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 【link】

「戦争経済」◆軍用自動車あれこれ 戦時規格簡素型トラック生産計画

『国産トラックの歴史』(中沖満著,グランプリ出版,2005.10)

 先日,むーさんに教えて頂いた,戦前のトラック解説が載っている
 これが驚く程細かい記述が多数在り,例えば先日の日記で紹介した日産80型トラックについても,実は米グラハムペイジ社のデザインであったり,トップヘビーのセミキャブオーバーの為に悪路の走破性が悪かったり,前輪のトレッドが広く,狭い中国の城壁内や城門を通過出来なかったりした事など,興味深いエピソードも満載でした.

 写真や図版も多く,この数ページだけでも買う価値がありました,
 貴重な情報を有難うございます>むーさん

 いや,本当に日本人が日本で作られた物に対してもっと知識欲を持って,そして自信を持って接してもらいたいと思います.
 飛行機や艦船に比べて,あまりにも低い評価を,日本人自身が出しているのが悲しむべき事ですね.

 こういった書籍を読むと,いかに当時の日本が新機軸を積極的に導入して,各国と伍して車輌を開発しようとしていたかが良く判り,ひいては戦後の自動車産業の隆盛も良く判ります.
 早く日本の軍用車輌の再評価が始まらないかと願っています.

 この戦前軍用トラックの解説に,四輪乗用車やオートバイ&サイドカーを加えた,戦前の日本軍ソフトスキンの本がで無いものか…
 イカ◯スさん,やってみませんか?

――――――よしぞうmaro' in mixi,2007年11月16日01:37 & 11月18日 11:27
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 日本軍の機械化師団は,どのような輸送車輌を使っていたのでしょうか?
 国産車と外車がごっちゃになっていたりしたのですか?

 【回答】
 主に馬匹(ry.
……という冗談はさておき,国産車(豊田,日産,いすゞ(スミダ,ちよだ))と,外国車(組立シボレーと組立フォードが主)の両方が使われています.
 とりあえず,数的には初期は外国車が多く,後に国産車が多くなってきますが,外国車を宛がわれた兵士は,それがどんなに古いものでも喜んで受け取り,国産車が宛がわれた兵士は,水杯を交わしたくらいだったりします.
 ちなみに,それらの車輌の中で一番嫌われたのは,日産80型トラックでした.

眠い人◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2006/11/04(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本の装甲兵車の種類は?

 【回答】
試製装軌自動貨車TE

 日本の装甲兵車類の原型車とも言われる.

九八式装軌自動貨車

 九五式軽戦車の履帯を流用.
 試作車だが,少数が量産にうつされ,部隊配備されている.

一式装甲兵車

 ホキ.
 制式APC.
 全装軌式.
 少数はフィリピンで実戦配備.

一式装軌自動貨車

 ホキの姉妹車.
 後部荷台は非装甲.
 フィリピンで少数が実戦配備.

一式半装軌装甲兵車

 ホハ.
 ハーフトラック式のAPC.
 フィリピンで実戦投入したとの説もある.

九八式装甲運搬車

 ソダ.
 九七式軽装甲車の試作車ベースの小型装甲輸送車.
 日本版ユニバーサル・キャリア.

四式中型装軌貨車

 チソ .
 ボンネットが目立つ.

FB器

 湿地用輸送車.
 ソ満国境突破用.
 146機生産.

ナミ

 FB器改良の揚陸車輌.
 サイパン奪回に投入予定だったとも.

ユキ

 FB器派生の雪上車.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前の日本陸軍に,トラックは何台ぐらいあったんでしょうか?

 【回答】
 旧日本軍のトラック台数については不明.
 資料がありません.

 言える事は,日本は工業水準が低く(アシアでは高いが),欧米並みの自動車生産力がなく,中国の悪路では故障続出で,整備に苦労した話があります.
 その為,補給や移動は,鉄路中心にならざるを得なかったようです.

 戦後,進駐軍(米国占領軍)の政策で,日本工業力向上の一環として,米国からQC運動が入ってきました.
 つまり,製品の標準化で生産効率を上げ,生産の歩留まり(不良率)を下げる運動です.
 私が就職した昭和40年代は,電機メーカーもこれで生産効率を上げて,つまるところ工業水準が欧米に追いつき,追い越し,日本車が諸外国に輸出されるようになったのです.

