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◆◆◆ナチス・ドイツ圏
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(引用元:朝目新聞)


 【link】

「Gigazine」◆(2010/11/24)【訃報】ホロコーストを生き延びた70年代ホラー映画の女王イングリッド・ピット,心疾患で死去

「GIGAZINE」◆(2012/05/06)アウシュビッツ強制収容所に行って分かったこと,分からなかったこと

「VOR」◆(2012/07/07)ヒトラー あるユダヤ人を救う
> ヒトラーの第1次大戦時の戦友であったドイツ系ユダヤ人が,ヒトラーに対し,
>家族の安全を保障するよう嘆願した手紙が発見される.
> このユダヤ人に対しては1940年8月に保護が許可され,
>1941年6月には命令が失効した事が通告されたが,独の敗戦まで生き抜き,
>1983年に死去している.

お前は誰だ(from「日刊都市伝説」) ご家庭で手軽にできる「ナチスの人体実験」

「カラパイア」:【動画】アンネ・フランクが映っている唯一の動画

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/07/23)フランス  ヴィシー政権下のユダヤ人迫害について,オランド大統領が謝罪

●書籍

『20世紀ドイツ史』(石田勇治著,白水社,2005/07/25)

 ドイツ近現代史の概説書,というよりも入門書か.前半は「ドイツ」の大雑把な通史で,さらりと読み流せばだいたいドイツ史の概略はわかる(無論,記述は近現代に重点が置かれているけれど).
 もう知ってるひとは飛ばしてもさほど問題ないだろう.

 後半は,二つの世界大戦とナチズムに関する6つの問題について述べられている.
 それぞれの章題は次の通り.

1.帝国の幻影(pp.111-124)

2.戦争責任問題とヴァイマル外交(pp.125-140)

3.あるドイツ・ユダヤ人の軌跡――ホロコーストとドイツ社会(pp.141-157)

4.強制移住から大量殺戮へ(pp.159-172)

5.東部戦線――戦線のジェノサイド化(pp.173-188)

6.「過去の克服」とは何か――日独比較の視点から(pp.189-203)

 個人的に一番関心があるのは4章と5章.
 4章はホロコーストの起源について,機能派的な立場から説明している.※1
 ナチによるユダヤ人への民族浄化政策が,出国圧力→ポーランドへの追放→マダガスカルへの追放→ソ連領への追放→行き詰まり,という道筋を辿る中で絶滅政策を導いた,としている.
――――――
 たしかにナチ・ドイツの反ユダヤ主義は,ホロコーストの前提となっていたし,ヒトラーはホロコーストの始まりに深くかかわっていた.
 民族ドイツ人の帰還に多大な関心を寄せ,これを「ユダヤ人問題の解決」と結びつけたヒトラーは,親衛隊幹部との会合をとおして,移住政策全体の進捗状況をよく把握していた.
 追放から絶滅へのユダヤ人政策の転換も,ヒトラーの了解なしにはあり得なかった.

 しかし,この政策転換をヒトラーの意思や,反ユダヤ主義の論理だけで説明することは困難である.
 むしろ,戦争の予期せぬ展開と民族再編計画が頓挫し,窮地においこまれたナチ高官たちが,事態の打開を求めて,ヒトラーとともに選びとった道,それがホロコーストの始まりであった.(p.172)
――――――
 5章では,仮借ない殲滅戦が行われた東部戦線が扱われる.
 東部戦線においては劣等人種であるとされたスラヴ人と,ナチズムの宿敵とされた「ユダヤ=ボリシェヴィズム」に対する闘争が行われ,その過程でドイツ軍の蛮行はエスカレートしていった.
 この章では特に,セルビアとベラルーシの事例がピックアップされて扱われている.※2
 「東方」に注がれた視線は侮蔑であり,そして蔑んだ相手だからこそ,このような蛮行が可能になったともいえよう.

 さて,とりとめもなく感想を書いてきたが,本書の持つ価値については,『歴史学研究』第817号(2006年8月)に掲載された書評を引用して済ませる事にしよう.
――――――
 〔……〕4つの書は,いずれも一般の読者向けに書かれているため,紙幅上の制限にくわえて,注釈や網羅的なビブリオグラフィーも持たない.
 しかしながら同シリーズは,近年,とりわけ東西ドイツが統一された1990年代以降の,我が国のドイツ現代史研究の一線で活動する研究者が,どのような問題に取り組み,またいかなる成果をあげているかを示しており,その価値は,単なる入門書や啓蒙書のレヴェルにとどまるものではない.※3
――――――
 また本書は,非常に有り難い事に,基本的な文献の目録が充実している(ぼくの教授の本はなかったけど……orz).
 ドイツ現代史を知りたいと思うひとはまずこれを読むべきだろう.
※1:この前書いた,ホロコーストの基礎知識について - Danas je lep dan.では,反ユダヤ主義のみに原因を帰する理解へのカウンターという面もあったとはいえ,反ユダヤ主義を軽視していたきらいがあるかもしれない.
 あと,最近の研究動向では「意図派」「機能派」という枠組みそのものの機能不全が指摘されているらしい.
 詳しくは,小野寺拓也「歴史研究の『ミクロ過程論的転回』――『ゴールドハーゲン後』のナチズム・ホロコースト研究」『歴史学研究』第840号(2008年5月)を参照.

※2:占領下のユーゴスラヴィアとそこで展開された民族浄化については,第二次大戦下のユーゴスラヴィア - Danas je lep dan.も参照.

※3:小原淳氏による.p.58.
――――――「ストパン」■(2009-04-03)[読書][中・東欧][歴史]ドイツ現代史の入門書を読む

「証言『第三帝国』のユダヤ人迫害」(ゲルハルト・シェーンベルナー編,柏書房,2001.7)

「ナチズムとユダヤ人絶滅政策」(栗原優著,ミネルヴァ書房,1997.3)

『橋 ユダヤ混血少年の東部戦線』(エルニ・カルツォヴィッチュ著,平凡社,1990.4)

 読了.
 著者は,非ナチの将校に助けてもらったり,運がいいな.
 何回か出て来る“対戦車砲”は,前後の文脈から見て,パンツァーファウストの事だろうな.

------------軍事板,2011/03/11(金)

『ホロコーストの音楽 ゲットーと収容所の生』(シルリ・ギルバート著,みすず書房,2012.8)

『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』(エミー E. ワーナー著,水声社,2010.11)

 表題はあれだが,第2次大戦でデンマークがドイツに電撃占領されてから,1945年5月に解放されるまでの占領史で,その中の中心部分を為しているのが,1943年のユダヤ人の追放と,その追放からユダヤ人を匿い,スウェーデンに逃した話.
 去年だったか一昨年だったかに出された,『ヒットラーのカナリヤ』と言う本と併せて読めば面白いかも.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/11/18(木)

『私はホロコーストを見た 黙殺された世紀の証言 1939-43』(ヤン・カルスキ著,白水社,2012/8/23)


 【質問】
 第1次大戦後の旧ハプスブルク帝国地域で,反ユダヤ主義が高まったのは何故か?

 【回答】
 ハプスブルク帝国の遺物と見なされ,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになったという.
 以下引用.

 〔第1次大戦後の〕最大の犠牲者は,ハプスブルク帝国の臣民の中でも帝国に対して最も熱心で一番忠実だったユダヤ人であった.
 帝国崩壊後,間もなくユダヤ人は大きな問題に直面した.
 他の帝国の臣民にはそれぞれの祖国があったにも関わらず,ユダヤ人には無かった.
 さらに,ハンガリーでユダヤ人の多くは1914年以前に同化し,マジャール人愛国者になっていたが,超国家主義者の標的になり,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになった.
 旧帝国の他の地域,例えば,民主的なチェコスロバキアでも,多くのユダヤ人がドイツ語を話し,一般大衆からはドイツ帝国と結び付けられる場合が多かったため,ユダヤ人の評判は悪かった.
 痛烈で誇大妄想的,内向きのナショナリズム同士が対立する世界において,ユダヤ人は帝国の遺物だったのである.
 またユダヤ人は,自分達の身の安全のために,経済においてあまりに突出した立場にいた.
 ヒュー・シートン=ワトソンは,冷静に次のように述べている.
「1918年当時,ポーランド,ルーマニア,ハンガリーの産業の殆どがユダヤ人の手中にあり,銀行業も支配していた.
 ……専門的な自由業も,4分の1から3分の2の割合で,ユダヤ人に占められていた」12
 この結果,ユダヤ人に対する不評は高まり,教育や雇用の面でも様々な制限が設けられた.

 とはいえ,この地域で最も反ユダヤ主義に染まっていた者にとってさえ,ヒトラーによる「ユダヤ人問題の最終解決」は想像を超えるものだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.244


 【質問】
 なぜドイツで反ユダヤ主義が激化したのか?

 【回答】
 ドイツは,あまり関係のない人々が,共通の言語や文化なるものによって無理やりにくっつけられたため,は文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえないのだという.

 現代でも,少なめに見積もっても国民の15%がファシズム的な価値観の持ち主であると言う.

 以下引用.

おおよそドイツと言われている地域には,時には300以上の領邦国家や伯爵領や自由都市があり,フランス革命後に整理されたとはいえ,19世紀半ばでもまだ30以上の小国家群であった.
 それが1871年に統一されてドイツ帝国となった.
 しかし,人口比から見れば3分の1にも満たない市民層の言葉と共用の,ある程度の共通性があるだけだった.
 あまり関係のない人々が無理やりにくっつけられ,特殊金属のようなもので溶接させられた感が強い.その特殊金属とは共通の言語や文化なるものであり,かつ,統一という軍事的および,それがもたらした未曾有の経済的成功である.

 したがって,19世紀後半のドイツ帝国は,法治国家ではあっても,主権は皇帝にあり,国民主権に基くデモクラシーという意味での国民国家ではなかった.
 特に文化の基盤には「民族精神 Volksgeist 」などというものが想定されていた.

 日本でもその影響で「ゲルマン民族」とか,そのエキスとして「不屈のゲルマン魂」ゲルマン的サッカー」など,なんの根拠もない言葉が使われるようになってしまった.
 〔略〕

 だが,こうしたエトノス〔民族〕に重点を置いた国家は,国民の一部に対する「差別」が西欧型よりさらに強くなる.
 高名な社会学者ライナー・レプジウスは,こう書いている.
「政治的主権の担い手としてのデモス(民)を,何か特定のエトノス(民族)と同一視するならば,どんな場合でも必ず結果として,ある政治的組織体の中での他のエスニック・グループ,あるいは文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえない」
 1871年以降のドイツ帝国の歴史は,ユダヤ人への,カトリックへの,また労働者階級への抑圧の歴史であった.
 そして最後にヨーロッパ・ユダヤ人の全面抹殺のブログラムとなった.

 もちろん,この西欧型と中欧型の区別はあくまで理念型であって,実際には多くの混合型がある.
 フランスではフランス語ができなければ文明人と見なされない時代が続いた点では,フランス語中心主義だったと言えるし,国籍に関する取り決めも,全てがいわゆる属地主義であったわけではない.
 また,ドイツの場合も,長い間に東欧から色々な形で入ってきて定住したスラブ系の名前の人でも,代が替われば誰もがドイツ人と思うところがある.
 しかし,国籍法を始め,国の根幹を支える価値体系にやはり大きな差があることは間違いない.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.23-24
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし

 ※自ら定めた共通の法の下に結集した民(デモス Demos )の作る政治的共同体という考え方である.
 このデモスが歴史や文化や言語を共有している必要は,少なくとも理論上はない.
 〔略〕
 こうしたフランスやアメリカ式の,少なくとも理論上は,文化的共通性とか,ましてや血統上の同質性を前提としない国民国家のあり方を,西欧型と名付けておこう.

(同,p.21-22)

 例えば,1969年と言えば学生運動の激しかった時代で,当局の監視の目は圧倒的に左翼の組織に向けられていたが,その年の連邦憲法擁護庁による半ば義務的な調査でも,90の組織に3万7000人の右翼過激派がいるとされている.
 しかし,そうした「活動家」の数よりも重要なのは,社会学者,政治学者による様々なメンタリティ調査,つまりアンケートだけでなく,長いインタビューやディスカッションを入れた調査によると,西ドイツの住民は60年代から90年代まで一貫して,低く見積もっても15%ほどがファシズム的な価値観の持ち主であったことである.
 フランクフルト社会研究所だけでなく,いくつかある有名な世論調査研究所の調査でも,そうした結果が出ている.

