して9月まで断続的に空襲を行います.
 この空襲では,海軍が延出撃日数32日,陸軍が9日,延攻撃機数は海軍が2,128機,陸軍が322機,投下爆弾数は海軍が14,228発,1,558t,陸軍は1,344発,142tであり,これにより,死者4,232名,負傷者5,411名,損壊家屋6,955棟の被害を出しました.

 更に41年夏季にも空爆が繰り返され(後述の防空壕での死亡はこの時期のもの),死者は前年の6割程度になっています.
(但し,3万人死亡説が正しければ,この数はもっと増える).

 最後は,1943年8月で,陸軍が行っていますが,これは在華米軍の補強により効果無く終わっています.
 最終的に,被害は,中国側資料では死者11,800人,家屋損壊17,600棟となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/08/07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本軍が重慶などに無差別爆撃しましたが,爆撃の頻度はどれぐらいだったんでしょうか?

 【回答】
 1938年12月26日に,22機の陸軍爆撃機による重慶爆撃が開始され,以後,1939年1月7日,10日,15日にそれぞれ約30機により重慶爆撃を実施.
しかし悪天候により戦果が芳しくなかった為,陸軍は以後撤退し,蘭州への爆撃を担当する様になります.

 代わって海軍が担当し,5月3日に45機の陸攻で第1回爆撃を実施し,4日に27機が第2回,以後,5月,6月に各2回,7月4回,8月6回,9月4回の爆撃を行います.

 年を改めて1940年5月からは,101号作戦で陸海軍共同作戦を実施し,陸軍は重爆54機,海軍は中攻132機の戦力で,9月までの間,海軍は述べ32日,陸軍は9日の爆撃を行います.
 1941年夏期にも同じ様に爆撃が行われますが,以後は実施されず,最後に行われたのは,1943年8月の陸軍航空隊によるものだけです.

 天候に恵まれれば週1~2回,恵まれなければ月1回程度のペースです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国への空襲って重慶爆撃が有名ですが,中国ってちゃんと空襲警報があったんですか?
 日本の爆撃機が来ると警報してたんですか?
 防空壕とか避難訓練とかあったんですか?

 【回答】
 初期の漢口,周家口,上海では結構不意打ちを食ったようですが,空襲警報網は重慶遷都後に初歩的なものが作られていました.
 物資の集積状況,基地の整備状況もこういった便衣隊の活動で,一目瞭然であり,次の空襲時期はいつか,目標はどこかが予め推測可能でした.
 後は,その目標近くに迎撃隊を進出させ,早朝から夜間にかけて,数機の哨戒飛行を行うだけです.

 また,日本軍の出撃についても,漢口,運城の基地を日本機が離陸するやいなや,昼間ならばその機数を電信で重慶に報知され,途中の山々の頂には見張り員がおり,日本機を認めると,烽火を上げます.
 そのリレーで,日本機の来る方角を知らせるわけです.
 ちなみに,電信と烽火併用でも,中攻,重爆の巡航速度では十分に迎撃基地に通報が間に合いました.

 こうして,少なくとも空襲の40分から1時間前には爆撃機による空襲警報が発令されます.

 防空壕も当然ありますが,重慶爆撃の初期には完成していません.
 ただ,重慶だけでなく,広東などにも大規模防空施設がありました.
 それも,蛸壺方式のような日本に見られた簡易なものではなく,コンクリートで,入り口に頑丈な鉄の扉を持つ本格的なものです.
 重慶のは,1938年から工事が開始され,こうした大規模防空壕(公共用大隧道)を始め,会社・個人でも防空壕を整備し,1940年には公私あわせて1,865カ所,収容人員44万余のものになっていました.

 但し,初期の頃は当時の人々は都市空襲というものに慣れていないので,避難もせず,中国空軍の迎撃戦闘を見物しようと,街路,岸辺,丘の上などに出て,空を見上げていました.
 これによる死者が結構あったようです.

 後に,重慶爆撃が本格化し,外交使節のいる周辺以外に全ての爆弾が降るようになってからは,市民も防空壕に避難することが多かったのですが,1941年6月5日の空襲では,3万人の市民が避難した大防空壕が酸欠状態となり,ほぼ全員が死亡しました(実際の死者は992人とも言われる).

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/08/07
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 原爆投下は無差別爆撃だが,重慶爆撃はそうではなかった!

 【事実】
▼ どっちも無差別爆撃.

 陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した,河内山譲氏の証言.
「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが,途中で1連空と共に昼間に切換え,目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め,市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した」
(河内山 譲 「司令部偵察飛行隊 空から見た日中戦史」叢文社 P一六五)

軍事板隔離スレッド in コヴァ板

▼ また,飛行隊指揮官・巌谷二三男の証言.

「六月上旬頃までの爆撃は,もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが,重慶市街にも相当数の対空砲台があり,そのため味方の被害も増大する状況となったので,作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した.
 すなわち市街東端から順次A,B,C,D,E地区に区分して,地区別に絨毯爆撃をかけることになった」▲

軍事板,2010/03/11(木)
青文字:加筆改修部分

 どう見ても無差別爆撃です. 本当に(ry

▼ あと,別に米軍の爆撃や原爆投下は「無差別」じゃないけどな.
 結果的に被害が無差別になっただけであって.

 また,自分が言っているほど戦史に興味があって,ある程度の知識があるというなら,世界大戦の特徴である「総力戦」が,どういうものであったのか,ということは理解しているはずだ.

