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◆◆◆ハンガリー陸軍 Magyar Honvédség a Második Világháborúban
<◆◆陸戦 目次 Földi Csata Index
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ


こちらより引用)

 【link】

Armis et litteris
 陸軍士官学校の歴史(洪語)

Katonai logisztika
a Magyar Katonai Logisztikai Egyesület folyóirata

MartynMilitary (D. Martin) - DeviantArt
 彩色写真集

Royal Hungarian Armed Forces|World War II Armed Forces — Orders of Battle and Organizations
 戦闘序列

『The Royal Hungarian Army in World War II』(Nigel Thomas 他著,Osprey,2008/10/21)


 【質問】
 ハンガリー陸軍は第二次世界大戦ではどんな戦いに参加してますか?
Milyen csatáknak csatlakozott a magyar Honvédség a Második Világháborúban?

 【回答】
(対ユーゴ戦)

 第三軍が侵攻しますが,セルビアのパルチザン相手に小規模の戦闘があったのみでした.

(対ソ戦第一段階)

 対ソ戦はまず,後に悲劇の将軍となったソンバトヘイ・フェレンツ将軍の率いる機動軍,第一,第二自動車化旅団,第一騎兵旅団及び,他の二つの旅団(本国と戦場との間の補給に従事)の計4万が参加し,ドイツ第17軍,11軍(ルーマニアとの混成軍)と連携しながらソ連南部を2千キロ進軍し,ドネツ川まで到達しました.
(1941年7月9日から同年10月末まで)
 この間,4千の兵,およそ計1200台の戦車,及び他の機甲車両を失っています.
 車両の損傷と騎馬の補給が困難となったため,ドイツ軍との協議の結果,機動軍を本国へ帰還させ,新たに二つの旅団を追加することになりました.
(投入軍の数は依然として約4万を維持)

図1:トルディI軽戦車に支援され,Mykolaivに突入するハンガリー軍部隊.1941年
faq190205mk

こちらより引用)

(対ソ戦第二段階)

 その後,日本軍による真珠湾攻撃,枢軸諸国の対米宣戦,独軍のモスクワ占領失敗により,独軍によるハンガリー軍のさらなる対ソ戦参加が要求されました.
 この結果,1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍の下,20万7千の「第二ハンガリー軍」が前線に送られました.(全軍の約三分の一)
 この軍は全軍の武器と機甲部隊の半数を数えましたが,兵員の大半は歩兵という性格でした.
 装備の面では独軍はもとよりソ連軍にも劣り,ハンガリー軍の要請にも関わらず,独軍からの武器補給は不十分なものでした.
 こうしてボロネジから南部へ,ドン川沿いに200キロの長さに配置されたハンガリー軍は,寒さと補給の遅滞のために,1943年1月12日から始まったソ連軍の攻撃の前に総崩れとなったのでした.
(この2週間の戦闘で4万の戦死者と3万5千の負傷者,約6万の捕虜を出し,武器の約80%を失った)

図2:1942年春,ハンガリー,エステルゴムで訓練中の,第2軍の一部
追走する自動車化歩兵部隊の「ボトンド」トラックから,4号戦車F1型を望む
これら部隊がブラウ作戦に投入された
faq190208bl

こちらより引用)

(対ソ戦第三段階)

 ボロネジの敗戦により,対ソ戦から国益が何も得られないことを痛感した支配層はカーライ首相の下,密かに連合国との休戦を協議し始める.
しかし,これを知ったヒトラーは1943年9月の時点で占領を決意し,翌年3月に実行される.
 1944年の時点で東部戦線で30万のハンガリー軍が戦闘,及び補給を行っていたが,8月23日のルーマニアの「裏切り」で一挙に国土が戦場となるのでした.
 後はデブレツェン,セーケシュフェへールヴァール近郊での大規模な戦闘,ブダペシュト市街戦と続きますがハンガリー・ドイツ軍はウクライナ軍主力のソ連軍の攻勢の前に,オーストリア・アルプスまで後退を続けるのでした.

(余談)

 ちなみに1944年10月の戦線離脱に失敗したホルティの後,権力を握った矢十字党のサーラシ・フェレンツは最後まで枢軸側の勝利を信じていたようで,こんなドキュソな逸話が残っています.(・v・)
「1944年11月2日,すでにソ連軍の戦車がウッルーィ通り(ブダペシュト市の少し外れ)の終わりで戦っている時に,サーラシはブダ城の大広間に集まった軍・市民の有識者に,目下の戦闘よりもより重要と考えるハンガリー・日本の商業関係の発展について数時間にわたる講義を行っていた.
 というのも,その戦闘についてついぞ一言も触れずにそこを立ち去ったからであった.」
「サーラシは1944年12月4日,ベルリンでヒトラーを訪問した.
 しかし,その後に大島浩駐独日本大使と会うために時間を割いたのであった.
 彼とは長時間にわたって「ベルリン=ローマ=東京」の権力のトライアングルにおいて構築される新世界秩序について意見交換を行ったのであった.」

 こんな奴がハンガリーの「国民指導者」なんかになるなんてオワッテル.

ABC : 世界史板,2002/02/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦勃発当時のハンガリー陸軍の状況は?

 【回答】
 ハンガリーは第一次世界大戦後,敗戦国として厳しい軍備制限を受け,独ソ戦開始時でも機械化が遅れていた.
 1938年,ハンガリーは再軍備を宣言し,1939年にはたった9個の軽師団または旅団だったものが,1941年には27個軽師団または旅団に増強されたが,一部の快速軍団を別にすればほとんどの部隊は徒歩の歩兵だった.
 戦車兵力は,イタリア製のCVタンケッティ150両と純国産のトルディ軽戦車190両が主力であり,それらで3個旅団から成る快速軍団を編成し,独ソ戦においては南方軍集団に参加したが,それら戦車はT-34はおろか,旧式戦車T-26やBT戦車にすら歯が立たないしろものであった.

 【参考ページ】
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/country/hungary.html
http://warandgame.wordpress.com/2008/12/23/the-hungarian-army-wwii/
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/2/27 21:00

▼ ちなみに,1937年版の児童百科事典というのを手に入れましたが,それによれば,
>3. ハンガリー
> この国も,平和条約によって軍備の制限を受けているが,7個混成旅団,2個騎兵旅団を有し,総兵力は約35,000である.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/27(日)
青文字:加筆改修部分

▼ もともとハンガリーの第一目的はルーマニアからのトランシルバニア奪還にあったので,ソ連との戦いはそれほど乗り気ではなかった.
 1944年に講和をしようとしていたが,それを察知したドイツに占領されてしまった.
 以後,ハンガリー軍はドイツ軍指揮下に組み込まれ,講和の機会も失ったまま戦い続けた.

 国がほとんど連合軍に占領されてもオーストリアあたりまで撤退して,なおドイツ軍に付き合ってなきゃいけなかったハンガリー軍こそいい迷惑.
 もっとも,ハンガリーへはソ連軍と一緒に「仇敵」のルーマニア軍も来ていたから,それに対して「コノヤロー」ってのはあったかもしれないけど.

軍事板,2008/01/21(月)
青文字:加筆改修部分

1941.5.30時点のハンガリー軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問】
 ハンガリー軍の師団の種類を教えてください.

 【回答】

 1941年6月時点のハンガリー陸軍編成
歩兵師団:8
予備師団:8
戦車師団:2
騎兵師団:1

軍事板,2007/11/04(日)
青文字:加筆改修部分

 41年12月時点;

・機動軍団
 2個自動車化旅団(各3個自動車連隊),2個騎兵旅団(各2個騎兵連隊)で編成.
 定数24,000名.
 東部戦線には1個騎兵旅団のみ派遣.

・第1装甲師団(編成中)
 38(t)軽戦車108両
 短砲身Ⅳ号戦車22両
 Ⅰ号指揮戦車2両

・一線級歩兵師団(第1,2,4~27)
 但し第2,4,11,14~18,22,24~27師団は基幹人員のみ.

・二線級歩兵師団(第102,105,108,121,124)
 後方警備用保安師団.
 全師団東部戦線投入 .

軍事板,2007/12/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のハンガリー第1軍について教えてください.

 【回答】
 1940/4/1,ホルティは来るべきソ連との戦いに備え,3個野戦軍を編成しましたが,大戦勃発時には第1軍は,これといった戦闘には投入されませんでした.
 同年8/30,ヴィルモシュ・ナジ Vilmos Nagy 中将指揮下の第1軍は,当時ルーマニア領にされていたトランシルバニアを占領して,ハンガリーに併合した以外,1944年半ばまで,殆ど戦闘に投入されませんでしたが,1944/4/30,南ウクライナの枢軸軍集団を支えるために派遣されました.
 1944/12/28,ミクローシュ政権が対ドイツ宣戦布告すると,ハンガリー第1軍は,親ドイツ側と親ソ側とに分かれて戦うことになり,さらに1945/1/1~2/16までにハンガリー第1軍の主力は,ブダペシュト北方200kmのところでソ連第40軍に蹂躙されて壊滅しました.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/4/14 21:40


 【質問】
 WW2のハンガリー第2軍について教えてください.

 【回答】
 第2軍 2. magyar hadsereg は,3個軍存在したハンガリー陸軍の中で,開戦当初装備最優良の部隊.
 当時ハンガリー唯一の機甲部隊「快速軍団」を有していた.

 ハンガリーが対ソ宣戦布告するや,ドイツ第17軍支援のため,東部戦線へ3万人が派遣された.
 ハンガリーは,1941.6.27に対ソ宣戦布告すると,当初派遣したのは陸軍最高司令部直轄の機甲部隊,第1快速軍団(と言っても師団規模)を中心とした3万人.
 ドイツ第17軍支援のため,▲7月にはネメツ・ポリスキイ,8月にはニコラエフ,その後,ニコポリ,ドニェプロペトロフスクと転戦し,10月にはドニエプル川を渡河.
 その間,著しく消耗.
▼ 器材の8割を失い,帰国した.

 1942年夏の攻勢に当たっては,ヒトラーの要請により,15万人を増派.
 だが,ドイツ軍は1941年の冬季戦で莫大な損害を被り,それらをイタリア,ハンガリー,ルーマニアなどの同盟軍によって補填する必要が生じた.
 このためヒトラーはハンガリーに圧力をかけ,やむなく東部戦線に派遣されることになったのが,この第2軍.
 1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍率いる20万7千人がソ連へ入った.▲

 後方担当とすることと兵器供与がヒトラーから約束されていたが,どちらも空手形で,まず,コーカサス方面の攻勢に参加.
▼ 1942.6.28,ハンガリー第2軍はドイツ第2軍と共に「ブラウ作戦」に投入され,9月中旬にはヴォロネジ南方においてドン河に到達.
 1942.4.24~10.1の間,ハンガリー軍は全体の15%に当たる将校1,100名,兵士29,000名を失った.
 補給はドイツ軍が自軍を優先したため,ハンガリー軍へのそれは滞りがちであり,燃料,弾薬,食糧,被服,いずれも不足気味だった.▲

 その作戦が中止されると,スターリングラード攻防戦においてドン川沿いの側面を守備▼していたが,1943.1.12,ヴォロネジ戦線においてソ連軍は攻撃を開始.
 1943年1月,ヴォロネジにおいて捕捉され,当時の兵力20万のうち,戦死者9000,負傷者16500,捕虜・行方不明者8万人以上.
 ウリフに展開していたハンガリー第20軽師団は,ソ連軍第40軍の主攻勢を受けて前線を蹂躙された.
 また,スヴォボダ付近からはソ連第18狙撃兵軍団が出撃して,ハンガリー第10,第12軽師団の前線を突破.
 ハンガリー軍は60km後方のアレクセイエフカまで撤退し,ドイツ軍予備部隊,イタリア軍残存部隊などと共に防衛線を展開した.
 さらにハンガリー軍の残余は,前線から120km後方のオスコル河まで辛うじて撤退し,そこで薄い防衛線を構築することに成功した.