 専門家の疑問は,そうしたメンタリティの持ち主が,社会の合理化,近代化に乗り遅れた下積みの人々に多いのか,あるいは多少とも時代について行けた人々のあいだに多いのかを巡ってなされていた.
 そして実は,一般的印象とは異なり,後者の人々のほうが,右翼的心情に染まりやすいというデータがたくさん出ている.
 人種差別や外国人排斥の温床は,社会の中核部分に常に潜んでいたのだ.

(同,p.78)

 だたし,フランスでも決してユダヤ人差別がドイツに比べてマシとはいえないばかりか,むしろドイツより酷い場合もあるそうなので,それが上述のフランス語至上主義だけで説明できるのかどうか,なおいっそうのデータ蓄積が必要となるだろう. 


 【質問】
 なぜナチはアーリア人を優遇してユダヤを迫害したのか?

 【回答】
 ユダヤ人は,ドイツの多くの地域で工場などの生産設備の所有者であり,社会資本の再整備に当たって邪魔な存在であった.
 また,中世以降連綿と続けられてきたユダヤ人に対する蔑視・迫害も背景にあった.

(世界史板)


 【質問】
 ドイツが施行した各種法及び政策上においては,「ユダヤ人」はどう定義されていたのですか?

 【回答】
 ニュールンベルク法,ユダヤ人規定に準拠.
1,祖父母にさかのぼり,四人の祖父母のうち三人がユダヤ教徒の場合→ユダヤ人(ユーデ)
2,祖父母のいずれか二人がユダヤ教徒で本人も同様の場合→ユダヤ人(ユーデ)
 ※信仰していないと一親等ユダヤ系混血児(ユーディッシュ)とされる.
3,祖父母の一人がユダヤ教徒で,本人が違う場合→二親等ユダヤ系混血児とされる.
4,信仰はないが祖父母にユダヤの血が入っている者→ユダヤ系混血(ハルプユーデン)
 ※平時においては国民とするが非常時にはユダヤ人とする


 【質問】
 ナチスは何を証拠に,ユダヤ人を判別していたの?
 ユダヤ教信者をユダヤ人としていたの?

 【回答】
 1935年11月14日付けでユダヤ人の概念を規定した条例が出されており,それによると,

(1)本人の祖父母4人のうち,3人以上がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ人(ユーデ)となる.
 この場合,両親の宗教の内容は問われない.

 (2)本人の祖父母4人のうち,1人がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ系(ユーディッシュ)となる.
 本人がユダヤ教徒でない場合は,二親等ユダヤ混血児になる.
 ちなみに祖父母2人と本人がユダヤ教徒の場合,本人はユダヤ人扱いになる.本人がユダヤ教徒出ない場合は,一親等ユダヤ混血児になる…等,かなりややっこしい.

 本来,ユダヤ人を血統的なもの,人種として扱ってきたナチスだが,彼らの法による概念では宗教の属性による分別が行われている.
 仮に血統的に純粋なアーリア人がいたとしても,祖父母3人がユダヤ教に入信していた場合,彼はユダヤ人になってしまうのである.変なの.

(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)


 【質問】
 ナチス・ドイツのユダヤ人への対応は,どのように変化していったの?

 【回答】
 最初,ユダヤ人をマダガスカル島に島流しにするつもりだったらしい.
 で,戦争が始まったんで沙汰止みになって,今度はさっさとソ連をやっつけてシベリアに送るつもりが,戦局が思わしくなくてそれどころじゃ無くなる.
 強制収容所を置いてるポーランドでは,食いもん足んなくなって総督が悲鳴を上げる.
 ヒムラーがヒトラーにないしょで銃殺し始める.

 で,ガスで「処理」する事にしたんだが,青酸ガスのバルブ開けるのはアルバニア人とかにさせてたそうだ.
 そもそもアウシュビッツとかのガス室は,兵士の心理的負担を軽減するために作られたものだからね.
 銃殺を行う兵士に精神異常が相次いだことへの対策として,アイヒマンが殺人工場の建設を提案したのがはじまり.

軍事板,2000/07/08(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ドイツ国内では,ユダヤ人迫害に対し,どんな抵抗運動が起こったのか?

 【回答】
 例えば,署名運動や抗議の退学などが音楽学校学生によって起こった.
 また,フルトヴェングラーはユダヤ系音楽家を擁護するため,新聞に公開書簡を発表するなど東奔西走した.
 また例えば,ドイツ国防軍は,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城となっていた.

 以下引用.

 ドイツで1933年にナチス党が政権を奪取すると,ドイツ各地でユダヤ人が組織的に厳しく迫害されるようになった.
 公務員であったユダヤ系音楽家の多くは,公職からユダヤ人を排斥する職業的官吏再建法の成立によって解任されることになり,各地の音楽大学や劇場からも多くの音楽家が追い出された.
 シロタの義弟でデュッセルドルフ国立歌劇場音楽総監督ホーレンシュタインもその地位を失った.
 ピアニストのベルリン音楽大学教授クロイツァー,マンハイム国立歌劇場音楽総監督ローゼンシュトックなども,このとき解任された.

 ユダヤ人迫害のような蛮行が,抵抗なしに受け入れられたわけではない.
 ナチスは反対派を厳しく弾圧したが,ベルリン音楽大学では学生がユダヤ人教授を擁護した署名運動を行なって,ドイツ音楽界の名誉を幾らかは守った.
 ユダヤ系の師と共に学校を辞めて,個人教授に切り替える学生も多かった.
 ユダヤ系音楽家圧迫に反対した人々の筆頭が,ホーレンシュタインの師ヴィルヘルム・フルトヴェングラーで,彼はユダヤ系音楽家を擁護するために新聞に公開書簡を発表した.
 この挑戦には,ナチスもいささかたじろいだ.
 フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者であり,1934年に日本の外交官が日本外務省への公信で報告したように,地位,人格,才能から,ドイツ一般民衆の「圧倒的人望」を得ていたからだ.
 この日本外交官は,ナチスに抵抗するフルトヴェングラーの背後に,ナチスの反ユダヤ主義に賛成しない多くの民衆がいると強調した.
 保守的で愛国的であっても犯罪的行為には反対する人々のことは,ナチスにもなかなか弾圧できなかった.

 さらに日本の外交官は,とりわけドイツ国防軍が,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城であることを指摘している.
 この観察も正しく,第2次世界大戦末期に,良心派の将校は1944年7月20日事件(ヒトラー総統暗殺未遂事件)まで引き起こした.

 ドイツ宣伝省のナチス官僚は,ユダヤ系音楽家を擁護するために東奔西走したフルトヴェングラーについて,
「フルトヴェングラーが擁護しようとしないユダヤ人を一人でも挙げることができますか」
と愚痴を言った.
 ホーレンシュタインも地位を失い亡命した時,師の推薦を得て海外で再就職を試みた.
 1933年にナチス体制が成立しても暫くの間,フルトヴェングラーの指導するベルリン・フィルハーモニーはトップ奏者にユダヤ系音楽家を擁していた.
 その一人が,後にピアストロ・トリオの一員としてシロタとも共演したベルリン・フィル首席チェロ奏者のヨーゼフ・シュースターだった.
 フルトヴェングラーはシュースター,コンサート・マスターのゴールドベルクなどユダヤ系楽団員をソリストとして器用,その実力を誇示してナチスに対抗した.

 しかし1934年,作曲家ヒンデミットの処遇を巡ってフルトヴェングラーはヒンデミット擁護の公開状を発表,ナチスの反撃を受けて辞任することになった.
 ベルリン国立歌劇場で活躍した大指揮者エーリッヒ・クライバーも連帯して辞任,ドイツ音楽界は2人の守り手を失った.
 ナチスの統制に屈しないで,ベルリン音楽大学ではもう一度だけ学生の抗議と署名が行われた.
 政治的反対派が容赦なく強制収容所で虐待されるナチス体制の下で,抗議活動を展開した学生の勇気には驚くべきものがあったが,状況を変えることはできなかった.

 あるヨーロッパの音楽家一族に伝わる話では,フルトヴェングラーはいったん亡命を決意したのだが,すでに亡命を余儀なくされていた親友のユダヤ人音楽家に,ドイツの聴衆を見捨てないように懇願された.
 フルトヴェングラーは汚名と批判を被りながらドイツに留まって,友人の願いに応えた.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.133-135

 伝聞・風説の類にコメントするのも如何なものかとは思いますが,クラシックの演奏家の挿話に明るければ,上記で紹介されている.
『あるヨーロッパの音楽家一族に伝わる話では,フルトヴェングラーはいったん亡命を決意したのだが,すでに亡命を余儀なくされていた親友のユダヤ人音楽家に,ドイツの聴衆を見捨てないように懇願された.』
のユダヤ人音楽家は容易に思いあたります.
 同じドイツが生んだ大指揮者ブルーノ・ワルターBruno Walterであれば,こういった類の懇願をフルトヴェングラーにしたとしても可笑しくないでしょう.

 フルトヴェングラーは1948年にアメリカのシカゴ交響楽団から来演の依頼を受けます.
 このとき,
『ナチスにとどまったフルトヴェングラー等もってのほか』
と,当時のアメリカ・クラシック界の大物,トスカニーニ,ホロヴィッツ,ルービンシュタイン,ハイフェッツ,カザルス等がこぞって反対し,シカゴでの演奏を拒否するとまで,言い放ちます.
 このとき,ユダヤ系でありながらフルトヴェングラーを擁護したのは,弟子筋に当たるメニューインであり,ワルターその人でした.

 ワルターとフルトヴェングラーの親交は広く知られており,
『マーラーはワルターに任せた』
と,ワルターの音楽性への信頼も厚かったフルトヴェングラーですから,仮にワルターから
『どうか,ドイツの人々を見捨てないでください』
と懇請されれば,更なる汚名を被るのを覚悟でドイツに残ったとしても不思議ではありません.

 ちなみに,ナチスの支配するドイツに残ることが相当のデメリットになるとの認識は,1937年時点でトスカニーニと論争になった時点である程度把握できたでしょうし,ストコフスキーに実際に亡命の打診をした時点で,アメリカでの自分への反発の強さを感じていたことは間違いないと思われます.

Hawkeye in FAQ BBS

 こういうのが,ほんまの「武勇伝武勇伝♪」ちゃうやろか?


 【質問】
 ドイツ軍軍人によるユダヤ人救出活動はあったの?

 【回答】
 国防軍の中にもかなり反ナチがいて,ベック将軍等の力を借り,オスター将軍やカナーリス提督,フォン・ドーナニー博士などが偽パスポートを偽造したり,サボタージュを行なうなど,ユダヤ人救出作戦の準備を整えていたとのこと(クーデターの機会も).

 ただし反ナチがかならずしも,反・反ユダヤに重なるものではありませんでした.
 シャハトはそれなりにユダヤ人に同情的でしたけど,大部分は,<無関心によるユダヤ人迫害の幇助>らしいです.
 戦争に負けそうになったから・・・と言う理由で反ユダヤ政策に対しては賛成こそしないものの,見て見ぬふりが大半だったとも聞きました.
 まあ,自分達も命を懸けて戦っているのに,そこまで目を向けろと言うのは酷ではありますが.

 しかし初期からの陰謀者である,L・v・ベックやC・ゲルデラー等は,軍事的・人道的両方を持ちあわせ合意していたと聞きます.
 少し遅れて参加したv・トレシュコウやC・v・シュタウフェンベルクも軍事的視点を優先していましたが,東方の虐殺に容認(黙認)できなかったようです.

 ジャック・ヒギンズの歴史冒険小説に出てくるシェレンベルク少将,ユダヤ人に偽造パスポート渡して,スウェーデン経由で脱出を手伝ったり,収容所の反乱を支援したりしていたとあります.
 でもヒギンズの小説に出てくる少将は,少し美化されている感じもしますので,あまり鵜呑みにはできませんが…….
(ちなみに,シェレンベルクが出てくるヒギンズ作品は,ハリー・パタースン名義の「ウィンザー公掠奪」と,名作「鷲は舞い降りた」の続編「鷲は飛び立った」です.
 どっちのシェレンベルクも,かなり魅力的な人物として描かれています.
 ハヤカワ文庫NVから発売されているので参考までに)

 シェレンベルクは戦後,裁判で,ユダヤ人からも好意的な証言をしてくれたことから,SSに所属していた罪だけが問われて,実際には二年間だけ刑務所で服役して釈放されたそうです.
 シェレンベルクはその後,肝臓癌で亡くなったと聞きます.

