c

「第二次大戦別館」トップ・ページへ   サイト・マップへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   本館サイト・マップへ

◆◆◆◆英国総記
<◆◆◆連合国側勢力
<◆◆総記
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ


(画像掲示板より引用)


 【link】

『FUBAR: Soldier Slang of World War 2』

 イギリスに旅行に行ったついでにボービントン戦車博物館で本を色々購入.
 第二次大戦時のスラング辞典で,英本国・連邦諸国軍と米軍(陸軍・海兵隊)とドイツ軍のものが載っている.
 洋書や洋画をみる時はもちろん,翻訳書のよくわからん翻訳を理解するにも役立ちそう.

――――――軍事板,2010/03/29(月)

『イギリス摂政時代の肖像 ジョージ四世と激動の日々』(キャロリー・エリクソン著,ミネルヴァ書房,2013.5)

『第二次世界大戦』1(チャーチル著,河出文庫,2001.7)

 チャーチル視点だから当然だけど,イギリスの政界動向がよく書かれていた.
 アメリカで車を左から降りたら,轢かれて重傷とかちょっとワラタ.

 できることなら,『世界の危機』のほうから読みたかった.
 洋書のほう頑張ってみるかな.

――――――軍事板,2011/01/14(金)

 【質問】
 独軍や赤軍の書籍は多いけど,英軍の書籍はあまり見かけない気がします.
 いい本ってないものでしょうか?

 【回答】
 チャーチルが大作を書いてるじゃまいか(笑

 なお,マッキンタイアの「海戦」とかお勧めしてみる.
 あとは,
ムーア「砂漠の戦争」
リーソー「グリーン・ビーチ」
Kマクセイ「ノルマンディの激戦」
Aロイド「危うし空挺部隊」
ウィンゲート「イギリス潜水艦隊の死闘」

 ほかにもBoBあたりなら,「空軍大戦略」以外にもいろいろ出てます.

 あと,サンケイ赤本の「米英機甲部隊」も,確か元英軍士官の著作だったような気がする.

 英軍の戦術なら,
歴群アーカイブス「戦術入門」→WW2各国の戦術紹介
「萌えよ,戦車学校B型」→WW2時の各国の機甲戦ドクトリンを紹介
も参考になります.

 また,70〜80年代初期に関しては,ホビージャパン「Combat Skils1〜3」にも,英軍教範からの抜粋が結構載ってます.

Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/09/25(日)
青文字:加筆改修部分

 「遙かなる橋」がまだ出てないのはどういうこった.
 あと,
ルイ・アレン「ビルマ・遠い戦場」
チャールズ・ラム「雷撃」
ノエル・バーバー「不吉な黄昏」
当たりも押さえたいかな.

 「機甲戦の理論と歴史」に10頁くらい,WW2までの英軍機甲の解説があった.
 「萌えよ〜」よりは詳しいんじゃないか?

 また,英軍の機甲戦術って意味では,ソンムはアレだが,カンブレーからアミアンの流れも見たほうがいい.
 というわけで,ダグラス・オーギル「戦車大突破」.
 今「上」だけ出てる歴史群像アーカイブ「第一次世界大戦」の次に出る「下」にも,一昨年辺りの「歴史群像」に掲載された「カンブレー1917」と「アミアン1918」が収録されるはず.
 安いのでおめ.

軍事板,2011/09/25(日)〜09/26(月)
青文字:加筆改修部分

 「遥かなる橋」は空挺3・5個のうち,英軍は1個だけだし…
 後は米と波…
(地上は全部英軍ですが)

 ちなみに「危うし空挺部隊」は,英グライダー部隊を焦点にあてた本で,マーケットガーデンの章も当然あります.

 そういや,ランカスターのダム攻撃のもありましたよね.
ポール・ブリックヒル「暁の出撃」

 そういや「633爆撃隊」の出てましたね.
(確か続編も出てたはず)

 フィクションになれば英軍は,海軍物がいくらでもありますな.

 ……

 あー,英軍で1個大きなのわすれてた.
「コヒマ」

Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/09/25(日)〜09/26(月)
青文字:加筆改修部分

 ビルマつながりで,「ウィンゲート空挺団」も.

 なお,ブリックヒルの「暁の出撃」は,執筆時期が古いので,特殊爆弾の構造や原理が秘密指定解除前のため,詳細が書かれておらず,資料的な価値はあまり高くない.
 暁の出撃は爆弾の原理を知るための本じゃなくて,どう運用したかっていうか,ランカスターの乗員が何やってたかの本だし.

軍事板,2011/09/26(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「イングリッシュペイシェント」って第二次世界大戦を舞台にした映画で,英軍のインド人中尉が,白人の軍曹を指揮してるんですけど,実際に非白人の上官が白人の部下を配下に置くことは当時,可能で,よくあることだったんですか?
 かわぐちかいじの「ジパング」では,インド人将校の下に置かれるのは皆インド人の兵士でしたけど.

