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◆◆◆ハンガリー陸軍 Magyar Honvédség a Második Világháborúban
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<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ


こちらより引用)

 【link】

Armis et litteris
 陸軍士官学校の歴史(洪語)

Katonai logisztika
a Magyar Katonai Logisztikai Egyesület folyóirata

MartynMilitary (D. Martin) - DeviantArt
 彩色写真集

Royal Hungarian Armed Forces|World War II Armed Forces — Orders of Battle and Organizations
 戦闘序列

『The Royal Hungarian Army in World War II』(Nigel Thomas 他著,Osprey,2008/10/21)


 【質問】
 ハンガリー陸軍は第二次世界大戦ではどんな戦いに参加してますか?
Milyen csatáknak csatlakozott a magyar Honvédség a Második Világháborúban?

 【回答】
(対ユーゴ戦)

 第三軍が侵攻しますが,セルビアのパルチザン相手に小規模の戦闘があったのみでした.

(対ソ戦第一段階)

 対ソ戦はまず,後に悲劇の将軍となったソンバトヘイ・フェレンツ将軍の率いる機動軍,第一,第二自動車化旅団,第一騎兵旅団及び,他の二つの旅団(本国と戦場との間の補給に従事)の計4万が参加し,ドイツ第17軍,11軍(ルーマニアとの混成軍)と連携しながらソ連南部を2千キロ進軍し,ドネツ川まで到達しました.
(1941年7月9日から同年10月末まで)
 この間,4千の兵,およそ計1200台の戦車,及び他の機甲車両を失っています.
 車両の損傷と騎馬の補給が困難となったため,ドイツ軍との協議の結果,機動軍を本国へ帰還させ,新たに二つの旅団を追加することになりました(投入軍の数は依然として約4万を維持)

(対ソ戦第二段階)

 その後,日本軍による真珠湾攻撃,枢軸諸国の対米宣戦,独軍のモスクワ占領失敗により,独軍によるハンガリー軍のさらなる対ソ戦参加が要求されました.
 この結果,1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍の下,20万7千の「第二ハンガリー軍」が前線に送られました.(全軍の約三分の一)
 この軍は全軍の武器と機甲部隊の半数を数えましたが,兵員の大半は歩兵という性格でした.
 装備の面では独軍はもとよりソ連軍にも劣り,ハンガリー軍の要請にも関わらず,独軍からの武器補給は不十分なものでした.
 こうしてボロネジから南部へ,ドン川沿いに200キロの長さに配置されたハンガリー軍は,寒さと補給の遅滞のために,1943年1月12日から始まったソ連軍の攻撃の前に総崩れとなったのでした.
(この2週間の戦闘で4万の戦死者と3万5千の負傷者,約6万の捕虜を出し,武器の約80%を失った)

(対ソ戦第三段階)

 ボロネジの敗戦により,対ソ戦から国益が何も得られないことを痛感した支配層はカーライ首相の下,密かに連合国との休戦を協議し始める.
しかし,これを知ったヒトラーは1943年9月の時点で占領を決意し,翌年3月に実行される.
 1944年の時点で東部戦線で30万のハンガリー軍が戦闘,及び補給を行っていたが,8月23日のルーマニアの「裏切り」で一挙に国土が戦場となるのでした.
 後はデブレツェン,セーケシュフェへールヴァール近郊での大規模な戦闘,ブダペシュト市街戦と続きますがハンガリー・ドイツ軍はウクライナ軍主力のソ連軍の攻勢の前に,オーストリア・アルプスまで後退を続けるのでした.

(余談)

 ちなみに1944年10月の戦線離脱に失敗したホルティの後,権力を握った矢十字党のサーラシ・フェレンツは最後まで枢軸側の勝利を信じていたようで,こんなドキュソな逸話が残っています.(・v・)
「1944年11月2日,すでにソ連軍の戦車がウッルーィ通り(ブダペシュト市の少し外れ)の終わりで戦っている時に,サーラシはブダ城の大広間に集まった軍・市民の有識者に,目下の戦闘よりもより重要と考えるハンガリー・日本の商業関係の発展について数時間にわたる講義を行っていた.
 というのも,その戦闘についてついぞ一言も触れずにそこを立ち去ったからであった.」
「サーラシは1944年12月4日,ベルリンでヒトラーを訪問した.
 しかし,その後に大島浩駐独日本大使と会うために時間を割いたのであった.
 彼とは長時間にわたって「ベルリン=ローマ=東京」の権力のトライアングルにおいて構築される新世界秩序について意見交換を行ったのであった.」

 こんな奴がハンガリーの「国民指導者」なんかになるなんてオワッテル.

ABC : 世界史板,2002/02/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦勃発当時のハンガリー陸軍の状況は?

 【回答】
 ハンガリーは第一次世界大戦後,敗戦国として厳しい軍備制限を受け,独ソ戦開始時でも機械化が遅れていた.
 1938年,ハンガリーは再軍備を宣言し,1939年にはたった9個の軽師団または旅団だったものが,1941年には27個軽師団または旅団に増強されたが,一部の快速軍団を別にすればほとんどの部隊は徒歩の歩兵だった.
 戦車兵力は,イタリア製のCVタンケッティ150両と純国産のトルディ軽戦車190両が主力であり,それらで3個旅団から成る快速軍団を編成し,独ソ戦においては南方軍集団に参加したが,それら戦車はT-34はおろか,旧式戦車T-26やBT戦車にすら歯が立たないしろものであった.

