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◆◆◆◆オードネルへの収容以降
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アジア&太平洋戦域・目次
<第2次大戦FAQ


 【質問】
 オードネル捕虜収容所で,なぜ多数の死者が出たのか?

 【回答】
 衛生状態は最悪であり,かつ,医薬品も食糧もなかったため.
 この収容所の有り様を,ハンプトン・サイズは次のように描写している.

オードネルは大多数の捕虜にとって,最も恐ろしい戦争体験となった.〔略〕
 〔略〕 衛生状態は最悪,悪臭は破滅的で,意を決して収容所に足を踏み入れた,ごく少数の日本兵は,ほぼ例外なく手術用マスクを着けていた.蓋のない狭い溝は,害虫の温床だった〔略〕.捕虜の食事は,雑草のスープ少々と,硬い蛆がたまに顔を覗かせる,青みがかった水っぽいお粥だけだった.〔略〕
 オードネル収容所の死亡率は驚異的だった.十人中一人が死んだ.2ヶ月間で1500人以上のアメリカ人と,約1万5千人のフィリピン人が,墓標のない巨大な墓地に埋められた.
 〔略〕

『ゴースト・ソルジャーズ』光文社,'03)

 また,ルポライター,鷹沢のり子は次のように記している.

 捕虜達は,土間と竹床の一部屋だけの宿舎に入れられた.
 捕虜が多くなると,土間に100人,竹の間に70〜80人近くが押し込められた.通常は約50人くらいが適当と思われた.
 小屋の数が足りなかったために,約2万人のフィリピン人捕虜達は,暫く外で寝起きしていた.
 小屋には洗面所がなかった.簡易トイレもない.野外に掘られた一本の溝で用を足した.
 赤痢の捕虜達は,下痢をしそうになるたびに外へ出た.回数の多い者は,いつも溝のそばで横になっていた.
 トイレ用の溝には虻や蝿が群がり,悪臭が漂っていたが,それさえない宿舎もあった.収容所にはシャベルが24個しかなく,昼間は死体の埋葬に使うので,溝が掘れなかったのだ.
 宿舎の周辺の悪臭は,雨季になると嘔吐を催すほどに酷い状態であった.

 〔略〕

 収容所の病院には器材がなかった.消毒剤もない.ベッドもない.誰もが床に横たわっていた.土間に寝ざるを得ない病人もいた.
 掃除をするにもホウキさえなかった.草を束ねただけの,あまり役に立たないものだった.
 負傷者の衣類が汚れても,取り替える洋服がない.それを洗う水さえ十分にない.捨てるしかなかった.
 いつも非衛生的だった.病院としての機能が全く整っていなかったのだ.
 ウィリアム・ケイン大尉(米人)が,病院で見た患者の様子を,マニラ法廷で証言している.
「ある患者の顔は,生の肉の塊のようだった.目も口も腫れ上がっていた.
 その患者は蚊帳を顔に巻き付けていた.薬のない病院で医師ができる唯一の方法だったのだ.
 彼は話すこともできず,両手を叩いて人に合図していた」

 このような状態の病院に捕虜達は行きたがらず,「あそこに行くと死んでしまう」と言い合っていた.
 それでも病院は混んでいた.藁にもすがりたい思いだったに違いない.4月中旬から6月初旬までに,1000人から1500人もの捕虜が入院していた.
 マラリア患者が圧倒的で,次に多いのが赤痢や脚気だった.
 前出〔医療班の一人であった医師〕のチャールス・ルイス(米人)が,次のようにマニラ法廷で証言している.
「何度も日本軍司令部に,マラリアに効くキニーネ錠を要求すると,300錠が渡された.1週間分だと言われる.
『重病のマラリア患者には,一人につき1日10錠は必要だ』
と,さらに要求すると,
『あなたがたは捕虜なのだから,それ以上期待してはいけない』
と,聞き入れてもらえなかった」

(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.105-107)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.

 水・食料も不足していた.

 捕虜達の日常は病気との戦いだった.また,空腹に打ち勝たねばならなかった.
 水さえも十分に供給されなかった.
 第1陣の捕虜達が収容されたとき,毎日必要な料理用の水を,彼らは川まで汲みに行かされた.4人1組となって,200リットルの石油缶で運んだ.
 しかし,それを自由に飲む事は許されなかった.
 〔略〕
 また,収容所内での水浴びは禁じられていたので,彼らは収容所の外で仕事をさせられた時に,監視の目を盗んで川で水浴びをしている.汚れた衣類はその時に洗濯した.
 その後,掘抜き井戸が掘られ,蛇口がつけられた.
 だが,栓を捻ればいつでも水が出るわけではない.1日の内,3回と決まっていた.
 それさえも,水筒を手に長い列を作らねばならず,時には水が止まることもあった.日本軍司令部の風呂水を貯めるために,栓が締められるのだ.

 では,食事はどのようなものであったのだろう.前述〔当時23歳〕のフローレンティノ・デ・ギアさんは,日本軍将校達の食事作りと食器洗いに就かされた時期もあった.その頃の様子を次のように話した.

 朝は,もう一人の捕虜と二人で井戸水を汲むのが仕事だった.
 収容所の井戸が枯れたときには,数キロ離れた川まで汲みに行った.少なくとも7回は往復しなければ,水瓶がいっぱいにならなかった.

 食事作りに際しては,つまみ食いをしたい衝動に駆られるほど,捕虜達の食事と違っていた.
 日本兵の台所には米が十分に蓄えられていた.牛肉や豚肉,魚もあった.コーヒー,ミルク,砂糖さえも置かれていた.
 手が出そうになることもあったが,日本兵が見張っていたのでギィアさんはどうすることもできなかった.

 一方,捕虜達がそれぞれに食事を作れるようになるのは4月も末になってのことで,それまでは1日2回,飯が配られるだけだった.
 その時の様子を,オードネル収容所にいたアメリカ陣捕虜が次のように描写している(サミュエル・モーディ著「Reprieve from Hell」).
「……私達は宿舎の前に並ばされて,人数を数えられた.日本兵はノートを出して,気がついた事を書き込んでいた.私達はずっと立っていなければならず,中には倒れる捕虜もいた.
 ……それが終わると,私達は飯が貰えた.柄杓で掬って手のひらに入れられた.
 ある者達は御飯の握り方を知っていた.また,別の者達は,帽子の中から食事用のセットを出した.
 ……私は千頭棒をかぶったまま座って,自分の手のひらの飯を見つめた.蛆が飯の間を這っている.
 蛆を取り出している捕虜もいた.蛆が全く見えなくなった時,彼はやっと食べられると微笑んでいるかのようだった.
 だが,中のほうからまた蛆が現れると,彼は飯を床に捨ててしまった.
 ある者は泣いた.
 静かに食べている者もいた.咽喉に御飯を押しこめているようだった.飯と苦痛とを混ぜながら食べていた.
 私も暫くは蛆を取り除いていた.しかしあまりにも無駄な事だった.
 とうとう私は眼を閉じて,少しだけ飯を口に押し込んだ.咽喉に詰まった.私は深い息をして,それがステーキだと夢想した.
 私は欲張って,もう一塊を口に押し込んだ.私は吐き気をもよおした……」

 4月末には,メシの他に芋やカンコンという青野菜,茄子,モヤシなどがつくようになる.
 大隊別に入れられた宿舎6〜7軒につき,2つの台所で捕虜達は食事を作った.
 5月末には,タルラック州知事からマンゴーと子牛が寄付されている.だが牛肉は,アメリカ人捕虜9000人につき,僅か136kgという程度だった.
 その後,何人もの社会事業家から物資が届けられたが,十分には行き渡らなかった.

