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◆◆◆◆◆ハンガリー軍総記 Magyar erő
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<WW2 FAQ

戦没者追悼カード

こちらより引用)


 【link】

A Magyar Királyi Honvéd Haditechnikai Intézettõl a HM Technológiai Hivatalig 1920–2005(pdf,洪語)

「INTERNATIONAL HUNGARIAN MILITARY HISTORY PRESERVATION SOCIETY」◆ FREE MILITARY HISTORY PUBLICATIONS

Hermanos Kiadó
 出版物多数

REGIA MILITIA HUNGARORUM(洪語)

The Kingdom of Hungary in World War II


 【質問】
 トリアノン条約による軍備制限を,ハンガリーは遵守していたの?

 【回答】
 少なくともベトレン内閣時代は守ってた筈.
 それで軍部の反感を買ってたから.

 時代が下がると,秘密裏に「軍備管理委員会」を立ち上げ,再軍備のための準備を図るようになる.
 その辺の構図はドイツと同じ.
 準備にはドイツやイタリアも協力したそうだ.

 ただ,
ポロンスキの本によれば,ハンガリーの軍需生産は三つか四つの工場に集中してて,連合国による監視の目を逃れるのが難しかったそうな.

▼ なお,
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.64
によれば,ハンガリーでは第一次大戦後,通貨下落が続いたため,1924年に「トリアノン条約を順守すること」を条件として,国際連盟から国際借款を認められたという.

 であれば,露骨な条約違反行為は行い難かったに違いない.

軍事板,2009/11/20(金)
青文字:加筆改修部分

▼ 1938年初頭,いわゆるジュール計画によって2年の間に実に国家予算の約1.5倍の支出がなされましたが,主力火器は同盟国のものが大半でした.
 なかでもイタリア製の小型戦闘車アンサルドはその貧弱な外観で有名です.
 なにか子供がのるゴーカートを少しだけ大きくしたような代物で,対歩兵以外は役にたたなかったでしょう.

ABC : 世界史板,2002/02/20
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリーの指揮系統は?
Milyen az szolgálati út volt a második világháború Magyarországon?

 【回答 válasz】
 「国王のいない王国」として「ウソのようなホントの話」ネタでも常連の感のある,第二次大戦当時のハンガリー王国は,国王ではなく摂政最高会議がトップにあり,その下に軍事部門としての参謀本部と,行政部門としての内閣が並列に存在していた.
 ただし,内閣は最高国防会議を設置し,また,国防相の任免権も内閣にあるので,組織上,参謀本部が内閣を無視できるようにはなっていない.
 また,内務省の下には憲兵隊 Csendőrség があり,再軍備宣言前には国防軍よりも強力だった.
 オーストリア=ハンガリー憲兵隊の歴史は19世紀に遡り,面白いテーマではあるのだが,それはまた別の話.

 参謀本部の下には
・陸軍
・空軍
・河川部隊 Magyar Királyi Honvéd Folyami Erők
・国境警備隊
の4軍があった.

 第二次大戦勃発時の軍参謀総長はヴェルト・ヘンリク Werth Henrik 大将.
 親独派だったが独ソ戦緒戦での大損害の責任を取らされて退役.
 後任には,カルパチア軍集団を率いていたソンバトヘイ・フェレンツ Szombathelyi Ferenc 大将が任命された.

 ヴェルトはドイツによるハンガリー占領後の1944年9月,ゲシュタポにより逮捕.
 1945年2月には今度はソ連のスメルシュによって逮捕され,ソ連に連行されて1948年に禁固25年を言い渡され,1952年,強制収容所で死去.

 ソンバトヘイは戦後逮捕されて,ハンガリー人民裁判所により禁固10年を言い渡された後,ユーゴスラビア当局に引き渡され,同国内での戦争犯罪に対して死刑を言い渡され,1946年11月絞首刑となった.
 ハンガリー最高裁によって彼の無罪が認定されたのは,冷戦後の1994年のことである.