 【回答】
 インド人の将校には二種類ありました.
 一つは,インド帝国皇帝(つまり,英国国王)から任命された将校,もう一つはインド副王から任命された,副王任命将校で,これはジェムダル→スブダル→スブダル・メイジャーと階級が上がります.

 前者は,正規の教育を経た英国の将校という位置づけなので,インド人将校が英国人兵士を指揮することは十分可能です.
 某漫画は所詮漫画ですからね〜.

 後者は,どちらかというと叩き上げのインド人下士官兵から選抜されたもので,スブダル・メイジャーになると,インド人下士官兵に関するあらゆる問題について,英国人連隊長に助言を行うのが役目で,英国人兵士に対する権限はありませんでしたが,下士官から選抜される将校だけに,経験が豊富なため,インド人,英国人双方から尊敬されていました.
 なお,ビルマ軍の場合は,これが総督任命将校と言う名称になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/04(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ英国はヒトラーを抑えることに消極的だったのか?

 【回答】
 イギリスにとってはヨーロッパよりも,「お家」のほうが大事だったためだという.
 以下引用.

 1930年代のイギリスは――仮想敵国と比べた場合――半世紀前より遥かに少ない資源で世界各地に広がる帝国を防衛しなければならないという課題に直面していた.
 イギリスが例えフランスと同盟を組んでも,3大陸で日本,イタリア,ドイツからの挑戦を同時に耐えねばならない状態に追い詰められていたのである.
 いずれにしても,イギリスは常に,ヨーロッパ大陸への大規模な軍事介入を避けてきた.
 1914年から18年には,この伝統を立ち切って大陸に軍事介入したわけだが,その代償は膨大で,二度とこんな経験は繰り返すまいと考えた.
 このため,イギリスは東・中央ヨーロッパの領土問題の解決に深い思い入れもなければ,ドイツの挑戦に対して武力を行使してまで防衛しようとも思わなかったのである.
 イギリスはドイツの承諾を得ようとして,現地の人々に犠牲を強いて数多くの譲歩を,進んで重ねていった.
 要するにイギリスは,「ベルサイユ体制」の道義性に疑問を抱き,再びソンム川へと戻らねばならない恐怖感にも駆られていたのであり,イギリスにとってはヨーロッパよりも,むしろ帝国の優先順位や関係のほうが大事だったのである.
 その結果,1939年9月,遂にヒトラーの挑戦に直面すると,イギリスが西部戦線に派兵したのは,あまり見栄えのしない2個師団というちっぽけなものでしかなかった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.146-147


 【質問】
 第二次大戦中の米国からの武器購入の代金を,英国はどのようにして支払ったのか?

 【回答】
 1939年9月から第二次大戦が勃発した事を受けて,英国とフランスでは動員を掛けると共に,不足する兵器を各国に発注して取揃えることになります.
 特に期待されたのは,米国からの武器購入でした.

 しかし,当時,米国には中立法による制約があり,英国を中心とするスターリングブロックからの対米調達は,金,もしくはドルで決済する必要がありました.
 更に,戦時スターリング地域の設定と戦時為替管理の導入に伴い,ポンド自体が自由交換性通貨の性格を失った為に,米国以外の第三国地域との取引に於ても,英国を始めとするスターリングブロックは,金・ドル決済を余儀なくされます.
 1940年6月以降はフランスの対米調達分も引き取った事に伴い,英国の金・ドル資金は急速に枯渇に向かいました.

 また,英国は非居住者並びに外国人居住者の一部に対しても,資金の海外移転に可成り自由を与えたこともあり,戦争初期(1939年9月〜1940年12月)には,資本流出額は7億3500万ドルに達しました.
 このうち2億ドルは,中立法の「現金自国船方式」に従い,米国輸出信用の開戦時未払い残高の返済に充てられたとされ,3億ドルが自由ポンド市場を通じて移転された純粋な資本逃避分,残り2億3500万ドルは戦前の短期先物ドルポジション清算とされています.

 英国の持つドル資金源は,大部分,保有金準備とドル証券でした.
 英国は,大戦勃発時点で20億3800万ドル分に上る金を保有していました.
 ドル証券は,第一次大戦にも行った手法で,英国人保有のドル証券を,Defence(Finance)Regulation No.1(国防(金融)規制第1号)並びにS.R. and O. No.966(1939.8.26)によって大蔵省に預託させ,英国政府はこれを米国で処分することによりドル資金を調達すると言うもので,これらの総計は約9億5000万ドルに達しました.
 総計で比較的英国が容易に利用出来る流動的ドル資産は, 合計28〜29億ドル,加えて,直接投資,民間保有ドル残高を加え,英国にあるドル資産は,44億8,300万ドルと推計されていました.

