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◆◆◆ハンガリー陸軍 Magyar Honvédség a Második Világháborúban
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<第二次大戦FAQ


こちらより引用)

 【link】

Armis et litteris
 陸軍士官学校の歴史(洪語)

Hadak Ura
 軍装,洪語

Katonai logisztika
a Magyar Katonai Logisztikai Egyesület folyóirata

MartynMilitary (D. Martin) - DeviantArt
 彩色写真集

Royal Hungarian Armed Forces|World War II Armed Forces — Orders of Battle and Organizations
 戦闘序列

『The Royal Hungarian Army in World War II』(Nigel Thomas 他著,Osprey,2008/10/21)


 【質問】
 ハンガリー陸軍は第二次世界大戦ではどんな戦いに参加してますか?

 【回答】
(対ユーゴ戦)

 第三軍が侵攻しますが,セルビアのパルチザン相手に小規模の戦闘があったのみでした.

(対ソ戦第一段階)

 対ソ戦はまず,後に悲劇の将軍となったソンバトヘイ・フェレンツ将軍の率いる機動軍,第一,第二自動車化旅団,第一騎兵旅団及び,他の二つの旅団(本国と戦場との間の補給に従事)の計4万が参加し,ドイツ第17軍,11軍(ルーマニアとの混成軍)と連携しながらソ連南部を2千キロ進軍し,ドネツ川まで到達しました.
(1941年7月9日から同年10月末まで)
 この間,4千の兵,およそ計1200台の戦車,及び他の機甲車両を失っています.
 車両の損傷と騎馬の補給が困難となったため,ドイツ軍との協議の結果,機動軍を本国へ帰還させ,新たに二つの旅団を追加することになりました(投入軍の数は依然として約4万を維持)

(対ソ戦第二段階)

 その後,日本軍による真珠湾攻撃,枢軸諸国の対米宣戦,独軍のモスクワ占領失敗により,独軍によるハンガリー軍のさらなる対ソ戦参加が要求されました.
 この結果,1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍の下,20万7千の「第二ハンガリー軍」が前線に送られました.(全軍の約三分の一)
 この軍は全軍の武器と機甲部隊の半数を数えましたが,兵員の大半は歩兵という性格でした.
 装備の面では独軍はもとよりソ連軍にも劣り,ハンガリー軍の要請にも関わらず,独軍からの武器補給は不十分なものでした.
 こうしてボロネジから南部へ,ドン川沿いに200キロの長さに配置されたハンガリー軍は,寒さと補給の遅滞のために,1943年1月12日から始まったソ連軍の攻撃の前に総崩れとなったのでした.
(この2週間の戦闘で4万の戦死者と3万5千の負傷者,約6万の捕虜を出し,武器の約80%を失った)

(対ソ戦第三段階)

 ボロネジの敗戦により,対ソ戦から国益が何も得られないことを痛感した支配層はカーライ首相の下,密かに連合国との休戦を協議し始める.
しかし,これを知ったヒトラーは1943年9月の時点で占領を決意し,翌年3月に実行される.
 1944年の時点で東部戦線で30万のハンガリー軍が戦闘,及び補給を行っていたが,8月23日のルーマニアの「裏切り」で一挙に国土が戦場となるのでした.
 後はデブレツェン,セーケシュフェへールヴァール近郊での大規模な戦闘,ブダペシュト市街戦と続きますがハンガリー・ドイツ軍はウクライナ軍主力のソ連軍の攻勢の前に,オーストリア・アルプスまで後退を続けるのでした.

(余談)

 ちなみに1944年10月の戦線離脱に失敗したホルティの後,権力を握った矢十字党のサーラシ・フェレンツは最後まで枢軸側の勝利を信じていたようで,こんなドキュソな逸話が残っています.(・v・)
「1944年11月2日,すでにソ連軍の戦車がウッルーィ通り(ブダペシュト市の少し外れ)の終わりで戦っている時に,サーラシはブダ城の大広間に集まった軍・市民の有識者に,目下の戦闘よりもより重要と考えるハンガリー・日本の商業関係の発展について数時間にわたる講義を行っていた.
 というのも,その戦闘についてついぞ一言も触れずにそこを立ち去ったからであった.」
「サーラシは1944年12月4日,ベルリンでヒトラーを訪問した.
 しかし,その後に大島浩駐独日本大使と会うために時間を割いたのであった.
 彼とは長時間にわたって「ベルリン=ローマ=東京」の権力のトライアングルにおいて構築される新世界秩序について意見交換を行ったのであった.」

 こんな奴がハンガリーの「国民指導者」なんかになるなんてオワッテル.

ABC : 世界史板,2002/02/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦勃発当時のハンガリー陸軍の状況は?

 【回答】
 ハンガリーは第一次世界大戦後,敗戦国として厳しい軍備制限を受け,独ソ戦開始時でも機械化が遅れていた.
 1938年,ハンガリーは再軍備を宣言し,1939年にはたった9個の軽師団または旅団だったものが,1941年には27個軽師団または旅団に増強されたが,一部の快速軍団を別にすればほとんどの部隊は徒歩の歩兵だった.
 戦車兵力は,イタリア製のCVタンケッティ150両と純国産のトルディ軽戦車190両が主力であり,それらで3個旅団から成る快速軍団を編成し,独ソ戦においては南方軍集団に参加したが,それら戦車はT-34はおろか,旧式戦車T-26やBT戦車にすら歯が立たないしろものであった.

 【参考ページ】
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/country/hungary.html
http://warandgame.wordpress.com/2008/12/23/the-hungarian-army-wwii/
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/2/27 21:00

▼ ちなみに,1937年版の児童百科事典というのを手に入れましたが,それによれば,
>3. ハンガリー
> この国も,平和条約によって軍備の制限を受けているが,7個混成旅団,2個騎兵旅団を有し,総兵力は約35,000である.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/27(日)
青文字:加筆改修部分

▼ もともとハンガリーの第一目的はルーマニアからのトランシルバニア奪還にあったので,ソ連との戦いはそれほど乗り気ではなかった.
 1944年に講和をしようとしていたが,それを察知したドイツに占領されてしまった.
 以後,ハンガリー軍はドイツ軍指揮下に組み込まれ,講和の機会も失ったまま戦い続けた.

 国がほとんど連合軍に占領されてもオーストリアあたりまで撤退して,なおドイツ軍に付き合ってなきゃいけなかったハンガリー軍こそいい迷惑.
 もっとも,ハンガリーへはソ連軍と一緒に「仇敵」のルーマニア軍も来ていたから,それに対して「コノヤロー」ってのはあったかもしれないけど.

軍事板,2008/01/21(月)
青文字:加筆改修部分

1941.5.30時点のハンガリー軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問】
 ハンガリー軍の師団の種類を教えてください.

 【回答】

 1941年6月時点のハンガリー陸軍編成
歩兵師団:8
予備師団:8
戦車師団:2
騎兵師団:1

軍事板,2007/11/04(日)
青文字:加筆改修部分

 41年12月時点;

・機動軍団
 2個自動車化旅団(各3個自動車連隊),2個騎兵旅団(各2個騎兵連隊)で編成.
 定数24,000名.
 東部戦線には1個騎兵旅団のみ派遣.

・第1装甲師団(編成中)
 38(t)軽戦車108両
 短砲身Ⅳ号戦車22両
 Ⅰ号指揮戦車2両

・一線級歩兵師団(第1,2,4~27)
 但し第2,4,11,14~18,22,24~27師団は基幹人員のみ.

・二線級歩兵師団(第102,105,108,121,124)
 後方警備用保安師団.
 全師団東部戦線投入 .

軍事板,2007/12/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のハンガリー第1軍について教えてください.

 【回答】
 1940/4/1,ホルティは来るべきソ連との戦いに備え,3個野戦軍を編成しましたが,大戦勃発時には第1軍は,これといった戦闘には投入されませんでした.
 同年8/30,ヴィルモシュ・ナジ Vilmos Nagy 中将指揮下の第1軍は,当時ルーマニア領にされていたトランシルバニアを占領して,ハンガリーに併合した以外,1944年半ばまで,殆ど戦闘に投入されませんでしたが,1944/4/30,南ウクライナの枢軸軍集団を支えるために派遣されました.
 1944/12/28,ミクローシュ政権が対ドイツ宣戦布告すると,ハンガリー第1軍は,親ドイツ側と親ソ側とに分かれて戦うことになり,さらに1945/1/1~2/16までにハンガリー第1軍の主力は,ブダペシュト北方200kmのところでソ連第40軍に蹂躙されて壊滅しました.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/4/14 21:40


 【質問】
 WW2のハンガリー第2軍について教えてください.

 【回答】
 第2軍 2. magyar hadsereg は,3個軍存在したハンガリー陸軍の中で,開戦当初装備最優良の部隊.
 当時ハンガリー唯一の機甲部隊「快速軍団」を有していた.

 ハンガリーが対ソ宣戦布告するや,ドイツ第17軍支援のため,東部戦線へ3万人が派遣された.
 ハンガリーは,1941.6.27に対ソ宣戦布告すると,当初派遣したのは陸軍最高司令部直轄の機甲部隊,第1快速軍団(と言っても師団規模)を中心とした3万人.
 ドイツ第17軍支援のため,▲7月にはネメツ・ポリスキイ,8月にはニコラエフ,その後,ニコポリ,ドニェプロペトロフスクと転戦し,10月にはドニエプル川を渡河.
 その間,著しく消耗.
▼ 器材の8割を失い,帰国した.