 収容所警備の職務についていたSS(髑髏部隊,SD,ゲシュタポ)の中にも,ごく希にですが,ドイツ人であることが恥ずかしいと漏らしたり,ユダヤ人を動物扱いできない人もいたらしく,彼等は降級・左遷,武装SS一兵卒として東部戦線の最も危険な前線へ送られた,と聞きました.

 国防軍の中では,戦況視察に立ち会った将校や兵士が,親衛隊(一般)によるユダヤ人虐殺をたまたま目にし,それが原因で加わった人もやはり多かったらしいです.
 正義感か,少なくとも自分達だけは手を汚したくないと考え,そのうち,自分達も手を汚さなければならないのかも・・・と感じ始めたかは知りませんが.

 ネーベ長官は7/20の乱のメンバーとしては,ごくわずかな警察官ですね.
 彼は特別行動隊B(アイン・・・グルッペ)を指揮していたのですが,他の地区と比べると被害者が少なかったのは,彼の迷いだったんでしょうか.
 警察では他に,フォン・ヘルドルフ(SA,SS准将),フォン・シュレンブルク伯が,水晶の夜以降からの参加者です.
 ヘルドルフ伯は,ユダヤ人迫害の水晶の夜事件に対し,シャハト博士に続き,大胆に抗議した人です.

 他に,こんな例もあります.

――――――
第3帝国の秘密最深部/ホロコースト

 1943年,ブッヘンバルト強制収容所で汚職捜査をしていたSD経済事犯部のコンラート・モルゲン少佐は,「法律的な根拠のない」ユダヤ人の絶滅作業を,「はじめて知り」,びっくりして,上司に報告.

 収容所を管理する上位機間RSHA(ドイツ国家保安警察本部)内にも,ユダヤ人処刑命令の文書の不在が確認され,本部長のカルテンブルナーまでが,
「おら,絶滅作業なんて知らなかった」
と,びっくり仰天.

「ユダヤ人の絶滅作業は,現場レベルでの違法行為か」
「あるいは国家最高レベルでの,(おそらくは総統みずからの)違法行為か」
と大騒ぎになった.

 結果,ヒムラーと総統官房の介入をまねき,モルゲンは「ユダヤ人絶滅措置の法的根拠についての捜査」の中止を命じられた・・・・.
――――――

 以上,デビッド・アーヴィング「ヒトラーの戦争」からの引用です.
 ちょっと面白いので挙げておきます.

 ただしアーヴィングには,中立性に関して疑問の余地も大いにあります.
 詳しくは別項参照.
 少なくとも,クロスチェックは必須かと.

軍事板,2000/07/09(日)〜07/13(木)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 ボイコット運動などを通じ,ユダヤ人はドイツに公然と敵対していたから,敵性外国人として強制収容されて当然.

 【事実】
 おいおい,そのボイコット運動って
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_12.html
ここの中ほどで紹介されてる.「ユダヤ人がドイツに宣戦布告」の記事のことか?
 この新聞にははっきりと「BOYCOTT OF GERMAN GOODS」って書いてある.

 否定派はこれを根拠にユダヤ人への待遇を正当化しようとしてるみたいだが,宣戦布告とやらの内容が実はただの不買運動で,実情は失敗していたのに,なぜ強制収容所で隔離されることになるのか.

軍事板


 【質問】
 ユダヤ人の欧州脱出ルートは?

 【回答】
 イタリアが1940/6/10に参戦するまでは,ジェノヴァ,ナポリまたはトリエステから上海への航路が利用可能だった.
 上海航路の船は少なく,しかも6ヵ月から12ヵ月先まで満室だった.
 上海で上陸できる保証はなかったので,往復切符を購入しておく他はなかった.
 イタリアが参戦しても出国制限が導入されたわけではなく,1941年秋までナチスはこれを容認していた.
 他方アジアでは,その間に上海地域を完全に掌握した日本が,難民の群れを止める必要に迫られ,1939年8月以降,入国管理は厳しくなった.

 戦争が続くにつれ,海のルートが閉鎖されたので,難民達はシベリア経由の陸路を選ぶ他なくなった.
 ドイツのポーランド侵攻後,1万人近いポーランド系ユダヤ人が,中立国であるリトアニアに避難.
 そのうち4700人が,シベリア経由で極東へ向かった.その中には杉原千畝のおかげで助かった2千人もいた.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.100-101を参照されたし.


 【質問】
 大戦中ドイツにはユダヤ人はいなかったんですか?
 みんながみんな亡命か収容所送り?

 【回答】
 まずドイツ本国,それからドイツに占領,併合された地域でも,ユダヤ人に対する扱いというのはいろいろと違いがあった.
 最終的に絶滅政策をとっていた時期もあるけど,強制労働により戦争遂行に必要な人的資源にみなす政策などもあった.
 このへんの事情は「シンドラーのリスト」が扱っている.

 また,ユダヤ人は欧州に歴史的に見ても古くからいるわけで,必ずしも他民族と人種的にきちっと分類できるわけではない.
 ユダヤ人説のあったナチス・ドイツ軍人としては,空軍のエアハルト・ミルヒ元帥が有名.
 また,エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥もユダヤ人説を疑われ,SSに調査された.
 彼の本名はエーリッヒ・フォン・レヴィンスキー(マンシュタイン家の養子)で,その家系はワルシャワのラビの血を引いていたらしい.

 この他にも,ごく少数だが,ユダヤ系であるにもかかわらず,有力者の妻や係累で特別許可を受けて収容所に送られなかった者もいる.
 書類を誤魔化したり,金を掴ませたり,ナチに積極的協力をする事で黙殺してもらうとか,抜け道は割りと多かった模様.


 【質問】
 エーリッヒ・フォン・マンシュタインはリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキーという名前であって,養子でマンシュタイン家に来た人のであって,本当はユダヤ系の家系っていうのは本当でしょうか?
 本人が側近に語ったっていうのは本当?

 【回答】
 プロイセンのユンカーだったフォン・マンシュタイン家に跡取りの男子が生まれなかったため,同じユンカーのフォン・レヴィンスキー家から養子として迎えられたのがエリッヒ.
 当時のマンシュタイン家の当主の妻とレヴィンスキー家の当主の妻は姉妹だったので,生まれる前にはそういう取り決めをしていた.

 レヴィンスキー家がユダヤの血を引いている,とマンシュタインが言ったという話は,彼の副官だったアレクサンダー・シュタールベルクの「回想の第三帝国」という回想録に出てくる.
 ただしシュタールベルクがそう書いているだけで,本人がそういう発言をした確証はない.
 この本では,マンシュタインがユダヤ人の虐殺について知らなかったと発言したという記述もあり,内容をそのまま受け取るのは危ういところがある.

 なおLewinskyまたはLewinskiという姓はユダヤ系スラブ人によくあるが,もし仮にそうだったとしてもニュールンベルク法の規定では,マンシュタインはユダヤ系ではないということになる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナチス・ドイツ空軍のミルヒ元帥はユダヤ人だったのか?

 【回答】
 現時点では,否定も肯定もできない模様.
 ミルヒの生立ちの秘密については,以下引用.

……だがそんなものよりミルヒの生涯を終始決定的に支配した,ある重大な秘密があった.
 それがミルヒにとってよくよく重大なものだったことは,彼の人生の終り近くになって,ある伝記作家がその真相をつきとめた際にも,ミルヒは頑として口をつぐんで何も語ろうとしなかったことでもわかる.
 (中略)
 ミルヒを生むことになるクララという女性は,自分の叔父とはげしい恋におちたが,そのような結婚が両親からも,また教会のおきてに照らしても許されようはずがなく,クララはやむなく別の相手のアドルフ・ミルヒと結婚した.
 それは彼女に,アドルフの子は絶対に生ませないというきびしい約束の上での,納得ずくの結婚だった.
 クララが後に保護院に収用されるような不治の精神病者となったことでも裏書きされるように,クララが真に愛した男性は叔父であり,叔父の子を生むという条件のもとでクララはアドルフとの結婚を承諾したのであった.
 (中略)
 ……この秘密を彼が知ったのは,中年になってからの一九三三年のことである.それは密告を通じてであった.ミルヒの父親はユダヤ人であると密告したものがあり,ことの真偽をその筋を調査しているうちに右のような出征の秘密が判明したのである.
 この密告は,ナチでも党の枢要の地位にあるミルヒを失脚させようとしての,誰かの工作だったことはもちろんである.
 アドルフ・ミルヒは事実ユダヤ人だった.
 それで息子をアーリア人種に分類されるよう,エアハルトは私生児であるという話を母親が捏造したのだという噂が,まことしやかに囁(ささや)かれるようになった.
 (中略)
「誰がユダヤ人で,誰がユダヤ人でないかをきめるのはこの俺だ!」
と,ゲーリングはミルヒの出生の秘密の噂話を持ち込んでくる者達によく言った.
 だが彼の示すこのような姿勢は密告者たちに,ははあん,さてはゲーリングもこの話の揉み消し側に回っているんだなと思い込ませるだけだった.
 ゲーリングがミルヒ出生の秘密をすべて知っていたことはもちろんである.
 このミステリーへのゲシュタポの探査の背後にはゲーリングがいた.
 自分の右腕になっている男が,自分の母親のいまわしい人生よりもさらに陰惨な出生の秘密をもっているという事実を,ゲーリングが握っていなかったなどとは,考える方がおかしいというものであろう.
(レン・デイトン著「戦闘機」上巻,P65〜67)

 これをもってミルヒがユダヤ人ではない,とは申しません.
 引用した冒頭に出てくる「ある伝記作家」がデービッド・アービング(David Irving)であることはde.wikiなどでも明らかです.先ごろ有罪判決を受けたようですが.
 en.wikiなども調べ,関連サイトも見ましたが,なにやら,蟲がいっぱい詰まった箱を覗いたような気分になったことをご報告申し上げます.

ぴぴ in FAQ BBS

エアハルト・ミルヒ
(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 実際にユダヤ人は,かなり保護されていた.
 例えばドイツ空軍の最高権力者の一人,エアハルト・ミルヒ元帥はユダヤ人.

 【事実】
 迫害されてないならなんでミルヒは出自を捏造した?
 堂々とユダヤ人だってしとけばいい.

軍事板


 【質問】
 ドイツ国防軍に15万人のユダヤ人兵士がいたのは嘘なんですか?

 【回答】
「長年の内にゲルマンとユダヤの血が混じった」
ので判別不可.
 よって「いた」とも言える.

 あと,「ユダヤ」ってのはユダヤ民族とかじゃないぞ.「ユダヤ教を信じてる人」だからな.
 お前がユダヤ教を信じれば,お前は「ユダヤ人」となる.

 これが,「ナチの定義のユダヤ人」なら,もっとずっと多くなる.
「3代前まで遡って,キリスト教に改宗してようがしてまいが,ユダヤ人の血が混じってないことが証明できなかったらユダヤ人」
というのが,その定義.
 で,厳密に調べ始めたら,ナチ幹部は「ユダヤ人」だらけになったので,うやむやになったとさ.

軍事板


 【質問】
 ドイツ以外の枢軸国に住むユダヤ人は,どのような扱いでしたか?

 【回答】
 国による.
 たとえばイタリア,ハンガリー,フィンランドのような枢軸側でも独立国家であった地域では独自の対ユダヤ人政策をとり,組織的殺戮は行わなかった.
 クロアチアやスロヴァキアのようなドイツの傀儡国家であった地域では,占領地と同じようにユダヤ人の大量殺害が行われた.
 しかし43年のムッソリーニ政権倒壊後のドイツ占領地域や,44年サラッシのファシスト政権が成立した後のハンガリーでは,ユダヤ人の殺戮や強制収容所移送が行われるようになった.

軍事板

 イタリアで反ユダヤ法が制定されたときには,保留事項を多数設けて,骨抜きにしました.
 一つの例は,ユダヤ人一家の誰かがファシスト党員になれば,家族全体が無条件で法律の適用を免除される…とか.
 サロ社会主義共和国成立後,初めて7,500人がドイツに移送されますが,これは全イタリアのユダヤ人の1割に過ぎません.

 東欧でも,ブルガリアは比較的ユダヤ人に寛容でした.
 一応,ルーマニア,ユーゴスラヴィア,ギリシャから得た新領土のユダヤ人15,000人はドイツへの移送だけは黙認しますが,固有領土のユダヤ人に対する迫害政策は,これまた骨抜きにされます.