一等自営業 :軍事板,2001/06/26(火)
青文字:加筆改修部分

http://kubofumi.tamacc.chuo-u.ac.jp/iizumi2.html
 直接のお答えにはなりませんが,戦前,政府は助成金を出して,トラック製造を促進しようとしていました.
 日本陸軍も装備の自動車化に,全く無関心だったわけではありません.
 このへんから調べていくと,トラック保有数も見えてくるかもしれません.

軍事板,2001/06/26(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前の日本のトラックについて質問です
 九四式の設計に当たって自動車工業と瓦斯電が共同設計したらしいのですが,他の自動車メーカーも九四式の製造に当たっていたのでしょうか?

 戦中は日産とかトヨタとかメーカーそれぞれのトラックが採用され,統一基準みたいなものがなかったみたいなので,戦前も規格は統一されずに個別の業者がそれぞれ勝手に作っていたのかな,と疑問になりました.

 兵站/整備の上で負担になるから,あんまり車種を増やしたとも思えないのですが,じっさいはどうだったのでしょうか?

 【回答】
 九四式自動貨車の製造は両社のほか,六甲ST40の名称で,川崎車輌も製作しています.
 元々,自動貨車製造については,陸軍もさることながら,商工省の存在が大きいです.

 1939年8月に,国産車の技術向上を目指し,「自動車技術委員会」というのが商工省次官を会長に,
商工省各担当部署の責任者,
学識経験者,
鉄道省の関係者,
豊田から豊田喜一郎,
日産から浅原源七
がメンバーとなり,国産車の種々の問題に関して,軍当局から提起された事項を中心に,部会で検討会が作られました.
 自動車の形式,自動車部品の共用化もこの委員会で論議され,
1000〜1500ccは日産が,
2500cc級はトヨタが,
3500ccは日産,トヨタ両社で,
4500cc以上は「ヂーゼル自動車」が
エンジンの製造を行うことになりました.
 これにより,重複による無駄を避けることが出来,試作車の投資の無駄を避けるようになっています.

 このヂーゼル自動車は,陸軍がディーゼルエンジンの統一的製造を要求したため,自動車工業と瓦斯電,それに,ディーゼルの製造設備を持つ,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各設備を集約して誕生したものです.
 ここから,特殊車輌に関しては,別途日野重工業が分かれています.

 なお,これより先,鉄道省とスミダとチヨダの共同作業で,商工省標準車が作られています.
 これが軍用としては九七式自動貨車となったものです.

 但し,こういった動きに三菱だけが同調せず,陸軍から不採用になった三菱製の車輌は,鉄道省標準車として,「三菱ふそう」の名の下,バスとして採用されています.

 軍用自動車の指定業者として,軍部から指定されたのはトヨタ,日産の二社で,後にヂーゼル自動車が加わっています.
 トヨタと日産については,商工省の統一の動きより早く,独自の車輌を製作しています.
 なので,同規模の車輌を複数種類調達していかざるを得ない面がありました.
 このときの商工省標準自動貨車のコンセプトは,GM,フォードの一クラス上の大型車で,GM,フォードと競争する形で,トヨタと日産のトラックがありました.

 従って,部品共用化と言っても,自動車部品の殆どは,各社で内製していますから設計思想の統一くらいで,実際の部品共用まで進んでいないのではないかと思います.
 また,「自動車技術委員会」で検討されたものは,研究段階で,実際に施行されたのは1942年以降となっており,これが戦時規格型トラックに具現化していきますが,これも車輌製造仕様の統一で終わっていたみたいです.

 でもって,戦前の自動車は大まかに言って,シャーシの上にボディを架装するものでした.
 ボディは,板金工の手による叩き出しですから,精度などはあまり気にならないです.
 豊田にしても日産にしても,シャーシ部分だけ製造して,他の業者が架装することも多い訳です(現在のバスがそのような手法を採っていますね).
 また,エンジンにしても,トヨタと日産のエンジンは,極端に言えば,当時日本で最も多く走っていた,シボレーのものを原型にしており,両車ともGMの部品が有れば整備出来ました.
 いすゞのディーゼルエンジンはユンカースが原型ですが.