 これに対し,1939年9月〜1940年12月までに英国が買い付けた兵器を始めとする対米取引による英国並びに大英帝国地域のドル総支払額は,43億4,600万ドルで,このうち,軍需関連調達は合計13億8,000万ドル(製品の納入分6億6,000万ドル,米国企業への資本援助1億5,000万ドル,前払い分5億700万ドル)でした.
 一方,英国のドル受取総額は20億3,000万ドルだった為,1940年末までに差額23億6,000万ドルを,全て開戦時に英国が保有していた金準備とドル資産で賄う必要があった訳です.

 米国政府は,1934年のジョンソン法により対英仏政府貸付が禁止され,1939年9月5日の中立宣言による米国からの交戦国に対する武器の輸出や対米買い付けに対する英仏への貸付も禁じられていたのですが,中立法改定により「現金自国船」方式で,何とか軍需品については英仏に売却が出来る様になりました
 しかし,政府貸付は相変わらず出来ないままでした.

 この為,当初は民間が英国大蔵省の許可の下,米国市場でドル証券を売却し,大蔵省にドル代金を引き渡す事で,ドル資金の調達が図られていました.
 とは言え,余り大量にドル証券を米国市場で売却すると,米国市場の混乱を招きかねない事,民間ベースでドル証券の処分には限界があることから,1940年12月には金現送が可成り必要とされました.

 この金現送を出来る限り回避するため,1940年2月17日に,60種,約3,000万ポンド相当の米国企業の株式に対し,最初の証券付託命令が出され,1940年4月末までに約3,400万ポンドが調達されました.
 4月13日には,約2,600万ポンド相当の米国証券に対し,第二次付託命令が出されます.
 これにより,登録済みで接収されていない上級の米国証券は,約1億3,000〜4,000万ポンド分を残すのみとなりました.
 ところが,1940年5月,ドイツによるデンマーク,ノルウェー,低地諸国への侵攻に伴い,ニューヨーク証券市場の市況が悪化し,証券売却によるドル資金調達は頓挫することになりました.

 と言う事で,1940年6月末までに英国の金・ドル準備額は合計15億7,200万ドルに減少し,僅か1年足らずで6億5,500万ドル分の損失を生じました.

 更に悪いことは続きます.

 連合国だったフランスの脱落に伴い,英国はその対米契約を引き継ぎ,米国の余剰兵器を大量に購入することになります.
 更に対米調達は急増し,特に1940年7月後半には,BoBで失った航空機の補充の為にも,米国から航空機を月3,000機調達するプログラムも明らかになり,このプロジェクトには総額約70億ドルに達するものとなります.
 こうして,僅か1ヶ月の間に英国の金・ドル準備額は証券を除いて,12億8,000万ドルと急降下していきます.
 更に,翌8月迄に2億2,800万ドルが流出し,1941年6月までに,対米赤字額は32億ドルに達すると推計されました.

 こうした事態を重く見た英国政府は,1940年3月以降,特に6月,7月から為替管理の強化を図りました.
 特に自由ポンドを通じたドル流出の抑止に重点が置かれています.

 禁じ手としては,ロンドンに本拠を持つ各国の亡命政府が保有する英国管理下の金準備の利用とか,英国の直接投資の処分が考えられました.
 当時,英国の管理下にあった金準備は,ベルギー8,700万ポンド,オランダ2,350万ポンド,ノルウェー1,300万ポンド,チェコスロヴァキア約750万ポンドなどがあり,フランスに関しては,オタワにフランス銀行に対するイングランド銀行保有金7,000万ポンド,カナダ銀行保有金9,000万ポンドがありました.
 このうち,1941年初めにベルギー保有分約5,900万ポンド分を,戦後復旧を条件に残部に関するオプション付で引き取ったほか,チェコスロヴァキア保有分に関しては,1940年7月,チェコスロヴァキア臨時政府承認と絡めて,合意の下で,敵資産管理として,イングランド銀行の手に委ねられました.
 しかし,オランダやノルウェーについては,英国は金貸付を嫌って使用せず,フランスの金については,下手に流用すれば,ケベック問題に絡む可能性が出て来るので,使用しませんでした.

 こうなると英国としては八方塞がり.
 ドイツと戦争するのに,ドイツは幾らでも打出の小槌の様に刷れば資金が出て来るのですが(国債を使い,国内の銀行に保有させるという手法に加え,輸入と言うのが殆どドイツは無い),英国は保有する金が目減りする一方で,こうなれば,大きな財布を期待するしか有りません.
 しかし,当時の米国は,孤立主義の風潮が根強く,直ちに対英援助を開始することが出来ませんでした.

 其の上,F.D.Roosevelt政権自体,英国の金・ドル資金の枯渇には疑念を呈しており,米国側は,英国に支払い能力の総浚え("scrape the bottom of the barrel")を要求し,その完全な枯渇を前提に初めて援助すると言う姿勢を示していたのです.