 捕虜達は自らが身を守らなければならなかった.
 鰯の缶詰を日本兵から買った捕虜もいた.
 特別任務班として,米を買いにタルラック州のサン・フェルナンドまでトラックで出かけた捕虜は,日本軍兵士の目を盗んでマーケットで魚を買った.

 パナイ島で捕虜となったベニト・ローザさん(当時26歳,比人)は,私がマニラで話を聞いたとき,収容所の食料事情について次のように語った.
 前述のモーディさんは飯を配られたと書いているが,ローザさんは粥だったと言う.彼が入ったのは,コレヒドール島陥落後だった.

 収容所に入れられたばかりの頃は食事は1日1回で,お粥しかなかった.
 2ヵ月が過ぎた頃,粥でない御飯が2回食べられるようになった.
 それでも量が少ないのでおなかはすく.
 ときどき肉が添えられることもあった.水牛や豚を解体した時は,殆どを日本兵が食べ,余った肉が捕虜達に分けられた.
 日本兵は動物解体が終わると,皮を土の中に埋めた.フィリピン人捕虜達は,埋めた場所をよく覚えておいて,夜になると皮を掘り出してきて,油で揚げて食べた.「チッチャロン」に相当しよう.
 日本兵の監視が厳しくて,数日も掘れなかったりすると,動物の皮は腐りかけていたが,丹念に水で洗うと食べることはできた.

 捕虜達の食料事情の悪さに黙っておられず,あるフィリピン人の医者が日本軍司令部に申し出た.
「もし食事をよくすれば,捕虜達の健康の回復も早く,死亡者数も減少する」
と.体力を回復するためにはどんなものを食べたほうがいいかを,メニューに書いて提出もした.
 しかし,それに対する日本軍司令部の反応は,「ここはホテルではない」だった.

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.111-1)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
この引用部分については,類書にも同様のものが見られるので,信頼性に問題はないと考えられるが.

 これに関し,火野葦平の文献からは,準備の貧弱さと,捕虜の多さから,なすすべがなかった,という日本軍側の事情が読み取れる.

門に入らないうちに,私は葬列の一隊に出あつた.どこに運ばれて行くのか,戸板にのせられたフィリピン兵の4つの屍骸が,アメリカ兵にかつがれて,収容所の柵の外側をまはり,アラヤット山の麓の方へ消えて行つた.
 所長恒吉大尉は,
「ああやつて,毎日,3〜4人づつ死ぬのですよ」
と,困惑し果てた表情をした.
――現在,2萬7千人を收容してゐるが,毎日増える一方だ.3萬7千5百人までは入れるやうになつてゐるが,軍では5萬あづかる準備をせよといつて來てゐる.ここは米と鹽しかなく,なにより水のないことに閉口する.
 2つポンプがあつたのに,昨日1箇壞れてしまつた.
 やむなく,こゝから4キロも離れてゐるサンタ・イグネシヤ川まで汲みに行く.フィリピン兵は弱りきつてゐるので,アメリカ兵にガソリン罐を持たせて汲みに行つて貰つてゐる.
 しかし,その水もあまり上等ではない.
 こんなことでは先が思ひやられる.

 毎日死者が出るので,アメリカ兵からマニラの赤十字に連絡を取るやうに要求されてゐるが,諸事ごつたがへしてゐて,なにごとも思ふやうに行かぬ.
 食糧,衞生材料,人員等,緊急を要するものばかりなのに,軍の方もてんてこ舞ひしてゐて,こちらまで手が廻り兼ねてゐるらしい.バタアン戡定以後になつて,こつちの兵隊が,マラリヤ,テング,赤痢でばたばた倒れるし,軍の方でも兵隊を見殺しにしてゐるやうな始末だ.
 直接,捕虜をあづかつてゐる自分たちとしては,氣が氣ではないけれども,軍の方では捕虜より自分の方の兵隊を先にするのは人情かも知れない.
 ここにゐるアメリカ將校が,捕虜をどうしてバタアンから車輛輸送しないのかと聞くので,車輛不足と,道路が破壞されてゐるため,日本の兵隊も歩いてゐる,と答へたところ,そんなら仕方はないといつてゐた.

 アメリカ兵の方はさすがにきちんとしてゐるが,比島兵の方はさつぱり統制がとれない.
 軍司令官は,フィリピン兵は適當の時期を見て,釋放する意向とのことであるが,それはすこぶるよいことと思ふ.
 現在のところ,收容所はここ1ヶ所にしかないので,このうへ捕虜が増えたらどんなことになるかと,空恐ろしい氣がする.

 恒吉所長の話は,大體,右のやうなことであつた.

(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.60-61)

「ひところは大變でした.逃げだしたくなりましたよ.1日に,2百人,3百人といつて死ぬんですからね.
 統計やグラフが作つてありますから,後ほどごらんに入れますが,最高は487人でした.總計2萬ほども死んだでせうか.
 こんなに死人があると,どうにも處置に困りますが,ほつてはおけませんから,あのとほり,墓地に埋めて墓標を立てたのです.
 そのころは屍體埋葬のほか何一つ出來ませんでした.
 百萬手を盡くしたのですけれど,どうにも及びませんでした」

(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.70)

 だが一方,決して「全力をもって捕虜の命を救おうと尽力したわけではない」ことを示唆する,次のような情報もある.