 1942年夏の攻勢に当たっては,ヒトラーの要請により,15万人を増派.
 だが,ドイツ軍は1941年の冬季戦で莫大な損害を被り,それらをイタリア,ハンガリー,ルーマニアなどの同盟軍によって補填する必要が生じた.
 このためヒトラーはハンガリーに圧力をかけ,やむなく東部戦線に派遣されることになったのが,この第2軍.
 1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍率いる20万7千人がソ連へ入った.▲

 後方担当とすることと兵器供与がヒトラーから約束されていたが,どちらも空手形で,まず,コーカサス方面の攻勢に参加.
▼ 1942.6.28,ハンガリー第2軍はドイツ第2軍と共に「ブラウ作戦」に投入され,9月中旬にはヴォロネジ南方においてドン河に到達.
 1942.4.24~10.1の間,ハンガリー軍は全体の15%に当たる将校1,100名,兵士29,000名を失った.
 補給はドイツ軍が自軍を優先したため,ハンガリー軍へのそれは滞りがちであり,燃料,弾薬,食糧,被服,いずれも不足気味だった.▲

 その作戦が中止されると,スターリングラード攻防戦においてドン川沿いの側面を守備▼していたが,1943.1.12,ヴォロネジ戦線においてソ連軍は攻撃を開始.
 1943年1月,ヴォロネジにおいて捕捉され,当時の兵力20万のうち,戦死者9000,負傷者16500,捕虜・行方不明者8万人以上.
 ウリフに展開していたハンガリー第20軽師団は,ソ連軍第40軍の主攻勢を受けて前線を蹂躙された.
 また,スヴォボダ付近からはソ連第18狙撃兵軍団が出撃して,ハンガリー第10,第12軽師団の前線を突破.
 ハンガリー軍は60km後方のアレクセイエフカまで撤退し,ドイツ軍予備部隊,イタリア軍残存部隊などと共に防衛線を展開した.
 さらにハンガリー軍の残余は,前線から120km後方のオスコル河まで辛うじて撤退し,そこで薄い防衛線を構築することに成功した.

 この1.12~2.26の間の戦闘で,ハンガリー第2軍は経験豊かな将校多数を含む
戦死8,718
負傷16,497
行方不明77,288
捕虜2,582
という人的被害を受け,また,装備喪失は
小銃110,000
拳銃32,000
短機関銃3,500
機関銃2,900
迫撃砲400
対戦車銃460
野砲250
榴弾砲130
対空砲110
オートバイ1,000
乗用車1,600
トラック4,000
装甲車輌190
馬匹56,000
荷馬車16,000
フィールドキッチン530
その他に達し,事実上壊滅した.
 経験豊かな将校の多数,重火器の70%以上を失って壊滅し,
 このため,占領地の治安維持要員を残し,▲生き残った将兵は5.24までにハンガリー本国へ帰還した.

 1944年夏までにソ連軍はハンガリー国境まで押し寄せ,また,ルーマニアやブルガリアが寝返って対枢軸国宣戦布告した.
 1944.8.30,ハンガリーは第3軍を動員すると共に,再建された第2軍をも動員した.
 しかし,そのどちらも予備役兵から成り,装備も不足した,弱体な部隊となっていた.

 第2軍はドイツ軍フレッター・ピコ軍集団の指揮下に入り,10.24までデブレツェンにて戦闘参加した.
 そこで枢軸軍は善戦したが,第2軍は大きく戦力消耗して,12.1に第3軍と交代.
 事実上,第2軍は消滅した.

 ちなみにハンガリー公使・大久保利隆は,1941.12.14,消耗した部隊の帰還式典に招待され,ブダペシュトの英雄広場においてこれを謁見している.
 そのときの彼の印象.

------------
 ハンガリーの大部隊がトラックに乗って帰ってきたが,トラックは相当破損し,兵士は疲労の極みにあるように見受けられ,東部戦線の惨状を如実に物語るものであった.
 私は思った,東部戦線の実情は我々の想像以上のものであるということを.

 私は独ソ戦は相当の長期戦になると感じた.
 そして最悪の場合,ナポレオンのモスコウ敗退のようなことにはならないにしても,到底勝ち目はないと考え始めた.

------------下掲書,p.280

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.95,112-114,119-120,130-135,151-153,159-160,280
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
https://hu.wikipedia.org/wiki/2._magyar_hadsereg
http://www.hungarianhistory.com/lib/thou/thou15.htm
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.96-101

第2軍の編制(1942.7.1)
(こちらより引用)

mixi,2016.5.24


 【質問 kérdés】
 ヤーニ・グスターヴって誰?
Ki az Jány Gusztáv ?

 【回答 válasz】
 ライカ Rajka という村がある.
Raija, egy község van.
 ハンガリー・オーストリア・スロヴァキアの3つの国境上という,興味深い場所に位置しており,シェンゲン協定締結以前はスロヴァキアの出入国管理所が置かれていたという.

 ヤーニ・グスターヴはこの村で,1883.10.21に生まれた.
 父親方の祖先はポーランド系ドイツ人であったというから,いかにも国境上の村らしい出自である.
 農業を営む傍ら,食料品店を開いていた.

 彼はルドヴィツァ Ludvica の軍事アカデミーを卒業後,1905年に少尉任官した.
 1909~12年,ウィーンに軍事留学した後,1914年に参謀本部入り.
 1914年と言えば,第一次大戦が勃発した歳である.
 彼は西部戦線や東部戦線に従軍し,大胆さで有名となった.

 第一次大戦後,ハンガリーはハプスブルク帝国から離脱.
 カーロイ・ミハーイを大統領とするハンガリー民主共和国が誕生する.
 ヤーニは新生ハンガリー軍に参加.

 ところがカーロイ政権は国内の混乱に対応しきれず,倒れてしまう.
 その次に誕生したのが,クン・ベーラの共産党政権.
 クンはハンガリー・ソヴィエト共和国を宣言し,赤軍を創設し,ヤーニら旧来の軍人達は,赤軍には必要ないとされた.
 しかし,国内外から「要らない奴ら」判断されたのはハンガリー・ソヴィエトのほうで,無謀にも他国に革命を起こそうと侵攻した彼らは,ルーマニア軍や白軍の反撃を受け,逆にブダペシュトまで占領されてクンらはソ連へ逃亡.
 陸軍省にいたヤーニは,ルーマニア軍の捕虜となった.

 白軍を率いていたホルティ・ミクローシュが「摂政」に就任すると,翌1920年に釈放されたヤーニは軍務に復帰.
 1931年,ルドヴィツァ軍事アカデミー校長.
 1935年,将官に昇進.
 1936.11.1,ソンバトヘイ混成旅団の指揮官に就任.
 1940.3.1,第2軍司令官に就任.
 第二次大戦が勃発すると,1942~1943年,第2軍はスターリングラード戦その他に参加し,大損害を蒙った.
 彼はその責任を問われ,8月に帰国すると,定年退職の形で辞任.

 ドイツ軍の侵攻によりハンガリーにその傀儡,サーラシ政権が誕生すると,ヤーニはそれに協力することを拒否.
 ソ連軍が迫るとドイツへ脱出し,米軍の捕虜となって1946年まで抑留された.

 帰国したヤーニを待っていたのは,上級大将から大将への降格.
 そして,「戦争を拡大させた」罪による逮捕と裁判だった.
 ティルディ大統領は彼の恩赦を拒否.
 1947.11.26,ヤーニは銃殺された.

 彼が無罪となったのは,冷戦後の1993年になってからのことである.

 【参考ページ】
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1883_oktober_21_jany_gusztav_szuletese
http://donkanyar.gportal.hu/gindex.php?pg=13019420
https://www.masodikvh.hu/szemelyek/g-l/j/461-jany-gusztav
http://live.warthunder.com/post/382958/en/
例によって誤訳御免

ヤーニ・グスターヴ(画像右)と東部戦線の兵士たち
画像左はハダプロード Hadapród (予備役)軍曹.冬用スモックを着用し,ダヌヴィア短機関銃を持っている.
画像中央は二等工兵.外套着用
(『The Royal Hungarian Army in WW2』より)

https://www.youtube.com/watch?v=J-FQGMHemCo

mixi, 2017.2.20


 【質問】
 WW2のハンガリー第3軍について教えてください.

 【回答】
 1940.3.1,第3~5軍団をもって編成.
 1941.4.5,ドイツ軍支援のためユーゴスラヴィアに侵攻,ユーゴスラヴィア第1軍と対峙したが,このときは損害も軽微で済んだ.
 1944.3.25~4.15にカメネツ=ポドリスキー包囲戦に投入された第7軍団が,8月,第6軍に編入さる.
 1944.8.30,本土防衛のため,第2軍と第3軍を動員.トランシルヴァニアのマロシュ渓谷とアラドとを横断し,山道を占領しようとしたが失敗.
 1944.10.6,デブレツェンの戦いの序盤,アラド近郊において大打撃を蒙り,ケチケメート近くで潰走.
 1944.12.29より,ブダペシュト攻防戦に投入さる.
 1945.3.16~3.25,第3軍の残余の殆どが,ブダペシュト西方約40km地点で包囲され,壊滅.
 その生き残りはドイツ軍と共にオーストリアへ移動.
 1945.5.8,正式に降伏した.

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.88-89
https://hu.wikipedia.org/wiki/3._magyar_hadsereg
https://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベレグフィ・カーロイ
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=37579

mixi, 2016.5.20

1941年4月のハンガリー第3軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az királyi 1. honvéd lovashadosztály a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 第1騎兵師団は1942.10.1,快速軍団の第1・第2騎兵旅団を基幹として創設された.
 両旅団は第2~第4フサール連隊に再編され,戦車大隊,野戦砲大隊,対空砲大隊,装甲車部隊,自転車部隊が師団に編入された.
 また,対戦車能力向上のため,ドイツ製の7.5cm PaK 40戦車砲やパンツァーファウストも配備された.
 師団指揮官は "勇敢なる" ヴァッタイ・アンタル vitéz Antal Vattay 少将.
 1943年上旬までに装備は完全充足し,師団の各部隊は必要な訓練を受けた.

 単独講和の道を模索していたハンガリーは1944.3.22,マルガレーテI作戦によってドイツに占領される.
 ドイツは親独派のストーヤイ内閣をハンガリーに立てると,第1騎兵師団などの兵力出動をハンガリーに要求した.
 このとき第1騎兵師団の兵力は
士官607名,
兵士16.639名,
馬10.889頭
馬車1201台
車輌778台.
 また,第3・第4フサール連隊は
1939年のザカルパチア地方占領
19414月のユーゴスラビア占領,
1941年夏のバルバロッサ作戦
に参加した歴戦の部隊.
 他の部隊にもベテラン兵士が多く配属され,当時ハンガリー随一のエリート部隊だった.

 1944.5.3,移動命令.
 ドイツとの約束では,第1騎兵師団はハンガリー第1軍の指揮下に入ることになっていた.
 だが,約束は果たされず,第1騎兵師団は Pinsk Marshesに配備された.
 同地は騎兵が真価を発揮して戦うことができるような場所ではなかった.
 師団最後の部隊は1944.6.21,ルニネツ Luninets に到着したが,師団の最初の任務は,ルニネツ周辺の森に潜むパルチザン部隊との戦闘だった.
 当時,その地域には,装備の良い1万~1万3千人のパルチザンがいた.