 例えば,改宗したユダヤ人は迫害の対象から外す…しかも,改宗は何時したかは全く問題にしない…と言うことで,ブルガリアではユダヤ人の改宗が大流行しました.
 では,改宗していないユダヤ人は…星,それも非常に小さなものを付けさせる法律がドイツの圧力で成立したのですが,これまた,付けた人は僅かで,国民は非常な同情を彼らに示しています.
 また,他の国々では,ユダヤ人は首都のゲットーにかり集めましたが,ブルガリア政府は,彼らを地方に分散させます.
 但し,国民はそれに反対し,王宮の前でデモをすると言うことを遣って退けたりもしました.

 ドイツ人は,ブルガリアの大ラビと話をしようとしますが,四方手を尽くして探しますが,何処にも居ませんでした.
 それもその筈.彼は,ブルガリア正教総主教に匿われていたりした訳.

 そんなこんなで,ブルガリア本土では一人も収容所で死んだものはいませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月04日22:59

 日本では元々欧州のように反ユダヤ主義の歴史がなく,さらに軍部の思惑もあって,当初はシベリア経由で満州や本土に来たユダヤ人を保護している.

(軍事板)

 しかし,親独傾向が陸軍を中心に広まるにつれ,ドイツからの圧力もあって,次第にユダヤ人を冷遇する方向へ変わり,例えば上海ではゲットーの如きものが作られることになった.
 その変遷は,安江弘夫著「大連特務機関と幻のユダヤ国家」(八幡書店,1989/8)に詳しい.


 【質問】
 フランスではどんなユダヤ人迫害が行われたのか?

 【回答】
 元々,フランスにはユダヤ人差別の歴史があったことから,ヴィシー政権の方が,ナチスより「熱心」にユダヤ人迫害を行ったという.
 以下引用.

 作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく,もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました.
 このため,先の大戦前,フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28).

 1940年にフランスはナチスドイツに敗れ,フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ,南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します.

 さて,ご存じのように,ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが,1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に,ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し,ヴィシー政権下のフランスでは,81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人,56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています.
 これだけでも,ヴィシー政権の方が,より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります.
 実際,ヴィシー政権の方が,ユダヤ人の定義を広く取りました.
 おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは,キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに,ヴィシー政権では移送したのでした.
 もっとも,当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています.
 これは,ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない,高いユダヤ人生存率であるのは確かです.
 しかしこれは,必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく,ドイツに対する反感が,一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません.
 また,スペインというユダヤ人にとっての聖域が,フランスに隣接していたことも幸いしました.

 いずれにせよ,連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降,フランスの歴代政権は,ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず,卑怯にも,このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです.
 フランス政府及び社会が,戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは,実に1995年になってからです.
 (以上,http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html(11月24日アクセス)による.)

 しかし,まだまだフランス政府は隠している,ということが昨年明らかになりました.
 1944年にフランスが「解放」された時点で,フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが,トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず,(米英等の),連合国や中立国の数百名もの市民が,数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです.
 どうやらこれらの収容者達は,ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから,「解放」前後に一箇所の収容所に集められ,「解放」後も密かにドイツに移送され,移送できずに上記収容所に残された人々は,これまた密かに「消されて」行ったようなのです.
 (以上,http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html(2004年10月5日アクセス)による.)

 (注28)あのニール・ファーガソンは,戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず,ホロコーストが起こったとし,だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても,安心することはできない,と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions.11月22日アクセス)が,史実を知らない歴史家は,歴史家の名に値しない.

太田述正コラム,2005/11/25


 【質問】
 手作り自転車で脱出したユダヤ人がいたというのは本当ですか?

 【回答】
 おさるのジョージが主人公の『ひとまねこざる』という絵本を見られたことがあると思います.
 この本の著者レイとその妻マーガレットはハンブルク生まれ.
 マーガレットはハンブルクにある『Klosterschule』という学校卒.
 二人が(二人ともユダヤ人)6月12日,自分たちで組み立てた自転車(それほどすでに交通手段が無い)でパリから脱出しました.
 14日にドイツ軍がパリ入城.
 ぎりぎり.
 自転車をこいで106km南のオルレアンで汽車に乗り,スペイン・ポルトガルを通ってリスボン・リオデジャネイロ・10月14日ニューヨーク着.
 その間,おさるのジョージの原稿も一緒に移動していました.

 昔,何気なく読んでいたひとまねこざるの知らなかったエピソードでした.

バンケン in mixi


 【質問】
 映画「ライフイズビューティフル」を見て気になったのですが,イタリアにはユダヤ人収容所はあったのでしょうか?
 イタリアはユダヤ人弾圧に反対していたのですから,収容所があるのはおかしいですよね?

 【回答】
 16世紀以来,ユダヤ人のゲットーがトリエステにありました.

 1943年9月8日以降,ドイツ軍の占領下(アドリア海沿岸管区)に置かれ,この地のユダヤ人は絶滅の対象となりました.
 トリエステのサン・サッパにある,1913年建設の精米工場には,当時,ドイツ軍が政治犯収容所,ユダヤ人を別の収容所に移送する中継収容所として使用されてきましたが,戦争末期には,掃討した住民,労働者,ユダヤ人のうち,“健康”で「運搬できる者」は,別の収容所に移送し,拷問によって虫の息となったPartisanなどの「運搬できない者」を「処理」する火葬場付き収容所として使用されています.
 その収容所で生じた灰は,アドリア海のムッジャと言う場所の入り江に投げ捨てられていたそうです.

 そう言う意味では,イタリアの地にも収容所はあったと言えるでしょうね.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ちなみに,その「ライフイズビューティフル」のパンフにはこうある.

ProductionNote

 1938年当時,イタリアにいたユダヤ人の数は約4万5千人.そのうちの約8千人がナチスの強制収容所に送られ,生還者は数百人にすぎなかった.
 こうした事実を,ロベルト・ベニーニは数多くの歴史書にあたって調べ上げ,さらにいくつかの生存者グループにも意見を聞いた.
 企画の当初から,紅ーには,この映画を「歴史的な記録ではなく,寓話の文体描く」ことを意図していたが,いっぽうではミラノの現代ユダヤ記録センターと密接な連絡をとりあい,歴史家や生存者の証言を作品に取り入れていった.

越後道起

 ナチスによるユダヤ人殲滅がもっとも酸鼻を極めたのはポーランドで,ポーランド人自身がそれに手を貸したし,ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だった.
 しかし,この映画の舞台であるイタリア及び同国ファシスト占領地域では,ユダヤ人は比較的人道的に扱われた.
 クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も,リッペントロップ元帥がムッソリーニに強要して,仕方なく実行された.
 フランスやユーゴのナチス占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった.
 とはいえ,この映画にも描かれるように,ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト隊)や,グイドの叔父のようなイタリア人も,多々いたのである.

 映画は,史実を参考にしたフィクションといったところかな.


 【質問】
 ムッソリーニはホロコーストには協力的だったの?

 【回答】
 ムッソリーニ自身は反ユダヤ主義者だったにもかかわらず,まったくの倫理的観点から,ユダヤ人の絶滅収容所への移送に対し,彼はサボタージュを行っています.
「なに!?
 イタリア沿岸主要都市のユダヤ人をすべてドイツに引き渡せだと!?
 ただちにすべてのユダヤ人を内陸部に移せ!」
 一休さんのトンチなみで,数多くのユダヤ人を救ったイタリアの良識は,やはり褒め称えねば成りますまい.

 むしろ占領下のフランス警察の方が,嬉々として,ユダヤ人狩りに協力しました.
 43年には在仏イタリア部隊が,グルノーブルで「手前ら,それでも人間か!?」と,ユダヤ人狩りを強行するフランス警察と全面衝突したそうです.
 フランス南部のイタリア占領地でのことででしょう.
 イタリア占領地ではユダヤ人の拘束がないだけではなく,ナチの手からかくまっていたと聞いた事があります.

 そもそもドイツ人は歴史的に,イタリア人などのラテン人種を見下していた事もあり,イタリアとではなくムッソリーニと同盟を結んだような感じに思えます.
 人種差別・優越主義にウトいラテン人種に,ナチ精神は理解しがたかったのか,スペインのファシストリーダー ,フランコ総統もユダヤ人の救出を考え,スペインに亡命させたと聞きます.

 三国同盟をやぶった腰抜けイタリアとして何かと評判悪いですが,人間的には1番,大人(良くも悪くも)で,好きな民族ですね.

軍事板,2000/07/09(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦中,欧州で2番目にユダヤ人を最終的解決場所に送ったのは何処の国でしょうか?

 【回答】
 一応,帝国領土となった地区(Austria,Czech,Polandはこの地域に含まれる)を除けば,その国ではその国の国民が,その国に住んでいた75%のユダヤ人を「回収」して,連行し,その国から「最終的解決場所」に送り込みました.
 ちなみに,ベルギーは国王が結構悪し様に言われていても50%.
 ベルギーの警察はドイツ人に協力せず,鉄道員は移送列車の鍵を掛損ね,待ち伏せの為の情報を流しています.
 また,彼らにはなるべく隠れ家が提供されました.

 ノルウェーにはユダヤ人は1,700人しかいませんでした.
 しかも,ドイツからの亡命者で,政府の保護が受けられないとされた人々ですが,それでも,ドイツ人がその移送を命じると,Kisling政権の閣僚の幾人かが辞表を提出します.
 ノルウェーの王室はBBCの放送で,常に彼らの救出を促し,実際にノルウェーのユダヤ人は,900人がスウェーデンに逃れることに成功しました.

 フランスも同様で,反ユダヤ主義のマジャールですら,1944年の矢十字党独裁政権になるまで,言を左右にしてドイツの要請に屈せず,更に盟友だったイタリアも同じ状況だったりします.
 例えば,イタリアにある反ユダヤ主義の指導者は,秘書にユダヤ人を使っていました(ぉぃ.

 〔枢軸国については別項目の通り.〕

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月04日22:59

 ナチス圏内で,ブルガリアと共に,最も激しく抵抗したのが,デンマークです.
 この国には7,800人のユダヤ人がいました.
 で,これに関する措置をドイツ占領軍が求めると,政府の回答は判で押したように,「我が国にはユダヤ問題など存在しない」と答えるのが常でした.

 ChristianXII世国王が,黄色の星を付けて首都を歩いたと言うのは,伝説ですが,彼は星が導入されたら真っ先に自分が付ける,と常々言っていたそうです.
 1941年12月,首都のユダヤ教寺院が放火された時,国王自らが大ラビに支援のメッセージを送り,放火犯は逮捕されて厳しく処罰された上,放火犯が最高裁に送られた時には,刑が更に厳しくなっていました.
 さて,そんなこんなで1942年,王はちょび髭総統からバースデーカードを貰いますが,その返事は,一言.
「最大限の感謝を.Christian王」
とだけ返して,ちょび髭総統を激怒させ,国防軍のハネッケン将軍とSSのベスト将軍が送り込まれました.

 しかし,1943年夏には造船所で暴動が,都市でストライキがあり,ハネッケンは戒厳令を敷き,レジスタンスを処刑します.
 そこで,SSは,ユダヤ人問題を解決するために,首都に船を回すことになりました.
 普通は,それで終わりな筈.
 ところが,ハネッケン将軍はユダヤ人を駆り集めるための軍隊の提供を拒み,ユダヤ人に「労働」の為に出頭を求める証書の発行も拒んだのです.
 しかも,デンマーク駐留のSS部隊も屡々反対に回り,ベストですら,デンマークからの移送者は,最終解決の為の収容所ではなく,示威用キャンプであるテレジエンシュタットへの移送を本国と交渉しています.

 1943年10月1日,ユダヤ人の輸送を開始する予定で,ドイツから特別警察部隊が送り込まれます.
 しかし,ベストはこの部隊が,ユダヤ人家庭に押し込むのを許さず,ドアをノックして,出てきた者だけを逮捕することになりました.
 その数僅か477名で大多数が混乱した老人だったり.