 それと,輸出販売ルートとしては,トヨタが中国大陸,日産が満州となっており,国産車同士の食い合いは避けていたようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/12/23
青文字:加筆改修部分

▼ 戦時中の輜重部隊トラック写真.
 これは,おそらく中国大陸に展開していた部隊の様です.
 右のドライバーの白いスカーフも眩しいのですが,「ロバ」と渾名を書かれた?彼の,輜重兵らしく右側だけ片側付けの弾薬盒や,皇紀2602年(1942年)9月の日付けも気になります.
 後ろは日産80型トラック.

 この部隊では,この日産トラックは,まとまった数が配備されていた様で,他の写真でも多く見られます.

faq110206tr8.jpg
faq110206tr9.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月09日02:32


 【質問】
 ちよだ型自動貨車って何?

 【回答】
 東京瓦斯電気工業自動車部(日野自動車の前身)が生産したトラック.
 以下の2種類がある.
・ちよだL型自動貨車:全長5.25m,全幅1.95m,全高2.64m,自重2.5トン,ペイロード1.5トン,最大速度50km,燃料搭載量80リットル
・ちよだQ型六輪自動貨車:全長6m,全幅1.95m,全高2.81m,自重3.99トン,ペイロード2トン,最大速度50km,燃料搭載量100リットル

 【参考ページ】
http://www.geocities.jp/aobamil/Ta-Ti.html#ちよだ型軍用トラックシリーズ
http://www.hino.co.jp/j/brand/autoplaza/historiccar/index.html

TGE-L型(=ちよだL型?)
TGE-Q型(=ちよだQ型?)
http://www.hino.co.jp/j/brand/autoplaza/historiccar/index.htmlより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2010/02/19 23:02
に加筆改修

「我機械化兵団」シリーズ写真にあった,揚陸するちよだ四輪トラック(?)写真

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月30日02:19


 【質問】
 日産トラック80型って何?

 【回答】
 1937年より生産された,日本初の量産型大型トラックです.
 新車開発のために資金を必要としていた米グラハムページ社から,その主力車である乗用車とトラックの製作図面から加工工作機械までを購入し,国産化を図ったもの.
 キャブオーバー型を日本ではじめて採用,スマートな流線型で運転席の視野を拡大し,乗心地は快適で,積荷面積は広く,回転半径は小さいなど,国情に適していました.

 【参考ページ】
http://www.jsae.or.jp/autotech/data/3-7.html
http://www.toyota.co.jp/Museum/data/magazine46/magazine46_6.pdf
http://www.geocities.jp/kobo946/rikunobu-3.htm
国立科学博物館−産業技術の歴史
http://www.jahfa.jp/jahfa3/palaceperson/person3.htm

日産トラック80型

【ぐんじさんぎょう】,2010/02/16 23:00
に加筆改修

▼ 戦時中の輜重部隊トラック写真.
 これは,おそらく中国大陸に展開していた部隊の様です.
 この部隊では,この日産トラックは,まとまった数が配備されていた様です.
 日本車らしからぬ,スッキリした特徴在るフロントグリルのデザインが良いですね.

 寒冷地や冬期用のキルティングのグリルカバーも面白い.
faq110206tr5.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月09日02:32


 【質問】
 日産180型トラックって何?

 【回答】
 昭和16年2月から26年まで製造された,日産自動車のボンネット・トラック.
(但し昭和18〜22年の間は,戦時規格簡素型)
 陸海軍を始め公用に採用され,戦後も朝鮮戦争の1951年頃まで生産された.
 警察も戦後〜1960年代中期頃までは,日産180型トラックを採用し,長年使用していた.

 【参考ページ】
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/KBtrack.htm
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/truck/1242732726/9
http://blogs.yahoo.co.jp/dokidoki_puck/53295388.html
http://www.nissan-global.com/JP/COMPANY/PROFILE/HERITAGE/1940/
http://www3.plala.or.jp/takihome/truck180.htm(写真引用も)

戦前標準型
戦時簡略型
http://www3.plala.or.jp/takihome/truck180.htmより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2011/02/17 21:00
を加筆改修

日産180型と思しき車輌
faq110206ns180.jpg
faq110206ns180b.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月09日02:32


 【質問】
 日本陸軍で使われたフォード・トラックについて教えてください.

