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「D.B.E. 三二型」:米のホロコースト博物館で発砲 警備員が死亡,犯人も重体
>ここ,行こうとした(特別展でやってたナチスのプロパガンダ特集に魅かれて)けど
>人多すぎで断念したとこです…… あんな人混みで撃ちやがったのか……
MEMRI:「イランのホロコースト否定テレビ・シリーズ」(May/30/2007)
「ポーランドのユダヤ人」(フェリクス・ティフ編著,みすず書房,2006.7)
『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』(エミー E. ワーナー著,水声社,2010.11)
ナチスによるデンマーク侵入,占領から,それに対するデンマーク人達の抵抗,その対抗策として,SSによるユダヤ人一斉摘発と,その顛末について書いており,ユダヤ人に対する部分が大部を占めているが,出来るだけ当事者の回想録や証言を用いて,当時を生々しく再現している.
特に,こうした本ではとかく,ドイツ人は総て悪者に描かれがちであるが,デンマーク人やスウェーデン人と協力して,ユダヤ人やレジスタンスの保護に動いたドイツ人外交官や,海軍司令官にもスポットを当てているし,内部にいたドイツ人も,ユダヤ人を見つけても素知らぬふりをしたとか,不審船を見つけても見逃したと言う記述が,随所に出て来て,決してドイツも一枚岩でなかったことが伺える.
また,「戦争が終わりました,めでたしめでたし」で終わった訳ではなく,戻ってきたユダヤ人が再びデンマーク にどう受入られて生活を再建していったかまでを書いており,デンマークに於ける近代ユダヤ人史としても利用出来る秀作である.
因みに終章では,デンマークがどうしてユダヤ人を保護することが出来たのかを書いており,他に同じようにユダヤ人を匿ったブルガリア,そして南フランスの事例と合わせて,その共通点を探っている.
水声社さん,出来れば,此処に出て来たトドロフ氏の「善行のはかなさ」を翻訳出版キボンヌ.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2010/12/28(火)
良書なり.
「・・・この彼らの引受人たちは,彼らに美味しい食事を用意してくれた.
ベークドハム,ローストポテト,アップルパイである」
正統派は少なかったらしいが,よりによって.
――――――軍事板,2011/01/06(木)
【質問】
ヨーロッパ・ユダヤ人の各国別の犠牲者数は?
【回答】
2003年時点の最新の研究による推定では,以下の通り.
ドイツ | 14万4000 | |
オーストリア | 4万8767 | |
アルバニア | 591 | |
イタリア | 5596 | |
オランダ | 10万2000 | |
ギリシャ | 5万8443 | |
ソ連 | 210万 | |
チェコスロヴァキア | 14万3000 | |
デンマーク | 116 | |
ノルウェー | 758 | |
ハンガリー | 55万9250 | |
フランス | 7万6000 | ※他国籍者を含む |
ブルガリア | 7335 | |
ベルギー | 2万8000 | ※他国籍者を含む |
ポーランド | 270万 | |
ユーゴスラヴィア | 5万1400 | |
ルクセンブルク | 720 | |
ルーマニア | 12万0919 |
【参考ページ】
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.156
【質問】
ホロコーストの犠牲者総数を確定する上での難点は?
【回答】
犠牲者算定には文書資料からの合算と,ホロコースト以前と以後の人口統計の比較だが,そのどちらにも困難が生じている.
前者に関しては,ナチスは多くの文書やその他の証拠を棄却してしまっており,また,ソ連や東南ヨーロッパでの犠牲者は,そもそも正確な統計がとられていない.
後者に関しても,東,特に東南ヨーロッパには利用できる統計が欠けている.
例えばソ連の人口調査は,民族・宗教別カテゴリーの分類が不充分であり,東および東南ヨーロッパでは,国境線がしばしば変更されたことにより,使用できる統計も,比較するための十分な基礎を欠いている.
上記2点に加え,ナチスによって推進されたユダヤ人移住出国政策も,算定の障害となっている.
フランスとオランダの移送リストと死者のリストには,1933-40年にオーストリアとドイツから出国したユダヤ人の名前がしばしばあり,これによって明らかに,フランスとドイツのリストに載る名前が重複している.
