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「ザイーガ」●ファシズムの創始者「ベニート・ムッソリーニ」の悲惨な末路を撮影した貴重なフィルム映像)

『イタリア敗戦記 2つのイタリアとレジスタンス』(B. パルミーロ・ボスケージ著,新評論,1992.3)

 政治の話中心なので,戦記的な物を期待すると,肩透かしをくらいます.
 せいぜいムッソリーニが,モンテローザ師団やら,リットリオ師団やらが訓練している所に行って,観閲するシーンがある程度だった気がします.

 あと,パルチザンの戦いぶりは多少書いていたかなあ.

――――――軍事板,2011/08/16(火)

 【質問】
 ムッソリーニは何故失脚したの?
 3行以上で教えて!
Miért volt kiszorulta Mussolini?
Kérem, mondja meg a három vagy több sorban.

 【回答】
 端的に言えば,戦局がイタリアにとってかなり悪化し,連合軍がイタリア本土に迫ってきたから.

 1943.7.10,連合軍がシチリアに上陸したのを契機に,支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化.
 軍事政権樹立による国内安定を目指した軍部,ファシズム体制存続下での挙国一致内閣を目指したファシスト党幹部が結びつき,国王エマヌエーレ三世に,その罷免を働きかけた.
 1943.7.24夜に開催されたファシズム大評議会において,ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対する古参ファシストで元駐英大使のディーノ・グランディ伯爵は,ムッソリーニの責任を追及し,独裁権と統帥権を国王に返還する動議が提出.
 これに対し,ムッソリーニの女婿でもあったガレアッツォ・チァーノ外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し,過半数の賛成を得て可決した.
 それでも国王からの信任に自信のあるムッソリーニは翌日,国王のもとを訪れるが,すでに反ムッソリーニ派からの進言を受けていた国王は,ムッソリーニを解任.
 王宮を出た直後に,ムッソリーニは憲兵隊によって逮捕・幽閉された.

「勝つ戦争には賛成だが 負ける戦争には反対だ!」(高橋葉介『ミルクがねじを回すとき』(朝日ソノラマ文庫,1999)

 ムッソリーニ失脚により,エマヌエーレ三世はファシスト党の解散を命令,ピエトロ・バドリオ元帥を首相に任命した.
 しかし,ヒトラーは直ちに北イタリアへドイツ軍を進駐.
 9.3,イタリアのカステッラーノ准将と米軍のアイゼンハワー大将との間で,休戦協定に署名した.
 連合国はイタリアの首都ローマを無防備都市状態であると宣言.
 バドリオ元帥は連合軍による侵攻準備を待って,9.8夜になって国民に向けてイタリア休戦をラジオで演説した.

------------
 9月8日 イタリアと英米との休戦の発表は寝耳に水であった.
[中略]
 かくして我々一行数十名は20余台の自動車に分乗し,行方も定めずにローマを立ち出た.
 しんがりの私の車が動き出したのは9月9日の午後5時を過ぎていた.

------------日高新六郎・駐イタリア大使
http://www.saturn.dti.ne.jp/~ohori/sub27.htm

 しかし,当てにしていた連合軍空挺部隊によるローマ解放作戦は行われず,ドイツ軍が先んじてローマを一日で占領.
 さらに,幽閉されていたムッソリーニはドイツ軍に救出され,北部のガルダ湖畔で政権を樹立した.
 サロ共和国の誕生である.

------------
 1943.7.18[原文ママ]に連合軍がシチリアに上陸するまで,私たちはその日その日を何とか生きていた.
 ムッソリーニは1週間後の7月25日に罷免・逮捕されたが,自由と民主主義の幻想は40日間しか続かなかった.
 イタリア人は一度ムッソリーニが倒されたなら,ドイツに気付く機会を与えずに,連合軍を即刻迎え入れるべきだったのだ.
 その代わりに,イタリアの司令官と国王は,連合軍より利口に立ち回ろうと,降伏に際して条件を出した.
 彼らは君主としての力が承認されることを望み,もちろんアメリカ・イギリスのどちらもそれに耳を貸そうとはしなかった.
 そのころまでにドイツは分散した師団を集結してイタリアに侵入した.
 国王は逃げ,イタリア軍は虚しく応戦に努めたが,ドイツ軍によって何万というイタリアの優秀な人々が殺された.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.41

「こうしてイタリアにとっての戦争は,第一幕が混乱のうちに幕を閉じたのであった」(吉川和篤,下掲書p.79)

 【参考ページ】
吉川和篤『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006),p.77-79
http://www.y-history.net/appendix/wh1502-108.html
http://ona.blog.so-net.ne.jp/2010-07-10
http://www.kobemantoman.jp/sub/210.html

 【関連リンク】
木村裕主『ムッソリーニを逮捕せよ』(講談社文庫,1993)
https://www.amazon.co.jp/dp/4061854283

【ぐんじさんぎょう】,2016/08/29 20:00
を加筆改修


 【質問】
 イタリア降伏前後の,日本の対欧州外交について教えられたし.

 【回答】
 さて,1943年と言えば,スターリングラード戦に敗れたドイツもトホホ,日本も南洋諸島で米国に押しまくられてトホホ,イタリアは本土に攻め込まれてトホホ状態でした.