 【回答】
 フォード社は1929年に横浜に工場を建設し,乗用車とトラックを生産,軍にも納入していた.
 満州事変や熱河作戦では,フォード・トラックを使用した日本陸軍自動車部隊が活躍.
 零下30度の満洲の冬の朝,フォードのトラックのエンジンはすぐかかったが,これに対し国産車は,前夜からオイルパンの下に練炭コンロ,キャブレターに白金カイロをあてがっておいてもまだかからなかったという.
 しかし1936年,日本政府は国内自動車産業保護を明確にした「自動車製造事業法」を制定し,国内資本が50%以上の企業しか自動車生産を認めなくなったため,フォードは1940年に操業を停止した.

 【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki8/jidousha/jidousha.html
http://www.empire.co.jp/story/story07.html
http://golf4.blog65.fc2.com/blog-entry-28.html
http://blogs.yahoo.co.jp/tarepajp/39903066.html
http://ameblo.jp/t-wak/theme-10005719736.html
http://www.seriouswheels.com/1930-1939/1934-Ford-Truck-Unrestored-FA.htm

【ぐんじさんぎょう】,2010/02/17 23:00
に加筆改修

 エンジンの設計(加工精度?)だけじゃなくて,純正潤滑油の性能も関係ありそう.

udon in mixi, 2010年02月17日 01:07

 ドイツもソ連もフォードトラック大活躍ですよね.

 ヘンリー・フォードが反ユダヤ主義者だった事実から,生産施設のドイツへの建造を積極的に行ったという俗説がありますが,フォードはどちらかというと,海外での生産や技術供与に積極的な向きがあり,ソ連・日本へも同様のことは行っております.

 また,後にトヨタ自動車販売社長となる神谷正太郎によると,戦前の一時期,トヨタとフォードの間で包括的な提携が模索されており,エンジン技術等のコア部分も含めた技術供与までもう少しまで漕ぎ着けたところ,日産の鮎川義介と陸軍の横槍で消えてしまったとのこと.
 ライバルの日産を悪者にしている向きはありますが,フォードのエンジン技術が供与されていたらもっと戦争も少しはマシになっていたんじゃないかと思うことも.

dragoner in mixi,2010年02月19日 00:37

フォード・トラック1934年型

熱河作戦時でのトラック@「我機械化兵団」シリーズ写真

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月30日02:19


 【質問】
 日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と,部隊あたりの配備数などをどうか教えてください.
 小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです.

 【回答】
 基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません.
 例えば,第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが,中隊毎にどれくらいの数を配分したかはよく判らない状況です.
 輜重兵中隊の場合は,自動貨車40両基幹になっています.

 自動貨車には完全武装の兵士15名,または荷物500貫を載せることが出来ましたので,例えば,歩兵分隊を輸送する場合,単純計算では自動貨車1台があれば足ります.
 1個小隊は4個分隊ですから,単純計算で,5台程度の自動貨車が必要になるでしょう.
 1個中隊は4個小隊と指揮班,弾薬小隊が付きますから,大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になりますね.

眠い人◆gQikaJHtf2

「機械化」 昭和15年12月号より
九七式4輪自動貨車(?)の模型を製作する,の図

 少年誌なので相変わらず,子供向け軍事/兵器解説や上記の様な小学生の模型製作についての記事が多数です.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月12日01:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦までのバス交通の状況は?

 【回答】
 1918年,東京市内にバスを走らせる為,東京渡辺銀行の支援の下,東京市街自動車が設立されました.
 そして,1919年3月からバス事業を展開し始めます.

 この会社のバスは,車体を緑色に塗り,白線を塗った粋な姿が東京っ子に受け,更に,車掌として女性を採用し,彼女たちの制服が白襟のシャツだった事から,彼女たちは「白襟嬢」と呼ばれ,男性のみならず,女性の憧れの職業となり,市電に対抗してどんどん路線を延ばしていきます.