第2次大戦直前と大戦中の国境線の変更も,算定の障害となっている.
バルト諸国やポーランド東部,ブコヴィナ,ベッサラビアなど多くの地域では,人々の国籍が数回変わっている.
トランスニストリアなどは公式にルーマニアとドイツに管理されていたため,その地のホロコースト犠牲者は,国籍から言えばルーマニアだが,彼らが殺害された地域はウクライナと見なされていた.
同様の問題はハンガリー,チェコスロヴァキア,ギリシャ,ブルガリアとユーゴスラヴィアの間でも起こっている.
詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.155-156
を参照されたし.
【質問】
アフマディーネジャード・イラン大統領のホロコースト否定論は,単なる宗教馬鹿のせいなのか?
【回答】
イガル・カルモン(中東報道研究機関MEMRI会長)によれば,決してそうではなく,
・イスラエルの正当な存在権の否定
・イスラエルの抹殺
のための,計算尽くの行為なのだという.
以下引用
〔略〕
中東報道研究機関(MEMRI)は,大統領アフマディネジャドを初めとするイラン政権幹部の発言を蒐集,分析しているが,そこから二つのゴールが見えてくる.
この二つをたどると,同じ結論に到達する.
即ち,イラン政権のホロコースト否定運動は,不条理な増悪の表出ではなく,そのゴールを達成するための,冷血且つ計算づくの行為なのである.
イスラエルの正当な存在権の否定
そのゴールの第一は,イスラエルの建国と存続の合法性を拒否し,正当な存在権を否定することにある.
ホロコースト後のユダヤ人の避難地としてのイスラエルを否定するのである.
そのためアフマディネジャドは,ホロコーストはなかったと唱える.
そして「第二次大戦でユダヤ人が本当に苦しんだとしても,勿論その主張は客観的′、究で立証されなければならないが,この大戦では他者も苦しんでおり,その経験と変わりはない」と主張したのである.
アフマディネジャドを初めとするイラン政権の幹部達は,こんな神話≠ナ,パレスチナにおけるイスラエルの建国を正当化するわけにはいかない,と主張する.
シオニスト国家イスラエルの抹殺
第二のゴールは,アフマディネジャドが頻繁に主張しているように,イスラエルの抹殺≠ノある.
彼のホロコースト否定は意図的で,計算づくである.
世界がホロコーストを記憶している限り,ユダヤ人皆殺しのジェノサイドを新たに計画しても,その世界が抵抗する.
そこに気付いているアフマディネジャドは,自分のゴールを達成するためには,ホロコーストの記憶を抹殺することが肝腎と考える.
悪の権化視操作
自分の計画をうまい具合にすすめるために,アフマディネジャドはいくつかのステップを踏む必要がある.まずユダヤ人とイスラエル国を悪の権化としてきめつけなければならない.
我々がよく知っているように,ヒトラーはユダヤ人の大量殺戮に着手する前に,ユダヤ人を諸悪の根源とするキャンペーンをやった.
アフマディネジャドとイラン政権は同じ道をたどり,ユダヤ人を悪の権化に仕立てる毒々しい反ユダヤキャンペーンを展開している.
そのキャンペーンの一環として,国家の統制下にあるイランのテレビ局は,ユダヤ人を諸悪の根源とする番組をシリーズで放映している.
古典的な血の中傷など定番物である.過越祭用のマツォト(種なしパン)に混入するため非ユダヤ人の子供の誘拐しその血を抜きとるとか,非ユダヤ人の子供の臓器をとるため誘拐するといった類の話を,番組にしているのである.
ユダヤ人は豚とか猿と呼ばれ,亜人間扱いをされる.
ブードウ教的呪術の儀式場面で預言者ムハンマドを迫害する番組,十字架のイエスを思わせる歴史的人物を苦しめる番組.この一連のテレビ番組は,ホロコースト否定番組と平行して放送される.
この種一連の行為は,決して個々ばらばらにとられているのではない.国の最高レベルで統制され,方向づけがおこなわれている.