 この1.12~2.26の間の戦闘で,ハンガリー第2軍は経験豊かな将校多数を含む
戦死8,718
負傷16,497
行方不明77,288
捕虜2,582
という人的被害を受け,また,装備喪失は
小銃110,000
拳銃32,000
短機関銃3,500
機関銃2,900
迫撃砲400
対戦車銃460
野砲250
榴弾砲130
対空砲110
オートバイ1,000
乗用車1,600
トラック4,000
装甲車輌190
馬匹56,000
荷馬車16,000
フィールドキッチン530
その他に達し,事実上壊滅した.
 経験豊かな将校の多数,重火器の70%以上を失って壊滅し,
 このため,占領地の治安維持要員を残し,▲生き残った将兵は5.24までにハンガリー本国へ帰還した.

 1944年夏までにソ連軍はハンガリー国境まで押し寄せ,また,ルーマニアやブルガリアが寝返って対枢軸国宣戦布告した.
 1944.8.30,ハンガリーは第3軍を動員すると共に,再建された第2軍をも動員した.
 しかし,そのどちらも予備役兵から成り,装備も不足した,弱体な部隊となっていた.

 第2軍はドイツ軍フレッター・ピコ軍集団の指揮下に入り,10.24までデブレツェンにて戦闘参加した.
 そこで枢軸軍は善戦したが,第2軍は大きく戦力消耗して,12.1に第3軍と交代.
 事実上,第2軍は消滅した.

 ちなみにハンガリー公使・大久保利隆は,1941.12.14,消耗した部隊の帰還式典に招待され,ブダペシュトの英雄広場においてこれを謁見している.
 そのときの彼の印象.

------------
 ハンガリーの大部隊がトラックに乗って帰ってきたが,トラックは相当破損し,兵士は疲労の極みにあるように見受けられ,東部戦線の惨状を如実に物語るものであった.
 私は思った,東部戦線の実情は我々の想像以上のものであるということを.

 私は独ソ戦は相当の長期戦になると感じた.
 そして最悪の場合,ナポレオンのモスコウ敗退のようなことにはならないにしても,到底勝ち目はないと考え始めた.

------------下掲書,p.280

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.95,112-114,119-120,130-135,151-153,159-160,280
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
https://hu.wikipedia.org/wiki/2._magyar_hadsereg
http://www.hungarianhistory.com/lib/thou/thou15.htm
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.96-101

第2軍の編制(1942.7.1)
(こちらより引用)

mixi,2016.5.24


 【質問】
 WW2のハンガリー第3軍について教えてください.

 【回答】
 1940.3.1,第3~5軍団をもって編成.
 1941.4.5,ドイツ軍支援のためユーゴスラヴィアに侵攻,ユーゴスラヴィア第1軍と対峙したが,このときは損害も軽微で済んだ.
 1944.3.25~4.15にカメネツ=ポドリスキー包囲戦に投入された第7軍団が,8月,第6軍に編入さる.
 1944.8.30,本土防衛のため,第2軍と第3軍を動員.トランシルヴァニアのマロシュ渓谷とアラドとを横断し,山道を占領しようとしたが失敗.
 1944.10.6,デブレツェンの戦いの序盤,アラド近郊において大打撃を蒙り,ケチケメート近くで潰走.
 1944.12.29より,ブダペシュト攻防戦に投入さる.
 1945.3.16~3.25,第3軍の残余の殆どが,ブダペシュト西方約40km地点で包囲され,壊滅.
 その生き残りはドイツ軍と共にオーストリアへ移動.
 1945.5.8,正式に降伏した.

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.88-89
https://hu.wikipedia.org/wiki/3._magyar_hadsereg
https://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベレグフィ・カーロイ
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=37579

mixi, 2016.5.20

1941年4月のハンガリー第3軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第1軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar I. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1929年2月1日,第1軍管として編成.
 1938.10.1,第1軍管と第1混成旅団とを合併して第1軍団となる.
 1941.4.1,ユーゴスラヴィア侵攻のための動員開始.
 第1軍団,第5軍団,快速軍団に動員令が発せられた.
 1941.4.7,基幹部隊のみ現役編入.
 第3軍麾下において侵攻作戦参加.
 1941.4.17,作戦終了し,基幹部隊の現役解除.
 (図1)は1941.5.30現在の編制.
 (図2)は1942.2.17,予備兵力化し,戦力を減じていたときの編制.
 この時は第1軍所属だった.
 (図3)は1943.8.10,予備兵力化し,戦力を減じていたときの編制.
 この時は第2軍所属となっていた.
 1944.8,ルーマニアの寝返りにより,基幹部隊状態のまま前線投入.
 1945.2.12,包囲され,陥落したブダペシュトで壊滅した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_01.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_01.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_01.html  ※図3引用元
http://crowland.uw.hu/images/csata/delvidek.html

mixi, 2017.12.25


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第2軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar II. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1929.2.1,第2軍管として創設.
1929.1.2-ben 2. katonai körzetként összetétt.
 1938.10.1,第2軍管と第2混成旅団を合一し,第2軍団創設.
1938.10.1-ben 2. katonai körzet és 2. vegyes brigád összeolvadt , és 2. Hadtestet összetétt.
 1941.4.7~1941.7.17,第3軍所属.
07.04.1941-17.04.1941-ben Harmadik hadsereghez tartozott.
 図1は,1941.5.30当時の編制.
1. dagram a 2.hadtest szervezete volt 30.5.1941-ban.
 図2は,1942.2.17当時の編制である.
2. dagram a 2.hadtest szervezete volt 17.2.1942-ben.
 この当時は第1軍麾下の予備役部隊となっていた.
Abban az időben 2. hadtest a 1.hadsereg alatt a tartalék csapat volt.
 図3は,1943.8.10当時の編制.
3. dagram a 2.hadtest szervezete volt 10.8.1943-ban.
 この当時は第2軍麾下の予備役部隊となっていた.
Abban az időben 2. hadtest a 2.hadsereg alatt a tartalék csapat volt.
 1944.8.19,ルーマニアの寝返りに伴い,基幹部隊のみで現役編入.
 1944.8.30より第2軍所属(~11.12)
30.08.1944-ben 2. hadsereghez tartozott. ( - 12.11)
 同年9.4,トランシルヴァニアにおいてルーマニア軍への攻撃開始.
 1944.11.12~1945.3.19,第3軍に所属して,ブダペシュト攻防戦に参加.
12.11.1944-19.03.1945-ben 3. hadsereghez tartozott és részt vett a Budapest ostroma.
 その後,第2軍団司令部では幾つかの部隊が,バイエルンの Mitterteich, Tirschenreuth 村に陣取り,ミチナイ Michnay 退役大将指揮下に置かれた.
A II. magyar hadtest tágabb törzsét családtagjaikkal, némi legénységgel Németországba telepítették, a bajorországi Mitterteich, Tirschenreuth helységekbe Michnay nyugállományú vezérőrnagy parancsnoksága alatt.
 ルドヴィカ軍学校生徒や消防署員もそこに布陣した.
Ide települtek a Ludovika Akadémia végzős hallgatói és egy tüzérosztály is.
 1945.3.21,米軍がそこに到着.
Az említett helységekbe 1945. március 21-én vonultak be az amerikai csapatok.
 1945.5.8,オーストリア,アスティリアにて降伏した.
8.5.1945ben Ausztria, Stájerországban lemondott.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_02.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_02.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_02.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_02.html ※図3引用元
https://www.szekelyfoldert.info/acta97_regeszet15.html
http://mek.niif.hu/02200/02237/html/f02.htm

mixi, 2017.12.29


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第3軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar III. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1928年10月1日,第3軍管として編成.
1928.10.1-ben III. katonai körzetként összetétt.
 1938年10月1日,第3軍管に第3混成旅団を加えて第3軍団編成.
1938.10.1-ben III. Hadtestet szerveztünk az III. katonai körzet és III. vegyes brigád.
 (図1)は,1941年5月30日時点での第3軍団の編制である.
(Az 1. ábra) a III. hadtest megszervezése 1941.5.30-ben.
 このときは第1軍に所属していた.
Ebben az időben az 1. hadsereghez tartoztam.
 また,(図2)は,1942年2月17日時点での第3軍団の編制.
Szintén, (Az 2. ábra) a III. hadtest megszervezése 1942.2.17-ben.
 このときも第1軍に所属していた.
Ebben az időben is az 1. hadsereghez tartoztam.
 1942年4月10日,基幹部隊のみ動員.
1942.4.10-ben A csak hadtest központja aktivált.
 同日~同年4月30日,ドイツ南方軍集団麾下のハンガリー第2軍所属.
1942.4.10. és 4.30 között Dél Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1942.4.~10の戦闘で,ドン河戦線にて大損害を受ける.
1942 április és október között nagy veszteséget szenvedett a csatában a Don partján.
 同年4月30日~7月7日,ドイツ南方軍集団所属
1942.4.30. és 7.7 között Dél Hadseregcsoporthoz tartozott.
 同年7月7日~7月9日,ドイツB軍集団所属
1942.7.7. és 7.9 között B Hadseregcsoporthoz tartozott.
 同年7日9日~1943年5月,ドイツB軍集団麾下のハンガリー第2軍所属.
1942.7.9. és 1943 május között B Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1943年2月1日,動員解除.
1943.2.1-ben inaktivált.
 同年4月,解隊.
1943 áprilisben feloszlt.
 1943年5月15日,基幹部隊のみ動員.
1943.5.15-ben a csak hadtest központja aktivált.
 1944年8月4日,基幹部隊のみで出動.
1944.8.4-ben a csak hadtest mozgósítottak.
 同年8日4日~8月15日,ドイツ・ラウシュ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.8.4. és 8.15 között Raus Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 (図3)は,1943年8月10日時点での第3軍団の編制である.
(Az 3. ábra) a III. hadtest megszervezése 1943.8.10-ben.
 同年8月15日~10月22日,ドイツ・ハインリキ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.8.15. és 10.22 között Heinrici Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 同年10月23日~12月17日,ドイツ・Wöhler軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.10.23. és 12.17. között Wöhler Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 同年12月18日~1945年2月1日,ドイツ・ハインリキ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.10.23. és 1945.2.1. között Heinrici Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 1945年3月,基幹部隊解隊.
1945 márciusban a csak hadtest megszakított.
 1945年5月,軍管解散.
1945 májusban a katonai körzet feloldott.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_03.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_03.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_03.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_03.html ※図3引用元

mixi, 2018.1.19


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第4軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar IV. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1928年4月1日,第4軍管として編成.
1928.4.1-ben IV. katonai körzetként összetétt.
 1938年10月1日,第4軍管に第4混成旅団を加えて第4軍団編成.
1938.10.1-ben IV. Hadtestet szerveztünk az IV. katonai körzet és IV. vegyes brigád.
 1941.4.3~4.17,第3軍所属.
1941.4.3. és 4.17 között III. magyar hadsereghez tartozott.
 1941年4月5日,基幹部隊のみ動員.
1941.4.5-ben A csak hadtest központja aktivált.
 1941.4.17,動員解除.
1941.4.17-ben az inaktivált.
 (図1)は,1941年5月30日時点での第4軍団の編制である.
(Az 1. ábra) a IV. hadtest megszervezése 1941.5.30-ben.
 このときは第2軍に所属していた.
Ebben az időben az II. hadsereghez tartoztam.
 1942.4.10,基幹部隊のみ動員.
1942.4.10-ben A csak hadtest központja aktivált.
 1942.4.10~4.30,Süd軍集団麾下のほうのハンガリー第2軍所属
1942.4.10. és 4.30 között Süd Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1942.4.~10の戦闘で,ドン河戦線にて大損害を受ける.
1942 április és október között nagy veszteséget szenvedett a csatában a Don partján.
 1942.4.30~7.7,Süd軍集団所属
1942.4.30. és 7.7. között Süd Hadseregcsoporthoz tartozott.
 1942.7.7~7.9,ドイツB軍集団所属
1942.7.7. és 7.9 között B Hadseregcsoporthoz tartozott.
 1942.7.9~1943年5月,ドイツB軍集団麾下のハンガリー第2軍所属.
1942.7.9. és 1943 május között B Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1943.2.1,Disbanded.
1943.2.1-ben feloszlott
 1943.5.1,基幹部隊のみ動員.
1943.5.1-ben A csak hadtest központja aktivált.
 (図2)は,1943.8.10時点での第4軍団の編制.
(Az 2. ábra) a IV. hadtest megszervezése 1943.8.10-ben.
 このときは第3軍に所属していた.
Ebben az időben az III. hadsereghez tartoztam.
 1944.8.4,基幹部隊のみで実戦投入.
1944.8.4-ben A csak hadtest központja mozgósított.
 1944.8.4~9.19,第3軍所属.
1944.8.4. és 9.9. között III. magyar hadsereghez tartozott.
 1944.9.19,解隊.
 1944.9.19-ban megszakított.
 1945年,軍管解散.
1945-ben a katonai körzet feloldott.