 残りの人はどうしたか,と言うと,ドイツの海運業者で,後に西ドイツの駐デンマーク大使となった人物が,デンマークの政治家に危険を知らせ,政治家達は大ラビに伝え,9月30日,この日はユダヤ教の新年の前日,その朝に,シナゴーグで大ラビは会衆に危険を知らせ,彼らはいち早く他のデンマーク国民の協力で匿われました.
 非ユダヤ系の人々のうち,特に病院関係者は大活躍し,例えばある救急車の運転手は,電話帳で片端からユダヤ系の名前を見つけて電話を掛けて移送を申し出たり,移送されたユダヤ人を適当な偽名を名乗って,病院に入院させたり,見舞客に化けさせたり,スタッフにしたり,果ては死亡した患者の会葬者になったり….
 特に首都の市民病院では,スタッフ1,000人のほぼ全員がこの救援に関わっていました.

 実は,これにはドイツ軍や警察だって絡んでいます.
 首都の或る街角で,ゴミ収集車を止めたドイツ軍兵士は,中を改めた際に,ユダヤ人が隠れていたのにも関わらず,見逃して行かせましたし,ゲシュタポに捕えられたユダヤ人は,警察まで連行された際,非ユダヤ教徒と結婚していると分かると,彼は逃げなくとも良かった,と諭され,また,彼を逃亡する手助けをしたデンマーク人学生と延々,
「デンマーク侵攻は合法的な行為だったか」
を論じ,彼は4〜5日止められた挙げ句,煙草とコーヒーをおまけに,デンマーク警察に引き渡されたりしています.

 そして,7,800人のユダヤ人のうち,7,200人がスウェーデンにデンマーク人が操る漁船で渡っていったのです.

 普通はそれで満足するのですが,彼らはそれに満足しなかった.
 移送された470人のユダヤ人を解放させるか,より酷い場所に移さないように,心を配りました.
 84歳の学校教師は,数百名の教え子,教育省の役人,コペンハーゲン市長の嘆願書で釈放され,テレジエンシュタットへは,デンマークの政府代表団,赤十字がのべつ幕無しに訪問し,食料の差し入れや,国王のメッセージを届け続けました.
 そして,彼らは1945年4月13日に解放されます.
 その時の死者は,僅かに50名程度にしか過ぎませんでした.

 さて,答え,それはオランダです.
 この国のユダヤ人は,オランダ人警官の手によって連行され――ドイツ人の警察官は,ヒムラー宛の報告書の中で,「オランダの警察は抜群の行動力で,昼夜分たず何百人ものユダヤ人を捕えています.彼らの助けが無ければ,ユダヤ人の一割も逮捕できなかったでしょう」と書いている――,占領下のオランダ政府は,ユダヤ人をせっせと収容所に送り出し,一般市民はユダヤ人から彼らの財産を奪って知らぬ顔の半兵衛を決め込んだりしました.
 ちなみに,Anne Frankを逮捕したのも,ドイツのゲシュタポではなく,オランダの警察官.
 其の内の一人は,1980年まで警察に奉職していたそうです.

「Anne Frankは何を象徴している? オランダの抵抗か,それとも裏切りか?」

 もし,オランダ人に会う機会があったら,こんなことを聞いてみるのも良いかもしれません.

 相手が思慮深い人なら後者を,無邪気もしくは本当の友人と見做していないなら,前者の答えが返ってくることでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月05日07:28


 【質問】
 ポーランドでのユダヤ人迫害の実情は?

 【回答】
 以下に,42年6月までのポーランド総督府でのユダヤ人迫害事例を列挙する.

<ワルシャワ管区>

日付   人数   概要
42.02   4618  餓死.ワルシャワにて.[G:89]
42.03   4000  餓死.ワルシャワにて.[G:93]
42.04   4432  餓死.ワルシャワにて.[G:96]
42.05   3636  餓死.ワルシャワにて.[G:98]
42.05.07  2500  ソビボル収容所に移送.リーキから.[G:99]
42.05-10 数百人 脱走.ワルシャワから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10 50    脱走.トレブリンカから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10 4000  森林地帯(パルチェフ付近の)に逃げ込む.ワルシャワ管区
           南部から.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.06   4000  餓死.ワルシャワにて.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<ルブリン管区>

日付   人数   概要
42.01  1000  チェシャノフの奴隷労働キャンプに移送.ベルスから.生き残りほとんどなし.[G:89]
42.02.25  1500  チェシャノフの奴隷労働キャンプに移送.トマシュフ・ルベルスキから.生き残りほとんどなし.[G:89]
42.01  96  射殺・殺害.ヴウォダヴァ西部でゲットー移送中に脱走したユダヤ人を探索.[G:89]
42.03.17  1600  ベウジェツ収容所に移送.ルブリンから.[G:91]
42.03.17  843  ベウジェツ収容所に移送.ドゥビエンカから.[G:91]
42.03.17  1343  ベウジェツ収容所に移送.フルビエシュフから.[G:91]
42.03.17  500  ベウジェツ収容所に移送.ベウジェツ村から.[G:91]
42.03.17  十数人  ベウジェツ収容所にて殺害.キャンプ建設に従事していたルビチァ・クロレフスカ村(ベウジェツの南東約8km)のユダヤ人.[G:91]
42.03.18-25  10000  ベウジェツ収容所に移送.ルブリンから.[G:93]
42.03  2000  ベウジェツ収容所に移送.カジミェシ・ドルニィから.[G:93]
42.03  1500  ベウジェツ収容所に移送.ヴァヴォルニツァから.[G:93]
42.03.31  3000  ベウジェツ収容所に移送.オポーレ・ルベルスキエから.[G:93]
42.03  3400  ベウジェツ収容所に移送.ピヤースキから.[G:93]
42.03  272  ベウジェツ収容所に移送.シェニツァ・ロザナ(クラスニスタフ近郊)から.[G:93]
42.03.24  2200  ベウジェツ収容所に移送.イズビツァ・ルベルスカから.[G:93]
42.03  数百人  ベウジェツ収容所に移送.ザモシチから.[G:93]
42.03  2500  ベウジェツ収容所に移送.ビウゴライから.[G:93]
42.03  数百人  ベウジェツ収容所に移送.トマシュフ・ルベルスキから.[G:93]
42.04.09-10  800  ベウジェツ収容所に移送.ルバルトゥフから.[G:96]
42.04  200  ソビボル収容所に移送.ウェンチナから.[G:96]
42.04  2225  ベウジェツ収容所に移送.ウェンチナから.[G:96]
42.04  4200  ベウジェツ収容所に移送.ピヤースキから.[G:96]
42.04.12  2000  ベウジェツ収容所に移送.クラスニクから.[G:96]
42.04  384  ベウジェツ収容所に移送.ラドミシル・ナド・サネムから.[G:96]
42.04  1000  ベウジェツ収容所に移送.クラスニスタフから.[G:96]
42.04  5000  ベウジェツ収容所に移送.チェシャノフから.[G:96]
42.04.10  1650  ベウジェツ収容所に移送.ウハニエから.[G:96]
42.04  1000  ベウジェツ収容所に移送.クラシニチェンから.[G:96]
42.04.11  3000  ベウジェツ収容所に移送.ザモシチから.[G:96]
42.04  2000  ベウジェツ収容所に移送.ルバチュフから.[G:96]
42.05.23  1500  ベウジェツ収容所に移送.コマルフ・オサダから.[G:98]
42.05.08  280  ベウジェツ収容所に移送.シチェブジェシンから.[G:98]
42.05.22  1000  ベウジェツ収容所に移送.ティショフツェから.[G:98]
42.05.27  350  ベウジェツ収容所に移送.ワシチュフから.[G:98]
42.05  1500  ベウジェツ収容所に移送.ベルスから.[G:98]
42.05.06  2500  ソビボル収容所に移送.デンブリンから.[G:99]
42.05  3500  ソビボル収容所に移送.プワーヴィから.[G:99]
42.05.08  3500  ソビボル収容所に移送.コスニコヴォーラ(プワーヴィ近郊)から.[G:99]
42.05.07  1000  ソビボル収容所に移送.ユゼフフ(ヴィスワ川沿いの)から.[G:99]
42.05  3000  ソビボル収容所に移送.オポーレ・ルベルスキエから.[G:99]
42.05  500  ソビボル収容所に移送.ヴァヴォルニツァから.[G:99]
42.05.09  1500  ソビボル収容所に移送.マルクシュフから.[G:99]
42.05.08  1500  ソビボル収容所に移送.バラヌフから.[G:99]
42.05.10  2500  ソビボル収容所に移送.ミーフフから.[G:99]
42.05  500  ソビボル収容所に移送.リソビキから.[G:99]
42.05.09  800  ソビボル収容所に移送.ルバルトゥフから.[G:99]
42.05.23  2000  ソビボル収容所に移送.ヴウォダヴァから.[G:99]
42.05.18  1000  ソビボル収容所に移送.シェドリシチェから.[G:99]
42.05.21  4300  ソビボル収容所に移送.ヘウムから.[G:99]
42.05.14  1200  ソビボル収容所に移送.ゴシクフから.[G:99]
42.05.12  1000  ソビボル収容所に移送.ゾウキエフカから.[G:99]
42.05  1000  ソビボル収容所に移送.ヴィソーキエから.[G:99]
42.05.12  2750  ソビボル収容所に移送.トゥロヴィンから.[G:99]
42.05  1900  森林地帯に逃げ込む.ミーフフ,マルクシュフ,カミオンカから.生き残り100人以下を除く.[G:101]
42.05-10  4000  森林地帯に逃げ込む.パルチェフから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10  4000  森林地帯に逃げ込む.ルバルトゥフから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10  1000  森林地帯に逃げ込む.プワーヴィから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10  14800  森林地帯に逃げ込む.フルビエシュフから.生き残り200人以下を除く.[G:102]
42.05-10  90  森林地帯に逃げ込む.ヤヌフ・ルベルスキから.生き残り10人以下を除く.[G:102]
42.06.10  3000  ソビボル収容所に移送.ビャワ・ポドラスカから.[G:105]
42.06  1000  ソビボル収容所に移送.スワヴァティチェから.[G:105]
42.06  数百人  ソビボル収容所に移送.10才以下の子供数百人.ヴウォダヴァから.[G:105]
42.06.10  1650  ソビボル収容所に移送.ウハニエから.[G:105]
42.06  2670  ソビボル収容所に移送.ドゥビエンカから.[G:105]
42.06.02  3049  ソビボル収容所に移送.フルビエシュフから.[G:105]
42.06.08  1200  ソビボル収容所に移送.グラボヴィエツから.[G:105]
42.06.06  1000  ソビボル収容所に移送.クラシニチェンから.[G:105]
42.06  500  ソビボル収容所に移送.チィツォフ(ルブリン市近郊)から.[G:105]
42.06  100  殺害.ベルスにて.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<ラドム管区>

日付   人数   概要
42.02.19  40  「血の木曜日」.ラドムにて.[G:89]
42.04.27  100  不明.トマシュフ・マゾヴィエツキにて.[G:96]
42.04  70  射殺.ラドムにて.[G:96]
42.04.28  数百人  アウシュヴィッツ収容所に移送.ラドムから.[G:96]
42.05-10  14000  森林地帯に逃げ込む.キェルツェから.生き残りほとんどなし.[G:102]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<クラクフ管区>

日付   人数   概要
42.03.17  4500  ベウジェツ収容所に移送.ミエレツから.[G:91]
42.04.30  300  不明.グリブフにて.[G:96]
42.04.30  70  不明.ビェチュにて.[G:96]
42.05-10  8500  森林地帯に逃げ込む.クラクフから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.06  3000  ベウジェツ収容所に移送.ピリツァから.途中数百人が脱走.[G:105]
42.06.01  2000  ベウジェツ収容所に移送.クラクフから.[G:105]
42.06.02  5000  ベウジェツ収容所に移送.クラクフから.[G:105]
42.06  500  ベウジェツ収容所に移送.ダブローヴァ・タルノフスカから.[G:105]
42.06  11000  ベウジェツ収容所に移送.タルヌフから.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<ガリチア管区>

日付   人数   概要
42.03.20  1500  ベウジェツ収容所に移送.ラヴァ・ルースカヤから.[G:93]
42.03.15  700  ベウジェツ収容所に移送.ゾルキエフから.[G:93]
42.03  15000  ベウジェツ収容所に移送.リヴォフから.[G:93]
42.03  1500  ベウジェツ収容所に移送.ドロホヴイチから.[G:93]
42.03.20  2000  ベウジェツ収容所に移送.ロハティンから.[G:93]
42.03.25  1000  ベウジェツ収容所に移送.テルノポリから.[G:93]
42.03.31  6000  ベウジェツ収容所に移送.スタニスワウフから.[G:93]
42.04  35  射殺.ソカリにて.[G:96]
42.04.28-30  数百人  射殺.プシェミシルにて.[G:96]
42.04.03  1200  射殺.トルマツにて.[G:96]
42.04.02  1000  射殺.コロムイヤにて.[G:96]
42.04  1000  射殺.ペチェニェジンにて.[G:96]
42.04  400  射殺.サブロトフにて.[G:96]
42.04  950  射殺.クトイにて.[G:96]
42.04.04  1500  射殺.ホロデンカにて.[G:96]
42.04  1000  射殺.スニアトゥインにて.[G:96]
42.05.05  1000  射殺.リヴォフにて.[G:98]
42.05.18  180  不明.トルマツにて[G:98]
42.06  800  殺害.ルトヴィスカの市場にて.[G:105]
42.06  3000  不明.コロムイヤにて.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

軍事板


 【質問】
 ルーマニアで起こった,ユダヤ人移送のサボタージュについて教えてください.