 なおかつ米軍の爆撃や原爆投下が無差別である,と主張するなら,それはただのモノ知らずか,イデオロギーに毒されたプロパガンダを鵜呑みにしているに過ぎない.

軍事板隔離スレッド in コヴァ板

▼ 一方,米軍が東京大空襲で,火に囲まれた市民の逃げ道を塞ぐよう,人口密集地を包囲する形で焼夷弾を投下していったのも,よく知られた話.
 『NHKスペシャル 東京大空襲60年目の被災地図』でも,確か被害者が多いのは住宅地を炎の壁で囲い込む作戦だったからと結論してたし.
 それどころか,作戦の効果について「住民そのもの」を死傷させることを,米軍が目標に定めていたことが指摘されている.
 「無差別のつもりはなかった」なんて言い訳は通らんよ.

軍事板,2010/03/11(木)
青文字:加筆改修部分

 ※著作権上の理由により,URLを差し替えました(編者).
 YouTube上の動画は,NHKが無料提供している動画ではないと,高い確率で推測されますので.


 【質問】
 重慶爆撃に対し,アメリカはどのように反応したか?

 【回答】
 重慶に対する「無差別」爆撃だとして,日本に抗議した.
 「重慶駐在のアメリカ大使ネルソン T. ジョンソンは,1939年夏までに66回の空襲を体験していた」そうだ.
 以下引用.

 この抗議に対し,日本側は「攻撃は敵の軍事目標に限定されている」と回答.
 憤慨したアメリカ政府は,1939年後半,報復措置として航空機関係製品の輸出を禁止.さらに,1940/1/26で期限の切れる通商航海条約を更新しないと発表する.
 条約失効翌日,国務長官コーデル・ハルは,駐米日本大使に,日本軍によって爆撃された35以上の中国の都市の名と,一部には日時まで明記してあるリストを渡した.
 このリストには,
「中国にある米国資産で,日本軍の爆撃によって損害を受け,しかも,その位置は事前に日本に日本当局側に通告され,米国国旗を掲げていたもの」
の事例,約200も引用されていた.

 日本側が,「中国側の軍事機関や施設以外のものを爆撃した事はない」と否定するのに対し,ハル長官はこう述べた.
「公的機関から,あるいは私的な情報や新聞などから,中国にある日本軍が,全く軍事的機関や施設のない場所で,住民を爆撃して銃撃を加えた多数の事例についての詳細な報告が,我が国に来ている.
 さらに,焼夷弾の使用は(必然的に戦闘員でない市民や,その財産に,無惨な損害を与えて)住民に大損害を与えてきた.
 多くの場合,日本軍の航空攻撃は,武装していない住民達を恐怖に陥れようと意図しているとしか考えられない」

 しかし日本軍は,重慶爆撃を続けたばかりでなく,1940/6/14には,日本政府は駐日アメリカ大使に対し,
「これらの攻撃を強化しようと意図している」事,
「中国内に残留しているアメリカ官憲あるいはアメリカ市民の受ける損害には責任を負えない」
と通告してきた.

(Carl Berger 「B29」,サンケイ新聞社出版局,1971/3/5, P.50-51,抜粋要約)

 国際法的には重慶は防守都市ではなかったのか?とか,色々議論はあるが,まあ,満州事変の件で国際的信用が地に落ちていた日本(事変直後は,ドイツにおいてさえ最悪であったそうな)が,自説を強固に主張したいなら,とてつもない宣伝努力が必要だっただろうね…….


◆◆◆大東亜戦争


 【質問】
 「真珠湾で,重油タンクを攻撃していれば・・・」という話はよく聞きますが,WW2で航空攻撃によって燃料貯蔵施設が大きな被害を受けた事例はありますか?

 【回答】
 戦争末期の日本では,幾つもあります.

 1945年5月10日朝9時30分頃に,112機のB-29によって,徳山の陸軍燃料廠が空襲を受け,500lb高性能爆弾549tのうち,875発が燃料廠と隣接の興亜石油麻里布製油所に命中し,製油所は壊滅.
 徳山の第三海軍燃料廠も同じ日に1700発の500lb高性能爆弾で灰燼に帰しました.

 1945年6月以降になると四日市の第二海軍燃料廠も執拗な攻撃を受け,6月22日には4000lb高性能爆弾15発が投下されました.

 川崎の三菱石油川崎製油所も,7月25日に300発の500lb通常爆弾の投下を受け,機能停止に陥っています.

 最後は8月14日の日本石油秋田製油所に134機のB-29によって,100lb,200lb高性能爆弾1200発が投下され,命中は120発程度でしたが,折からの風に煽られ,延焼,その炎は1週間以上も燃えさかったと言う状況で,日本の石油精製能力は壊滅しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/12(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 真珠湾攻撃で空母に帰れず,ハワイ諸島のある島に不時着した零戦があったそうですが,(パイロットは日系移民一名と共に,住民によって殺された),その機体をアメリカが調査して零戦の性能がばれてしまわなかったのでしょうか?

 【回答】
 湾内に九九式艦上爆撃機,九七式艦上攻撃機各1機が墜落し,後に米軍が引き揚げて調査しています.
 但し,前者の胴体後半はちぎれ,後者は機首部が壊れたので,部分参考程度でした.
 もう1機,墜落零戦が鹵獲されていますが,これも残骸のみで機首部の損壊が酷く,性能調査の参考品には なりませんでした.

