c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆車輛
<◆◆◆装備
<◆◆陸戦 目次
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第2次大戦FAQ


(画像掲示板より引用)


 【link】

AFV Interiors

「militaryphotos.net」:Kubinka tank museum

Modelling & Military History - Romanian Army 1941-1945(英語?)

net bunker」:夜光杯Blog: レミ・シュライネン小伝 伝説の対戦車砲兵

World War 2 Vehicles

「朝目新聞」(2010.3.5):第二次世界大戦中に使われた各国のオートバイいろいろ  (of らばQ)

神経衰弱なAFV(相互リンク)

へなちょこ戦車の倉庫(模型)

連合軍車輌研究

「ワレYouTube発見セリ」:Austin Armoured Car

●書籍

『シャーマンファイアフライ オスプレイ・ミリタリー・シリーズ』(デイヴィッド・フレッチャー著,トニー・ブライアンカラー・イラスト, 大日本絵画,2009.7)

『第二次大戦の歩兵対戦車戦闘』(ゴードン・L.ロトマン著,大日本絵画,2007.6)

『日独軍用車輌写真集』(Ampersand Publishing Company,Inc.編,大日本絵画,2012.5)

『パンターvs T-34 ウクライナ1943』(ロバート・フォーチェック著,大日本絵画,2009.12)

 火力,装甲,FCSに秀でたパンターDと,機動力,生産性,信頼性に秀でたT34/76を,実際の戦例や運用記録に基づいて比較した本.
 うろ覚えですが,以下に要点を書いてみます.

・パンターの正面装甲は当時の戦車で最高レベルだが,虎と異なり側面装甲が弱く,森の多い東部戦線では,正面装甲や火力の優位を活かせる機会が少なかった.

・'43年の東部戦線においては,両軍とも戦車と対戦車砲の連携が広く行われており,純粋な戦車VS戦車の戦いは少なかった.
 よく準備された陣地に拠ったT34/76は,防御戦においてはパンターに対抗可能だった.
 T34は1200mの距離からパンターの側面を撃破可能だった.

・パンターが火力,正面装甲の優越を活かしてT34/76に大勝できるのは,防衛戦に限られていた.
 攻勢側のT34が開豁地の進撃を強いられる状況においては,待ち伏せるパンターの側が戦術レベルで大勝できることがままあった.

 このほか,比較しにくい「信頼性」の差についても,移動距離と機械故障の発生率など,定量的なデータが示されており,そのほか両軍戦車兵の訓練法など,戦線後方の両軍の置かれていた状況についても概説されており,間違いなく良書と言っていい本だと思います.

――――――二人兄弟の墓 ◆OYxT9PNEKpHC in 軍事板,2009/11/26(木)

『萌えよ!戦車学校 2型』(田村尚也他著,イカロス出版,2006.4)

『萌えよ!戦車学校 Ⅲ型』(田村尚也文,野上武志イラスト,イカロス出版,2008.6)

――――――
 〔略〕
 イカロス出版の萌え×ミリタリー本の元祖である「戦車学校」の最新刊.今回は第二次大戦中に行われた戦車戦を通して,戦車の運用や戦術などを解説していきます.
 今回収録されてるのは,「MCあくしず」での連載分(1940~42年まで)に書き下ろしで,ポーランド電撃戦(1939年)と,ティーガー戦車の取扱説明書である「ティーガーフィーベル」の萌え戦流翻案など.
 〔略〕
 もう一つの書下ろしである「ティーガーフィーベル」の萌え戦流翻案については,オリジナルの「ティーガーフィーベル」
(ティーガー戦車を擬人化したエルヴィラ・ティーガーの御機嫌をどの様にとって口説くか,という恋愛マニュアルに模している)
を元に更にムチャクチャやってます.
 しかしオリジナルでも「ティーガーは俺の嫁」で締めくくってるとは….
 個人的にはそこまでして御機嫌取りをせなアカンのなら,ティーガーではなくパンツァーファウストの方を選択するかなぁ.
 ドイツ軍戦車兵は良く付き合えたもんだ.

 間幕劇で第二次大戦編は三分冊の予定だとのこと.
 すると今回は42年までだから,次のⅣ号(仮)は43年から44年半ばまでと推測すると…
 へたするとマンガパートで秋山教官の主役は無さそう(笑).
(44年6月のサイパン戦がギリギリかな)

 続きが楽しみなシリーズです.

――――――グンジ in mixi, 2008年08月17日18:13

『萌えよ!戦車学校 4型』(田村尚也文,野上武志イラスト,イカロス出版,2009.7)

 何故かエリカのパットンネタが合っている気がするのは私だけ?
 これは作者の愛故なのかそれとも??

 中身については何時ものように,笑って読める戦史本.
 しかしイタリア・ネタは,某氏のサポートもあってか強い

 書き下ろしの秋葉原をチハで巡ろう企画,意外とチハって小さいんだ.
 もうちょっと大きいイメージがあったけど.

――――――CRS@空挺軍 in mixi,2009年07月25日20:24

 チハはね.
 日本の住宅事情に最適化した戦車だから・・・(違

――――――ベタ藤原 in mixi,2009年07月26日 02:53

◆◆◆◆総記


 【質問】
 ケッテンクラートのような装軌オートバイや, シュビムワーゲンのような水陸両用車が,現在無いのは何故ですか?
 実際のところ,有用じゃなかったからですか?
 また,実際に有用でなかったとしたら,なぜ当時のドイツ軍はそのようなものを開発したのでしょうか?

 【回答】
 西ヨーロッパは舗装され河川に橋もあります.
 東部戦線は主に未舗装の道路であり,河川も橋は少ないです.
 更に橋は爆破される事も多いです.
 ケッテンクラーットにシュビムワーゲンが開発されたのは,その対応策です.
 戦後のソ連軍では戦闘車輌に,水陸両用の性能を持たせた車種が多いのもこの為です.

一等自営業 ◆6znir1Xk3I :軍事板,2005/01/08
青文字:加筆改修部分

 現在も一応,ドイツ製でこういうのがあります.
 シュビムワーゲンの直系の後継ではありませんが.
 市川市の消防局にも,これと同じものがありますね.
 昔,日商岩井が20台ほどドイツから輸入して官公庁向けに売っています.

 また,Trippelが,1934年に開発した水陸両用車SG6シリーズはドイツ軍に採用され,1961年からツェンダップエンジンに換装して68年まで量産しています.
 フランスも同じようなものを作っていたはず.

 他にも,水陸両用車ならこんなのが.
http://www.fas.org/man/dod-101/sys/land/aaav.htm
http://www.fas.org/man/dod-101/sys/land/aavp7a1.htm

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ナチドイツ軍ってやたらとオートバイ/サイドカー使ってるイメージがあるのですが,他の国ではバイクは多用されていたのですか?

 【回答】
 例えば,ソ連は,ドイツと戦争をしている際に,米国にサイドカー付おオートバイを多数注文しました.
 しかし,米国は,生産の近代化と合理化(特に合理化)の為にジープを供給するからとソ連を説得しています.

 米国は単車を数千台単位でしか生産していません.

 寧ろ,英国の方が多数生産しており,戦争勃発時に21000台を保有し,6345台を徴用しています.
 この数は,1940年6月までに50000台に達し,最終的には勃発時の10倍以上の270000台を保有するに至っています.

 ドイツの場合,それなりに生産していますが,独ソ戦頃から徐々にVWにシフトしていっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 連合軍側も,ドイツ戦車を捕獲して使用したんでしょうか?

 【回答】
 使用した例はあります.

 イギリス軍が捕獲パンター使ってる写真が残されています,

軍事板
青文字:加筆改修部分

http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25n01b05br.jpg
(http://www.fun-online.sk/forum/files/cuckoo1.jpgより引用)

 これはコールドストリーム近衛連隊で使用されたパンターです.
 この写真の撮影は1945年の2月で,他に1944年12月に撮影された同じ車輌の写真もあります.
 したがってこのパンターは鹵獲されたあと,最低3ヶ月は利用されていたわけです.
 このほかに,独軍の立てこもったカストルレー城の陣地を砲撃する写真も残されています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 また,戦後,フランス軍はパンターを制式化しています.
(そして,
「走ってる時間より整備してる時間の方が長い,こんな戦車使ってられるか!」
と投げ出した)

 ソビエト軍にも,パンターに赤星マーキングして使ってる写真があります.

軍事板
青文字:加筆改修部分

鹵獲パンター

鹵獲した3号戦車を改造した,ソ連軍の突撃砲Su-76i

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第二次世界大戦で列車砲を実戦に使用したのはドイツだけですか?

 【回答】
 列車砲はフランスが多数保有していましたが,実戦で活動したものはありません.
 装甲列車搭載の火砲(まぁ,一種の列車砲でしょうか)ならば,第二次大戦勃発時のポーランドのシュミアウィ号の活躍がありますし,第二次大戦末期のスロヴァキアの叛乱でも,同様に装甲列車搭載の火砲が活躍しています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ドイツのような高速鉄道ネットワーク構築は,他の国では試みられなかったの?