 7月には,師団はあちこち場所を変えながら,最終的には Kletsk を守備した.
 同地は,Babrujskにてドイツ軍の戦線を突破したソ連軍戦車部隊に対し,ヴァッタイ少将の反対にもかかわらず,ドイツ軍が移動を命じた地だった.
 ピンスク湿地を通る枢軸軍の撤退の間,ハンガリー軍部隊はドイツ軍ユニットの後衛についた.
 湿地には幾つか道路が通っているだけで,ハンガリー軍はソ連軍戦車や航空機からの攻撃により,この後退戦で大きな損害を受けた.
 これらの攻撃に対して非常に脆弱だった.
 湿地帯には追いつくことができるような場所は殆ど無かったが,ドイツ軍はしばしば,そういう場所を独り占めにした.
 ドイツ軍は彼ら自身の迅速な後退のため,ハンガリー軍を道路から追い出し,ハンガリー軍だけが後衛としてソ連軍の攻撃に晒された.
 ある時,ハンガリー軍の将校がドイツ軍の将軍に反抗してドイツ軍を通さなかった.
 その数時間後,ドイツ空軍のBf-109戦闘機がハンガリー軍の列に「誤って」機銃掃射し,数多くの兵士が死亡した.

 7月の間中,第1騎兵師団は1日も休まず戦い,ドイツ軍の後衛を務め,たびたび包囲された.
 彼らは馬を失い,歩兵となるか,略奪した馬車で移動した.
 ヴァッティ少将は,ドイツ軍との関係が悪化したため,更迭されたが,その時は一時的な休息となった.
 部隊に新指揮官が来るまでは Schell Zoltán 大佐が式を代行した.

 7月末,師団はブグ Bug 川において激しい防衛戦を行い,中でも Łosice ~ Mordy 間における第3フサール連隊は英雄的戦闘により,包囲されていたドイツ第20軍団を救出した.

 東部戦線において戦力を消耗した第1騎兵師団は8月,ワルシャワへ後退して戦力の補充と再編成を行った.
 戦闘により,第1・第2騎砲兵大隊は火砲を喪失していたため,第1大隊は37.M榴弾砲を,第2大隊は05/08.M榴弾砲を受領した.
 05/08.Mという制式年数が示す通り,後者は第一次大戦時代の中古である.

 だが,再編の最中,ワルシャワで反乱が起こる.
 師団はワルシャワの東に配置され,騎兵部隊としては不本意な戦闘,すなわち塹壕戦にてロシア軍を迎え撃った.
 反乱鎮圧に投入されたハンガリー軍部隊もあったと聞くので,それは騎兵師団の一部だったのかもしれない.
 もっとも,その部隊はポーランド人に同情的で,こっそり武器や医薬品を渡すなどしたため,すぐに鎮圧任務を解かれたという.

 1944年9月までに,師団の戦車大隊は戦車を全喪失した.
 戦車を失った戦車搭乗員はドイツに送られ,パンサー戦車の操縦訓練を受けた.
 ドイツは,彼ら搭乗員をパンサー戦車と共にハンガリーに戻すと約束していたが,いつものごとく,その約束は実行されず,彼らは戦車無しで戻り,歩兵として戦うこととなった.

 1944.10.2,第1騎兵師団は第1フサール師団と改名するが,その後の話は別項目に譲る.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の装甲車大隊のエンブレム

第1騎兵師団の車輌;
トルディII軽戦車 42.M Toldi II könnyűharckocsi
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
上記画像のエンブレムを確認できる
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団の戦闘序列は?
Mi az királyi 1. honvéd lovashadosztály harcrenda volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
・1944年6月の戦闘序列(書類上のもの)

第2フサール連隊 2. huszárezred-parancsnoksága 「アールパード王子 Árpád fejedelem」
第3フサール連隊 3. huszárezred-parancsnoksága 「ナーダシュディ・フェレンツ伯爵 Gróf Nádasdy Ferenc」
第4フサール連隊 4. huszárezred-parancsnoksága
第15自転車大隊 15. kerékpáros zászlóalj
第1独立装甲車大隊 1. lovas-harckocsi zászlóalj
第3偵察大隊  3. felderítő zászlóalj
第1騎砲兵大隊 1. lovastüzér-osztály
第3自動車化砲兵大隊  3. gépvontatású tüzérosztály
第55対空砲大隊 55. légvédelmi tüzérosztály
第4自動車化戦闘工兵中隊 4. gépkocsizó utászszázad és hadihíd-oszlop
第1騎兵通信大隊 1. lovas-híradó század
鉄道輸送本部  hadosztályvonat-parancsnokság

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の車輌;
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
「ニムロード」自走砲 40.M Nimród önjáró gépágyú
「チャバ」装甲車 39.M Csaba páncélautó
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵部隊の軍装は?
Milyen gépek magyar honvédségi lovasság volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 基本的には歩兵と同じだったが,幾つかフサールに特徴的な衣装も有していた.

 この写真は,ハンガリー軍騎兵部隊の軍曹.
こちらより引用)
 1942年以前のもので,おそらくはバルバロッサ作戦時のもの.
 歩兵と同じヘルメットを被っている.
 当時,もはや騎兵は帯剣しておらず,手榴弾や即席の爆雷をもって対戦車戦闘をしばしば強いられた.
 彼らは,エンジンや走行中の戦車の手前の轍,あるいはソ連軍戦車兵が不注意にも開けっ放しにしたハッチの中に,それら爆発物を投げ込んだ.

 ハンガリー軍騎兵固有の軍装としては,フサール・マント huszár mente がある.
 これは騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった.
 正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした.
こちらより引用)

 また,フサール・ブーツ Huszár csizma が騎兵部隊には使われた.
 41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった.
こちらより引用)

 騎兵ベルトも通常の陸軍用ベルトとは異なり,背中側にストラップがあった.
 このストラップで騎兵銃を支えることができた.

 将校の正装としては,伝統的なアッティラ服があった.
 アッティラ服については別項を参照されたし.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warrelics.eu/forum/imperial-germany-austro-hungary/husaren-interim-attila-tunic-24927/
http://rendormuzeum.com/gyujtemenyek
http://www.energy.hu/en/uniform-gallery/2016-10-28-11-48-32.html
http://live.warthunder.com/post/409199/en/
http://live.warthunder.com/post/472294/en/

2017.4.17


 【質問 kérdés】
 騎兵ズボンとは?
Mi az lovaglónadrág?

 【回答 válasz】
 25.Mブーツ用ズボン 25.M csizmanadrág とも呼ばれるもので,高級なブーツを履く将兵,騎兵,戦車兵,オートバイ兵,パイロットなどが着用した.
 陸軍と空軍で使われたが,水軍では使われなかった.
 脚部のボタンは平らなものが使われており,ブーツの中にしまい込んだ時に不快にならないようになっていた.
 色はフィールド・ブラウンだが,1943年以降,夏用として,綾織の緑色のものもあり,これは訓練や経営,労務,非番時に着用された.
 さらに,白色のものがあり,これは将校や将軍が夏に着用するものだった.
 タイツとお尻との間に厚手の皮を縫い付け,サドルに乗っている間に弾力を増すように改造されているものもあった.
 将軍クラスの人物の騎兵ズボンには,両脇に2本の緋色ののスリップがついていて,将軍以外のものと識別出来た.
 ただし,夏用の白色ズボンには,緋色のスリップはつかなかった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400755/en/
http://mek.oszk.hu/04900/04967/html/
https://deckersmilitaria.wordpress.com/letoltesek/

25.M騎兵ズボン
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.8


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵の刀剣は?
Milyen magyar lovassági kardok voltak a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 主に以下のようなものがあった.

1904.M志願兵用騎兵剣 lovas legénységi kard
 騎兵が使用.
 戦闘や儀典において使われたが,それは1942年までで,それ以後は騎兵剣は廃止され,銃剣にとってかわられた.

1904.M 騎兵将校用サーベル lovastiszti szablya
 将校が戦闘や儀典において使用した.
 しかし1942年以降は,使用は儀典のみに限定された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真引用元
http://huszarok.nadasdymuzeum.hu/targy.php?targy=3056&fajta=12&keres=165
http://www.roncskutatas.hu/node/5337

2017.4.22


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1フサール師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az Honvéd 1. Huszár osztály.

 【回答 válasz】
 第1フサール師団は1944.10.2,第1騎兵師団を改編して誕生した.
 摂政ホルティは,ウクライナとポーランドにおける英雄的な戦いを称え,第1騎兵師団を第1フサール師団と改名した.
 フサールは名誉称号だった.

 フサール師団は10月初旬にハンガリーに戻り,南部ハンガリーとデブレツェンでの激戦に投入された.
 次いでフサール師団はブダペシュトに撤退.
 ブダペシュト包囲により,師団の大部分も市街戦で壊滅した.
 残存部隊は徒歩でチャローケズ Csallóköz (現在のŽitnýostrov、スロバキア)に撤退.
 1945年1月,「コンラート」III作戦に参加した.
 フサール師団残余はヴェールテシュ Vértes の丘の東部を占領.
 3月にソ連軍の大規模攻勢が始まるまで,そこを保持した.
 この攻勢に対し,残存部隊は防戦しながらオーストリア方面へ後退.
 1945.3.29,将兵7200人,馬2500頭がハンガリーから脱出した.

 終戦時,フサール師団はリンツにまで後退していたが,第2~第4騎兵連隊など師団主力は,オーストリアのスティリアにて米軍に降伏.
 その他はソ連軍に降伏したという.

・歴代指揮官;
イバーニ・ミハーイ Ibrányi Mihály 少将 (1944.8.1~1944.11.4)
マカイ・アッティラ Makay Attila 大佐(1944.11.4~1944.11.13) ※指揮官代理
シェル・ゾルターン Schell Zoltán 大佐 (1944.11.13~1945.4)

・1944年12月の戦闘序列(書類上のもの)
 第1騎兵師団の序列に加え,以下の部隊が追加されている.

第7砲兵大隊
第73砲兵大隊
第82砲兵大隊
第4自動車化砲兵大隊
第2独立工兵大隊

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386

フサール・マント huszár mente
騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった
正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした
こちらより引用)

フサール・ブーツ Huszár csizma
騎兵部隊によって使われた
41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった
こちらより引用)

2017.4.3


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍空挺部隊について簡単に教えてください.