 【回答】
 ルーマニアでのユダヤ人移送サボタージュは,ルーマニアの農民が線路に横たわってでも阻止する構えだったらしいです.

 また,ナチスのユダヤ人虐殺の証拠を,バチカン法王や米英の指導者に最初に伝えたのも,ルーマニア系ユダヤ人の若者たちでした.

軍事板,2000/07/12(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 以前にNHKスペシャルでドイツはユダヤ人没収資産(現金,金塊,美術品等)をスイス銀行を利用して,戦費に充てなければ,ドイツは三ヶ月もたなかったという事が言われてましたが,本当でしょうか?
 個人的にはホロコーストを行わず,それらに充てていた収容所護衛の為の兵士,輸送用の車両,収容所建設の為の予算等を戦争に充てていたら,欧州戦線の状況はかなり違った物になったと思うのですが.

 【回答】
 ドイツは5年間近く戦争していますから,
4年*12月=48ヶ月
として,ユダヤ資産無しで3ヶ月持たないとするならユダヤ資産で45ヶ月以上戦争したことになります.
 戦前ドイツの資産が9割以上,ユダヤ資産でなければありえない計算ですなあ.
 …東南アジアの華僑じゃああるまいし.

 さて,1932年のライヒ財政は,租税収入が87%を占めていました.

 33年にHitlerが政権を握ると,この租税収入の比率は低下し,36年には50%を割り込むことになります.
 その代わりに増えたのが,公債収入と手形金融で,手形金融が36年度に支出の38%,公債収入は同年度に支出の13%を賄っていました.

 この間のライヒ財政収入は一貫して赤字財政です(33年は3%,38年度に6%〜計算方法によっては14%).
 公債収入に関しては,公債の利率を4.5%に抑え,会社の配当を6%に設定してそれを超える場合は,強制的に割引銀行に公債基金として預託し,銀行その他金融機関に公債の引き受けを強制しています.

 それ以外に,ライヒ鉄道の優先株売却(33〜34年),公債償還基金の取り崩し,失業保険制度を元にした,ライヒ職業紹介失業保険庁と,ライヒ社会保険機関からの財政援助が,国家財政とは別に行なわれています.

 後,1938年度以降,ドイツ国籍のユダヤ人に対する特別財産税,これは1938年度に4億9851万マルク,39年度は5億3313万マルクが徴収されています.

 このほか,オーストリア併合に伴い,国防などの行政経費相当分が州となったオーストリアからライヒ政府に1億8741万マルク,社会保険料としては,5608万マルクが納入されています.

 更に,1939年1月からは,ライヒ税法による所得税の適用が行なわれていますが,これは旧オーストリア国民にとってみれば,配偶者と子供二人を持つ労働者は20%の増税となっています.

 それと,チェコスロヴァキア併合で,中央銀行の7786万マルクの準備金が没収され,ライヒ政府の会計に組み込まれています.

 一方,1933〜37年度の国防支出は323億マルク,これは政府支出925億マルクの35%です.
 この支出には,メフォ手形と呼ばれる政府特殊手形が206億マルク,雇用創出手形2億マルクが入っており,国防費に投入された租税収入は,償還費用を除けば,190億マルクになります(租税収入509億マルクの37.3%).
 ユダヤ人からの特別財産税なんてへの突っ張りにもなりません.

 こういった種々の手形や公債での国防費管理は限界に達し,1938年末には国庫の資金は20億マルクの不足に陥り,10月のズデーテンラント侵攻の費用にも事欠く有様だったりしていました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 ユダヤ600万人殺害って数字は,どの程度根拠があるのかな?
 なんか,数がデカすぎてさ.ホンマかいなって思ってしまう.
 もう少し少なかったんじゃないかな?と.

 【回答】
 国別にもちっと細かい数字もあるが.
 ▼この数字には「戦争が起こったことでの人口減」(かなり間接的に“殺された”わけだよね)も含まれてる.
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.156
によれば,

――――――
 最新の研究に基礎をおいて推定された,ヨーロッパ・ユダヤ人の犠牲者数は,ガス室で殺されたものや射殺されたもの,あるいは餓死や肉体的虐待による死者を合わせて,少なくとも600万人というものが,一番確実である.
――――――

という.
 全員が全員,ガス室に消えたわけではない.

 ▼ただ,それをさっぴいても有史以来ぶっちぎりのジェノサイドなので,ドイツも今更数が多少減ったところで,と諦念にある.
 また,有史以来ぶっちぎりのジェノサイドなので,ドイツも今更数が多少減ったところで,と諦念にある.▲

世界史板

 下記のサイトに,「600万人」の根拠として以下の内容の記述があります.
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/600.html

 「600万人」という数字自体の信憑性を立証するものとは言い難いかもしれませんが,一応の根拠として紹介します.

-------引用----------------------------------------------

 1945年11月26日になされた元親衛隊保安本部の少佐ヴィルヘルム・ヘットル(Wilhelm Hoettl)の宣誓供述書があります.
 それはニュルンベルク裁判に提出され,これが世界中にユダヤ人犠牲者の数として流布されたのです.
 ヘットルはアイヒマンを個人的にもよく知っており,1944年8月末にどれほどのユダヤ人が殺されたのかを,「歴史家としての」(alsHistoriker)興味からたずねています.つぎがアイヒマンの答えです.

「彼[アイヒマン]は少しまえに,ヒムラーが殺されたユダヤ人の正確な数を知りたいといったので,彼に対する報告をまとめた.
 彼はそのさい,自分の持っている情報を基礎にして,以下のような結果をえた.
 さまざまな絶滅収容所で,約400万人のユダヤ人が殺され,他方でさらに,200万人が別のかたちで殺されたが,その大部分はロシアに対する戦争の間に,保安警察の特別コマンド[移動殺戮部隊]によって殺されている.
 ヒムラーはこの報告に満足しなかったようだ.というのは,彼の意見では,殺されたユダヤ人の数は600万より多いはずだったからだ.
 ヒムラーはこう宣告した.自分の統計局からひとりをアイヒマンに派遣し,アイヒマンの資料をもとにして,新しい報告を作成させ,そこで正確な数を仕上げるべきだ,と.
 私は,アイヒマンの私に対する上記の情報は,正しいものだと受け入れざるをえない.というのも,問題にかかわった人々のなかで,彼だけが殺されたユダヤ人の数について,最良の概要を作れたからだ.云々.」(IMT,Bd.31,p.86.(2738-PS))

 アイヒマンは周知のように,親衛隊におけるユダヤ人問題処理についての,事実上の最高責任者といってよく,彼の計算結果がそのまま受け入れられたのは当然でした.
 ヒムラーが実際に,もっと高い数字の結果をえたかどうかは,判明していません.

-------引用終わり----------------------------------------------

lala in FAQ BBS

 被害者の統計的精査で最も包括的なものは,イスラエル・ガットマンらによるもの.
 「Encyclopedia of the Holocaust (Macmillan Library Reference) (Hardcover)」の中で,ナチスの支配下に入った各国毎に,住民票,選挙人登録記録等によりナチスによるユダヤ人の拘束前のユダヤ人人口をカウント.
 その後のドイツ国鉄による強制収容所移送記録,アインザッツグルッペによるユダヤ人処理報告,警察連隊によるユダヤ人殺害報告等を加算.
 戦後,原居住地に帰還,もしくはイスラエルに移住した,収容所からの生還者に広汎にインタビューし,行方不明者・殺害が確実視される被害者総数の累計が560万から586万と弾きだしている.
 当該追跡調査には,オランダ赤十字などが純粋に連行された自国民の安否確認という意味合いで参加している.
 ロシア・ウクライナなど旧ソ連内の犠牲者に関しては,原則的にアインザッツグルッペによる報告のみでのカウント.

軍事板



 【珍説】
そりゃ,印象操作のプロが書いたすごい物だろうから,良くできているだろうと思うよ.

>収容所からの生還者に広汎にインタビューし,

 これがある限り無価値に近いな.
 インタビュアー,レポータが信用できるかどうかの問題だ.

 【事実】
 自分でいっぺん読んでみなって.

 インタビューに一番力をいれたのは,オランダ赤十字ね.
 この調査があってはじめて,アンネ・フランクがベルゲン・ベルゼンで病死したことがほぼ確定できたのよね.
 インタビューのなかで,アンネ・フランクの死亡は2月中とほぼ間違いないとしてたけど,尚,慎重に3月中までには死亡が確実視されるっていう線を出すだけの分別があるわけ.
 この種の卓見を示した否定派文献って寡聞にして,知らんな.

 ああ,それとね,オランダ赤十字の調査って戦後すぐに着手しててね,ガットマンはそれを引用してる.
 まあ,そう意味では,俺のオランダ赤十字の参加ってのは厳密には間違い.

 とりあえず,史料出したんだから,頑張って読んで,反証あげてくれや.

軍事板


 【質問】
 レオン・ポリアコフの「550万人以上」説は,どのようなものか?

 【回答】
 パリ現代ユダヤ人資料センター代表,レオン・ポリアコフは,レスチンスキを参考にして,SS行動部隊による犠牲者数を,150万人と見た.

 参考にされたレスチンスキの推計というのは,1959年,人口統計学者ヤコブ・レスチンスキが算出した推計値で,275万人という1950年に生存していたヨーロッパ・ユダヤ人人口のデータと,1939年のユダヤ人人口統計をもとにしている.
 その結果,600万人以上のユダヤ人がナチスのジェノサイドの犠牲になったことになると推定した.

 ポリアコフはまた,ポーランド戦犯裁判調査委員会によるベウジェッツ,ソビブル,トレブリンカ,ヘウムノ絶滅収容所ガス室で殺害された人数が,185万人であるという推定も用いている.

 マイダネクで死亡した人数については,20万人という数字を採用している.

 アウシュヴィッツについては,200万人という数字のほうが,より正確な推定であると考えた.

 この推定は初期の研究の一つであり,それ以降に出てきた史料よりも信頼度が低い史料に依拠したものだった.

 詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.152-153
を参照されたし.


 【質問】
 ジェラルド・ライトリンガーの460万人説とは,どんなものか?

 【回答】
 歴史家ライトリンガーは1953年,「議論の余地のない最小の数字を算出する」ことを原則として,当時知られていたホロコースト犠牲者数に関する情報を,批判的に検証.
 そのため細心の注意をもって,証拠を取捨選択し,疑わしいケースはナチスの公式情報であっても使わなかった.
 例えば彼はアウシュヴィッツでの死者数が,75万人を超えることはないと判断した.

 彼が最終的に到達した,ナチスによるユダヤ人殺害数は,最小で419万4200人,最大で458万1200人というものだった.
 彼は600万人という数字と,彼自身が出した数字との差について,
「現在ソ連とルーマニアの統治下にある地域では,分かっている事実と何ら関係のない数字が提示され,極めて恣意的な被害推定がなされた」ことに求めた.

 詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.153-154
を参照されたし.


 【質問】
 ナチスは,ユダヤ人以外の民族もかなりの数を虐殺しているというのは本当でしょうか?

 【回答】
 調べればすぐに出てくると思うが…
 ソ連領内でもユダヤ人以上にロシア人を殺しまくってるし,ジプシーもやられた.
 同性愛者,社会主義者,身体障害者は,ドイツ人であっても収容所送り.ドイツ人だけでも50万と言われている.
 ナチスの収容所=ユダヤ人用という認識が強すぎるし,他はもう抗議しないので話題にならないが.