 【回答】
 まず,フランス.
 1930年代前半はまだ私企業の時代で,NapoleonIII世が1851年にバラバラだった鉄道を,パリを中心として,北部(NORD)鉄道,東部(EST)鉄道,西部(OUEST)鉄道,東南方面のパリ・リヨン地中海(PLM)鉄道,西南方面のパリ・オルレアン鉄道,そして,唯一パリから離れてトゥールーズを中心とした南部(MIDI)鉄道の6大鉄道会社に統合します.
 後に,POとMIDIが合併して会社は5つに減り,OUESTは経営破綻のため国有化されてETAT鉄道になり,ESTはドイツのAlsace-Lorraine鉄道と統合して国有化して東部Alsace-Lorraine鉄道になりました.

 東部Alsace-Lorraine鉄道は,工業地帯向けの路線で,貨物主体であり,最高速度は110km/h,表定速度82km/hと余りパットせず,ETATは農業地帯が中心で経営的に最も苦しく,パリ近郊路線をドル箱にしようと電化高速工事を施工します.

 PO-MIDI鉄道は観光鉄道であり,また水力発電が恵まれていたお陰で電化の着手も早く,高速運転も可能でした.

 NORDは,ロンドン~パリ~ブリュッセルの国際列車を走らせ,その最高速度は140km/hに達しています.

 PLM鉄道はリヨン,マルセイユを包含しているので,都市間高速鉄道と観光列車を兼ね備えていましたが,電化資金までは手が回らない状況でした.

 こうして独自カラーを打ちだしている訳ですが,高速列車としては,まず電車よりも気動車が主体になります.

 で,高速気動車第一弾は1933年にAlsaceで試験運転した気動車で,これは高級スポーツカーで有名なブガッティの製品.
 意外でしょうが,実はこれ,高級スポーツカー用に8気筒12.7lエンジンを25基製作したものの,このエンジンを搭載した車は僅か2台しか売れなくて,工場には在庫の山.
 これを解消しようとエトール・ブガッティが窮余の一策で考えたのが,このエンジンを気動車に転用することだったのです.
 そのエンジンを1輛に2~4基搭載し,4軸ボギー台車2台のうち,2軸または4軸を液体変速装置付シャフトを介して駆動する方式で,単車運転用から3両編成まで各種に対応出来,内装も普及用から48席のPresidentialtypeまで製作可能でした.
 この気動車は1935年11月12日に10km平均196km/hを記録し,東部Alsace-Lorraine鉄道では,パリ~ストラスブールを3時間53分(平均130km/h)で駆け抜け,ETATが導入したのは,パリ~ルアーブルを2時間(平均114km/h),PLM鉄道のそれは,パリ~リヨンを4時間50分(平均106km/h)と,各地で高速を誇りました.

 しかし,NORDはこれを採用しませんでした.
 NORDで採用したのは,ミシュラン製気動車,そう,タイヤで有名なあの会社は気動車を作っていたのですね.
 1929年から56輛が調達され,1934年7月27日にはTARと言う3輛編成のディーゼル動車を10編成パリ~リールに投入し,此の間を2時間40分,平均速度96km/hで走らせています.

 大メーカーとしてはルノーがあります.
 1935年にABJと言うtypeを投入し,これは亜幹線やローカル線,更には植民地まで広く使われました.
 12気筒33lで265~300馬力を発揮するディーゼルエンジンを搭載した流線型で,308輛が製造され,うち,253輛が単車仕様,55編成が2輛連接構造のものでした.

 一方,ライバルのイタリアの状況は,非電化路線にディーゼル動車が多数投入されていました.

 白眉なのは,フランスに遅れて1936年に投入された高速気動車のATR100で,既に振り子構造が採用され,高速電車のETR200と共に開発されています.
 ETR200は文字通り最高速度200km/h,ATR100は最高速度170km/hで半島を駆け抜けるもので,3車体を4台車で支える連接構造.一等36席,二等42席の豪華仕様で,エンジンは1車に付き,12気筒44lの375馬力を2基搭載し,運転席正面窓下にラジエーターを持つという,イタリアらしからぬDesignだったり.
 Duceは,この車輌によって,ローマ~ベルリン枢軸特急を夢想しましたが,この直後に国鉄の路盤が老朽化していることが判明して,最高速度制限が120km/hをなってしまって頓挫.
 しかも,フィアットで9編成作られたそれは,第二次大戦参戦でお蔵入りとなりました.
 ちなみに,Duceの夢は9編成のうち,5編成は戦後まで生残り,実に1961年まで国鉄で用いられてたりしています.

 他に全長19m(後期は23m)のALn556シリーズが1937~40年にかけ,ブレダなどで192輛,全長25mの大型気動車のALn772は,1940~1957年に掛けて製造されたもので,293馬力のディーゼルエンジンを搭載し,最高速度130km/hという性能を持っており,これが319輛製作されています.

 で,ブガッティの蒸気機関車.
 これは1934年にETAT鉄道に提案していたもので,発注,製作まで行きました.
 当時の蒸気機関車は巨大なシリンダを蒸気力で回す代物で,大きく,騒音もでかく,大量の石炭と水を要し,大量の灰が問題になっています.

 そこで彼は考えた.
「一つの蒸気機関でシリンダーを動かすから無理がある,じゃ,小さいのを束ねればええやん…」と.
 で,蒸気機関は8輪の駆動輪に各々一つずつ8気筒250馬力の合計2000馬力,その駆動はロールベアリングを多用し4輪の台車に動力を伝えるもの,潤滑油噴射装置はBosch製,ボイラーは2基で燃料は重油,発生した蒸気は水に復元して循環使用されました.
 つまり,シリンダ数だけで64基あると言う途方もない代物ですが,個々のコンポーネントは軽量化できているので,最も重量を食う部分が軽くなり,燃費も良くなる.
 しかも重油燃料なので,石炭の様に機関助士の投炭技術は不要で,灰も溜まらない,水も循環使用で大幅に削減できるので,炭水車を大きくする必要もなく,給水停車も削減可能と良いことづくめ.

 ただ,メカニズム的にはシリンダ間の同期や伝動装置の複雑さなどで製造に手間取り,また,人民戦線による各鉄道のSNCFへの統合,国有化,ブガッティ自身の経営危機からこの野心的な計画は放棄されてしまいました.

 フランスは自由な企業の提案,イタリアは国家の威信と,意外にこうした部分もお国柄が垣間見える訳で.

 さて,高速鉄道の話は結構夢物語と言うか,夢想的な発想から,本物が出て来るのですが,これがソ連の場合……

 1934年1月のNewYorkで新聞が大々的に伝えたのが,ソ連の新型特急電車です.
 これは,「車輪の代りにボールベアリングを用い,コンクリートの溝に車体を埋めるようにして走る.最高速度は300km/hで,現在150km/hを出している」
 で,写真には,単線線路に車体断面が丸く,側面窓も丸の3連の電車で側面の架線から集電している感じのものだったり.
 いや,これは勿論,ソ連一流のPropaganda.
 そもそも,どうやってボールベアリングに動力を伝えるのか小一時間(ry.

 次いで話題になったのが,架空鉄道…懸垂式モノレールでプロペラ推進のもの.
 車輪が見えない分,空力的には有利で,ゴムタイヤの車輪で走行するから音も静か,主に英国で研究されました.
 ちなみに,今の千代田線の一番最初の申請時には,この架空鉄道やチューブ式鉄道なんてのが検討されていたり.

 さらには,「原子力列車」というトンデモ計画もありまして,ソ連では1953~57年に作られていたディーゼル電気機関車のTE-3/7を転用することが検討されました.
 ソ連は1973年のオイルショックで石油が高騰したことで,原子力機関車構想を再燃させ,10,000~15,000馬力の3m軌間の機関車を夢想します.
 機関車は2両連結で18軸,1,500tの牽引力を備えるものとし,1両当りの定員は200~250名.
 これも,検討を進めると,リアクターからの放射能対策で機関車が巨大に成りすぎて断念.

 然らば,と言うことで,軌間を1524mmに縮小し,全長50m,自重430t,12個のモーターで5,870馬力を発揮する既存機関車改造構想を立てます.
 燃料はウラン235でリアクターは高さ2m,直径1.5mの水とナトリウムを冷却剤に使う黒鉛型(ぉ.
 タービンの蒸気圧は80~400気圧で,コンデンサーや冷却水パイプは防錆,防蝕措置が執られていました.

 で,エレクトロニクス技術が発展してくると,リアクターとタービンの自動制御を組込み,リアクターの遮蔽は2.5mとし,媒体としてヘリウムを用いる構造となり,機関車全長35m,自重175t,出力6,000馬力のものとなり,更に安全性に配慮して,リアクターを5mに延長し,これに100t分を割くことになって,全長50m,出力7,000馬力にしてみたり.