 【参考ページ】
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/country/hungary.html
http://warandgame.wordpress.com/2008/12/23/the-hungarian-army-wwii/
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/2/27 21:00

▼ ちなみに,1937年版の児童百科事典というのを手に入れましたが,それによれば,
>3. ハンガリー
> この国も,平和条約によって軍備の制限を受けているが,7個混成旅団,2個騎兵旅団を有し,総兵力は約35,000である.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/27(日)
青文字:加筆改修部分

▼ もともとハンガリーの第一目的はルーマニアからのトランシルバニア奪還にあったので,ソ連との戦いはそれほど乗り気ではなかった.
 1944年に講和をしようとしていたが,それを察知したドイツに占領されてしまった.
 以後,ハンガリー軍はドイツ軍指揮下に組み込まれ,講和の機会も失ったまま戦い続けた.

 国がほとんど連合軍に占領されてもオーストリアあたりまで撤退して,なおドイツ軍に付き合ってなきゃいけなかったハンガリー軍こそいい迷惑.
 もっとも,ハンガリーへはソ連軍と一緒に「仇敵」のルーマニア軍も来ていたから,それに対して「コノヤロー」ってのはあったかもしれないけど.

軍事板,2008/01/21(月)
青文字:加筆改修部分

1941.5.30時点のハンガリー軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問】
 ハンガリー軍の師団の種類を教えてください.

 【回答】

 1941年6月時点のハンガリー陸軍編成
歩兵師団:8
予備師団:8
戦車師団:2
騎兵師団:1

軍事板,2007/11/04(日)
青文字:加筆改修部分

 41年12月時点;

・機動軍団
 2個自動車化旅団(各3個自動車連隊),2個騎兵旅団(各2個騎兵連隊)で編成.
 定数24,000名.
 東部戦線には1個騎兵旅団のみ派遣.

・第1装甲師団(編成中)
 38(t)軽戦車108両
 短砲身Ⅳ号戦車22両
 Ⅰ号指揮戦車2両

・一線級歩兵師団(第1,2,4~27)
 但し第2,4,11,14~18,22,24~27師団は基幹人員のみ.

・二線級歩兵師団(第102,105,108,121,124)
 後方警備用保安師団.
 全師団東部戦線投入 .

軍事板,2007/12/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のハンガリー第1軍について教えてください.

 【回答】
 1940/4/1,ホルティは来るべきソ連との戦いに備え,3個野戦軍を編成しましたが,大戦勃発時には第1軍は,これといった戦闘には投入されませんでした.
 同年8/30,ヴィルモシュ・ナジ Vilmos Nagy 中将指揮下の第1軍は,当時ルーマニア領にされていたトランシルバニアを占領して,ハンガリーに併合した以外,1944年半ばまで,殆ど戦闘に投入されませんでしたが,1944/4/30,南ウクライナの枢軸軍集団を支えるために派遣されました.
 1944/12/28,ミクローシュ政権が対ドイツ宣戦布告すると,ハンガリー第1軍は,親ドイツ側と親ソ側とに分かれて戦うことになり,さらに1945/1/1~2/16までにハンガリー第1軍の主力は,ブダペシュト北方200kmのところでソ連第40軍に蹂躙されて壊滅しました.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/4/14 21:40


 【質問】
 WW2のハンガリー第2軍について教えてください.

 【回答】
 第2軍 2. magyar hadsereg は,3個軍存在したハンガリー陸軍の中で,開戦当初装備最優良の部隊.
 当時ハンガリー唯一の機甲部隊「快速軍団」を有していた.

 ハンガリーが対ソ宣戦布告するや,ドイツ第17軍支援のため,東部戦線へ3万人が派遣された.
 ハンガリーは,1941.6.27に対ソ宣戦布告すると,当初派遣したのは陸軍最高司令部直轄の機甲部隊,第1快速軍団(と言っても師団規模)を中心とした3万人.
 ドイツ第17軍支援のため,▲7月にはネメツ・ポリスキイ,8月にはニコラエフ,その後,ニコポリ,ドニェプロペトロフスクと転戦し,10月にはドニエプル川を渡河.
 その間,著しく消耗.
▼ 器材の8割を失い,帰国した.

 1942年夏の攻勢に当たっては,ヒトラーの要請により,15万人を増派.
 だが,ドイツ軍は1941年の冬季戦で莫大な損害を被り,それらをイタリア,ハンガリー,ルーマニアなどの同盟軍によって補填する必要が生じた.
 このためヒトラーはハンガリーに圧力をかけ,やむなく東部戦線に派遣されることになったのが,この第2軍.
 1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍率いる20万7千人がソ連へ入った.▲

 後方担当とすることと兵器供与がヒトラーから約束されていたが,どちらも空手形で,まず,コーカサス方面の攻勢に参加.
▼ 1942.6.28,ハンガリー第2軍はドイツ第2軍と共に「ブラウ作戦」に投入され,9月中旬にはヴォロネジ南方においてドン河に到達.
 1942.4.24~10.1の間,ハンガリー軍は全体の15%に当たる将校1,100名,兵士29,000名を失った.
 補給はドイツ軍が自軍を優先したため,ハンガリー軍へのそれは滞りがちであり,燃料,弾薬,食糧,被服,いずれも不足気味だった.▲

 その作戦が中止されると,スターリングラード攻防戦においてドン川沿いの側面を守備▼していたが,1943.1.12,ヴォロネジ戦線においてソ連軍は攻撃を開始.
 1943年1月,ヴォロネジにおいて捕捉され,当時の兵力20万のうち,戦死者9000,負傷者16500,捕虜・行方不明者8万人以上.
 ウリフに展開していたハンガリー第20軽師団は,ソ連軍第40軍の主攻勢を受けて前線を蹂躙された.
 また,スヴォボダ付近からはソ連第18狙撃兵軍団が出撃して,ハンガリー第10,第12軽師団の前線を突破.
 ハンガリー軍は60km後方のアレクセイエフカまで撤退し,ドイツ軍予備部隊,イタリア軍残存部隊などと共に防衛線を展開した.
 さらにハンガリー軍の残余は,前線から120km後方のオスコル河まで辛うじて撤退し,そこで薄い防衛線を構築することに成功した.