 【質問】
 戦争やってるさなかに,多大な労力かけてホロコーストやってるなんて,ナチス・ドイツって馬鹿じゃね?

 【回答】
 現代史家の栗原優氏は,次のように述べています.

――――――
 しばしば,ユダヤ人絶滅政策は,生かして働かせれば役に立つものを殺したのだから,非合理的な行為だというように考えられている.
 しかしそれは正しくない.
 のちにも明らかにするように,絶滅政策において実際に行われたのは,なによりもまず労働能力のないものの殺害であって,労働能力のあるものについては生かしておいて,これを使いきるという政策が取られたのである.
 それ故,殺害の対象となったのは何よりも病人,身体虚弱者であり,女子供であった.
 いうまでもなく,これらは食料を消費するだけで価値を生まないものと考えられたのであり,ナチスの食料政策からすればむしろ「合理的」な行為であったのである.〔……〕

――――――『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 ホロコーストの起源と実態』(MINERVA西洋史ライブラリー19)ミネルヴァ書房,1997,p.80

 そして現実には,東方に追放したユダヤ人が収容されたゲットーは,食料の欠乏に晒され,収容能力を超える人数が詰め込まれた事から,伝染病の温床ともなっていました.
 また,ナチのイデオロギーによれば,ユダヤ人は文明を損なう人種であり,ヨーロッパから根絶されるべきものでした.
 ゲルマン民族の東方植民を円滑に進める為には,「ユダヤ人問題の最終的解決(Die Endlosung der Judenfrage)」が必要とされたのです.
 戦争の最中だったからこそ,穏健な追放(もちろんこれも民族浄化と呼ばれるべき行為なのですが)をすることができずに,ホロコーストという手段が選択された,とみるべきではないでしょうか.

「ストパン」■(2009-03-22)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・番外編
青文字:加筆改修部分

 なお,
『ホロコーストと国家の略奪 ブダペスト発「黄金列車」のゆくえ』(ロナルド・W・ツヴァイグ著,昭和堂,2008.10.30)
によれば,絶滅させる側にとっては,これは極めて利益性の高い事業だったという.
 高官から末端の兵士に至るまで,ホロコーストの過程でユダヤ人から財産を没収,または掠奪することができた.

 つまり,たとえ国家単位では損益であっても,ナチス単位では旨味があった.
 ある意味,大規模な汚職と言えるかもしれない.

 現代でもいますよね?,私腹を肥やすためなら,薬害などで何人死んでも構わない,といったような連中が.


 【珍説】
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm
http://vho.org/GB/Books/t/#
試訳:東部占領地区での特別行動部隊の役割

「それら[文書]は謄写版刷りであり,署名があるものはまれである.
 もしあったとしても,犯罪的な内容ではない頁についている.
 たとえば,資料NO-3159は,R. R. Strauchの署名がついているが,特別行動部隊のさまざまな部隊の配置がしめされている冒頭の頁だけである.
 1942年8月−9月に363211名のロシア系ユダヤ人を処刑したことをヒトラーに報告したヒムラーの報告とされているNO-1128もある.
 この話はその4頁目に掲載されているが,ヒムラーの署名とされている署名は不適切な1頁目にある.
 さらに,ヒムラーの署名を偽造するのは簡単である.
1つの水平線に3つの垂直線を引けばよい」
「ドイツ国防軍総司令部裁判でのアメリカの軍事法廷がすでに述べているように,『ソ連邦事件報告』は配置,指定時刻,部隊,その他,兵力,装備,補助兵力,兵站などの詳細について非常にあいまいである.
 ベルリンで書かれた,あるいは書かれたとされる文書の断片にある数字は,たとえ報告自体が本物だとしても,歴史家にとってはきわめて脆弱な証拠である.
 文書の断片に登場している数字は,偽造可能であり,文書を綿密に検証することが必要だからである.」

 これに反論してみろ.

 【事実】
 その記述は,ソ連軍が,RSHAから押収した文書を元に論旨を展開しているが,警察連隊,ゾンダ−コマンドの報告は,より信頼性の高い,国防軍日次戦闘報告にふんだんに存在する.
 これらに関しては,署名・書式・糧食人員等他の戦闘部隊と同様の記述が残されていて,史料性に関して疑念の入る余地はない.
 こういった,より信頼度の高い史料を無視して,論旨を展開しても信憑性にかける.

ワシントンの国立公文書館に
Die Kommanndierende General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heersgruppe Mitte
で,問い合わせをすれば,少し高いが,マイクロフィルムからのコピー送ってもらえる.

軍事板

▼ なお,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.152
によれば,少なくとも53万5000人のユダヤ人殺害を証明する文書が,現存しているという.
 それは
・1941.6.23〜1942.4.24の期間の,保安警察・親衛隊保安部による「ソ連事件報告書」(195のうち194が現存)
・1942.5.1〜1943.5.21の期間の,保安警察・親衛隊保安部による55の「東部占領地域」報告書
・11の総括的な「ソ連における保安警察・親衛隊保安部行動部隊活動・情況報告」
の3種である.

 絶滅作戦,ポグロム,虐殺に関して利用できる他の史料から,ナチ占領下ソ連で最初の9ヶ月だけで,少なくとも70〜75万人のユダヤ人が殺害されたことは明らかだという.▲


 【珍説】
 ゲリラ・パルチザン狩りはしたが,ユダヤ人絶滅など知らない・・・・と

  犯罪を認める証言の中でも,オーレンドルフ将軍の証言は,具体的な真相を明らかにするものである.
 彼は,一九四一年の夏から一九四二年の夏まで,ロシア南部でパルチザン活動を指導していた政治委員の処刑を任務とする“アインザッツグルッペン”[機動分隊]を指揮していた.

 国際軍事裁判で,彼は,その任務に加えて口頭命令で支給されたトラックを利用してユダヤ人を絶滅する任務を受けており,その対象には女性と子供も含まれていたと告白した(ニュルンベルグ国際軍事裁判記録[原注1]).

 ニュルンベルグ軍事裁判の第九事件におけるオーレンドルフ将軍の二度目の証言は,まったく異なるものになっていた.
 最初に彼は,ユダヤ人絶滅の口頭命令に関する国際軍事裁判での告白を撤回した.
 彼は,ユダヤ人とロマ人を殺したが,それはパルチザンとの戦闘の範囲内でのことで,ユダヤ人やロマ人を絶滅する特別の計画に従ったものではないと主張した.
 
 ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-18.html

 【事実】
 すげぇな.
 ユダヤ人は東欧・ロシアで師団単位のゲリラ部隊を編成してたんだ!
 しかもドイツ軍は毎月師団単位のゲリラを殲滅していたことになるなぁ.

 えっと・・・誰の仮想戦記でしょうか?

 まず,アインザッツグルッペン”[機動分隊]が編成されたのは戦前からで,
>戦争中に,ソ連のゲリラに対抗して
ではない.

 Einsatzgruppen (German for "task forces" or "intervention groups") were paramilitary groups operated by the SS before and during World War II.
http://en.wikipedia.org/wiki/Einsatzgruppen

 戦前の警察機動部隊が,その前身.

 自然発生的にパルチザンが活動はじめたんは.1942〜43以降だろうが,アインザッツグルッペの最初のユダヤ人殺害報告は1941年6月23日,
 つまりは独ソ戦開始の翌日.
 千人単位の殺害報告が各警察大隊から上がるのは同年6月29日から.

 ソースはGoldhagenなり,公文書館のOKHの警備部隊日次報告をみれ.

 それでも,上記部隊によるユダヤ人殺害が戦闘行為といいたいなら,この日付で,既にパルチザンが活動して,しかもそれにユダヤ人が多数参加していた,というソースを出して来な.

 また,こんな資料もある.

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/6/64/Himmler_report.jpg

2・ゲリラの支援者と容疑者
A:「支援者」の処刑数:四ヶ月で一万四千人
B:「支援者」の逮捕数:四ヶ月で一万六千人
C:「ユダヤ人の処刑数」:四ヶ月で36万人

 どう見てもゲリラとは別に処刑されてます.
 本当にありがとうございました.

 A:戦闘中に殺害した数
は四ヶ月の間に1500人程
 B:直ちに処刑された捕虜数
は700人程
 C:拘束され尋問された後処刑された捕虜数?
は8000人程.
 つまり2・のパルチザンシンパとは別に報告されている.

 四ヶ月で36万人を処刑するのはどう見ても,パルチザンのシンパ狩りに運悪く巻き込まれたレベルを超えていますよ.
 しかもわざわざユダヤ人と通常のシンパを別に報告しており,処刑された数もユダヤ人が圧倒的に多い.

 そもそも,「撤回した」って本当?

オーレンドルフの1946年1月3日の証人尋問

OHLENDORF: The instructions were that in the Russian operational areas of the Einsatzgruppen the Jews, as well as the Soviet political commissars, were to be liquidated.
COL. AMEN: And when you say "liquidated" do you mean "killed"?
OHLENDORF: Yes, I mean "killed".

事件9のオーレンドルフの宣誓供述書

The Einsatzgruppen had the following assignments:
They were responsible for all political security tasks within the operational area of the army units and of the rear areas insofar as the latter did not fall under the civil administration.
In addition they had the task of clearing the area of Jews, Communist officials, and agents. The last named task was to be accomplished by killing all racially and politically undesirable elements seized who were considered dangerous to the security.
I know that theEinsatzgruppen were assigned partly to the reconnaissance of guerrilla bands, fighting guerrilla bands, and to military tasks and, after completion of their basic assignments, were partly converted into combat units.

 他に,オーレンドルフが供述変えたってソースある?

軍事板


 【珍説】
 SSがユダヤ人を虐待することは犯罪だった.
 アウシュヴィッツ収容所では親衛隊員すべてが
「私はいかなる囚人も傷つけたり殺害することを許されない」
という内容の宣誓書に署名させられた.
 したがってホロコーストは捏造.

 【事実】
 そりゃ,SSの治安部隊としての面からすれば当然のことだろう.
 下手に私刑行為がまかり通れば,規律が崩れる.
 ワルシャワ蜂起でのディレルヴァンガー特別連隊やカミンスキー旅団なんかいい例だ.
 それともSSを,SAみたいなチンピラゴロツキ(だつお風)集団とでも思ってるのだろうか?

 ロシア中部HSSPFだったバッハ=ツェレウスキーが神経をやられて,肝硬変を起こして職務続行が困難になったのも,オットー=ラッシュSS少将が職務放棄したのも,ハインツ=ヨストSS少将が転地療養となったのも,単に「ゲリラの掃討とそれに伴う民間人の犠牲」に耐えられなかったからか?
 ライヒ保安本部への「事件通報・ソ連」は捏造か? これに記載してあるユダヤ人の数は誇張されてるのか?

 ディルレワンガ−連隊の戦闘日誌でも,ユダヤ人とシンチ・ロマの殺害は別枠で報告してるんだよね.パルチザン何人,同容疑者何人,ユダヤ人何人,ロマ何人って報告の仕方になってる.
 その仕方はアインザッツグルッペンの報告でも同じ.
 無論,戦線後方の治安を担当した,数多くの警察大隊(ORPO指揮下)も同じく.

 いずれも,SSの組織内だけど,命令系統って別だし,
 こんなの見てると,戦線後方で活動の中に,ユダヤ人の狩り出しと殺害っての含まれるが,SS全般の共通の了解事項にしか見えないのよ.
 ってことは,組織としての虐殺行為の傍証って感じではあるなあ〜

 ナチスの理解では,パルチザンや人民委員の処刑は直接的だが表面的な方策,
 ユダヤ人やロマの処刑は,間接的だがより根本的な解決をめざすやり方という感じだろう.
 で,後者が今日ジェノサイド,すなわちホロコーストとして理解されているわけだ.

 ディルレワンガ−に関しては
『The Cruel Hunters: Ss-Sonderkommando Dirlewanger Hitler's Most Notorious Anti-Partisan Unit (Schiffer Military History) (Hardcover)』
 脚注で,アメリカ国立公文書館所蔵のマイクロフィルム:中央軍集団警備部隊報告

 警察連隊に関しては
『Uniforms, Organizations & History of the German Police, Vol. 1』

 同書脚注では,下記の書籍からの引用となっている.
『Hitler's Willing Executioners: Ordinary Germans and the Holocaust (Paperback)』
by Daniel Jonah Goldhagen
 Goldhagenの原著は未読のため,一次史料に関しては不明.
 個人的見解だが,『Uniforms・・・』の著者Angoliaの過去の実績から見て,記載内容に信頼が持てない書籍から引用はしないとおもわれるので,少なくともAngolia自身はGoldhagenの記載を信頼に値するものと考えていたのは確実.