 歴史では偶々,「戦争屋」Winston Churchillが政権を担った訳ですが,これが全然違う人物だったら,英国はBoBを戦っただけで,金が無くなって,白旗を揚げずにおれなかったかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/23 20:57

 1940年9月末には,英国の金・ドル準備高は8億9,700万ドルに落ち込みました.
 しかも,このうち約6億ドルは為替相場安定のための基金として維持しなければならないものであり,そうなると,英国が自由に出来る金・ドル準備高は僅か2億9,700万ドルとなり,1939年末の21億ドルに比べると僅かに7分の1になってしまいました.
 こうなると,英国は国家破産の危機に瀕していた訳ですが,1940年に,対英援助を積極的に行おうと言うF.D.Rooseveltの大統領再選が決まり,その方針転換を受けて,英国政府は次々と大型対米調達プログラムを発動させます.
 航空機購入については,従来のものに加え,16億9,400万ドル分が加わって,24億1,000万ドルに達し,軍需品については4億1,900万ドルの追加で7億5,900万ドルに上り,戦争第2年次に英国が必要としている対米調達総額は,1940年7月推計の18億9,200万ドルから倍増して,39億7,600万ドルと見込まれることになりました.
 こうなると,英国の赤字額は35億ドルに達します.

 年末になると,英国の金・ドル準備高は,金準備2億9,200万ドル,其の他公的・私的ドル残高3億5,900万ドルの6億5,100万ドル強に落ち込み,在米直接投資などの9億ドル,ドル証券残高の6億1,600万ドルを加えても,英国の総ドル資産合計額は開戦時の半分以下に落ち込みました.

 こうして,窮地に陥った英国を助けるべく,米国が採ったのが1940年12月17日の「レンド・リース」方式での対英援助の基本構想であり,1941年1月2日迄に基本案が纏められ,1月5日に大統領の年頭教書で議会に提示された後,1月10日に議会に提出,最終的に"An Act to Promote the Defence of the United States"(米国国防推進法)として議会を通過し,成立しました.

 以後,1945年後半に至るまで,総額460億ドルに上る援助を与えることになりました.
 この最大の特徴は,ドルの債権債務関係を明示的に形作るものではないと言うものです.

 其処には,第一次大戦当時の米国の連合国援助は「政府現金貸付」方式であり,この貸付を巡って,戦後に英国やフランス,ベルギーなどの各国がその返済に苦慮した問題が生じた轍を踏むまいと言う意志がありました.
 このレンド・リース援助は,貸付ではなく,ドル表示の消去が意図されました.
 代わって,このプログラムには,米国は自身の国防への貢献から来る一般的利益を越えて,特定の利益によって補償されるべきものと抽象的に定義されました.

 しかも,レンド・リース法自体には,援助供与の条件・条項が盛り込まれることはなく,支払い・返済や其の他直接・間接の米国への「利益」に関しては,大統領が決定すべき事項とされています.

 大統領はレンド・リース法によって広範な権限を持ちました.

 先ず第1に,大統領は,援助適格国と宣言された諸国政府の為,米国政府の機関,部局に対し,
1. 国防品の製造・調達,試験・検査其の他の権限を与える.
2. 国防品に関して,その売却・移転・交換・リース・貸付其の他の部分の処分の実行,情報交換を行う.
と言う2つの権限を付与出来るものとしました.
 第2に,大統領は,「国防品」13億ドルまでは,援助に関する裁量権を与えられました.
(但し,この権限はByrd修正条項によって其の他は全て議会による特別の支出認可法が必要とされた)

 米国の各部局支出認可資金によって調達される国防品の一定割合を対外援助に使用する,Transfer方式は,米国参戦後に成立した第3次補正国防支出法によって本格的に導入されましたが,その前提として,米国は英国を初めとする連合国各国が必要とする軍需品の量を,英米の軍事戦略・経済・生産全体に結合して,統合的に運用する必要がありました.
 故に,1941年12月8日以前は,8月の第1次国防補正支出法に於ける海事委員会への12億9,600万ドルが初めて認可されたに止まりました.

 第3次国防補正支出法では,陸軍省に20億ドル分,自省の契約を同盟国に移転する権限が与えられ,海軍省にも新規支出認可の25%までを同盟国に移転する権限が与えられることになりました.
 一方で,大統領の裁量が13億ドルから8億ドルに削減され,陸軍以外の調達に制限されることとなります.

 取り敢ず,英国としては戦争遂行上の隘路が一つ解決された訳ですが,これは無条件援助と言う訳ではなく,
1. 大統領の同意無しに援助受取国が国防品や情報を他国に移転出来ない
2. アメリカ市民の特許保護義務を負う
と言う足かせがはめられています.