 【回答 válasz】
 トリアノン条約で軍備を制限されていたハンガリーは,1938年に再軍備を宣言すると,同年夏,ブダペシュトのマリア・テレジア兵舎の一室においてパラシュート実験隊を創設した.
 マリア・テレジア兵舎は後にキリアーン兵舎と改名され,1956年ハンガリー革命(ハンガリー動乱)の主要な舞台の一つとなる.

 初代隊長はベルタラン・アールパード Bertalan Árpád 大尉.
肖像写真--wikipediaより引用)
 1898年,ボジョニイ Pozsony (現ブラチスラバ Bratislava )生まれの彼は,マリア・テレジア勲章や騎士十字章を受勲したことのある,第一次大戦の英雄だった.
 ついた綽名が「ヴィテーズ Vitéz (勇気)」

 同年9月11日,落下傘隊はソンバトヘイ Szombathely においてハンガリー軍初のパラシュート降下を行った.
 とはいっても,最初の人数は僅かに彼とその部下の中尉7人.
 すなわち
ベルタラン・アールパード Bertalan Árpád
キシュ・ゾルターン Kiss Zoltán
レーデツィ・ラースロー Lédeczy László
マイトヘーニ・イムレ Majthényi Imre
マートライ・カーロイ Mátray Károly
パタキ・ゲーザ Pataky Géza
ソコライ・ターマシュ Szokolay Tamás
ヴェールテシュ・ベーラ Vértes Béla
の計8人だった.
 輸送機はイタリア製民間機の,中古のカプロニCa.101が2機.
 この機体の前に整列したベルタラン隊長らの写真が残っている.
こちらより引用)
 この機体は郵便機として20機がハンガリーに輸入され,後に空軍に移管されているから,おそらくこれだろう.
 また,パラシュートは様々な国からの輸入だった.
 上掲写真では,左からハンガリーのHehsパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュート,イギリスのIrvinパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュートの別のタイプ,そしてIrvinパラシュートを装備しているのが分かる.
 その数も不足していたが,予算の都合上,追加輸入することはできず,国産化を図るしかなかった.

 しかしその年のうちに,パラシュートを自国で生産できるようになり,航空機も,イタリア製はイタリア製でも新鋭の輸送機サヴォイア・マルケティSM75に更新された.
SM75と空挺隊員――こちらより引用)
 想像するに,訓練内容もイタリア軍空挺部隊と同じものだったに違いない.
 であれば,降下スタイルは両手足を広げる「アンジェロ Angelo (天使)」スタイルであっただろう.
 部隊は大隊となり,全員志願兵から成る精鋭が集められた.
 1939年,ベルタランは少佐に昇進.
 1940年8月に編成は完結.
 11/1,空軍指揮下となった.

 空挺部隊の初の実戦参加は1941年のことだった.
 ハンガリーはドイツから圧力をかけられ,やむなくドイツ軍と共にユーゴスラヴィアへ侵攻.
 空挺大隊はユーゴ軍の背後に降下し,Újverbász (現Verbász)近くにある,フランツ・ヨーゼフ運河の2つの重要な橋を奪取するよう命じられた.
 空挺戦術において古典的な「縦の包囲」である.

 4.13夜明けに輸送機は発進.
 作戦は当たり,ハンガリー軍は30km前進することに成功した.
 しかし,手放しでは喜べなかった.
 離陸中に輸送機1機が墜落.
 ベルタラン少佐らが死亡したからである.

 後任の指揮官スジ・ゾルターン Szügyi Zoltán (1896~1967)大佐は,第一次大戦では黄金勲章を授与された,やはり武勲に輝く人物だった.
肖像写真――wikipediaより)
 独ソ戦が始まると,彼は1942~43年,少数の部下と共に軍事顧問として東部戦線へ派遣された.

 1943年になると,空挺大隊はバコニ山において「R」計画のための訓練を始めた.
 これはルーマニアが寝返ることを想定して,南部トランシルヴァニアに侵攻するという計画だった.

 1944年8月,ルーマニアは実際に枢軸陣営から離脱した.
 「R」作戦は少なくとも部分的には発令された.
 しかし作戦実施は遅れ,9月に実際に陸軍が動き出した時には時すでに遅し.
 ルーマニア軍とソ連軍はハンガリー国境に迫っていた.
 空挺大隊はカルパチア山脈に派遣され,祖国防衛の任に当たった.
 カルパチアの防衛ラインが突破されると,陸軍空軍の残存部隊を集めて空挺部隊(今や連隊だった)を基幹とするセント・ラースロー師団が編成され,スジ大佐が師団長となった.
 その名はラースロー1世(1040~1095)にちなむものであった.
 この王はクロアチアやダルマチアを支配下に置き,法を整備し,文化を発展させ,「聖王」と称えられる人物であり,その名を通して祖国愛に訴えようといたのだろう.

<初期の編制>
Szt.László Division Headquarters 師団司令部
1st (Parachute) Regiment 第1(パラシュート)連隊
2nd (Infantry) Regiment 第2(歩兵)連隊
3rd (Air Force) Regiment 第3(空軍)連隊
1st Artillery Battalion 第1砲兵大隊
6th Artillery Battalion (motorized) 第6砲兵大隊(自動車化)
9th Artillery Battalion 第9砲兵大隊
76th Artillery Battalion 第76砲兵大隊
1st Rocket Launcher Battalion 第1ロケット・ランチャー大隊
20th Assault Gun Battalion 第20突撃砲大隊
Szt. László Combat Engineer Battalion (motorized) セント・ラースロー戦闘工兵大隊(自動車化)
Szt. László Armored Reconnaissance Battalion セント・ラースロー装甲偵察大隊
Szt. Lászlo Signal Battalion (motorized) セント・ラースロー通信大隊(自動車化)
Szt. Lászlo Divisional Service Headquarters 兵站本部

 師団はブダペシュト周辺防衛線の「火消し役」に投入された.
 戦線が敵に突破されて穴が開くと,それを塞ぐために空挺連隊が投入された.

 この戦いと,それに続くブダペシュト包囲戦において,空挺連隊は精鋭の名に恥じぬ戦いを見せた.
 しかしブダペシュトは陥落し,師団は大きな損害を受けた.

 その後,クロアチア北部やオーストリア南部へ転戦し,ウィーン攻防戦に参加.
 終戦により,英軍に降伏したが,ユーゴスラビアの治安情勢を鑑みた英軍は,彼らを直ちには武装解除をせず,その後武装解除されると,所属将兵はドイツとオーストリアに位置した捕虜収容所に送られた.
 ソ連軍に引き渡されなかったのは幸運と言えよう.

 スジ少将(終戦時)は1948.2.23,「戦争犯罪」により10年の刑を宣告され,1949.11.28,国家評議会はそれを終身刑に変更した.
 1956年ハンガリー革命の際に釈放されるが,ソ連軍によって革命が弾圧されるや,彼は再び投獄.
 1957年秋に漸く釈放され,未熟練労働者としてその後を過ごした.
 1967年,ブダペシュトにて死去.
 冷戦終結後の1994年,最高裁は彼の無罪を宣告した.

 今日,ハンガリー国防軍第2特殊作戦連隊は「ベルタラン・アールパード」の名を冠している.

 【参考ページ】
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=100763
http://www.ww2f.com/topic/15799-the-death-heads-hungarys-airborne-forces-1938-1945/
http://www.wwpd.net/2016/01/bolt-action-hungarian-paratroopers-who.html
吉川和篤他『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006)
http://www.austro-hungarian-army.co.uk/biog/bertalan.html
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
http://cultura.hu/aktualis/a-magyar-katonai-ejtoernyozes-megalapitoja/
http://airbase.blog.hu/2013/04/12/_az_ornagy_ur_meg_bent_van_mentsuk_meg
http://www.honvedelem.hu/cikk/37395_tisztelges_a_magyar_katonai_ejtoernyozes_megteremtoje_elott
http://www.vitezirend.co.hu/CV & Award/vszugyi_zoltan_vorgy.htm
https://karpataljalap.net/?q=2006/09/15/magyar-emlekek-tatar-hagon
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_laszlo.html

夏用冬用の降下服
ハンガリー軍空挺部隊は専用のオーバーオールを装備していた
それ以外の服装は,歩兵と同じ
上掲写真や冬用降下服の写真では,リネンのヘッドギアを被っているが,これは降下時のみ使用された
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=sFGpYEOOJTc&t=16s

mixi, 2017.2.14


 【質問 kérdés】
 セーケイ人国境警備隊について教えてください.
Kérem, mondja meg az székely határőrség?

 【回答 válasz】
 セーケイ人はハンガリー系少数民族であり,ハンガリー語族である.
A székelyek magyar tudatú és magyar nyelvű népcsoport.
 現在はルーマニア領である,トランシルバニア東部のセーケイ地方に住んでいる.
 先祖はフン族であるとも,アヴァール人であるとも,はたまたスキタイ人であるとも言われているが,本当のところはとんと見当がつかぬ.
 記録によると,12世紀には既にイシュトヴァーン二世の下でハンガリー兵として戦っていたという.

 国の端のほうに住んでいるものだから,代々,国境警備の義務を課された.
 オスマン帝国が侵入してきた時など,何度戦ったか数え切れぬ.
 中でもクマン人との戦いの激しさは,伝説に残ったほどだ.

 近代になったら義務は外れるかと思ったが,そうはいかぬ.
 かえって大隊だの旅団だのといった組織に,民族丸ごと組み込まれることになった.

 国境警備隊は平時は内務省に属した.
 関税の取り立てや出入国管理が主な仕事である.
 戦時には軍のほうに移る仕組みだった.

 第二次大戦前夜,セーケイ人国境警備隊は27個大隊を数えた.
 独ソ戦が始まると,国境警備隊の一部も快速軍団と一緒に東部戦線へ送られた.
 後方警備のためである.
 そこで散々な思いをした.

 1944年になると,ルーマニア軍が寝返った.
 国境警備隊も国境防衛をせねばならぬ.
 ところが,第一次大戦が終わって,トランシルバニアがルーマニアへ持っていかれているものだから,大変である.
 山脈という天然自然の防衛拠点がなくなったからだ.