 【参考ページ】
http://www.niehorster.org/015_hungary/_high-command.html
http://korok.webnode.hu/products/a-magyarorszagi-csendorseg-tortenete-1881-19451/
http://lemil.blog.hu/2015/11/05/csendorseg_i_volt_egyszer_egy_vadkelet?token=0026750d2699ee9c095c74a9e266a468
http://nagyhaboru.blog.hu/2012/05/30/a_nagy_haboru_werth_henrik_szemevel
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/werth.html
http://mult-kor.hu/cikk.php?id=15358
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/szombathelyi.html

国家首脳部の組織系統
(こちらより引用)

将軍(左)と参謀の大佐(中央)と歩兵(右)
将軍はピケ帽を被っている
(『The Royal Hungarian Army in WW2』より)

ヴェルト・ヘンリク伝記

ソンバトヘイ・フェレンツ肖像写真
こちらより引用)

mixi, 2017.2.18


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍には,どんな階級があったの?
Milyen Honvédségi rendfokozatok voltak a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 おおよそ以下の通り.
 ただし,水軍の下士官以下の階級については,google検索レベルでは調べがつかなかった.
 ただし,水軍の下士官以下の階級略記については,google検索レベルでは調べがつかなかった.

陸軍&空軍 水軍 1939.1.1~1944.6.30
(1944.7.1~1945.5.8は陸軍と統一)
仮訳 
略記 階級名 略記 階級名
Vtbgy. Vezértábornagy    - — - 上級大将
Tbgy. Tábornagy - - 大将 
Vezds. Vezérezredes - — - 中将
Altbgy. Altábornagy Vfőkap.    Vezérfőkapitány    少将
Vőrgy. Vezérőrnagy Vkap. Vezérkapitány 准将
Ezds. Ezredes Főtkap. Főtörzskapitány 大佐
Alez(ds).    Alezredes Tkap. Törzskapitány 中佐
Őrgy. Őrnagy Talkap. Törzsalkapitány 少佐
Szds. Százados Kap. Kapitány 大尉
  Főhadnagy-helyettes Főhajónagy-helyettes 大尉代理
Fhdgy. Fohadnagy Fhjgy. Fő hajónagy 中尉
  Hadnagy-helyettes Hajónagy-helyettes 中尉代理
Hdgy. Hadnagy Hjgy. Hajónagy 少尉
  Zászlós-helyettes Folyami-Zászlós-helyettes 少尉代理
Ftzls. Főtörzszászlós  — - — - 一等准尉
Tzls. Törzszászlós  — - — - 二等准尉 
Zls. Zászlós    Zászlós 三等准尉
Ftőrm Főtörzsőrmester    Tiszthelyettes 上級曹長
Tőrm. Törzsőrmester   Törzshajómester 曹長
Őrm. Őrmester    Hajómester 軍曹
Szkv. Szakaszvezető    Negyedes 伍長
Tiz. Tizedes    Rajos 兵長
Őrv. Őrvezető     Osztályos 一等兵
Hv. Honvéd    Folyamőr 二等兵
 ※の階級は,1943.3.15~1944.10.30まで存在した臨時的なもの.
 戦争中,多くの下士官が適切な階級のないまま,士官相当の任務に就いていたため,その現状を追認する目的で新設された.
▼ 能力がある場合,対応する士官に昇進できた.
 つまり,准少尉なら少尉に,准大尉なら大尉へ昇進することができた.▲

 【参考ページ】
http://www.niehorster.org/015_hungary/ranks.htm
http://live.warthunder.com/post/382966/en/
http://live.warthunder.com/post/403107/en/
http://live.warthunder.com/post/404698/en/

画像左は戦車搭乗員の二等兵
39.Mヘルメットと革製の35.M戦車服を着用
画像中央はカルパソマーニョシュの一等兵
画像右はZászlós-helyettes(准少尉)
突撃砲兵の記章をつけている

(『The Royal Hungarian Army in WW2』より)

mixi, 2017.2.20
改修, 2017.3.11


 【質問】
 第二次大戦ハンガリーの化学兵器について簡単に教えてください.

 【回答】
 第一次大戦後,トリアノン条約により軍備を大きく制限されたハンガリーだったが,1925年から秘密裏に研究を開始し,1928年にはブダペシュトにガス実験室を設置した.
 なぜなら周辺国,チェコスロヴァキアやルーマニアは1920年後半の時点で,いずれも毒ガス生産プラントを持っており,チェコスロヴァキアは日本に毒ガス30tを輸出していたほどだったからだ.
 対抗手段をハンガリーも持たねばならない.

