c

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ戻る

◆◆総記
ユダヤ人問題 目次
<第2次世界大戦FAQ


 ゲシュタポのユダヤ人担当者で,ガス室などユダヤ人皆殺しに腕を奮ったアドルフ・アイヒマンが,イスラエルの法廷で絞首刑を宣告された.
 裁判長は,ユダヤの律法により,死刑囚は一つだけ希望を述べることができる,とアイヒマンに説明した.
 アイヒマンは少考の後,ユダヤ教に改宗したいという希望を述べた.これは,ユダヤ人になりたいということと同じ意味である.
 裁判長は,理由の説明をアイヒマンに求めた.
 アイヒマンは答えた.
「そうなれば,また一人ユダヤ人が死ぬことになるからです」

植松黎編訳「ポケット・ジョーク(5) ブラック・ユーモア」(角川文庫,1981.2)



 【link】

NPOホロコースト教育資料センター

「tnfuk」◆(2007年09月11日)イスラエルの「ネオナチ」の報道

「Togetter」◆(2010/08/27)後藤寿庵先生の「ユダヤがらみ」の話をしよう

wikipedia:「ホロコースト捏造」の論理(リビジョニストの論理の典型なものに反論)

「WP」◆(2012/02/25)Was Anne Frank baptized by Mormon church?

「ストパン」■(2009-03-20)ホロコーストの基礎知識について

「ストパン」■(2009-03-21)ホロコースト否定論FAQ・補遺編

「ストパン」■(2009-03-22)ホロコースト否定論FAQ・番外編

「ストパン」■(2009-09-20)代以降の反ユダヤ主義(Antisemitismus)についてのメモ

「ストパン」■(2010-08-24)ニコニコ大百科における,ホロコースト否定論の終わらぬループ

「町山智浩アメリカ日記」◆(2010/08/26)ディファメーション!
>ユダヤ人差別との闘いがイスラエルの軍国主義の正当化に利用されている現状

『アウシュヴィッツの〈回教徒〉 現代社会とナチズムの反復』(柿本昭人著,春秋社,2005/10)

「ストパン」■(2008-10-30)[読書]「生きるに値しない命」の選別と,その反復

『全体主義の起原1 反ユダヤ主義』(ハナ・アーレント著,みすず書房,1981.7)

『ホロコースト全証言』(グイド・クノップ著,原書房,2004.2)

『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10)


 【質問】
 ホロコーストって何ですか?

 【回答】
 ホロコーストとは,ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺を指します.

 なお,ナチのイデオロギーの犠牲になったのは,ユダヤ人だけではありません.
 ロマ(いわゆる「ジプシー」ですが,蔑称なので現在は使いません),ポーランド人などのスラヴ系民族,さらに障害者,同性愛者なども,ナチの犠牲者です.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「ホロコースト」の元々の意味は?

 【回答】
 ホロコーストはギリシャ発祥で,本来の意味は「火あぶりになった生贄」です
 それがケルト人を通じてヨーロッパに広がる過程で,あのような料理を指す名称となりました.
 よって,「ホロコースト」とは欧州に広く伝わる古い料理法の呼び方であって,食品自体の名称ではありません.

 これ以上は板違いなので,食品板でどうぞ
西洋家庭料理を語るスレ


 【質問】
 欧州の一般市民は,ユダヤ人排斥についてどこまで知っていたの?

 【回答】
 ナチズム下にある大衆心理については,ドイツからの亡命ユダヤ人で,社会心理学の大家である,エーリッヒ・フロムが,その精神的な隷属の分析を早くも1941年に,アメリカで出版している.
 これは講義ノートに基づく論文であり,30年代後半には,そうした分析が行われているわけだ.
 かてて加えて,目端の利く知識人階層や裕福な階層からのユダヤ系ドイツ人の亡命は相次いだ.

 ユダヤ人排斥の動きの全容までは知られていなくとも,一般的に,
「精神的に隷属状況にある大衆が,ユダヤ人排斥を行っている」
というくらいの認識は,決して少なくない人数の欧米人にはあったろうと思われる.


 【質問】
 ホロコーストを免罪符に,パレスチナを侵略するイスラエルって外道じゃね?

 【回答】
 外道ですね.
 ナチに親族を殺害されたユダヤ人からも,イスラエルの民族浄化は批判されています.

――――――
 祖母の死を,ガザにいるパレスチナの祖母たちを虐殺するイスラエル兵士の隠れ蓑にしないでください.
 現在のイスラエル政府は,パレスチナの人々に対する殺戮行為を正当化するために,ホロコーストにおけるユダヤ人虐殺に対し,異教徒たちが抱き続けている罪の意識を,冷酷かつ冷笑的に悪用しています.
 それは,ユダヤ人の命は貴重であるが,パレスチナ人の命は価値がないとする視点を暗黙に示唆しています.

http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/845
――――――

 また,たとえば2010年7月5日(月)には,ポーランドの強制収容所の壁に,イスラエル人の元空軍隊長と活動家が,反イスラエルのメッセージを落書きする事件も発生しています.
 彼らは
「すべてのゲットーを自由に.パレスチナとガザを解放せよ」
などとスプレーで書いたそうです.
エルサレム・ポスト)

 殺人事件の被害者だからといって,無関係のひとを殺してはいけません.
 当たり前の事です.
 どうして新たな殺人を否定するのに,今の加害者がかつて被害者だった事を,否定する必要があるのでしょうか?

 なお,イスラエル政府は直接的にはパレスチナ侵攻に際し,ホロコースト云々ではなく自衛権を主張していますが,ここで言ってるのはそういうことじゃなく,国際社会がイスラエル批判に及び腰な理由の一端にはホロコーストの罪悪感があるんじゃないかとか,ホロコーストがイスラエルのトラウマになってるんじゃないかとか,そういう事を指します.
 逐語解釈なきよう,念のため.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
&同コメント欄

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ホロコーストや南京虐殺は,原爆やシベリア抑留を矮小化するための外交カードとして使われているのでは?

 【回答】
 嘘ですね.
 そもそもアメリカは,原爆投下を必然的なものだったと主張しているわけで,矮小化する動機が存在しません.
 ソ連に関して言えば,こちらも同じく,ドイツ人や日本人の抑留を矮小化する理由がない.
 だってソ連の考えからいけば,別に悪いことでもなんでもないから.

 だいたい両方とも,戦時中から報告されてきた事件であって,たとえば西独なんかでは戦後一貫して,ナチの犯罪を裁くということをやってるわけです.
 イスラエルの大統領を国会に呼んだりもしてるし,そんなドイツに対してホロコーストは,外交カードには中々成り得ない.
 東独に関してはそもそもソ連の衛星国です.

「ストパン」■(2009-03-20)同コメント欄
青文字:加筆改修部分

 ちなみに,よくよく思い出してみれば,「原爆投下を矮小化するため,南京事件を」云々と言うのは,小林よしのりが唱えている珍説ですな.


◆◆反ユダヤ主義の系譜


 【質問】
 第二次世界大戦少し前,なぜユダヤ人は嫌われてたんですか?
 金融牛耳ってたから?

 【回答】

<総論>

 かなり古くからあったのは,

1)キリスト教的反ユダヤ主義}(「あいつらキリストを殺したじゃないか」)

2)啓蒙主義型反ユダヤ主義(「あんなの迷信だろ?」)

 19世紀になって出てきたのが
3)ナショナリズム型反ユダヤ主義(「あいつら国民国家形成のじゃま」)

 で,ここらへんまではユダヤ人の側の「同化」の論理と共存出来ないわけではなかったが,さらに19世紀後半になると疑似ダーウィニズムの影響で,
4)人種論型反ユダヤ主義(「あいつら劣等人種.同化不可能」)

 が出てくる.

 で,こういういくつかの次元の異なる反ユダヤ主義の思想的潮流が,19世紀末不況やWWI後の混乱によって社会的な表現を与えられたのが,政治的反ユダヤ主義(一種のスケープゴート理論).
(ただこの手の一般的な反ユダヤ主義がホロコーストに至るには,もう一段,思想的・政治的な強度の変化を経る必要があったとのこと)

 詳しくはハンナ・アレント『全体主義の起源』参照.

1)キリスト教的反ユダヤ主義

 そもそもイエス・キリストはユダヤ人の洗礼者ヨハネ(使徒ヨハネとは別人)に洗礼を受けた.
 つまり弟子入りした.
 その後イエスはキリスト教を率いて分派するんだけど,当時一大宗教団体を率いていたヨハネ一派(ユダヤ人)からは
「あいつらやってることヨハネの丸パクリじゃん?」
と馬鹿にされてた.

世界史板
青文字:加筆改修部分

 そしてユダヤ人たちは,キリスト教徒にとっての崇拝対象であるイエスを救世主として認めず,かえってローマ人の手を借りて処刑せしめた.
 新約聖書にはユダヤ人の頑迷ぶりがこれでもかと描かれているが,面倒なので略.

イスラエル交通相◆3RWR.afkME in 世界史板
青文字:加筆改修部分

▼ で,キリスト教側もムカついてたのか,聖書にユダヤ人の悪口をいっぱい書いた.
(ヨハネだけは,色々な宗教団体からガチの偉大な預言者と見られてたので,褒め称えた文しか残ってないけど)

 300年後にキリスト教がローマの国教になる頃には,決定的に仲が悪くて迫害を受けるようになった.
(その後,ユダヤ人はイスラム側の土地に逃げるんだけど,イスラム教への改宗は拒んだ.
 そこでまたイスラムから迫害を受けるようになった.
 似たようなことは世界中でおきたらしい)

世界史板
青文字:加筆改修部分

 宗教的に嫌われたユダヤ人の母国は,戦争で支配者がころころ代わっていたから,外国で生活するユダヤ人の方が圧倒的に多かった.
 で,中世ヨーロッパでは(多くの異教徒がそうであるように)差別対象で,まっとうな職業に就けなかったため,キリスト教徒には禁止されている金融業に手を出した.
 世の中,金貸しというのは嫌われるものでして.

世界史板

 ユダヤ人は,イスラエル建国まで民族としての母国を持たず,欧州各地に居たけれど,生活上の独自の習慣を堅く守って,あまり地元の文化と同化しようとしなかったから,というのも大きいかと.
 嫌うにしても,対象が分かり易いものである必要があるわけで.

 また,キリスト教徒は表向き金貸しをすることを禁止されていたため,ユダヤ教徒が金融業をやるようになり,それで妬まれてさらに嫌われました.
 同じように酒屋や宿屋を営んでいるユダヤ人が多かったですが,どちらも風俗の乱れの元凶と見なされていたので,さらに嫌われました.
 ちなみに,ユダヤ人がキリスト教徒と同じような職業につこうとしても基本的に無理です.

 キリスト教徒に改宗したユダヤ人は,「マラーノ」などの改宗ユダヤ人をあらわす単語で呼ばれ,やっぱり迫害されました.
 キリスト教徒に受け入れてもらうために過剰に熱心なキリスト教徒になり,過酷なユダヤ人・改宗ユダヤ人への迫害を行った改宗ユダヤ人も多いです.

 余談ですがイスラム教徒はキリスト教徒に比べれば,ユダヤ人に寛容でした.
 時々「イスラエルに味方する十字軍」なんていってるイスラム過激派がいますが,十字軍士がユダヤ人の腹を裂いて大喜びしてたことを考えると…

 なお,ユダヤ人で勘違いしてはいけないのは,ヨーロッパに住んでいるユダヤ人の大半は混血化しているし,そもそも熱心なユダヤ教徒でもなければ,ユダヤ人の風習を厳密どころかロクに守ってもいない.
 ましてや本物のシオニストの割合なんて,どの程度なのよ?ってレベル.
 そいつらまとめて虐殺したり,差別したりすればやっぱ問題でしょう.

unknown

 1962〜65年に行われた第2回ヴァチカン公会議で,ようやく
「うはww 古代ユダヤ人の罪を今のユダヤ人が背負う義務はないよねww ごめwwww」
と過ちを認めたが,逆に言えばそれまでは…だったわけで.

イスラエル交通相◆3RWR.afkME in 世界史板

2)啓蒙主義型反ユダヤ主義

(データ不足により省略)

3)ナショナリズム型反ユダヤ主義

 近代,民族・国家という概念が成立する中で,自国内に存在する異分子として,あるいは敵を作ることで民族を団結を図るために,ユダヤ人を敵視しだした.

世界史板

▼ アラブ・ナショナリズムの裏返しの反ユダヤ主義も,これに含まれるだろう.

4)人種論型反ユダヤ主義
についてはナチス・ドイツ的反ユダヤ主義に関する別項参照.▲


 【質問】
 ヨーロッパ史において,ユダヤ人に対する主な迫害には,どんなものがあったのか? 

 【回答】
 ・7世紀,西ゴート王国の反ユダヤ政策.
 財産没収,重税課税,処刑,強制改宗など.

 ・十字軍遠征の際のユダヤ人虐殺.エルサレムでは2万人が虐殺された.

 ・中世のゲットー.

 ・焚書

 詳しくは,マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.を参照されたし.
 または,ぐぐられたし.


+

 【質問】
 ゲットーの起源は?

 【回答】
 中世,ユダヤ人を特別の区域に住まわせることを制度化したのが始まり.
 以下引用.

中世に入ると,ユダヤ人を差別して特別の区域ゲットー(ユダヤ人街)に住まわせることが制度化された.
 1179年に,キリスト教会は公式にそうすることを命じた.
 もっともゲットー(ユダヤ人街)の始まりは,ロンドンが1276年,イタリアのボローニアでは1412年というように,都市によって異なった.

 〔略〕

 ゲットーという言葉は,「鋳造場」というイタリア語から発しているが,1516年にベニスで鋳造場の跡地にユダヤ人居住区が設けられたのが,その由来となっている.

 そもそも,ユダヤ人を隔離するというのは,別に新しいことではなく,古代から見られるものである.
 しかし,このゲットーは,ユダヤ人と外界の接触を最小限に抑えるというのが目的であった.
 ユダヤ人は日中だけゲットーを出て商売することが許されたが,夜間はゲットーに閉じ込められたのである.

 〔略〕

 ゲットーが最も多く,普遍的につくられたのは,ドイツとイタリアである.ユダヤ人は劣等民族として扱われた.
 ロシアや,その周辺の白ロシアやウクライナや,あるいはポーランドをはじめとする東ヨーロッパでは,ユダヤ人は荒野の中に点々と散在する,小さな村落の中に閉じ込められた.
 これらの集落は,都市のゲットーのように高い壁によって囲まれていなかったが,周りに差別という目には見えない壁が取り巻いていた.
 それはユダヤ人である限りは,乗り越えることができない壁であったのだ.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.23-26

 中性のヨーロッパといえば農業時代であったのに,ユダヤ人は土地を所有することが許されなかったから,農民として生きることができなかった.
 その上,ユダヤ人はギルド(製造人の組合)に入ることが許されなかったので,製造業に従事することもできなかった.
 そこで,ユダヤ人は行商人,金貸し,仕立て屋,屑屋,靴職人,古着屋,書記,教師,水運び,牛乳屋というように,雑多な商売に従事した.