 特に第1の条件は,米英による戦後の経済的覇権絡みの条項だったりします.
 未だ,大戦の帰趨も定まっていない頃から,両国の争いは始まっていた訳で,其処にノコノコ参戦した日本こそ,好い面の皮だったりするのではないか,と思わないでもない訳で.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/24 21:56


 【質問】
 英国にとって植民地は戦争遂行上,役に立ったの?

 【回答】
 最大の植民地(+連邦)を保有していた英国にとっては,最大の利益をもたらしていたのは事実
 両大戦で英国が辛くも持ちこたえられたのは,植民地があってこそ.
 間違っても,レーダー・スピットファイア・・・などと言う無かれ.

 特にインド帝国は,第一次大戦では兵員135万人・戦費2億5千ポンド,物資8千万ポンドをつぎ込み.第二次大戦に至っては,兵員265万人・戦費12億ポンドを英国はインドから 搾り取りとった.

 兵器の発達と共にほかの植民地はいらなくなるけど.

 一方,日本はかなりの予算を台湾・朝鮮・満州につぎ込み,結局は費用対効果は分からずじまいだったが,

軍事板


 【質問】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041020-00000007-wir-sci
>第二次世界大戦の兵士が,毎食出てくるスパムに愚痴をこぼすアニメの展示もある

 スパムってどんな食い物なの??

 【回答】
 スパム,というのは商品名.
 味付け豚肉の缶詰だが,味付けと匂いが独特で,激しく不評だった.

 大戦中食糧が不足したイギリスに,アメリカは大量の食糧援助を行った.
 イギリスの家庭には,肉の代わりにスパムばかりが配給され,その不味さにみんないいかげんうんざりした.
 これがモンティ・パイソンの「スパムばかりしかないレストラン」のコントの元ネタになり,また,大量に送りつけられる迷惑メールの語源ともなった.

 しかし皮肉なことに,この食糧配給制度により,階級格差の大きかったイギリス人の体格は戦時中大きく向上したそうだ.

 今でも,輸入食料品を置いている近所のスーパーでは売れないらしく時々半額で売っている.見つけると良く買う.
 加熱調理済みの豚肉なので薄く切って焼いてトーストに乗せて喰う.
 でも,カロリー高し.

軍事板

▼ 戦時中,前線に近いところでは,米軍有るところ肉と言えば,ランチョンミートのスパム.

 ある飛行隊にいた作家はこう記している.
「朝食には炒めたスパムが出た.
 昼食には焼いたのが.
 夕食にはパンケーキの様に固めたやつが.
 翌朝はホットケーキ付き.

 畜生,何処であんなのを手に入れたんだ.
 きっと樽で注文したに違いない.
 スパム入りシチュー,スパム入りパイ,スパム入りオイルフォンデュ!」

 戦後,Eisenhowerは,ホーメル社の社長に会い,スパムを提供してくれた礼を述べてから,次の様に聞いたとか.
「しかし,どうしてあれほど送ってくる必要があったんです?」

 後,イタリア戦線では兵隊食に厭きた連中が,イタリア人の肉無しパスタを食べに行って, そこのおっかさんが,
「肉が有れば,ラグーになってもっと美味しくなるよ」
と言ったら,翌日,米軍のトラックが100個の肉の缶詰を持ってきた(その中に勿論スパムもあった)そうな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

▼ 以下は『歴史群像』No.88内の「奮闘!イギリス艦隊航空隊 枢軸海軍を痛打した空飛ぶ海賊紳士たち」(白石光) に紹介されている,ビスマルク追撃戦時の英空母ヴィクトリアスの夕食時の一コマ.

 第825中隊の副隊長ジョック大尉「このメニューで生粋の国産品てどれ?」
 給仕係「コンビーフサンドのコンビーフはブラジルでパンの小麦はカナダ.バターはヤンキー製.オレンジジュースは南ア.コーヒーはブラジル.国産は燻製ニシンと人参のピクルスだけです」

 ちなみにイギリス海軍では下士官・兵はコーヒーを愛好しており,艦隊航空隊員もフライト前はコーヒーを好んだそうです.
 (カフェインによる覚醒効果も期待されたそうです)

グンジ in mixi,2008年03月23日14:35

SPAM
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 文庫で出てる,チャーチルの『第二次大戦回顧録抄』(毎日新聞社編訳,中公文庫,2001.7)は,昔毎日新聞が邦訳したやつの抄訳?

 【回答】
 元々は全6巻だったのを400ページ弱にした超圧縮本だよ.

 ただ,チャーチル本人が1冊に編集したので,オリジナルともいえる.
 本の内容は面白いので問題なし.
 6巻読む気にもならないし,研究者以外はこれでいいと思う.

軍事板,2009/12/13(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 チャーチルの「第二次世界大戦」を読みましたが,本人視点ではない,チャーチルおよび英政府の戦争指導に関する本はありませんか?