 この1.12~2.26の間の戦闘で,ハンガリー第2軍は経験豊かな将校多数を含む
戦死8,718
負傷16,497
行方不明77,288
捕虜2,582
という人的被害を受け,また,装備喪失は
小銃110,000
拳銃32,000
短機関銃3,500
機関銃2,900
迫撃砲400
対戦車銃460
野砲250
榴弾砲130
対空砲110
オートバイ1,000
乗用車1,600
トラック4,000
装甲車輌190
馬匹56,000
荷馬車16,000
フィールドキッチン530
その他に達し,事実上壊滅した.
 経験豊かな将校の多数,重火器の70%以上を失って壊滅し,
 このため,占領地の治安維持要員を残し,▲生き残った将兵は5.24までにハンガリー本国へ帰還した.

 1944年夏までにソ連軍はハンガリー国境まで押し寄せ,また,ルーマニアやブルガリアが寝返って対枢軸国宣戦布告した.
 1944.8.30,ハンガリーは第3軍を動員すると共に,再建された第2軍をも動員した.
 しかし,そのどちらも予備役兵から成り,装備も不足した,弱体な部隊となっていた.

 第2軍はドイツ軍フレッター・ピコ軍集団の指揮下に入り,10.24までデブレツェンにて戦闘参加した.
 そこで枢軸軍は善戦したが,第2軍は大きく戦力消耗して,12.1に第3軍と交代.
 事実上,第2軍は消滅した.

 ちなみにハンガリー公使・大久保利隆は,1941.12.14,消耗した部隊の帰還式典に招待され,ブダペシュトの英雄広場においてこれを謁見している.
 そのときの彼の印象.

------------
 ハンガリーの大部隊がトラックに乗って帰ってきたが,トラックは相当破損し,兵士は疲労の極みにあるように見受けられ,東部戦線の惨状を如実に物語るものであった.
 私は思った,東部戦線の実情は我々の想像以上のものであるということを.

 私は独ソ戦は相当の長期戦になると感じた.
 そして最悪の場合,ナポレオンのモスコウ敗退のようなことにはならないにしても,到底勝ち目はないと考え始めた.

------------下掲書,p.280

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.95,112-114,119-120,130-135,151-153,159-160,280
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
https://hu.wikipedia.org/wiki/2._magyar_hadsereg
http://www.hungarianhistory.com/lib/thou/thou15.htm
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.96-101

第2軍の編制(1942.7.1)
(こちらより引用)

mixi,2016.5.24


 【質問 kérdés】
 ヤーニ・グスターヴって誰?
Ki az Jány Gusztáv ?

 【回答 válasz】
 ライカ Rajka という村がある.
Raija, egy község van.
 ハンガリー・オーストリア・スロヴァキアの3つの国境上という,興味深い場所に位置しており,シェンゲン協定締結以前はスロヴァキアの出入国管理所が置かれていたという.

 ヤーニ・グスターヴはこの村で,1883.10.21に生まれた.
 父親方の祖先はポーランド系ドイツ人であったというから,いかにも国境上の村らしい出自である.
 農業を営む傍ら,食料品店を開いていた.

 彼はルドヴィツァ Ludvica の軍事アカデミーを卒業後,1905年に少尉任官した.
 1909~12年,ウィーンに軍事留学した後,1914年に参謀本部入り.
 1914年と言えば,第一次大戦が勃発した歳である.
 彼は西部戦線や東部戦線に従軍し,大胆さで有名となった.

 第一次大戦後,ハンガリーはハプスブルク帝国から離脱.
 カーロイ・ミハーイを大統領とするハンガリー民主共和国が誕生する.
 ヤーニは新生ハンガリー軍に参加.

 ところがカーロイ政権は国内の混乱に対応しきれず,倒れてしまう.
 その次に誕生したのが,クン・ベーラの共産党政権.
 クンはハンガリー・ソヴィエト共和国を宣言し,赤軍を創設し,ヤーニら旧来の軍人達は,赤軍には必要ないとされた.
 しかし,国内外から「要らない奴ら」判断されたのはハンガリー・ソヴィエトのほうで,無謀にも他国に革命を起こそうと侵攻した彼らは,ルーマニア軍や白軍の反撃を受け,逆にブダペシュトまで占領されてクンらはソ連へ逃亡.
 陸軍省にいたヤーニは,ルーマニア軍の捕虜となった.

 白軍を率いていたホルティ・ミクローシュが「摂政」に就任すると,翌1920年に釈放されたヤーニは軍務に復帰.
 1931年,ルドヴィツァ軍事アカデミー校長.
 1935年,将官に昇進.
 1936.11.1,ソンバトヘイ混成旅団の指揮官に就任.
 1940.3.1,第2軍司令官に就任.
 第二次大戦が勃発すると,1942~1943年,第2軍はスターリングラード戦その他に参加し,大損害を蒙った.
 彼はその責任を問われ,8月に帰国すると,定年退職の形で辞任.