 〔略〕

 また,ごく例外であったが,その高い能力のために,キリスト教に改宗することなく,ゲットーの外に住み,裕福な生活をすることができたユダヤ人がいた.といっても,ごく僅かである.
 これらのユダヤ人は,王侯貴族に経理や経済運営の手腕を見込まれて,宮廷に取り立てられた人々だった.
 これらのユダヤ人は,「コート・ジュー(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれ,彼らはゲットーに住むことを免除されて,邸宅を与えられて住んだ.
 コート・ジューは,しばしば雇用主に代わって大きな力を振るったのである.

 〔略〕

 また,ユダヤ人の秀でた才覚は経済面だけではなかった.
 例えば,医師としてもユダヤ人はとても評判が良かった.
 中性のイスラム世界においては,支配者達はユダヤ人の医師にかかっていたし,エジプトの全ての都市には,ユダヤ人の医師がいたである.

 〔略〕

 ナポレオンは,フランス革命の開明的な人権思想をヨーロッパに広めた.
 1796年に,ナポレオンが率いるフランス軍が,自由と平等と博愛を象徴する3色旗を翻して,イタリアへ侵攻すると,イタリアの諸都市において,ユダヤ人をゲットーの壁の中に隔離していた制度が廃止された.
 もっとも,ナポレオンが打倒されると,イタリアでは1815年に,ゲットー制度が再び行われるようになった.
 それでも,新しい時代の潮流が強い力を持って,ヨーロッパの諸国を洗うようになった.
 ローマのタイバー川のほとりのゲットーの門の扉の閂(かんぬき)は,1848年にかけられなくなった.
 もっとも,ユダヤ人がゲットーの外に居住するのが許されるようになったのは,イタリアが,ジュゼッペ・ガリバルディの手によって統一されて,ローマ法法がローマにおける統治権を失ってからのことである.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.26-32


 【質問】
 ユダヤ人が黄色い星を着けねばならない制度の起源は?

 【回答】
 15世紀に遡る.
 以下引用.

 15世紀には,ユダヤ人はユダヤ人であることを示す「ダヴィデの星」をあしらったバッジを常につけることを強いられた.
 あるいは場所と年代によっては,ユダヤ人は赤い帽子や黄色の帽子,左右の色が違う靴,ピエロのような屈辱的な衣服などを身につけることを強いられたのである.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.24


 【質問】
 中世のゲットーの様子は?

 【回答】
 高い壁に囲まれ,出入りは制限された.
 外出禁止時間に外へ出ていた者は,死刑とされた.

 以下引用.

 私は多くのゲットーの跡を訪れているが,ローマでは当時の面影を,よく残している.
 タイバー川の左岸の河川敷の低い土地にあって,高い壁によって囲まれている.
 このローマのゲットーでは,5000人以上の住民が生活していた.
 住民の殆どが,古着などを扱う古物商や,金属屑を集める屑屋として生計を立てていた.
 ゲットーは高い壁によって外部と遮断されていたが,ローマ法王の勅令によって,出入りするための門が1ヶ所に限られていた.
 そして門には常時,キリスト教徒の番人たちが詰めていて,これらの番人たちの給料は,ゲットーのユダヤ人社会が負担しなければならなかった.
 それなのに,これらの番人たちは横暴に,邪険にふるまった.
 門の扉は夜間だけではなく,キリスト教の重要な祭日にも,終日,閉じられて,ユダヤ人が外へ出ることを禁じられた.もし,ユダヤ人が禁じられた時間に,ゲットーの外で捕えられたら死刑にされたのである.

 ゲットーのユダヤ人は,キリスト教徒よりも思い税金を払わねばならなかった.
 また,キリスト教会はゲットーのユダヤ人たちをキリスト教に改宗しようとしたから,ユダヤ人は定期的にキリスト教の説教を聞かねばならなかった.
 ユダヤ人をゲットーに閉じ込めた理由の中には,キリスト教徒がユダヤ教の影響を受けて,信仰を捨てることを恐れたこともあった.

 〔略〕

ユダヤ人はキリスト教に改宗しさえすれば,ゲットーの生活から逃れることができた.
 改宗は,楽な生活が保証される社会への入場券のようなものだった.
 そのために多くのユダヤ人が,その誘惑に屈したのである.
 ユダヤ王国が紀元70年に滅びたときの,ユダヤ人の人口といえば,今日のユダヤ人人口の半分ぐらいに当たる人数がいたものだった.
 それなのに,今日まで大きく増えることがなかったのは,歴史の途中で改宗することによって,同化する者が多かったからである.
 アメリカ大陸を発見したコロンブスも,カール・マルクスの父親も,同じような理由から,キリスト教に改宗したのだった.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.24-27


 【質問】
 中世ヨーロッパの反ユダヤ主義のもう一つの表れ,「国外追放」の実際はどんなものだったのか?

 【回答】
 たいていは財産没収と同義.キリスト教徒にとっては借金踏み倒しの常套手段.
 また,夜盗の襲撃の危険もあった.

 以下引用.

 ゲットーは,国内における追放処分のようなものだったが,国外追放は,ユダヤ人にとってまさに大きな災難だった.
 追放されて,新しい天地を求めて土地から土地へさまようのは,勇気を必要とした.
 ユダヤ人は財産を全て奪われるか,慌しくタダのような安値で,キリスト教徒に売らねばならなかった.
 さらに中世のヨーロッパには,夜盗が跳梁(ちょうりょう)していたから,しばしば襲われて,生命を脅かされたり,苦労して持ち出した金目のものを奪われる危険があった.
 また,幼児や老人を連れて,見知らぬ土地を長い間さまよう間に,病気になることも多かったのである.

 ユダヤ人が国外へ追われたのは,キリスト教会がユダヤ人に対して煽った憎しみが根底にあったが,経済的な理由が最も大きかっただろう.
 キリスト教徒の商人は,経済状態が悪くなると,ライバルであるユダヤ人を排斥することを望んだのである.
 キリスト教会は,聖書が金利を取ることを禁じていると解釈していた.
 だから,金を貸すのを生業としていた者と言えば,ユダヤ人しかいなかった.
 ユダヤ人の国外追放は,ユダヤ人の金貸しから借りた金を,良心の呵責を感じることなく踏み倒すのに都合が良かったのである.
 もっとも,ユダヤ人だけが金融業を営むことができたのは,その後,ユダヤ人が金融界で力を持つことを大きく助けることになった.

 イギリスからは,ユダヤ人は1290年に追放され,1650年になるまで戻ることができなかった.
 フランスは1306年にユダヤ人を追放したが,1789年までフランスの地を踏むことができなかった.
 さらに,ヨーロッパで全人口の半分から4分の一の人が死んだ黒死病が猛威をふるうと,ユダヤ人が毒をばらまいたとして,1348年から50年にかけて,ヨーロッパのほとんどの国で,ユダヤ人が襲撃され追放された.
 ユダヤ人はスペインとポルトガルの両国から,1492年から97年にかけて追われた.
 特にスペインの異端審問では,ユダヤ人は強制的にキリスト教に改宗させられている.
 これに抵抗した十数万のユダヤ人は,拷問されたり焼き殺された.
 ロシアでは15世紀にユダヤ人の追放が行われた.
 ロシアでは,その後も,しばしば追放令が発せられた.

 このように一つの追放によって,ユダヤ人難民が諸都市に流れ込んだために,別の追放を誘発するという悪循環を起こしていたのである.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,2000/9/7),p.29-31


 【質問】
 「シャイロック」のエピソードは現実にあえりえるか?

 【回答】
 タルムードの考え方からすると,ありえない,とトケイヤーは述べる.
 以下引用.

「聖書」(トーラー)や「タルムード」で繰り返し商売の不正行為を戒める言葉が出てくるということは,悪徳商人がかなりいたという証拠にもなるであろう.
 しかし,どこの社会においても,悪徳商人は少なからず存在するものである.

 悪徳ユダヤ商人といえば,シェークスピアの「ベニスの商人」に登場する,欲深で邪(よこしま)なシャイロックがよく知られている.
 しかし,シャイロックが「もしあなたが金を返さないなら1ポンドの肉を,特に心臓を切り取って返せ」と要求した話は,全く架空の話であって,現実のユダヤ人には起こりえないことである.
 なぜなら,シェークスピアが生きていた16世紀は,ユダヤ人はイギリスから追放されていたので,シェークスピアは生涯を通じて,ユダヤ人に一人として会ったことがないはずである.

 そもそもユダヤ商人は,お金を取られても絶対にそれを罰しようとはしない.ユダヤ商人は,相手を罰することよりも,あくまでお金を取り戻すことに関心がある.
 だから担保の物件を取ったりするけれども,まさか腕や心臓などを取っても使いものにならない事はよく分かっているのだ.
 この「ベニスの商人」は,シェークスピアがキリスト教徒であったから,当時のキリスト教徒の考え方をよく示している.
 というのは,ユダヤ商人は,金を貸すために家を担保に取った場合でも,その家を取ったら,住んでいる人が外で暮らさなければならないような状態だったら,その家をとることはできない.
 また,「聖書(トーラー)」の「出エジプト記」に,
【外套をかたとして取った場合にも,夜だけは返してやるべきである】
とあるように,1着しかない衣類を担保に取った場合,夜になったらその衣類は返さなければばならない.
 そして,とられたほうが夕方行って,それを取り返してくることは許されない.とったほうが戻しに行かなければならないとされているのである.

 しかし,ユダヤ人はしばしば国外へ追放されたため,カネしか頼りにならなかったので,カネを設けることが,一身と家族の安全にそのまま繋がった.
 当然のことに,金儲けにかける情熱が他の民族よりも強かったのは事実である.
 このような土壌から,優れたユダヤ商人が生まれたのであるが,同時に偏見と嫉妬の目で見られた.
 これはキリスト教徒が長い間にわたってユダヤ人に対して加えてきた差別から生じているものに他ならないのである.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,
2000/9/7),p.59-61

 ただし,第三者が対象者の命を狙っており,商人には,対象者に返した金以上の報酬を約束した,と仮定した場合,どうだろうか?


 【質問】
 タルムードに対する排斥はなぜ行われたのか?

 【回答】
 現代で言う,独裁国家でのネット禁止 or 規制のようなもの.
 ユダヤ人間の過去の経験・知恵の積み重ねがタルムードなので,キリスト教徒はその威力を恐れた.
 以下引用.

 そもそもユダヤ人にとって,本は聖なるものであり,歴史を通じて,本を写し,本を借り,あるいは本を買い,本を読むことで学んできた民族である.
 だから世界の中でも,ユダヤ人ほど本を大切にする民族はいない.
 ユダヤの諺に,
【本のない家は,魂を欠いた体のようなものだ】
【もし本と洋服を同時に汚したら,まず本から拭きなさい】
【もし生活が貧しくて物を売らなければならないとしたら,まず金,宝石,家,土地を売りなさい.最後まで売ってはいけないのは本である】
【旅の途中で故郷の町の人々が知らないような本に出会ったら,必ずその本を買い求め,故郷に持ち帰りなさい】
というのがある.

 紀元前5世紀にペルシア王アルタ・クセルクス1世のユダヤ地方の総督であったネヘミヤは,こう書き残している.
【この地方には図書館がいっぱいあるという事だけではない.図書館にいっぱいの人々がいつも集まっている】

 1736年には,ラトヴィアのユダヤ人街で,本を貸してくれと言われて本を貸さなかった者には,罰金が課せられるという条例が定められた.
 また,ユダヤ人の家庭では寝台の台の方に本棚を置いてはいけない,頭のほうに置きなさいと言い伝えられてきた.

 それほど本は常にユダヤ人にとって宝物であった.
 古代ユダヤにおいては,本が古くなっても捨てなければ,もはやページもすり切れ,字もかすれて使えなくなった場合には,人々が集まって聖人を埋葬するように丁寧に穴を掘って埋めた.
 ユダヤ人は本を焼くような事は絶対にしなかった.これは,かりにユダヤ人を批難している本についてもそうである.

 だから,中世を通じてキリスト教徒はユダヤ人にとっての本の威力を恐れ,ユダヤ人の本を焼き払うということを繰り返し行ってきた.
 1240年はローマ法王グレゴリウス9世が「タルムード」を焼くことを命じている.
 13世紀には何回もこのような命令がローマ法王庁から発せられた.
 そして1265年,クレメンス4世が「タルムード」を焼くように詔勅を発したときには,全ヨーロッパで数万部の「タルムード」が炎にくべられた.

 これまで手書きの「タルムード」が活字にって印刷されたのは,今日知られているところでは,1482年にスペインのグアダラハラにおいてである.
 〔略〕
 しかし,その10年後,全てのユダヤ人がスペインから1世に追放されたとき,当時のスペイン国王は,もしヘブライ語の本を持っていることが分かったら誰でも死刑にすると布告を出している.
 1553年ベニスでは,数万冊にのぼる「タルムード」をはじめとするユダヤの書物が焼かれた.
 もっとも新しいところでは,ナチスがユダヤ関係の書物を焼くように全ヨーロッパに命じ,実際にそれを行ったのである.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,
2000/9/7),p.120-123


 【質問】
 共産主義はユダヤ人の陰謀か?

 【回答】
 民族的特性から結果的にユダヤ人に社会主義者が多くなっただけのこと.
 シオニスト陰謀論など持ち出すのは,お門違い.

 以下引用.

 ユダヤ人は世界が完成されたものだとは考えない.常に世界の進歩を信じている民族である.
 だからユダヤ人は,スピノザ(オランダの哲学者),マルクス(ドイツの革命家),ローザ・ルクセンブルク(ドイツ共産党の女性創立者),ザメンホフ(エスペラント語創始者),トロツキー(ロシアの革命家)をはじめとして,多くの改革主義者を輩出することになった.
 特に近代に入ってからは,ユダヤ人に社会主義者が多かったから,社会主義や共産主義というものが「ユダヤの国際的陰謀」として,猜疑心や憎しみを招き,新たな迫害の対象となってしまった.

 〔略〕

 というのは,ユダヤ人はごく最近までヨーロッパにおいて,あってはならない差別を蒙ってきたために,現状をどうしても改革しなければならないという強い願いによって駆り立てられてきた.
 このことが,数多くの改革主義者を生んだ理由ともなっている.