 お尋ねのBII-120号機は,西開地重徳一飛曹が火を放っており,主要部は焼失しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

(画像掲示板より引用)

 【質問】
 ウェーク島攻防戦での,F4Fの活動状況を教えられたし.

 【回答】
 渡辺洋二『大空の戦士たち』(朝日ソノラマ新戦史シリーズ,1991.12)によれば,開戦時,ウェーク島に進出していた戦闘機隊は第211海兵戦闘飛行隊(VMF-211)の飛行隊長パトナム少佐率いるF4F-3が12機.
(オアフ島には同部隊の戦闘機10機があったが,真珠湾攻撃により1機を残して破壊されている)
 VMF-211はF4Fへの改変が最も遅く,慣熟飛行の段階にあり,整備員の主力はハワイにいて支援機器材もロクにないという不備きわまる環境であった.

12月8日
 千歳航空隊の96陸攻の空襲により7機が破壊され,更に事故で1機が破損.
 稼働機は4機に.

12月9日
 千歳空の96陸攻を4機で迎撃.クリーワー少尉ら2機が1機撃墜を報告.
(実際は誤認で撃破止まり)

12月10日
 邀撃にあたったエルロッド大尉が96陸攻2機撃墜を報告.
(千歳空の損失は1機のみ)

12月11日
 早朝,上陸準備中日本艦船を目指して爆装(45kg×2)したF4F4機が,パトナム少佐の指揮で発進.
 果敢な銃爆撃により,キニー少尉機が駆逐艦如月を撃沈,特設巡洋艦金剛丸を損傷させる.
(この他,ウェーク島の砲台からの砲撃で駆逐艦疾風が沈没.
 日本軍は上陸作戦を一旦中止せざる得なかった)
 戦闘後,稼働機は2機に減少したが,同日の96陸攻の空襲では,地上砲火と共同で2機を撃墜.

12月12日
 横浜航空隊の97大艇5機を単機で迎撃し,1機を撃墜.
 この間,南洋航空部隊(24航戦基幹)の96艦戦は,航続距離の関係からマーシャル諸島の基地から護衛につけなかった.
 日本軍はこの事態を受け,ハワイ作戦から帰還途中だった空母蒼龍,飛龍をウェーク島攻略作戦に参加させる.

12月21日
 空母部隊による第1回空襲.
 F4Fは交戦せず.

12月22日
 零戦6機に護衛された97艦攻33機を,F4F2機が迎撃.
 97艦攻2機を撃墜し,分隊長の阿部大尉機も不時着水させる.
 護衛の零戦隊は直ちに追撃して,デビッドソン少尉機を撃墜,フロイラー大尉機も不時着大破させる.

 著者は言う.
「邀撃戦力の消えたウェーク島の運命は定まった.
 だが,わずか4機のF4F-3の奮戦ぶりは,驚嘆に値する.
 零戦二一型に敗れたというよりも,敢闘のすえ力つきて倒れたと見るべきだろう.」(p.284)

グンジ in mixi,2010年08月15日11:21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争開始当初において,何故アメリカ軍はフィリピンでも航空奇襲を受けてしまったのでしょうか?
 真珠湾攻撃は想定外だとしても,日本が攻撃してくるならまずはフィリピンであろう,ということはさんざん研究も想定もされていたのにもかかわらず,初日に奇襲攻撃されているのはどうしてなのでしょうか?

 【回答】
 米比軍はばっちり警戒していました.
 が,いくつもの偶然と要素が重なって結果として奇襲攻撃に.

 開戦と同時に日本軍はやってくるだろうと想定して爆撃機は上空退避,迎撃機も上げておいたのですが,台南では濃霧が発生し,それが原因で出撃が遅延.
 で,フィリピンではいつまで経っても日本軍はやって来ない上に,燃料が切れかけたので,給油の為に空港に降り立ったところに襲撃を受けた.

 開戦時の日本では物凄い数のラッキーが起きてる.
 後々その反動が来るけど.

♪マーフィーの法則は 宇宙の法則~(嘉門達夫)


 【質問】
 「1空事件」とは?

 【回答】
 1空上層部が,「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に沿っている体裁を整えるため,捕虜になった後に帰還したパイロットを隔離,冷遇した事件.

 開戦4日後のクラーク飛行場爆撃で1機の九六陸攻が損傷,彼らは事前に「日支事変と違う.被弾しても自爆するな」と訓示されていたため,不時着.
 搭乗員は生存が視認されていたにも関わらず,「自爆して全員戦死」との虚偽の報告がなされた.
 ところがマニラ陥落後,その全員が陸軍部隊によって収容され,1空に送り返された.
 帰還後,搭乗員全員が位階勲等を剥奪され,下士官は兵に降格.
 さらに彼らは隊内で隔離され,戦死を期待されての出撃を続けたが生き残り,最期は3/31,単機でラエからポートモレスビーに出撃して自爆せよと命じられたという.
 また,捕虜となった搭乗員が所属する中隊の中隊長福岡大尉は,この責任を取ってクーパン攻撃支援後に自爆した.

 詳しくは『航空ファン』 2006年4月号,p.151,または中攻会編『ヨーイ,テーッ!』(文芸春秋,2005.1)を参照されたし.