 収容所内に入ると,彼らは広場に座らされて,炎天の下,所長・恒吉大尉の演説を聞いた.
 マニラ法廷での何人かの証言と,アーネスト・ミラー少佐の「Bataan Uncensored (批判されていないバタアン)」から,恒吉大尉が話した内容を紹介しよう.
「お前達は捕虜だ.捕虜の命は天皇のものだ.お前達が生きていられるのは,天皇の慈悲と武士道精神の恩恵によってである」
「極東で欧米の影響が完全に消えるまで,アメリカとイギリスは日本の敵である」
「お前達は劣った人種だ.日本軍はこの戦争に勝つ.お前達は敵だ.日本軍は100年だって戦うぞ」
「アメリカは何年も日本を苦しめてきた.我々の興味はアメリカ人兵士達の死亡者数だ.
 また,オードネル収容所でこれから死亡する捕虜達の数である」
「お前たちは捕虜だ.今日から将校の地位はない.バッチは外すこと.全員が平等である.
 しかし日本兵には,どんな位の人にでも敬礼すること.
 お前達が収容所の規則通りに従えば,平等に扱う.しかし命令に背いたり,規則に従わなければ,罰を受ける」
 収容所に着いた日に出された布告分には,こう書いてあった.
「次の行動をした者は射殺する.
1. 逃亡を企てた者,及び,逃亡した者.
2. 市民に変装して逃げようとする者.
3. 人に損傷を与える者,掠奪する者,放火する者」

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.104)

 捕虜たちがオードネル収容所に入ったことは,既に全国各地に広まっていたので,マニラのカトリック神父の秘書がトラックに医療品や食料を積んで現れたことがある.
 しかし日本軍は,
「捕虜と市民を会わすのは危険だ」
という理由でトラックを返した.
 〔略〕
 そのような中を,マニラの赤十字本部は,なんとか収容所に入れるように画策して成功した.
 収容所に到着すると,責任者の女性は,気をきかせて所長である恒吉大尉に数本のウィスキーを持参した.
 すると,クッキーや果物,薬などを積んだトラックは,収容所内に入れられた.
 トラックを見た医者達は,当然のように病院に配給されるものと期待していたが,すべては日本軍の倉庫にしまわれた.毛布もシーツも枕も蚊帳もキニーネ錠も全てである.

(同,p.108-109)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
この赤十字に関する記述には,ソースは示されていない.


 【珍説】
 捕虜の待遇に関するジュネーブ条約を,日本は批准していなかった.
 しかし日本ほどこれを忠実に守った例はあるだろうか.大切な国民の配給さえ事欠いていた深刻な状況の下にあって,常に自国の軍隊と同量の配給を続けたのだ.
 第14方面軍の兵站監として山下大将の隷下にあった洪思翊(こう・しよく)中将は朝鮮人であるが,陸軍大学を出た,軍の経理補給の元締めであった.同時に彼はフィリピンで,捕虜収容所の最高責任者であった.
 マニラ軍事法廷で証言して,1944年9月までは,日本兵と同量の定量を確保し,日本軍との違いはなかった.10月に至って兵の供給を日糧300g削減し,捕虜の割り当てもこれに準じたのである.
 日本軍が敗走する過程において,食糧徴発は不可能に近く,供給は困難を極めた.削減は一層厳しくなったが,如何ともし難かった.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.140-141)

 【事実】
 なにやら「綱領太郎」と似たような言説ですが…….

 実際にオードネル俘虜収容所にいた捕虜の話は,これとは大きく異なります.
 ハンプトン・サイズ著『ゴースト・ソルジャーズ』(光文社,'03)には,食料・医薬品が終始欠乏していた様子が活写されています.
 捕虜が救出された際に撮影された,ガリガリに痩せ細った捕虜の写真も残されています.
 洪将軍に届いた書類上はそうなっていたかもしれませんが,現実はそうはなっていなかったわけで,洪本人に責任があるかどうかは寡聞にして存じませんが,「ジュネーブ条約を忠実に守った」とは言えそうにありません.

 もし,生存者や報道記者が一致団結して戦後も一貫して嘘をつき続けていると主張したいのでしたら,その確たる証拠をぜひどうぞ.


 【珍説】
 マニラ湾で捕虜を移送中の鴨島丸が撃沈され,1300人の内200人が死亡,警乗の日本兵も5人が失われた.
 マニラ戦犯法廷では,この船内の設備,ベッドの有無,便所,換気などを細々(こまごま)と尋問している.
 それらは通常,日本兵を輸送する一般的条件であったが,連合軍の基準では虐待であった.
 自分が攻撃に成功していながら,敗者に安全対策の不備を問うのである.
 全て勝者の論理は,このように得手勝手なものである.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.141)

 【事実】
 レスター・デニーの回想録によれば,真っ暗な船倉に,窒息しそうなほど多くの捕虜が詰め込まれたそうですが,日本兵の回想記にはそこまで酷い状態にあったという記述は,寡聞にして見つけることができません.
 また,輸送船を攻撃することと,捕虜を劣悪な条件下で運搬することとは別問題です.


 【質問】
 フィリピン島の日本軍の軍規はどうだったか?

 【回答】
 低下していた.

 作家,今日出海は次のように言う.

 バタアンでは苦戦の連続で,1個大隊が全滅の憂き目に遭っているのに,マニラにある駐屯部隊は勝利によっていた.
 内地からは慰安婦と称する売笑婦が送られてくるし,大阪風の大カフェができ,女給群がはるばる海を渡って到着する.待合が進出して,マニラに絃歌の音が響く有り様で,夜のマニラはネオンの灯る歓楽境であった.
 ある公式の宴会で,マニラ市長が私に,映画の配給はあり難いが,女の配給は考え物ではないかと顰蹙したことがある.女尊男卑の国で,帯代裸の醜業婦が下駄履きで御用船から降り,舗装道路を乱れた列を作って慰安所に配給される光景は,日本人の私が見ていて恥ずかしい思いがしたものである.

 英人や米人の残して行ったウィスキーが飲み切れぬほど酒倉にあった.ビールのサンゲル会社とBBB会社の2つが軍管理工場となって,盛んに製造する.夜更けの町は,軍服の酔漢が喚いて通る奇怪な町となったのは無理はない.

 〔略〕

 また果て知らぬ酒池肉林の痴呆生活をも〔著者とその仲間は〕唾棄していた.遠く故国を離れてたまたま友と痛飲するのも愉快なものである.
 しかし相当の位置にある軍人は,かつて持ったこともない機密費を当てがわれ,かつて味わったこともない生活に恒心を失い,ただれた日々を送っている者が多かった.

 〔略〕

 昭和17年正月2日マニラに入城しているのに4月を過ぎてもバタアン戦線は半島の付け根のところに釘付けされたまま,一歩も踏み入ることはできなかった.増援軍は未教育の補充兵程度で,味方はいっかな積極的な攻撃に移ることをしなかった.参謀長は更迭されても,局面は一向転換される気配もない.

 マニラはこの間に歓楽街と化したが,いまだ一方に敵が頑強に抵抗しているので,どこかに緊張した戦時の気分が漂っていた.恐ろしい弛緩が来たのは比島が平定してからだった.武備を怠り,日夜飲めや歌えの騒ぎが2年余り続いて,米軍の反撃を受けた時は全く抵抗力を失い,皇軍と誇っていた各部隊は文字通り算を乱して山岳地帯に逃げ込んだのも宣なるかなであった」

(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.114-117)

 前線においても,掠奪は多かった模様.