 しかし,真の理由は,やはり「聖書(トーラー)」までさかのぼらなければならない.
 「聖書」の「創世記」の中で,神は最初の人間であるアダムを作ったのち,
【『生めよ,増えよ,地を満たせ,地を従えよ.海の魚,空の鳥,地を這う全ての生き物を支配せよ』と命じられた】ことになっている.
 神は自ら作った世界を人間に委ね,より良い世界を作るように命じたのだった.
 ここから世界は進歩しなければならない,そして人間は進歩を信じなければならない,さらには世界を進歩させるためには,自分を進歩させなければならない,というユダヤ人の使命感が生まれたのである.

マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ商法』(日本経営合理化協会出版局,
2000/9/7),p.237-238


 【質問】
 現在,どのような反ユダヤの言動が見られますか?

 【回答】
 ホロコースト捏造論,911ユダヤ陰謀論などの他,折にふれて様々なテロ,デマなどが見られる.
 以下引用.

――――――
 2006年10月7日,チェコのプラハで反ユダヤテロを警察が阻止.
 多数のユダヤ人を誘拐して閉じ込め,不可能な要求を出して殺害する計画だった.(H)
 2006年12月4日,ラマラで行われた国際エイズデーの集会で,パレスチナにエイズを広げたのはイスラエルの策略だと,ギリシャ正教会の指導者が発言.(Y)

 2007/2/28,イランのアフマディネジャド大統領は訪問地スーダンで,世界の全ての問題の原因は,米国とイスラエルにあると語った.(P,Y,7)

 2008年10月14日(火),リーマン・ブラザーズの破綻はユダヤ人の陰謀だとする反ユダヤ的論説が,インターネット上で急増.
 4億ドルの資金がイスラエルの銀行に流れたとする風説も流布している.(H)

 2009年9月15日(火),*ユダヤ人グループがアルジェリアで子供を誘拐し,臓器を売っているとの報道が,反ユダヤのウェブサイトだけでなく,アラブ世界の主力メディアに拡大中.
 報道内容は捏造と見られている.(P)

 2009年9月20日(日),スウェーデン紙の掲載した反ユダヤ的記事が,人種差別を助長する違法な記事だとする訴えが同国の裁判所に出されていたが,法務省が訴えを取り上げない方針を表明.(P,H,Y)

 同日,イランのアフマディネジャド大統領が,またもや「ホロコーストはイスラエル建国の為に作られた神話」と演説.
 米英に続きロシア政府も,演説を不適切だと非難した.(P,H,Y)

 2009年9月22日(火),ホロコースト否定発言で西欧諸国の非難を浴びたイランのアフマディネジャド大統領が,「プロの殺人者ども」を怒らせることができたのは「名誉なこと」だと発言.
 イランの国営通信社が報じた.(P,Y)

 2010年7月27日(火),オリバー・ストーン監督が「ユダヤ人のメディア支配」でホロコーストが過剰に報道されていると発言.
 監督は,最近アフマディーネジャード大統領とも会談し,米国のイラン政策を批判している.(P)

 2010年9月16日(木),モルドバでシナゴグにかぎ十字などの反ユダヤ的な落書きがされる事件が発生.
 犯人は捕まっていない.
 2009年にも,街頭に建てられたメノラー(燭台)を,ハンマーで打ち砕こうとする事件が発生している.(Y,P)

2010年11月2日(火),フランスのユダヤ人墓地で,49基の墓石が破壊される事件が発生.
 落書きは無く犯人は捕まっていない.
 複数犯の仕業と見られている.
 2010年7月他の地域でも,ユダヤ人の墓石が墓荒らしの被害に.(Y)

2011年1月4日(火),2007年にイスラエルから外国へ逃亡していた,24歳のネオナチ指導者がキルギスタンで逮捕され,イスラエルに引き渡された.
 テルアビブなどで暴力行為を働いた後,国外逃亡していた.(Y,H)

2011年1月5日(水),エジプトで21人が犠牲になった,年末の教会に対するテロは,イスラエルの犯行だとエジプトのTVが報道.
 「イスラーム教徒にこんな残虐行為はできない」からだという.(P)

2011年1月5日(水),イスラエルのテルアビブ大学の研究者がGPSを取り付けた鳥が,サウジアラビアで捕えられ,
「イスラエルのスパイ」
だと大問題に.(H)

――――――

 上記,短信ニュースについては,http://www.zion-jpn.or.jp/p0404.htmより引用
[情報源略号表]
 P=エルサレム・ポスト  http://www.jpost.co.il/
 H=ハアレツ       http://www.haaretz.com/
 7=アルツ7       http://www.israelnationalnews.com/
 I=イスラエル・トゥデイ http://www.harvesttime.tv/israel_today/
 Y=イディオット・アハロノット http://www.ynetnews.com/


 【質問】
 アフマディーネジャード・イラン大統領のユダヤ人観は?

 【回答】
 2007年10月6日イランのテレビ「チャンネル1」で放送された,大統領自身の公開演説を見る限りでは,いわゆる陰謀史観にまみれている模様.

 彼曰く,

・世俗主義,反宗教,人民の権利の尊重の欠如を基準とする西側諸政府は,シオニスト政権(イスラエルの意)の防衛が世界における最も聖なる価値だと考えている.

・西側諸国とラテン・アメリカ,アフリカ,アジアの国がなんらかの協定を調印しようと望むならば,まずシオニスト政権を承認し,それを支援し,それとの経済的紐帯を維持しなければならない.

・シオニストは,一部のユダヤ人が第二次世界大戦中に迫害されたことを口実にして,シオニスト政権樹立の礎を築き,1975年になって『ホロコースト』と呼び始め,検証を許さない神聖な問題に祭り上げた.

 詳しくは「MEMRI」,Nov/4/2007付を参照されたし.

 上記を信頼するとするならば,「ホロコーストは捏造」とまでは言っていない点で少しはマシな程度で,他はリビジョニストと大差ない.
 911陰謀論が彼の口から飛び出すのも,そう遠いことではないだろう.


 【質問】
 去年の9月,新聞を読んでいたら,イスラエルにネオナチがいて(しかもユダヤ人)シナゴーグ(ユダヤ教会堂)にかぎ十字などの落書きをしたなんて信じられない内容の記事が載っていました.
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2280001/2116324
http://www.47news.jp/CN/200709/CN2007091001000178.html
http://k-muta.cocolog-nifty.com/y_nakatani/2007/09/post_c9a4.html

 “イスラエルの中心でハイル・ヒットラーを叫ぶ”なんて本当に信じられません.

90式改 in FAQ BBS

 【回答】
 移民ということは帰還法の適用を受けているのでしょうから,彼らも「ユダヤ人」のはず.
 ユダヤ人といっても民族的同一性が必ずしも一致するわけではないですから.
 ロシアからの移民の多くは,ヘブライ語よりもロシア語をそのまま使い続ける傾向があり(ロシア語の新聞もあるくらいだし),若くなければ徴兵もされませんから,国民統合のプロセスにも参加できない,ということが原因で,先鋭化したコミュニティが生まれてもおかしくは無いと思います.
 そこら辺は,日本の極左ゲリラの生まれ方に近いかもしれない.

ウィナ・ツァハル in FAQ BBS

 そういえば,『サウス・パーク』にも「反ユダヤ主義ユダヤ教徒」なるものが登場した回があるが,もしかしたら上の記事が元ネタか?


◆アンネ・フランク関連


 【質問】
 フランク一家は何故オランダに来たのか?

 【回答】
 フランクフルトでもユダヤ人に対する迫害が本格的に始まったため,父親オットー・フランクは,これまでの銀行業を清算したのを機に移住を決めたという.
 以下引用.

 〔1933年〕3月12日に,地方選挙が行われ,フランクフルトにおいてさえ,ナチ党が勝利を収めた.
 その翌日,左翼に支持されていたリベラルなユダヤ系の市長が辞任に追い込まれ,さらにその月の終わりには,市の公務員から全てのユダヤ人が追放された.
 3月1日には,ナチス突撃隊(シュトゥルムアプタイルンゲン,SA)が大挙して出動し,ユダヤ人の経営する商店,企業,法律事務所,医療施設などの入り口を,残らずバリケードで塞いだ.

 オットーにとって,もはや〔彼の経営していた〕銀行の再建が無理であることは明らかだった.
 4月1日の出来事ですら,それまでの事態を一層悪くしたというわけではなかった.
 とはいえ,勝ち誇るナチの行動は,彼に自分の家族,とりわけ子供達の将来を深く憂慮せしめた.
 イースター後,学校ではユダヤ人の学童が,他のアーリア人の℃q供達と区別し易くするため,別の席に座らされていた.いずれ,ユダヤ人の学童,生徒は,全員が彼らだけの特殊な学校に隔離され,教師陣もユダヤ人だけになるだろう.
 これは今や時間の問題であった.
 かねてから,外国へ移住するという考えをもてあそんでいたオットーは,今こそそれを実行するときが来たと判断した.

 まず考えにのぼったのがオランダであった.
 彼はアムステルダムを良く知っているし,少なくとも一人は良き友がいる.
 のみならず,義兄のエーリヒ・エリアスから,オペクタ商会がペクチンの販路を国際市場にまで拡張させたがっていて,そのため,オランダに小売り代理店を開設する計画を持っていることを聞いていた.
 エリアスの尽力もあって,オットーはオランダでオペクタの支店を開設する任務を与えられた.
 その夏,彼は家族をフランクフルトからアーヘンに連れて行き,妻エーディトと2人の娘達とを妻の母に預けた後,自身はそのままアムステルダムに向かった.

 〔略〕

 1933年秋までに,オットーはメルヴェデプレイン37番地の建物の3階に,相応のアパートを見つけていた.
 その年8月16日,アムステルダム市住民登録事務所において,オットーの名が登録された当日に,妻エーディトの名も同時に登録されている.
 ただし彼女自身は,まだそれから4ヵ月ほど先まで,2人の娘と共にアーヘンに留まり,12月5日になって,初めて正式にメルヴェデプレインへの移転が登録されている.
 その2日後,マルゴーとアンネの名が,同じく新住所で住民登録されている.
 登録にあたっては,本人がその場に居合せる必要はなかったから,したがってこれは,エーディトとマルゴーとがアムステルダムへ移ったのは1933年12月だが,アンネは翌1934年の3月になって,初めて家族と合流した,という遺族の記憶と抵触するものではない.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.12-15


 【質問】
 アンネ・フランクにフランクフルト時代の記憶があるのはおかしいのでは?

 【回答】
 フランク一家がフランクフルトからオランダに移住し,住民登録をしたのは1933年.
 アンネ・フランクは1929年生まれ.
 通常,記憶の形成がなされるのは3歳以上とされるので,アンネにオランダ移住以前のフランクフルトの記憶があったとしても不自然ではない.

軍事板


 【質問】
 なぜフランク一家は,オランダからさらに遠くへ逃げなかったのか?

 【回答】
 さらなる新生活への経済的不安感が,オットーにそれをためらわせ,「ナチスも中立を尊重するだろう」という楽観論にしがみつかせる結果となった模様.
 以下引用.

 もとより,ナチの脅威は依然として重くのしかかっていたし,30年代も終わりに近付くにつれ,それはますます重くなっていった.
 多くの国に縁戚を持ち,海外に友人も多数いたのだから,オットー・フランクはその気になりさえすれば,いつでも家族をイギリスなり,アメリカ合衆国なり,スイスなりに連れていけたはずである.
 しかし彼は,他の多くのユダヤ人同様,ナチスはオランダの中立を尊重するものと信じきっていた.

 さらに,これは彼にとっては極めて重要なことだったが,このアムステルダムにおいて,彼は一つの新しい,独立した生活を築き上げていた.
 他のところでは,例えどこへ行っても,自分自身と家族の暮らしを立てていくためには,他人の助力を乞わねばならないだろう.
 というわけで,彼はアムステルダムに留まり続けた.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.25


 【質問】
 オランダで潜伏生活を送ったユダヤ人は何人いたのか?

 【回答】
 約25,000人.
 以下引用.

 1940年から1945年にかけて,強制連行を逃れるために潜行生活を送った在オランダのユダヤ人25,000人の内,だいたい8,000から9,000人がドイツ軍の手に落ちている.
 そうなった原因は様々であるが,総じて4つのグループに分けられよう.
 ドイツ軍およびオランダ側の対独協力者による組織的・集団的な摘発.
 偶然.
 潜行しているユダヤ人自身,もしくはその「支援者」達の不注意.
 そして密告.
 この内3番目と4番目とは,往々にして同時に発生する.
 当時,SDやオランダの警察には,無数の投書や電話による通報があった.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.35


 【質問】
 「アンネの日記」と呼ばれているものは,何種類あるのか?

 【回答】
 アンネ・フランク自身が書いていた日記は2種類.「日記帳1」「2」「3」と呼ばれる,帳面(1はサイン帳,2と3は雑記帳)に書かれたものと,それらをアンネ自身が書き直していた「ばらの用紙」(フォルダに収められた何枚もの複写用紙)とがある.
 他に創作童話が何篇かある.

 これらがオットー・フランクやその他,様々な人々によってタイプ原稿にされ,各国語版が出版された.
 これにも複数のヴァリエーションがある.
 オリジナルの日記から,ファン・ペルス一家を攻撃したくだり.母親への悪口,生理の描写のくだりが削除されれるなど短縮されたもの,短縮されていないもの,ドイツ語出版に際して「配慮」が加えられたもの,等である.
 しかし,いずれも「内容に関わる改竄」といえるようなものではない.

 オリジナルの日記の全文は,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1)で読むことができる.


 【質問】
 『アンネの日記』ってエロいの?

 【回答】
 基本的には,閉じ込められた思春期の女の子が,母親や隣の家に反発したりと,自分なりに考えたことを書いた日記です.
 今日はこんな勉強をした,綴り字の練習をして過ごしている,とか本当に日記がメインです.
 アンネは夢想家な一面も持っていて,ちょっとエロスにロマンを抱きすぎで,そういう部分は刊行に際して父親が削除してます.
 完全版はそういった部分も訳してありますが,決してエロが主体なわけではないです.

軍事板,2009/09/22(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フランク一家らの逮捕は,密告によるものなのか?

 【回答】
 不明.「隠れ家」の支援者達は,密告によるものと確信しているが,戦後に何度か行われた調査では,結論は出ていない.
 密告者と疑われた倉庫係のファン・レーマンについても,そうだとする証拠はどこにもない.
 おそらく,この謎が解明されることはないだろう.
 以下引用.

 「隠れ家」の支援者達は,8月4日の手入れの後,すぐ悟った――この場合,考えられる原因は密告しかありえず,それはおそらく不注意の結果によるものだろう,と.
 クレイマン〔オペクタ商会の経理担当〕も――10月に収容所から帰った後――同様の見解をとった.
 なんといってもSDは,あの日まっすぐ2263番地の家に乗りつけてきたのであり,しかも263番地の家にしか来ていない.してみると,偶然ということはないはずだ.