アフマディネジャドが,権力を手中にした後最初にやったのは,テレビプロデューサー達との会合であった.
何とも示唆的な動きである.
ユダヤ人とイスラエルを諸悪の根源に仕立てる行為は,前述のように,抹殺のための前段として大変重要なのである.
しかしながら,ユダヤ人がホロコーストの犠牲者とみられている限り,悪の権化に仕立て上げることができない.
つまり,ユダヤ人がホロコーストの犠牲者とみられている限り,悪の権化視は根づかない.
そこで,犠牲者としてのユダヤ人像を消し去るために,ホロコースト否定が肝要になる.
以上の理由により,ホロコースト否定,イスラエル国の抹殺,諸悪の根源視が三点セットでアフマディネジャドら政権幹部の発言,声明にいつも顔を出す.
イラン人自身が自分の口で語った話は,これまで個々ばらばらに報道されてきたが,これをまとめて聴くと,ひとつの方向に統一されて表明されていることがよく判る.
つまり,イラン政権のイデオロギィーと戦略の枠組で表出され,役割の一端をになっているのである.
2005年10月23日に開催されたイランの「シオニズム無き世界」会議で,アフマディネジャドはイスラエル国の定義をおこなった.
それによると,イスラエルは絶対悪であり,ムスリムを支配しようとする欧米の手先である.
アメリカとシオニズムの存在しない世界を本当に招来できるのかと問われて,アフマディネジャドは「このスローガン,このゴールは達成可能であり,必ず達成されることを知っておくべきだ」と答えた.
アフマディネジャドは後段でホメイニに言及し,「尊師は,クードス(エルサレム)を占領している体制は,歴史の頁から抹殺されなければならない≠ニ言われた」と述べ,「これはまことに思慮深い言葉である.パレスチナ問題は我々が妥協できない問題なのだ」とコメントした.
その後アフマディネジャドは「この汚点(イスラエル)はイスラム世界の中心から除去しなければならない.勿論それは可能である」と語った.
この演説は究極目的即ちイスラエルの抹殺を明言している.
2005年12月初旬メッカで開催されたイスラム会議機構会議で,アフマディネジャドはホロコースト否定とイスラエル抹殺を明確に関連づけて,次のように言った.
「ヨーロッパ諸国は,ヒトラーが迫害されたユダヤ人数百万を焼却炉で殺したと主張する.
この点に執拗にこだわり,誰かが反対のことを証明すると裁判にかけ牢屋にぶちこんでしまう.
我々は虐殺話など受入れないが,本当だと仮定して,ヨーロッパ人にたずねてみようではないか.
迫害されたユダヤ人がヒトラーに殺されたからといって,エルサレム占領政権の支持を正当化できるのか?…」.
アフマディネジャドのこの発言は,意味が奈辺にあるかを雄弁に物語る.
即ち,ホロコーストは,イスラエルの存在を正当化するだけのもの,と言いたいのである.
それは二つの意味を内包している.
a ホロコーストは神話である.
b たとい本当であっても,それを以てイスラエルの存在を正当化することはできない.
いずれにしても,アフマディネジャドの主たる強迫観念は,ホロコーストではなく,イスラエルの存在そのものにかかわっている.
この究極の目的にホロコーストが立ちふさがっているのであれば,これを否定して排除しなければならないのである.
アフマディネジャドは,この時の演説の後段で,「君達(ヨーロッパ人)がユダヤ人にいけないことをしたと考えても,ムスリムやパレスチナ人が何故その代償を払わなければならないのか.よろしい君達が(ユダヤ人を)を迫害したとしよう.ならば,何故ヨーロッパの一部をこのシオニスト体制に与えないのか…」と述べた.
ここにも,イスラエルは存在できないというのがガイドラインになっている.
ホロコーストがイスラエルの建国と存続に道義的正当化を付与すると考えるので,アフマディネジャドは何としてでも,ホロコーストを否定したいのである.
会場でDVDを上映したのでお判りのように,2005年12月14日の演説で,アフマディネジャドはこの二つの要素をここでも結びつけている.