消印所沢

 より詳しい状況は,以下の通り.

 昭和17年3月31日,不思議な命令を受けた者たちがいた.
 使い古した96陸攻一機,搭乗員8名,場所はラエ飛行場で,機体には爆弾と燃料が満載されていた.
 見送りはわずかな人だけ.行き先はポートモレスビー.
 命令は
「敵飛行場へ自爆せよ」
である.

 搭乗員は以下の通り.

主操縦員 原田武夫 一飛曹
副操縦員 徳田英利 一飛
主偵察員 白井嘉孝 二飛曹
副偵察員 西田利穂 一飛
主電信員 首藤貫一 三飛曹
副電信員 渡辺禎銀 一飛
主搭乗整備員 清野五郎 二等整備兵曹
副搭乗整備員 三浦浅吉 二等整備兵曹

 なぜこのような命令が出されたのか?
 開戦五日目,昭和16年12月12日,第一航空隊の96陸攻48機は,台南基地を出撃,ルソン島の敵飛行場の爆撃に向かった.
 この原田一飛曹機も,福岡規夫大尉の指揮する中隊に属して,クラークフィールド敵飛行場に向かって出撃した.
 不運にも敵飛行場上空には雲が低く垂れ込めており,高度350メートル以下の低空攻撃となった.
 ここで,原田機は対空砲火で被弾し,左エンジンから火を噴出した.
 すぐに,じりじりと高度が下がり始める.飛行高度は350メートル以下である.

「機長,自爆だっ!」
と叫びながら,パイロットは操縦ハンドルを前に倒そうとした.
が,それはとっさに誰かに引き止められた.
「分隊長が言ったぞ,自爆するなって――」

 それは第十一航空艦隊参謀長大西瀧治朗少将(当時:後の特攻の父)が,開戦の前日,高雄基地において麾下航空隊の分隊長以上の士官を集め,訓示した中に次のような言葉があった.
「明日から始まる戦争は,これまでのシナ事変とは違う.比島には味方陸軍部隊が上陸して全土を占領する計画である.
 したがって,被弾して飛べなくなっても,いままでのように自爆してはならぬ.
 不時着して,どこかの山中にひそんでいて,陸軍が侵攻してきたら,このときに出てきて収容されるように」
 それが,そのまま全搭乗員に申し渡されていたのである.
 不時着か,自爆か.
 低高度における片舷飛行は不可能.
 結局,原田機は不時着するほうを選んだ.
 接地したすぐ後には,機内から二人の搭乗員が脱出し,編隊に向かって手を振るのが認められた.

 しかし,ここで一空司令荒木敬吉大佐は,中隊長福岡規夫大尉の意見もいれ,全員戦死と上級司令部へ報告した.
 当時,陸軍部隊が占領したところまではまだかなりの距離があり,機外の二名と生存者も自決を選ぶだろうと判断したのは,無理のないことだった.
 例え申し渡し事項があったとしても,虜囚の辱めを受けずという帝国軍人の鉄則は,厳として生きていたのである.

 やがて,昭和17年1月2日,マニラは陥落したが,その際,陸軍部隊から第11航艦司令部を経由して,一通の電報が届いた.
「貴隊搭乗員八名を収容せり.マニラ,ニコルソン飛行場に受け取りにこられたし」
 戦死と判断された八人は生きていたのだ.
 不時着した後の八人は,山中に逃げ込み,食もなく彷徨し,四,五十人の土民に寝込みを襲われ,弱りきっていた搭乗員は,たやすく全員が縛り上げられ,捕虜収容所へと送られたのである.
 しばらくしてマニラ陥落が迫り,監視が緩み,脱出に成功した八人は,敵兵の目をかすめつつ北方へ歩き続け,ようやく味方戦線へたどり着いたのである.

 八人の存在に,一空幹部は困惑した.
 早々に戦死と報告してしまったこと,
 「はやまるな,自爆するな」と内辞してあったこと.
 しかし,現実は捕虜となり,米軍から峻烈な尋問を受けたはずで,これをいかに処置すべきか.
 第11航艦,第21航戦,一空は,それぞれに困惑し,異例の会議を重ねたが,妙案・解決策は見つからないまま,時間が過ぎていった.
 この間,八人は位階勲等は剥奪され,下士官は兵に降格,一般隊員から隔離されて,小さくなって生きていた.
 そして,2月20日,ティモール島に空挺作戦が実施されるに及び,一空がその支援を行うことになった.
 原田機八人は一切を復活されて参加,福岡中隊長機のすぐ斜め後ろで,死に所を得るべく,敵弾の命中を待った.
 しかし,敵は戦意に乏しく,陸攻隊にさしたる被害もないまま爆撃は終了.
 福岡中隊長機は,さらに列機を一列縦隊に纏め,低空に舞い降りて地上銃撃を繰り返させたが,それでも敵弾の命中はなかった.
 福岡中隊長は,銃撃を終わって上昇,隊をまとめると,列機に帰投するように命じた後,反転して翼をふりつつ急降下し,敵陣地へ自爆していった.
「はやまるな,自爆するな」
と言った責任を,自爆で果たしたのである.

 福岡中隊員は一同泣いてこれを見送った.
 原田機は死所を得るべく出撃し,かわりに中隊長を戦死させてしまったのである.
 それまで,八人に同情的だった隊員も,それからはおのずと変化が生じた.