 こうして,東京市街自動車は,順調に社業を発展させ,1922年には東京乗合自動車と改称します.
 翌年の関東大震災で被害を受けますが,市電に変わってライバルとなったのが,1924年1月から東京市内を走り始めた「円太郎」と呼ばれた東京市営バスです.

 東京市営バスは,震災後の市電復旧までの繋ぎと,市内交通の混雑緩和のため,黒塗りのTT型Fordトラックを800台輸入し,バス型のボディーと木製ベンチシートを急造したもので,当初こそ,珍しがられ利用されましたが,日が経つとそのお粗末な装備が批判を浴びます.
 「円太郎」は,東京日日新聞の小阪新夫記者が書いて人口に膾炙したもので,三遊亭円太郎と言う落語家が乗合ガタ馬車の御者の物真似を十八番にしていたのが由来とか.

 TT型Fordは,結局5年程度で廃車されますが,その後交代したバスも,市民は「円太郎」と呼び,市営バスの代名詞として定着してしまいました.

 閑話休題.

 東京市営バスは,東京乗合自動車のライバルとなっていきますが,市営のサービスの悪さに比べると,私企業である後者は,スマートでサービスの良い営業法により常に市営をリードして,益々社業を発展させていきます.

 昭和に入ると,シャシーはDiamondTと言う米国車のスマートなものに統一され,「青バス」と言う札を掲げて運行していたことから,何時の頃からか,東京乗合自動車のバスは,市営の「円太郎」に対し,「青バス」と呼ばれるようになりました.

 一方で,市バスに対し,新たにライバル関係になったのが地下鉄です.
 地下鉄の開業時の運賃は全線一区10銭,これに対し,バスは半分の5銭なので競争にならなかったり.
 其処で,地下鉄には様々な特典を付けたり,割引運賃で対抗する様になります.

 こうして全線で激しい競争を行いますが,東京乗合自動車は,社業を益々発展させ,1935年には,青バスとが代田橋〜堀之内〜鍋屋横町〜新宿から都心に直通する系統の営業を行い,それによる競争で経営が苦しくなった西武鉄道(今の西武鉄道の前身)から新宿と荻窪を結ぶ新宿軌道線を経営委託され,1937年3月には,錦糸町をターミナルに,大島や東陽公園,洲崎,小松川など江東地区に路線を延ばしていた城東電気軌道を吸収して,バス会社であると同時に,路面電車を運行する様になります.

 ところが,こうした投資が裏目に出,更にバックに付いていた東京渡辺銀行が昭和金融恐慌で倒産して,資金繰りに窮し,陸上交通事業統制の政策指導もあって,遂には東京乗合自動車は,1938年に東京地下鉄道に吸収されてしまいました.

 此処に,地下鉄をメインとしながら,バス事業や路面電車事業を行う鉄道会社が誕生した訳です.
 あの春日三球・照代の漫才も真っ青な状態だったり(苦笑.

 こうして,西武軌道線は東京地下鉄道新宿軌道線,城東軌道線も東京地下鉄道城東軌道線となりました.

 最終的に,陸上交通事業統制は早川の思惑を超えて,市内の路面交通事業は東京市の独占経営となったので,これらバス事業や軌道線は東京市営に譲渡されました.

 しかし,虎は死して皮を残す…スマートな青バスの塗装は,以後の市営バスの塗装に採用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月19日21:44

 1919年,内務省警保局・土木局が自動車の規制をするために,「自動車取締令」を策定し,各地方長官の下で細則が定められ,運用が為されていました.
 この自動車取締令は,営業用・自家用の車輌検査・登録から営業車の営業免許,路線許可に至る広範なもので,一杯穴がありました.
 この省令は,営業用路線運行自動車…即ちバスについての規定がありますが,貸切自動車…タクシーやハイヤーの規定は無く,例えば,避暑がてら自動車で行楽地に行き,土地の乗合自動車として営業して…つまり,白タクですね…日銭を稼ぐと言うこともやることが出来ました.

 また,免許についても地元警察が窓口になった為,地元の有力者の意向が働き,尚かつ,憲政会と政友会の政権交代の迸りで末端も入れ替わりがあったことから,政権交代毎に,利権を渡して支持を得るために,免許を濫発することになりました.
 1925年になると,全国で乗合業者3,303,貸切業者7,509と言う状態.