 つい最近まで真面目に検討されていたのに吃驚だったり.

フィアットの凶悪な面構え

ブガッティ

ミシュラン

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 自動車化歩兵師団はWWⅡ時点ですと,兵の負担の軽減以外に直接戦闘能力では通常の歩兵師団と大差は無い…と考えて良いのでしょうか?
 アメリカ以外にまともに自動車化師団を運用できてないようなので,比べるべくもない気がしますが…
(スレの話題が「自動車化師団は火力や戦闘能力,補給で有利,重火器たくさんもてるし」「それってなんか変じゃね?」「包囲とか撤退とか部隊機動有利だぞ」的な流れだったので)

 【回答】
 普通の歩兵師団をトラック化しただけだから,単純には米軍の歩兵師団の戦闘能力だけでは,自動車化されていない米軍の歩兵師団と変わらない.
 歩兵師団にこれだけの装備があり,これだけの馬車がある.
 これを自動車化するには何台のトラックがいるか,というのが自動車化の始まりだから.

 ただ,学研の歴史群像シリーズの『アメリカ陸軍全史』では,
1943年型歩兵師団は歩兵9個大隊に対して,ドイツの1944年型歩兵師団では6個大隊であり,
ドイツ側の師団装備定数はオートバイ168両・各種自動車615両・各種馬車1466台・軍馬4656頭に対して,アメリカ側はトラック719両・ジープ612両,そして移動時は師団編成外の兵員輸送大隊の援助を受けることができ,
砲兵火力はアメリカ軍は機械化されているが,ドイツ軍は馬匹牽引であり,ドイツ側はスピード差と共に,馬匹牽引時は分解して輸送しなければならないというハンデがあり,
しかも,アメリカの歩兵師団には独立戦車大隊(M4 59両 M5A1 17両)と,独立戦車駆逐大隊(米軍駆逐戦車36両)と独立高射自動火器大隊が増強されていた.
 さらに,制空権を確保しているから,独立高射自動火器大隊の32門の40mm機関砲と,32基のM16 4連装12.7mmのお仕事は歩兵の援護が中心
という,ドイツの1944年型歩兵師団に比べると圧倒的な差があったとある.

 ちなみに
ドイツ陸軍1944年型歩兵師団は将兵総数12,352名
米軍1243年型歩兵師団は兵員総数14,253名
独立戦車大隊は750名
独立戦車駆逐大隊は671名
独立高射自動火器大隊は835名

 ドイツ側の615両は乗用車からトラックまで,師団の保有する全自動車数.
 アメリカ側のトラック数は歩兵師団のトラックと,30両の3/4トン救急車のみの数で,増強大隊の分は入っていません.
 アメリカ側の歩兵師団のみでトラック以外の車輌は,
セダン1両
エアコンプレッサ搭載トラック5両
装軌式トラクター3両
ハーフトラック5両
M8装甲車13両
2と1/2トンダンプ27両
レッカー車5両
突撃舟艇14隻
軽観測機10機

 見てのとおりアメリカ側は圧倒的に機械化されています.

 ということで,質問に戻って回答するなら
「WW2後期のアメリカ軍の歩兵師団は,他国の通常の歩兵師団に比べて,多量の火砲や物資を携行できたり ,補給に有利であったり,戦術面で優位に立てる,という事はありえる」
となります.

 デメリットは,WW2当時米軍以外ではこのようなことはできない ということぐらいかな.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本陸軍の歩兵師団には多い場合で6000頭程度の馬がいたとのことですが,1940年ごろの他国の機械(自動車)化されていない歩兵師団には何頭ぐらいの馬がいたんでしょうか?

 【回答】
 WWIIのドイツ軍歩兵師団について言えば,110個歩兵師団にいた軍馬の総数は約65万頭なので,一個師団あたりの軍馬の数は6千頭弱と言う計算になる.
 尚,歩兵師団には獣医中隊もちゃんとあって,軍馬のケア-以外に,畜殺中隊の食用牛が食用に適するかどうかのチェックなんかも実施している.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 木炭自動車って何?

 【回答】
 積載した木炭ガス発生装置による一酸化炭素とわずかに発生する水素(水性ガス)を動力とし,それをガソリン・エンジンで燃やして走る自動車.
 発生炉にくべた木炭や薪の不完全燃焼により,発生炉ガスと呼ばれる,一酸化炭素を主成分とする可燃性のガスが得られるが,木炭ガス発生装置によるガスの熱量が小さいことや,吸気温度が高く充填効率が落ちるなどの構造上の問題があり,エンジンの発生出力は極めて低い.
 ガソリンが不足した,第2次世界大戦中の日本で使用された他,英仏独伊などでも石油事情・配給事情が逼迫した際には用いられた事があった.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/木炭バス
http://www.mokutancar.com/
http://kahuetaisyourouman.hp.infoseek.co.jp/mokutan.html
http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_19_1.html
http://shima3.fc2web.com/norimono6.htm

木炭ビュイック(1937年)
http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_19_1.htmlより引用)

木炭シトロエン11CV
http://shima3.fc2web.com/norimono6.htmより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/02 21:00
を加筆改修

 昨日から幕張メッセで始まった全日本模型ホビーショーですが,
〔略〕
ダークホースの3トン中型木炭トラックが出る事!
 これはイタリアものも本格的になって来た証拠でしょうか.
 良きかな,良きかな.

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月12日23:58


 【質問】
 黒騎士物語で敵の燃料車を捕獲してパンテルに給油しています.
 パンテルに給油→ガソリンですが,イワンの戦車はディーゼルだから軽油ですよね?
 トラックも軽油だと思いますし,このガソリンは何なのか疑問に思いました.
 当時のドイツ,ソビエトにおける軍用車の燃料区分を教えてください.

 【回答】
 当時はトラックはほとんどガソリン.
 トラック=ディーゼル・エンジンという図式が成立したのは戦後になってから.

 ドイツは戦車も装甲車もトラックや乗用車等も,軍用車輌のほとんどはガソリン.
 ソビエトも,戦車と一部の装甲車以外は,軍用車輌のほとんどはガソリンエンジン.

 アメリカは戦車に一部ディーゼルのものがあったが,これらは海兵隊とソビエト向けのごく一部でだけ使われた.

 イギリスはほぼ全てガソリンエンジン.

 映画の話だが,ソビエトの戦争映画で,歩兵と戦車兵が放置されていたタンク貨車に近寄り,
「これ燃料車かな? あんたの戦車に使える?」
「戦車兵は即座に燃料の種類を嗅ぎ分ける訓練をうけるのさ.
 ・・・ふむ,これは・・・舐めてみないとわからないな」
「そ,そうか・・・」
「うん,これは・・・飲んでみないとわからないな!」
「・・・あ,油飲んでいいのか!?」
「大丈夫大丈夫,君も飲めよ」
「俺は戦車兵じゃないから油飲んでも動かないよ!」
「ふっふっふ・・・これは,酒だ! アルコール運搬車だよ!」
というシーンがあった.
 戦車だけ燃料が別系統なことは,現場で色々面倒だったのだと思われる.

 しかし,この貨車の積荷って工業用アルコールだったんじゃないのだろうか・・・.
 飲んでいいのか?

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦前の,米自動車産業の欧州進出状況について教えられたし.

 【回答】
 1920年代,大量生産で発展し,資本を蓄積してきたフォードとGMは,相次いで欧州への進出を企てます.
 第1次大戦の復興から立ち上がりつつあった欧州は,米国の自動車輸出先の半分を消費する大消費地であり,1920年代初頭に20万台以下の需要だった自動車の台数は1920年代末には100万台以上が必要とされるくらいまで発展しました.
 しかも,工業化の進展も大きく,鉄鋼業やエンジニアリング工業が十分に発展していた素地がありました.
 つまり,自動車産業が進出しても,川下の部品工業が無ければ,中々安価に生産が出来ませんが,部品工業が発展していた欧州であれば既に自動車工業があったので,十分に進出しても旨味のある市場でした.

 米国の自動車産業にとっての強みは,その大量生産技術の蓄積と,それによる自動車の生産費用の安さでした.
 特に,欧州のメーカーが手叩きで行っていたボディ製作に対し,大型プレス機で圧延鋼板から型を切り出し,溶接によりボディを仕上げる技術は一頭地を抜きん出ていました.
 大量生産技術についても,流れ作業組織や移動組み立てラインと言ったソフト面での改善に伴い,フォードT型のシャシー組立に要する時間は,
1913年8月に12時間28分だったものが,
10月7日に移動式組立ラインの導入で2時間57分,
12月30日には2時間40分弱,
更に1914年初めには1時間33分にまで短縮されました.

 こうした大量生産技術により,欧州の自動車が2,000ドル以上の費用が掛かるのに対し,米国は650ドルで生産出来,低価格車で最高価格のものでも1,000ドル程度でした.
 それは既に20世紀初頭の段階でも表われており,1906年にフォードが英国に輸出したModelNは152ポンドで販売されていましたが,それよりもプアな英国製のスタンダードは195ポンドもしました.