 【参考ページ Referencia Oldal】
Ungváry Krisztián『Magyarország a második világháborúban』
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_04.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_04.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_04.html ※図2引用元

mixi, 2018.2.6


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第5軍団について教えてください.

 【回答 válasz】
 1925.12.7,第5軍管として編成.
1925.12.7-ben V. katonai körzetként összetétt.
 1938年10月1日,第5軍管に第5混成旅団を加えて第5軍団編成.
1938.10.1-ben V. Hadtestet szerveztünk az V. katonai körzet és V. vegyes brigád.
 1941.4.3~4.17,第3軍所属.
1941.4.3. és 4.17 között III. hadsereghez tartozott.
 1941年4月5日,ユーゴスラビア侵攻のため,基幹部隊のみ動員.
1941.4.5-ben Azért a csak hadtest központja aktivált, hogy Jugoszláviába törjenek be.
 1941.4.17,作戦終了により動員解除.
1941.4.17-ben az inaktivált a stratégia vége felé.
 (図1)は,1941年5月30日時点での第5軍団の編制である.
(Az 1. ábra) a V. hadtest megszervezése 1941.5.30-ben.
 このときは第2軍に所属していた.
Ebben az időben az II. hadsereghez tartoztam.
 (図2)は,1942.2.17時点での第5軍団の編制.
(Az 2. ábra) a V. hadtest megszervezése 1942.2.17-ben.
 このときも第2軍に所属していた.
Ebben az időben is az III. hadsereghez tartoztam.
 1944.6.1,解散..
1944.6.1-ben feloszlott.
 1944.8.4,基幹部隊のみ編成.
1944.8.4-ben A csak hadtest központját szerveztünk.
 1944.8.4~1944.8.15,ドイツ・ラウシュ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.8.4. és 8.15 között Raus Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 (図3)は,1943.8.10時点での第5軍団の編制.
(Az 3. ábra) a V. hadtest megszervezése 1943.8.10-ben.
 このときは第3軍エリアに存在していた.
Ebben az időben létezett az III. hadsereg területen.
 1944.8.15~10.20,ドイツ・ハインリキ軍所属.
1944.8.15. és 10.20 között Heinrici Armeegruppehez tartozott.
 1944.9.1,基幹部隊のみ動員.
1944.9.1-ben a csak hadtest központja aktivált.
 1944.10.20~10.23,ドイツA軍集団所属.
1944.10.20 és 10.23 között A Hadseregcsoporthoz tartozott.
 1944.10.23~12.17,ドイツ・Wöhler軍所属.
1944.8.15. és 12.17 között Wöhler Armeegruppehez tartozott.
 1944.12.18~1945.2.1,ドイツ・ハインリキ軍麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.12.18. és 1945.2.1. között Heinrici Armeegruppe, I. magyar hadsereghez tartozott.
 1945.2.1~5月,ドイツ・ミッテ軍集団所属.
1944.12.18. és május között Heinrici Heeresgruppehez tartozott.
 1945年5月,オーストリアにて降伏.
1945 májusban átadták Ausztriában

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_05.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_05.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_05.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_05.html ※図3引用元l
http://www.niehorster.org/015_hungary/41_oob/41-04-09/_army_03.htm

mixi, 2018.2.15


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az királyi 1. honvéd lovashadosztály a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 第1騎兵師団は1942.10.1,快速軍団の第1・第2騎兵旅団を基幹として創設された.
 両旅団は第2~第4フサール連隊に再編され,戦車大隊,野戦砲大隊,対空砲大隊,装甲車部隊,自転車部隊が師団に編入された.
 また,対戦車能力向上のため,ドイツ製の7.5cm PaK 40戦車砲やパンツァーファウストも配備された.
 師団指揮官は "勇敢なる" ヴァッタイ・アンタル vitéz Antal Vattay 少将.
 1943年上旬までに装備は完全充足し,師団の各部隊は必要な訓練を受けた.

 単独講和の道を模索していたハンガリーは1944.3.22,マルガレーテI作戦によってドイツに占領される.
 ドイツは親独派のストーヤイ内閣をハンガリーに立てると,第1騎兵師団などの兵力出動をハンガリーに要求した.
 このとき第1騎兵師団の兵力は
士官607名,
兵士16.639名,
馬10.889頭
馬車1201台
車輌778台.
 また,第3・第4フサール連隊は
1939年のザカルパチア地方占領
19414月のユーゴスラビア占領,
1941年夏のバルバロッサ作戦
に参加した歴戦の部隊.
 他の部隊にもベテラン兵士が多く配属され,当時ハンガリー随一のエリート部隊だった.

 1944.5.3,移動命令.
 ドイツとの約束では,第1騎兵師団はハンガリー第1軍の指揮下に入ることになっていた.
 だが,約束は果たされず,第1騎兵師団は Pinsk Marshesに配備された.
 同地は騎兵が真価を発揮して戦うことができるような場所ではなかった.
 師団最後の部隊は1944.6.21,ルニネツ Luninets に到着したが,師団の最初の任務は,ルニネツ周辺の森に潜むパルチザン部隊との戦闘だった.
 当時,その地域には,装備の良い1万~1万3千人のパルチザンがいた.

 7月には,師団はあちこち場所を変えながら,最終的には Kletsk を守備した.
 同地は,Babrujskにてドイツ軍の戦線を突破したソ連軍戦車部隊に対し,ヴァッタイ少将の反対にもかかわらず,ドイツ軍が移動を命じた地だった.
 ピンスク湿地を通る枢軸軍の撤退の間,ハンガリー軍部隊はドイツ軍ユニットの後衛についた.
 湿地には幾つか道路が通っているだけで,ハンガリー軍はソ連軍戦車や航空機からの攻撃により,この後退戦で大きな損害を受けた.
 これらの攻撃に対して非常に脆弱だった.
 湿地帯には追いつくことができるような場所は殆ど無かったが,ドイツ軍はしばしば,そういう場所を独り占めにした.
 ドイツ軍は彼ら自身の迅速な後退のため,ハンガリー軍を道路から追い出し,ハンガリー軍だけが後衛としてソ連軍の攻撃に晒された.
 ある時,ハンガリー軍の将校がドイツ軍の将軍に反抗してドイツ軍を通さなかった.
 その数時間後,ドイツ空軍のBf-109戦闘機がハンガリー軍の列に「誤って」機銃掃射し,数多くの兵士が死亡した.

 7月の間中,第1騎兵師団は1日も休まず戦い,ドイツ軍の後衛を務め,たびたび包囲された.
 彼らは馬を失い,歩兵となるか,略奪した馬車で移動した.
 ヴァッティ少将は,ドイツ軍との関係が悪化したため,更迭されたが,その時は一時的な休息となった.
 部隊に新指揮官が来るまでは Schell Zoltán 大佐が式を代行した.

 7月末,師団はブグ Bug 川において激しい防衛戦を行い,中でも Łosice ~ Mordy 間における第3フサール連隊は英雄的戦闘により,包囲されていたドイツ第20軍団を救出した.

 東部戦線において戦力を消耗した第1騎兵師団は8月,ワルシャワへ後退して戦力の補充と再編成を行った.
 戦闘により,第1・第2騎砲兵大隊は火砲を喪失していたため,第1大隊は37.M榴弾砲を,第2大隊は05/08.M榴弾砲を受領した.
 05/08.Mという制式年数が示す通り,後者は第一次大戦時代の中古である.

 だが,再編の最中,ワルシャワで反乱が起こる.
 師団はワルシャワの東に配置され,騎兵部隊としては不本意な戦闘,すなわち塹壕戦にてロシア軍を迎え撃った.
 反乱鎮圧に投入されたハンガリー軍部隊もあったと聞くので,それは騎兵師団の一部だったのかもしれない.
 もっとも,その部隊はポーランド人に同情的で,こっそり武器や医薬品を渡すなどしたため,すぐに鎮圧任務を解かれたという.

 1944年9月までに,師団の戦車大隊は戦車を全喪失した.
 戦車を失った戦車搭乗員はドイツに送られ,パンサー戦車の操縦訓練を受けた.
 ドイツは,彼ら搭乗員をパンサー戦車と共にハンガリーに戻すと約束していたが,いつものごとく,その約束は実行されず,彼らは戦車無しで戻り,歩兵として戦うこととなった.

 1944.10.2,第1騎兵師団は第1フサール師団と改名するが,その後の話は別項目に譲る.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の装甲車大隊のエンブレム

第1騎兵師団の車輌;
トルディII軽戦車 42.M Toldi II könnyűharckocsi
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
上記画像のエンブレムを確認できる
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団の戦闘序列は?
Mi az királyi 1. honvéd lovashadosztály harcrenda volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
・1944年6月の戦闘序列(書類上のもの)

第2フサール連隊 2. huszárezred-parancsnoksága 「アールパード王子 Árpád fejedelem」
第3フサール連隊 3. huszárezred-parancsnoksága 「ナーダシュディ・フェレンツ伯爵 Gróf Nádasdy Ferenc」
第4フサール連隊 4. huszárezred-parancsnoksága
第15自転車大隊 15. kerékpáros zászlóalj
第1独立装甲車大隊 1. lovas-harckocsi zászlóalj
第3偵察大隊  3. felderítő zászlóalj
第1騎砲兵大隊 1. lovastüzér-osztály
第3自動車化砲兵大隊  3. gépvontatású tüzérosztály
第55対空砲大隊 55. légvédelmi tüzérosztály
第4自動車化戦闘工兵中隊 4. gépkocsizó utászszázad és hadihíd-oszlop
第1騎兵通信大隊 1. lovas-híradó század
鉄道輸送本部  hadosztályvonat-parancsnokság

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の車輌;
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
「ニムロード」自走砲 40.M Nimród önjáró gépágyú
「チャバ」装甲車 39.M Csaba páncélautó
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵部隊の軍装は?
Milyen gépek magyar honvédségi lovasság volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 基本的には歩兵と同じだったが,幾つかフサールに特徴的な衣装も有していた.

 この写真は,ハンガリー軍騎兵部隊の軍曹.
こちらより引用)
 1942年以前のもので,おそらくはバルバロッサ作戦時のもの.
 歩兵と同じヘルメットを被っている.
 当時,もはや騎兵は帯剣しておらず,手榴弾や即席の爆雷をもって対戦車戦闘をしばしば強いられた.
 彼らは,エンジンや走行中の戦車の手前の轍,あるいはソ連軍戦車兵が不注意にも開けっ放しにしたハッチの中に,それら爆発物を投げ込んだ.

 ハンガリー軍騎兵固有の軍装としては,フサール・マント huszár mente がある.
 これは騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった.
 正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした.
こちらより引用)

 また,フサール・ブーツ Huszár csizma が騎兵部隊には使われた.
 41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった.
こちらより引用)

 騎兵ベルトも通常の陸軍用ベルトとは異なり,背中側にストラップがあった.
 このストラップで騎兵銃を支えることができた.

 将校の正装としては,伝統的なアッティラ服があった.
 アッティラ服については別項を参照されたし.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warrelics.eu/forum/imperial-germany-austro-hungary/husaren-interim-attila-tunic-24927/
http://rendormuzeum.com/gyujtemenyek
http://www.energy.hu/en/uniform-gallery/2016-10-28-11-48-32.html
http://live.warthunder.com/post/409199/en/
http://live.warthunder.com/post/472294/en/

2017.4.17


 【質問 kérdés】
 騎兵ズボンとは?
Mi az lovaglónadrág?