 原田機八人は出撃を繰り返すが,被弾こそすれ,一度も致命傷とはならずに,武運に恵まれなかった.
 昭和17年3月30日,原田機は零戦三機に護衛され,暗に「帰ってくるな」と命令されて,ポートモレスビー強行偵察に飛び立った.
 敵基地上空に達した原田機は,上空に零戦三機を残して,ただ一機で弾幕の中に降下し,千メートルを行きつ戻りつして,悠々と写真を撮った.
 ところが,奇怪にも,敵戦闘機は一機も現れなかった.
 航空基地のモレスビーに敵戦闘機がいないとは,不思議である.
 原田機は今回も死神に見捨てられて,皮肉にも武運に恵まれなかった.
 撮影されたフィルムは,すぐに現像されて,その後の爆撃に大きく役に立った.

 そして翌3月31日,ついに最後のときが来た.
「自爆せよ」
である.
 この日,原田機は零戦の護衛もなく,文字通りの単機出撃であった.
 飛び立ってしばらくして,ポートモレスビーに達したと思われる原田機から,最後の通信が入った.
『われ爆撃終了,全弾命中』
 それから原田機は沈黙したが,十数分後,再び送信が開始された.
 次の電文を暗号化していたと思われる.
 それが終わると,・・・と短符がみっつ送られてきた.
 続いて長符――が始まった.やがてその長符がぶつんと切れた.
 暗号電文が解読されたとき,川合一曹(通信員)は鉛筆を取り落とした.

『我今より自爆せんとす.付近天候晴れ』
『生前の御厚意深謝す.天皇陛下万歳』

 これが原田機八名の最後であった.

「電文にあった『天候晴れ』というのは余計だよ.
 首藤(主電信員)がわざと入れたんだ.
 天候晴れとやれば,もしかしたら自爆確認をやってくれるかも知れぬと望みやがって……
 単機で死ぬのがどんなにさびしいことか,つらかったろうなァ」
 そう言ったきり,後の言葉は嗚咽の中に消えた.
 原田機の乗組員は,位階勲等は剥奪され,下士官は兵に降格させられていたが,その後一階級特進し,あらためて昭和一七年三月三十一日戦死,となっている.

 さらに詳しくは,『炎の翼』(関根精次著,光人社NF文庫,2005/6),P123~P132を参照されたし.

 これは当時の日本陸軍内における「戦陣訓」の影響が,窺い知れる事件だと思います.
 あと,下に厳しく上に甘い所とか.(海軍乙事件じゃ,だーれも処罰されてないのに……)

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 マレー沖海戦で九六陸攻,一式陸攻が英国の戦艦を沈めるまでは,航空機が軍艦を沈めることができるなんて誰も思っていなかったってのは本当ですか?
 それまでに航空機で軍艦を攻撃するという想定,訓練,事例はあったのでしょうか?

 【回答】
 それをより正確に言うなら,「外洋で行動中の戦艦を」だね.

 航空攻撃で軍艦を沈めることはそれ以前から普通に行われてたし,戦艦を沈めた例もあった.
 第一次大戦直後の1920年には米海軍が,老朽化した戦艦インディアナを航空爆撃で撃沈する実験を行い,成功している.
 1921年には米陸軍のビリー・ミッチェル将軍が,旧ドイツ海軍戦艦オストフリースラントの爆撃撃沈実験に成功.
ド級戦艦であっても航空攻撃で撃沈しうることを証明してみせた.
 1940年11月には,イギリスの空母艦載機部隊がイタリアのタラント軍港を空襲し,戦艦多数を沈めている
(ただし,港で沈んだので空襲後引き上げて修理).

 でも,真珠湾攻撃もそうだが,戦艦の有用性を説く人たちは,
「それは港に停泊しているところを奇襲されたからで,外洋に出てれば回避も対空射撃も存分にできる.
 海を自由に行動している艦船に,そうそう航空機の落とす爆弾や魚雷が当たるわけがないし,単艦行動しているのでもなければ,艦隊規模の対空砲火を潜り抜けて対艦攻撃など不可能だ」
と反論し,それ(外洋で戦闘航行してる戦艦は果たして航空攻撃で沈められのか?)に関しては,マレー沖海戦まで実証はされていなかった.

軍事板
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「機械化」(昭和15年12月号)お約束の軍事カラー図解

 まだ真珠湾攻撃より1年前の,大鑑巨砲主義の名残りがあった時代ですが既に,航空兵力が主力となる新しい時代を予感しています.
 それにしても,この“未来の対飛行機戦闘艦”の流線形は新鮮です(笑)

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月12日01:56



 【質問】
 なんで昔の人たちって「戦艦は航空機じゃ倒せない」って思い込んでたのかわかりません.
 まぁ防御力はそれなりでしょうが,肝心の攻撃力が飾り程度の高射砲と機銃が,数えるほどしかないですよね?
 えんえんと何十機もにまとわりつかれてたら,いつかぜったいに沈むと,普通なら常識で思うんじゃないですか?

 【回答】
 それを可能にする航空機戦力が整備されてなかったから.
 「何十機も纏わり付く」にも,その何十機の航空機なんて物がなく,特に陸上の航空基地からたどり着ける距離に艦艇がいるならともかく,はるか外洋で,何十機もの航空戦力で艦艇を攻撃する航空母艦も ,まだ整備しきれてなかった.