 少数の支援者サークルを除けば,フランク一家が潜行したことを知っている者は誰もいなかった.
 リンブルク経由でスイスに脱出したという風説が,極めて効果的に流布していたのである.
 同じくファン・ペルス一家やプフェファー氏も,1942年じゅうには完全に足跡をくらますことに成功していた.

 〔略〕

クレイマンだけがファン・レーマンを批判的に見ていたわけではない.隣の会社の従業員達も,さらにはファン・レーマンの自宅周辺の住人も,例外なく彼を不愉快な人間と見なしていた.
 しかし,彼が密告者だったという証拠はどこにもない.

 我々もまた,疑念を解消するには至らなかった.
 〔略〕

 我々が多少なりとも確信をもって言いきれるのは,建物内に匿われているユダヤ人達の存在を,彼は知っていたに違いないという事だけである.
 〔略〕
 全体的な観察,彼の耳にした言葉の端々,「後ろの家」の「発見」(屋根の上からと,裏窓のペンキを剥がしてみたときの),そしてあの書棚の位置.
 しかしながら,ここでもまた,こうした状況からだけでは,彼が裏切り行為を働いたという結論を引き出すことはできない.

 前にも述べた通り,8月4日の手入れについては,他にもその原因として考えられるものは山ほどある.
 あるいはファン・レーマンは,たくさんある連環の,間接的な一つでしかなかったのかもしれない.
 彼は大口叩きであり,自慢屋でもあった.社屋内で起きていることがだんだん分かってくるにつけ,当然自分の知ったことを,あるいは薄々感じていることを,他人に――ハルホトや,隣の会社の倉庫係などに――漏らしたに相違ない.
 ハルホトの妻の軽率な言動もあった.まだ他にも,何かを知っている,あるいは感づいている人々はいたはずだ――通りの数軒先の薬屋,プリンセンフラハト263番地に食糧を届けてくる商人達.これらの人々が,どこまで秘密を胸に秘めておけただろうか.
 プリンセンフラハト263番地の斜め向かい,ヴェステルマルクトに住んでいた,あるNSB党員の話もある.しきりに周辺の住人に探りを入れて,263番地で何が起きているのか聞き出そうとしていたという.
 この男は1943年に死亡しているが,同じ街区で,他にも何人か,知るべきでないことを知り,それを秘密にしておけなかった者がいるのではないだろうか.

 ここに一通の手紙がある.
 当時8歳だったその差し出し人は,ある晩,何かめぼしいものでもないかと,友達と一緒に裏窓から倉庫に忍び込んだことがあるという.
 ところが,頭の上で水洗便所の水が流れる音を聞き,恐ろしくなって逃げ出した.
 1981年に,我々への手紙で,この些細な家宅侵入罪を告白するまで,そのときの出来事については,誰にも一言も漏らさなかった,と彼は告げている.

 いったいどれだけの人々が,はからずもそうして知ってしまったことを秘密にしておけただろうか.
 〔略〕
 いずれにせよ,正確に何があったかを再現することは,今となってはもはや不可能である.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.35 & 51-52


 【質問】
 1944年8月4日の手入れを実行した警官隊のリーダー,SS上級分隊長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーは何故,戦犯とはならなかったのか?

 【回答】
 オットー・フランクによる供述,
「ジルバーバウアーは上からの命令によって行動していたに過ぎず,手入れに際しても不法な行動はとらなかった」
がその主因となっている.
 とはいえ,それなりの社会的制裁は受けた模様.

 以下引用.

 ジルバーバウアーは1911年にウィーンに生まれた.
 1931年から35年までオーストリア軍に奉職し,その後にウィーンの保安警察(シュッツポリツァイ,正規の私服警察)に加わった.
 1939年に志願してSS勤務になったが,ナチ党の党員ではなかった.
 1941年にはさらに,生地ウィーンの秘密国家警察(シュターツポリツァイ,すなわちゲシュタポ)に加わった.
 1943年,ハーグのSD(ジッヒャーハイツディーンスト,SSの保安組織)本部へ移され,ここでアムステルダム外局のIVB4課にポストを与えられた.
 1944年10月,アムステルダムからハーグへの路上で,大規模な交通事故に巻きこまれ,アムステルダムおよびフローニンゲンの病院で療養生活を送った後,1945年4月にウィーンへ帰った.
 戦争終結後は,後にユールス・ヒュフに語ったところによると,14ヵ月に渡って獄中生活を送ったが,それは「コミュニストどもが1938年に私から虐待を受けたと訴えたため」だった.
 1954年になると,名誉を回復してウィーン警察に復職できるまでになったが,やがて1963年10月4日には,拳銃を当局に返上し,オランダ時代の彼の活動を追及する新たな調査が行われている間,非現役名簿に載ることを甘受せねばならなくなった.
 〔略〕
 ウィーンの警察当局は,アムステルダム警察との緊密な連携の下に調査を進めたが,ジルバーバウアーを告発するに足るだけの証拠を発掘することはできなかった.
 1964年6月3日,オランダの日刊紙各紙は,司法当局による調査が打ち切られたことを報道した.
 しかしながら,ジルバーバウアーに対する懲戒手続き(彼は今なお停職中だった)のほうは続行されていた.
 1ヶ月後,懲戒委員会はこう結論した――戦後にウィーン警察に復職を願い出たとき,ジルバーバウアーが1944年8月4日の手入れのことに触れなかったのは事実だが,しかし,特に戦時中の自分の役割を隠そうとしたわけではない,と.
 この結論に基づき,委員会は彼の停職を解くことを決定したが,警察当局はこの決定を不服として,抗告に踏みきった.
 3ヵ月後に,オーストリア内務省の懲戒委員会は,この訴えを棄却したが,オーストリアの「フォルクスブラット」紙によれば,この決定には,オットー・フランクによる供述――すなわち,ジルバーバウアーは明らかに上からの命令によって行動していたに過ぎず,手入れに際しても,不法な行動はとらなかったとの趣旨の――が,決定的な要因となっていた.
 かくしてジルバーバウアーは旧職に復したのだった.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.52-53


 【質問】
 逮捕後,アンネはどうなったか?

 【回答】
 初めアウシュビッツ,次いでベルゲン=ベルゼンに収容され,1945年2月末〜3月初めの間にチフスで死亡したとされている.

 以下引用.

 捕まった8人のユダヤ人は,逮捕の翌日にヴェーテリングスハンスの拘置所へ移された.
 8月8日には,ここからヴェステルボルクのユダヤ人通過収容所に送られたが,ここは,ドイツ軍の摘発を逃れきれなかったユダヤ人の殆ど全員が,「東」(ポーランド国内の絶滅収容所)への旅を始める前に,いったん収容されるところだった.
 8人は8月いっぱいをこのヴェステルボルクで過ごしたが,ここで彼らの身にどんなことがあったかは,殆ど知られていない.

 〔略〕

 九月3日,フランク一家とファン・ペルス一家,それにフリードリヒ・プフェファーは,ヴェステルボルクからアウシュビッツ行きの列車に乗せられ,9月5日〜6日の夜,このポーランドの小駅に到着した.
 彼らは,ヴェステルボルクから送られた1019名の囚人の一部だった.
 〔略〕
 一行はそのまま駅のプラットフォームで「選別」を受けた.
 多少なりとも歩行に耐える者は,駅からアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所までの道を歩かされた.
 258名の男子と,212名の女子とがこうして収容所に向かい,残る549名――その中には,15歳以下の子供が全員含まれていた――は,その日の内,9月6日にガス室へ送られた.この中にファン・ペルスがいた.
 〔略〕

 アンネとマルゴーの姉妹は,アウシュヴィッツには2ヵ月足らずしかいなかった.
 女子収容所では,10月の末から何回にも渡って,他の強制収容所への大量移送が始まっていた.
 この内3回――それぞれ10月28日,11月1日,および2日の便――は,ベルゲン=ベルゼンへと向かった16.移送された者の名簿は保存されていない.
 もしも,「アウシュヴィッツ・ノート」に,11月1日付でアウシュヴィッツからベルゲン=ベルゼンへ移されたと記載されている一囚人(アーティストのリン・ヤルダティ,〔本名カロリーナ・レベッカ・レプリング=ブリレスレイペル〕,ベルゲン=ベルゼンでアンネとマルゴーに会ったとされている17)の証言が,新しい収容所に到着したとき,フランク姉妹と遭遇したという意味なら,姉妹は既に10月28日の便で移送されていたということになる.
 〔略〕
 このことは,11月1日の便でベルゲン=ベルゼンに到着した,リン・ヤルダティの妹によっても確認されている.
 彼女は我々に対し,自分達姉妹が収容所に到着した直後に,アンネとマルゴー(彼女らとは,既にヴェステルボルクやアウシュヴィッツで顔なじみだった)とが駆け寄ってきた,と語っている19

 ベルゲン=ベルゼンの収容所20は,そもそもは第3帝国の中でも「マシな」ほうの強制収容所に数えられていた.
 通過収容所として計画されたこの収容所には,ナチの支配下外の地域で拘束を受けているドイツ人との,交換要員として指定されたユダヤ人,もしくは,その他の意味でドイツにとって役に立つかもしれない囚人,等が収容されていた.
 このことは,この収容所が「交換収容所」とも呼ばれていた理由を説明しているし,また,多くのユダヤ人にとって,ベルゲン=ベルゼンの収容所の名が幸先の良い響きを持っていたことをも説明している.
 特に,ヴェステルボルクに集められたユダヤ人は,アウシュヴィッツ行きを逃れてベルゲン=ベルゼンへ移送されることが決まると,特権でも与えられたかのように安堵した.
 そこならば,いつでもパレスチナへの交換列車に乗り込める可能性がある,そう見られていたからだ.

 全体で延べ125,000名のユダヤ人がここに収容されたが,その内およそ5万名が,多くは「解放」前の数ヶ月と,その直後の2,3週間のうちに死亡した.
 最後にベルゲン=ベルゼンに行き着いたオランダからの囚人3,750名の内,1,700名がここで命を落とした21

 この収容所は,リューネブルク荒野(リューネブルガーハイデ)という,広漠たる不毛の原野に位置していた.
 1944年にヴェステルボルクからベルゲン=ベルゼンへ送られたオランダの法律家アーベル・ヘルツベルフは,この収容所のことを以下のように描写している――
「収容所内には不毛の荒れ地が広がり,冬にはそれが泥海か氷原に,夏には砂礫と土埃と石くれの原となった.
 地中には地虫もミミズも住まず,空中には蝶やトンボの姿も無かった.
 雀が草の種を啄ばみにくることもなく,電柱に止まる鳥もなければ,樹上でさえずる小鳥の姿もなかった22
 だがそれでもベルゲン=ベルゼンは,飢えが急速に収容者を蝕みつつあったとはいえ,どちらかといえばましな収容所だった.
 ここでは,衆人の虐待は比較的少なく,殺される者は皆無だった.
 確かに,建物は粗末な造りで,冷たい風が吹き抜けたし,屋根は雨漏りが酷くて,ベッドが使えなかったり,床に水溜まりができたりすることもしばしばだったが,それでも,毎日が死の危険に晒されているわけではなかった.
 人々は,いつか交換の対象になれる希望に,パレスチナへの移住グループに加われる希望にしがみついていることができた.

 1944年の秋,シュテルンラーガー<ベルゲン=ベルゼンでも最も環境劣悪な地区の一つ,星棟=рフ集会用広場を潰して,もっと多くの収容棟が建てられることになった.
 材木は,アウシュヴィッツから50kmほど離れたクラクフの近くの,さるユダヤ人強制収容所から運ばれたものが使われた.
 この収容棟については,「考えられる限りの最悪の状態にあり,虱がうようよしていた」と描写されている23

 1944年の10月末から11月初め,アウシュヴィッツ=ビルケナウから次々に囚人が移送されてきたとき――その総数は3,659名,「病人だが回復の見込みのある女性」ばかりで,「超満員の家畜用貨車に載せられ,数日がかりで運ばれてきたため,BBに着いたときには衰弱しきって」いたが――この新しい収容棟はまだ完成しておらず,女達はテントで間に合わせるしかなかった.
「晩秋の寒さと冷雨の中,彼女らは――床に薄い藁を敷いただけの――テントで眠らねばならなかった.
 どのテントにも囚人がぎっしり詰め込まれ,その上,明かりもトイレの設備も無かった」
 この様相は,やはりそのときの移送で同地に送られた,さる女性の証言でも裏付けられている――
「仮にテントの前の地面に掘られた露天の便所まで行きたくても,ぎっしり詰まった収容者の間を掻き分けて行くことは,殆ど不可能でした24

 マルゴーとアンネ・フランクの姉妹も,ベルゲン=ベルゼンに到着したときには,こういう状況に遭遇したに違いない.
 10月28日にアウシュヴィッツを出たとすれば,到着はおそらく10月30日だったはずだが,彼女らのテント生活は,1週間とちょっとで劇的な終わりを迎えることになった.
 11月7日,激しい嵐が荒野に吹き荒れ,多数のテントを吹き飛ばしてしまったからである25
「何時間もの間,女達は薄い毛布を肩に纏っただけで,雹と,しのつく雨の中で戸外に立たされていた.
 それから,鞭で追い立てられて炊事用テントに追い込まれ,その晩はそこで過ごさねばならなかった.
 翌朝,一同はとりあえず靴造りの作業場に収容され,シュテルンラーガーの病棟と,老人棟,さらにその他の2ヶ所の営倉が,彼女らのために1時間以内に明け渡されるのを待った26
 その後さらに数週間経ってから,ようやく事態は落ち着き,「アウシュヴィッツの女達」は全員,かつてのシュテルンラーガーに収容された.
 マルゴーとアンネの姉妹も,その中にいた.

 当時のベルゲン=ベルゼンの状況については,我々も多くを知らされている.英軍によって収容所が解放された後,連合軍の従軍カメラマンが撮影した写真が,世界中の新聞や雑誌に掲載され,一目でドイツの強制収容所の恐怖の実態を,幾百万もの人々に知らしめたからである.

 1944年から45年にかけての冬の間に,収容所の過密状態はいよいよ酷くなった.
 至るところに劣悪な居住環境が蔓延り,収容棟の内部も,自然の猛威に晒されるままだった.
 食糧の供給も滞りがちだった.
 混乱が広がり,伝染病の危険も無視できないまでになると,SSはもはや秩序らしきものを維持することすらできず,ただ一つの責務――逃亡を防ぐこと――だけに専念するようになった.
 飢えと寒さ,冷雨と降雪,そして最も基本的な衛生設備さえも欠如していること,これらが一緒になって,衰弱しきった収容者の間に感染性の疾患を蔓延させることになった.
 深刻な医師不足の上に,医薬品は殆ど皆無の状態だったから,たとえどんなに軽症でも,病みついたら最後,手の施しようがなかった.
 冬も終わりに近付くに従い,チフスの流行が何万という収容者の命を奪った.
 衰弱し,消耗しきっていたマルゴーやアンネも,その犠牲となった.