 【回答】
アーサー・ブライアント著(編?)『参謀総長の日記』
  ・41年位からの帝国参謀総長から見たチャーチルの戦争指導が見られる.
  チャーチル本人の言と食い違うところが結構あると思われる.  

ジョン・コルヴィル著『ダウニング街日記』上下
  ・戦争指導とは半歩食い違うと思われるが,チャーチルの秘書だった人の日記.

高橋光夫・舩阪弘訳『モントゴメリー回想録』

新見政一『第二次世界大戦戦争指導史』

 アトリーとか閣僚のもあったら,私も読みたいところ.

軍事板,2011/06/05(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2英軍における,輸血用血液輸送体制を教えられたし.

 【回答】
 ところで,チャーチルは米軍の野戦病院だけで無く,同盟国である英軍の医療施設も訪問しています.
 英軍では米軍と違って,当初から全血が公式に認められていました.
 英軍では既に見た様に,血液を採取する組織が作られ,それが発展して,血液を段階を追って前線に輸送する階層的な組織が形作られていました.
 この組織を束ねるライオネル・ウィットビー准将は,学識豊かで沈着冷静な医師であり,第1次世界大戦では機関銃射手として従軍し,片脚を失ったと言う人です.

 この組織は,血液を受け取って検査をし,冷蔵して送り出す一連の貯蔵庫から形成されていました.
 ネットワークの起点は英国本土にありました.
 軍の冷蔵ワゴン車が国中を回って,ボランティアが提供した血液を収集し,ブリストルのサウスミード病院に設置された軍の医療施設,ウィットビー曰く,「貯蔵本部」で,血液の冷却や処理が行われ,輸送の準備が行われました.

 そして,主要戦域にある血液銀行の設備を完備した,「基幹輸血部隊」に空輸され,「基幹輸血部隊」では各戦場に必要な血液の量を算定して,本国から血液や輸血用の器具を受け取る役割を果たします.
 血液は此処から冷蔵ワゴン車で,「戦地輸血部隊」に輸送されます.
 「戦地輸血部隊」は,機動性のある輸血本部で,最も必要性の高い場所に速やかに移動します.
 勿論,細菌汚染などに対応する為,要所要所に血液の監視と保護に専従する技術者が配置され,油断無く目配りをしていました.

 こうして,戦争の初期から,北はノルウェーからフランスの基幹輸血部隊まで,何千本の血液が輸送されました.
 北アフリカの場合は,英本土から遠い為,血液を輸送する医学的なリスクを考え,カイロの基幹輸血部隊に必要な設備を送り,現場の医師が独自に貯蔵庫を設置し,軍の非戦闘員から採取した血液を冷蔵トラックで前線に輸送しました.
 因みに,ブリストルの貯蔵本部から,前線までの輸血部隊の組織は,陸軍医療部隊とは別に輸血部門として党買うされていました.

 とは言え,英軍でも,全血の必要量算出は容易なことではありませんでした.
 エル・アラメインの戦闘に先立って,カイロの基幹輸血部隊では何千本の全血と血漿が集められましたが,砂漠の戦闘が長引くと,必要な補給物資が不足し,血液も例外ではありませんでした.
 その時のカイロの基幹輸血部隊指揮官であるバトル大佐によると,部下を市内の通りに派遣してビール瓶を拾わせ,それを洗浄して血液を詰め,前線に送っていました.
 しかも,その梱包も軍に雇われたエジプト人が床に座って,血液の瓶をコンテナーに入れ,回りに藁を詰めていたそうです.
 信じがたいほど原始的な光景でしたが,それでも血液を受け取った軍医達は,バトル大佐の業績をヴィクトリア勲章ものだと称えていたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/15 23:29
青文字:加筆改修部分

 一昨日の時点で,チャーチルは英国の野戦病院を見学し,全血輸血を利用することに,認識を新たにしました.
これは,北アフリカ戦域にいた多くの軍医達も同意見でした.
 そこで,チャーチルは1943年2月24日にワシントンに覚書を送り,北アフリカへ全血と輸血用器具の直接輸送を開始して欲しいと陸軍に要請しました.

 その中に,「血漿を十分に用いると,一定の負傷者はショックから回復するが,大きな手術に耐えられるほどにはならない」との記述をしていました.

 米軍挙げて,血漿や血液製剤の量産に邁進している最中に,こうした提言は,その方針に反するものであるとして,丁寧に要望書は受理されたものの,無視されてしまいました.
 それでも諦めないチャーチルは,数週間後にも再び要望書を送り,「負傷者の内かなりの割合に」全血が必要であることを強調しました…これまた無視されました.
 更に6月にも,3度,血液と輸血器具を求める要望書を提出しました.