 マリベレスの海岸沿いにあった病院に入院していた,米比軍第42師団のアルベロ・アベレダ大尉(比人)は,本間雅晴中将に関するマニラ法廷で,当時の様子を次のように証言している.
「陥落した日の夕方のことでした.日本兵が来たのは,午後6時から7時の間でした.
 動かないように命令して,日本兵は私達の持ち物を調べました.
 万年筆や電灯,それに時計を私は盗られました」

 また,米比軍第2師団の中佐をしていたジョン・ボール氏は,4月9日に彼と同僚に起きたことを,次のように述べている.
「朝,台所で何か食べようとして出向くと,既にそこでは数人の日本兵が食事をしていた.
 彼らは銃と日本刀〔原文ママ〕を持っていた.
 私を見るや,シャツに差していた万年筆をひったくった.
 私は引き下がって記章を指した.私は中佐だったのだ.
 にも関わらず,私は頬をひっぱたかれて,胃をめがけて殴られもした.何も抵抗できなかった.
 数日間,日本軍から命令が出るまで,私達は待った.
 その間,日本兵は私達から時計・万年筆・カメラなどを奪った」

 私の会った元兵士達は,
「日本兵達が最も興味を持ったものは腕時計だった」
と言う.日本兵が軍服の袖を捲くったときに,両腕に数個の時計が嵌められているのを,何人もが見ている.
 高価な物を持っていると日本兵に盗られるからと,陥落後,集められていたマリベレスのある場所に指輪を埋めた元兵士もいる.
 〔略〕
 日本兵達が高価な物を奪うのは,捕虜だけに限らなかった.
 それは市民にも及んだ.
 アルトロ・カミロさん(当時11歳・男性)は,戦争時も今もカブカーベンに住んでいる.
 バタアン半島が陥落した後,
「全市民に告ぐ.
 山に隠れている者達は出て来るように.
 市民には危害を加えない」
という主旨のビラを読んで,山の麓から母親と一緒に村の中心部に出てきた.
「数人の日本兵に呼びとめられたので,私と母は何だろうと寄っていきました.
 母が嵌めている指輪に,一人の日本兵が目を止めたのです.
 〔略〕
 日本兵は母の指から抜き取ろうとしました.
 母は手を引っ込めましたが,日本兵は手を放しません.
 しかし指輪はなかなか抜けない.小太りになった母の指にしっかりと食い込んでいたからです.
 もう一人の日本兵がそれを見ていて,小刀を出しました.
 私は次に起こることを想像して,不安で目を閉じました.
 そのとき,ちょうど上の位の兵士が来て止めてくれました.
 その後、私は日本兵達に一段と注意深くなりました」

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.26-28)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.

 ちなみに,泉桂吉〔元第16師団兵士〕によれば,

 比島で働いている邦人に聞くと,滞在も3年から5年が限度で,その間一度内地に帰り,冬を過ごさないと,南方惚けになって,考える事が面倒くさくなると告白していた.
 だから,本も漫画ばかり漁るようになるという.

(「比島への道」,新風舎,2003/9/6, p.42)

 したがって,そうした風土も一因となっていたのだろう.


 【珍説】
 捕虜であれ民間人であれ,戦闘以外で殺傷すれば軍事刑法に触れる.腕時計や万年筆を奪うなど,盗賊まがいのことをやり,発覚すれば,たちまち没収されて重営倉(監獄)である.
 日本軍には殆ど犯罪を犯す者はいなかった.

 軍隊の規律と志気は比例する.
 最も高まるのは開戦の時.しかも勝利し続ける時である.
 我が軍は目覚しい戦歴を重ねて進軍を続けており,その上,東洋新秩序建設の大使命に燃えて,志気はいやがうえにも沸き立っていた.
 誰が人の身につけているものを奪うなどと,みっともないことを考えるものか.

 鷹沢氏の文の中にも,フィリピン人が「日本はアメリカ軍がいたから攻めたので,我々は関係ない」と言わせている.
 それなのに,無闇に捕虜や民間人を殺傷したり拷問したりしたとある.
 理由なく殴打したり拘引したりして秩序が保てるのか.兵士はいくら武器を持っていても,周囲は皆フィリピン人なのだ.
 住民に受け入れられ,協力を得なければ,大東亜新秩序建設は進まない.その条理は明らかなことだ.子供にも分かる道理が,反戦派の人には分からない.実に軽薄で低劣な謗りを自分らの先人に向けて,全く厚顔無知なのだ.
 その根性の深奥には,我欲と猜疑心の打算が見え隠れする.自分の尺度で人をはかるのが理だが,戦前の人は今より遥かに純真無垢だった.戦後の日本人を堕落させる愚民化政策が奏効して,日本全般に利己心と放縦,下司っぽいさもしい心に汚染されているのだ.
 それでも,人は信頼され期待されれば,それに応えようと努力する.寝食を忘れ,遂には生死を超越してでもそれを果たそうとする.
 昭和17年(1942年)はまさに日本全土全国民にとってそうした時期だったのである.
 倒れた捕虜を見殺しにして歩くような非人道事件が起こりようがないではないか.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.177-178)

 【事実】
 フィリピンの日本軍の軍規がゆるんでいたことは,上述の通りです.
 軍規が弛めば不正行為が横行するのは,日本軍でも各戦線で見られた現象です.

 皆が皆,「大東亜新秩序建設に燃えていた」「純真無垢で犯罪など起こさない」人々だったわけではありませんし.そんな御高潔な集団なら,フケめしや行水めしといった陰湿な話があるのは何故なんでしょうね(笑).


 【珍説】
 炊事を禁じたのに飯を炊いた咎で人を殺せるか.そんな命令が出せるか.そんな行為があったら軍法会議だ.
 最も忌むべき日本軍に似つかわしくない事柄は元来,暗黒社会においてのみ通用する説ではあるまいか.
 これを盲信する者は,祖先の誇り持たず国家を愛する心を自ら捨てる,不幸な愚かな人々である.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.181)

 【事実】
 フィリピンの日本軍の軍規がゆるんでいたことは,上述の通りです.

 また,当時の陸軍刑法は捕虜にも適用されることになっており,抗命は制裁の対象となります.

 ハンプトン・サイズ『ゴースト・ソルジャーズ』によれば,最初の内,「見事な礼儀正しさと自制心を備えていた」日本兵も,「遅々として進まない捕虜の歩みに,怒りを覚えつつあった」わけで,そんな状況下で命令に逆らわれれば,逆上した日本兵が何をするかは自明でしょう.


 【質問】
 本間司令官は「バタアン死の行進」の有り様を知っていたか?

 【回答】
 目撃していたが,問題視しなかった可能性が高い.