 現代で言うなら
「何百発ものミサイルで飽和攻撃すれば,イージス艦に守られた空母でも撃沈できるよ」
「でもその何百発ものミサイルを発射する母機・母艦が存在しないよね」
 あるいは,
「停泊中のイージス艦を何十隻もの小型ボートで自爆体当たりすれば,イージス艦でも手も足も出ないよ」
「でも停泊中の港で何十隻も小型ボートがイージス艦に集まっていけば怪しまれるし,そもそも不審な船舶が港に大量にいる時点でバレるよね」
「第一,そんな大量の爆弾をどうやって調達して運び込むの?」

軍事板
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 【質問】
 日本海軍航空隊について質問です.
 真珠湾やマレー沖の時は,神の技量を持った搭乗員が敵艦を次々あぼーん
 マリアナや台湾沖では,まっすぐ飛ぶのがやっとの搭乗員ばかりで,味方の航空機が次々あぼーん
 なんでこんなに急激に,航空隊の練度が低下したんですか?
 パイロットを訓練するシステムが働いていなかったんですか?

 【回答】
 ソロモンの戦いでざっと1万機を失ってるのが原因.
 また日本のパイロット教育が,少数精鋭主義だったのと,予算が少なく,年中晴れてる教育適地がなかったから.

 ぎりぎりの数の第一線搭乗員を職人的に育てるシステムになっていたので,予備が無かった.
 そのため,航空部隊の増設や消耗に対応できず,最初から搭乗員不足だった.
 真珠湾攻撃の頃は,教育部隊から引き抜いた教官を実戦部隊に送ったりしてごまかしたが,珊瑚海海戦の頃にはすでに部隊増設で大幅不足で,空母の搭載定数が削減されてたくらい.

 その後,ガダルカナル方面で搭乗員の消耗が激しくなる一方,搭乗員の大量養成システムが十分に整備できず,どんどん練度が落ちた.
 特に開戦前からの搭乗員が職人的に優秀だったので,相対的に落差が激しい.
 急に教育課程を拡大しようとしても,教育用機材や教官,飛行場設備など間に合うわけも無く.
 目標としては第一線部隊の1.5直分を用意しようとしていたみたいだが,達成できず.

 それでも消耗はどんどん激しくなるので,やむなく訓練期間を短縮して教育の量が低下,燃料不足・教官の実戦投入などで教育の質が低下,卒業時点での錬度が低くなり,卒業後もすぐに最前線に投入されて経験不十分なまま戦死となる悪循環.

 マリアナの時は作戦直前に,潜水艦の脅威から訓練が出来ず,錬度がさらに低下.
 台湾沖のときは悪天候下での夜間攻撃という状況で,錬度低下の影響が増幅.
 そういう特殊事情もある.

軍事板
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 【質問】
 日本軍がパイロットの質を維持できなかったのは何故か?

 【回答】
 開戦時からパイロットの数に余裕がなかったため.
 以下,ソース.

 優秀な搭乗員の養成には時間がかかる.
 当時,パイロットの場合,基礎訓練1年,実践部隊での初歩訓練1年,さらに高度訓練1年の合計3年を要すると言われていた.

 開戦時,日本海軍の常用機定数は合計3019機であり,この運用には最低でもパイロット3445名が必要だった.
 また,常用機の3分の1に相当する補用機のためのパイロットも合計すれば,現有する航空機を運用するだけでも約4600名のパイロットが必要だった.
 しかし,1942年1月の段階でも,海軍所属の全パイロットは3615名という状態で,配備常用機1機に対し,搭乗員1組を充当させるのが精一杯だった.
 開戦時におけるこのようなパイロット数の余裕のなさは,航空戦力自体の損害に対する回復力が極めて小さいことを示している.

 実践部隊において勤務2年以上の熟練パイロットの占める比率は,
1941年末=49.5%
42年6月=40%
43年3月=22.5%
43年6月=21%
と急速に低下した.

 42年いっぱい続いたガダルカナルを巡る攻防戦において,熟練搭乗員が大量に戦死すると,それ以降は,例え航空機があっても信頼できる搭乗員がいないという状態が敗戦まで続くことになった.

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.218-219,抜粋要約)


 【質問】
 WWⅡのガダルカナルの飛行場は,1942年の末から43年の初期くらいまでは最前線基地で航空機も多数配備されていましたが,1944年末とか1945年くらいになると前線の遥か後方です.
 そのときはガダルカナル飛行場はどうなっていたのでしょうか? 滑走路だけで飛行機0,ガラガラ状態ですか? それとも,念のために申し訳程度配備したりするのですか?

 【回答】
 学研のムック「日 vs. 米 陸海軍基地」によると

‘43年6月  ヘンダーソン飛行場に加えて戦闘機用の第一・第二応急滑走路・分散飛行場の整備.
 滑走路長の延長や補助滑走路も完成している.
 43年中にはB-17も運用可能な規模に.
‘44年2月  上に加えてカーニー飛行場,コニ飛行場を整備
‘45年3月   ヘンダーソン飛行場を中心とした「ヘンダーソン複合飛行場施設」として ,兵站・航路上のハブ的存在になる.(主滑走路は2,100m規模)

ってな感じで,地味に拡張し続けていた.