 姉妹がいつ死んだのか,正確なところは不明である.もはや収容所には,いかなる意味での管理も存在しなかったからだ.
 戦後,オランダ赤十字は,オランダ人の全犠牲者の死亡日時を特定しようと,非常な努力を重ねたが,多くのケースでその目的は達成できず,単なる推定と見込みだけに留めざるを得なかった.
 マルゴーとアンネのケースでは,こうして割り出した日付が3月31日となっている28
 しかしながら,幾つかの証拠から,姉妹はそれよりも早く,おそらくは2月の末か,3月の初めには死亡していたものと見られる.
 戦後,多くの収容者――全員が女性だが――の証言したところでは,まずマルゴーが死亡し,2,3日遅れてアンネが後を追ったとされている29
      注
 16 Hefte von Auschwitz, 1964, No.8, pp.82-83
 17 同書,p.83
 18 同書,p.82
 19 M.ブランデス=ブリレスレイペル夫人,1985/11/8
 20 この収容所の歴史については,Eberhard Kolb, Bergen-Belsen, Geschichte des "Aufenthaltslagers" 1943-45 ( Hanover : Verlag für Literatur und Zeitgeschehen, 1962)および,L. de Jong, Het Koninkrijk...の,特に第6巻(1975),第7巻(1976),第8巻(1978)を参照せられたい.
 21 L. de Jong, Het Koninkrijk..., vol.8, pp117, 888.
 22 A. J. Herzberg, Amor Fati. Zeven opstellen over Bergen-Belsen ( Amsterdam: Moussault, 1946 ), p.115
 23 Kolb, Bergen-Belsen, p.115
 24 同書,p.116
 25 同前
 26 同前
 27 同前,ところどころにあり.
 28 オランダ赤十字,文書117267および117266
 29 ブリレスレイペル姉妹他大勢(本書p.59を見よ)

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.57-64


◆◆真贋論争関連

 【珍説】
 アンネの日記は捏造です.あの時代にボールペンはありません.

 【事実】
 鑑定結果は「疑問の余地無く,日記がアンネ・フランク本人の筆跡」だと結論している.

 1981年,オランダ国立戦時資料館は,アンネ・フランク自筆の日記を,真贋鑑定のために法務省所属のオランダ国立法科学研究所に提出した.
 国立法科学研究所は 使用されている物質−−インク,紙,糊など−−と筆跡を調査して,270ページの報告書を発行した.
 国立法科学研究所の報告は,アンネ・フランクの日記の両バージョンが,共にアンネ自身によって1942年から1944年の間に書かれたということを,異論の余地無く論証した.
 日記が他の誰かによる(戦後もしくは戦前の)作品だという申し立ては,ゆえに最終的に反駁される.
 さらに,校正と省略にもかかわらず,「アンネ・フランクの日記」(すなわち日記の出版されたバージョン)は,事実アンネの著作の「本質」を含有している.
 この本の編集者や出版者の仕事に関して「偽造」という用語が適用される余地はまったく存在しない.

 アンネの日記に対する一番ありふれた難癖は,日記にはボールペンによる記述が含まれており,ボールペンが一般的に使用されるようになったのは,アンネの死後だというものだ.これは,偽瞞ながらも,しつこく持続している神話である.日記中の唯一のボールペン・インクは,アンネ以外の人間によって挿入されたと分かる紙片に記されたものだ.
 言うまでもなく,アンネ自身の記述はボールペンを使ったものではない.

http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa56.txt


 【珍説】
 エルンスト・ロエマーの申出に対する独逸連邦犯罪調査事務局(BKA)の調査結果を西独逸の週刊誌「シュピゲール」が暴露した事があった.
 それによると,『アンネの日記』の原本恥〔原文ママ〕,長期に亙って全巻が発表されていなかった.
 しかし裁判の結果遂に第4冊目が調査される事になったのである.
 その4冊目はボールペンで書かれていたと云う.
 よく考えれば,ボールペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降である.
 アンネはそれよりも遥か以前に死んでいた.
 第4冊目に書かれているボールペンの筆跡は第一冊目,第二冊目,第三冊目に書かれている筆跡と全く同じ物である.

 と云う事は,この日記はアンネ自身の手に依って書かれた物ではないと云う事の動かし難い証拠となったのである.

西 in FAQ 2nd BBS

 【事実】
 BKA(ブンデスクリミナルアムト,連邦犯罪捜査局)が鑑定依頼を受けたのは,エルンスト・レーマーの裁判そのもののためではない.
 その審理中,法廷内でエドガー・ガイスなるジャーナリストが,「日記は捏造」だとする主旨のパンフレットを配布したためだ.
 ガイスはそのために名誉毀損で起訴され,1980年4月,区裁判所で禁固1年の刑を宣告された.

 BKAは,このとき,すなわち1980年春に,専門家による鑑定意見を纏めることを委嘱された.
「紙質および筆記具の検査を通じて,アンネ・フランクが描いたとされる原稿が,1941年から1944年の間に書かれたという事実を確証する」ことができるかどうか,この点を調べるのが目的だった.
 したがって,この調査は,目的を上の短い指定事項のみに限定して行われた.

 結果,BKAは,<日記帳I><II><III>の表紙をも含め,これらに用いられている質の紙,ならびに,3冊の日記帳および<ばらの用紙>に見られる質のインクは,いずれも1950〜51年以前に製造されたものである(したがって,1941年から1944年の間に用いることが可能)と結論した.
 一方,
「その後に<ばらの用紙>に加えられた修正個所の幾つかは,(中略)黒と緑色のインク,ならびに青のボールペンで記されている.
 この種のボールペン・インクは,1951年以降に初めて市場に出たものである」
とした.

 このBKAの報告書は,僅か4ページだった.<ばらの用紙>の,正確にどの部分にそれらの修正個所があるのか,また,その修正の性質や程度などには言及されていないし,そういう修正が全体で何ヶ所あるのかもつまびらかにされていなかった.

 それ自体では,この報告書は決してセンセーショナルなものとは言えないし,「日記」そのものの正当性に抵触するものでもなかった.
 しかし,シュピーゲルはこの鑑定結果を基に,1980/10/6,
「BKAリポートで立証さる――『アンネの日記』はのちに編集されたもの.
 よって,この文章の信憑性にも,さらなる疑惑が投げかけられる」
という記事を書いた.
 何のことはない,トバシ記事だ.

 だが,記事はドイツ国内外で反響を呼んだ.センセーショナリズムに踊らされる人間が,それだけ多かったということだ.
 アンネ・フランク財団は,こう主張した.
「内容を明確化するために,些細な修正を加えただけだ」

 ここに至り,オランダ国立戦時資料研究所は,1985年12月20日,国立法科学研究所に筆跡鑑定等を依頼した.
 鑑定結果はこうだった.

 (1) 「日記帳1」と呼ばれるサイン帳型のアルバムの筆跡は,確信に近い確率をもって,比較基準(アンネ・フランクの知人・友人・遺族から提供された,アンネ直筆の手紙など)の書き手,アンネ・フランクの手になるものと見なしうる.
 (2) 「日記帳2」と呼ばれる黒の堅表紙,黒のクロス装丁を施した雑記帳は,先に検討された「日記1」,およびアンネ・フランクの標準字体の筆跡と,確信に近い確率をもって,同一人物の手になるものと認められる.
 (3) 「日記帳3」と呼ばれる緑色と金色のまだらの堅表紙,黒のクロス装丁を施した雑記帳と,「日記1」,およびアンネ・フランクの標準字体の筆跡は,確信に近い確率をもって,同一人物の手になるものと認められる.
 (4) 「ばらの用紙」と呼ばれる,3つのフォルダーに収められている,ばらばらで罫のない紙に見られる筆跡は,先に説明した「日記2」と「3」に見られる筆跡,および,先に説明した「日記1」と,アンネ・フランクの標準字体の筆跡と共に,確信に近い確率をもって,同一人物の手になるものと認められる.
 (4) ボールペンの文字が発見されたのは,「ばらの用紙」のフォルダーに収められた,2枚のばらの紙片においてだけである.
 「日記」に書かれた実際の内容との関連において見る限り,ボールペン書きの文章はいかなる意味も持たない.
 (5) 修正は,一連の文章上の訂正と,綴りのミスの訂正から成っている.
 比較のために使われた筆跡見本と,修正個所の筆跡とが,別人の手になるものと証明されたのは,ごく少数の例においてだけである.
 これら別人のものと認められた修正は,語数にして1語から3語,また,その数は総計26ヶ所である.
 比較の結果は,これらの修正が,全体としてとらえた場合,オットー・フランクによるものであることを,確信に近い確率で示している.

 「確信に近い確率をもって」というのは,国立法科学研究所が用いる,類似性の最も高い段階を表す表現だ.
 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),第7章および第8章をを参照してくれ.

 以上が,筆跡鑑定に纏わる話のおおよそ全てだ.

 4冊目なんて存在しない.たぶん「ばらの用紙」のことを誤認したのだろうが,これは「日記1」「2」「3」そして,アンネの書いた創作童話(複数)と一緒に,オットー・フランクによって編集され,タイプ原稿化された(同,第5章).
 上の(5)の修正は,その編集作業中のものだ.アンネ・フランク財団が主張したように,「内容を明確化するため」の,「些細な修正」だ.
 今日,「アンネの日記」として流布しているものは,この編集された版が基礎だ.
 そもそも「ばらの用紙」の内容は,アンネ・フランク自身による,最初の何冊かの日記の書き直しだ.

 まして,4冊目はボールペンで書かれていた,なんて話は全部嘘っぱちなのさ.


 【珍説】
 1942/6/12の日記の文字と,1942/10/10の日記の文字は,筆跡鑑定の門外漢から見ても,別人の筆跡.
 しかも,片方は13歳の少女とは思えないほどの達筆.

 【事実】
「ほな,門外漢,素人やない,プロの意見を聞いてみまひょ.
 ハールディーはーん!」

「はーい,理学修士のH. J. J. ハールディーでーす,Hahahaha!」

「で,どうなん?」

「別人の筆跡? Hahahaha!ナイス・ジョークですねえ! 

若年者の書く文字が,最初に字を書くことを覚えたときから,最終的に筆跡が固まるまでの間に,漸進的にあれ,また飛躍的にであれ,数段階の変化を経ることは,ほとんど自然の成り行きでである.

 当該事例において準拠枠となるのは,4冊のアルバムに見られる筆跡である.
 これらのアルバムは,通常,友達のサインを集めたり,あるいは寄せ書きをしてもらうのに使用されるタイプのもので,それぞれアンネ・フランクのかつての同級生達が所有しており,したがって,彼女と年齢および教育程度が同等程度と認められる人々の筆跡見本を多数含んでいる.
 4冊全体で,78人の筆跡が含まれており,そのうち11人は,どれか1冊のアルバムの,複数の日付に跨って記入をしている.
 これら準拠集団と比較した場合,アンネ・フランクの筆跡見本に見られる書字能力は,かなり高度のものではあるが,かといって、飛び抜けて達筆というほどでもない.

 さらに,2種類の書体――つまり,手書き活字体(文字がそれぞれ分離している書き方)と,筆記体(文字がほとんどの部分でつながっている書き方)――の両方を併記していることも,決して珍しい現象ではない.
 アンネ・フランクの筆跡見本に見られるこの特徴は,準拠集団の少なくとも15%にも同じく見出される.

 こうした参考資料はまた,用いられた分析法が若年者の書き文字に全体として当て嵌まるかどうか,この点を決定するのにも役立つ.
 調査されたどの資料においても,筆跡の特徴はいずれも高度の一貫性を保っており,たとえ変化があっても,それは十分に自然の変化の枠内で捉えうる.
 このことはまた,異なる日付の元に記入された筆跡にも当て嵌まる.
 間に長い間隔があり,筆跡に変化が起きている場合でも同様である.
 したがってこの事実は,若年者の筆跡における変遷は,一つの自然現象ととらえるべきである,との鑑定家の予想をも裏付けている.

 ときとして非常に広範囲に及ぶ調査を扱った専門的な文献によれば,子供の筆跡は,いくつかの段階を経て発達するとされている.
 この段階的発達については,異なる筆者がそれぞれ異なる表現で語っているが,にも関わらず,その結論するところは明白である.
 書字能力の発達に伴って,筆跡はいっそう安定し,書き文字中の個性も開花する,というものだ.
 この点について参考とした著作の中には,以下のものがある…….

 J. de Ajuriaguerra, et al., L'Ecriture de l'enfant, I, 3rd ed. ( Paris: Delachaux et Niestlé,1979 ).
 H. von Bracken, "Die Konstanz der Handschrift-Eigenart bei Kindern der ersten vier Schuljahre", 《Nederlands Tijdschrift voor Psychologie》, 1934, 1, 541-54.
 M. Gallmeier, "Über die Entwicklung der Schülerschrift", Dissertation, München, 1934.
 D. Gramm, "Schrift und Geläufigkeitsstufen im Grundschulater", 《Schule und Psychologie》, 1957, 4, 70-76.
 O, Lockowandt, "Die Kinderhandshrift――ihre diagnostischen Möglichkeiten und Grenzen", 《Zeitshrift für Menschenkunde》, 1970, 34,301-26.
 O. Lockowandt, & C. H. Keller, "Beitrag zur Stabilität der Kinderhandschrift", 《Psychologische Beiträge》, 1975, 17, 273-82.

『アンネの日記 研究版』(文芸春秋,1994/12/1),p.111-112
強調:引用者

「……というわけなのよ〜ん.
 まさか,プロの鑑定家より,素人の印象論のほうが信頼できるとか,言わないでショーネ?(笑)」

***

 俺,その『アンネの日記(研究版)』買って読んだんだけど,筆跡鑑定のところとか,一つ一つの文字の特徴を微視的分解して,個々の特徴の出現回数とか,純粋に筆跡鑑定の入門書としても読めるぐらい.
 これでも,もとの200頁を超える報告書の抜粋なんだけど.もし本当にこの鑑定を否定したいなら,この報告全体を精査して,その鑑定の何処に問題があるのかを,手間隙かけて証明するぐらいの気概がほしいですな.

軍事板


 【珍説】
 アンネの日記の真の作者は,1979年までオランダ国立戦時資料研究所所長を務めたルイス・ド・ヨング博士.

 【事実】
 この珍説は,1959年1月,ウィーンの「オイローパ・コレスポンデンツ」紙が掲載したもの.
 ド・ヨングは,1957年10月にアンネ・フランクに関する評論を「リーダーズ・ダイジェスト」に寄せ,後にこれはこの雑誌の諸外国語版にも掲載されたが,ド・ヨングが日記の出版に関わっていたことを示す証拠は一切存在しない.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.98-99を参照されたし.