「バタアンの米比軍が全面降伏をしたときも,われわれ報道部では炊き出しをしたくらいで,これも軍司令部がマニラ湾に面した漁村のオラニにあった自分で,報道部はそのすぐ傍らにあったのだから,司令官もこの有り様を眺めていたはずである.
 後にこれらの捕虜につらい行進をさせたことが,『死の行進』という非人道的問題となり,本間将軍の命取りになった.
 後に私も軍事法廷で陳弁したが,将軍自身『死の行進』の事実を全く知らなかったと告白されたほどで,これは軍司令官の職責にあったことの不幸としか思えない」

(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.95)

 彼らは武器を投げ出し,ボロボロの衣服を纏ってジャングル地帯から出てきた時は,文字通り刀折れ矢尽きて手を挙げた姿だった.大部分が20代の若者だった.げっそり痩せて,マラリアに犯され,ジャングル潰瘍に血膿を流し,大半は栄養失調に歩行も不自由だった.
 この哀れな姿を見て,部隊では炊き出しやら,看護に戦闘のときより忙しく働いたものである.

(同 p.140)

 捕虜一時収容所を本間は視察した,とする情報もある.
(ただし,マニラ法廷での首実検がいい加減なものだった事は後述)

 米比軍第2師団ジョン・ボール大佐がマニラ法廷で述べた,ルバオでの出来事は次のような内容である.

 ルバオに午後6時頃着いた.連れて行かれたのは金属製の倉庫だった.
 その夜は握り飯が支給された.
 7時になると倉庫は混み始めて,横になることができないほど捕虜達が入った.
 誰も眠れなかった.夜中には呻き声や誰かを呪った言葉などが発せられた.立とうとすれば,他人に寄りかかって踏ん張らなくては立つ場所さえ作れなかった.
 夜が開けると,日本軍監視兵達がドアを開けてくれた.
 ボール大佐達は外に出る.大差は,日差しを避けるために頭に被るタオルを忘れたので取りに戻ると,おおよそ200人から300人ほどの捕虜達が床に横たわったままだった.中には息絶えた人もいた.

 倉庫から200m離れた場所に住んでいた,農民のパリシラーノ・プンサランさん(当時45歳・比人)は,死亡した捕虜達を葬った.
 法廷では次のように受け答えている.
検察官「あなたは,倉庫で亡くなったアメリカ人やフィリピン人を葬る手伝いをしましたか?」
プンサラン「はい」
検察官「アメリカ人とフィリピン人は何人いましたか?」
プンサラン「倉庫の中に1人,倉庫の後ろに20人ほどのアメリカ人がいました」
検察官「そのアメリカ人達をどこで葬りましたか?」
プンサラン「雑貨店の裏の道です」
検察官「収容所のフィリピン人捕虜の死体処理に手を貸しましたか?」
プンサラン「はい」
検察官「死体をどうしましたか?」
プンサラン「死体は焼きました」
検察官「何人の死体を焼いたか覚えていますか?」
プンサラン「280人から300人でした」

〔略〕

 日本軍第14軍本間雅晴中将は,派手な車でルバオの倉庫を視察に訪れている.
 後に新聞で本間中将の写真を見て,
「視察に来た大柄な日本軍人が中将だったと分かった」
とのマニラ法廷での証言がある.

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.89-90)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.

 おそらく,目撃はしたが,今井大佐と同じような印象しか持たなかったのではないかと考えられる.

 また,角田房子は「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」(中央公論社,1972/9/9)において,当時,本間将軍は,天皇が第1次バタアン戦の失敗について杉山総参謀長に下問したことを非常に気にしながら,第2次バタアン戦準備に没入しており,捕虜に気をかける心理的ゆとりがなかったのではないかと推測している.

 ハンプトン・サイズは,本間の心理状態について,次のように述べている.

 本間雅晴将軍はコレヒドール島攻略計画に没頭し,バランガの本部に毎日届いていた悲惨な報告のことは,すっかり頭にない様子だった.
 確かに本間将軍は,東京からのプレッシャーの下で指揮に当たっていた.彼の出世と軍人としての名誉は,危機に瀕していた.帝国陸軍参謀総長の杉山元将軍が,本間を司令官から下ろすと何度も脅していたのだ.本間は無能で決断力に欠け,敵に『優し過ぎる』というのが,その理由だった.
 当初の計画では2月までにフィリピンを占領するはずだったが,戦闘は4月まで縺れ込み,コレヒドール島もまだ持ち堪えている.
 最初から計画に無理があったという事実には目をつぶり,杉山は言い訳無用と,全ての責任を本間に押しつけた.

『ゴースト・ソルジャーズ』,光文社,'03,P.114-116)

 なお,本間将軍以外の幕僚の視察も行われている.
 「行進」の指揮隊長,平野庫太郎大佐(絞首刑)の軍事裁判での供述書から.

 捕虜の集合場所は,河根少将の本部の前であった.
 自分は集合場所へ車を走らせ,様子を見たが,そのときの捕虜の数は500人ぐらいだったと思う.
 彼らは木の下に横になったり座ったりしていたが,負傷兵には気がつかなかった.

 行進が始まってから,その状態を視察に出かけたが,休息場所は大きな木造の納屋で,針金の塀で囲まれていた.
 テーブルと椅子が幾つかあったが,台所も便所もなかったし,水道の蛇口もなかった.
 しかし,近くに何軒かの家があって,井戸もあるのではないかと思われた.
 自分の考えでは,当時のあの状況としては休息所として十分だと思ったし,もし狭かったら近くの家も使えると判断した.

 行進が始まってから三日目頃,その状態を視察したが,捕虜達は200人から300人ずつ1グループになって行進した.
 日本側の監視兵は,短い竹の棒と銃剣を持っていた.
 行列は足早に歩いていたが,暑いので自分はもう少しゆっくり歩くよう伝えた.
 捕虜の中には毛布や荷物を持っている者もいたが,だいたい良い状態に見えた.
 第2のグループが行進して来た時は,人数にして千人ぐらいだったと記憶しているが,4,5人が落伍者に見えた.
 病人とは思えず,ただ疲れているように見うけられた.

 視察の途中,河根少将に会った.
 少将は,行進は大体上手くいっていて秩序正しいと言ってくれた.
 自分が,後れている者が目についたと言うと,少将は,行進をもう少しゆっくりさせるとよいと言い,休息も十分に取らせるようにと指示した.

 2日後,監視兵が竹の棒で捕虜を打ったと報告があり,自分は厳しく戒めたが,自分の覚えている限り,バランガからオドンネル収容所へは7日から10日間かかって到着したと思う.
 捕虜は6万くらいだったはずだ.
 この移動の責任者は自分であった.