 【質問】
 1943年7月のソロモンの戦いで,日本軍の空襲の編成が気になります.(主にレンドバ島への空襲)
「零戦35機,Val6機」
だとか
「零戦41機,陸攻6機」
など,攻撃機や雷撃機の数が余りに少ないように思います.零戦だけのファイタースウィープは別途に行っているのに.
 これが,当時出しうる全力編成だったんですか?

 【回答】
 6/30の時点では,ラバウルには38機の陸攻が居た.
 同日の攻撃(レンドバ攻勢の初日)で26機中17機が未帰還となり,残存機は20機ちょい.修理不可能機を含めればおそらく20機を切る.
 連日の作戦による稼働率低下を考えると,一桁前半で全力だったかもしれない.

 ただ,7/9に陸攻20機の増援を受けた直後でも陸攻の出撃機数は低調であり,7/15の空襲では大打撃を受けた結果,陸攻による昼間強襲の取りやめが決定されることになる.
 この時期(7/9~)には,陸攻の存在価値そのものに疑問が持たれていた結果として出撃機数が低調だったのではないかと思われ.
 んでもって7/15に駄目押し.


 【質問】
 ラバウルには一式戦や三式戦などの陸軍戦闘機もいたと聞きますが,43年後期~44年初頭の防空戦闘にも,零戦隊ばかりでなく三式戦なども参加していたのでしょうか?
 また,ラバウルの陸軍機の戦いに参考になる書籍など教えていただければ幸いです.

 【回答】
 三式戦はラバウルには第十四飛行団指揮下の第六八戦隊と第七八戦隊が,それぞれ昭和十八年四月末/七月初旬に展開していますが,七月中旬には両戦隊ともニューギニアのウエワクに進出しています.
 ですので,お尋ねの43年後期~44年初頭にはラバウルには三式戦はいません.

 その他の陸軍部隊では,第一・第十一戦隊などが一式戦でラバウルに進出していますが,いずれも東部ニューギニアに展開したり戦力回復のために後退したりで,その時期にはラバウルにはいませんでした.
 これは,七月中旬にソロモンは海軍,ニューギニアは陸軍と守備区域を分担するように設定したためです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2009/08/06(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 よく零戦の戦記とか読んでてラバウルの話とか見るんだが,アメリカ軍は一体どっから飛んできてるのか触れられないんだが,どこに基地があったんですか?

 【回答】
 昭和17年11月頃はニューギニアのポートモレスビーとラビ,ソロモン諸島のガダルカナル島に航空基地があった.
 昭和18年8月頃は↑にニューギニア方面にブナ・ファブア・グッドイナフ島・キリウイナ島・ムルア島に航空基地が増加.
 9月の上旬と下旬には,ラエ方面に上陸,11月にはブーゲンビル島タロキナに上陸.
 昭和19年になるとニューギニア東部は,連合軍の航空基地が大量発生.
 ソロモン諸島には,ガダルカナル島・フロリダ島・ニュージョジア島・コロンバンガラ島・ブーゲンビル島タロキナにも基地が出来る.
 おまけに昭和18年12月には,ラバウルのあるニューブリテン島の南,ツルブやマーカス岬に上陸している.

 歴史群像 太平洋戦史シリーズvol.28「日vs米 陸海軍基地」 学研を読めば,米軍基地の場所と規模がよくわかるよ.

軍事板,2009/08/19(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 山本五十六長官はラバウル視察のとき,どうして防御性能の悪い一式陸攻なんかで逝ったのでつか?
 二式大艇とか一○○式司令部偵察機とか,ほかになかつたんでしょうか?

 【回答】
 「防御性能の悪い」のは,二式大艇とか百式司令部偵察機も同様.

 二式大艇は水上機であり,山本長官御一行様はラバウル飛行場を発進し,ブイン飛行場に降りる予定だったので問題外.

 百式司偵は,陸軍機云々以前(ちなみに当時,海軍でも使われていたが)に,2人しか乗れないので問題外.
 連合艦隊司令部のスタッフは何人居ると思っているのか?

 この当時,ラバウル飛行場に常駐している飛行機で,多人数を乗せられる機と言えば,一式ライターでなければ,もっと旧式の九六式陸上攻撃機くらいしか無いので,あまり選択の余地は無い.

 「どんな飛行機に乗っていれば」と言うよりは,護衛戦闘機をもっと多くすべきだっただろう.
(つーか,それ以前に,ブインに行くべきではなかったんだが・・・)


 【質問】
 山本長官機撃墜時には何機かの護衛戦闘機がいたはずですが,そのパイロットはその後どうなったのでしょう?
 長官を守れなかった責任を取らされたとか,そういうことになってしまったのでしょうか?

 【回答】
 歴史群像の2004年6月号に柳谷氏のインタビューがあります.
 以下抜粋.

――――――
「私たち戦闘機乗りは,本来,空を飛びたがるものです.
 許されるものだったら,毎日でも飛びたい.
 しかし,そういうわけにはいきません.
 飛行機の数だって限られているわけですから.
 一応,出撃のたびに搭乗割というものがあって,実際には三回に一回とか,二回に一回しか飛ぶことができないのが普通なのです」

(中略)

「あの事件があって以来,毎日のように,私たちには必ず出撃命令が下るようになりました.
 それまで,あんなに飛びたいといっても願いを聞いてもらえなかったのに,私たち六名だけは必ず搭乗割に名前が載るんです.
 さあ飛べ,さあ敵と戦って来い,とね」

――――――(抜粋,終わり)

 護衛のパイロットは,表向きは何の責任も問われませんでした.
 しかし実際は,出撃の機会を増やす事で,戦死へと追いやられました.
 最終的に生き延びたのは柳谷氏だけです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 孤立したラバウルの地下工場で,再生飛行機を作ってたって本当?