 【回答 válasz】
 25.Mブーツ用ズボン 25.M csizmanadrág とも呼ばれるもので,高級なブーツを履く将兵,騎兵,戦車兵,オートバイ兵,パイロットなどが着用した.
 陸軍と空軍で使われたが,水軍では使われなかった.
 脚部のボタンは平らなものが使われており,ブーツの中にしまい込んだ時に不快にならないようになっていた.
 色はフィールド・ブラウンだが,1943年以降,夏用として,綾織の緑色のものもあり,これは訓練や経営,労務,非番時に着用された.
 さらに,白色のものがあり,これは将校や将軍が夏に着用するものだった.
 タイツとお尻との間に厚手の皮を縫い付け,サドルに乗っている間に弾力を増すように改造されているものもあった.
 将軍クラスの人物の騎兵ズボンには,両脇に2本の緋色ののスリップがついていて,将軍以外のものと識別出来た.
 ただし,夏用の白色ズボンには,緋色のスリップはつかなかった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400755/en/
http://mek.oszk.hu/04900/04967/html/
https://deckersmilitaria.wordpress.com/letoltesek/

25.M騎兵ズボン
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.8


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵の刀剣は?
Milyen magyar lovassági kardok voltak a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 主に以下のようなものがあった.

1904.M志願兵用騎兵剣 lovas legénységi kard
 騎兵が使用.
 戦闘や儀典において使われたが,それは1942年までで,それ以後は騎兵剣は廃止され,銃剣にとってかわられた.

1904.M 騎兵用栄誉サーベル 1904.M lovas altiszti kard
 将校が戦闘や儀典において使用した.
 しかし1942年以降は,使用は儀典のみに限定された.

▼・剣のフリンジ(刀緒)
 銃剣導入以前の騎兵科において使われた.
 「聖なる王冠」の飾りは無し.
 こちらの写真は,フリンジの装着方法を示す.▲

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真引用元
http://huszarok.nadasdymuzeum.hu/targy.php?targy=3056&fajta=12&keres=165
http://www.roncskutatas.hu/node/5337
http://live.warthunder.com/post/409353/en/ ※フリンジ写真引用元
http://www.roncskutatas.hu/node/12449 ※フリンジ写真引用元

2017.4.22
2017.4.27追記 utóirat


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1フサール師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az Honvéd 1. Huszár osztály.

 【回答 válasz】
 第1フサール師団は1944.10.2,第1騎兵師団を改編して誕生した.
 摂政ホルティは,ウクライナとポーランドにおける英雄的な戦いを称え,第1騎兵師団を第1フサール師団と改名した.
 フサールは名誉称号だった.

 フサール師団は10月初旬にハンガリーに戻り,南部ハンガリーとデブレツェンでの激戦に投入された.
 次いでフサール師団はブダペシュトに撤退.
 ブダペシュト包囲により,師団の大部分も市街戦で壊滅した.
 残存部隊は徒歩でチャローケズ Csallóköz (現在のŽitnýostrov、スロバキア)に撤退.
 1945年1月,「コンラート」III作戦に参加した.
 フサール師団残余はヴェールテシュ Vértes の丘の東部を占領.
 3月にソ連軍の大規模攻勢が始まるまで,そこを保持した.
 この攻勢に対し,残存部隊は防戦しながらオーストリア方面へ後退.
 1945.3.29,将兵7200人,馬2500頭がハンガリーから脱出した.

 終戦時,フサール師団はリンツにまで後退していたが,第2~第4騎兵連隊など師団主力は,オーストリアのスティリアにて米軍に降伏.
 その他はソ連軍に降伏したという.

・歴代指揮官;
イバーニ・ミハーイ Ibrányi Mihály 少将 (1944.8.1~1944.11.4)
マカイ・アッティラ Makay Attila 大佐(1944.11.4~1944.11.13) ※指揮官代理
シェル・ゾルターン Schell Zoltán 大佐 (1944.11.13~1945.4)

・1944年12月の戦闘序列(書類上のもの)
 第1騎兵師団の序列に加え,以下の部隊が追加されている.

第7砲兵大隊
第73砲兵大隊
第82砲兵大隊
第4自動車化砲兵大隊
第2独立工兵大隊

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386

フサール・マント huszár mente
騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった
正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした
こちらより引用)

フサール・ブーツ Huszár csizma
騎兵部隊によって使われた
41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった
こちらより引用)

2017.4.3


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍空挺部隊について簡単に教えてください.

 【回答 válasz】
 トリアノン条約で軍備を制限されていたハンガリーは,1938年に再軍備を宣言すると,同年夏,ブダペシュトのマリア・テレジア兵舎の一室においてパラシュート実験隊を創設した.
 マリア・テレジア兵舎は後にキリアーン兵舎と改名され,1956年ハンガリー革命(ハンガリー動乱)の主要な舞台の一つとなる.

 初代隊長はベルタラン・アールパード Bertalan Árpád 大尉.
肖像写真--wikipediaより引用)
 1898年,ボジョニイ Pozsony (現ブラチスラバ Bratislava )生まれの彼は,マリア・テレジア勲章や騎士十字章を受勲したことのある,第一次大戦の英雄だった.
 ついた綽名が「ヴィテーズ Vitéz (勇気)」

 同年9月11日,落下傘隊はソンバトヘイ Szombathely においてハンガリー軍初のパラシュート降下を行った.
 とはいっても,最初の人数は僅かに彼とその部下の中尉7人.
 すなわち
ベルタラン・アールパード Bertalan Árpád
キシュ・ゾルターン Kiss Zoltán
レーデツィ・ラースロー Lédeczy László
マイトヘーニ・イムレ Majthényi Imre
マートライ・カーロイ Mátray Károly
パタキ・ゲーザ Pataky Géza
ソコライ・ターマシュ Szokolay Tamás
ヴェールテシュ・ベーラ Vértes Béla
の計8人だった.
 輸送機はイタリア製民間機の,中古のカプロニCa.101が2機.
 この機体の前に整列したベルタラン隊長らの写真が残っている.
(写真1枚目;図表番号 faq170214pr,こちらより引用)
 カプロニCa.101は郵便機として20機がハンガリーに輸入され,後に空軍に移管されているから,おそらくこれだろう.
 また,パラシュートは様々な国からの輸入だった.
 上掲写真では,左からハンガリーのHehsパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュート,イギリスのIrvinパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュートの別のタイプ,そしてIrvinパラシュートを装備しているのが分かる.
 その数も不足していたが,予算の都合上,追加輸入することはできず,国産化を図るしかなかった.

 しかしその年のうちに,パラシュートを自国で生産できるようになり,航空機も,イタリア製はイタリア製でも新鋭の輸送機サヴォイア・マルケティSM75に更新された.
 2枚目の写真はSM75と空挺隊員.
((図表番号 faq170214pr2,こちらより引用)
 想像するに,訓練内容もイタリア軍空挺部隊と同じものだったに違いない.
 であれば,降下スタイルは両手足を広げる「アンジェロ Angelo (天使)」スタイルであっただろう.
 部隊は大隊となり,全員志願兵から成る精鋭が集められた.
 1939年,ベルタランは少佐に昇進.
 1940年8月に編成は完結.
 11/1,空軍指揮下となった.

 空挺部隊の初の実戦参加は1941年のことだった.
 ハンガリーはドイツから圧力をかけられ,やむなくドイツ軍と共にユーゴスラヴィアへ侵攻.
 空挺大隊はユーゴ軍の背後に降下し,Újverbász (現Verbász)近くにある,フランツ・ヨーゼフ運河の2つの重要な橋を奪取するよう命じられた.
 空挺戦術において古典的な「縦の包囲」である.

 4.13夜明けに輸送機は発進.
 作戦は当たり,ハンガリー軍は30km前進することに成功した.
 しかし,手放しでは喜べなかった.
 離陸中に輸送機1機が墜落.
 ベルタラン少佐らが死亡したからである.

 後任の指揮官スジ・ゾルターン Szügyi Zoltán (1896~1967)大佐は,第一次大戦では黄金勲章を授与された,やはり武勲に輝く人物だった.
肖像写真――wikipediaより)
 独ソ戦が始まると,彼は1942~43年,少数の部下と共に軍事顧問として東部戦線へ派遣された.

 1943年になると,空挺大隊はバコニ山において「R」計画のための訓練を始めた.
 これはルーマニアが寝返ることを想定して,南部トランシルヴァニアに侵攻するという計画だった.

▼ 写真3枚目は記念の集合写真.
((図表番号 faq170214pr3,こちらより引用)

 4枚目はドイツ式パラシュートへ転換訓練中の空挺部隊.
 1944年.
 彼らはFallschirmjägerヘルメットを被っているが,これは訓練期間中だけだった.
(図表番号 faq190719pr,こちらより引用)▲

 1944年8月,ルーマニアは実際に枢軸陣営から離脱した.
 「R」作戦は少なくとも部分的には発令された.
 しかし作戦実施は遅れ,9月に実際に陸軍が動き出した時には時すでに遅し.
 ルーマニア軍とソ連軍はハンガリー国境に迫っていた.
 空挺大隊はカルパチア山脈に派遣され,祖国防衛の任に当たった.
 カルパチアの防衛ラインが突破されると,陸軍空軍の残存部隊を集めて空挺部隊(今や連隊だった)を基幹とするセント・ラースロー師団が編成され,スジ大佐が師団長となった.
 その名はラースロー1世(1040~1095)にちなむものであった.
 この王はクロアチアやダルマチアを支配下に置き,法を整備し,文化を発展させ,「聖王」と称えられる人物であり,その名を通して祖国愛に訴えようといたのだろう.

<初期の編制>
Szt.László Division Headquarters 師団司令部
1st (Parachute) Regiment 第1(パラシュート)連隊
2nd (Infantry) Regiment 第2(歩兵)連隊
3rd (Air Force) Regiment 第3(空軍)連隊
1st Artillery Battalion 第1砲兵大隊
6th Artillery Battalion (motorized) 第6砲兵大隊(自動車化)
9th Artillery Battalion 第9砲兵大隊
76th Artillery Battalion 第76砲兵大隊
1st Rocket Launcher Battalion 第1ロケット・ランチャー大隊
20th Assault Gun Battalion 第20突撃砲大隊
Szt. László Combat Engineer Battalion (motorized) セント・ラースロー戦闘工兵大隊(自動車化)
Szt. László Armored Reconnaissance Battalion セント・ラースロー装甲偵察大隊
Szt. Lászlo Signal Battalion (motorized) セント・ラースロー通信大隊(自動車化)
Szt. Lászlo Divisional Service Headquarters 兵站本部

 師団はブダペシュト周辺防衛線の「火消し役」に投入された.
 戦線が敵に突破されて穴が開くと,それを塞ぐために空挺連隊が投入された.

 この戦いと,それに続くブダペシュト包囲戦において,空挺連隊は精鋭の名に恥じぬ戦いを見せた.
 しかしブダペシュトは陥落し,師団は大きな損害を受けた.

 その後,クロアチア北部やオーストリア南部へ転戦し,ウィーン攻防戦に参加.
 終戦により,英軍に降伏したが,ユーゴスラビアの治安情勢を鑑みた英軍は,彼らを直ちには武装解除をせず,その後武装解除されると,所属将兵はドイツとオーストリアに位置した捕虜収容所に送られた.
 ソ連軍に引き渡されなかったのは幸運と言えよう.

 スジ少将(終戦時)は1948.2.23,「戦争犯罪」により10年の刑を宣告され,1949.11.28,国家評議会はそれを終身刑に変更した.
 1956年ハンガリー革命の際に釈放されるが,ソ連軍によって革命が弾圧されるや,彼は再び投獄.
 1957年秋に漸く釈放され,未熟練労働者としてその後を過ごした.
 1967年,ブダペシュトにて死去.
 冷戦終結後の1994年,最高裁は彼の無罪を宣告した.

 今日,ハンガリー国防軍第2特殊作戦連隊は「ベルタラン・アールパード」の名を冠している.