 ドイツ軍の侵攻によりハンガリーにその傀儡,サーラシ政権が誕生すると,ヤーニはそれに協力することを拒否.
 ソ連軍が迫るとドイツへ脱出し,米軍の捕虜となって1946年まで抑留された.

 帰国したヤーニを待っていたのは,上級大将から大将への降格.
 そして,「戦争を拡大させた」罪による逮捕と裁判だった.
 ティルディ大統領は彼の恩赦を拒否.
 1947.11.26,ヤーニは銃殺された.

 彼が無罪となったのは,冷戦後の1993年になってからのことである.

 【参考ページ】
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1883_oktober_21_jany_gusztav_szuletese
http://donkanyar.gportal.hu/gindex.php?pg=13019420
https://www.masodikvh.hu/szemelyek/g-l/j/461-jany-gusztav
http://live.warthunder.com/post/382958/en/
例によって誤訳御免

ヤーニ・グスターヴ(画像右)と東部戦線の兵士たち
画像左はハダプロード Hadapród (予備役)軍曹.冬用スモックを着用し,ダヌヴィア短機関銃を持っている.
画像中央は二等工兵.外套着用
(『The Royal Hungarian Army in WW2』より)

https://www.youtube.com/watch?v=J-FQGMHemCo

mixi, 2017.2.20


 【質問】
 WW2のハンガリー第3軍について教えてください.

 【回答】
 1940.3.1,第3~5軍団をもって編成.
 1941.4.5,ドイツ軍支援のためユーゴスラヴィアに侵攻,ユーゴスラヴィア第1軍と対峙したが,このときは損害も軽微で済んだ.
 1944.3.25~4.15にカメネツ=ポドリスキー包囲戦に投入された第7軍団が,8月,第6軍に編入さる.
 1944.8.30,本土防衛のため,第2軍と第3軍を動員.トランシルヴァニアのマロシュ渓谷とアラドとを横断し,山道を占領しようとしたが失敗.
 1944.10.6,デブレツェンの戦いの序盤,アラド近郊において大打撃を蒙り,ケチケメート近くで潰走.
 1944.12.29より,ブダペシュト攻防戦に投入さる.
 1945.3.16~3.25,第3軍の残余の殆どが,ブダペシュト西方約40km地点で包囲され,壊滅.
 その生き残りはドイツ軍と共にオーストリアへ移動.
 1945.5.8,正式に降伏した.

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.88-89
https://hu.wikipedia.org/wiki/3._magyar_hadsereg
https://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベレグフィ・カーロイ
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=37579

mixi, 2016.5.20

1941年4月のハンガリー第3軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az királyi 1. honvéd lovashadosztály a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 第1騎兵師団は1942.10.1,快速軍団の第1・第2騎兵旅団を基幹として創設された.
 両旅団は第2~第4フサール連隊に再編され,戦車大隊,野戦砲大隊,対空砲大隊,装甲車部隊,自転車部隊が師団に編入された.
 また,対戦車能力向上のため,ドイツ製の7.5cm PaK 40戦車砲やパンツァーファウストも配備された.
 師団指揮官は "勇敢なる" ヴァッタイ・アンタル vitéz Antal Vattay 少将.
 1943年上旬までに装備は完全充足し,師団の各部隊は必要な訓練を受けた.

 単独講和の道を模索していたハンガリーは1944.3.22,マルガレーテI作戦によってドイツに占領される.
 ドイツは親独派のストーヤイ内閣をハンガリーに立てると,第1騎兵師団などの兵力出動をハンガリーに要求した.
 このとき第1騎兵師団の兵力は
士官607名,
兵士16.639名,
馬10.889頭
馬車1201台
車輌778台.
 また,第3・第4フサール連隊は
1939年のザカルパチア地方占領
19414月のユーゴスラビア占領,
1941年夏のバルバロッサ作戦
に参加した歴戦の部隊.
 他の部隊にもベテラン兵士が多く配属され,当時ハンガリー随一のエリート部隊だった.

 1944.5.3,移動命令.
 ドイツとの約束では,第1騎兵師団はハンガリー第1軍の指揮下に入ることになっていた.
 だが,約束は果たされず,第1騎兵師団は Pinsk Marshesに配備された.
 同地は騎兵が真価を発揮して戦うことができるような場所ではなかった.
 師団最後の部隊は1944.6.21,ルニネツ Luninets に到着したが,師団の最初の任務は,ルニネツ周辺の森に潜むパルチザン部隊との戦闘だった.
 当時,その地域には,装備の良い1万~1万3千人のパルチザンがいた.

 7月には,師団はあちこち場所を変えながら,最終的には Kletsk を守備した.
 同地は,Babrujskにてドイツ軍の戦線を突破したソ連軍戦車部隊に対し,ヴァッタイ少将の反対にもかかわらず,ドイツ軍が移動を命じた地だった.
 ピンスク湿地を通る枢軸軍の撤退の間,ハンガリー軍部隊はドイツ軍ユニットの後衛についた.
 湿地には幾つか道路が通っているだけで,ハンガリー軍はソ連軍戦車や航空機からの攻撃により,この後退戦で大きな損害を受けた.
 これらの攻撃に対して非常に脆弱だった.
 湿地帯には追いつくことができるような場所は殆ど無かったが,ドイツ軍はしばしば,そういう場所を独り占めにした.
 ドイツ軍は彼ら自身の迅速な後退のため,ハンガリー軍を道路から追い出し,ハンガリー軍だけが後衛としてソ連軍の攻撃に晒された.
 ある時,ハンガリー軍の将校がドイツ軍の将軍に反抗してドイツ軍を通さなかった.
 その数時間後,ドイツ空軍のBf-109戦闘機がハンガリー軍の列に「誤って」機銃掃射し,数多くの兵士が死亡した.