 で,これら業者の中身は非常にお粗末極まり無く,1923年度の千葉県の交通事故件数は,衝突42件,墜落16件,その他3件の計61件で,歩行者の死者3人,負傷者41人,従業員の負傷者1人,その他13人に上っています.
 その61件の事故を起こした運転手のうち,15人が無免許でした.

 当時は免許が濫発された割に,養成所の不足で多くの場合,乗合自動車に助手を乗せ,営業運転中に運転させる,と.
 まぁ,当然,免許を持つお師匠さんが添乗はしていましたが,そして,事故を起こすと言う構図です.

 1924年になると,これではいけないと言うことで,3月27日に千葉県では北条警察署が先ず無免許運転の取締を行い,館山町相崎の自動車営業者と雇い人,北条町北条の房州自動車運転手と雇い人,同じく北条町新宿の自動車営業者と雇い人を検挙することになります.

 これがきっかけで,8月10日には全県一斉の自動車取締を行い,規定以上の速度を出したり,免状を携帯していないとか,夜間後方に点灯していないなど,告発47件,説諭203件の収穫を行いました.
 ちなみに,当時の規定速度は,市街地で8マイル,その他10マイル,つまり13〜16km/h以下で走れと言うもの.
 流石に,自動車の性能が上がると現実離れした数字で,1925年10月には市街地で14マイル,その他16マイル,最高18マイルに引上げられています.

 また,前に触れましたが,ナンバープレートも,当初は取り外しが可能だったので,1枚のナンバープレートを数台の自動車に兼用して自動車税を逃れる輩が出た為,1927年6月から外せない構造に変更され,千葉では28日から警察の管轄毎に一斉に千葉市に集めて検査を行って新しいナンバープレートを配布しましたが,これまた,交通途絶地域を作ったと新聞から非難されています.

 乗合自動車は普通バスを用いますが,こうした費用をケチる悪徳業者が横行し,廃車寸前のバスを塗替えて定員の1.5倍乗せて運行するのは未だ良い方,会社によっては,トラックを乗合自動車として運行するケースが後を絶たず,屡々警察の摘発を受けていますし,路線免許は先取特権であったため,東京なんかのブローカーが免許を取得して,本来,その路線を運行したかった個人か業者に売りつけて利益を上げるケースも多々ありました.

 こうしたダミー会社による路線免許取得についても,警察は時に厳しく対応し,期日までに運行しなければ,免許取消しを行う場合もありました.
 とは言え,路線免許の売買は不況などで経営が苦しくなったり,事業統制が内務省から鉄道省に移って,免許取得が厳格化されると,既存会社から新しい会社には,自動車,営業所,路線免許込みですが,路線1里当り1万円で取引されたそうです.

 後,停留所も地方長官の許認可による設置でしたが,勝手に設置するものが後を絶たず,ある事業者に無許可停留所の撤去を命じたところ,他の事業者もやっているという抗議を受け,他の事業者のそれも使用を停止させたと言う話があったりします.

 先日,「5万4千円でアジア横断」と言う新潮文庫を読んでいたのですが,今の中国は大正時代の日本の乗合自動車を巡る混乱をそのまま置換えた状況みたいですね.

 歴史は繰り返すというか何というか….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月20日21:33


 【質問】
 DUKW改造バスについて教えられたし.

 【回答】
 米軍が上陸作戦に用いていたトラックに,DUKWと言う車輌がありました.
 これは大陸反攻作戦用で,揚陸艦から発進して水上を航行し,そのまま上陸して海岸内陸部まで物資を運ぼうと言う目的で考案されたものです.
 最初は水陸両用のジープであるFord GPAを開発しますが,小さすぎて不評でした.
 其処で今度は,GMCのCCKW-353トラックを基に水上航行が出来るように,艇体構造の車体と,後部にスクリューを設けたのがDUKW-353,通称Duckです.

 とは言え,大陸反攻作戦よりも太平洋戦線の飛石上陸作戦で主に使われています.