 1934年には化学部会秘密会談代表団をイタリアに送り,同国の援助を受けて1936年初めには軍指導部は,ガスの生産と研究の拠点となる施設の建設案を作成した.
 財務省は「高地ドイツ語話者のための教会の建設」という名目を与え,工場はチェペル Csepel の街に建設され,1940年には生産を開始した.
 10.5cm化学砲弾の他,航空用化学爆弾や化学手榴弾.
 弾体はマンフレード・ヴァイスなどの工場で作られ,「教会」は,それらにマスタード・ガスを充填する役割を担っていた.

 1941.5.30の時点で,編制上は各軍団は化学戦部隊1個中隊を持っていた.
 毒ガス生産は戦時中も続けられたが,結局,敵による報復攻撃を恐れて使用することは無く,化学戦部隊は専ら除染や火炎放射攻撃に従事したという.

 なお,例によって誤訳御免.

 【参考ページ】
http://epa.oszk.hu/00000/00018/00002/pdf/04kovacs.pdf
http://www.zmne.hu/tanszekek/vegyi/docs/fiatkut/gazv1914.htm
http://live.warthunder.com/post/477774/en/
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/_army.htm
http://live.warthunder.com/post/376256/en/

第101化学戦大隊所属のCV-35
faq170206cv.jpg
faq170206cv2.jpg
faq170206cv4.jpg
第2中隊だけがガス噴霧用のタンケッテを持っていたが,その数は不明
国籍エンブレムの形状により,1940年以前の撮影と分かる
こちらおよびこちらより引用)

煙幕 füstfüggöny を張るハンガリー軍のCV-35
化学細菌戦部隊所属
こちらより引用)

革製の化学防護服とフードを着た化学戦部隊の兵士
(こちらより引用)

36.M 耐酸革手袋 saválló kesztyű
化学戦部隊の防護服用
こちらより引用)

mixi, 2017.2.6


 【質問 kérdés】
 38.M "Cs"缶とは?
Mi az 38.M "Cs" töltény?

 【回答 válasz】
 戦間期,ハンガリーはイタリアからマスタード・ガスを輸入した.
 輸入量は不明.

 そのガスの一部は,いわゆる "Cs"缶に充填された.
 "Cs"はハンガリー語の「Cső」(管)の頭文字.
 催涙ガスの一種,クロロベンジリデントマロノニトリル(2-chlorobenzalidenemalononitrile)がCSガスとも呼ばれるが,それとは全く関係ないので注意されたし.

 1938年以前,ハンガリー軍には電気信管式と時限信管式の2種類の "Cs"円缶があった.
 38.M "Cs"缶は,その2種類を一つに統合したものだった.
(図1)

 それまでの毒ガス缶では信管はどちらかに固定されていたが,38.Mでは電気信管と時限信管のどちらも装着できた.

 電気信管(図2)は起爆装置として過電圧 electrical spike を利用した.
 この過電圧は乾電池を使用し,トリップ・ワイヤで作動した.
 この電気信管式 "Cs"缶は,遠隔操作地雷としても使用することができた.
 その際には,1.45Vの電池と長い電線が必要だった.

 一方,時限信管(図3)は,所定の時間に達すると燃え尽きて爆発するという,シンプルなコード式だった.
 時限信管は,防御側が敵の攻撃開始時刻を正確に察知しているときにのみ使われ,その時間に応じ,敵が"Cs"缶に接近したとと同時に起爆するよう,コードに点火した.

 38.M "Cs"缶にはサルファ・マスタード――ハンガリー軍では「材料 M」と呼ばれた――が360g充填されていた.
 これは20平方メートルの範囲を,1立方メートル当たり15~20gの密度で3~4時間汚染し続ける能力があった.

 ハンガリー軍には"Cs"缶の他,マスタード・ガス砲弾も存在したが,第二次大戦でハンガリー軍が化学兵器を使用したことはなかった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/439866/en/ ※図1~3引用元
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_g_e.html
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_g_i.html
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_k_ga_g_8.html

2017.7.13


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍のガスマスクは?
Milyen gázálarcok voltak magyar honvédség a második Világháborúban?