 7月の間中,第1騎兵師団は1日も休まず戦い,ドイツ軍の後衛を務め,たびたび包囲された.
 彼らは馬を失い,歩兵となるか,略奪した馬車で移動した.
 ヴァッティ少将は,ドイツ軍との関係が悪化したため,更迭されたが,その時は一時的な休息となった.
 部隊に新指揮官が来るまでは Schell Zoltán 大佐が式を代行した.

 7月末,師団はブグ Bug 川において激しい防衛戦を行い,中でも Łosice ~ Mordy 間における第3フサール連隊は英雄的戦闘により,包囲されていたドイツ第20軍団を救出した.

 東部戦線において戦力を消耗した第1騎兵師団は8月,ワルシャワへ後退して戦力の補充と再編成を行った.
 戦闘により,第1・第2騎砲兵大隊は火砲を喪失していたため,第1大隊は37.M榴弾砲を,第2大隊は05/08.M榴弾砲を受領した.
 05/08.Mという制式年数が示す通り,後者は第一次大戦時代の中古である.

 だが,再編の最中,ワルシャワで反乱が起こる.
 師団はワルシャワの東に配置され,騎兵部隊としては不本意な戦闘,すなわち塹壕戦にてロシア軍を迎え撃った.
 反乱鎮圧に投入されたハンガリー軍部隊もあったと聞くので,それは騎兵師団の一部だったのかもしれない.
 もっとも,その部隊はポーランド人に同情的で,こっそり武器や医薬品を渡すなどしたため,すぐに鎮圧任務を解かれたという.

 1944年9月までに,師団の戦車大隊は戦車を全喪失した.
 戦車を失った戦車搭乗員はドイツに送られ,パンサー戦車の操縦訓練を受けた.
 ドイツは,彼ら搭乗員をパンサー戦車と共にハンガリーに戻すと約束していたが,いつものごとく,その約束は実行されず,彼らは戦車無しで戻り,歩兵として戦うこととなった.

 1944.10.2,第1騎兵師団は第1フサール師団と改名するが,その後の話は別項目に譲る.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の装甲車大隊のエンブレム

第1騎兵師団の車輌;
トルディII軽戦車 42.M Toldi II könnyűharckocsi
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
上記画像のエンブレムを確認できる
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団の戦闘序列は?
Mi az királyi 1. honvéd lovashadosztály harcrenda volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
・1944年6月の戦闘序列(書類上のもの)

第2フサール連隊 2. huszárezred-parancsnoksága 「アールパード王子 Árpád fejedelem」
第3フサール連隊 3. huszárezred-parancsnoksága 「ナーダシュディ・フェレンツ伯爵 Gróf Nádasdy Ferenc」
第4フサール連隊 4. huszárezred-parancsnoksága
第15自転車大隊 15. kerékpáros zászlóalj
第1独立装甲車大隊 1. lovas-harckocsi zászlóalj
第3偵察大隊  3. felderítő zászlóalj
第1騎砲兵大隊 1. lovastüzér-osztály
第3自動車化砲兵大隊  3. gépvontatású tüzérosztály
第55対空砲大隊 55. légvédelmi tüzérosztály
第4自動車化戦闘工兵中隊 4. gépkocsizó utászszázad és hadihíd-oszlop
第1騎兵通信大隊 1. lovas-híradó század
鉄道輸送本部  hadosztályvonat-parancsnokság

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の車輌;
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
「ニムロード」自走砲 40.M Nimród önjáró gépágyú
「チャバ」装甲車 39.M Csaba páncélautó
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵部隊の軍装は?
Milyen gépek magyar honvédségi lovasság volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 基本的には歩兵と同じだったが,幾つかフサールに特徴的な衣装も有していた.

 この写真は,ハンガリー軍騎兵部隊の軍曹.
こちらより引用)
 1942年以前のもので,おそらくはバルバロッサ作戦時のもの.
 歩兵と同じヘルメットを被っている.
 当時,もはや騎兵は帯剣しておらず,手榴弾や即席の爆雷をもって対戦車戦闘をしばしば強いられた.
 彼らは,エンジンや走行中の戦車の手前の轍,あるいはソ連軍戦車兵が不注意にも開けっ放しにしたハッチの中に,それら爆発物を投げ込んだ.

 ハンガリー軍騎兵固有の軍装としては,フサール・マント huszár mente がある.
 これは騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった.
 正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした.
こちらより引用)

 また,フサール・ブーツ Huszár csizma が騎兵部隊には使われた.
 41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった.
こちらより引用)

 騎兵ベルトも通常の陸軍用ベルトとは異なり,背中側にストラップがあった.
 このストラップで騎兵銃を支えることができた.

 将校の正装としては,伝統的なアッティラ服があった.
 アッティラ服については別項を参照されたし.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warrelics.eu/forum/imperial-germany-austro-hungary/husaren-interim-attila-tunic-24927/
http://rendormuzeum.com/gyujtemenyek
http://www.energy.hu/en/uniform-gallery/2016-10-28-11-48-32.html
http://live.warthunder.com/post/409199/en/
http://live.warthunder.com/post/472294/en/

2017.4.17


 【質問 kérdés】
 騎兵ズボンとは?
Mi az lovaglónadrág?