 出発当初,病気だったり傷を負ったりしていた捕虜が,どこへ送られたかは聞いていない.
 自分の任務はあくまで指示通り捕虜を到着地に移動させることであり,任務は十分に果たされたと思っている.
 確かに様々な点で不備な点はあったであろう.行進の途中,食糧も十分でなかったし,また便所の設備もなかった.
 しかし,捕虜の移動は出きるだけ迅速に行わなければならず,十分な設備を整えるほどの時間が与えられていなかった.

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.79-80)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.

 仮にこの供述書に偽りがないとすると,変なところでポジティヴ・シンキングしてしまったのではないかと思える.例えば井戸など希望的観測に過ぎず,そのようなものがなかった場合を想定していない.

 さらに,住民や兵士の証言は,平野大佐の供述書とは大きく食い違う.

 米比軍第31師団所属,メレンシオ・ガルシア(当時25歳,比人)の証言.

 殆どの捕虜達は,栄養失調やマラリアなどの病気だった.「早く歩け」と命令されても,思うように歩けなかった.足は縺れがちになる.
 すると日本兵達はすぐに,銃の柄で背中を叩いた.足が遅い捕虜達に,トラックの荷台から長い棒を振り回した日本軍監視兵もいた.
 ガルシアさんが歩いているとき,前屈みになって倒れそうになった捕虜に,そばの同僚が手を貸した.
 それでも歩けなくなるフィリピン人捕虜がいた.その一人はガルシアさんの斜め前を歩いていた.
 日本兵は両手を持ってその捕虜を立たせた.
 ガルシアさんは「親切な日本兵もいるのだ」と思った.
 しかし次の瞬間,日本兵は立たせた捕虜の顔面を殴りつけた.
 捕虜は倒れたが,起き上がった.それからもその捕虜は,思うように足が運べなかった.
 今度は日本兵は日本刀〔原文ママ〕で足を切りつけた.
 傷を負ったフィリピン兵は,もう歩けない.同僚のフィリピン人捕虜が助けた.両足を抱えているフィリピン人捕虜2人も遅くなった.
 再び日本兵は彼らを従の柄で叩いた.
 傷を負わされた捕虜は,足が動かせなくなった.隣を歩く同僚達も,傷ついた彼を抱えるほどの力はない.歩みが遅くなれば,今度は自分達が切りつけられると知っている.
 とうとう歩けなくなった捕虜は,そのまま置き去りにされた.
 日本兵は,今度は彼の左足を日本刀〔同〕で刺した.

(同,p.80-81)

 米比軍第1師団,ペドロ・ゴンザレス(比人)の証言.

沿道の田圃にある掘抜き井戸をめがけて歩き出した捕虜が撃たれたのを目撃した.
 仲間が撃たれるのを見て,
「自分はどんなことがあっても歩いていかなければ……」
と,立ち止まらずに歩いたと言う.

(同, p.81)

 マニラ法廷におけるジェームス・バルダサレ米軍曹長(米人)の証言.

「オラーニに近かった.道路の左側にある大きな家に向かって,マッコーネル大佐が歩いていく.
『大佐,どこへ行かれるのですか?』
と,ある兵士が聞いた.大佐は
『一か八か,あそこへ行ってみる.私はもう歩けない』
と言った.
『もし大佐があの家へ行かれれば,銃殺されますよ』
との忠告にも関わらず,
『でも行ってみる』
と大佐は歩き出し,その家に着く前に日本軍の警備兵に撃たれた」

(同,p.82)

 同法廷におけるホーマー・マーティン大尉(米人)の証言.

〔オラーニに着くと〕入れられたのは,900m四方が有刺鉄線で囲まれたところだった.
 便所はなく,両手を広げて用を足す溝さえなかった.
 体を横にできないほど大勢の捕虜達がいたので,座ったまま寝た.
〔略〕

「オラーニに着いたときだった.アメリカ人3名とフィリピン人3名の計6名が,1軒の古い家の地下牢に入れられた.全員が栄養失調と赤痢で歩けなくなったのだ.
 一人のアメリカ人が地下牢から這い上がろうとした.
 すると,日本兵がシャベルでその兵の頭を叩いて,地下牢に落とした.
 その後,日本兵は6人を生きたまま生めた」

(同,p.82-83)

 幹線道路から50mしか離れていないところに住居があった農民,ディブルシオ・パレデス(当時75歳〔原文ママ〕,比人)の証言.

「ほぼ15人のアメリカ人捕虜達が暴行を受けた.その内6人が死んだようだ.
 死亡した捕虜達は井戸に捨てられた.
 その後あまりに酷い悪臭がするし,蝿がたかるので,農民達と枯葉をかけて彼らを焼いた」

(同,p.83)


 【質問】
 バタアン死の行進を巡り,日本陸軍によって本間将軍が処分された理由は?

 【回答】
 本間が受けたものは「礼遇停止」で,昭和20年10月21日の処分.礼遇停止とは,1ヶ月間,軍服を着られないだけ,というものである.

 これは,戦争裁判を有利にしようとするための,日本の稚拙な工作だった.

 敗戦直後に首相となった東久邇宮は,「一皇族の戦争日記」の9月13日の項に,次のように書いている.
「ドイツにおいては降伏後,国際裁判が開かれて,戦争関係者が戦争犯罪人として裁判に付せられた.日本においても終戦後,ある時期に国際裁判が開かれるだろうと考えられた.
 そこで私は先に近衛公,木戸内大臣,重光外務大臣と相談して,連合国に先立ち,日本の戦争関係者を日本の法廷で日本人が裁判したほうがよいと判断して,重光外務大臣をして総司令部に話をしたところ,拒否された」
 連合国の法廷で,他国の法規,他国のモラルによって裁かれる同胞を,まず日本のそれによって裁いてやりたいという温情が,この申し出の底にあった――と東久邇は語る.

 本間の「礼遇停止」も,これと一連の感情から生まれたものだった.
 当時の兵務局長であり,この処分を獄中の本間に伝えた那須義雄(少将)は,
「あれは全く本間さんへの好意でやったことであり,また,『バタアン死の行進』が天皇へまで累を及ぼすのではないかということを恐れた結果でした」
と語る.

 敗戦直後,日本は若松陸軍次官を委員長に戦争責任調査委員会を設け,フィリピン班,マレー班などに分かれて調査に着手した.
 米軍側からの情報でまず委員会が驚いたのは,バタアン死の行進というものを彼らが非常に問題視し,この責任をあくまでも追及するといきまいていることである.いったい「バタアン死の行進」とは何なのか,当時,日本側では誰一人これを知らなかった.
 しかも,当時の軍司令官・本間は拘禁中であり,他の責任者の多くもなお外地に散り散りの実情では,詳しい調査もできず,また,そんな時間的余裕もなかった.