彼はホロコーストを神話≠ニ呼ぶが,第二次大戦で君達(ヨーロッパ人)がユダヤ人を600万人殺した…罪を犯したと言い張るのなら,君達の土地を分け与えればいいのでないのか.ヨーロッパ,アメリカ,カナダ,アラスカに場所があるではないか≠ニつけ加えるのである.
これでも判るように,アフマディネジャドにとってホロコースト否定は,イスラエルの存在を非合法化する手段として大事なのである.
究極の目的はイスラルの抹殺にあるから,諸悪の根源視に必要な要素が,ちゃんと演説に含まれている.
それからイランの大統領は,ユダヤ人が犠牲者ではなく本当の迫害者であると,躍起になって主張し,「シオニズム自体欧米のイデオロギーで植民地主義者の考え方だ.世俗的思想にファシスト手法を組み合わせたもの,イギリス人がつくりあげた代物だ.これまでアメリカと一部ヨーロッパの直接指導と支援を得て,(シオニズムは)ムスリムを虐殺している」と述べ,その後段で「当時(第二次大戦)彼等(欧米)がどんな罪を犯したか,シオニストは今日どんな罪を犯しているか.欧米諸国とメディアは,はっきり答えなければならない.要するにシオニズムは新しいファシズムということだ」と言った.
アフマディネジャドに言わせれば,シオニストこそ本当の迫害者,虐殺者である.
その本人は,シオニストと普通のユダヤ人を区別すると主張するが,これもあやしい.この悪の権化視キャンペーンでは,歴史上ユダヤ人に向けられてきた中傷や誹謗をそっくり使っているのである.
つまり,迫害者で虐殺者はシオニストのユダヤ人だけではない,とアフマディネジャドは陰に陽に主張するのである.
DVDで御覧になったように,アフマディネジャドは,ユダヤ人がホロコーストを犯したと唱える.
彼によると,イエーメンのユダヤ王ヌワス(Yosef Dhu Nuwas)が初期キリスト教時代に,キリスト教徒を焼き殺したとか,エステル記でもイランのユダヤ人がやったと書いてあるとし,ユダヤ人は近現代でも,過越祭のマツオットに練りこむため,ロンドンやパリでキリスト教徒の子供を大量に虐殺して血を抜きとっていると主張するのである.
〔略〕
ホロコースト否定会議におけるアフマディネジャドの演説は,イラン政権のイデオロギーと戦略の中にホロコースト否定の役割を組みこんだことを,はっきり物語っていた.
会議の冒頭アフマディネジャドは,出席したホロコースト否定者達に対して,「イランは君達の家である.ここでなら君達は,友好的且つ自由な雰囲気の中で,自由に意見が言える」と述べ,まばたきもせず語をついで,「シオニスト体制の生命曲線はさがり始め,今や一瀉千里の勢いで落ちている…断言してよい…シオニスト体制は抹殺され,人類は解放されるのである」とつけ加えた.
イランのホロコースト否定をMEMRI TVの画像で見る場合は,次を参照.
http://www.memritv.org/Search.asp?ACT=S5&P1=156
まあ,イスラエル抹殺を本気で戦略として考えているのなら,それはそれで別種のアホなんだが.
ただし,MEMRIはイスラエル寄りとされており,イスラーム諸国に対する見方が辛いので,その点は留意すべきである.
+
【質問】
ワレンベルクはユダヤ人救済にどう貢献したのか?
【回答】
スウェーデンの外交官,ラウール・ワレンベルクは1944年,ハンガリーのスウェーデン公使館が進めていた現地のユダヤ人救済活動支援のため,外務省からブダペシュトに派遣された.
彼が,ハンガリーのナチスが実施していたユダヤ人移送や,SSが計画していたブダペシュト・ゲットー爆破を阻止したおかげで,10万人近くのユダヤ人の命が救われた.
彼は1945年1月,ソ連軍に逮捕され,消息を絶った.
そして1947年7月,モスクワのルビヤンカ牢獄で無惨な死を遂げた.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.133を参照されたし.
【質問】
ホロコーストに対するヴァチカンのスタンスは?