 【回答 válasz】
 25.Mブーツ用ズボン 25.M csizmanadrág とも呼ばれるもので,高級なブーツを履く将兵,騎兵,戦車兵,オートバイ兵,パイロットなどが着用した.
 陸軍と空軍で使われたが,水軍では使われなかった.
 脚部のボタンは平らなものが使われており,ブーツの中にしまい込んだ時に不快にならないようになっていた.
 色はフィールド・ブラウンだが,1943年以降,夏用として,綾織の緑色のものもあり,これは訓練や経営,労務,非番時に着用された.
 さらに,白色のものがあり,これは将校や将軍が夏に着用するものだった.
 タイツとお尻との間に厚手の皮を縫い付け,サドルに乗っている間に弾力を増すように改造されているものもあった.
 将軍クラスの人物の騎兵ズボンには,両脇に2本の緋色ののスリップがついていて,将軍以外のものと識別出来た.
 ただし,夏用の白色ズボンには,緋色のスリップはつかなかった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400755/en/
http://mek.oszk.hu/04900/04967/html/
https://deckersmilitaria.wordpress.com/letoltesek/

25.M騎兵ズボン
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.8


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵の刀剣は?
Milyen magyar lovassági kardok voltak a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 主に以下のようなものがあった.

1904.M志願兵用騎兵剣 lovas legénységi kard
 騎兵が使用.
 戦闘や儀典において使われたが,それは1942年までで,それ以後は騎兵剣は廃止され,銃剣にとってかわられた.

1904.M 騎兵用栄誉サーベル 1904.M lovas altiszti kard
 将校が戦闘や儀典において使用した.
 しかし1942年以降は,使用は儀典のみに限定された.

▼・剣のフリンジ(刀緒)
 銃剣導入以前の騎兵科において使われた.
 「聖なる王冠」の飾りは無し.
 こちらの写真は,フリンジの装着方法を示す.▲

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真引用元
http://huszarok.nadasdymuzeum.hu/targy.php?targy=3056&fajta=12&keres=165
http://www.roncskutatas.hu/node/5337
http://live.warthunder.com/post/409353/en/ ※フリンジ写真引用元
http://www.roncskutatas.hu/node/12449 ※フリンジ写真引用元

2017.4.22
2017.4.27追記 utóirat


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1フサール師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az Honvéd 1. Huszár osztály.

 【回答 válasz】
 第1フサール師団は1944.10.2,第1騎兵師団を改編して誕生した.
 摂政ホルティは,ウクライナとポーランドにおける英雄的な戦いを称え,第1騎兵師団を第1フサール師団と改名した.
 フサールは名誉称号だった.

 フサール師団は10月初旬にハンガリーに戻り,南部ハンガリーとデブレツェンでの激戦に投入された.
 次いでフサール師団はブダペシュトに撤退.
 ブダペシュト包囲により,師団の大部分も市街戦で壊滅した.
 残存部隊は徒歩でチャローケズ Csallóköz (現在のŽitnýostrov、スロバキア)に撤退.
 1945年1月,「コンラート」III作戦に参加した.
 フサール師団残余はヴェールテシュ Vértes の丘の東部を占領.
 3月にソ連軍の大規模攻勢が始まるまで,そこを保持した.
 この攻勢に対し,残存部隊は防戦しながらオーストリア方面へ後退.
 1945.3.29,将兵7200人,馬2500頭がハンガリーから脱出した.

 終戦時,フサール師団はリンツにまで後退していたが,第2~第4騎兵連隊など師団主力は,オーストリアのスティリアにて米軍に降伏.
 その他はソ連軍に降伏したという.

・歴代指揮官;
イバーニ・ミハーイ Ibrányi Mihály 少将 (1944.8.1~1944.11.4)
マカイ・アッティラ Makay Attila 大佐(1944.11.4~1944.11.13) ※指揮官代理
シェル・ゾルターン Schell Zoltán 大佐 (1944.11.13~1945.4)

・1944年12月の戦闘序列(書類上のもの)
 第1騎兵師団の序列に加え,以下の部隊が追加されている.

第7砲兵大隊
第73砲兵大隊
第82砲兵大隊
第4自動車化砲兵大隊
第2独立工兵大隊

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386

フサール・マント huszár mente
騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった
正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした
こちらより引用)

フサール・ブーツ Huszár csizma
騎兵部隊によって使われた
41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった
こちらより引用)

2017.4.3


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍空挺部隊について簡単に教えてください.

 【回答 válasz】
 トリアノン条約で軍備を制限されていたハンガリーは,1938年に再軍備を宣言すると,同年夏,ブダペシュトのマリア・テレジア兵舎の一室においてパラシュート実験隊を創設した.
 マリア・テレジア兵舎は後にキリアーン兵舎と改名され,1956年ハンガリー革命(ハンガリー動乱)の主要な舞台の一つとなる.