 1914年にはフォードのマンチェスター組み立て工場が稼働していましたが,
フォードの最廉価車であるランアバウトは125ポンド,
それに対し,モーリス・オックスフォードは180ポンド,
最廉価ルノーが173ポンド,
オペルが240ポンド,
フィアットが365ポンド,
オースチンが330ポンドでした.

 第1次大戦後の1924年には,GMは既にフォードのノウハウを吸収して,大量生産技術をモノにしており,58.7万台の自動車を生産.
 1925年には更に増加して,83.6万台に達していました.
 一方のオースチンは1924年には1.2万台,ボックスホールは1925年に僅か1,500台に過ぎません.
 1928年にはT型フォードが凋落して,GMの天下となり,190万台を生産していましたが,オペルは4.3万台しか生産していませんでした.

 話を元に戻すと,フォードは会社創立の2ヶ月目,1903年に早くもカナダに乗用車を輸出しました.
 1904年4月には資本金12.5万ドルで,カナダ・フォードを設立し,それにフォード及び同種の製品を,大英帝国の全域,つまり,英国,スコットランド,アイルランドを除く英帝国全土で一手販売する権利と,米国のフォードで発明や改良をされた技術や部品を,ロイヤリティを払うことなく,無料で利用する特権が認められました.

 先述の様にModelNは,1906年に英国に輸出され,2年で1,000台を輸出した後,1908年にはModelTに変更されます.
 1909年に英国ロンドン支店を開設し,1911年にそれを発展解消して子会社英国フォードとして独立させ,マンチェスターのトラッフォード・パークに組立工場を建設しました.

 フランスへは第1次大戦中の1916年5月に,資本金50万フランでパリにフランス・フォードを設立します.
 しかし,パリは未だ戦争の余波が大きく,実施にはボルドー支店がフランス・フォードの活動の中心地となりました.

 GMでは,1908年の創立3年後にミシガン州にGeneral Motors Export Companyが,子会社として資本金1万ドルで設立されます.
 フォードと違い,GMは現地組立を余り行わず,1922年までは米国からの完成車輸出を主に行っていました.
 この期間の輸出台数は,1924年の3万台が最高で,半数が西欧向けでした.
 しかし輸出量が増大すると,現地組立の方策を探る事になります.

 何故現地組立に移行したのか,その理由は2つあり,1つは完成車の輸送費用の問題,もう1つはサービス提供の問題です.

 完成車はとかく嵩張り,数を余り載せる事が出来ません.
 それに対し,それを部品として輸出すれば,同じ構成部品は積上げればいいのですから,そんなに嵩張る事はなく,更に運賃も安く済みます.
 実際,1928年の時点では,シボレー9台分の組立部品を船積み輸出すると,運賃は完成車2台分で済んだと言う記録がありますし,部品として輸入されるので関税も節約出来ます.
 その上,ディーラーに配給するのにも便利です.

 サービス提供の問題は,今でこそ,インターネットで地球上どこからでも,ほぼリアルタイムで情報の共有が出来る状態にありましたが,当時は現地と組立工場とのやりとり,本社とのやりとりは船便が精々でした.
 緊急事態の際には電報とかありましたが,余り情報量を詰め込む事が出来ません.
 そこで,現地情報の一番近い部分に組立工場を設けて,現地情報に素早く対応出来る様にしただけでなく,部品や完成車を常置することで,流通サービスシステムを改善する事が出来ました.
 ついでに,現地の低い労務費や材料費を用いる事に拠る,利益の増加も見込む事が出来ます.

 次に,市場としての欧州については,1920~30年代の欧州の経済成長について見てみると,ドイツが最も経済成長率が高く,次いで英国になります.

 ドイツは1934~36年の間にフランスを追い越して,英国に次ぐ第2位の自動車生産国となり,経済成長率は,
1924~28年には66.6%,
1934~37年は24.0%,
1924~37年が25.0%
と,何れも驚異的な成長を見せていました.
 誤解の無い様に書いておくと,これは数字のマジックで,インフレ率その他を考慮すると,大した成長率にはなりませんが….

 英国は
1924~28年が9.6%,
1934~37年が14.0%,
1924~37年が10.0%でした.
 一方,フランスは
1924~28年にかけて9.7%の成長となるも,
1934~37年は0%,
1924~37年が2.6%と凋落します.

 イタリアは,
1924~28年が10.2%,
1934~37年が16.8%,
1924~37年が5.2%でした.
 イタリアの場合,経済成長率は結構ありましたが,自動車生産の規模から見れば,年間僅かに2~7万台しかありませんでしたし,この数字は政府がフィアットを支援した保護主義的政策の結果得られたものです.

 つまり市場としては,ドイツと英国が有望であった訳で,GMとフォードの進出も其処をめがけて行われる事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/22 21:00

 さて,米国自動車メーカーの欧州進出の続き.

 英国では第1次大戦で弱体化しましたが,その第1次大戦中の1915年,当時のR.マッケナ蔵相が設定したのが,マッケナ関税と呼ばれる税です.
 これは,戦時中に英国に不要不急な物品を持ち込ませない様にする為,そして,戦時歳入を確保する為に設定した輸入関税で,対象としては自動車,楽器,映画フィルムに課したものでした.
 つまり,嵩張る物資や贅沢品の船積みを抑止しようとした訳です.

 この関税では,英帝国外からの自動車や部品の輸入に対し,輸入税として33.33%を,英帝国内地域からでも,自動車やトラックの輸入には賦課金として22.22%を徴収します.

 これは戦時措置として設定した関税でしたが,第1次大戦で疲弊した英国産業に対し,外部から安い物資が流入してしまうと,英国の産業が壊滅的な打撃を受けてしまうので,平和時には国内産業保護を名目に継続される事になりました.
 更にこれを発展させて,1921年には産業保護法が制定されて,その他にもいくつかの輸入制限措置が執られる事になります.

 特に,1921年に制定された財政法では,自動車の許可手数料が馬力単位で査定されました.
 これは課税馬力と言いますが,その馬力決定方式は,ボアが小さくてストロークの長い英国の高速エンジンには著しく有利なものでしたが,ボアとストロークが等しい米国のエンジンには不利な措置でした.

 例えば,1923年製のFord Model Tは,英国では23馬力と評価されましたが,この為,新車を買う人々は1台当たり税金が,Austin Seven(これは英国では7馬力と評価された)よりも25ポンド余計に取られる事になりました.
更に,米国車は燃費が悪く,Austinが1ガロン当たり30マイル走るのに対し,ModelTは20マイルしか走れませんでした.
 また,1925年に英国でChevroletの所有者が負担する額は,手数料,保険料,車庫使用料を合計して,1週間に1ポンドに達したと言う計算結果が出ています.
 これに対して,Austinの所有者は固定負担額として1週約11シリングしか払いません.
 年額にすれば,半分を少し超えるくらいの負担額になります.

 1928年当時,GM輸出部門の最高責任者による経営執行委員会向けの報告では,米国内ではChevroletは最下級の車であるが,海外に於いては,75%も割高な代物で,しかも米国以外での自動車購入資金は,米国のそれの約60%に過ぎず,そうなると,Chevroletと言えども,高級車に属するのであると書いています.

 更に1928年からはガソリン税も導入され,燃費の悪い米国車は益々不利になります.
 因みに,1927年当時,デトロイト渡しで1,000ドルの米国車は,関税などの税金,外国での初年度登録費用その他の料金を加えると,フランス,ドイツ,オーストリアでは最高2,000~2,500ドルに達しています.
 それでも,品質が良く生産効率の高い米国車は何とか競争力を保って販売出来ていました.

 他国の状況も同じです.

 ドイツでは,1920年代初頭の経済的な荒療治を経て,経済が安定しましたが,但し,自動車の輸入に関しては,これも30~50%と言う高い関税を掛けています.
 1928年からは,部品に対しても完成車と同率の関税を課せられ,特にエンジンは比較的高い関税を徴収されました.

 フランスはドイツの賠償を復興投資に充てた事から,1920年代初頭の経済は活況を呈し,戦前よりも関税は低下の兆しを見せ始めましたが,1929年以降はその賠償の効果が切れた事から経済的に苦境に陥り,自動車や部品に対して45~86%に達する特別関税を徴収する様になりました.

 こうして,欧州各地で自動車産業を有する国々では,関税障壁が形成される事になり,米国製乗用車は極めて不利な競争を強いられる事になりました.

 一方,第1次大戦前には米国車のアドバンテージとなっていた自動車価格については,戦後,Ford方式が欧州でも導入される様になって,その競争力は減少の一途を辿りました.

 英国市場に於ける販売価格は,1927年型のFord Runaboutが125ポンド,対するAustin Sevenは145ポンド,最廉価Peugeotが165ポンド,Morrisは175ポンドと殆ど大差無くなり,GMのChevroletは185ポンドと寧ろ逆転していたりします.