 バタアンの俘虜移動についての抗議がなされたのは,事件発生の約2年後であった.1944年2月5日付,日本国駐在スイス特命全権大使セイ・ゴルシュから重光葵外相宛ての抗議文の中に初めて,バタアンという文字が現れた.
 しかし,これも香港など他地域の多くの事件と並列されているに過ぎず,バタアン死の行進という呼び名も使われていない.
 2月8日付,外務次官から情報局長官宛てに,
「米国人待遇振りに関する米国政府抗議に対する回答に関する件」
が出されているが,バタアンについては,
「捕虜になったときの米将兵の栄養状態が悪かったため」
などの理由を挙げて,遺憾の意を表していない.
 その後の日本側は,おそらく誰一人,バタアンの捕虜についての抗議を覚えていなかったであろう.

 下村陸相以下の人々が相談に相談を重ねた結果,法務局と兵務局の合意の上で,
「日本側で本間を軽く処罰しよう」
と決定した.これによって米軍側に対し,日本はこの通り責任を追及し,公平に裁いているから,こちらに任せてくれと申し出れば,「責任者は本間」ということで天皇とは無関係で済むだろう.また本間も,再び連合国側の裁判にかけられずに済むであろう―という腹だった.

 将官を礼遇停止処分にするには,天皇の裁可がなければならない.
「陛下がなかなかお許しにならなかったと,陸相の下村さんから聞きました」と那須は語った.「陛下は,
『将官から一兵まで皆,国のために尽くしたのだから,それを罰することはできぬ』
とおっしゃったそうです.
 それを,
『この他に本間を救う道はございませんから』
とお願いして,やっとご裁可を頂いたということのようです」

 バタアン攻略戦当時の参謀・和田盛哉は,同じく参謀の中島義雄と共に,そのための査問状を書かされたが,彼は
「日本側で処罰など,全く無意味だと思っていました」と語る.「恥の上塗りで,逆効果ではないかと恐れていたことが,マニラの法廷で実現し,本間さんのために本当に残念でした.
 国際関係に専門的な知識のある弁護士などに相談すべきであったので,本間さんへの好意から出たとはいえ,下村陸相以下の考えが甘すぎました」
 処分決定の日,和田・中島は「聞くに耐えない」として,会議室から退席している.

 はたして和田らの憂慮した通りになった.
 マッカーサーは,
「本間将軍はマニラ軍事委員会で裁判され,それまで日本の大衆に隠されていた『バタアン死の行進』の物語が日本中に衝撃を与えた.
 この話を聞かされた天皇は,本間を免官し,勲章を没収した」
と書き,マニラの軍事裁判では,裁判長は,日本の天皇が被告を処罰していることを,本間の明白な有罪の裏付けとして取り上げたのである.

*   *   *

 本間の銃殺は昭和21年4月3日,ロス・バニオス刑場にて行われた.
 死刑執行官の「用意!」の声に続いて,黒い頭巾の中から,
「さあ来い!」
という気迫の篭った本間の声を聞いた,と通訳・上脇辰則は語っている.

(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,1972/9/9, P.247-266,抜粋要約)

 しかし,教誨僧として本間の最期に立ち合った森田正覚によれば,本間の最期の様子はかなり異なる.
 森田によれば,最期は次のような様子だったとしている.

 本間は,森田の後に続いて経文を唱えた後,こう言った.
「森田さん,天皇陛下の万歳を三唱いたします」
「どうぞ」と,森田は答えた.
「天皇陛下万歳――大日本国万歳……大」
 次の「大」と言いかけたとき,司令官が森田の腕をぐっととらえて横へ引いた.
 たじたじと一歩横にのいたとき,ダダーンと耳を劈(つんざ)く銃声がした.銃弾は森田の目の前を飛んだ.一瞬,ガーンと森田は耳鳴りがした.
 本間に目を注ぐと,彼の唇と顔の筋肉は激しく痙攣して歪んでいた.
 やがて,がっくりうなだれた.と思うと,再び首を持ち上げて大きく息を吸って,またうなだれた.
 1秒,2秒,またもや徐々に首をもたげたが,今度は緩く息を吸い込み,苦悩の色を大きく表して長くうなだれた.彼は絶命した.

(森田正覚「ロスバニオス刑場の流星群」,芙蓉書房,
1981/9/25, p.234-235,抜粋要約)


 【質問】
 本間将軍の訴因の一つとなったホセ・アバド・サントス最高裁判所長官(元蔵相兼農相)殺害事件の真犯人は誰か?

 【回答】
 真相は藪の中.辻政信説も,裏付けはない.
 類似ケース,ロハス処刑命令の経緯から類推すれば,第14軍の参謀の中の誰かである可能性が,最も高そうだが…….

 川口が1955年1月の「週刊読売」に発表した手記によれば,事件経緯は以下の通り.
 1942/4/10,セブ島攻略に当たっていた川口支隊司令官・川口清健少将は,「フィリピンの大官を捕らえた」という部下の報告を受けた.
 サントスは,マッカーサーやケソン大統領からビサヤ地方(フィリピン中部の島々の総称)統治を依頼され,ネグロス島に残留.
 4/10は,用事のためセブ島に渡り,ネグロス島へ帰る船を待つ波止場で,川口支隊の岡部隊に捕らえられた.
 サントスを取り調べた川口は,軍司令官宛てに,
「サントスはシカゴ大学卒業の政治家で,人格見識共に優れた人物である.日本軍の軍政に参画せしめたならば,効果は十二分に発揮されるであろう」
との要旨の電報を打った.
 だが,その答は「サントス処刑命令」であった.

 驚いた川口は重ねて「助命,軍政に採用」の意見を送ったが,その返事より早く「ミンダナオ島へ進撃」の命令を受けた.
 川口はサントスを連れて乗船.
 4/29,ミンダナオ島西岸バランに,日本軍の上陸用舟艇でサントスも,米比軍の激しい砲撃を浴びながら上陸.ケソン大統領の信望厚いロハスが准将としてミンダナオ島のフィリピン軍を指揮している――という情報を得ていた川口は,和議を勧める事を承知させていた.
 しかしミンダナオ島に上陸した川口は,ここでまた「サントス処刑」を促す厳しい軍命令を受け取った.
 もうこれ以上,川口の一存で執行延期する事はできず,5・1,彼は自分でサントスに,その日執行される銃殺を宣告.同日処刑.

 サントス処刑命令はどこから出たか?
 同手記によれば,川口が5/10,マニラで軍司令官に向かい,
「なぜサントス処刑命令を出したか?」
と尋ねると,
「そんなはずはない.私は知らんぞ」
と本間は答えたと言う.
 その本間の陳述書(1946年,マニラの獄中にて)において,
「昭和17年4月中旬,バタアン半島,バランガにおいて,マニラより来れる軍政部長兼参謀副長が,予に,サントス氏がコレヒドールから脱出し,パナイ島(あるいはセブ島だったかもしれない)に至ったと聞いたときに,彼の生命に危害を加えないよう命令した」
「サントス氏が死んだと聞いたとき,その錯誤の原因を追求しようとしたが,そのとき既に軍政部長は転任帰国していたため,不明のままに終わった」
「後にロハス氏がミンダナオ島に到着したと知ったときは,この錯誤を繰り返さないよう,参謀長兼軍政部長に特に注意した.ロハス氏が存命であるのは,予がサントス氏の死を望まなかった明白な証左である」
という要旨(原文は本間自ら英文で執筆)のことを書いている.