 太平洋戦争が終結すると,こうした特異な軍用車輌は一気に活躍の場を失い,民間に放出されることになりました.
 当時,日本では空襲によって痛め付けられた交通インフラの復旧が最優先課題でした.
 敗戦直後,東京の都バス路線は系統数12,路線キロ数63kmまで落ち込みますが,利用客は12.5万人と大混雑状態でした.
 一方でバスは,ガソリン車68台,木炭車841台,薪車26台,電気車2台が在籍していたのですが,使用可能なものは僅かに196台でしか無かった訳です.

 東京都では関東大震災からの復興と同じく,先ずは交通の復興は,復旧に時間の掛かる電車より,車輌さえ導入すればその日から走らせる事の出来るバスの導入を主眼とします.
 需給予測としては,1945年当時の区部人口の倍,500万人が5年後の復興後に区部に居住すると見込み,その為の足として,在籍車輌1,000台,可動車輌600台を目標に整備を進めるとしました.

 ところが復員や疎開先からの帰還,引揚者の増大により,東京の人口は瞬く間に増え,計画期間は5年から3年に短縮,可動車を850台とする様に変更されました.
 とは言え,資材不足で1945年の新車導入は進まず,全て木炭代燃車で,いすゞ29台とトヨタ3台しかありませんでした.
 また,1946年も電車の修理68両,バスは新車を170台,大修理133台を行ったのみ.

 こうした中,1947年に米軍のGMC2.5t車の大量払下げをガソリン込みで受け,それをバスに改造し,使用する事が可能となります.
 6輪駆動で,エンジンは国産車よりも強力な100馬力,これが400台供給されました.
 これを改造してバスにしたのが,戦前からの架装メーカーの他,中島飛行機からエンジン担当重役がスピンアウトして設立した横須賀の関東電気自動車(今のトヨタ傘下にある関東自動車),平塚にあった日国工業,中島飛行機伊勢崎工場の後身,富士産業など,航空機メーカーの転身組も参入していました.

 最初に完成した16台は遣っ付け仕事で,関東電気自動車が架装したボディーは,運転席はトラック其の儘に,後の荷台部分に箱形のバラック構造の車室を組立てたのですが,余りにも応急過ぎて視察した都議会議員から悪評紛々,特に窓硝子不足から硝子は1枚毎に入れて,その他は板張りという飛んでもないもので,以後この形式のものは作られなくなり,流石に窓硝子は全部の窓に嵌められる事になりました.

 富士産業が手がけたのは,飛行機の余剰ジュラルミンを多用したもので,形状はバスらしくなっていましたが,根太まで軽合金を用いた為,強度不足で,当時の道路事情では折損事故が多発しました.
 其の後,富士産業の車体はキャブオーバー型になって大型化していきます.
 金剛自工と言う会社の改造車体は,ボンネット型乍らホイールベースをオリジナルの4,166mmから5,076mmに増やし,オーバーハングを1,330mmから2,474mmに拡張して,車体長を8,510mmとし,定員65名(最初の改造型は40名)としたものまで出現しました.

 さて,1947年9月,キャサリン台風によって,江戸川区一帯が1週間以上水没しました.
 この為,各地で都電を含めた交通網が寸断されてしまった為,都では,DUKWの借用を申し入れました.
 市川〜小松川橋〜東京駅の間で使用する事を想定し,江戸川区の水没地帯では,其の儘水の中に入って,航行すると言うものでした.
 実際に,DUKWを借用して試運転まで行いましたが,千葉街道は道幅が狭くて運転に支障を来した上,水没地帯でDUKWを航行させると,低速運航でもその波で沿道の土壁が崩れると言う被害が発生した為,この水陸両用車の導入は断念しました.

 しかし,1948年1月にGHQはDUKW246台の払い下げを行い,うち東京都には40台が割り当てられ,20台は富士産業と日本建鐵がキャブオーバー型に,残り20台は帝国自工と金剛自工がボンネット型の大型車のボディを架装して1948年4月から運航を開始しました.

 これらの車輌は1954〜57年まで使われ,一部の車輌にはオリジナルのガソリンエンジンを民生のディーゼルエンジンに換装されていたそうです.

 でもって,こうした車輌の一台が流れ流れて熊本で鉄輪を付けて再起した訳で…というのを以前に此処で触れた気がする.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月23日23:37


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