 これが可能になったのは,先述の生産方式の導入,それに群小メーカーから巨大メーカーへの集中と拡大が進展した事によるものです.
 生産方式の導入については,先ずCitroenが1919年にFord方式の先鞭を切りました.
 その結果,Citroenは1921年の年産1万台から1929年には10万台に達しました.
 これを見て,Opelが1924年に追随し,以後,Renault,Fiat,AustinとMorrisが追随します.

 Morrisは下請工場に大量注文を出す慣行を作り,又,英国に於ける自動車部品工業の開拓に務めました.
 更に,1925年にはフィラデルフィアで鋼鉄製ボディの生産方式に関するパテントを保有していたBudd(余談ですが,東急のステンレス車はこの会社のパテントを利用して製造された)を説得して,共同でThe Pressed Steel Companyを設立して,自分の工場の隣にその工場を建設しました.
 また,Cleveland Varnish Companyと言う会社とも共同で,英国に工場を建設しています.

 但し,こうしたFord方式の生産設備導入には,また多大な資本投下が必要です.
 この為,急拡大をし過ぎたCitroenは一旦破綻してMichelin資本を受け入れざるを得ない状態になってしまいましたし,多くの中小企業は淘汰され,英国の自動車関連の工場数は1922年に96あったのが41に減り,ドイツでも1925年に200以上有ったのが,1930年代初めには100程度にまで減少してしまいました.

 これに対抗した米国の回答が,欧州への進出でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/23 23:07

 さて,1920年代の欧州では,自国産業の保護と安い米国車の輸入を阻止すべく,関税障壁や保有に伴う課税に格差を設けて行きました.
 また,欧州メーカーの中には,Fordの大量生産方式を導入して,規模を拡大する会社も出てきました.
 その為,欧州車と米国車の価格差はそんなに無くなってきています.

 そこで,FordとGMが執った手段は,現地に一貫生産工場を設ける事でした.

 Fordは以前からマンチェスターに組立工場を保有していましたが,更にこれを発展させて,1929年5月16日,ダゲナムに「小型のリバー・ルージュ」と呼ぶ大規模製造工場を建設します.
 この工場には,組立工場だけでなく,コークス製造炉,動力棟,熔鉱炉,鋳物工場,原材料の搬入及び配分の為の高架線,部品製造工場があり,全体で,全ての部品を賄う事が出来る様に設計されていました.
 そして,1931年の夏までに殆どの機械の組立と据え付けが完了し,10月1日から最初のトラックが組立ラインから出て来ました.

 当初計画では,マンチェスターは組立工場として残し,2工場体制にして,ダゲナムから部品を供給する形態を考えていたのですが,大恐慌の影響で,欧州の自動車需要が落ち込んだ事と,それに伴いダゲナムの生産能力が余ってしまったので,徐々にマンチェスター組立工場の設備はダゲナムに移転し,縮小される様になっていきます.
 1932年夏に200万ポンドの投資に相当するダゲナム工場は総合工場として完成し,「欧州最大の自動車工場」となりました.
 そして,労働者数は,年末までに7,024名がこの工場で働く事になりました.

 一方,大陸側について見ると,フランスでは1920年代には未だ関税が低かった事から,1926年にパリ近郊のアスニエールに組立工場を設置するに留まりました.
 ドイツについては,英国よりずっと規模が小さく,現地法人として,1925年にFord Motor Company A.G.,所謂,ドイツ・フォードを資本金500万マルクでベルリンに設立しました.

 1926年からはModel Tのノックダウン組立生産が開始されます.
 しかし,1930年7月,恐慌後のドイツの関税事情を検討したFord首脳部は,近い将来,ドイツは完成車や部品に対する関税を更に高くしてくると言う判断に至りました.
 それに対応するには,新型車であるModel Aをドイツ国内で生産する事が絶対に必要であり,これを為し得なければ,ドイツ国産車や他の欧州車との価格競争に敗れて市場から撤退する羽目になると言う結論になります.

 そして,1930年10月よりケルン工場の建設に着手し,1931年春には自動車製造工場として完成しました.
 ケルン工場は,ダゲナム工場に比べれば規模が小さいのですが,全ての施設が完成した場合,床面積3.3万平方メートルに達し,工場の周りにはコンクリート舗装の道路が張り巡らされ,全長2kmに及ぶ4本の鉄道線路が出入りする貨物を捌く事になり,更に汽船や貨物船が横付け出来る専用岸壁まで有していました.

 この他,Fordは,1919年にデンマーク,1922年にはイタリアとベルギー,1932年にオランダに組立工場を建設しています.

 もう一つの雄であるGMは,1920年以後,完成車輸出から米国で生産した構成部品を使用し,現地でノックダウン生産をする方向に舵を切り,1923~29年の間に15カ国に19の組立工場を開設しました.
 欧州では,1924年にロンドンとコペンハーゲンに組立工場を開設しています.
 この様な手法により,1929年には海外向けの輸出の70%以上が,完全ノックダウン生産方式で生産した自動車でした.

 此処まではFordと手法は同じですが,GMの場合は,自分で工場を建設するのではなく,進出先で既に生産を行っている現地企業を買収する事で,海外での製造活動を実現しました.
 最初にGMは,1919年にフランスのCitroenに触手を伸ばし,次いで1925年には英国のAustinを買収しようとしましたが,何れも失敗しました.

 結局,GMの買収第1号は,英国のVauxhall Motorsでした.
 当時のVauxhallは,老舗ではありますが,1925年でも年産1,500台程度の高級車メーカーでしかありませんでした.
 当初触手を伸ばしていたAustinとは,比べものにならない小規模メーカーです.
 ただ,Vauxhallの買収により,海外生産でのノウハウ蓄積や実験には有意義だったりします.
 しかも,その買収額は僅か257万5,291ドルという安さ(GMの視点から見て)でしたから,GMに取ってはベストではないですがベターな買物だった様です.
 1925年に買収協定が締結され,1929年には,Vauxhallの販売と総配給網はGM勢力下に収められ,完全買収が成立しました.

 Fordは投資主力を英国に置き,ケルン工場は比較的小規模なものでしたが,GMは逆にドイツに投資の主力を注ぎました.

 ドイツでGMの標的になったのは,1899年に乗用車の生産を始め,1924年にコンベアシステムを導入したお陰で,1926年には年産43,500台を誇っていたAdam Opel A.G.でした.
 この43,500台という数字は,ドイツで生産していた乗用車とトラックの総数の約30%を占めていました.
 しかも,近代的で能率的な大量生産設備を有し,効率的な販売網を備えていました.
 欠点としては,国内向けが殆どで輸出先の開拓が殆ど為されていない点でしたが,それでも,それは既存のGMの海外販売網に載せてしまえば良い話であり,年産僅か1,500台のVauxhallに比べると,買収の価値は遙かにこちらの方が大きいものでした.

 1929年3月にGMはOpel資本の80%を買収し,1931年に残りの20%をも手に入れて完全子会社化に成功しました.
 この買収に要した投資額は,3,336万2,000ドルに達しました.
 これは純有形資産1,800万ドル,暖簾代1,200万ドルの評価からはじき出されたものです.
 しかし,この巨額な買収費用でも,Fordの様に一から工場を建設し,設備を整え,利潤を生み出すまでの期間を考えると遙かに合理的な投資と判断していました.

 Opelの主力工場であるリュッセルスハイム工場は,1924年の建設であり,製造設備も整っている上,機械の70%以上が過去4年間に据え付けられたものでした.
 特殊工作機械は全て償却済の資産で,何時でも新型車の生産に対応出来る様になっていた上,高度の技術労働者を供給するのにも支障がない状態でした.
 更に,Opelは国内に736の販売店を有し,そのディーラー組織はドイツ最良のものでした.
 何より,Opelの企業規模は,VWが台頭するまで,ドイツ最大の自動車メーカーだった訳で,これを買収した事によるGMのアドバンテージは非常に大きなものが有りました.

 この他,GMはベルギー,スイスにも組立工場を建設しています.

 因みに,ビッグスリーと言えば,Chryslerがあります.
 その設立は1925年とFordやGMに比べると遅く,海外事業は前身会社がカナダと英国で細々と行っていた状態でした.
 1928年にはDodgeを合併しますが,Dodgeは英国でトラックを製造し,ドイツでも組立事業を行っていました.

 この様に,Chryslerも海外の重要拠点に生産拠点が有ったと言えば有ったのですが,それよりも米国の国内拠点を整備して,他の2社に追いつこうとしていた為,国内投資を重要視し,海外に投資を回す余裕がありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/24 22:11


 【質問】
 大恐慌以降,欧州における米自動車企業はどうなったか?

 【回答】
 さて,1930年代に入ると,米国は大恐慌の波をモロにかぶることになります.
 1930年6月,政府と議会は国内産業を保護する為にスムート・ホートレー法を制定し,輸入品に高関税を課すことになりました.
 しかし,この措置は裏目に出ます.
 1929~32年の間に製造業生産は48%も低下し,更にその高率の関税は,欧州諸国の反発を招き,各々自国の経済を保護する方向へと追いやってしまいました.
 こうして世界は,自由貿易体制から保護主義体制へと変化していった訳です.