 しかし,これらの要望書は,輸送を命令できる立場の男によって却下されてしまいました.
 陸軍軍医総監であるノーマン・T・カークは,気難しい性格で,直ぐに癇癪を起こし,「T.N.T.カーク」と言う渾名を頂戴していました.
 カークは元々整形外科医であり,血液だの血漿だの蛋白質だのと言った基礎分野に付き合うだけの忍耐力に欠けていました.
 カークの見解では,輸血の問題は血漿で解決済であり,それを蒸し返す気は無いと言うものでした.
 しかも,全血を輸送するのは,室温で保管できる血漿や輸送の容易な血液製剤と異なり,保管には冷蔵装置が必要であり,輸送にも細心の注意を払う必要がありました.
 当時,陸軍輸送部隊は多忙を極めており,その様なデリケートな全血を輸送する様な設備も,余分なスペースも無かったのでした.
 また,血液代用物が潤沢になっている状態にしようとしている時に,この様なクレイジーな先祖返り的な考えを抱く必要が無いと考えていました.

 これについては,推論や間違った考え方から出発して,巨大な利権が出来上がっていったと言う側面も否めません.
 米本国は血漿の実用化と,その副産物である血液製剤の製造に,多大な努力が払われ,コーンを中心とした血漿閥とでも言う様な集団が力を持ち,赤十字社,製薬会社や学術研究会議がそれを後援していました.

 とは言え,チャーチルの考え方が完全に否定された訳では無く,それを掩護する人々も陸軍中央にいました.
 特にチャーチルの試みを支持したのは,輸血プログラムを指揮するカークの部下であったダグラス・B・ケンドリック軍医大佐でした.
 ケンドリックはカークとは対照的に,温和で人当たりが良い反面,極めて頑固な一面があり,カークとは全血輸血を巡って良く対立しました.

 例えば,ケンドリックはコーンが主宰する代用血液分科委員会のメンバーとして,アルブミンと共に全血を使用する様促す決議案の草稿を書くのを手伝い,それを自らカークに手渡してみたり,繰返し提案書や,覚書,勧告書を提出し続けています.
 ある時,温和なケンドリックも遂に堪り兼ねて,
「直ちに全血の輸血を開始して下さい!」
と叫び,カークは癇癪を起こして,
「馬鹿野郎! 今度又持ち出したら叩き出すぞ!」
と怒鳴る,一触即発の場面もあったと言います.

 カークの考えは,陸軍は血漿とアルブミンでこの戦争を戦うのであり,全血が必要なら自力で手に入れるが良いと言うものでした.

 ワシントンから何の助けも得られないチャーチル達は,北アフリカで急場凌ぎをしていました.
 英軍からガラス器具を借用し,地元のフランス系薬局でクエン酸を買い求め,飛行場で軍用機の廃物を漁ってガラスや金属管を手に入れて,アルジェリアにささやかな血液銀行を作り,軍の非戦闘員や歩行可能な負傷兵から,血液を1パイント当り10ドルの報酬で採取したのです.
 それは,スペイン戦争でベチューンがやった事の忠実なトレースであり,検査の設備が整っていない為,梅毒やマラリアの検査は出来ませんでした.
 しかし彼らは,
「怪我で死ぬより,マラリアに罹って生きている方がマシだ」
と嘯きながら採血を続けたのです.

 1943年夏には前線が北アフリカからシチリアに移動しましたが,この時もこの方式を採用し,通常の血漿の割当に加えて輸血器具を軍隊と共に輸送しました.
 攻撃中は交戦地域から数マイル後方に,急拵えの血液銀行のネットワークを作り,実戦部隊や軽傷の負傷者から血液を集めました.

 此の間もチャーチルは,上層部を五月蠅く悩ませ続け,遂に上官の不興を買いました.
 北アフリカ戦域を担当する戦域軍医部長から,ワシントンと直に通信するのを止め,アルジェリアの然るべきルートを通す様にと言い渡されたのです.
 尤も,陰湿な仕打ちにチャーチルは屈するどころか,更に大胆な方法に出ます.

 丁度,ニューヨーク・タイムズの従軍記者が,この地域を訪れていたので,記者を招き入れて,
「負傷兵の治療に血漿が不適切だという話をすっぱ抜くべきだ」
と入れ知恵をしました.
 こうして,本国の新聞記事に,
「シチリアで,『生の血液』が血漿では救えない兵士の命を救う」
と言う見出しの記事が出ました.

 また,上の顔色ばかり見ている上官に辟易し,自らはハーヴァードの人間であって軍人では無いと言う理屈付を以て,上官をあからさまに無視して,シカゴのバクスター社に輸血器具を直に注文しました.
 勿論,これはケンドリックが側面から支援していた訳で,ケンドリックも共犯でした.
 必要な書類はケンドリックが提供し,公式の用箋に
「貴君の報告や各地の戦域の報告を見ると,前線の病院で保存全血を使える様にすべきなのは極めて明らかである」
と書き,更にはカークの意向を完全に無視して,バクスター社に対し,
「軍医総監も戦域での全血の必要性をよくご存じで,全血の輸血に必要な器材を供給することを希望しておられる」
とまで書いたのでした.
 ケンドリックは,カークを避けて動きました.
 また,バクスター社はケンドリックが個人的な繋がりを持っていた会社でしたから,カークに知られる事も無く,輸送を認可することが出来た訳です.