 【回答 válasz】
 写真1は,ハンガリー軍ガスマスクの変遷.
こちらより引用)
 このうち,28.Mおよび34.Mが,大戦中に使われた.

 28.Mガスマスクは,ドイツのアウアー Auer 社のライセンスをもとに製造されたもので,ハンガリー軍で1928年から制式採用された.
A magyar honvédség 1928-ban az 28 M. gázálarcot rendszeresítette, akit a német Auer cég licensze alapján gyártott.
 しこれは,フィルタを詰め込んだキャリング・ケースと,長いホースで接続するタイプのもの.
 写真2は,フィルタと共に装着したときの様子を示す.

 30年代には,マスクに直接装着できる軽量化フィルタが開発され,34.Mが開発・制式採用された.
 マスク本体はゴム引きの帆布で作られている.
 茶色のものが主流だったが,緑色のマスクもあった.

 戦争初期には,キャリー・ケースとしてリネンのバッグの中にマスクを入れ,兵士は携行した.
 しかし,1943~44年頃から,ドイツ軍のものと同様の錫の収納ケースにマスクを入れて携行するようになった.
 写真3は,2種類のキャリー・ケースを示す.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/410812/en/ ※写真2~3引用元
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_e_f_g_4.html

2017.5.1


 【質問 kérdés】
 ハンガリー光器製作所とは?
Mi az Magyar Optikai Művek Rt?

 【回答 válasz】
 ハンガリー光器製作所(略章MOM)は世界的に有名だったハンガリーの大手製作所.
A Magyar Optikai Művek (rövidítve MOM) egy jelentős, világhírű, magyar iparvállalat volt.
 シュッシュ・ナーンドル Süss Nándorによって1876年7月1日設立.
A vállalatot Süss Nándor alapította 1876. július 1.
 すなわち,彼がコロジヴァール Kolozsvár において,大学の光学部門ワークショップ Egyetemi Mechanikai Állomás を開設したのが,その起源である.
 1884年,ブダペシュトに移り,国家支援機械工房 Államilag Segélyezett Mechanikai Tanműhely となった.
 以後,
1900~1918,シュッシュ・ナーンドル精密機器類研究所 Süss Nándor-féle Precizio Mechanikai Intézet
1918~1922,シュッシュ・ナーンドル精密機器類研究所株式会社 Süss Nándor-féle Precizio Mechanikai Intézet Rt.
1922~1931,シュッシュ・ナーンドル精密機器および光学機器類研究所 Süss Nándor-féle Preciziós Mechanikai és Optikai Intézet Rt
1931~1938,シュッシュ・ナーンドル精密機器および光学機器株式会社 Süss Nándor Finommechanikai és Optikai Részvénytársaság
(1938) 1939~1951 ハンガリー光器製作所
1966~1998 ハンガリー光機製作所大産業 Magyar Optikai Művek, ipari nagyvállalat
1998年,事業継承者なく,廃業.
という沿革となっている.

 第二次大戦中,ハンガリー軍はゲルツやカール・ツァイスの光学機器を使用していたが,それらはGAMMAと共にこの会社でライセンス生産されていた可能性が高いという.
 また,機関銃の生産も行ったが,1944年には工場の1/3が破壊され,残った生産設備はドイツ軍が持ち去った.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/453001/en/
http://egykor.hu/budapest-xii--kerulet/magyar-optokai-muvek/3310
http://www.ilyenisvoltbudapest.hu/ilyen-is-volt/tizenkettedik-kerulet-hegyvidek/item/1960-as-evek-csorsz-utca-a-mom
https://pixinfo.com/cikkek/tortenelem-magyarok-a-fototechnikaban/

https://www.youtube.com/watch?v=iCfa0Umv7o0

mixi, 2017.9.11


 【質問 kérdés】
 GAMMA精密機械&光器製作所とは?
Mi az GAMMA Finommechanikai és Optikai Művek Rt.?