 欧州では,米国程経済状況は酷くありませんでしたが,それでも,製造業生産の低下は,同じ期間にドイツで47%,フランス26%,英国18%でした.
 1932年になると,欧州の保護主義的関税は,国内産業助成の為,帝国内特恵待遇又はブロック貿易的措置を採り入れるようになり,米国の孤立化は益々深まっていきます.

 こうした中,米国の企業は2つの流れに分かれます.
 1つは,製品が売れなくなったり,投資を抑制する為に海外事業から縮小したり撤退したりする方向で,多くの米国企業はこの方策を採りました.
 もう1つは,輸出産業を中心に,ブロック経済体制でもその地域で製品を売る為に,より海外への投資を振り向ける方向で,自動車産業はこちらに属します.

 因みに,スムート・ホートレー関税の報復関税は,欧州,取り分けイタリアでは1927年に比べると殆ど3倍近い関税となって表われ,イタリア市場に於けるFord車の価格は,米国内渡しの2.5倍となり,販売量は急速に低下していきました.
 この高価格のお陰で,イタリア市場に於ける1930年のFord車のシェアは,僅か6.6%にまで低下しますが,この年のFiatのそれは60.6%を占め,以後も,Ford車は益々苦戦を免れなくなり,代わってFiatを中心とする国産車のシェアが益々拡大していきました.

 これに音を上げたFordは,イタリアに組立工場を建設する計画を立てて,1929年にリヴォルノに土地を購入しましたが,Fiatのアグネリ会長がムッソリーニに抗議して,それを阻止する様に示唆しました.
 そして,1929年11月18日には,外国資本の自動車組立工場の建設には,政府の許可を必要とすると言う勅令が出されます.
 この時,ムッソリーニは,「イタリア政府の希望することは,外国車の大量輸入ではなく,100%イタリア製の自動車を育成することである」と言い切っています.

 フランスも,1930年4月18日に高率関税を自動車に課しました.
 これはRenaultやCitroenがフランス政府に強要したもので,フランス市場でも輸入車のシェアは急速に落ちつつありました.
 1931年,乗用車の組立工場を有するFord SAF(フランス・フォード)の利益は,フランス国産部品を多く用いたにも関わらず,半分に落ち込み,1932年には欠損を報告するに至ります.

 この起死回生策として考えられたのが,民族資本であり,フランス第4位の自動車メーカーであるMathisとFord SAFとの合弁で誕生したMatfordの設立です.
 Mathisは,Ford SAFを上回る台数の自動車を生産していましたが,大恐慌により財政破綻を来し,Ford SAFとの合併を選択しました.
 持ち株比率は,Ford SAF60%,Mathis40%でした.

 この新会社は,乗用車の製造,組立,販売,サービスを営み,Mathisからストラスブール工場を,Ford SAFからアスニエール工場を賃借しました.
 新会社は,Fordのディーラー300名と,Mathisのディーラー200名も傘下に従えていました.
 しかし,1938年には内部紛争により,敢えなくMatfordは解散してしまいました.

 その後,Ford SAFは,1938年に400万ドルを掛けて自動車一貫製造工場であるポアシー工場を建設し,1939年にこれを完成させます.
 これにより,Ford SAFもドイツの子会社より大きな工場を持つことになりました.

 ドイツの場合は少し事情が異なりました.
 と言う訳で,ドイツと英国については明日以降.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/25 23:13

 さて,ドイツの自動車生産はフランスやイタリアとは異なりました.

 1931年の自動車に対する関税は,1927年に比べて寧ろ低下しています.
 しかし,1931年5月11日には,オーストリア最大の商業銀行であるVienna Kreditanstalt(ウィーン信用銀行)が破産し,それが諸銀行を業務停止に追い込んで,経済状態は悪化,経済危機は深化していきます.
 1931年6月15日,Ford Motor Company A.G.(ドイツ・フォード)は,その経済危機の真っ直中でケルン工場を完成させました.
 お陰で,開設当初の稼働率は僅か13%であり,7月13日には早くも工場閉鎖してしまいました.
 間もなく工場再開に漕ぎ着けたものの,工場労働者やディーラーの数は激減して,僅かに手許の既定注文にのみ応じる有様でした.

 この時期のFordのシェアは,1.9~1.3%であり,GM系列のOpelが20.2~18.6%であったのに対し,惨めなものでした.
 その上,ドイツは国家主義的性向を強め,国産品指向の傾向は更に強まってきました.
 1933年1月2日から,Ford Motor Company A.G.では,英国で生産されていたModel Yを輸入するのを止め,ケルンで生産を開始しますが,丁度その頃,ヒトラー率いるドイツ国家社会主義労働者党が国会で第一党となり,3月にはヒトラー政権が誕生しました.

 これもFordにとっては打撃で,ヒトラー政権からは,Ford車を輸入ではなく完全国産車とするように圧力を掛けられることになりました.
 例えば,5月20日以降,Ford車をドイツ国産とする為には,エンジン,トランスミッション,前後車軸を現地で製造するか調達しなければならなくなります.
 こうした多数の部品を輸入に頼っていた為に,Ford Motor Company A.G.の経営もまた赤字を長らく免れることが出来ませんでした.
 更に,Type Yのドイツでの現地生産移行は,英国で主力商品と位置づけて生産していたFord Motor Company(England)の屋台骨を揺るがす事態になり,英国Fordは損失しか出ない状態まで追い込まれてしまいました.
 因みに,GMの子会社であったOpelは,長らく現地で活動していたので,現地法人と見なされて,Fordほど苦境に立っていません.

 この状態が解消したのは,1935年に新型車EifelとV-3が殆どドイツ製の部品を使って生産される様になってからで,全体の販売高も上昇してきました.
 その結果,同年にはFord Motor Company A.G.のシェアは8%を占めて第5位となり,1936年,トラックの生産ではOpelに次いで第2位を占めるまでになります.

 その年からヒトラー政権は経済4カ年計画を打ち出し,ドイツの製造業者は,原材料を購入する外国為替を得る為に,輸出を増大しなければならなくなります.
 Ford Motor Company A.G.は政府に協力して輸出増大を図り,大量の政府注文を得る様に活動しました.
 その結果,1938年にケルン工場の利益は,1934年の2,000ドルから48.7万ドルへと増加して輸出は空前の高さに達し,遂に歴史上初めての配当を支払ったのです.

 しかし,再軍備に伴う資金移動の規制により,その利益は親会社に送られることはなく,それを内部で留保するか再投資するしか使い道はありませんでした.
 Ford Motor Company A.G.は,ケルン工場の拡大を図って新しい機械工場を追加し,在庫品の減少,床面積の有効利用,流れ作業の円滑化を達成しました.
 更に,1939年にはベルリン工場を完成させ,更に7月には,よりドイツ色を強める為に,Ford Motor Company A.G.からFord-Werke A.G.へと社名を変更してしまいました.

 つまり,ヒトラー政権は,ドイツで販売する車をドイツの材料で,ドイツの国内で製造させ,しかしながら,その利益の送金を阻止し,軍用に役立つ為のトラックの開発を強いた訳です.
 完全に国内から追い払ったイタリアとは対照的な動きだったりします.

 一方,英国の方は,1930年代初頭でも米国程生産量は減少せず,1930年代末には倍に拡大しました.

 この拡大は,不況の影響と,大型車に対する差別的な重課税の影響により,小型車の増加によって達成されました.
 課税馬力10馬力以下の小型車は,1928年に市場占有率の4分の1程度でしたが,1933年には60%に増加しました.
 その中でもヒット商品となったのが,Ford Motor Company(England)で1931年後半に発売されたFord Eightでした.
 この車は,小型車市場で急速にシェアを伸ばし,1934年の小型車市場の占有率は実に54%に達しました.
 しかし,1935年にMorris Eightが発売されると,総需要量は5万台から8万台に増えたにも関わらず,Ford Eightの販売数は1934年の27,000台から17,000台へと40%近くも激減します.

 Morris Eightは,第2次大戦前の英国車の中で最も成功した車になりました.
 これに対抗する為,Ford Motor Company(England)は,1935年10月,Ford Eightを115ポンドから100ポンドへと13%引き下げました.
 因みに,Morris Eightは120ポンドでしたから,この値下げにより,翌年には見かけ上の販売数は33,000台と約2倍になりましたが,売上高は値下げにより相殺されてしまい,10%しか利益率が増えなかったりします.
 結局,この安値競争は1937年には終熄し,新車発売による全社一斉値上げの後は,見かけ上,Fordの値上げ率は相当大きくなっており,結果的に他社との比較で10%安に設定しただけに留まりました.

 つまり,Ford Motor Company(England)の販売政策は,「同じ乗用車を安い価格で提供する」事から,「より性能の良い乗用車を同じ価格で提供する」方向へと舵を切っていきます.