 【参考ページ】
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=100763
http://www.ww2f.com/topic/15799-the-death-heads-hungarys-airborne-forces-1938-1945/
http://www.wwpd.net/2016/01/bolt-action-hungarian-paratroopers-who.html
吉川和篤他『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006)
http://www.austro-hungarian-army.co.uk/biog/bertalan.html
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
http://cultura.hu/aktualis/a-magyar-katonai-ejtoernyozes-megalapitoja/
http://airbase.blog.hu/2013/04/12/_az_ornagy_ur_meg_bent_van_mentsuk_meg
http://www.honvedelem.hu/cikk/37395_tisztelges_a_magyar_katonai_ejtoernyozes_megteremtoje_elott
http://www.vitezirend.co.hu/CV & Award/vszugyi_zoltan_vorgy.htm
https://karpataljalap.net/?q=2006/09/15/magyar-emlekek-tatar-hagon
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_laszlo.html

夏用冬用の降下服
ハンガリー軍空挺部隊は専用のオーバーオールを装備していた
それ以外の服装は,歩兵と同じ
上掲写真や冬用降下服の写真では,リネンのヘッドギアを被っているが,これは降下時のみ使用された
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=sFGpYEOOJTc&t=16s

mixi, 2017.2.14


 【質問 kérdés】
 セーケイ人国境警備隊について教えてください.
Kérem, mondja meg az székely határőrség?

 【回答 válasz】
 セーケイ人はハンガリー系少数民族であり,ハンガリー語族である.
A székelyek magyar tudatú és magyar nyelvű népcsoport.
 現在はルーマニア領である,トランシルバニア東部のセーケイ地方に住んでいる.
 先祖はフン族であるとも,アヴァール人であるとも,はたまたスキタイ人であるとも言われているが,本当のところはとんと見当がつかぬ.
 記録によると,12世紀には既にイシュトヴァーン二世の下でハンガリー兵として戦っていたという.

 国の端のほうに住んでいるものだから,代々,国境警備の義務を課された.
 オスマン帝国が侵入してきた時など,何度戦ったか数え切れぬ.
 中でもクマン人との戦いの激しさは,伝説に残ったほどだ.

 近代になったら義務は外れるかと思ったが,そうはいかぬ.
 かえって大隊だの旅団だのといった組織に,民族丸ごと組み込まれることになった.

 国境警備隊は平時は内務省に属した.
 関税の取り立てや出入国管理が主な仕事である.
 戦時には軍のほうに移る仕組みだった.

 第二次大戦前夜,セーケイ人国境警備隊は27個大隊を数えた.
 独ソ戦が始まると,国境警備隊の一部も快速軍団と一緒に東部戦線へ送られた.
 後方警備のためである.
 そこで散々な思いをした.

 1944年になると,ルーマニア軍が寝返った.
 国境警備隊も国境防衛をせねばならぬ.
 ところが,第一次大戦が終わって,トランシルバニアがルーマニアへ持っていかれているものだから,大変である.
 山脈という天然自然の防衛拠点がなくなったからだ.

 ある程度寝返りは予想されていたようで,1942年中には郷土防衛隊のようなものが作られた.
 地元警察や民兵やらを糾合し,民間人には4週間分の食糧備蓄を要求した.
 ティーン・エイジャーから中年男性までこれに駆り出された.

 けれども現実にルーマニア軍が侵攻してくると,そんなものでは間に合わなかった.
 なにしろ一緒にソ連軍が攻め込んでいる.
 対するに,ニワカごしらえの郷土防衛隊は,練度も士気も低い.
「もうよそう.勝手にするがいい.がりがりはこれぎりご免蒙るよ」
 良くて数日持ちこたえることができただけで,国境は簡単に突破された.
 国境近くに住む民間人も,多くが死んだ.

 そして国境警備隊はどうなったかというと,…今もまだいるのです.

 【参考ページ】
Nigel Thomas & Laszlo Szabo『The Royal Hungarian Army in WW2』(Osprey)
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_szekel.html
http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-5953.html
http://www.hunsor.se/se/szekelypeople.htm
http://www.honvedelem.hu/cikk/43532_kereszthegy

画像左が第17セーケイ国境警備大隊の伍長,1944年10月
カモフラージュ・コートを着用し,31.Mライフルを持っている
画像中央は戦車搭乗員で中尉.42.M戦車兵用制服を着用
画像右は第21国境警備ライフル大隊の曹長.イタリア製のベレッタMAB38短機関銃を持っている.
ベレッタ短機関銃はハンガリー軍の制式兵器ではなかったが,ドイツ軍から供与されたり,1944年以降にルーマニア軍から鹵獲したりした.

(『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)

ルーマニア軍・ソ連軍の侵攻ルート
(こちらより引用)

国境における戦闘:再現映像より
faq170221sk.jpg
faq170221sk2.jpg
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=KxtQZhovibE

mixi, 2017.2.22


 【質問 kérdés】
 WW2ハンガリー軍の山岳旅団について簡潔に教えてください.
Kérem, röviden mondja meg a Magyar Királyi hegyidandárról.

 【回答 válasz】
 1938年2月3日策定の「フバ Huba 計画」において2個山岳旅団創設を計画.
 1939年,第一次ウィーン裁定後,チェコスロヴァキアが崩壊してトランスカルパティアがハンガリーに帰属すると,山岳地帯が国境となったことにより,山岳部隊編成は加速し,同時に山岳地帯に移駐した国境警備隊の山岳部隊化も準備された.
 しかし第二次大戦勃発により山岳部隊の訓練のペースは遅くなり,10月までには中断となった.

 一方で,同年10月1日付をもって,書類上は組織が制定.
 正式名称は「トランスカルパティア第1山岳旅団」となり,それは
・山岳旅団司令部
・山岳大隊×3
・山岳騎兵大隊×3
・山岳フサール中隊×1
・山岳伝令中隊×1
・山岳戦闘工兵中隊×1
・山岳旅団対戦車中隊(オートバイ・装甲車化) 1. hegyidandár páncéltörő ágyús század, motorkerékpáros és páncélgépkocsi szakaszok
・山岳輓馬中隊 1. hegyi vonatcsoport
から成ることになっていた.

 ハンガリーが対ソ参戦すると,第1山岳旅団や山岳歩兵化された国境警備隊猟兵旅団は,いわゆる「カルパティア・グループ」に編入されて国境での戦闘に投入され,さほどの抵抗もなく,同地域のソ連軍を掃討.
 その後,カルパティア・グループはドイツ軍麾下となってウクライナの占領治安維持任務に就いた後,帰国.

 1944年4月,ソ連軍がハンガリー領内に侵入すると,山岳旅団は国境においてこれを迎撃.
 遅滞戦術をとったが,損害も深刻で,10月には第2山岳旅団を解散して,残存人員・装備を第1山岳旅団に移管.
 12月には消耗し尽して,休養・再編成のために戦線後方に下げられたが,定数の半数まで満たしたところで12/20に戦線に投入.
 ヴィスワ川の戦線をソ連軍が突破したため,スロヴァキア東部に配備.

 4/1付で山岳旅団司令部等の残存部隊はオーストリアへ逃れ,SS装甲軍団麾下となり,山岳旅団という単位としての活動は実質的にそこで終了した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://epa.oszk.hu/00000/00018/00015/05illes.htm
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/emlekezes-a-hegyicsapatokra-1999-813A/iii-tudomanyos-konferencia-1999-oktober-1-10-ora-81A0/dr-szabo-peter-ornagy-a-magyar-hegyicsapatok-az-1941-evi-szovjetunio-elleni-hadjaratban-81CF/
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/emlekezes-a-hegyicsapatokra-1999-813A/iii-tudomanyos-konferencia-1999-oktober-1-10-ora-81A0/szabo-zoltan-m-kir-fohadnagy-az-1-es-2-hegyidandar-harcai-194445-ben-81E1/

1枚目:訓練中の山岳猟兵
Magyar hegyivadászok kiképzés közben
(図No. faq210709hd,こちらより引用)

2枚目:山岳砲兵
火砲は分解され,ラバや馬に載せて運搬している.
(図No. faq210709hd2,こちらより引用)

mixi, 2021.7.10


 【質問 kérdés】
 ハンガリー第2装甲師団について教えてください.

 【回答 válasz】
 ハンガリー陸軍唯一の機械化部隊だった快速軍団が1942年10月,第1装甲軍団と改組され,その際に,その下部組織として作られたのが軍団司令部,第1装甲師団,および第2装甲師団.
 3個大隊から成る第3戦車連隊,自動車化歩兵連隊1,装甲偵察大隊・自動車化工兵大隊・自動車化対空大隊各1などから成る.
 ただし生産能力の劣るハンガリーは,ドイツから装甲車輌を輸入してもなお車輌が不足.
 第1装甲師団にそれらは優先配備され,第2装甲師団は後回しとされたが,そのおかげで東部戦線へ派遣されずに済む.
 1943年時点で,戦車大隊は以下の地に駐屯していた.
第3/I戦車大隊:セゲド
第3/II戦車大隊:ケチケメート
第3/III戦車大隊:キシュクンハラシュ Kiskunhalas

 【参考ページ Referencia Oldal】
Mujzer Péter『Hungarian Armored Forces in World War II』(KAGERO, 2017), p.15-16
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/hungary/ww2_hungarian_tanks.php

1枚目:第3戦車連隊所属のニムロード自走砲
同一車輌を別角度からとらえた写真
1944年,ガリツィア
(図No.faq200909tk2,こちらより引用)

2枚目:修理中の第2装甲偵察大隊所属のチャバ装甲車
同一車輌を異なる時間に撮影したもの
1944年には迷彩塗装のないままのチャバが配備されており,写真の車輌には工場でなされた下塗りがまだ残っている
(図No.faq200909tk3,こちらより引用)

3枚目:第2装甲師団所属の車輌群
38/42.M ボトンドBトラックやトルディIIaなどが写っている
(図No.faq200909tk4,こちらより引用)

4枚目:戦車師団の組織編制,1942.2.17の案
(図No.faq200909tk,こちらより引用)

mixi, 2020.9.12


 【質問 kérdés】
 ハンガリー第2装甲師団の戦歴は?
Hadosztály_

 【回答 válasz】
(注意!
 以下の文中の戦車の数については,多くの異説がある.
 師団の記録書類が失われており,推定に頼らざるを得ないためである)

 1944年春,ハンガリー領内にソ連軍が侵入.
 ハンガリー軍は防戦に努め,第2装甲師団も投入される.

 戦闘中,第3戦車連隊は多数の戦車を喪失.
 その補充のため1944年6月,ドイツからティーガー戦車×10,4号戦車H型×12,3号突撃砲G型×10を受領.
 連隊は2個大隊に改編した.
 第3/II大隊にはトルディ,トゥラーンの残存車輌を全て配備.
 ハンガリー国内に当時残存していたトルディIIa×80両のうち,73両がこの大隊に配備された.
 ドイツ製戦車は全て第3/I大隊に配備された.
 第3/1中隊,第3/2中隊はティーガー戦車,
第3/3中隊は4号戦車,
第3/4中隊は3号突撃砲を配備.
 また,1944年9月,補充のためパンター×5,4号戦車×20台が連隊に届き,パンターは第3/2中隊に配備.
 この第3/2中隊はハンガリー人の中では有名な戦車エース,タルツァイ・エルヴィン Tarczay Ervin が指揮した.

 第2装甲師団の第3戦車連隊と第3自動車化歩兵連隊の兵士は,既に東部戦線で戦ったことのあるベテランから成っていた.
 第3自動車化歩兵連隊の兵士はバルバロッサ作戦において第11戦車大隊に所属して,第3/11戦車大隊に随伴して1941年にウクライナで戦っており,この第11戦車大隊は後の1942年に第3/II戦車大隊を形成する第32独立戦車大隊となっていた.
 第3/I戦車大隊の兵士も1942年のソ連軍との戦闘の経験者で,1942年から43年にかけてハンガリー第2軍指揮下で戦った第30戦車連隊の1個大隊を編成していた.
 第3/I戦車大隊の兵士もバルバロッサ作戦に参加しており,ベテラン兵士と見なされていたが,彼らは当時は自転車大隊所属であって戦車戦は未経験だった.