 初代隊長はベルタラン・アールパード Bertalan Árpád 大尉.
肖像写真--wikipediaより引用)
 1898年,ボジョニイ Pozsony (現ブラチスラバ Bratislava )生まれの彼は,マリア・テレジア勲章や騎士十字章を受勲したことのある,第一次大戦の英雄だった.
 ついた綽名が「ヴィテーズ Vitéz (勇気)」

 同年9月11日,落下傘隊はソンバトヘイ Szombathely においてハンガリー軍初のパラシュート降下を行った.
 とはいっても,最初の人数は僅かに彼とその部下の中尉7人.
 すなわち
ベルタラン・アールパード Bertalan Árpád
キシュ・ゾルターン Kiss Zoltán
レーデツィ・ラースロー Lédeczy László
マイトヘーニ・イムレ Majthényi Imre
マートライ・カーロイ Mátray Károly
パタキ・ゲーザ Pataky Géza
ソコライ・ターマシュ Szokolay Tamás
ヴェールテシュ・ベーラ Vértes Béla
の計8人だった.
 輸送機はイタリア製民間機の,中古のカプロニCa.101が2機.
 この機体の前に整列したベルタラン隊長らの写真が残っている.
こちらより引用)
 この機体は郵便機として20機がハンガリーに輸入され,後に空軍に移管されているから,おそらくこれだろう.
 また,パラシュートは様々な国からの輸入だった.
 上掲写真では,左からハンガリーのHehsパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュート,イギリスのIrvinパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュートの別のタイプ,そしてIrvinパラシュートを装備しているのが分かる.
 その数も不足していたが,予算の都合上,追加輸入することはできず,国産化を図るしかなかった.

 しかしその年のうちに,パラシュートを自国で生産できるようになり,航空機も,イタリア製はイタリア製でも新鋭の輸送機サヴォイア・マルケティSM75に更新された.
SM75と空挺隊員――こちらより引用)
 想像するに,訓練内容もイタリア軍空挺部隊と同じものだったに違いない.
 であれば,降下スタイルは両手足を広げる「アンジェロ Angelo (天使)」スタイルであっただろう.
 部隊は大隊となり,全員志願兵から成る精鋭が集められた.
 1939年,ベルタランは少佐に昇進.
 1940年8月に編成は完結.
 11/1,空軍指揮下となった.

 空挺部隊の初の実戦参加は1941年のことだった.
 ハンガリーはドイツから圧力をかけられ,やむなくドイツ軍と共にユーゴスラヴィアへ侵攻.
 空挺大隊はユーゴ軍の背後に降下し,Újverbász (現Verbász)近くにある,フランツ・ヨーゼフ運河の2つの重要な橋を奪取するよう命じられた.
 空挺戦術において古典的な「縦の包囲」である.

 4.13夜明けに輸送機は発進.
 作戦は当たり,ハンガリー軍は30km前進することに成功した.
 しかし,手放しでは喜べなかった.
 離陸中に輸送機1機が墜落.
 ベルタラン少佐らが死亡したからである.

 後任の指揮官スジ・ゾルターン Szügyi Zoltán (1896~1967)大佐は,第一次大戦では黄金勲章を授与された,やはり武勲に輝く人物だった.
肖像写真――wikipediaより)
 独ソ戦が始まると,彼は1942~43年,少数の部下と共に軍事顧問として東部戦線へ派遣された.

 1943年になると,空挺大隊はバコニ山において「R」計画のための訓練を始めた.
 これはルーマニアが寝返ることを想定して,南部トランシルヴァニアに侵攻するという計画だった.

 1944年8月,ルーマニアは実際に枢軸陣営から離脱した.
 「R」作戦は少なくとも部分的には発令された.
 しかし作戦実施は遅れ,9月に実際に陸軍が動き出した時には時すでに遅し.
 ルーマニア軍とソ連軍はハンガリー国境に迫っていた.
 空挺大隊はカルパチア山脈に派遣され,祖国防衛の任に当たった.
 カルパチアの防衛ラインが突破されると,陸軍空軍の残存部隊を集めて空挺部隊(今や連隊だった)を基幹とするセント・ラースロー師団が編成され,スジ大佐が師団長となった.
 その名はラースロー1世(1040~1095)にちなむものであった.
 この王はクロアチアやダルマチアを支配下に置き,法を整備し,文化を発展させ,「聖王」と称えられる人物であり,その名を通して祖国愛に訴えようといたのだろう.

<初期の編制>
Szt.László Division Headquarters 師団司令部
1st (Parachute) Regiment 第1(パラシュート)連隊
2nd (Infantry) Regiment 第2(歩兵)連隊
3rd (Air Force) Regiment 第3(空軍)連隊
1st Artillery Battalion 第1砲兵大隊
6th Artillery Battalion (motorized) 第6砲兵大隊(自動車化)
9th Artillery Battalion 第9砲兵大隊
76th Artillery Battalion 第76砲兵大隊
1st Rocket Launcher Battalion 第1ロケット・ランチャー大隊
20th Assault Gun Battalion 第20突撃砲大隊
Szt. László Combat Engineer Battalion (motorized) セント・ラースロー戦闘工兵大隊(自動車化)
Szt. László Armored Reconnaissance Battalion セント・ラースロー装甲偵察大隊
Szt. Lászlo Signal Battalion (motorized) セント・ラースロー通信大隊(自動車化)
Szt. Lászlo Divisional Service Headquarters 兵站本部

 師団はブダペシュト周辺防衛線の「火消し役」に投入された.
 戦線が敵に突破されて穴が開くと,それを塞ぐために空挺連隊が投入された.

 この戦いと,それに続くブダペシュト包囲戦において,空挺連隊は精鋭の名に恥じぬ戦いを見せた.
 しかしブダペシュトは陥落し,師団は大きな損害を受けた.

 その後,クロアチア北部やオーストリア南部へ転戦し,ウィーン攻防戦に参加.
 終戦により,英軍に降伏したが,ユーゴスラビアの治安情勢を鑑みた英軍は,彼らを直ちには武装解除をせず,その後武装解除されると,所属将兵はドイツとオーストリアに位置した捕虜収容所に送られた.
 ソ連軍に引き渡されなかったのは幸運と言えよう.