 【回答 válasz】
 GAMMAは1920.5.18,電子技師ドレーゲル・カーロイ Dréger Károly,機械技師ラースロー・アルトゥル László Arthur,退役大尉で投資家のブラウン・ジグモンドによって,ブダペシュトのコソルー通り Koszorú utca に創設された精密機器・光学機器メーカー.
 いったん倒産し,ユハース・ゾルターンJuhász Zoltán とユハース・イシュトヴァーン Juhász István の2人の技師による家族経営の工場として再スタートした.
 1924年にはフェヘールヴァーリ通り Fehérvári に移転.
 1933年,工場の生産部門面積は1700㎡に増加し,工場の本部は110名となった.
 1935年,工場に光学研磨装置を設置.
 5年かけ,同社の光学製品は国際水準に達した.

 第二次世界大戦に先立つ数年前より,工場では軍需品生産が大幅増加.
 戦争が近づくにつれ,工場は絶えず拡大改良が必要となった.
 1939年11月,工場はGAMMA Finommechanikai és Optikai MűvekRttと改称され,光学プラントは海外にも輸出されるようになった.

 第二次大戦中,ハンガリー軍はゲルツやカール・ツァイスの光学機器を使用していたが,それらはMOMと共にこの会社でライセンス生産されていた可能性が高いという.

 ハンガリーにソ連軍が侵攻してきた1944年12月26日~1945年2月11日,工場も最前線となった.
 フェヘールヴァーリ通りの建物は1階が完全に焼失し,他も大きく損壊した.

 戦後,工場では家庭用の日用品を作ると共に,農業省向けの地図測量用具や,公立病院向けの顕微鏡など医療機器の製造を開始した.
 1946年春からは,眼鏡のレンズの製造も始めた.

 しかし運転資金の不足のため,1947年前半に倒産.
 会社清算は行わず,1948.3.25,国有化された.

 1960年代にGAMMA Works と改称.
 現在も存続している.

 一方,軍需部門は1951年頃から精密機械会社 Finommechanikai Vállalat という新会社へ徐々に移管された.
 軍需電子機器メーカーに特化したこの会社は,冷戦終結後,受注が低迷.
 解体清算された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/453001/en/
http://www.gammatech.hu/index.php?module=showpage&lang=hun&site=history/leaderofgamma
http://hvg.hu/magyarmarka/20050329gamma
https://pixinfo.com/cikkek/tortenelem-magyarok-a-fototechnikaban/

mixi, 2017.9.13


 【質問】
 第二次大戦ハンガリー軍の少数民族出身兵士について教えてください.

 【回答】
 21世紀のハンガリーからはちょっと想像し辛いが,第一次大戦後のトリアノン条約で解体されるまでは,ハンガリーは多民族国家だった.
 スロヴァキア人,クロアチア人,ルーマニア人,その他様々な少数民族がいた.
 トリアノン条約によって,非マジャル人のほうが多い地域はたいていが独立したり,他国の一部になったりしたが,だからといってきれいさっぱり少数民族がいなくなったわけでは勿論ない.
 加えて,ヒトラー陣営にハンガリーが与すると,ヒトラーは昔はハンガリー領だった地域を一部ハンガリーに戻してくれたので,それら地域の非マジャル人は「新興独立国家の主要民族」から「ハンガリーの少数民族」に逆戻りしたりした.

 第二次大戦が始まると,大して人口が多いわけでもないハンガリーでは,当然のことのように彼ら少数民族も徴兵の対象となった.
 大戦勃発直前,ハンガリー陸軍では一線級師団でさえ多くが基幹人員のみの状態だったので,大幅な増員が必要だった.
 3個軍ある中で,開戦当時の装備最優秀部隊だった第2軍でさえ,20%が少数民族出身兵士となった.

 これは深刻な問題をもたらした.
 彼ら少数民族出身兵士の多くがハンガリー語を話すことができず,一方,マジャル人下士官には少数民族言語に精通した者など殆どいなかったので,意思疎通に齟齬を来した.
 また,どこの国でも殆どそうだが,教育は主にその国の主要言語で行われることから,必然的に少数民族は教育でも不利な環境に置かれる.
 よってこれら少数民族出身兵士の教育水準も低く,それは当然ながら兵器操作・戦術理解など様々な場面で悪影響を与えた.

 その上,戦況も悪化の一途.
 そんな環境にあって,彼らのような兵士の士気が高くなろうはずがない.
 「名誉ハンガリー人」としてハンガリー軍に属して戦ったロシア人やウクライナ人,ポーランド人などの義勇兵のほうが戦意があったくらいだ.