 この10年間を通じ,英国の自動車メーカーは3分の2に淘汰され,MorrisにしろAustinにしろ,民族系のメーカーは軒並みシェアを低下させました.
 Morrisは51%から26.9%と半減,Austinは37.3%から24.3%へとこれも減らしています.
 代わって出て来たのが片やFord Motor Company(England)であり,片やVauxhallでした.
 Ford Motor Company(England)は5.7%から14.7%へと3倍増,Vauxhallに至っては僅か1.1%から10.4%と実に10倍の成長です.
 この様に,英国の自動車メーカーは,Morris,Austin,Ford Motor Company(England),Standard,Roots,Vauxhallの6社による寡占化が進んでいきます.

 Ford Motor Company(England)がシェアを伸ばしたのは既述の様に,1931年8月発表のFord Eightに代表される様に,小型車の分野で価格競争よりも品質競争を英国の民族資本に挑み,米国オリジナルの大馬力車の生産を棄てて,小型車に経営資源を集中させたのが1つの勝因です.
 一方のVauxhallは,逆に20馬力,26馬力と言った大型車の分野で,Cadetと言う6気筒車を開発して市場に投入し,成功しました.
 Cadetは,Vauxhallの経営にGMが参画して初めての新車で,旧来のVauxhallの半値で売られました.
 当然,この価格帯では非常に安く,これが大当たりした訳です.

 MorrisとAustinは,米国の自動車資本が有する巨大な資本や利益,技術開発力に対抗し得ませんでした.
 いくら米国流の大量生産技術を導入したと言っても,それを導入するのには相当な資本が必要です.
 これは,商品開発力にも言えることで,市場が小馬力モデルに移行し始めたのに,それに追随出来ず,市場に小型車を投入出来たのはやっと1930年代半ばの事でした.
 Austinの傷が浅かったのは,偶々,この価格帯にAustin Sevenを持っていたからに他なりません.

 更に米国流の大量生産は,同じモデルを殆ど変えずに量産し,余りモデルチェンジを行いませんでしたし,ボディなどに多様なものを選択させない,ひたすら,規模を拡大させることで結果的に生産費を逓減させる方向に持っていったのに対し,MorrisやAustinは,その逆に少量多品種生産に拘った為に,規模の経済性を発揮出来なかった事も上げられます.

 因みに,Austinは1934年に年産5万台の規模で,シャシーの基本形は9種類,それに対しモデルは実に44種類に達していますし,Morrisも,1926~29年に5種類のニューモデルを発表し,更に1929~1932年迄に,4種類のモデルを追加して発表しました.
 これでは,規模の経済性は発揮出来ませんね.

 そう言えば,数年前の日産とトヨタも同じ様な感じだったのではないかなぁ,と思ってみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/26 23:16


 【質問】
 WW2でどこかの国が,組み立て式のオートバイを開発していたと思うんですが,型番とか分かりますか?

 【回答】
 英国SOEのウェルイン研究所が開発して,Excelsiorが生産したExelsior Welbikeと,イタリアのVolugrafoの開発したVolugrafo Aermoto.
 米国は,折りたたみではありませんが,Cushmanが,Cushman 53 Autoglideを開発しています.

 Excelsiorのものは戦後,米国に渡り,コーギーによって改造,販売されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2007/04/05(木)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 Skoda PA-II "Zelva" (Turtle)って何?

 【回答】
 チェコスロヴァキアが1924~25年に12輌生産した装甲車.
 うち2両は,非装甲の訓練車輌として使われた.
 非公式な名称としてOA vz.23の名も知られている.
 1927年,ウィーン警察に3両が売却された.
 5人乗り.8mm機銃4丁装備.時速70km.
 4輪駆動で,運転手は前後に一人ずついた.

 【参考ページ】
http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/Czech/Czechoslovakia.html
http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/austria/austria.html
http://www.patriotfiles.com/forum/showthread.php?t=109772
http://www.militaryphotos.net/forums/showthread.php?t=138192
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=26&t=47165
http://www.palba.cz/viewtopic.php?t=384
http://en.wikipedia.org/wiki/OA_vz._27

【ぐんじさんぎょう】,2009/12/13 23:00
に加筆

(画像掲示板より引用)


 【質問 kérdés】
 装甲車V-3「自由デンマーク」について簡単に教えてください.
Kérem, mondja meg a páncélautó V-3 "Frit Danmark (magyarul Szabad Dánia)"-ról röviden.

 【回答 válasz】
 デンマークのレジスタンス組織が秘密裏に製作した即席装甲車で,1945年2月,ヴィクトル・イェンセン技師によって設計され, フレデリクスバルク Frederiksværk の機関車工場で作られた.
(図1)
(図2)
 フォード製トラック・モデルAAを鉄板で覆い,7.92mmマドセンM1924機関銃で武装.
 何箇所かには小銃弾に貫通された跡があるそうで,防弾性はその程度.

 ちなみにV-3というのは,
「ドイツにV-1,V-2という秘密兵器があるなら,俺たちの秘密兵器はこれだ!」
くらいの意味合いで,ジョークでつけられた呼称.

 実戦参加は1945.5.5.
 前日にデンマーク駐留ドイツ軍は降伏していたが, Asserbo 近くの農場に立て籠もる対独協力者達との戦闘に投入された.

 現在はコペンハーゲンの自由博物館に展示されている.
(図3)

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/362945/en/ ※図1~3引用元
http://www3.plala.or.jp/Last-Kampf/Denmark.htm

mixi, 2018.4.10


 【質問】
 L-170装甲車って何?

 【回答】
 Pansarbil FM/29,別名L-170は,スウェーデンが1920年代に色々試行錯誤して作っていた装甲車の一つで,1929年から開発されました.
 チーダホルム・トラックのシャーシを基に,おそらく装甲板の代わりに鉄板を使って車体を作っていました.
 1932年春には完成し,85馬力のエンジンで時速60kmを出せましたが,重量は8tとなり,高価だったので,中止されましたとさ.

 【参考ページ】
http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/swe/Swedish.htm(写真上)
http://www.bjorns-story.se/private/axvallapanzarhtm/pansarmuseum_eng.htm(写真中・下)

http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25sw03L170.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25sw03L170b.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25sw03L170c.jpg

【ぐんじさんぎょう】,2008/11/20 22:18
に加筆


 【質問】
 Landsverk装甲車について教えてください.

 【回答】
 1930年代,SwedenにあるLandsverk社が,自国軍用と輸出用に開発した一連の装甲車で,最も成功したのがLandsverk180です.

 180はScania-Vabis社の6×4トラックの駆動装置,後部輪,リアアクスルを流用したもので,エンジンはトラックと同様にFrontに装備し,それを装甲されたボンネットで覆っています.
 ドライバーはガナーの側に座り,砲塔は後部輪の前方に装着されていました.
 多くの場合,その砲塔には20mmMadsen機関砲(弾丸300発)と,同軸機銃が装備され,他に車体後部に機関銃(弾薬合計2,800発)が装備されています.
 なお,Landsverkの車輌は多くの場合,後部座席にも操舵装置があり,其処に射撃手を兼ねた運転手が座っていました.

 Landsverk182はほぼ同型車ですが,僅かに小さく,馬力の小さなエンジンが搭載されています.
 1970年代初頭まで,アイルランド陸軍で少なくとも3両が使用されていましたが,エンジンは後に英国のLeyland製に換装されています.
 他に,Finland,Magyarにも輸出され,Denmarkで採用されたもののシャーシは,Scania-Vabis社の6×4トラックでなく,ドイツ製Bussing-NAGのトラックがベースになっていました.
 1輛当りの価格は1937年当時6,000ポンドだった様です.
 HollandではDAFによってM180として量産が為されました.

 廉価版として185もあります.
 こちらはFordsonの4輪駆動シャーシに装甲ボディを架装したものですが,Fordのエンジンを搭載しており,砲塔には20mmMadsen機関砲1門(弾薬300発),同軸機銃1丁,前方機銃1丁(弾薬合計3,520発)ですが,アンダーパワー気味だったので,余り売れませんでした.

 1938年,デンマークからの注文を受け,3両製作したのがLynxと言う装甲車です.
 4輪駆動,4輪独立懸架の贅沢な車輌で,これに20mmMadsen機関砲1門と8mmMadsen機銃1丁を搭載した砲塔,車体前後に8mm Madsen機関銃を搭載したものです.
 18輛発注され,9輛ずつ2部隊に装備される予定でしたが,ドイツの侵攻を受け,3輛受け取った時点で残りはキャンセルとなり,3輛は1943年にドイツに接収されてノルウェーや東部戦線の警察車輌として使用されています.