【回答】
バチカンは反共という立場から最初はナチスを支持しており,ユダヤ人の虐殺に対して気にかけてなかったのだけど,でもローマでユダヤ人狩りがはじまると,バチカンはユダヤ人たちを教会に匿ったらしいですね.
お膝元でユダヤ人狩りをやられて,さすがに気がひけたらしい.
ドイツでもミヒャエル・ファウルハーバー枢機卿という人が,ナチスの政策を公然と批判してました.
軍事板,2000/07/09(日)
青文字:加筆改修部分
◆◆スイス
【質問】
赤十字は,なぜナチスからユダヤ人を救えなかったか?
【回答】
権限的限界と,中立性のほうをより重要視したことによる.
これについては,マイケル・イグナティエフが次のように述べている.
1942年10月14日,国際赤十字を運営するスイス人政治家・法律家・医者・実業家23名から成る委員会が,ドイツ占領下のヨーロッパ各地における民間人の強制移送に関する派遣員達の証言を検討するために集まった.
厳密に法的に言えば,民間人は赤十字の関知するところではなかった.当時のジュネーヴ条約は,赤十字の派遣使節に戦争捕虜視察の権利しか認めていなかった.
だが,そうした視察をする内,赤十字の派遣員達は強制移送の噂を耳にし,東部方面へ走り去る密閉状態の列車を目にし,強制収容所のそばを車で通っていた.
ドイツ赤十字社社長エルンスト・グラヴィッツに,こうした収容所について彼らが尋ねたところ,この問題はジュネーヴには関わりのないことだと彼は答えた.
誰に関わりがあるのか,グラヴィッツは知っていた.彼はドイツ赤十字の社長であるばかりか,親衛隊の軍医長でもあり,収容者を使った秘密の人体実験の責任者の一人だった.
赤十字は強制収容所から締め出されていたが,中で何が起こっているのか薄々気付いていた.
赤十字運営委員会幹部,カール・ブルクハルトはベルリン出張中,ドイツのある高級官僚から,ヒトラーが1942年までに「ドイツからユダヤ人が一人もいなくなる」ことを命じる命令書に,41年初頭に署名したと聞かされた.
ブルクハルトがこのことをジュネーヴ在住のアメリカ領事に伝えると,それは絶滅を意味するものか?と領事は尋ねた.
それしかありえないとブルクハルトは答えた.
9月下旬までに赤十字国際委員会は,ユダヤ人ともなんとも名指しせずに,民間人に対する強制移送と強制労働を非難する公開呼掛け文を起草した.
その案が投票にかけられると,ブルクハルトは,公開アピールを出すことに真っ向から反対した.国際道義に訴える高尚な公開呼びかけが,ヒトラーにいささかなりと影響を及ぼすとは考えにくく,赤十字が現に有する捕虜との面会権を危うくするだけだという論法だった.
スイス政府代表も,公開宣言はスイスの中立すら危うくするのではないかと恐れ,慎重を期するよう勧めた.
「良きサマリア人は,黙って人助けをするのが本当ではなかろうか?」と.
公開アピールは出されずじまいだった.
赤十字は知りえたことについて,戦争中ずっと沈黙を守り通した.
1944年にドイツがハンガリーを占領した時,国際委員会の派遣使節フリードリッヒ・ボーンは,ユダヤ系の幾つかの孤児院と病院を赤十字の監督下に置き,数千名のユダヤ人職員に赤十字の証明書を交付することで,なんとか守った.
だが,出国ヴィザは入手できず,44年暮れ,ブダペシュト在住のユダヤ人5万人が駆り集められ,ドイツへの死の行進を強いられるのを,なすすべなく傍観せざるを得なかった.
ドイツとポーランドでは,収容所への立入を派遣使節は一切禁じられていた.
44年にマウトハウゼンを通った派遣員達は,死体焼却炉から立ち上る煙を目にした.
ポーランドのある収容所の連合軍捕虜を視察した,他の派遣員達は,アウシュヴィッツという所に民間人を毒ガスで殺すシャワー室があると聞き込んだ.
だが彼らは,この噂を確認する機会に恵まれなかった.