 【珍説】
 「アンネの日記」の真の作者は,ユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビン
 彼はアンナの日記が大ヒットになるにつれ,版権の権利が問題になり,本来なら父のオットーに有るのですが,メイヤーが版権を主張.それで両者は対立.
 醜い争いは裁判に発展し,メイヤーは自分が権利を持つことを主張するために自作であることを暴露してしまった.
 というわけで,その判決でメイヤーが書いたことがはっきりした.

 めでたしめでたし.

 よって改訂してもらおう.

西 in FAQ 2nd BBS

 【事実】
 レヴィンが執筆したのは,「アンネの日記」を基にした,ラジオ番組用の台本および戯曲
 裁判で争われることになったのは,これらのうちの戯曲のほう.
 なぜ裁判沙汰になったかと言えば,アンネの父親,オットー・フランクが,レヴィン版戯曲のブロードウェイ上演を断り,他の脚本家,ハケット夫妻に任せようとしたため.
 レヴィンはこれに対し,
「口頭の約束では戯曲化のためにオットーが選んだのは自分であり,その約束をたがえるのは契約違反であり,詐欺」
「ハケット夫妻は私のアイディアを盗んだ.著作権違反だ」
と主張.

 なお,レヴィン脚本が受け入れられなかった最大の理由は,その脚本が正統ユダヤ教臭いためと見られている.
 現実には,アンネ・フランクは正統ユダヤ教については懐疑的だった.
 にも関わらず,レヴィンは,15年近く,この醜い争いを続けた挙げ句,1959年に最終決着がついてからもなお,ことあるごとに蒸し返そうとした.……宗教ヴァカって,やだね.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),第6章を参照されたし.

 そんなわけで,「自作であることを暴露してしまった」なんて事実はどこにもない.
 Q.E.D. めでたしめでたし.

 よって悪口雑言を謝ってもらおう.


 【珍説】
 仮に本当に「隠れ家」があったとして,そこでフランク一家が暮らし続けていくことは不可能.

 【事実】
 この珍説は,1978年,リヨン大学文学部教授ロベール・フォリッソンが公にしたもの.
 しかしフォリッソン,潜行生活の全体的な様相を深く探求していくとか,フランク一家他の8人が最後には発見され,逮捕された事実を踏まえた上でこの点をじっくり掘り下げてみる等は一切していない.
 むしろその反対に,調査を通じて発見したことを,単に持論を実証するためにのみ用いている.……いわゆる確信バイアスやね.

 例えば,隠れ家からの騒音に関し,
「ファン・ダーン夫人が毎日12時半に掃除機をかける」
ことをフォリッソンは指摘しているが,実は日記では,その1行前にて,倉庫の男達が「ようやく昼食を取りに帰宅したのです」という事実が明らかにされていることを,彼は黙殺している.
 また,日記の1942年11月9日の記述,
「乾燥豆の袋が弾けて,死人も生き返るほどの音を立てた」
に言及している部分でも,彼は,その後に続く部分,
「さいわい家の中には,外部の人は誰もいませんでした」
というくだりを引用から省いている.

 さらに,彼はオットー・フランクを訪ね,あれこれ質問をしている.
 この談話についてのフォリッソンの描写からは,オットー・フランクが,ありとあらゆる矛盾に絡め取られ,動きがとれなくなっているという印象を受ける.
 しかし,18ヵ月後,オットー・フランクは,彼が言ったとフォリッソンが書いていることの大半に,異議を申し立てるコメントを発表している.

 なお,フォリッソンはこれのために,名誉毀損,人種差別,人種的憎悪・人主観暴力の教唆などの罪で有罪となり,執行猶予付きの禁固刑3ヵ月,罰金・損害賠償金支払いという刑を受けている.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.102-104を参照されたし.

 【質問】
 フォリッソンの論考は,ノーム・チョムスキーも支持していたのではないか?
 【回答】
 確かにチョムスキーは,フォリッソンの著作に序文を寄せている.
 1980年にパリで出版された「回想と弁護」がそれである.
 フォリッソンは同書において,ガス室の存在を否定すると共に,彼が歴史を偽り伝えているという非難に対し,自己弁護を試みている.

 もちろんチョムスキーの序文は,騒然たる物議を醸した.時あたかもチョムスキーがヴェトナム政策への反対者として知られていた頃である.

 チョムスキーはこれに対し,
「自分はいつでも,また,どんなところでも,言論の自由を擁護するものであり,その点で自分の態度を変えるつもりはない」
と言明している.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.103-104を参照されたし.

 【質問】
 シェーンボルン裁判では,「アンネの日記」を捏造としたシェーンボルンに対し,無罪判決が出ているが?

 【回答】
 これは,極右団体「戦うドイツ兵連盟」議長,E. シェーンボルンが1978年7月,フランクフルトとニュールンベルクのアンネ・フランク・スクールの前で,パンフレットを配布したために裁判となったもの.

 ただし,裁判長が彼を無罪としたのは,単に「名誉毀損によって刑を宣告するには,名誉を毀損された本人の告発を待たなくてはならない」と判断しただけであり,日記の真贋を審理したからではない.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.104を参照されたし.


 【質問】
 クーント裁判では,「アンネの日記」を捏造としたクーントに対し,無罪判決が出ているが?

 【回答】
 この裁判は,極右月刊誌「ドイッチェ・シュティメ(ドイツの声)」が1979年10月号で,
「アンネの日記は捏造.さるニューヨークの劇作家と,少女の父親との共謀による合作」
とする記事を掲載したため,編集長ヴェルナー・クーントが告発されたもの.

 しかし,この裁判も日記の真贋を審理した上での無罪判決ではない.
「教唆罪については,証拠不充分」
「オットー・フランクからは訴状が出されていない」
という理由での無罪判決に過ぎない.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.104-105を参照されたし.


◆リビジョニスト


 【質問】
 歴史修正主義のどこが間違っているのか分かりません.

 【回答】
・とっくに学問的にはケリがついてる問題に,嘘や誇張に基づいてケチをつけている

・往々にして,その主張の裏には排外主義的ナショナリズムや差別意識が存在する

 はい終了.
 とてもわかりやすい,よいまとめですね(自画自賛).
 太字で示した部分は,特に重要なので気をつけましょう,テストに出ます.

 え? 簡潔過ぎるって?
 そりゃあんた,学問と扇動の切り分けができないひとには,これで十分でしょう.
 まあ,でも真摯に勉強するつもりが本当にあるんなら,そのまんまのタイトルの以下の書籍なんかを読めばいいんじゃないですか.
 本当にあるなら,ね.

『歴史における「修正主義」 シリーズ歴史学の現在4』(歴史学研究会編,青木書店,2000.5)

■(2009-03-19)[歴史修正主義]じゃ,3分といわず30秒でわかるようにまとめましょう.
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「〜〜」という部分に矛盾があるのでは?

 【回答】
 そのような「矛盾」というのは,案外とっくに説明がついている事が多いものです.
 まずは,それが本当に「矛盾」なのかどうかを調べてみましょう.
 そして,もしもまだ説明がついていないのなら,論文を書きましょう.

 言うまでもないですが,「矛盾がある」と「だから全部デタラメだ」は,決してイコールでは繋がりません.

「ストパン」■(2009-03-21)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・補遺編


 【質問】
 あるサイト(http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ ruri/sohiasenseinogyakutensaiban2_mokuji.html)を読んだ感想として,「強制収容所があったのは確かだけれど,・・ガスで殺された人の検死結果 がないとの話もあり・・絶滅収容所などではなく,「強制労働所」だったのではないように読めます.
 ユダヤ人のホロコースト話には,中国共産党が南京大虐殺30万人と言っているのと同じようなうさん臭さを感じます.
 太田さんからすれば考慮にあたらない与太話なんですかね?

 【回答】
 太田述正は,「はい,ヨタ話です」と断言している.
 以下引用.

 2 私の方法論

 私は,歴史家ではありません.
 つまり,原則として第一次資料に直接あたることはしません.
 物事の真偽を見極める際には,第二次資料源の信頼性を判断した上で,そ れに拠る,ということです.

 いかなる第二次資料源を信頼するのか?
 英米,就中英国の高級紙の記事・論説や,英米,就中英国の一流大学の学者の言であれば,信頼性が高い,と考えています. その理由については,ここでは立ち入りません.

 3 ホロコーストはあったのか

 まず,上記サイトの信頼性は低いと言うべきでしょう.
 そのコミック調の体裁を問題にしているのではありません.
 まず,このサイトの執筆者が明らかにされていません.
 しかも,一見第一次資料に典拠して執筆されているように見えるけれど, 典拠サイトや資料が膨大なだけでなく,その中には英語,ドイツ語,ロシア 語のものが含まれており,到底このサイトの執筆者が自分でこれら原典にあ たったとは考えられません.
 となれば,何か種本があるはずです.
 しかし,その種本の名前がどこにも出てきません.
これはアンフェアです.

 4 ホロコースト否定論者アーヴィング

 このサイトの執筆者は,どうやら,英国の「歴史家」アーヴィング (David Irving.1938年〜)の説に拠っているようです.種本までは分かり ませんが,彼の’Hitler's War’あたりではないでしょうか.
 (以下,特に断っていない限り,http://en.wikipedia.org/wiki/David_ Irving(11月25日アクセス)による.)

 アーヴィングは,今月11日,オーストリアに入国した時に逮捕されまし た.容疑は,1989年に彼がウィーン等で行った講演で,ホロコーストの存在 を否定したというものです.
 ドイツでもそうなのですが,オーストリアで は,ホロコーストの存在を否定することを禁止する法律があるのです.
 彼の主張は,ヒットラーは「ホロコースト」については全く知らなかった し,そもそも,「ホロコースト」を裏付ける証拠は皆無だ,というもので す.
 そして,ユダヤ人がナチスによって「殺された」ことは事実だが,その 数とユダヤ人収容所でユダヤ人がガス室で殺されたということに疑義を呈し ています.
 すなわち,ユダヤ人の死亡数は,世上言われている数よりはるか に少なかったし,収容所で死んだ理由は,もっぱらチフス等の病気による, というのです.
(以上,
http://www.nytimes.com/aponline/international/AP-Austria- Irving-Arrested.html?pagewanted=print(11月18日アクセス)による.)

 ホロコースト否定論者は少なくないのですが,その中で,アーヴィングは 最も知られています.
 というのは,今でこそ,歴史学者としては彼は生命を絶たれていますが, かつては学界でもそれなりの評価を受けたことがある人物だからです.
 彼は,1963年に初めて出した本で,先の大戦における連合軍によるドレス デンの絨毯爆撃(コラム#423,831,879)を非難し,一躍有名になります.
 連合国側にも戦争犯罪があった,という彼の問題提起は,ドイツでもては やされただけでなく,既にドレスデン等への絨毯爆撃が議論になりつつあっ た英国で,多くの人々の支持を得,この本はベストセラーになるのです.
 しかし,この本の中で,彼はドレスデン爆撃による死者数を約13万5,000人 と過大に見積もりすぎており,現在では約2万5,000人から約3万5,000人, というのが定説になっています.
 この時点では,彼が第一次資料を都合良く ねじ曲げたのは,この数字くらいでしたが,その後,次第に彼は,連合国が犯した罪は大きく,ドイツが犯した罪は小さく,第一次資料をねじ曲げる度合いが多くなって行き,それに伴って彼の信用は急速に低下して行くので す.

5 アーヴィングの改心

 (1)ホロコースト否定論終焉へ

 ところが,どうやらアーヴィングは改心した模様なのです.
 そうだとすると,ホロコースト否定陣営は,回復しがたいダメージを蒙ったことになります.

 (2)敗訴まで

 1998年にアーヴィングは,英国の出版社が出した本の米国人女性研究者に対し,英国で名誉毀損の裁判を起こします.
 この本で,アーヴィングが最も危険なホロコースト否定者と名指しされたことが事実に反する,というのです.
 これは,彼がホロコースト否定者であったことはない,という趣旨なのか,この本が出た時点では既にホロコースト否定者ではなくなっていた,という趣旨なのかは,(典拠では)定かではありません.
 被告側証人となった,ケンブリッジ大学現代史教授のエヴァンス(Richard Evans)は,2年間にわたってアーヴィングの著作と第一次資料とをつきあわせた上で,以下のように証言します.
「アーヴィングのすべての本や講演や論考の中のたった一つの段落,たった一つの文章でさえ,それが扱っている歴史的事案の正確な描写であると信じられるものはない.・・彼はおよそ歴史家の名に値しない.」
と.
 しかし,このアーヴィングに対する酷評は,エヴァンス自身の歴史学者としての良心と資質に疑問を投げかけさせるものです.
 というのは,アーヴィングがこの裁判を起こす前の1996年に,長らくスタンフォード大学でドイツ史の教授を務めた米歴史学界の重鎮であるクレイグ(Gordon Craig.現在は故人)が,The New York Review of Booksに掲載された,アーヴィングの(ゲッペルスに関する)本に対する書評の中で,アーヴィングのホロコースト否定論は歯切れが悪いし,それが誤りであることはすぐ分かるので,大部分の人は彼をうさんくさく思うだろうが,アーヴィングのこの本は,先の大戦をドイツ側から見たものとしては,最良の研究であり,われわれは彼を無視するわけにはいかない,と記している(注)からです
http://www.nybooks.com/articles/article-preview?article_id=1421(11月25日アクセス)も参照した).

 結局,判決は要旨次のようなものになりました.
 アーヴィングは秀でた知性を持ち,先の大戦の歴史について該博な知識を有しており,第一次資料を広く渉猟して徹底的に研究し,様々な新発見を行った.
 しかし,アーヴィングは自分のイデオロギー上の理由から,ホロコーストに関しては,一貫して意図的に第一次資料をねじまげ,例えばヒットラーのホロコーストへの関与がなかったものとした.
 アーヴィングはまぎれもないホロコースト否定論者だ.
 しかも彼は反ユダヤ主義者であり,人種主義者であり,ネオナチズムを掲げる極右勢力に加担している・・・.
 アーヴィングは控訴しますが,再び敗れ,敗訴が確定します.
 その結果,アーヴィングには歴史家失格の烙印が押されただけでなく,彼は訴訟費用等で破産に追い込まれます.

 (3)オーストリアにて

 逮捕されて以来,ウィーンで拘置され,保釈も却下されたアーヴィングは,弁護士に対し,要旨次のような意向を明らかにしています.
 陪審には有罪を認めた上で,自分は改心しているとして情状酌量を求めたい.
 自分は,1989年にオーストリアでホロコースト否定論を講演した後,解禁された旧ソ連時代の第一次資料を1990年代に研究した結果,それが誤っていることが分かった.
 ユダヤ人が収容所のガス室で大量に殺されたことは間違いなく,ホロコーストは確かにあったのだ.
 もはや議論の余地はない.
(以上,http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1651305,00.html(11月26日アクセス)による.)