 ロハスはサントスより2ヶ月ほど遅く,カガヤン北方の収容所で,ミンダナオ守備隊司令官・生田虎雄少将の部下に発見された.
 このとき,生田も「ロハス処刑」の軍命令を受けたが,この命令の真偽を疑った彼は,高級副官・神保信彦中佐に命じ,ロハスを収容所から連れ出し,ダバオ駐屯部隊に収容・保護した.
 その後も生田は再三再四「ロハス処刑」の命令を受けたが,神保の強力で彼を守り通し,のち神保がマニラで参謀長・和知鷹二に会い,ロハスは和知の保護を受けて家族の元へ帰っている.

 川口は先述の手記の中で,処刑命令を出させたのは大本営参謀・辻政信であったと断定し,当時,国会議員であった辻は,同じ誌上で,
「このような中傷は政治的陰謀である」
と反論している.
 川口と辻は,ガダルカナルの戦闘を巡り,戦後激しくやりあった仲であり,川口の
「サントス処刑命令は,辻が林(参謀副長)を唆して出させた」
という説には裏づけがない.

 規則通りに解釈すれば,それが軍命令である限り,サントスやロハスの処刑命令を本間や和知が知らなかったはずはない.作戦中,作戦部隊に対して命令を出しえるのは,軍司令官だけである.軍司令官の意図を参謀長が命令書として書き,軍司令官の許可を得て発令する建前である.時には参謀が起案し,参謀長が認可した後,軍司令官の許可を得て発令することもあるが,どちらにしても軍司令官の許可なしに発令することはできない.
 しかしこれはあくまでも規則であって,実際には,軍司令官である本間の知らない軍命令が出された例が幾つかある.
 また,当時の参謀長,和知は,角田の取材に対し,
「軍参謀長の依命通牒で『軍命令』は出たものだ」
と語っている.
 これによっても軍参謀長の知らない軍命令が出されるはずはないのだが,それさえ実際には存在している.

 生田少将の見たロハス処刑命令は,軍参謀長・和知の名前で出されていた.
 しかし生田は,和知が軍状奏上のため帰国中で,フィリピンにいないことを知っていたので,命令に疑問を抱いた.
 後に和知は,自分の不在中,参謀達数人がこの命令を出したことを突き止めたが,彼らを処罰していない.
 これについて和知は,
「部下のやった事は,参謀長である私が責任をとる他ない」
と説明している.
 また,参謀達が,大本営の占領地への威圧主義を知り,とかくその方針に添わない本間が,軟弱のそしりを受けていると知っていたことも,反日的人物と言われるロハス処刑を決意する一因になっていたらしい.

 さらに,マニラの軍司令部とバタアンの戦闘司令所とは遠く離れ,参謀間の感情の縺れは常態となっていて,相互連絡の不備は,一部に独断を生む結果を生じていた.

(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,
中央公論社,1972/9/9, P.210-214,抜粋要約)


 【質問】
 マルコス政権時代に,「バタアン死の行進」が誇張されてフィリピン国民に教えられたのは何故か?

 【回答】
 ルポライター鷹沢のり子は,マルコスの自己宣伝のため,と推測している.
 以下引用.

 〔バタアン死の行進の記念碑の〕説明文が多分に誇張されているのは,「死の行進」を経験したというマルコス大統領が,
「残虐非道な『死の行進』から生き残った逞しい男性」
という印象をフィリピン国民に宣伝したかったからではないかと思われる.
 この説明文も,沿道の「死の行進」の標識も,マルコスが大統領になってから作られている.

(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.5)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.


 【質問】
 あの『ザ・レイプ・オブ・南京』のアイリス・チャンが,バタアン死の行進に関心を持っていたというのは本当か?

 【回答】
 在米ジャーナリスト,高濱賛によれば,チャンは次回作のテーマにそれを選んでいたのだという.
 それによれば,どうやら彼女は,日本軍の残虐行為をクローズアップためにそれを選んだ模様.
 以下引用.

 『ザ・レイプ・オブ・南京』が米言論界に大きな衝撃を与えたことに気をよくした彼女〔アイリス・チャン〕は,03年,アメリカに移住した中国人の迫害された歴史を物語風に綴る『ザ・チャイニーズ・イン・アメリカ』を著している.
 〔略〕
 しかし手抜き≠ェあったためか,『タイム』(03年8月11日号,アジア版)に
「歴史的証拠の裏付けに欠けた,軽薄な中華思想とロマン主義に陥った駄作」
と酷評されるなど,評判は芳しくなかった.

 そこで彼女が次回作に選んだのが,「バターン死の行進」であった.
 南京の生存者への取材や,日本企業による強制労働賠償請求運動に関わっていく過程で知り合った元米兵達の存在に着目したのだ.

 「旧日本軍の蛮行」という意味では南京事件と共通項があるとはいえ,なぜチャンは中国とは全く関係のない「バターン死の行進」と題材に選んだのか――.

 中国系強制労働被害者が起こしていた日本企業への賠償請求は,米連邦裁でことごとく門前払いされ,『チャイニーズ・イン・アメリカ』も全く評価されなかった.
 中国系に対するアメリカ社会の厚い壁を,チャンや中国系反日団体は知ることになる.
 そこで反日戦略の方針を転換させ,まずは米国人元兵士に対する対日賠償を実現させようと企てたのだ.
 その意味で「バターン死の行進」は,アメリカ人に向けて旧日本軍の残虐さを立証する格好のテーマであった.

 「バターン死の行進」がいかに米一般大衆やメディアに受け入れられやすいかの一例がある.

 カンザス州トペカでは,元米軍看護婦としてバターン行進を体験したと語り,マスコミに引っ張りだこだった84歳の女性がいた.
 ところが04年夏,彼女の言っていることが全て捏造だったことが判明し,彼女のことを大々的に報じた地元紙の記者は解雇,編集長は辞任を余儀なくされた.
 さらに,この女性の自宅からは,死後4ヵ月が経過した女性のバラバラ死体が発見され(後に彼女の娘と判明),「英雄」は一夜にして「誇大妄想の殺人者」になってしまった.

高濱賛 in 『SAPIO』,2005/5/11号,p.20-21

 このように,バタアン死の行進は今後もセンセーショナリズムに利用されることが予想されるため,その取り扱いには細心の注意を払われたし.


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