 1942~43年,ハンガリー政府は第3/I戦車大隊に編入する歩兵や国境警備隊兵士の再訓練を始めた.
 当時この部隊はドン河戦線で戦っていたため.
 ハンガリー戦車兵の中では有名なタルツァイ・エルヴィンも,これによって1943.1.1,第23国境警備大隊から第3戦車連隊第3/I戦車大隊に転属になった.
 元からいた第3/I戦車大隊の生き残り達は1943年春に帰国し,新兵が補充された自部隊に直ちに戻り,その新兵達を訓練した.

 1944年3月13日,第2装甲師団の一部の部隊は動員をかけられた.
 カルパチア防衛のため,ハンガリー政府は国境への部隊配備を切望していたのだが,ヒトラーとOKWはその計画に好意的ではなかった.
 1944.3.19,ドイツ軍がハンガリーを占領したことにより,第2装甲師団のカルパチア移動は停止され,1944.3.29に再開された.
 今度は師団全体が動員されたが,これはハンガリー国内で彼らが戦闘するものではないことが明らかになった.

 しかも師団の装備は非常に不足していた.
 第3戦車連隊の保有車輌は
トゥラーン40mm砲搭載型×18,
トゥラーン75mm砲搭載型×14,
トルディ×1,
ニムロード×2,
チャバ×1
にしか届かなかった.
 また,同師団にはトゥラーン40の砲弾がAPHE×20,200発,HE×10,000発,Turán75の砲弾はAPHE×8,800,HE×4,400しかなかった.
 さらに第2装甲師団全体では,81台のオートバイ,35台の車輌,109台のトラック,およびその他の19台の車輌しかなく,戦車牽引車輌もなかった.
 兵士の被服の質は言うまでもなかった.
 第2装甲師団は,物流の供給に関して4つの異なる軍団本部によって管理されていたが,たとえば衣服の30%は第8軍団の管理下にあって,その衣類は標準以下のものだった.
 加えて,重戦車大隊の戦車兵は,1943年9~10月に部隊に配属され,火力訓練と部隊訓練は最後の最後まで行われなかったため,トゥラーン75の十分な訓練を受けていなかった.

 こんな状態であっても,第2装甲師団は第1装甲師団よりも良好な状態にあると言えたが,装備不足を補うため,第1装甲師団も第2装甲師団に幾ばくかの装備を提供する必要があった.
 これで第2装甲師団は完全充足し,ガリツィアに派遣された.
 1944年4月5日~11日,師団の殆どはウクライナ,ストルイとその周辺に駐屯したが,一部部隊(たとえば第3/III戦車大隊と整備部隊など)は動員が遅れた.

 第2装甲師団はウクライナではハンガリー第1軍の指揮下にあり,ドイツの第1装甲軍と第8軍の間の隙間200kmを埋めた.
 当時の師団長はオストビツ・フェレンツ Osztovics Ferenc 大佐.
 彼は後に少将に昇進する.
 参謀長はルゴニ・ヂェルヂRugonyi György大佐.

 1944年4月12日,第2装甲偵察大隊はロシルナRosil’na のルクヴァ Lukva 川の渡河点の確保,およびヤセン=ソロトヴィン=ボロハドチャニ Yasen’-Solotvyn-Bohorodchany 地方の偵察任務を命令さる.
 部隊は4月13日にロジニャチフとクラスネを通過して前進し,ロシルナを占領した.
 ここから計画通り,ソロトヴィンとボホロドチャニに向けて偵察を開始し,大隊はビストリチャ=ソロトヴィンスカ Bystrytsya-Solotvyns’ka 川を渡り,ラスティヴツィ Nadvirna とナスティバーナ Lastivtsi 西方の間でソ連軍部隊と交戦.
 師団はここで初の敗北を喫する.

 4月13~14日,第2装甲偵察大隊は陣地を強化し,ソロトヴィン Solotvyn とズラキィ Zhuraky に橋頭堡を作り,その地域を偵察.
 偵察大隊はズラキィの東にある514高地,モロドキフMolodkiv とヒビズド Hvizd 周辺の高地,およびラスティヴツィ~ボホロドチャニ Lastivtsi- Bohorodchany 間のラインにソ連軍部隊が存在することを報告した.


 4月15日,ドイツの第11軍団がハンガリー第2装甲師団を麾下に置く.
 4月15~17日,第2装甲師団の各部隊は,攻撃を開始するために割り当てられた位置に布陣.
 4月17~18日,師団はナドバーナを首尾よく奪い,その周りの陣地を強化した.
 4月19日から部隊はナドビルナ周辺の都市や村を取り戻し始め,その間に師団の一部がコロミヤに向かって前進し始めた.
 絶え間なく激しい戦いの最中,ハンガリーの第2装甲師団は街の周辺に達し,4月26~27日,他のドイツ軍とハンガリー軍の部隊と共に攻勢を開始したが,ソ連軍の反撃が強力なため,コロミヤを占領できなかった.
 ロシア軍によって攻撃が阻止されたリスナスロビドカ Lisna Slobidka に通じる唯一の主要道路を,主力部隊は進まなければならなかったので,師団は十分に展開することができなかった.

 4月28日から5月1日まで戦線は動かず,双方が現在位置で陣地強化した.
 5月2~3日,ハンガリー軍とドイツ軍はLisna Slobidkaを再び奪おうとしたが,殆ど成功せず.
 1944年5月3日,北ウクライナ方面軍グループの司令官であるオットー・モリッツ・ウォルター将軍がハンガリー第2装甲師団を訪問し,ドイツ軍の戦車をこの部隊に与えることを約束した.
 5月4~6日,ドイツとハンガリーの部隊は戦線を数百メートル前方に押し進めようとしたが,小競り合い以上の戦闘は起こらなかった.
 5月7~12日,第2装甲師団は予備部隊とされてナドビルナとその周辺に戻された.
 これにより,この部隊はドイツ軍第11軍団の直接の指揮下から外れた.

 4月17日~5月3日の戦闘で,第3戦車連隊の戦車18両(トゥラーンおよびトルディ),ニムロード4両,装甲車6両が破壊.
 整備部隊到着が5月になり,車輌部隊は小さな修理しかできなかったため,88台の車両がこの期間に故障し,そのうち6台は完全に故障し,7台は敵の背後に遺棄された.
 合計35台の車両は修理できず,戦車75輌が整備部隊に送られるか,修理のためにハンガリーに後送された.

 一方,ハンガリーとドイツの部隊はロシアの戦車48輌(主にT-34)を破壊し,そのうち27輌は第3戦車連隊の戦果だった.

 彼らは,彼らの戦車砲が射程距離においてT-34に対して不利なことを知っていたので,攻撃時には直ちに発砲し始め,前進のため撃ち続けた.
 絶え間ない砲火が敵を混乱させることを期待してのことである.
 そして40mm戦車砲の有効射程まで敵に接近した.

 しかし,ドイツ提供の兵装で戦車兵が再訓練されたときに,この戦術は変化した.
 この訓練は1944年5月6~14日にナドビルナで行われた.
 残存する全てのトゥラーン&トルディ戦車――おそらく,最前線に到着した第3/III戦車大隊(ただしこれを証明または否定できる文書はない)の戦車を含む――が,第3/II戦車大隊に合流する一方,第3/I大隊は
・ティーガー戦車×10(第1および第2中隊に配備)
・4号H型×12(第3中隊に配備)
・3号突撃砲G型×10(第4中隊に配備)
を受領.
 タイガー戦車は,同地域で戦っていたドイツ軍第503重戦車大隊から譲られた.

 訓練は順調に進んだ.
 ハンガリー軍の戦車兵は呑み込みが早く,また,学習意欲旺盛だった.
 彼らは訓練時間以外でもドイツ人の教官に質問をし続けた.
 短期間ながら88mm戦車砲の射撃訓練も行われ,ドイツ人をして
「ハンガリー人は素晴らしい射撃をする」
と言わしめた.

 訓練後,第3/I戦車大隊は1週間の長期「野戦試験」を実施.
 ティーガー戦車はそれぞれ2輌または3輌の小隊に分かれ, Tovmachyk近郊を防衛しているハンガリーの第24歩兵師団の各大隊の背後に配置された.

 中隊のティーガーは1両が最前線に留まってその地域を偵察し,他の車輌は歩兵大隊本部で待機.
 斥候が何か疑わしいものを報告した時には,ティーガーは集結し,太陽が敵の視界を妨げてくれる午後に,敵に向かって前進した.
 友軍の歩兵哨戒線をティーガーは駆け抜け,地形をうまく利用して,斥候が報告した場所へ奇襲攻撃をかけた.
 このようなやり方で,ハンガリー軍のティーガーはT-34を3~4輌,多数のバンカーや戦車砲や弾薬輸送車を撃破した.
 最優秀のハンガリー軍戦車兵に,ドイツ軍は鉄十字章を与えた一方,ソ連軍は宣伝用スピーカーを通じ,いわゆる「灰色のオーバーオール」でそうした戦車兵を脅迫した.

 この間,指揮官の交代があった.
 1944年5月15日,オストヴィツ Osztovics 少将はハンガリーに呼び戻され,1944年6月1日までルゴニ Rugonyi 少佐が指揮を執った.
 その後, ヂェデーニ・ゾルターン Zsedényi Zoltán大佐――後に少将に昇進――が指揮をを引き継いだ.

 その後ほぼ2か月間,ハンガリー第1軍の前線は平穏だった.
 祖国での戦いは続いていたが,戦線は実際には動かなかった.
 状況は第一次世界大戦の塹壕戦に類似し始めていた.

 だが1944年7月13日,ロシア人はリボフ=サンドミエルツ Lvov–Sandomierz 攻勢を開始.
 この作戦の影響がハンガリー軍に及んだのは7月23日となり,ロシア軍の攻勢がスタニスラウ市――現在の Ivano-Frankivsk ――を脅かし始めた.
 そこは撤退上の重要地点だった.
 この日,ハンガリーの第2装甲師団(2個大隊に減らされている)が街の周りに再配置され,その周りに防御陣地を置いた.
 師団はこの地域のドイツ軍とハンガリー軍の部隊が安全に避難するに足る十分な時間を,ソ連軍に対して稼ぐことに成功した.

 ハンガリー第1軍はカルパティア山脈に後退し始め,同地でフニャディ・ライン(カルパティア山脈の東斜面にある,アルパード・ラインに繋がる要塞線,カルパティア山脈のもう一方の側はセント・ラースロー・ラインと呼ばれた)で防御態勢を取り始めた.
 この状況ではハンガリーの第2装甲師団は必要ではなかった.

 だがハンガリーのティーガーは,後退戦の中,後衛として彼らができることをもう一度示した.
 Starunya近郊の514高地において,ハンガリーのティーガーは敵戦車僅か20分の間に14両を破壊し,さらに多くの戦車に大きな損傷を与えた.
 7月24日から29日にかけての撤退中,機械故障により10輌中7輌のティーガー戦車が放棄された.
 ハンガリー第2装甲師団はKhustに再配置した.

 8月9日の報告では,ガリチアから帰還した当時に師団にあったのは
トルディ×14,
トゥラーン40mm砲搭載型×40,
トゥラーン75mm砲搭載型×14
3号戦車M型×1
4号戦車H型×9
3号突撃砲G型×1
ティーガー戦車×3.
 しかしティーガー戦車は故障しており,除籍する必要があった.

 第2装甲師団は1944年8月30日,再び出動した.

 ルーマニアが枢軸陣営から連合軍側へ寝返った時,ハンガリー政府は領土主張(修正主義)と戦略的理由の両方の理由から,これを南トランシルバニアを取り戻す好機と見なした.
 だが,カルパチア山脈南部が開けた地形となっていることから,ソ連軍はカルパチア山脈のハンガリー軍の防衛戦を容易に迂回し,そこで防衛しているハンガリー第1軍を包囲することが可能な状況だった.
 そのためハンガリー軍最高司令部は,ソ連軍がルーマニア軍への援軍として到着する前に,南トランシルバニアに駐留するルーマニア軍に対する攻撃計画を直ちに実行に移した.