 (注)
 この裁判が終わった後の2000年に,現存者としては世界一の軍事史家であるとされる英国のキーガン(Sir John Keegan)は,アーヴィングは創造的な歴史家としての多くの資質を備えており,彼の書誌家としての技術は比類がなく,彼の著作は人を飽きさせないが,そのホロコースト否定論に関しては,アーヴィング自身,本当だとは思ったことは一度もないのではないか,と指摘している
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Keegan(11月26日アクセス)も参照した).

Subject: 太田述正コラム #970 ( 2005.11.26 )

 というか,maaさんちのそのHPは,そもそもネタとして作られたものだそうなんですが.


 【珍説】
 ホロコーストの証拠となる文書がただの一枚も発見できていないことは,肯定論者も認めている.
 ホロコースト証言さえ事実との整合性が全く無い.肯定論者にとってさえ,証言の信憑性は失われつつある.

 【事実】
 証拠となる文書はヒムラーの報告書をはじめ,様々なものが発見されている.
 IMTでは文書資料に基づいて審議が行われている.
http://www.yale.edu/lawweb/avalon/imt/imt.htm
 それにこの裁判は西側の裁判だ.

 そしてソ連は戦後に現地調査を行っている.
ドイツ側資料にもいくつか「ガス室」と書かれた資料がある.
http://www.nizkor.org/ftp.cgi/camps/auschwitz/images/k4-riedel-gasskammer.jpg
http://www.nizkor.org/ftp.cgi/camps/auschwitz/images/bischoff-430129-vergasungskeller.jpg

 一方,ロイヒターレポートはツンデルが書かせたものであり,「中立な資料」などではない.

軍事板

 一方,リビジョニストが論破したとか言う証拠は実は,大して重要視されていないものも多い.
 例えばゲルシュタイン報告書というもの,
 これは宣誓供述書ではない.
 詳しくは知らんが,向こうの裁判では宣誓供述書というものが非常に重要視される.
 でもこの報告書は,その宣誓供述書ではないため,ニュルンベルク裁判でも大して重要視されてはいなかったようだ.
 むしろ,内容が大げさに語られているから,参考程度にしておこうというのが当時からの見方だったらしい.

 それなのに否定派はこればかりを取り上げ続ける.
 まるでこれくらいしか突っ込むものを持っていないかのようにな.

軍事板

 また,事実との整合性というのは正確ではないが,証言間の食い違いは説明がすでについているし,証言の信憑性を損ねるものではない.

 確かに,多くの識者が言うように,「これ一つをとって,アウシュヴィッツのガス室で,ユダヤ人が大量に虐殺されたことを直接示している」というものはない.
 しかし,様々な立場の人物からの証言,各種の文書(ガス室の設計図,その発注書等),航空写真,等が相互に決定的な矛盾を指し示すことなく,相互に補完しあって,『帰納的一致』として『アウシュヴィッツのガス室で,計画的にユダヤ人の大量虐殺が実行された』と言う事実認定がなされたということを,もう少し勉強したほうが良い.

 なお,ガス殺死体についてなんだが,こういうものもある.
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/aml15378.htm
 これには,マルコポーロの西岡先生もまともな反論でぎすに逃げ出している.

 否定派の人々はそろそろ,何故,自分達の主張が受け入れられないのか,真摯に反省すべきじゃないかな?
 仮に将来,決定的な証拠が出てきたとしても,やれ,捏造だ,なんだって難癖つけて,否定しようとするだろうからね.

 このスレッドでも,通説を支持する側からは様々な角度から書かれた文献等へのリンクが張られたが,否定派から張られたリンクは詰まるところIHRのパンフレットでしかない.

 否定の立場を貫き通そうとするなら,時間も労力もかかる地味な作業をこつこつ積み重ね,状況証拠であっても,説得力を持つだけの論理展開をするべき.

軍事板

 まあ虐殺否定派の言い訳に
「ヒトラーはユダヤ人虐殺命令を出した記録はない」
「国家としてのドイツがユダヤ人を組織的に殺害した記録がない」
がよく言われるけど,虐殺という近代国家にあるまじき行いを記録に残すことドイツがするはずないだろう.

 こう言うと,
「国家が記録を作らないなんてありえにだろう」
と馬鹿にされる.

 なのに,ユダヤ陰謀説はあっさりと信じるこの人たちが不思議だ.

軍事板


 【珍説】
 ハーウッドの本は,ツンデル裁判で徹底的に検証されたから,全面的に信頼できる.
 それにツンデルは無罪,つまり裁判に勝った.

(西 in FAQ BBS)

 【事実】
 ああ,判決文を読んでないのか,君は.
 カナダ最高裁の判決は
『トロント地裁の有罪判決の根拠となる法律(刑法第177条)そのものが,憲法に記載されている言論の自由を侵害しているので違法』
という判決なんだが.
 別にツンデルの説を支持したという判決ではない.

 ツンデルの勝訴であることは間違いない.が,ツンデルが無罪になったのは裁判で言論の自由を保障しただけで,ツンデルの説を支持したわけでは無い.
 判決文はホロコーストには触れちゃいないし.頭のおかしな電波親父を政治思想犯扱いする事自体が馬鹿馬鹿しいって話.
 「言論の自由」とはそういうこと.

 カナダ最高裁はこう言ってる.
「結果的に少数意見を圧迫しており,カナダの権利憲章に規定された言論の自由を侵害しているので違法」
 歴史修正主義者の木村愛二の著書にすら上記の説明は載ってるんですが.

(JSF in FAQ BBS)


 【質問】
 リビジョニストの典型的な手口とは?

 【回答】
 まず,引用.

 彼らは,それ以前の著作物を引き合いに出し,単にそう申し立てられただけの事柄を,あたかも「本当に真実」であるかに思わせるよう,その一端を恣意的に引用することを得意とする.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.99

 これに対し,リビジョニストの主張が広く受け入れられることがないのは,別にユダヤの陰謀でもなんでもなく,以下の

 主張者に対して彼らの提示した証拠がこれまで証明された以上に「完全に事実で」あることを証明せよと要求するのは,証拠が疑わしいと考えることのできる特に明らかな理由が存在しない限り,不合理である.
 もしもホロコースト否認論者がこの証拠に対して疑念を投ずるならば,証明責任は否認論者のほうに転換され,非常に高い証拠基準が要求される.
 否認論者は,ホロコーストが真正なこととして証明している証拠全体の主要な部分が,何千という鑑識眼のある査定者によって捏造され,誤り伝えられ,誤解されているのだということを,すくなくとも「蓋然性の均衡(en:Balanceofprobabilities)」をもって証明しなくてはならない.
 それができるまで,論じるのが必要だと認められるだけの「証拠の原則(en:Rulesofevidence)」を否定論者は満たすことがない.
 それまでは,ホロコースト否認論は不合理な見解であると認識され続けることになる.

wikipedia:「ホロコースト捏造」の論理(リビジョニストの論理の典型なものに反論)

のように,単に見解が合理性を欠いているからに過ぎない.

 ちなみに「ホロコースト否定論者の原則」というものがございまして,だいたい以下のような習性がリビジョってる人達にはあるとされています.
 「なぜ人はニセ科学を信じるのかU」(マイクル・シャーマー著)より,

 1・ 真実は我が手にあるという絶対的確信

 2・ アメリカは大なり小なり,陰謀集団の支配を受けている.
 事実,この邪悪なグループが強大な権力を握って,大半の国々を支配していると信じられている.

 3・ 敵対者への憎悪をむきだしにすること.相手(実際,急進派の眼には「敵」として映っている)が「陰謀」に加担しているか,そうでなくともそれを支持していると考えられるため,憎悪と軽蔑に値する.

 4・ まったくと言っていいほど民主主義的な方法を信用していない.それは,「陰謀」が合衆国政府に影響をおよぼしていると大半の人々が信じているからであり,急進派がたいていの場合,妥協を鼻であしらうのはそのせいである.

 5・ それが同胞であっても,特定の人間に関しては,基本的な市民の自由を否定することもいとわない.
 なぜなら敵は自由に値しないからである.

 6・ 無責任な告発や名誉毀損を徹底的に楽しむ.

 これら「原則」から考えるに,リビジョニストが嫌われるのは主張の妥当性の有無それ自体よりも,その攻撃的/排他的な態度にあると考えられる.

 FAQ BBSで実際にあった例ですが,そのリビジョニストはいきなりケンカ腰な上に,「初めに結論ありき」な態度が丸見え.
 こういうキチ●イに触るのは当方は嫌なんで,適当に受け答えしていたら,「逃げたい」だの何だの.
 中傷レスを削除したら,某BBS某スレッドにおいて「当方が"勝利宣言"した」ことに脳内変換する奴も出る始末.

 また,軍事板のスレッドで論争に負けそうになる
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08b02.pdf
と,本サイトへの荒らしを宣言,他の掲示板で荒らし依頼まで行った
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08b03.pdf
上で,自ら荒らしを行った
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08b.pdf
リビジョニストまで発生する始末.

 誰だって耳を傾けたくはなくなりますわな.┐(-。ー;)┌ヤレヤレ

軍事板 & FAQ BBS

 ホロコーストの問題全般に渡り,細かい部分での異論は色々出ているようだが,そういうものは専門家の議論に任せたほうがよろしい.
 今後,細かいところで定説が覆った部分が出てきたにせよ,
「アンネの日記は,概ね本人が書いているだろう」
「何らかの計画的大量殺戮はあっただろう」
という大枠が崩れることはまずあるまいし,素人が適当に議論の端っこだけつかまえて,討議しようったって,水掛け論の信仰告白にしかなりゃしない.
 もし専門的に討議したいのだったら,BBSで不毛の論争を繰り返すよりも,大学の史学科に入るなど,相応しい場を求めた方がよろしい.
 まあ,人それぞれの人生だが….

軍事板

 リビジョニストの理屈からしたら,社保庁も年金記録を全部抹消して,証拠隠滅の命令書まで 全部なくしてしまえば,年金払う必要なくなるんだよ.
 領収書なんて持ってる奴らはほとんどいないんだし,払ったっていう本人の証言は「証拠にならない」.
「払ったなら払ったって言う証拠を本人のお前が出せ,
 社保庁は払ってないっていう証拠は出せない.悪魔の証明だから」
って言ってやれば,もう年金なんてこれから先,国は全く払う必要なくなるじゃん.

<リビジョニスト論法・年金編>

1 証言は証拠にならない
  「年金払ったって言う本人の証言は証拠にならない」
2 公文書こそが唯一の証拠
  「年金記録は社保庁のデータベースには存在しない」
3 証拠書類が本物であるという証拠をだせ
  「領収書は本物であるという証拠が必要」
4 あったならあったという証拠をお前が出せ,こっちが出すと悪魔の証明になるから不可能
  「年金払ったなら,払ったという証拠を出すのは受給者,社保庁は何の証拠も出せない
   払ってない証拠は悪魔の証明だから」
5 以上のことから一切の証拠が存在しないためホロコーストは存在しなかった.
  よってドイツは謝罪する必要なし.
  「以上のことから一切の証拠が存在しないため,年金は払われていなかった.
   よって国は年金を支給する必要なし」

軍事板


 【質問】
 ホロコースト否定論がなくならないのは何故か?

 【回答】
 社会思想家・竹田青嗣によれば,「反差別=絶対正義」というスタンスでの運動が行われると,単にその問題に触れることがタブーになるだけで,差別的心意はちっともなくならない,やっかいな状態になるのだという.
 以下では竹田は,日本の部落解放運動を念頭に置いて論じているが,それ以外のあらゆる差別の問題にも当て嵌まるだろうし,ホロコースト否定論を声高に主張する人が時折出るのは,以下で触れられている「裏側の心意」の噴出であろうと推測される.

僕は社会思想の中で一番大事な問題が,差別の問題に象徴的に表れていると考えているわけです.
 つまり,告発糾弾主義とか,いわゆる「差別語狩り」という運動の方向は,ずっと言ってきたような絶対弱者の立場に正しさの公準を置いて,そこから社会批判を考えていくという形が基本になっている.
 前に「思想の科学」(「少数者論」の再検討」,1991年8月号)で,差別の「囲い込み」について書いたことがありますが,反差別の運動が絶対正義主義や罪悪感脅迫型になると,普通の人がそこに寄り付かなくなって,どんどん囲い込まれていく.反差別運動自身が無意識の内にタブーになってしまう.
 やっかいだから抗議が来たらもう言うとおりにしておこう,という感じで,とにかくそれに関することは,みんな初めに禁じ手にしておく.

 すると必ず,どこかうざん臭いなという感覚が,一般の人にどんどん溜まっていく.
 問題がきちんと了解されないまま,タブーになっていくわけです.
 差別の運動がそんなふうになると,表側では差別はあってはならないというタテマエがどんどん大きくなり,裏側では差別的心意はちっともなくならない,そういう厄介な事態になるんですね.

 さっき小林さんは,部落解放同盟にチェックを入れてもらうのは変ではないか,と言われていたけれど,その感度がとても大事だと思うんです.
 そういう感度がなくなって,部落解放同盟が世の中の弱者を代表し,何が差別かについて,彼らだけが決める権威を持っているということになると,差別の問題は神学的な権威付けと同じ構造になってしまう.
 何が差別なのか,どのように考えればこれを解決できるのか,そういうことを市民の一人一人が考える機会と条件がいつでもあって,それでみんなでそれを鍛えていくということが一番肝心なのに,何が悪か,何が善かを決める権威だけがある.差別は言わば専売事業になる.
 すると必ずあの「政治と文学」※の論議が出てきて,表現一般が政治主義的に裁かれる.
 すると市民社会の基本原理も成り立たなくなる.

(竹田青嗣・橋爪大三郎・小林よしのり対談 from 「正義・戦争・国家論」,
径書房,1997/9/10,p.77-78)

 ※ 文学表現において,政治的目的意識を与えることが重要なのか,日常の小さな出来事や心意の中で,人間の行為の「ほんとう」や「うそ」を深く描き出すことが大事なのか,という論争.
 前者がいわゆるプロレタリア文学で,彼ら「政治派」は,後者を批判・否定した.

 詳しくは「正義・戦争・国家論」,p.38-41辺りを参照されたし.


 【質問】
 ホロコースト肯定国では否定派の学者が投獄されるそうですが,これは否定派の口を塞ごうとするものじゃないんですか?

 【回答】
 ドイツでは極左,例えば赤軍派みたいな言論も罪になるんだよ.
 ドイツは「戦う民主主義」っていう制度をとっているから.