45年春に第3帝国が崩壊するまで,内情は彼らの目に触れなかった.
そしてドイツ赤十字社長グラヴィッツは,収容者達に対する彼の実験の全貌が明るみに出る直前,自殺したのだった.
(Michael Ignatieff, a writer & journalist,
「仁義なき戦場」,
毎日新聞社,1999/10/30,p.,抜粋要約)
結局,国際社会では善意など,さほど当てにできないことの,一つの実例と言えよう.
【関連サイト】
http://www.zsido.hu/aktiv/rabbiv.php
http://www.magyarholokauszt.hu/mh011125.html(5月15日〜)
(Szeigyi from one BBS)
【質問】
スイスはユダヤ人難民を受け入れたのか?
【回答】
殆ど受け入れることはなかった.
国内の労働市場を守り,外国人増加を押さえる,という国益的観点から,難民の流入阻止に賢明となった.
1938/8/18以降,スイスはユダヤ難民に与えていた滞在許可証の発行を停止.
また,ナチス・ドイツ側と交渉し,ユダヤ系ドイツ人の旅券に「J」スタンプを押させるようにし,この旅券の所持者に対して,スイスの滞在・通過ビザがある場合のみ,入国を許可する,という協定を結んだ(1938/9/29).
さらに1942年8月には,スイス政府は,
「人種的な理由から入国を図る者は,全て国境で追い返す.
何度も入国を図った場合は,ナチス側に引き渡す」
と決定した.
これにより,ユダヤ人難民のスイス入国は事実上,全く不可能になった.
ちなみに,「J」スタンプは,20年代にも,スイスに帰化するユダヤ人の書類に押されていた例がある.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.38-45, 49 &
68を参照されたし.
【質問】
スイス政府はユダヤ人虐殺を知らなかったのか?
【回答】
少なくとも1942年8月以前には知っていた.
1942/1/2に,ドイツ軍伍長がスイスに亡命し,ロシアでのユダヤ人虐殺をスイス軍情報機関に告白した.
また,1942年4月に,情報機関が政府に提出した報告書には,別の亡命兵士による,ユダヤ人殺戮の証言があった.
さらに同年5月には,ロシア国境で貨車に乗せられた大勢のユダヤ系ポーランド人が窒息死させられたことを示す写真を,スイス政府は在ケルン・スイス領事から入手していた.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.45-47を参照されたし.
【質問】
なぜスイスは反ユダヤ的政策をとったのか?
【回答】
国内の労働市場を守り,外国人増加を押さえる,という国益的観点から.
また戦時中には,その間の物資不足に対処する意味もあった.
さらに,スイスには第2次大戦以前から,反ユダヤ思想が見られた,ということもある.
さらにまた,30年代には,政府を始めとするスイス社会の各層がファシズムの影響を受け,ナチスを称賛する声があったという.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.48-50を参照されたし.
【質問】
政府命令に反し,ユダヤ人難民にスイス滞在許可証を発行し続けた警察幹部がいたというのは本当か?
【回答】
本当.
ザンクト・ガレン州警察幹部だったポール・グリューニンガーは, 滞在許可証発行停止命令に反し,1938/8/18以降もユダヤ人難民に対して許可証を発行し続けた.
救ったユダヤ人は約3000人.
しかし1939/4/3,命令違反の咎で彼は停職処分に.そして刑事裁判にかけられ有罪とされた.
それまでにも,中傷の密告をされたり,無理矢理精神科医の診察を受けさせられたりしている.
以後,彼は死ぬまで定職に就けず,一家は貧困に喘いだ.
1968年,地元紙の報道がきっかけで,彼の行動は世界中から称賛されることになった.
だが,スイス政府の対応は遅く,1995年になってようやく彼に再審無罪の判決が下りた.
しかしそのときには,グリューニンガーは既に死去(1972/2/22)していた.
彼の臨終の言葉;
「私は何度でも同じことをするよ」
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.67-74を参照されたし.
◆◆USA
【質問】
なぜアメリカはユダヤ人難民を受け入れなかったのか?