 もう一つの系譜としては,1930年に試作した戦車と装甲車の合の子である30シリーズがあります.
 原型は1929年にドイツ人技師の手によって造られたものであり,Kazan'でテストされました.
 (元々,Landsverk社自体がドイツの戦車開発の隠れ蓑)
 1931年に完成したL10戦車と並行で開発され,37mmBofors砲と6.5mm機銃1丁を搭載した砲塔は,L10と同型,これに前方機銃1丁を搭載して,戦車型の車体を持ち,履帯の外側に駆動輪を持つものでした.
 車輪と履帯は20秒で切り替えられ,しかも走行中でも切替えが可能でしたが,機構が複雑な上, 高価だったので,スウェーデン陸軍は試用しただけで採用はしませんでした.
 その後,発達型でL30より小型軽量のL80が開発されましたが,これ以上の開発は行われていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


◆◆◆◆対戦車装備・総記


 【質問】
 戦車猟兵・対戦車砲兵の編成や装備,戦歴を纏めた書籍はありますか?
 戦車に関する本はあっても,対戦車砲に関する本は余り見ないので.

 【回答】
 オスプレイのシリーズで
『突撃砲兵と戦車猟兵』
『8.8cm対空砲と対戦車砲』
『第二次大戦の歩兵対戦車戦闘』
が出てる.
 一番下以外持ってないんで断言はできないが,有用だと思う.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 あと,ジョン・ウィークスの「対戦車戦」
 編制・装備・戦歴というより,対戦車火器の変遷を追った感じのもの.
 WWIから中東戦争あたりまでフォローしてたと思う.

ばばぼん♪ ◆gdH1Km1a0U in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 対戦車戦はいいぞ.
 全編に渡ってブリテン分が溢れる傑作だ.

 まだ出てない所で,大日本絵画のDVDブック「対戦車戦1943」
 イアン・フォッグ「大砲撃戦」(文庫は省略多くて駄目.赤本で)

 あとは少し外れるが,源文氏の『武器と爆薬』もいいかも.
 火薬を使う兵器を一通り解説してて,ソ連76.2mm野砲の発射手順が載ってたりする.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦時の対戦車砲についてお聞きしたいのですが,対戦車砲には防盾って物がついていますよね?
以前はてっきり敵からの防弾の為かと思ってたんですけど,戦車の発砲時の話とか聞くと,
「あれは発砲時の衝撃波や爆風から砲兵を守る為の盾なのかなぁ?」
と思うようになりました.
 対戦車砲の防盾の認識はこれであっていますか?

 【回答】
 確かに,対戦車砲の防盾は敵弾や弾片から砲操作員を守ること,砲口衝撃波や砲口炎から砲操作員を守ること,の他に,
「自分が撃破した戦車等から飛んできた,破片や爆風から砲操作員を守る」
という重要な存在意義がある.

 もし500mだの300mだのといった至近距離で戦車を仕留めたり,敵陣地や敵兵の集団を榴弾で吹き飛ばしたりしたら,場合によっては対戦車砲のところまで破片や爆風,場合によっては自分自身がぶっ放した榴弾の炸裂破片や爆風が飛んでくる.
 これらから自分自身を守るためにも,直射砲に防盾は必要.

 ある戦争劇画家の人(このスレッドにもたまにいらっしゃいますね)は,モンゴルに行って軍の射撃場で76.2mm対戦車砲の実弾射撃を体験させてもらったが,砲身をほぼ水平にしたゼロ距離射撃をしたので,砲弾はほんの数百m前に落下して炸裂.
 帰国後,その光景を撮影したビデオを見た専門家の人に
「これ,砲が自分の撃った砲弾の危険域に入ってるよ.
 目の前に着弾してるじゃない・・・」
と言われて
「そ,そうですか・・・あははは」
と,今更ながらの冷や汗が出た,とか.

 余談だが,対戦車戦闘をしてたら敵の戦車に至近距離に廻り込まれ,自分たちの砲の装填が間に合わず,敵戦車の砲が旋回して砲口がこっちを向くのが見え(照準を合わされた),次の瞬間発砲されて(もう駄目だ!)と思ったら,敵戦車は徹甲弾を装填してたらしく,敵弾は砲盾にキレイな丸い穴を開けただけで,次の瞬間装填した 弾を即座に発射,敵戦車を仕留めた・・・というエピソードもあったり.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 2次大戦時に対戦車ライフルは,現在の対物狙撃銃みたいな使われ方はされなかったの?
 戦車に効かない時点でこんなもんいらねぇよ,みたいな感じで見向きもされなくなったの?

 【回答】
 ソビエト軍はドイツ戦車の戦車長を遠距離から狙撃するのに使ってた.
 ドイツの戦車兵教本では
「指揮官は極力自分の目で周囲を把握しろ」
とされてたので,戦車長はガンガン狙撃された.
 戦車の装甲には効かないが,ぺリススコープやハッチといった小さな目標を狙撃する戦法に変わって,対戦車にも使用されている.
 高初速なので,命中率はかなり高かった.

 また,丸太や土嚢程度で構築された掩蔽壕は,対戦車ライフルだと容易に射抜かれちゃうので,掩蔽壕攻撃にも使われた.

 さらにソ連軍だと,対空で使われたもある.

 ドイツの対戦車ライフルだけは
「弾頭は小銃と同じ(7.92mm)だが,装薬量が何倍もあるのでその分,貫通力に優れる」
という方式だったため,対物用途に不向きで,ドイツは対戦車ライフルを改造して対戦車グレネードランチャーに再生して使用してた.
 でも「この対戦車グレネード威力低過ぎ」で早々にお蔵入り.
 これは弾頭が小さすぎたためなのでしょうがない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦時には対戦車ミサイルの研究ってあったのでしょうか?

 【回答】
 第二次大戦中にドイツが対戦車ミサイルの開発を行っています.
 その結果X-7「ロートケップヒェン」(独語で「赤ずきんちゃん」の意味.名前はメルヘンチック)が開発されました.
 ロートケップッヒェンは砲弾型の胴体に.前進翼の主翼が左右についたユニークなデザインで,有効射程は1200m,
 戦後の対戦車ミサイルと同じ有線誘導です.
 対戦車だけでなく地対空バージョンも開発されていたようです.
 実戦には間に合いませんでしたが,もし実戦投入されていたらかなりの戦果を発揮したものと推測されます.

 また,ドイツはX-4という有線誘導の空対空ミサイルを開発しています
 が,戦後の対戦車ミサイルのモデルになったのはむしろこちらだとか.

モーグリ in FAQ BBS


 【質問】
 WW2まではピアノ線程度で,戦車を本当に阻止できたの?

 【回答】
 本当.

 ピアノ線網に絡まれば動かなくなるのは,WW2前のどこの国の戦車も同じだった.

 ノモンハン戦ではチハは,ばら撒かれたピアノ線を絡ませてしまうと動けなくなった.
 これでも当時,チハの馬力は運用上余裕があるほどで,他には何の問題もなかった.
 チハの開発が決まったのは,元々高出力比の九五式軽戦車について,実戦部隊から
「戦闘中は15km以下の速度しか出さないため,速力が高くてもしかたがない」
と報告されたため.
 チハは試作車2両が作られたうち,むしろ「出力の高いほう」が採用されている.

 また,クルスク戦において,ソ連が構築していたパック・フロントには,敵の進入路に鉄条網とは別に,ピアノ線コイルが張り巡らされ,ドイツ戦車の侵入を防いでいた.
 これを避けたドイツ戦車が対戦車砲の火点に収められるよう,効果的に配置されていた.
 ピアノ線コイルの対戦車障害はソ連独特のもので,ノモンハン以来使われていたもの(歴史群像『クルスク機甲戦』)

 ピアノ線にひっかかると立往生するのはドイツ戦車でも何でも同じことだが,それは障害効果を知らずに不用意に突破しようとする場合で,避ければ少なくとも立往生はせずに済んだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ゾロターン S-18/1100って何?

 【回答】
 ゾロターン Solothurn S18/1100は,スイス・ゾロターン社が開発したS18/1000をオートマチック化した口径20 mmの大型対戦車ライフル.
 1936年に輸出されたが,移動用の二輪付き台車が用意されているほど長大で,また精密工作がなされ高価であるため,あまり商業的には成功しなかった.
 ドイツが軍備制限に背約することなく武器を製造するため,ラインメタル社がゾロターン社を傘下に置き,PzB 785の名でドイツ軍に限定配備された他,イタリアとハンガリーでも少数が使用された.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/ゾロターン S-18/1100
http://en.wikipedia.org/wiki/Solothurn_S-18/1000
http://de.wikipedia.org/wiki/Solothurn_S-18/100
http://www.ww2incolor.com/forum/showthread.php?p=82991(写真引用元)
http://www.ww2incolor.com/german/Bundesarchiv_Bild_101I-189-1250-10__Russland-S__d__Soldat_mit_Panzerb__chse_001.html

S18/1000
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25ss46s18-1000.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq25ss46s18-1000b.jpg

【ぐんじさんぎょう】,2010/04/03 21:00
を加筆改修

「イタリア軍の対戦車兵器」より,イタリア軍使用のS18/1100

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月09日00:43


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

inserted by FC2 system