 ある程度寝返りは予想されていたようで,1942年中には郷土防衛隊のようなものが作られた.
 地元警察や民兵やらを糾合し,民間人には4週間分の食糧備蓄を要求した.
 ティーン・エイジャーから中年男性までこれに駆り出された.

 けれども現実にルーマニア軍が侵攻してくると,そんなものでは間に合わなかった.
 なにしろ一緒にソ連軍が攻め込んでいる.
 対するに,ニワカごしらえの郷土防衛隊は,練度も士気も低い.
「もうよそう.勝手にするがいい.がりがりはこれぎりご免蒙るよ」
 良くて数日持ちこたえることができただけで,国境は簡単に突破された.
 国境近くに住む民間人も,多くが死んだ.

 そして国境警備隊はどうなったかというと,…今もまだいるのです.

 【参考ページ】
Nigel Thomas & Laszlo Szabo『The Royal Hungarian Army in WW2』(Osprey)
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_szekel.html
http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-5953.html
http://www.hunsor.se/se/szekelypeople.htm
http://www.honvedelem.hu/cikk/43532_kereszthegy

画像左が第17セーケイ国境警備大隊の伍長,1944年10月
カモフラージュ・コートを着用し,31.Mライフルを持っている
画像中央は戦車搭乗員で中尉.42.M戦車兵用制服を着用
画像右は第21国境警備ライフル大隊の曹長.イタリア製のベレッタMAB38短機関銃を持っている.
ベレッタ短機関銃はハンガリー軍の制式兵器ではなかったが,ドイツ軍から供与されたり,1944年以降にルーマニア軍から鹵獲したりした.

(『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)

ルーマニア軍・ソ連軍の侵攻ルート
(こちらより引用)

国境における戦闘:再現映像より
faq170221sk.jpg
faq170221sk2.jpg
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=KxtQZhovibE

mixi, 2017.2.22


◆◆◆◆装備


 【質問】
 第二次大戦ハンガリー陸軍の軍装は?

 【回答】
 クリス・マグナブによれば,夏服はカーキ色の上着に,2種類の下衣のいずれかが着用された.
 一つは,巻きゲートルかアンクレットとともに着用される,ふくらはぎ丈のもの.
 もう一つは,アンクル・ブーツとともに着用されるくるぶし丈のもの.

 冬には大外套が支給されたが,一枚布であったため,防寒性は殆どなかった.

 ヘルメットはドイツ軍のものに似たM1917,またはM1935タイプ.
 軍帽は子羊毛の帽子.
 憲兵にはサイドキャップに鶏の羽根飾りがついた.
 戦争終盤には野戦帽が採用されている.

▼ ハンガリー陸軍には,今日のギリー・スーツのようなものもあった.
写真---こちらより引用)
 これは少なくとも2種類あり,一つは人工の植物で覆われたもので,もう一つは枝が付いているもの.
 しかしハンガリー版ギリー・スーツの開発は1944〜44年頃に始まったため,実戦で使われることは殆ど無かった.▲

 【参考ページ】
クリス・マグナブ『世界の軍装図鑑』(創元社,2014)
http://live.warthunder.com/post/376256/en/

mixi, 2016.6.28


 【質問】
 第二次大戦ハンガリー陸軍のケープはどんなもの?

 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー陸軍のケープはどんなもの?
Mi az körgallér volt magyar honvédség második világháborúban?

 【回答 válasz】
 陸軍の下士官・将校が任務時に着用することができた.
 1940年以降,簡略型が生産された.
(下掲画像右端)
 簡略型は水軍の将校・WO(NCOではなく)が着用した.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/405623/en/

第二次大戦ハンガリー陸軍のケープ
こちらより引用)

2017.3.20


 【質問 kérdés】
 27.M警備用毛皮コートとは?
Mi az 27.M őrbunda?

 【回答 válasz】
 27.M 警備用毛皮コートは,通常のコートの上に着ることができるオーバーコート.
 防寒目的のため,戦争勃発前の1927年,ハンガリー軍によって制式採用された.
 本来,警備任務用のためのものだったが,防寒衣の不足する東部戦線ではこのコートが引っ張りだことなり,将軍クラスの人物さえ着用した.
 
 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.roncskutatas.hu/node/14192
http://live.warthunder.com/post/406748/en/

27.M警備用毛皮コート
faq170329or.jpg
faq170329or2.jpg
および手袋
faq170329gl.jpg
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.29


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍には,その他にどんな防寒衣があったの?

 【回答 válasz】
 写真1は第二次大戦ハンガリー軍の一般的なコート.
こちらより引用)
 一枚布であったため,東部戦線では役に立たなかった.
 空軍や戦車兵用のコートもあったが,それらは別項に譲る.

 写真2はペルト・ベスト pelt vest /szőrmésmellény vagy irhamellény(毛皮ベスト).
こちらより引用)
 極寒の東部戦線に直面したハンガリー軍兵士は,身を守るために何でも着込んだ.
 彼らはこのような毛皮ベストを作ったが,その中には膝下まで達する長さのものもあった.

 写真3は冬用カモフラージュ・クローク.
こちらより引用)
 これは東部戦線では防寒の役には立たなかった.
 2ピース(写真上.ただしこの写真ではズボン無し)のものと,長靴のように見える1ピースの,2つのヴァージョンがあった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
クリス・マグナブ『世界の軍装図鑑』(創元社,2014)
http://www.roncskutatas.hu/node/10585
http://live.warthunder.com/post/405623/en/
http://live.warthunder.com/post/406748/en/

2017.3.30


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍のジャケットは?
Milyen zubbonyok voltak a magyar II. világháborúban?

 【回答 válasz】
 まずこちらが39.Mジャケット.
 陸軍の将兵の他,空軍地上部隊の将兵が着ている例もしばしば見られた.
 夏季の訓練,作業,警備任務用の,綾織の緑(画像中央)や白(画像右)のジャケットもあった.
 綾織のジャケットは,やはり綾織の緑のパンタロン――または,1943年以降は将校用の騎兵ズボン――か,フィールド・ブラウンの戦闘用ズボンと一緒に着用された.
 白いジャケットはもう一種あり,これは将校・准士官用で,夏季の勤務服として,白いパンタロンと一緒に着用された.
 将校・准准士官用と志願兵用のジャケットとでは,2点の違いがあった.
1) 将校・准士官用は金ボタン,下士官は銀,兵卒,JNCO(初級士官)は,茶色のボタン.
2) 幕僚のものには肩にメタリックのストラップが着く一方,WO(准士官)や将校には肩にゴールド・メタリックのストライプが着いた.
 1942年以降,敵の狙撃兵にとって将校・下士官・准士官と志願兵との区別がしにくくするため,ボタンは全て茶色に変更された.
 しかしボタンを覆うようにボタンには布地を被せて挟み込んであった.
 1940年まで騎兵将校にのみ両肩に金のストライプがあり,その他の将校には右肩にのみストライプがあったが,1940年以降,どの将校にも両肩にストライプが着くようになった.
 将校やWOはこのジャケットを勤務服としても使い,正装として使うこともしばしばあった.
 戦闘服の階級章には縁取りは着かなかったが,ジャケットが正装として着用される時は,より華やかにするために縁取り付きの階級章を着けた.
 戦闘服として着用する場合,適切なズボンを一緒に履いたが,勤務服または正装として着用する場合,将校は黒いパンタロンを履いた.

 こちらは志願兵の勤務服ジャケット.
 陸軍の志願兵が着用.
 39.Mジャケットとは,肩のストラップは兵科色と同じ色という点で異なっていた.
 画像のジャケットはカルパソマーニョシュ伍長のもので,下腕部にエッジングがあるのが分かる.
 兵士達がこれを着るときは,一緒にフィールド・ブラウンのパンタロンを履いた.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/403810/en/

mixi, 2017.3.23


 【質問 kérdés】
 42.Mキルティング・ジャケットとは?
Mi az 42.M paplan kabát?

 【回答 válasz】
 42.Mキルティング・ジャケットは,防寒衣が不足していた第二次大戦ハンガリー軍が,ドイツ軍の冬服を模倣してデザインしたもの.
 ハンガリー軍の防寒衣はカルパチア盆地の気象条件でなら問題はなかったが,ロシアの平原の気候は,それより遥かに厳しいものだった.
 そのため,新しい防寒衣が必要とされたのだった.
 42.Mは1943年以降使用されたが,生産量は多くはなかったので,多くのハンガリー軍将兵は,既存の外套やベストを着用した.
 このキルティング・ジャケットは裏返しにしてリバーシブルに着用することができた.
 片側は雪原において兵士の姿をカモフラージュできるよう白い服となっており,もう片方は森林や平野で兵士の姿を隠す緑となっていた.
 この服は2ピースであり,付随するパンタロンも白と緑のリバーシブルだった.
 これはロング・コートよりも実用的だった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.roncskutatas.hu/node/9383
http://www.roncskutatas.hu/node/5801
http://live.warthunder.com/post/406748/en/

42.Mキルティング・ジャケット
こちらより引用)

写真左側がキルティング・ジャケット
襟の裏地が緑色であることに注目
また,この服の袖には武装SSのカフタイトルがある
大戦末期,多くのハンガリー人が武装SSに志願したが,
装備はハンガリー軍と殆ど変わらなかった
こちらより引用)

mixi, 2017.3.30


 【質問 kérdés】
 「cserkészing」とは?
Mi az cserkészing?

 【回答 válasz】
 スカウト・シャツ "Scout" shirt と訳される.
 志願兵が着るシャツ.
 通常はジャケットの下に着るものだが,夏の間だけは戦闘服として着ることが許可されていた.
 将校にはそのようなことは許されず,1943年までは夏の間もジャケットを着なければならないとされていたが,その後は将校もスカウト・シャツを戦闘服として着用することが許された.
 将軍のほうは全期間を通じて禁止だった.
 シャツの階級章は,コートと同じように左袖の上のほうにつけられており,階級章の色は兵科色と一致させていた.

 【参考ページ】
http://www.roncskutatas.hu/node/13242
http://live.warthunder.com/post/403810/en/

cserkészing
こちらより引用)

こちらは第二次大戦頃のボーイスカウトの制服
こちらより引用)

mixi, 2017.3.22


 【質問 kérdés】
 35.M 歩兵ズボンについて教えてください.