軍事板


 【質問】
 ネオナチの外国人襲撃は,どれだけ増加しているのか?

 【回答】
 91年頃から急増し,92年の1年間で死者17人,4000件強の外国人に対する刑事事件が起き,その内700件以上が焼き討ち事件だったという.
 以下引用.

 1991年頃から,一般にネオナチと総称される様々な集団による,外国人への暴力沙汰や殺人事件が一気に増え始めた.
 既にドレスデンでは91年の3月に,走行中の市電からモザンビーク人が突き落とされて死亡しているし,同年6月には,南ドイツの風光明媚な町フリードリスハーフェンでアンゴラ人がスキンヘッドに殺されている.
 9月にはフランス国境近くのザールルイでガーナ人が放火により死亡、といった具合で東西〔ドイツ〕の区別がなかった.

 だが,人々の耳目を顫動〔せんどう〕したのは,91年九月に旧東独のホイアースウェルダという工業都市で起きた,外国人宿舎への大規模な襲撃事件である.
 襲撃後,当局は今後を恐れて外国人を「疎開」させたが,これが火に油を注ぐことになった.要するに襲撃すれば「外国人抜き」(ナチの時の「ユダヤ人抜き」のもじり)にできると受け止められたからである.
 この事件は,旧東独時代の計画経済による人工的工業都市の侘しい団地が舞台だった.
 そのため政府は,劣悪な都市環境による人心荒廃を理由に挙げて説明しようとしたが,このような「情状酌量」は政治的鈍感さでしかなかった.
 というのも,旧西ドイツ北部の「普通の町」メルンでも,92年11月23日未明に残酷な放火事件が起きたからである.トルコ人の家に火がつけられ,3人が亡くなった.警察には「ラッツェブルガー通りで火事だ.ハイル・ヒトラー」という電話があった.
 さらに92年の8月24日には,旧東独のバルト海に面した古い港町ロストックの郊外団地リヒターハーゲン地区で越南人や庇護権申請中の外国人が沢山住むアパートに,数日に渡って大規模な襲撃が繰り返され,アパートが燃え盛った.
 幸いこのときは,住民達が屋根伝いに隣のブロックに逃げたために死者は出なかったが,警察も消防も初めは真剣に事に当たらず,襲撃犯や放火犯のなすがままだった.機動隊長は午後に「休憩」と称して家に帰って昼寝をしていたという有り様で,さすがにこれは後で問題になった.
 襲撃は4日間続き,2日目以降は一晩中燃え盛った火事の光景を始め,一部始終が全ドイツにテレビ中継された.
 周りには夕方になると集まる右翼の若者と見物人目当てにソーセージ屋のスタンドが立ち,野次馬達がビールを片手に外国人が逃げ惑うのを見て歓声を上げる始末だった.

 92年から93年にかけて,外国人への襲撃のニュースがない日はない,といっていいほど事件が続いた.
 例えばロストックの事件直後の92年8月30日のたった一日だけで,シュヴェリーン(旧東ドイツ)で,60人の集団が庇護権申請者の収容所を襲い,旧西ドイツのダルムシュタット近郊で外国人の宿舎に何発も銃弾が撃ち込まれ,アイゼンヒュッテンシュタット(旧東ドイツ)では,八十人のスキンヘッズが同じく庇護権申請者の収容所に放火するなど,全ドイツで7件も大規模な事件が起きている.まさに同時多発攻撃である.

 翌93年5月30日,旧西ドイツのゾリンゲンで,子供も含む4人のトルコ人が焼き殺され,多数が大火傷を負った事件は,世界中の耳目を驚かせた.
 外国人宿舎にスキンヘッズの若者が野球のバットを持って侵入し,乱暴狼藉を働くのは,あるいは夜の街路で肌の色の違う外国人が襲撃されるのは,この頃,日常茶飯事だった.
 地下鉄で外国人が半殺しに殴られているのを,他の乗客が黙って見ていた事件もあった.

 結局,92年の1年間で死者17人,4000件強の外国人に対する刑事事件が起き,その内700件以上が焼き討ち事件だった.
 また,ユダヤ人墓地の破壊も頻発した.
 1990年までは旧西ドイツで年間に200件から250件ほどだった右翼の暴力沙汰は,91年にほぼ1500件,92年には4000件となった.
 2年間で20件に増えたことになる.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.64-67
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし

 穏やかなトロムソの町にも,ナチスを気取る青年がいます.
 彼らを山で厳しく鍛錬させ,歴史の大家にナチスの戦時中の蛮行について講義してもらったが,効果がない,どうしたものかとの訴えが〔,トロムソでの国際会議にて〕ありました.
 野村生涯教育センターでは,家族や学校から排斥される若者をまず受け入れる.
 そして,彼らの人生を狂わせた原因が,家族に,学校にないか,親,教師の側から自己凝視を行う.
 そこから話し合いの糸口が見つかる,と東西の対話が続きました.

原不二子著「通訳ブースから見る世界」(ジャパンタイムズ,2004.12.5),p.148


◆◆◆ホロコーストとヒトラー

 【質問】
 ホロコーストは,ヒトラーがユダヤ人を憎んだから起きたものですか?

 【回答】
 まず確認しておくと,ホロコーストの原因にはおおまかに分けて次の2つの説があります.
・意図派
・機能派

 前者は,ヒトラーなどナチ党中枢の,あるいはもっと広げて,社会全体に蔓延していた反ユダヤ主義を重視します.
 後者は,反ユダヤ主義の影響を認めますが,戦争による物資の欠乏の中で,緊急避難的措置としてホロコーストが行われたのだと主張します.

 つまり,「ゲルマン人>スラヴ人>ユダヤ人≧ロマ」という階層構造があり,最も大事だとされたゲルマン人のための食糧を確保するために,優先順位が下の人びとを「口減らし」するというのがホロコーストの構造なのだ,というのが機能派の理解です.
 また,優先順位が下の人びとの中でも,「利用価値がある人びと」は強制労働に用いられました.
 ホロコーストとは,「人間の生命よりも効率を優先させる歯止めのない合理主義」の姿だ,といえるでしょう.※2

※2 栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策――ホロコーストの起源と実態』(MINERVA西洋史ライブラリー19)ミネルヴァ書房,1997,p.84.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ヒトラーはユダヤ人の血が流れていたと言う話を聞いたのですが,本当ですか?

 【回答】
 ユダヤ人の血の定義にについては(ややこしいので)おいとくとして,ヒトラーの父アロイスがマリア・シックルグルーバーの私生児として生まれたために出た噂.

 マリアがグラーツで女中として勤めていた,フランケンベルガーもしくはフランケンライターというユダヤ人が産ませたという説があった.
 しかしその名をもつ人物は実在せず,マリアの結婚相手のヨハン・ゲオルク・ヒードラーもしくはその弟のヨハン・ネポムク・ヒードラーが実父であるといわれている.
 後にアロイスは母のせいから改姓したが,そのときからヒトラーを名乗るようになった.

 なおアロイスの二度目の妻の息子(長男)アロイス二世は後にイギリスに移住し,その息子(アドルフの甥)ウィリアム・パトリック・ヒトラーはアメリカに渡って大戦中は米海軍に勤務した.
 長女のアンゲラの娘(アドルフの姪)がヒトラーの最初の愛人のゲリ・ラウバル.
 アロイスの三度目の妻の息子として生まれたのがアドルフ.
 アドルフの母クララの母はヒードラー家の生まれ.
 このようにヒトラーの家系は複雑に入り組んでいる.

 手塚治虫「アドルフに告ぐ」の元ネタですな.

軍事板

 付記しておくと,ヒトラー自身もこの噂の真偽には悩んでおり,ひそかに調査させていた.
 が,その結果が出るまえにベルリンが陥落した.
 ということで彼は疑惑を抱えたまま死んだらしい.

世界史板

▼ 【追記】
 最近,こういう話がありました.
ヒトラーの祖先,ユダヤ人の可能性も――DNA検査で発覚

OOM-7大佐 in FAQ BBS,2010/9/1(水) 0:16
青文字:加筆改修部分

 ヒトラーが星占い師に相談した.
 ヒトラーは独裁者として暗殺を極度に恐れていた.
 すると,星占い師が,
「あなたがユダヤの祭日に暗殺される」
という.
 ヒトラーはすぐに親衛隊の司令官を呼んで,
「今後,ユダヤ人の祭日には警備をいつもの10倍,いや50倍にせよ」
と命じた.
 すると星占い師は,こう答えた.
「いや,それは役に立ちません.あなたが暗殺された日がユダヤ人の祭日になるでしょうから」

――――――マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.214-215

 【質問】
 ヒトラーはどこで反ユダヤ主義に感化されたの?

 【回答】
 ヒトラーの反ユダヤ主義はウィーン時代の生活と,当時の欧州に見られる反ユダヤ主義の系統だとする説が現在では有力視されてる.
 ヒトラーは濫読家だったから,ヘーゲルやらニーチェやらの原典,引用,孫引きなんかを徹底的に誤読して理論を組み上げたとゆー話がある
 青年時代のヒトラーが劇場通いして見ていたワーグナー歌劇の影響もある.

 ま,ヒトラーに限らずユダヤ人蔑視はヨーロッパの伝統だったからね.

 「大工の嫁っこが産んだててなし子」を十字架にかけたせいで,以後2000年迫害される・・・
 後先考えて行動しないとね.

世界史板

 上記項目に対する解答について似たような内容が記述された資料がありましたので,紹介させていただきす.
 著者は青年時代のヒトラーとリンツおよびウィーンで共に過ごした人物で,ヒトラーの反ユダヤ傾向について以下のように記述しています.

-------引用----------------------------------------------

私がヒトラーと出合った当時,すでに彼は明らかに反ユダヤ主義の考えを持っていました.
ある日,私と彼がベツレヘム通りを歩いていて,小さなシナゴーグの前を通りすぎたとき,彼はこう言いました.

「これはリンツにいらない」

私の記憶では,ヒトラーがウィーンに行ったときにはすでに明白な反ユダヤ主義者になっていました.
ウィーンでの体験によって彼はユダヤ人問題についてさらに急進的になりましたが,ウィーンで初めて反ユダヤ主義者になったわけではありません.

-------引用終わり----------------------------------------------

『アドルフ・ヒトラーの青春 親友クビツェクの回想と証言』
(アウグスト・クビツェク著,三交社,2005/7/25),135頁

lala in FAQ BBS


 【質問】
 絶滅計画があったなら,命令書がなければおかしいのでは?

 【回答】
 絶滅計画は,ひとつの体系だった政策として存在していたのではなく,むしろ戦況の悪化に伴う,行き当たりばったり的な政策として遂行された,というのが機能派の理解です.
 最初から「絶滅」が企図されていたというよりも,事態の「累積的急進化」現象が起こったとみるのが妥当でしょう.
 第三帝国の官僚機構は,無憲法状態の中で権力争いを激化させていました.

 なお,この立場からいうと,命令がヒトラーという肉体を通過したかどうかも,本質的にはどうでもいい事です.
 問題にされるべきは,そのような政策を導いた構造なのですから.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分

 付け加えて言うならば,明確にホロコーストの全体について命令を下した書類こそ見つかっていませんが,「ガス室」「集団殺害」などホロコーストの細部についての命令書は発見されており,また,前線で活動していた人びとも
「命令を受けてやった」
と主張しています.
 そしてナチの虐殺は,戦場での逸脱というレヴェルを遥かに超えた,国家全体を動員して遂行されたものなので,ナチス・ドイツという国家の関与は明白です.

「ストパン」■(2009-03-22)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・番外編
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ホロコーストに関するヒトラーの命令書って,そこまで重要なものなの?

 【回答】
 現在ではさして重要な資料ではありません.何故なら発見されていないから.
 無いものをあてにして研究をする学者はいません.
 残された資料から,探って行くのです.
 実際,「ヒトラーの命令書」を拠り所にした研究などありません.

 もちろん,発見されれば重要な資料となるでしょう.
 でも無い物は無い.
 それが無くてもホロコースト研究は続けられ,様々な事柄が明かになってきています.

 リビジョニストがこれの有無にこだわるのは,要するにコケオドシです.
「無いであろう命令書を出してくれないと信じないっ」
と言っているワケです.

軍事板


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