 1944年9月1日,パンター戦車×5輌,IV号戦車×20輌が,エステルゴム Esztergom とハイマーシュケール Hajmáskér から第2装甲師団のいるゲルラ Gherla に到着した.
 この地でハンガリーの戦車兵をパンター戦車搭乗のための簡単な再訓練セッションが行われたが,彼らはすでにドイツの技術に精通していたため,これは非常に迅速に終了した.
 ハンガリー第2装甲師団はハンガリー第2軍の直接指揮下に置かれ,攻勢に参加した.

 9月5日に攻撃開始し,3日間ルーマニア軍とソ連軍のハンガリー本国への進撃を遅らせることができたが,それを止めることはできなかった.
 一部のハンガリー軍部隊はトゥルナヴァ=ミカ Târnava Mică 川まで到達した.
 しかし9月8日,150~200両の戦車を擁したソ連軍主力部隊がトゥルヌ・ロシュ Turnu Roşu 峠を突破し,メディア Media へと進撃しているという報が届いた.
 ドイツ軍とハンガリー軍の協同攻勢は中止され,部隊はアリエシュ川とムレシュ川に撤退し,防御態勢をとった.

 9月10日から10月8日まで,トゥルダの戦いの間,ハンガリー第2装甲師団は,第25歩兵師団その他のハンガリー軍やドイツ軍のサブユニットと共に防御部隊の一つとなっていた.
 9月23日の戦闘において,ドイツ第23装甲師団はソ連軍に対して効果的な反撃を開始し,ハンガリー軍がもう暫くの間陣地を維持できるようにしたが,ドイツ軍部隊は翌日トゥルダから撤退した.
 9月24日の報告によれば,ハンガリー第2装甲師団の有する戦車は,
パンター×2
IV号戦車×6
トゥラーン40mm砲型×9
合計僅か17輌でしかなかった.

 ハンガリー第2軍司令官ヴェレッシュ少将はOKWの命令に従わなかっただけでなく,摂政ホルティ・ミクローシュの単独和平工作に加担した上,摂政の秘密命令「ホモ・レジウス」――摂政が職務を遂行できない場合に備え,彼が国家元首に任命された――を受けていたため,10月16日にゲシュタポに逮捕された.
 これが理由の一つとなって,司令官はハンガリー軍の第25歩兵師団と第2装甲師団に,ソ連軍と交戦せずにティサ川まで撤退するよう命じた.

 また,10月15日,ホルティによる枢軸離脱工作が発生したからでもあった.
 彼の宣言はラジオでハンガリー軍に放送され,停戦交渉のため,ソビエト軍との交戦に関与しないよう,そしてさらなる命令を待つようハンガリー軍に命じた.

 だが,このホルティの命令をハンガリー軍の大多数は実行しなかった.
 矢十字党のメンバーまたは親ドイツの将校がすでに通信部隊に潜入しており,命令を下部組織に送信しなかったため,兵士には届かなかった――そもそも,部隊としても兵士個人としてもロシア人を憎み,恐れていたので,そんな命令は届いていたとしても通じなかった.

 もちろん,ハンガリー第1軍司令官,ダールノキ・ベーラ・ミクローシュ准将のように,ホルティに近しかった一部の個人や高官は,可能であれば降伏したが,そのような事例は稀だった.

 ドイツ軍司令部は10月16日,ニーレジハーザを経由してトカイに向かう途中の第2装甲師団――丸一日,この部隊の所在はドイツ軍には分かっていなかった――と直接接触.
 ドイツ軍司令部は,このハンガリー軍部隊を集結して戦闘部隊として活動できるよう戦力補充するには日数がかかることを認識していたため,当座「マルガレーテ」作戦関係には投入しなかった.

 10月19日,ハンガリー第2装甲師団はドイツ第4装甲師団の指揮の下で,ポルガル Polgár から南約6km地点でソ連軍と交戦.
 10月23日,彼らは北に3km後退することを余儀なくされた.
 10月27日の報告では,第2装甲師団にはIV号戦車が22輌(内,稼働状態にあるのは11輌),パンター戦車が3輌あった.
 10月31日,師団はティサ川の対岸に撤退.

 11月,ハンガリー第2装甲師団は,ドイツ第6軍と,ハンガリー第2軍残余を含み,砲兵大将ジュリアス・フランツ・フレッター・ピコが指揮する軍集団「フレッターピコ」の指揮下に置かれた.
 このときハンガリー第2装甲師団には,IV号戦車×9輌,トルディ戦車×2輌が戦闘可能状態にあった.
 当時パンター戦車は全車戦闘不能だったが,師団の整備部隊はなんとかこれを修理できた.
 ヂェンヂェシュ Gyöngyös への撤退はドイツ軍の第1装甲師団と第75歩兵師団,ハンガリー軍の第2装甲師団と第25歩兵師団によって支えられていたため,修理されたパンターは良い時期に間に合った.
 11月18日にヂェンヂェシュがロシア軍に占領されるまで,ハンガリー第2装甲師団は同地で戦闘を行った.

 11月後半にはすべての戦車が破壊されたか戦闘不能となったため,しばらくの間歩兵として戦っていた第3/II・第3/III戦車大隊は,11月20日~12月23日,サーク Szák とセンド Szend に駐屯し,ドイツ軍の兵器を使用できるよう再訓練することとなった.
 再訓練者はシュトロボ Štúrovo に駐屯していた第3/I大隊から抽出され,一部は補充された.

 1944年12月7日時点で,第2装甲師団は,Turán 40×35輌が稼働不能,Turán 75×8輌,3号戦車M型×1,3号突撃砲×1,パンター戦車が稼働状態にあった.
 また,ニムロード26輌中7輌,チャバ装甲車8輌中3輌,トルディ16輌中5輌,4号戦車20輌中2輌が戦闘可能だった.

 12月8日,師団はは再びフレッター=ピコ軍集団麾下に置かれ,サヒ  Šahy 市への道を封鎖するように命じられた.
 だが,圧倒的な数のソ連軍戦車を押し止めることはできず,サヒは12月14日に陥落.
 殿軍となった後,12月21日には師団には4号戦車×2,パンター戦車×2しか戦闘可能な戦車は無かった.

 12月26日,師団はエステルゴムで戦ったが,北に後退することを余儀なくされた.

 1944年12月の最後の日から1945年1月の最初の日までの間,第1装甲師団と第2装甲師団の両方から編成されたハンガリー軍戦車の小さな戦闘団が,セントラースロー歩兵師団指揮下でフロン川にて戦った.

 1月1日,4号戦車×27,パンター戦車×2を受領するため,第3/I大隊の40名がガランタ Galanta に派遣されたが,戦車が到着したのは1月8日になってからだった.
 1月9日~12日の間に,第3/II大隊と第3/III大隊も4号戦車×13を受領.

 1月中旬,ハンガリー第2装甲師団がヴェールテシュ Vértes の丘周辺に駐屯しており,第3戦車連隊はボダイク Bodajk にあった.
 1月16日,第3/I戦車大隊では
IV号戦車32輌中27輌
パンター戦車2輌中1輌
が戦闘可能だった.
 他の2個大隊が持っていた戦車の数は不明.
 1月17日に開始されたコンラートIII作戦に第2装甲師団は参加, ソ連軍からセーケシュフェヘールヴァール Székesfehérvár を奪還した枢軸軍の一翼を担った.
 師団はほぼ連日この地域で戦い続けたが,戦線は動かなかった.

 2月24日時点では,師団は
IV号戦車×16
パンター戦車×1
が稼働状態にあった.

 3月6日,「春の目覚め」作戦開始.
 ハンガリー第2装甲師団は,ドイツの第6軍(第3装甲軍と第4 SS装甲軍)とハンガリー第3軍を含む,ヘルマン・バルク将軍が指揮する「バルク」軍集団の指揮下にあった.
 師団は,おそらく過去同様第3装甲軍指揮下にあったと思われる.

 ソ連軍がドイツ軍の攻勢を押し戻すと,ドイツ・ハンガリー軍はすぐに撤退し始めた.
 ハンガリー第2装甲師団は後衛の役を担った.
 この戦いの中でハンガリー戦車エース,ヴィテーズ・エルヴィン・タールツァイ大尉は1945年3月18日,シェレード Söréd にて戦死.

 ハンガリー第2装甲師団は,ドイツ第6軍と共にハンガリーからオーストリアへと撤退した.
 そしてスティリアの防衛に参加したが,ドイツ軍から取り残された.
 ドイツ軍は5月8日~9日に米軍に降伏しましたが,ハンガリー第2装甲師団は後衛任務を担っていたために連合国とソビエトの間の境界線を越えることができず,5月に赤軍に降伏することを余儀なくされた.
(部隊の幾つかは連合軍側の境界まで到達した可能性はあるが)

 ハンガリー第2装甲師団司令官,ヂェデーニ・ゾルタン Zsedény Zoltán 少将はは1945年5月からソ連軍の捕虜となっている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
Mujzer Péter『Hungarian Armored Forces in World War II』(KAGERO, 2017), p.15-16
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/hungary/ww2_hungarian_tanks.php
https://live.warthunder.com/post/507595/en/
https://live.warthunder.com/post/514826/en/
http://live.warthunder.com/post/514868/en/
http://live.warthunder.com/post/514977/en/
https://live.warthunder.com/post/515550/en/
http://live.warthunder.com/post/515551/en/
https://t.co/KjCPXSo6AS

2020.11.8


 【質問 kérdés】
 「De ungarske soldater」とは?
Mi az "De ungarske soldater"?

 【回答 válasz】
"De ungarske soldater" dán nyelven "magyar katonák".
1945. februárjában 12.000 magyar katona jelentősebb katonai kiképzés nélkül került Dániába, ahol átvették az innen az orosz és a nyugati frontra átirányított német katonák helyét, és gyakorlatilag őrző feladatokat folytattak a német megszállók parancsnoksága alatt.
(1 .ábra)
A megbízhatatlan szövetségesnek tartott magyaroknak a németek nem mertek fontos katonai feladatokat adni: vasutakat és hidakat őriztek, néha pedig egyszerű munkaszolgálatos feladatokra küldték őket.
(2 .ábra) a 93. ezred katonái őrjáraton a Sjælland szigeti Holte vasútpályája mentén
Katonai kiképzésük nagy valószínűséggel nemcsak azért maradhatott el, mert a magyarokat harci helyzetben megbízhatatlannak tartották, hanem azért is, mert ilyen módon maguk a német kiképző tisztek is igyekeztek elkerülni a frontra küldést.
A megbízhatatlanságra okot adott, hogy a magyarok háborúellenesek voltak, inkább a dán lakossággal, mi több, a dán ellenállással igyekezték ápolni a jó kapcsolatot.
 「De ungarske soldater」はデンマーク語で「ハンガリー兵」の意味.
 1945年2月,ハンガリー軍兵士12,000名が主な訓練を欠いたままデンマークに送られ,西部戦線におけるドイツ軍の守備位置を引き継ぎ,デンマーク占領ドイツ軍の指揮下の下で実際に警備任務に就いた.
(図1)
 ハンガリーのことを信頼できない同盟国と見ていたドイツは,彼らに重要な任務を与えなかった:鉄道や橋の警備,時には順次簡単な労役任務に送られた.
 (図2)はSjælland島のHolte鉄道線に沿って巡回する第93連隊兵士.
 彼らハンガリー兵の軍事訓練が行われなかったのは,戦場においてハンガリー人が信頼できないと思われていただけでなく,ドイツ人指揮官自身が前線に出るのを避けようとしたためだった可能性が高い.
 信頼されなかったのは,ハンガリー人が厭戦的であり,デンマークの人々,さらにはデンマーク人抵抗勢力と良い関係を築こうとしていたことが理由だったという.