 【回答 válasz】
 戦争初期から,陸軍や空軍地上部隊の全将兵に支給されたズボン.
 ただし,長靴を使用する部隊はその限りではない.
 ただしこのズボン,下肢周りがきつく,不評だった.
 1943年に,パンタロン型のものに置き換えられることになったが,多くの将兵は戦争終結まで35.Mを使っていた.

 ちなみに,緑色をした綾織の半ズボンが,夏用として警衛,野戦,非番などのときに使われた.
 将校には夏用の白い半ズボンがあった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400755/en/

35.M 歩兵ズボン
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.6


 【質問 kérdés】
 29.M / 43.M パンタレオネとは?
Mi az 29.M / 43.M pantaleone?

 【回答 válasz】
 第二次大戦ハンガリー軍のズボンの一種.
 29.Mは元々は工兵や水軍の戦闘服のヴァリエーションの一つで,戦争初期から着用されていた.
 1943年,ハンガリー軍はそれまでの歩兵ズボンに替えて,43.Mブーツや足首パットと共にパンタロン型ズボンの支給を始めた.
 これが43.M パンタレオネと呼ばれるものである.
 将校や将軍も1944年以降,これを着用するようになった.
 その際,将軍用の緋色の縞は廃止されている.

 なお,ヴァリエーションが多数あり.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400755/en/

パンタレオネを含む制服一式
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.9


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー陸軍にあった手袋は?
Milyen kesztyűi magyar Honvédség a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 主なところでは以下の通り.

36.M五本指キャンバス地手袋 36.M ötujjas vászon kesztyű
 寒冷期用.

36.M毛糸手袋 kötszövött ujjas kesztyű
 キャンバス地手袋より普及しており,将校にも着用例有り.
 大戦全期を通じて使用された.

40.M手袋保護用覆い kesztyű védőhuzat
 スキー用装備
 冬用手袋を保護するために着用された.
 元の色はフィールドグリーン.

毛皮手袋 szőrmés kesztyű
 制式採用ではないが1942年,東部戦線に現れたもの.
 右手には射撃の際に人差し指を突き出す穴があった.

42.M毛皮手袋 szőrme kesztyű
 右手人差し指が動くようにできていた.
 1942~43年にドン河戦線で使われていた防寒衣類は,1944年にはハンガリー軍では使われなくなっている.

 この他,ハンガリー軍では標準的な五本指の革手袋があり,主に将校,戦車兵,バイク兵,その他車輌運転士,騎兵,または冬季の防寒用に使われた.
 また,主に将校用の正装として使われる白い手袋
faq170416gl6.jpg
faq170416gl7.jpg
もあった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/408639/en/
http://hadakura.hu/hu/szoveg/egyenruhak---uniforms/2

2017.4.16


 【質問 kérdés】
 35.Mブーツとは?
Mi az 35.M bakancs?

 【回答 válasz】
 1935年に制式採用された軍用ブーツ.
 とはいえ,デザインは第一次大戦時のものと大差ない.
 歩兵の他,国境警備隊,自転車隊,砲兵隊など,徒歩を主とする部隊に広く支給された.
 また,戦車隊などそれ以外の兵科,空軍の地上勤務部隊,さらには水軍に使われることもあった.

 【参考ページ】
http://nagyhaboru.blog.hu/2014/08/14/az_osztrak-magyar_hadsereg_egyenruhai_1914-ben?token=436e92811e9d5a71ed6ec7374ce1e3ea
http://karosszektabornok.blog.hu/2013/07/12/78_a_magyar_kiralyi_honvedseg_28_mm-ben_1_resz_gyalogsag
http://live.warthunder.com/post/400072/en/

35.Mブーツ
これはおそらく生産直後の状態
靴クリームとワックスがかけられる内に茶色に変色し,このようになる
後者の写真は,「祖父の遺産 Nagyapám hagyatéka」であるそうな
(こちらおよびこちらより引用)

mixi, 2017.2.28


 【質問 kérdés】
 41.M編み上げ靴について教えてください.
Kérem, mondja meg az 41.M fűzős csizma a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 別名,ビルゲリ靴 Bilgeri boots.
 元は自動車化歩兵,オートバイ部隊や戦車隊に支給されていたが,次第に他の兵科でも使用されるようになった.
 空挺部隊用や空軍パイロット用に手直しされたヴァージョンのものも.
 空挺部隊がセント・ラースロー師団に再編されて戦ったときは,41.M編み上げ靴を工兵ブーツに,将校は41.M将校ブーツに履き替えたが,一部の将校はこの編み上げ靴を履き続けた.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400072/en/
http://www.roncskutatas.hu/node/18795

ビルゲリ靴
(こちらより引用)


祖父の遺産であるそうな
こちらより引用)

mixi, 2017.3.3


 【質問 kérdés】
 43.Mブーツとは?
Mi az 43.M bakancs?

 【回答 válasz】
 1943年以降,歩兵,国境警備兵,自転車部隊などに支給された軍靴.
A katonai bakancs, ami fizettek gyalogok, határőrök, kerékpár csapatok, stb 1943-tól.
 ブーツ上部のベルトがなくなるなど,簡易生産型のように見える.
 しかし,将兵には35.Mブーツのほうが好まれた.
 新採用のスラックスが,この43.Mと共に支給されたが,スラックスの足をこのブーツに入れることができなかったので,足首パッドが必要だった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400072/en/

43.Mブーツ
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.1


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリーの工兵ブーツについて教えてください.
Kérem, mondja meg az Magyari utász bakancs a második világháborúban a három sorban.

 【回答 válasz】
 工兵ブーツは文字通り最初工兵用だったが,快適性に優れていたため,歩兵など他の兵科でも徐々に使用されていった.
 空軍地上部隊やMe-210の機銃手,水軍水兵に使われたものもある.
 第一次大戦時から引き続き使われていたため,制式採用年を示す「M」番号は無い.
 鞣革で作られており,表面加工は無し.
 そのため,使用するうち,靴墨やワックスにより茶色に変色した.
 形状には,細部の違いにより幾つかのヴァリエーションがある.
 特に,アスベストを材料に使った,火炎放射器操作員用のものと,耐酸性皮革を材料とする化学戦部隊用のバージョンもあった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400072/en/
http://lito.hu/utaszcsizma.htm

工兵ブーツ
写真は生産直後のもの
こちらより引用)

mixi, 2017.3.2


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリーの防寒靴は,どんなもの?
Milyen téli csizma volt a Honvédség a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 ハンガリーはロシアでの戦いなど想定していなかったので,独ソ戦開始時,ハンガリー軍にはろくな防寒装備がなかった.
 軍靴も同じことで,1942-43年の東部戦線においては,ハンガリー軍では非公式にフェルト製の防寒靴を作って履いていた.

 写真その1は,そのうちの一種.
 これは1943年までには陸軍では使われなくなったが,空軍ではその後も使われ続けた.

 写真2も,やはりフェルト製の非公式防寒靴.
 こちらはロシア製ブーツを真似て作られたものだという.

 写真3は,代用靴 botos csizma と呼ばれたもの.
 ドン河の戦線で作られたもので,干し草や藁が材料だった.
(写真1~3は,こちらより引用)

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400595/en/
http://www.roncskutatas.hu/node/5692

mixi, 2017.3.6


 【質問 kérdés】
 39.Mクリスマス軍靴とは?
Mi az 39.M Karácsony csizma?

 【回答 válasz】
 ハンガリーはキリスト教国である.
 イシュトヴァーン一世がローマ教皇から王冠を戴き,「公」から「国王」となったのは,1000年12月25日のことだとされている.
(1001.1.1説もあり)
(ちなみに建国記念日は12/25ではなく8/20)

 そんなわけで,ハンガリーでもクリスマス Karácsony を祝うのだが,軍隊の兵営において,菓子の交換が不衛生な軍靴に入れられて行われることを憂慮した医師,ブボー博士 Dr. Bubó の提言により,1939年に制式採用となったのが1939年式クリスマス軍靴 39.M Karácsony csizma である.
 これはボール紙で作られており,軍靴としての実用性は無かったが,大戦末期に物資不足が深刻になると,「無いよりはマシ」だとして戦場においてそれを履いている兵士の目撃例がある.

 なお,将校クラブでのクリスマスの宴会用として,1939年式ウサギ型制服 39.M nyúlruhát も制式採用されている.

 【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012)

39.Mクリスマス・ブーツ
こちらより引用)

39.Mバニー・スーツのスケッチ
(こちらより引用)

2017.4.1
注意! この項はエイプリル・フールのネタです


 【質問】
 第二次大戦ハンガリー軍のヘルメットについて3行で教えてください.
Kérem, mondja meg a masodik világháború alatt Honvédség sisakot a három sorban.

 【回答】
 主として用いられたのは,色以外はドイツ軍の第一次大戦型「シュタールヘルム」 Stahlhelm とよく似た形状のもので,オーストリア=ハンガリー軍で使われて以来,終戦までこの形だった.
 両サイドに通気用の突起があり,17M型はヴァイス・マンフレート社やチェペル Csepel にて,33M型はマジャル・アルミニウム製造会社他において,35M型はMÁVAGにおいて製造された.
 33Mはアルミニウム製で,材料調達の都合により少数製造にとどまり,また,35Mのみ頭頂部が他社のものより若干丸みを帯びている.

▼ アルミ製ヘルメットは将校・将軍用とされ,主として軍事パレードで使用された.▲

 【参考ページ】
http://karosszektabornok.blog.hu/2013/07/12/78_a_magyar_kiralyi_honvedseg_28_mm-ben_1_resz_gyalogsag
http://demeterwebmilitaria.oldalunk.hu/site.php?sd=demeterwebmilitaria&page=gU7ee9Hl1Y
http://hadtortenet.hu/node/957
http://live.warthunder.com/post/407634/en/

33Mヘルメット
35Mヘルメット
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/1/18 20:00
を加筆改修
2017.4.13追記


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍のボチカイ帽について教えてください.

 【回答 válasz】
 20.Mボチカイ帽 20.M Bocskai sapka は陸軍の標準的な軍帽で,空軍の一部部隊でも使われた.
 下掲写真右に見られるように,耳を覆う冬季用の帽子としても使うことができ,また,アイ・シェードもついていた.
 アイ・シェードの素材は帽子と同じ.
 帽子正面には国章とボタン2つがついた.
 JNCO(初級士官)の国章の縁取りとストライプは,兵科色と色が一致していた.
 帽子側面にはトパーン topán と呼ばれる3条の組紐状フォルダーがついており,兵科色を示す三角形をそこに差し込むようになっていた.
 志願兵の帽子の国章,ボタン,トパーンの色は茶色.
 下士官は銀,WOと将軍は金だった.
 将軍は緋色の三角形で,トパーンの周りにオークと月桂の飾りがつき,トパーン自体,将校のそれより大きかった.