【回答】
アメリカはナチス政権成立以前から移住制限を導入していた.
アメリカの移民法の問題は,「真の」出生地からの移住のみを許可するという出身国主義にあった.
そのため,ポーランド生まれで無国籍者としてドイツに住んでいたか,電撃戦の後もポーランドにとどまっていた何千人ものユダヤ人は,もともと米国の対ポーランド枠が小さかったこともあり,アメリカ入国は事実上不可能になった.
ドイツによる「併合」後,無国籍となり,比較的大きかった「大ドイツ」への移住枠からはみ出てしまったオーストリア系ユダヤ人の7〜8割も,その犠牲となった.
1940年6月,米国は突如,入国規制を強化する.
背景には市民の反ユダヤ感情,反移民感情があった.ユダヤ人を救うことは政治目標達成を妨げ,戦争完遂に有害だと考えられたのだ.
それに,米国のユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた.
この措置を提唱したブレッケンリッジ・ロング国務次官は,東欧のユダヤ人に強い偏見を持っていた.最近刊行されたリチャード・ブライトマンの論文はこれを裏づけている.
規制強化で難民のアメリカ入国は極めて困難になったが,中でも問題だったのは,ナチス支配下諸国に親類のいる申請者の入国を制限するという条項だった.スパイ活動の危険ありというのである.
移住先としてはアメリカ以外に,マダガスカル・プロジェクトや,中央アフリカ,南米,オーストラリアなどの構想があり,フィリピンではある農場主がユダヤ人1万人を受け入れるという話まであったが,全て実現しなかった.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.96,167-168を参照されたし.
▼ ただし,アメリカに移住できたユダヤ人は皆無だったわけではない.
「合法移民」の枠内で,1931〜45年までの15年間に,256,538人のユダヤ人がアメリカに移住したという.
詳しくは,『アメリカの民族集団』(綾部恒雄編,日本放送出版協会,1978)を参照されたし.▲
【質問】
なぜハリウッドのユダヤ人は,反ナチ映画を作らなかったのか?
【回答】
作らなかったのではなく,作れなかった.
米国国内でのユダヤ人差別を恐れ,ハリウッドではユダヤ的なものが徹底的に抑圧されたからだ.
以下引用.
百年前,アメリカの土地や基幹産業はすでにWASP(アングロサクソンのプロテスタント.最初に移民したイギリス系のこと)に独占されており,ユダヤ系移民の入り込む余地はなかった.
しかし,ちょうどサイレント映画が発明され,英語ができず文盲も多い移民達の唯一の娯楽になっていた.
彼らはそれに眼をつけ,WASPの支配が及んでいない南カリフォルニアに撮影所を作った.
言語と国境を越えた人類的娯楽,ハリウッド映画の誕生である.
〔略〕
ユダヤの陰謀? いや,逆に彼らは徹底的にユダヤ的なものを抑圧した.
ユダヤ系の俳優にはWASP風芸名を与えた.
怒った俳優が
「だったらエイブラハム・リンカーンにでもしてくれ!」
と怒鳴ると,モーグル〔映画会社のドン〕の一人はこう言った.
「エイブラハム? それはユダヤっぽすぎる」
ヒトラーがユダヤ人を虐殺しても,ハリウッドは反ナチ映画を作れなかった.
戦後,「赤狩り」の名の下にユダヤ系映画人が弾圧された時も無抵抗だった.
差別を恐れてユダヤ人としての自己主張を自らに禁じたハリウッドは保守化し,60年代後半のカウンター・カルチャーに対応できず,経営的に崩壊.
映画会社は全てコングロマリットの巨大資本に乗っ取られ,ユダヤの帝国は崩壊した.
現在,ユダヤ系は主に資本家ではなく,プロデューサーとしてハリウッドで活躍している.
町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.66-67
この一件だけ見ても,第2次大戦を巡る様々なユダヤ陰謀論は,どれも荒唐無稽だと分かるだろう.
当時のアメリカでも,ユダヤ人はそんなに大した勢力ではなかったのだ.
(だからこそ,ドイツからアメリカへののユダヤ難民の流入が阻止された)