 ヒトラーがワイマール憲法下で政権を取った反省から,極端な思想は取り締まられるべきだっていう方針の下でドイツは国づくりを進めてきた.
 その中で,ドイツの右翼がしょっちゅう言い出して演説のネタにしてきたのがホロコースト否定論で,事例があまりに多いから特別な法で取り締まるということになったのが例の法律.

 ちなみに,ドイツの著名雑誌シュピーゲルの記事で度々ホロコースト・ユダヤ関係な記事が出る.
 また,届出を出せば,ドイツにおいてネヲナチがデモ行進を行いホロコーストに文句を言ってもタイーホされない.
 否定派の言い分が正しいと仮定するなら,デモが弾圧を受けたり,シュピーゲル誌がとっくの昔に廃刊になっていないとオカシイのだが.

 それと,ドイツ刑法130条の条文からすれば,裁判で「なかった」と立証できれば無罪になると思うんだけどな.
 判例とか見んと分からんだろうが.

(3) Whoever publicly or in a meeting approves of, denies or renders harmless an act committed under the rule of National Socialism of the type indicated in Section 220a subsection (1), in a manner capable of disturbing the public piece shall be punished with imprisonment for not more than five years or a fine.

 しかし,ドイツ刑法って煽動罪があるのか.すごいな(笑).

軍事板
軍事板(青文字)


 【質問】
 ホロコーストを否定しただけで逮捕されるって,おかしくないですか?

 【回答】
 まずはじめに言っておくと,それとホロコーストの有無は無関係の問題です.

 さて,これについては意見が分かれるところです.
 言論の自由を,たとえそれがどのようなものであっても擁護すべし,と考えるひとはこれを批判するでしょう.
 また,弾圧する事で否定論者を「殉教者」に仕立て上げてしまうのではないか,という危惧から反対するひともいるでしょう.
(どちらかというと,ぼくはこの考えに近いです)

 けれど,忘れないでいただきたいのは,ホロコースト否定というのは,何十年もかかって積み上げられてきた学問的成果と,虐殺された何百万という人びと,そしてその人びとの記憶を胸に刻み込んでいる関係者,すべてを踏み躙っているという事です.
 〔中略〕

>戦争を体験したヨーロッパの人びとにとっては,“ユダヤ系の隣人が連れ去られ,帰ってこなかった”といった実体験に基づくリアリティを有した事柄

 このリアリティがあるからこそ,刑事罰が与えられるようになっている訳で,確かに刑事罰というのは「行きすぎ」なのかもしれませんが,そういう法律が通過する背景を考えてくれ,と言いたいですね.

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
&同コメント欄

青文字:加筆改修部分

――――――
plummet 2009/03/21 04:50

 ちと,ここんところが誤解を招きそうなので,名誉を毀損された被害者として,「個人」「法人」「諸団体」といった具体的な被害主体が必要だとは補足しておくべきでは,と思いました.
 「すべての関係者」的な,漠然とした大きな対象への罪としては,成立しないと思いますので( ゜Д゜)
 ぽこぺん.
――――――

Mukke 2009/03/22 01:04

plummetさん>
 ご指摘有り難うございます.
 問題の箇所は,筆が滑りました.
 特定個人を指して「ウソツキ」と言っているならともかく(東中野裁判のように),この場合は相手が漠然としているので,訴追の対象にはならなさそうですね.
 否定論をさんざん批判しておきながら,お恥ずかしい限りです.
――――――

 【質問】
 歴史修正主義もひとつの見解として尊重されるべきでは?

 【回答】
 ウソを尊重するのは,寛容でも何でもありません.
 ホロコースト否定論の主張は,歴史学の専門家からは歯牙にもかけられていないのです.
 例えばあなたは,「原爆投下なんてなかった」という見解が尊重される事を望みますか?

「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 「定説が正しいか間違っているかを検証することを,違法とする」ような法律が正しいものとは思えないのですが.

 【回答】
 だってその「定説」って,よほどのことがないかぎり覆りませんよ?
 まあ,あなたの論理を敷衍すれば,原爆投下や東京大空襲の真偽を検証する研究にも,公費が投じられてしかるべき,ということになるのかもしれませんが.
 前近代史と近現代史は違うんですよ?

「ストパン」■(2009-03-20)同コメント欄
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「ホロコーストがあったかなかったかわからない」というのは,中立的な態度ではないでしょうか?

 【回答】
 そのような反応を引き出すことこそが,ホロコースト・リヴィジョニストの目的なのです.

――――――
 ホロコースト否定論でもそうだし,南京事件否定論でもそうですが,過去に論破された主張をそのまま,あるいは微妙に変形して繰り返す,ということがよくあります.
 というか,この手の「議論」に遭遇したら,8割か9割くらいの確率で,そういうループ化した「議論」の一部だと考えて間違いないです,経験上.

 こういうのは議論とは言いません.
 これが議論だというなら,全ての議論は決着不能ということになってしまいます.
 人の言う事を聞かない人が,延々主張を繰り返せば,どんな議論だってループ化できてしまいますから.
 こういうループ化したやりとりは,門外漢には「議論が継続中である」という印象を与える効果があります.
 特に,主張の細部に専門用語や専門知識がちりばめられていると,一見まともな議論かと錯覚してしまうものです.
 そういう意味でこれは「議論の捏造」と言ってよいでしょう.

 まともな議論とまでは思わなくても,「ややこしそうな話だな」とか,「ちゃんと勉強しなきゃ見極められないな」とか,「あとで読む」などという態度保留の反応が引き出せたら,それは歴史修正主義側に有利にはたらきます.
 ほっといたら通説を受け入れて敵に回るはずの人に,中立の立ち位置に止まらせたわけですから.
 こういうのを僕は「足止め効果」と読んでいます.

歴史修正主義の手口について - 児童小銃
――――――

 歴史学の世界において,ホロコーストの存在は実証されています.
 意図派と機能派の違いも,ホロコーストの存在,ガス室の実在を前提にしたものです.
 ヒトラーが当初からユダヤ人虐殺を計画していたか,状況に動かされてユダヤ人虐殺計画が生まれたか,という争点の食い違いがあるだけで,前提は問題にすらなっていないのです.

 否定派は様々な嘘をつきます.
 たとえば,彼らはトレブリンカ強制収容所が解体された後の航空写真を提示して,
「収容所が写っていないのはおかしい」
と主張します.※1
 あるいは,自身の典拠とする報告の内容をねじ曲げます.※2
 こんなものはまともな議論とはいいません.
 ただの虚偽です.

 「学問」と「デタラメ」の双方から距離を取ろうとするのは,正しい態度とはいえません.

※1:http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points2/Treblinka.html

※2:http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points/Markiewicz.html

「ストパン」■(2009-03-21)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・補遺編

 【関連項目】
 「詭弁」とは何か?



 【質問】
 でも,学者がすべて正しいとは限らないのでは?

 【回答】
 そうですね.
 学者も人の子ですから,間違いを犯す事もあるでしょう.
 専門家ですらも間違うのですから,専門家でさえない否定論者のヒトタチの信用度は,言わずもがなですね.

「ストパン」■(2009-03-21)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・補遺編


 【質問】

------------
152 : 最低人類0号 : 2011/10/29(土) 15:09:03.13 ID:KRnymcMX0 [3/8回発言]

[略]

 mukke氏も言ってるが,ホロコーストの事実に対し,存在を否定する議論の余地があると認めた時点で,否定論者のロジックに嵌ってるんだよ.


165 : 最低人類0号 : 2011/10/29(土) 18:25:03.84 ID:fj/8+XKb0 [7/8回発言]

 ただいまー

 で,ホロコースト議論についての議論になってるけど,あれって真面目にやるとひどく手間かかるんだよ.
 俺もドイツ軍関係のスレで,ホロコースト否定論者に絡まれたことあるから分かるけどさ.
 だから,
「ホロコーストのことなんて興味ないよ.
 ヨソで好きなだけ議論やれよ」
って答えたんだけど,ID:KRnymcMX0の言い草だと,俺もホロコースト否定論者にされてしまうん?
------------

 どうなんでしょう?

 no.165氏は,不作為のホロコースト否定論者ということになるのでしょうか?

 no.152氏の意見も判らなくもないのですが,当方自身,「ホロコーストは捏造」論者に絡まれましたときに,酷く面倒くさい思いをいたしまして,それを考えますと後者の気持ちも良く分かるのです.

 その点,貴氏のご意見をお聞かせ願えれば幸いです.

ホロコースト関連の質問 - Hatena Recon

 【回答】
 それは話のレヴェルがちょっと違っていて,つまり
“ホロコーストについて語る時に,「ホロコーストがあったかなかったかについては議論がある」と言明すること”
と,
“そもそもホロコーストとは関係のない議論をしている時に,ホロコーストの話を持ち出され,「関係ない議論はヨソでやれ」と言うこと”
は異なった問題なのではないかなあと.

「ホロコーストの実在性については議論がある」
という発言が問題なのは,それが「ホロコースト否定論者の論にも見るべきところがある」というメタメッセージを伝達してしまうからなのであって,
「めんどくせえからホロコーストの議論はヨソでやれ」
という言明自体は,そこまでのメタメッセージを伝達しないのではないかと思うのです.

 それを否定論に与するものと言ってしまっては,ネット荒らし放題になってしまいますし.

「ストパン」◆(2012-02-11)今日は紀元節


 【質問】
 欧州では否定論が違法だから,まともな研究ができないのでは?

 【回答】
 まともな研究の結果,どう転んでも,細部の変更はあれ,ホロコーストという大前提自体がひっくり返る事は有り得ないとの結論が出たから,違法になったんです.
(もちろん,違法の是非では賛否が分かれます)
 ホロコーストがなかったというのは,枝を離れたリンゴが浮遊し続けるのと同じくらい有り得ない事です.

「ストパン」■(2009-03-21)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・補遺編


 【反論】
――――――
 リビジョニストに対する「批判者」は,オープンな議論があった,と言っています(いるようです)(いるのでしょう).
 現在は,ある種の結論を表明することが刑法で処罰される(懲役刑など)としても,オープンな議論は,過去にはあったのでしょう(きっと).
 ところで,ホロコーストの「オープンな議論」の受付期間は,いつ終了したのでしょうか?
 現在は,議論の主題は「解決済み」だから,結論を確認する作業以外は禁圧されてもOKとお考えですか?

――――――gkmondさんからTBをいただきました.- negative_dialektik はてな村出張所

 【再反論】
 〔略〕この部分だけで,

・それまでの研究の蓄積を知らずに「通説」批判に飛びついた

・日本など,ホロコースト否定に対する刑事罰の存在しない国における研究をガン無視

・研究を「結論を確認する作業」呼ばわり

〔略〕を露呈している〔略〕

 議論ならいくらでもやってる――有名どころだとゴールドハーゲン論争とか――んで,どうぞご参加なさって下さいな.
 ああ,念のために言っておくと,使い古された論点と嘘っぱちを並べる事は,「議論」って言わないからね.

 〔略〕

「ストパン」■(2009-03-26)[歴史修正主義][デムパ]それはね,単にきみが知らないだけ
青文字:加筆改修部分

Mukke 2009/03/29 22:33

 〔略〕
 ただ個人的に,『マルコポーロ』が廃刊になったことは残念に思います.
 ユダヤ人団体側の怒りは当然ですが,あの廃刊は,リヴィジョニストたちに格好の餌を提供したようにしか見えないのです.

以上,同コメント欄より
青文字:加筆改修部分


 【珍説】

「結局,ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも,精神とか,共通理解とか,一致や同調の問題であった.
 この企てに加担したのはだれなのか.この事業のためにどんな機構が作動したのか.絶滅機構はさまざまなものの集合体であった
 ―――全作業を担った官庁はなかった.…
 ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために,特定の機関が創出されることはなかったし,特定の予算も割かれなかった.
 それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし,それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった」
(ラウル・ヒルバーグ,望月その他訳『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(上)(下),柏書房,1998年,44,50頁)

 このように,ヒルバーグは,ヒトラーや官僚の命令がなかった事は認めざるをえない状況になっている.

 【事実】
 ヒルバーグが書いているのは,
「ヒトラーは演説によって影響力を行使し,ナチ幹部に彼の期待や希望を語ることによってユダヤ人移送を殺戮政策へと結晶化させ,ユダヤ人の肉体的絶滅を命令し,ユダヤ人移送の具体的時期を決めた」
ということだよ.

 「絶滅計画を立ててない」ってのはどういう意味か知らないが,まあたしかに指導者一人が計画をシコシコ書くのは無理だろうな.

軍事板

 ナチズム政策の本を読めば,ほとんど統一性の無い政策が施行されている事がままあったと分かる.
 Aという部門の指揮下にある部署に,全く別のBという部門が命令権をもって命令し,執行し,Aは知りませんでしたってこともあったようだ(笑)
 しょせん,それがナチズムなんだよ.
 自称懐疑派なら否定派と肯定派の各資料,史料を史料批判の精神を持って読むべきだらう,
 で,多方面の視点から物を見る訓練をしなさい・・・

軍事板


 【質問】
 「ir」って何?

 【回答】
 pressTVは本来irドメインのサイトで,そこからの引用が多かった事から.
 世界はユダヤ人の陰謀とアメリカの欲望で成り立ってると,本気で考えてるすごい人.
 反ユダヤ反米の為ならマルチスタンダードも辞さない一貫した姿勢を持つ(笑)
 ついでに文章に特徴があり過ぎて,速攻で特定できたりする.

 最近は原油価格の暴落で,お気に入りのイランやベネズエラが悲惨な事になってて涙目らしい(笑)

 pressTVの記事内容は,まったくのデマとは言わないまでも,チベット情勢に関する新華社通信よりだいぶ劣る,程度には信用して良いんじゃね?

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 ウィリアムソン司教問題とは?

 【回答】
 リチャード・ウィリアムソン司教は,マルセル・ルフェーブル大司教から任命された司教の一人.

 ルフェーブル大司教(1991年死去)は,1962〜1965年に開かれた第2バチカン公会議の決定内容を不服として,1970年に聖ピオ10世司祭兄弟会を設立.
 独自の布教活動をしていましたが,バチカンは1976年ルフェーブル大司教に聖職停止を通達.
 さらに1988年に,彼と彼が任命した4人の司教を破門しています.

 時代は下って2009年1月24日,ローマ教皇ベネディクト16世はマルセル・ルフェーブル大司教と,彼が任命した4人の司教の破門を撤回することを発表しました.

 で・・・破門が撤回された司教の一人リチャード・ウィリアムソン司教は常日頃から,
「シオンの議定書は本物」
「ナチスのガス室はなかった」
と主張している方なので,欧米ではちょっとした騒ぎになっているようです.

イギリスのインデペンデント紙
イスラエルのエルサレムポスト紙

ラッキーマン.in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分


目次へ戻る

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ戻る

軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事初心者まとめ

inserted by FC2 system