 1942年,ボチカイ帽の仕様に若干の変更があった.
 下士官,准士官,将校はt,将軍の帽子は茶色の国章とボタンがつくようになり,階級章とトパーンは廃された.

 1943年,再び変更があった.
 ボタンは茶色のままだったが,階級章が復活し,国章の色は元に戻された.
 トパーンは将軍用のものにだけ戻った.

 1943年には新型のボチカイ帽が登場し,1944には44.Mボチカイ帽として制式作用され,全ての部隊がこれを装備した.

 ボチカイ帽の色はフィールドブラウン,白,緑があった.
 白と緑の帽子は夏季用で,綾織で作られた.
 将校の中には,夏季用の白い服に合わせて白いボチカイ帽を被る者があったが,本来は許可されていなかった.
 国境警備隊のボチカイ帽にはトパーンはなく,帽子の左側に緑色の三角形がついたが,トパーンのない代わり,大隊の番号入りの,笛をかたどったバッヂを使った.
 また,山岳歩兵としての訓練を受けた国境警備隊には,帽子の右側にエーデルワイスのバッヂがついた.

 なお,山岳部隊には独自の軍帽,41.M山岳部隊帽 41.M hegyi vadász があった.
 帽子には革のアイ・シェード,緑色をした三角形の識別章があり,帽子の左側にはエーデルワイスのバッヂがついた.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/407634/en/
http://www.vatera.hu/legenysegi-topan-1-2430066194.html
http://www.roncskutatas.hu/node/18177
http://www.roncskutatas.hu/node/12797
http://www.roncskutatas.hu/node/7363
http://hadakura.hu/hu/szoveg/egyenruhak---uniforms/2
http://home.kpn.nl/nickl001/acsk-2010-5.html

20.Mボチカイ帽
44.Mボチカイ帽
41.M山岳部隊帽
(こちらより引用)

トパーン
(こちらより引用)

2017.4.6


 【質問 kérdés】
 「豆掬い」「スモモ掬い」とは?
Mi az a "babmerő" s "szilvamerő"?

 【回答 válasz】
 第二次大戦ハンガリー陸軍の勤務/正装帽のこと.
 写真を見ても分かるように,全体の形はケピ帽に似ている.
 下士官用のものは,フィールドブラウンで,銀の飾りがあり,「バブメレー babmerő 」と呼ばれていた.
 「豆掬い」という意味.
 准士官,将校,将軍用のものは黒で,「シルヴァメレー szilvamerő」,すなわち「スモモ掬い」と呼ばれた.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/407634/en/
(画像引用元も同じ)

2017.4.13


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍の防寒帽は?
Milyen téli sapkáki voltak Magyar Honvédség a Második világháborúban?

 【回答 válasz】
 おおよそ以下のようなものがあった.

1) 毛皮製高帽 kucsma usanka
 1942年中,ハンガリー第2軍が冬季戦用の衣類を調達しようとした際に製造された.
 ロシアのウシャンカを模倣している.

2) 耳当て fülvédő
 これもまた,1942年から使われた.
 上掲写真の左端の兵士が,ボチカイ帽の下に耳当てを着けている.

3) チューブ・スカーフ cső nyaksál
 1943年からハンガリー軍ではこれを制式採用し,兵士の装備とし始めた.
 ドイツ軍のスカーフを模したもの.
 このような手順で着用される.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/407865/en/ ※(画像引用元も同じ)
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_e_r_m_r_e_s_s.html
http://coloringfigure.blogspot.jp/2013/05/hungarian-panzer-crew.html
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_e_r_m_r_e_s_f.html ※(チューブ・スカーフ着用手順画像引用元)

2017.4.14


 【質問 kérdés】
 38.M簡易テントとは?
Mi az 38 M. sátorlap és esőköpeny ?

 【回答 válasz】
 38.M簡易テントは,イタリア軍のM29型テントやドイツ軍の「ツェルトバーン」とだいたい同じ用途のもの.
 4枚合わせて小型テントを一つ作ることができたが,それ以外にも風雨除けとして使用したり,レイン・コートとして着用したりした.
(通常の「フィールドブラウン」色のレインコートが支給されたのは下士官・将校だけだった)

 テントとしての使い方は,こちらのページ
http://uni-nke.hu/downloads/kutatas/folyoiratok/hadtudomanyi_szemle/szamok/2016/2016_4/16_4_alt_forray_1.pdf
に様々な方法が掲載されている.
 ハンガリー語だが,これが読めない人でも,図版を見るだけでもかなり理解できるだろう.

 基本形状は半径180cm,幅270cmの1/3円弧の形をした迷彩柄の帆布.
 アルミペグ4個等が付属する.
 迷彩はハンガリー軍標準では干し草パターン,すなわち淡黄褐色,グレー・グリーン,ブラウンのスポットから成るが,メーカーの違いによって多くのヴァリエーションあり.
 ドイツやイタリアからの輸入品もそれに加わる.
 裏地は迷彩印刷されていないカーキ色なので,裏返して着るとカーキ色のレインコートになる.

 上述のリンクにあるように,現在のハンガリー軍でも同じような簡易テントが使われているという.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/405623/en/
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_e_f_l_s_8.html
http://uni-nke.hu/downloads/kutatas/folyoiratok/hadtudomanyi_szemle/szamok/2016/2016_4/16_4_alt_forray_1.pdf

38.M簡易テント
(こちらより引用)

ペグ
(こちらより引用)

現用の簡易テント
https://www.youtube.com/watch?v=mG87LmjgMks

mixi, 2017.3.18


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍の火炎放射器について簡単に教えてください.
Kérem, könnyen mondja meg az magyar honvédségi lángszóró a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 近代兵器としての火炎放射器の始まりは,ドイツの技師リヒャルト・フィードラーによるもので,1901年のことだとされている.
 ところが一部の人には,ハンガリー人のサカーツ・ガーボル Szakáts Gábor こそが火炎放射器の発明者だと信じられている.
「影響くらいは与えたかもしれないが…」
と,現在のハンガリー国防省の見解は否定的だが…

 それはともかく,第一次大戦ではオーストリア=ハンガリー軍でも火炎放射器は用いられた.
 火炎放射器は第一次大戦では最も危険な兵器の一つだと思われ,戦後,サカーツは戦犯リストに載ったほどである.

 結局,サカーツは刑を免れ,その後も発明を続けたが,殆ど報われることは無く,1937年に困窮の内に死去した.
 ハンガリー軍がトリアノン条約の軛を脱して再軍備を宣言したのは,その翌年のことで,火炎放射器の調達もその年から始まったから,もしこれがもう1年早ければ,サカーツの運命も違っていたかもしれない.

 その火炎放射器は,その時期の他の多くの兵器同様,イタリアからの輸入だった.
 国際情勢上,ハンガリーに兵器を売ってくれる国はイタリアかドイツかスウェーデンくらいだったからだ.

 まず,1938年にLanciafiamme Spalleggiato Mod.35を輸入.
 しかしこれは不採用になったようで,その後,やはりイタリアから輸入して,ハンガリー軍の制式兵器 lángszóró 41.Mとなった.
 41.M,すなわち41年制式.
 ゆえに,輸入されたのはLanciafiamme Spalleggiato Mod.40またはMod.41ということになる.

 火炎放射器を操作する兵士には,防護服が用意された.
こちらより引用)
 兵士前面と側面を保護する前掛け式の服,ヘルメット,そして手袋.
 火炎放射器は東部戦線に投入されたが,ごつい防護服着用の写真はあまりない.
 まあ,実戦において動きの鈍くなる服は着たくないだろうし…

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
http://www.honvedelem.hu/cikk/54291_ordogi_harceljarasok
http://mtklub.blog.hu/2008/01/03/szakats_gabor_meltatlanul_mellozott_feltalalonk?token=170711ece2a184d8255a17a73018f86f

サカーツ・ガーボル肖像写真
(wikipediaより)

イタリア軍のLanciafiamme Spalleggiato Mod.41写真
(wikipediaより)

火炎放射器を構えながらパトロールするハンガリー軍兵士
1942年12月,ロシアのヴォロネジ Voronezh にて
こちらより引用)

mixi,2017.2.13


 【質問】
 WW2ハンガリー軍の使っていた主な機関銃を教えてください.

 【回答】
 基本的には全て輸入またはライセンス生産.

Solothurn 31. M Golyószóró
 ゾロターンMG30機関銃.
 ドイツが軍備制限逃れのためにスイスに作ったダミー会社,ゾロターン社で1930年代に生産された機関銃.
 ハンガリーでは2000~3000丁を輸入し,ゾロターン 31.M機関銃として制式採用.

シュワルツローゼ重機関銃
 1907年にオーストリア=ハンガリー軍によって制式採用された機関銃.
 第一次大戦後もハンガリー軍はその一部を「相続」
 1931年には使用弾薬を変更するよう仕様を変更,Schwarzlose MG M.07/31と称した.

マドセン軽機関銃
Madsen Könnyü Géppuska (Golyószóró) 24.M
 1902年にデンマーク軍によって制式採用された軽機関銃.
 オーストリア=ハンガリー軍で使わていたものを,ハンガリー軍が継承.
 その後,ゾロターン機関銃に替わって予備保管武器となっていたが,1943年に再就役し,主として対空機銃として使われた.

ラインメタルMG34
グロスフスMG42
 ドイツ軍の超有名汎用機関銃.

ラインメタルMG131
 ドイツの航空機用機関銃.

 【参考ページ】
http://www.hungariae.com/Madsen.htm
http://www.hungariae.com/Gebauer.htm
http://www.avalanchepress.com/HungarianArmy.php

mixi, 2017.1.13


 【質問】
 FÉG 35 M.小銃について3行で教えてください.
Kérem, mondja el az A FÉG 35 M. ismétlőpuskát a három sorban.