 【回答】
 ラバウルに残されていたのは,南東方面航空廠の技術員です.
 昭和18年に三つの航空廠を合併して出来た本廠は,ラバウルを主な拠点として航空機整備に当たっていましたが,昭和19年2月にラバウルからの航空兵力引き上げに伴い,残地された人員をもって第108航空廠を編成しました.
 残された人員は約二千数百名で,うち軍人が59名,残りは軍属です.

 彼らは洞窟を掘って地下工場を建設し,終戦までに彼らが再生した飛行機は13~15機といわれています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/03/18(土)
青文字:加筆改修部分

▼ 国立科学博物館地球館にあるお馴染みの零戦21型を見学したときの写真.
 同機は1972年,ラバウルの北西,ニューブリテン島沖の海底で発見され,引き揚げられたもの.
faq110821zr.jpg
faq110821zr2.jpg
 これは偵察用に複座タイプに改造されたものですが,数機分のパーツで組んであります.
 今回改めて見ると,結構荒っぽいレストアに見えました.
 そして何よりも驚いたのが,この機体は1970年代に売りに出されたものを,日本の大学教授(石松新太郎)が買い取って,国立科学博物館に寄贈したとの事で,いくら30年前と言っても,個人で戦闘機寄付とは豪儀な!と思わされました(笑)▲

よしぞうmaro' in mixi,2007年12月03日16:20

 【関連リンク】
朝目新聞」●ラバウル  (of 続・妄想的日常)


 【質問】
 台湾沖航空戦でアメリカ艦隊を一隻も沈めてないのに,「数十隻を撃沈,撃破」とか信じられないほどの誤認をしたのは何故ですか?

 【回答】
 オレが当てた,沈めた~沈むと思う,そうだといいな,という希望的報告を,そうだといいな,と鵜呑みにした上,全員の報告を全部足し算するという,ポジティブシンキングの大成果.

 戦果確認は基本的には帰還後の聞き取り調査による.
 どの国でも同じなのだが,地上勤務のベテランが厳しく問いただすので,この段階で大幅な誤差が生じることはそれほどない.
 問題は,それを集計する人間が別にいることです.

 更に台風の中の出撃で,ベテラン搭乗員もいない出撃だったため,味方機の被弾炎上を敵空母撃沈と勘違いしたというオチ.
 米軍の実際の被害は巡洋艦2隻に爆弾命中で小破.

 幻の戦果がいかに作り出されていったかについては,その場にいた軍人による回想録
「大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇」(堀 栄三著 文春文庫),
および,数年前に放送されたNHKスペシャルを本にした
「幻の大戦果・大本営発表の真相 NHKスペシャルセレクション」(辻 泰明, NHK取材班著 日本放送出版協会)
が詳しい.

軍事板,2004/11/15
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 レイテ沖海戦において,陸軍航空隊が米軍艦船を撃破,もしくは撃沈できた海戦はあったんでしょうか?

 【回答】
 レイテ沖海戦(捷一号作戦)においては,比島方面を担当する第四航空軍傘下の第2飛行師団に所属する7個飛行団・25個戦隊が10月24日に総攻撃をかけています.
 しかし,帳簿上は500機はあるはずの戦力は,機材の故障や連絡の不備などにより,出動はわずか100機にとどまりました.
 しかも戦爆の協同作戦がうまくいかず,飛行第三戦隊(九九双軽)が一度の襲撃で消滅するなど,壊滅的な打撃を受けています.

 これほどの犠牲を払いながら,陸軍航空隊が挙げた戦果は大型曳船一隻撃沈,駆逐艦1,給油艦1の撃破にとどまりました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 以下の朝日新聞社説について違和感を覚えたのですが,こんな事が有り得るのでしょうか?

沖縄戦60年 この地獄を忘れまい [6/23 朝日新聞社説]

 沖縄県宜野湾市の佐喜真美術館は,三方を米軍普天間飛行場の金網に囲まれている.
 軍用地の地主だった佐喜真道夫さん(59)が再契約を拒んで土地を取り戻し,飛行場を削り取る形で建てた.

1発の爆弾で,半径700メートル以内の住宅がすべて吹っ飛んだ.そんなのが1坪に4発も落ちてきた.この展示室は44坪あるので,176発が落ちたことになる」.
 沖縄戦を描いた絵を背に,佐喜真さんは体験者から聞いて歩いた膨大な言葉を入場者に伝えていく.

 【回答】
 ・・・この体験談を信じるならば,どうやら沖縄戦で核爆弾が使用されていた事になります.(もちろん,有り得ません)

気を付けろ爆弾だ兵器生活
 上のサイトで紹介されている戦時中の資料を見て下さい.
250kg爆弾だと木造家屋なら半径10m(直径20m)程度までが全壊範囲です.
500kg爆弾だと半径15m(直径30m)
1000kg爆弾だと半径20m(直径40m)

 半径700メートル以内の住宅がすべて吹っ飛ぶ規模の爆風とは,通常爆弾ではとても達成出きるものでは無いのです.
 核兵器・・・5kt級の戦術核兵器なら可能かもしれません.

(週刊オブイェクト)


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