 デンマークの人たちはハンガリー兵を最初恐れていたが,すぐに彼等がドイツ人と同じではないことに気付いた.
 彼らはデンマークのゲストと意識し,地元の人々に親切にした.
 そのおかげで殆どの場合,デンマーク人とハンガリー人は良好な関係を築き,デンマークのレジスタンスはハンガリー軍に攻撃しなかった.
 唯一例外は,軍用列車がデンマーク人レジスタンスによって爆破された際に,ハンガリー兵が5人死亡,32人負傷した一件だけだったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455667/en/ ※図1引用元
http://deungarskesoldater.dk/hu/
http://wangfolyo.blogspot.jp/2012/05/magyar-katonak-daniaban.html ※図2引用元

mixi, 2018.4.14


 【質問 kérdés】
 デンマークにおけるハンガリー軍の抗命事件について教えてください.
Kérem, mondja meg Dániában a magyar katonai lázadásáról.

 【回答 válasz】
1945. április 22-én Koppenhágában a Királyi Testőrség kaszárnyájában elszállásolt magyar katonák fellázadtak az azonnali frontra küldő német parancs ellen.
Sohasem derült ki, hogy kik voltak ezek a magyarok.
Talán a 93/II-es ezred egy vagy két zászlóalja lehetett, amely Roskildétől nyugatra, Hvalsøben állomásozott;
de az is lehet, hogy a 93/I-es ezred egységei voltak, amely azokban a napokban éppen úton volt Fynről Koppenhágába.
 1945.4.22,コペンハーゲンの国王衛兵兵舎に駐屯していたハンガリー兵達が,前線行きを命ずるドイツ軍に対して抗命事件を起こした.
 このハンガリー人の素性は,全く判明していない.
 おそらく,Roskilde西方,Hvalsøに駐留していた93 / II連隊の1個ないし2個大隊だと思われる:
 ただし,当時,Fynからコペンハーゲンに向かう途中にあった93 / I連隊所属の部隊であった可能性もある.

A lázadás április 22-én, vasárnap reggel kezdődött, amikor a magyar katonákat kirendelték a Rosenborg-kastély előtti gyakorlótérre, ahol egy német tiszt arra utasította őket, hogy még aznap délelőtt a németországi frontra induljanak.
 この事件は4月22日(日曜日),ハンガリー兵がローゼンボリ城の前の練兵場に整列させられたときに始まった.
 ドイツ人将校が彼らに命令した.
 今朝よりドイツ軍の戦線へ行く,と.
Néhány másodpercnyi tétovázás után mindenki széjjel futott, és eltűnt a szomszédos utcákban.
Mert a frontra senki nem akart kimenni.
 数秒躊躇した後,彼らは皆逃げ出し,近隣の通りの中に姿を消した.
 誰も前線に行きたくなかったからだ.

Sűrű lövöldözéssel embervadászat indult az egész városban, így a Nørreport pályaudvarnál, a Gyldenløvesgade környékén és az Ørsted-parkban, ahol a németek üldözőbe vették a magyarokat.
A gyengén felfegyverzett magyarok nem tudtak sokat tenni a németek nehéz fegyverzete ellen.
(2 .ábra) a lázadás során elfogott magyar katonák német őrizet alatt egy koppenhágai iskola udvarán.
 激しい射撃と共に市内全域でマンハントが始まり,Nørreport駅,Gyldenløvesgade街,そしてØrsted公園といった場所でドイツ兵はハンガリー兵を追跡した.
 武装貧弱なハンガリー兵は,重装のドイツ軍に対してできることは多くはなかった.
 (図2)は事件の間にドイツ軍に捕らえられ,コペンハーゲンの学校の校庭に拘束されているハンガリー兵.

„Ez a dezertálás lett a kezdete az egyik legdrámaibb vasárnapnak, amit a koppenhágaiak addig átéltek”, írta másnap az Illegális Információ című újság.
„Azonnali hatállyal kivezényelték a német katonaságot.
Heves harcokra került sor a magyarok és német fegyvertársaik között, és a következő 2-3 órában az egész kerületben karabélyokból, pisztolyokból, géppisztolyokból, gépfegyverekből leadott lövéseket hallottak.
Ugyanakkor kézigránátok robbantak a házak között és az udvarokban a belvárosban is, és amikor 10-11 óra felé a harc végül elcsendesedett, leverték a magyarokat, akik a harcot kirobbantották.”
(1 .ábra) a legnagyobb dán napilap az "Politiken", ami beszámolt az eseményről.
「この脱走は,コペンハーゲンの人々が経験した中で最も劇的な日曜日の始まりとなった」
と,翌日の「Illegal Information」紙は書いた.
「即刻対処するようドイツ軍は命じられた.
 苛烈な戦闘がハンガリー・ドイツ両軍の間で起こり,2~3時間は全地区で砲撃,小銃・拳銃・機関銃銃撃音が聞かれた.
 しかも手榴弾が中心街の住宅の間や中庭で爆発.
 最終的に10~11時間後に戦闘は静まったが,この戦闘でハンガリー軍は敗れた」
 (図1)は,事件について報じたデンマーク最大紙「ポリティケン」.

A következő napokban a németek megpróbálták eltussolni a felkelést, azt a hírt terjesztették, hogy csupán utcai harci gyakorlatokról volt szó, de a dánok eleget láttak ahhoz, hogy tudják, mi az igazság.
A magyar és német oldalon elesettek és a sérültek számát soha nem közölték.
 続く数日,ドイツはこの抗命事件を隠そうとし,路上戦闘訓練であるという言葉のみ報じたが,デンマーク人は真相が何だったかを間近に見ていた.
 ハンガリー・ドイツ両軍の死傷者の数は決して公表されることはなかったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455667/en/
http://deungarskesoldater.dk/hu/
http://wangfolyo.blogspot.jp/2012/05/magyar-katonak-daniaban.html ※1~2図引用元

mixi, 2018.4.21


 【質問 kérdés】
 ドイツ降伏後,デンマーク駐留ハンガリー軍はどうなったの?
Mi történt a Dániában állomásozott magyar hadsereggel Németország átadása után?

 【回答 válasz】
A magyar csapatoknak májusban a dán—német határt átlépve ismét el kellett hagyniuk Dániát.
A hazavezető út több német fogolytáboron vezetett keresztül.
 5月になると,ハンガリー兵はデンマーク・ドイツ間の国境を再度越え,デンマークを出なければならなくなった.
 帰郷はドイツに設けられた捕虜収容所経由で行われた.
 (図1)は帰国途上のハンガリー兵.
(1 .ábra) a hazatérő magyar katonák voltak.

 しかし,ボルンホルム島はソ連によって「解放」され,その島のハンガリー兵はシベリアの捕虜収容所に送られた.
 彼らの殆どは帰還することはなかったという…
De Bornholm szigetet "felszabadították" az Szovjet-oroszok és a szigetben magyar katonákot vitték Szibériaban POW táborokba.
A legnagyobb részük soha nem tértek haza...

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455667/en/
http://riowang.blogspot.jp/2012/05/hungarian-soldiers-in-denmark.html
http://forums.gunboards.com/showthread.php?395623-Hungarian-Auxiliary-Troops-in-1945-Denmark-and-the-Danish-Krag

mixi, 2018.5.1

デンマークで投降したハンガリー軍将兵
このままドイツ経由で本国へ帰還と思しき隊列には,女性の姿も混じっている
(図No faq210423pw1~4)

2021.4.23追記


 【質問 kérdés】
 ベネデク・ガーボルって誰?
Ki az Benedek Gábor?

 【回答 válasz】
 五種競技のオリンピック金メダリスト.

 1927.3.23,ティサフュレド Tiszafüred 生まれ.
 職業軍人だった父親の影響を受け,ショプロン軍事高校 katonai középiskola 入学.
 同校において五種競技の基本を習う.

 第二次世界大戦において,年齢から推測しておそらくは大戦末期,ポーランドに派遣された後,デンマークへ送られる.
 デンマークには1945年2月,ハンガリー軍兵士12,000名が主な訓練を欠いたまま送られ,西部戦線におけるドイツ軍の守備位置を引き継ぎ,デンマーク占領ドイツ軍の指揮の下で警備任務に就いた.
 そして同地で戦争終結を迎え,彼らは捕虜となった.

 その後,ハンガリー兵捕虜はドイツ経由でハンガリーに移送されたが,ベネデクはコペンハーゲンに残ってエレベータ・ボーイとして働いた.
 ソ連軍占領下のハンガリーには帰りたくなかったらしい.
 その後,スウェーデンまで行って亡命申請を行ったが,認められず,デンマークに強制送還.
 そしてハンガリーに帰国することになった.
 そのとき1947年になっていた.

 1947年,ハンガリーの国内大会で銅メダル.

 1948年,彼はツェペル Csepel MTK のフェンシング選手となり,また,ブダペシュト・ホンヴェードの五種競技選手となった.
 彼は傑出した成績を上げ,同年にはナショナル・チームの選手に選抜された.

 1949年,1950年のハンガリーの国内大会で銅メダル.
 また,団体競技優勝.

 1950,ハンガリーの国内大会で団体競技準優勝.

 1951年,ハンガリーの国内大会で準優勝.
 また,団体競技優勝.

 1952年,ハンガリーの国内大会で団体競技優勝.
 同年,ヘルシンキ・オリンピックにおいて,個人で銀,団体で金メダルを獲得.
 これは五種競技団体においては,数十年にわたるスウェーデンの金メダル独占を打ち破ったという点で驚異的な出来事だった.

 1952年,ハンガリーの国内大会で団体競技優勝.
 同年,世界選手権・個人の部で優勝.
 ハンガリー人としては初の優勝だった.

 1956年,ハンガリーの国内大会で銅メダル.

 1956年のロス五輪の最中にハンガリー1956年革命(日本においてはハンガリー動乱という名で知られる)勃発.
 ベネデクはオリンピック選手団の革命委員会委員に選出された.
 一方,そうした喧噪のためか,競技のほうでは成績はふるわなかった.
 彼はロシア人の競技相手に対して握手を拒否した.

 帰国後,彼は政治的理由により元の仕事から解雇され,炭酸水メーカーで職工として生計を立てねばならなかった.
 また,同じ理由で1959年以降の大会出場も共産政権によって禁止された.
 このため,彼は愛馬「マーキュリー」を手放さねばならなくなった.
 この馬は世界選手権優勝によって贈られたものだった.

 1964年,ブダペシュト・ホンヴェードの五種競技部門のコーチに就任.
 1967年,体育大学で五種競技とフェンシングのトレーニングの学位を取得.

 1969年,彼の娘が白血病にかかり,ハンガリー国外での治療が必要となったため,彼は娘や妻と共に出国.
 国内にはまだ小さな息子が人質として残らねばならなかったため,彼はハンガリーに戻るつもりだったが,国境で深刻なトラブルがあったことで彼は帰国を断念し,西ドイツに定住.
 1952年五輪当時のチーム・メイトで銅メダリストのソンディ・イシュトヴァーン Szondy István の助けを借りて,ヴァーレンドルフでコーチ職を得た.
 1年後,息子はある若いカップルの助けを借り,ミニバスの後席に隠れて密出国し,家族と合流.
 一方,娘は残念ながら助からなかった.

 その後,彼はボンにおいて五種競技センターの組織化に関与し,1992年に引退するまでフェンシングのマスターとして活動した.

 1989年,共産政権が倒れた後にようやく帰国.
 1990年,彼はティサフュレドの名誉市民に選ばれ,彼に敬意を表して,ティサフュレドのスポーツホールはベネデク・ガーボル市民スポーツ・ホールと命名され,地元のアスリートを顕彰するためのベネデク・ガーボル賞が設立された.
 2017年,ハンガリー功労勲章受章.

 2021年5月現在,まだ御存命である.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://olympics.com/en/athletes/gabor-benedek
http://olimpia.hu/huszaros-lendulettel-93-eves-benedek-gabor
https://www.blikk.hu/sport/egyeni/benedek-gabor-olimpiai-bajnok/erprcee

ベネデク・ガーボル
2~3枚目は愛馬「マーキュリー」との2ショット

(図No. faq210525bg1~4,こちらより引用)

5枚目:兵士時代のベネデク
6枚目:1952年のオリンピックにて

(図No. faq210525bg5~6,こちらより引用)

mixi, 2021.5.27


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