 【回答】
 FÉG 35 M.小銃は8×56 mm R 小銃弾を発射する,遊底スライド式のボルト・アクション・ライフルで,FÉG社において製造された.
A FÉG 35 M. ismétlőpuska egy magyar fejlesztésű forgó-tolózáras puska, amely a 8×56 mm R töltényt tüzeli, a FÉG gyártotta a második világháború végéig.
 マンリッヒャー小銃をルーツとする95/31Mカービン銃を改良したもので,前線での交換が困難であり,かつ寒さで凍結し易い straight-pull 機構に変えて,rotating bolt 機構が採用されている.
 1935年から製造が始まり,第二次大戦後も,ソ連設計のモシンナガン小銃に置き換えられる1950年代まで製造が続けられた.

 【参考ページ】
http://elfnet.hu/haditechnika/kezifegyverek/feg35m.php
http://www.hungariae.com/Mann31.htm
http://www.militaryfactory.com/smallarms/detail.asp?smallarms_id=633

FÉG 35 M.小銃
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=YGYuoJlLp8k

mixi, 2017.1.2


 【質問】
 キラーイ短機関銃について3行で教えてください.
Kérem, mondja el az Király-géppisztolyt a három sorban.

 【回答】
 キラーイ短機関銃(1939M)は別名ダヌヴィア短機関銃といい,キラーイ・パールによって設計された.
A Király-géppisztoly (1939M.), más néven Danuvia géppisztoly egy Király Pál által tervezett.
 1939年にハンガリー軍の制式装備となり,ダヌヴィア工場において1945年までに8000丁が製造された.
 1943年には銃身が短縮された改良型(1943M.)が登場し,こちらは1950年代まで生産が続けられた.

 【参考ページ】
http://www.forgottenweapons.com/submachine-guns/danuvia-39m/
http://modernfirearms.net/smg/hu/39m-43m-e.html
http://www.hungariae.com/Danu39.htm
http://www.hungariae.com/Danu43.htm

キラーイ 39M. 短機関銃
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/1/3 20:00
を加筆改修


 【質問】
 デダイ・キラーイ・パールって誰?
Ki az Dedai Király Pál ?

 【回答】
 デダイ・キラーイ・パール Dedai Király Pál (1880~1965?)はハンガリー人機械技師であり,銃器設計者.
Dedai Király Pál (1880 - 1965?) magyar gépészmérnök és fegyvertervező.

 ハンガリーの1880~90年代は,政府が積極的に工業支援を行い,資本主義経済が発展した時代だった.
 1888年にはウィーン~ブダペシュト~ベオグラード~イスタンブールを結ぶオリエント急行路線が完成し,1896年には「建国千年祭」が祝われた.
 1880年,ブダペシュトに生まれたキラーイも,工業分野の道へ進み,1902年にブダペシュトで機械工学の学位を取得.
 1907-08年,大学の講師助手となった.
 この時期に予備役砲兵中尉の資格を取得し,第一次世界大戦が勃発すると従軍して砲兵大尉まで昇進.
 その間,1915年に,彼の兵器技術研究の最初のものが,オーストリア=ハンガリー軍の専門誌に掲載されている.
 これは自動小火器に関する論文だった.

 戦後,兵器開発が規制されたハンガリーを離れ,スイスのシグ・ノイハウゼンに勤め,SIG KE等の軽機関銃やSIG MKMO自動カービン銃等を開発した.
 1928年,母国に対する規制緩和に伴い,シグに籍を置いたままハンガリーに戻り,ダヌビア Danuvia 社に務めることになった.
 1929年,9x19mm弾を使用する自動拳銃KDダヌビアを開発したが,軍は不採用.
 1932年,ノイハウゼン突撃銃をもとにして,マズルブレーキを利用した自動装填式ライフルを開発.
 1939年,ハンガリー軍がこれを採用して39M短機関銃となった.
 さらにレバー遅延式ブローバックを開発し,改良版の43M短機関銃も採用された.
 ついで44Mとなる銃も開発していたが,未完成のまま,1945年,ソ連軍侵攻前にスイスに逃れた.

 1947年,同じハンガリー人のシャーンドル・コヴァーチ SándorKovács を頼ってドミニカへ移住.
 サン・クリストバル・カービンとその派生型である自動小銃M3,自動カービン銃M1962を開発.
 カービン銃のほうは25万丁の販売記録を作った.

 【参考ページ】
http://www.honvedelem.hu/cikk/41846_sorsfordito_fegyverek_hires_tervezok
http://huszonharmas.blog.hu/2011/01/22/kiralypal?token=dd1c5b8b596065a0ddc20ba4f834d890
http://www.zoominfo.com/p/Pál-Király/1184159407
http://military.wikia.com/wiki/Pál_Király
http://www.hungariae.com/Bio.htm

キラーイ技師の写真を発見できなかったので,代用の写真をどうぞ
(こちらより引用)

mixi, 2017.1.18


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍の銃剣について教えてください.
kérem, mondja meg a magyar szuronyei a Második világháborúban a három vagy több sorban!

 【回答 válasz】
 主に以下のようなものがあった.

・1890/1931.M Szurony
(写真1左)
 第一次大戦において,1890.M マンリッヒャー小銃用として使われたものだったが,1931年に改修され,31.Mカービン銃に装着できるようになった.

・ 1935.M Szurony
(写真1右)
(写真2)
 35.Mカービン銃に装着するもので,31.Mバヨネットよりも長くなった.
 31.Mバヨネットとは装着方法が異なっており,35.Mバヨネットは31.Mカービン銃に装着することはできず,31.Mバヨネットは35.Mカービン銃に装着することはできなかった.
 一方,35.Mはダヌヴィア短機関銃にも装着可能だった.

 31.Mや35.Mは陸海水軍,共に使われた.
 勤務服や正装においても,多くの兵士がバヨネットを装備した.

・憲兵銃剣 csendőrszurony
(写真3)
 憲兵隊員用.
 31.Mや35.Mよりも長かった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真1,3引用元
http://www.csendor.com/konyvtar/irasok/magyar/M%20Kir%20Csendorseg%20szuronyai%20-%20Haasz.pdf
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_sz_s_5.html ※写真2引用元

2017.4.19


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー陸軍の刀剣は?
Milyen kardok voltak magyar honvédség a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 主に以下のようなものがあった.

・1861.M 歩兵将校剣 gyalogtiszti kard
(写真1)
(写真2)
 1861年制式採用の由緒ある軍剣.
 陸軍または憲兵隊の下士官や将校によって儀典用として使われた.
 ただし,憲兵隊では標準装備だった.
 正装や勤務服と共に着用された.
 ブレート長:83cm

・聖バルバラ剣 szent borbála-kosarastüzértiszt kard
(写真3)
(写真4)
(写真5)
 砲兵将校の儀典用.
 聖バルバラの肖像画のリレーフがある.
 聖バルバラは,正教会,非カルケドン派,一部の東方典礼カトリック教会で崇敬されている聖人で,建築家や石工,砲手,消防士,鉱夫,囚人の守護聖人.

・憲兵隊志願兵剣 csendőr legénységi kard
(写真6)
 憲兵隊の騎兵が使用.

 他に,騎兵や空軍や水軍にも制式の剣があったが,それぞれ別項を参照されたし.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真3, 6引用元
http://www.roncskutatas.hu/node/16630 ※写真1引用元
http://www.roncskutatas.hu/node/5329 ※写真2引用元
http://bushoojapan.com/tomorrow/2016/12/04/88740
http://www.militaria.hu/hadtorteneti-intezet-es-muzeum/hadtorteneti-muzeum/targyi-gyujtemenyi-osztaly/hidegfegyver-gyujtemeny ※写真4 - 5引用元

2017. 4. 23


 【質問 kérdés】
 36.M ヴェーチェイ手榴弾とは?
Mi az 36.M Vécsey kézigránát?

 【回答 válasz】
 1936年,ハンガリー陸軍のヴェーチェイ・ゾルターン Zoltán Vécsey 大尉によって開発された手榴弾.
(写真1)
 ただ,外見がイタリア軍の手榴弾と似ていること,また,当時,イタリア軍との間に協力体制があったことから,イタリア軍のそれを大いに参考にしただろうことは,想像に難くない.

 1937.12.11,ハンガリー陸軍によって制式採用された.
 上端に親指置きのついた型の手榴弾もあった.
(上掲写真右側)

 この手榴弾内部は,爆発物と信管のついた2つの小容器から成っていた.
 こちらが分解写真.
写真2
写真3
 こちらは内部図解.
 炸薬容量はTNT火薬85g.
 有効危害半径 5~10m.
 実戦用の手榴弾は赤,投擲訓練用 practice grenadesは青,trainer grenadesは黄色で塗装されていた.
(※訳注:訳し分け不明)

 この手榴弾を起爆させるには,革製の「舌」を引っ張る必要があった.
 舌はU字形の鋼線でできた安全ピンに繋がっており,砲丸投げの要領で体を回転させながら投擲すると,この安全ピンが外れ,手榴弾は地面に落下する等の何らかの衝撃を受けると爆発するという仕組み.
 この一つ前の型の手榴弾,Wesiczky 手榴弾に引き続き,衝撃作動式信管を採用していた.
 6m以上遠くに投げれば安全とされたが,そのために市街戦や対戦車戦闘のような近接戦闘ではこの手榴弾を使うことができなかった.
 また,衝撃信管であったために,柔らかい地面などでは信管が作動せず,例えば冬季戦では,積雪が80cm以上あると雪の積もった地面に投げても30%は爆発しなかった.

 衝撃信管であるため,何らかの衝撃を受けて爆発するような手榴弾だったと思われているが,こうした不信感は映画その他のせいで広まった.
 安全に携行するために,ネックレス状に繋げて首から下げるようなことが行われた.
 このイラストの中央の兵士参照.

 1942年に,上記の欠点を改良した柄付き手榴弾 42.Mの生産が始まると,36.Mは生産終了となった.
 けれども1943.7.22時点で,同手榴弾の在庫はまだ約237万1500個あったという.

 なお,スイスはこの手榴弾のライセンスを購入し,"攻撃用手榴弾 Offensive-Handgranate 1940 (O. H-G.40)"として生産している.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/437538/en/ ※写真引用元も同じ
http://www.lexpev.nl/grenades/sovietbalkan/hungary/36mkezigranatvecsey.html ※内部図解引用元も同じ
Nigel Thomas 他『The Royal Hungarian Army in World War II』(Osprey,2008) ※イラスト引用元も同じ.
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_k_t.html

2017.4.14


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