 スジ少将(終戦時)は1948.2.23,「戦争犯罪」により10年の刑を宣告され,1949.11.28,国家評議会はそれを終身刑に変更した.
 1956年ハンガリー革命の際に釈放されるが,ソ連軍によって革命が弾圧されるや,彼は再び投獄.
 1957年秋に漸く釈放され,未熟練労働者としてその後を過ごした.
 1967年,ブダペシュトにて死去.
 冷戦終結後の1994年,最高裁は彼の無罪を宣告した.

 今日,ハンガリー国防軍第2特殊作戦連隊は「ベルタラン・アールパード」の名を冠している.

 【参考ページ】
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=100763
http://www.ww2f.com/topic/15799-the-death-heads-hungarys-airborne-forces-1938-1945/
http://www.wwpd.net/2016/01/bolt-action-hungarian-paratroopers-who.html
吉川和篤他『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006)
http://www.austro-hungarian-army.co.uk/biog/bertalan.html
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
http://cultura.hu/aktualis/a-magyar-katonai-ejtoernyozes-megalapitoja/
http://airbase.blog.hu/2013/04/12/_az_ornagy_ur_meg_bent_van_mentsuk_meg
http://www.honvedelem.hu/cikk/37395_tisztelges_a_magyar_katonai_ejtoernyozes_megteremtoje_elott
http://www.vitezirend.co.hu/CV & Award/vszugyi_zoltan_vorgy.htm
https://karpataljalap.net/?q=2006/09/15/magyar-emlekek-tatar-hagon
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_laszlo.html

夏用冬用の降下服
ハンガリー軍空挺部隊は専用のオーバーオールを装備していた
それ以外の服装は,歩兵と同じ
上掲写真や冬用降下服の写真では,リネンのヘッドギアを被っているが,これは降下時のみ使用された
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=sFGpYEOOJTc&t=16s

mixi, 2017.2.14


 【質問 kérdés】
 セーケイ人国境警備隊について教えてください.
Kérem, mondja meg az székely határőrség?

 【回答 válasz】
 セーケイ人はハンガリー系少数民族であり,ハンガリー語族である.
A székelyek magyar tudatú és magyar nyelvű népcsoport.
 現在はルーマニア領である,トランシルバニア東部のセーケイ地方に住んでいる.
 先祖はフン族であるとも,アヴァール人であるとも,はたまたスキタイ人であるとも言われているが,本当のところはとんと見当がつかぬ.
 記録によると,12世紀には既にイシュトヴァーン二世の下でハンガリー兵として戦っていたという.

 国の端のほうに住んでいるものだから,代々,国境警備の義務を課された.
 オスマン帝国が侵入してきた時など,何度戦ったか数え切れぬ.
 中でもクマン人との戦いの激しさは,伝説に残ったほどだ.

 近代になったら義務は外れるかと思ったが,そうはいかぬ.
 かえって大隊だの旅団だのといった組織に,民族丸ごと組み込まれることになった.

 国境警備隊は平時は内務省に属した.
 関税の取り立てや出入国管理が主な仕事である.
 戦時には軍のほうに移る仕組みだった.

 第二次大戦前夜,セーケイ人国境警備隊は27個大隊を数えた.
 独ソ戦が始まると,国境警備隊の一部も快速軍団と一緒に東部戦線へ送られた.
 後方警備のためである.
 そこで散々な思いをした.

 1944年になると,ルーマニア軍が寝返った.
 国境警備隊も国境防衛をせねばならぬ.
 ところが,第一次大戦が終わって,トランシルバニアがルーマニアへ持っていかれているものだから,大変である.
 山脈という天然自然の防衛拠点がなくなったからだ.

 ある程度寝返りは予想されていたようで,1942年中には郷土防衛隊のようなものが作られた.
 地元警察や民兵やらを糾合し,民間人には4週間分の食糧備蓄を要求した.
 ティーン・エイジャーから中年男性までこれに駆り出された.

 けれども現実にルーマニア軍が侵攻してくると,そんなものでは間に合わなかった.
 なにしろ一緒にソ連軍が攻め込んでいる.
 対するに,ニワカごしらえの郷土防衛隊は,練度も士気も低い.
「もうよそう.勝手にするがいい.がりがりはこれぎりご免蒙るよ」
 良くて数日持ちこたえることができただけで,国境は簡単に突破された.
 国境近くに住む民間人も,多くが死んだ.

 そして国境警備隊はどうなったかというと,…今もまだいるのです.

 【参考ページ】
Nigel Thomas & Laszlo Szabo『The Royal Hungarian Army in WW2』(Osprey)
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_szekel.html
http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-5953.html
http://www.hunsor.se/se/szekelypeople.htm
http://www.honvedelem.hu/cikk/43532_kereszthegy

画像左が第17セーケイ国境警備大隊の伍長,1944年10月
カモフラージュ・コートを着用し,31.Mライフルを持っている
画像中央は戦車搭乗員で中尉.42.M戦車兵用制服を着用
画像右は第21国境警備ライフル大隊の曹長.イタリア製のベレッタMAB38短機関銃を持っている.
ベレッタ短機関銃はハンガリー軍の制式兵器ではなかったが,ドイツ軍から供与されたり,1944年以降にルーマニア軍から鹵獲したりした.

(『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)

ルーマニア軍・ソ連軍の侵攻ルート
(こちらより引用)

国境における戦闘:再現映像より
faq170221sk.jpg
faq170221sk2.jpg
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=KxtQZhovibE

mixi, 2017.2.22


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