 当然,こうした行為は,越権行為に当たるものであり,カークがケンドリックを軍法会議に掛けても良い様な事態を覚悟していましたが,カーク自身の人望が余りにもなさ過ぎ,誰もケンドリックに対する不利な証言をしなかったのではないか,と言われています.

 1943年秋の終わり頃,器材がバクスター社からイタリア戦線に無事到着しました.
 閉鎖採血システムに使う真空ガラス容器が数千個,数マイル分のゴム管,数台の冷蔵庫,数百ポンドに達する検査用試薬です.
 既に連合軍はシチリアの枢軸軍を駆逐してイタリア半島に侵攻し,ナポリに司令部を設けていました.
 ナポリ市は撤退するドイツ軍によって荒らされ,大学は焼失し,病院も略奪に遭っていたので,血液銀行は郊外にバラック兵舎の検査室付のそれが作られました.
 因みに,イタリア戦線で2番目の血液銀行は,ムッソリーニの義理の息子が所有していた,水漆喰塗りの牛小屋に設置されています.

 こうした血液銀行には,O型の非番兵士達が列を為し,報酬と引換えに血液を提供しました.

 1944年1月,連合軍はローマ南方のアンツィオに上陸しました.
 最初の2日間は作戦は順調だったのですが,橋頭堡を確保し,進軍態勢を整え始めると,ドイツ軍は丘陵地帯から一斉に攻撃を開始しました.
 以後数ヶ月に亘り,第二次世界大戦で最も犠牲が大きく最も実りの少ない交戦が続くことになります.
 病院も例外では無く,港に停泊した病院船の1隻は,目立つ赤十字を付けていたにもかかわらず,ドイツ軍機に攻撃されて,75名の患者や医師諸共沈没しましたし,見通しの良い橋頭堡に設置されていた第95後送病院も爆弾により全壊して,患者は別の病院に避難しましたが,道中で輸血を続行することもあり,1人が容器を持ち上げ,1人が針を押えて動かない様にしたと言う大混乱に陥ったりしていました.

 ナポリの血液銀行のスタッフも,フル回転して血液を供給しようとしましたが,アンツィオ上陸作戦には間に合わず,上陸作戦の医療班は,アルブミンや血漿しか手許にありませんでした.
 その為,全血輸血の為に英軍から何千本も血液を借りざるを得ませんでした.
 ナポリから最初の全血がアンツィオの医療班に届いたのは,上陸後6週間経ってからだったりしました.

 その後,米軍がイタリア内陸部と北部に進撃するにつれ,効率的な輸送計画が立てられる様になり,血液がかなりスムースに移動する様になります.
 採血センターはローマやピサ,それにフィレンツェに設置され,それぞれで収集された血液は専用の血液輸送機で空輸し,小飛行場で待ち受けている特別運搬車がイタリア中の病院に輸送する仕組みであり,これでやっと医師達は安心して負傷兵が必要としている全血と血漿の両方を使える様になったのです.
 こうして,ナポリで作った荒ら屋の様な血液銀行は,忽ちの内に半径数百マイル以内の地域に1日当り300本を超える保存血を供給する最新設備を備えた施設になって行きました.

 因みに,この血液輸送システム作りは,ワシントンの手を殆ど借りずに作り上げられました.
 そして,地中海戦域で戦った米軍兵士達に輸血された80,000パイント近い血液の中に,本国から送られたものは全く有りませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/17 23:56


 【質問】
 ジャスパー・マスケリンって誰?

 【回答】
 ジャスパー・マスケリン Jasper Maskelyne(1902〜1973)は,1930年代から1940年代にかけて活躍した,イギリスの奇術師.
 第二次世界大戦中,英軍情報部に協力,欺瞞と防諜を目的とした部隊「Aフォース」に所属して,スエズ運河隠蔽などの工作に従事したとされる.
 アレキサンドリア港と全く相違ないように見せるため,紙製の張りぼて水上艦や建築物,偽の街灯を建設し,偽のアレキサンドリア港をたった4日で作り出したという.
 ただし,軍における彼の「業績」には,疑問があると指摘する軍事史家もいる.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Jasper_Maskelyne
http://www.channel4.com/history/microsites/R/real_lives/jasper.html
http://www.maskelynemagic.com/
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?ジャスパー・マスケリン

fafaq06b13m.jpg
faq06b13m02.jpg
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2010/03/13 00:25
を加筆改修


目次へ

「第二次大戦別館」トップ・ページへ   サイト・マップへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   本館サイト・マップへ

inserted by FC2 system