 士気の低い彼らを軍は引き締めにかかる.
 すると彼らの中から脱走兵が相次いだ.
 国民意識の薄い人々が,その国家のために命を張ってくれると思うほうが本来おかしいのだが,しかしそんな正論では軍が成り立たない.

 そこでハンガリー軍上層部は,対策をとることにした.
 彼らのとった方法は,「兵士の家族を人質に取る」というものだった.
 すなわち,脱走した兵士がいれば,その兵士の家族に対して,
・従軍手当の即時停止
・拘留
・スラブ系民族出身兵士の脱走者の家族はロシアに強制送還
・財産没収
などの措置をとった.

 これらは脱走防止に効果があったのか,どうなのか.
 少なくとも,ブダペシュトが包囲されたころには効果が薄くなっていたことは確かだ.
 政府が瓦解し始め,マジャル人兵士にさえ脱走者が増えていたからだ.

 戦後,政治体制が大きく変わった東欧諸国の中にあって,彼ら少数民族「元ハンガリー軍兵士」や「元名誉ハンガリー人兵士」の運命が気になるところだが,筆者にそれを知るすべはない.

 【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012)
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/01/07/_a_nemzetisegiek_most_mar_magyarok_csak_eppen_mas_nyelven_beszelnek_nemzetisegiek_a_magyar_kiralyi_h
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/01/12/_a_magyar_nyelvet_elsajatitani_sem_tudjak_nemzetisegiek_a_magyar_kiralyi_honvedsegben_ii
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/01/20/_keszen_all_arra_hogy_minden_magyar_erdeket_szabotaljon_nemzetisegiek_a_magyar_kiralyi_honvedsegben_
http://napitortenelmiforras.blog.hu/2016/08/08/_tiszteletbeli_magyarok_ruszki_pista_az_eletmento_lengyel_huszar_es_vaszil_az_idegenlegios

mixi, 2017.1.14


 【質問】
 ロシアやユーゴスラビアでは,ハンガリー軍はけっこう野蛮なことを仕出かしたようですな・・.

 【回答】
 ですね.木々のざわめきに恐れを為して…と言う所でしょうか.

 例えば,北ジーベンビュルゲンのオルドクトでは,1940年9月9日に,進駐してきたマジャル軍兵士に対して,ルーマニア人司祭が教会の塔から発砲し,4名が負傷.
 それに対し,マジャル軍は歩兵部隊を投入,村とその教会を攻撃し,死者68名,負傷者195名の惨事を起こしたり,イプでは,自分が持っていた手榴弾が爆発し,マジャル軍兵士2名が死亡したのを奇襲と司令部が判断した為,9月14日に第32歩兵連隊が村の一斉手入れを敢行,死者152名.

 …なにをか況やですな.

 ジーベンビュルゲン=エルデイ=トランシルバニアは元々ハンガリー領だっただけに,余計に過剰な反応をしてる感じですね.

 ブリヤンスクの森の南方地域では,1941年11月~43年5月まで,マジャル陸軍の三個師団が占領下に置いており,若干のドイツ軍部隊が協力していました.
 しかし,不十分な武装と不足した人員では,占領地を維持することが出来ず,Partisanの活動を抑え切れないと判断したマジャル軍は,大量報復措置と「死のゾーン」設置を実施し,1942年夏までに約3万人のPartisanと,その疑いのある者を殺害しています.

 ちなみに,Partisanの損害とマジャル軍損害の比率は,10:1から15:1だったようです.
 これは戦後に多数のマジャル軍兵士の訴追,死刑に繋がってきますが,その責任者,ボガニ・カロリ将軍は,その責任を免れ,ソ連もその引渡要求を断念しています.

 また,1943年にはUkraineのドロシチで,ユダヤ人労役従事者用の病院や,第105,107病院に放火し,入院患者の焼死なんて事もしているようです.

 一方,逆にマジャル国内に戦闘が移ると,逆にルーマニアや,ユーゴ,ソ連軍の暴行の嵐が吹き荒れた訳ですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 & ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w(黄文字部分) : 軍事板,2003/12/09~12/21
青文字:加筆改修部分


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