 1943年2月に,ソ連から駐イタリア日本大使に任命された日高大使,及び岡本陸軍少将を長とする陸海軍使節団に,ソ連通過査証の発給を応諾してきます.
 この岡本使節団の任務は,ドイツの戦争能力の検討と日本の実情伝達の2点でしたが,実はもう1つ裏の任務として,ドイツとソ連の和平に関する件についても検討されていました.
 最後の点については,岡本使節団の出発直前に削除されましたが,陸軍統帥部を中心に,ドイツとソ連の戦闘を日本の仲介によって停止させようと言う動きはあったりします.

 結局,岡本使節団の報告は8月に東京に報告されましたが,その要点は,ドイツの国力は,使節団が日本で判断していたより遙かに低く,今後多くの難条件を克服しない限り,ドイツの勝利は難しいと言うものでした.
 ドイツの「バスに乗り遅れるな」とばかりに,対英米戦に突入した日本側からすれば,梯子を外された様なものです.
 陸軍統帥部は,この報告で漸く現実に目を向ける事になりました.

 因みにソ連側資料では,
「日本の陸軍統帥部は,クルスク戦でソ連軍大敗か壊滅を予想したが,それが見事に外れてしまった事から,外交ルートを通じてムッソリーニに政治工作を行い,日本とイタリアが共同してソ連とドイツの和平を実現し,米英軍に対抗する為,独伊の主戦力を東部戦線から引揚げて地中海戦線に送り込もうとしていた」
とありますが,事実は,日高大使が日本政府から受けていた訓令は,ムッソリーニから東部戦線の状況を聴くだけであり,ただ,ムッソリーニその人は,その際,敵がイタリア領内に攻め込んできた事から,事態を政治的に収拾する他はない,と語ったと言います.
 要は,イタリア国内で囁かれたものをソ連側は,日本の工作によるものと誤解していた様です.

 そのムッソリーニは,7月25日にファシスト党内の王党派による強要で辞職を余儀なくされ,まもなく逮捕された事が伝えられます.
 バドリオ元帥が跡を継ぎ,継戦を表明しますが,9月3日にイタリア半島に連合軍が上陸,逐次北上した事から,9月8日,バドリオ政権は無条件降伏を行います.
 この事態を想定していたイタリア駐留ドイツ軍は,連合軍に降伏した20万人のイタリア軍を武装解除し,9月10日には首都ローマを占領し,12日にはグラン・サッソーの山塞に幽閉中のムッソリーニを救出して,彼を首班としたサロ社会主義共和国を建国して,ファシスト政権の継続を図りますが,退勢は覆うべくもありません.

 この枢軸の一角の崩壊については,日本政府も新たな措置を執らねばなりませんでした.
 先ず,9月15日,ドイツと共に日独共同声明を出します.
 その内容は以下の内容でした.

――――――
 大日本帝国政府及大独逸国政府は共同にて厳粛に左の通り宣言す.
 バドリオ政府の背信は三国条約に些かの影響をも与えるものに非ず.
 同条約は其効力に何らの変化を受くること無く存続するものなり.
 大日本帝国及大独逸国政府は相共に有する手段を尽して最後の勝利を得るまで今時戦争を遂行するの決意を有するものなり.
――――――

 続いて9月27日,日本政府はムッソリーニを首班とするサロ社会主義共和国政府をイタリアの正当政府として承認する事を決定し,10月5日にはイタリアに対する各種の処理を決定しました.

 因みに,こうした措置について他の枢軸国政府の見方は,例えば在日マジャール公使の報告では,日本の新聞はイタリアの降伏を「背信行為」と称し,イタリア大使と大使館員が日本警察の監視下に置かれた事と,欧州同盟諸国全体に対して,日本政府の不信が増大したとしています.
 また,東京では公然とドイツ敗北の可能性を語る者が出て来たとして,ドイツ陸軍武官に対する日本軍の態度も厳しくなり,ドイツ軍使節団には東京以外どこも視察させない例も出て来たとも報告しています.

 丁度,イタリアの降伏は,三国条約調印の3周年記念日の前夜に行われたもので,その確固たる同盟関係に罅が入った事に対し,日独両政府はそれぞれの将来に暗雲を感じさせたものでした.
 しかし,日独両政府はそれを敢えて無視し,枢軸諸国の同盟の確固不抜を宣伝目的に強調する事に決しました.
 9月27日,ヒトラー総統と東条首相は,互いに記念日を期して祝辞を交換し,リッベントロップ外相と重光外相もまた,ラジオを通じて放送し,殊に重光外相は,『枢軸国の勝利の間違いない事』を言明しました.
 その上で,両国政府は三国条約の方針に忠実である事を確認する共同声明を発表しています.

 とは言え,国内の新聞はその将来に暗雲が掛かってきた事が透けて見える様な論調であり,三国条約3周年の祝意も相当控えめなものでした.

 また,日本政府の他の枢軸国への不快感を表わしたエピソードとして,三国条約調印記念日の為に重光外相が招待した午餐会に,スターマードイツ大使,マジャール公使,ルーマニア臨時代理公使…因みにブルガリア公使は丁重に其の招待を断っています…などが参集した際,彼らを出迎えたのは重光自身ではなく,次席の人々で,宴の終わりにやっと重光が顔を出しますが,急いで挨拶の辞を読み上げただけで,そそくさと帰っていったそうです.
 これも,マジャール公使が本国に報告しています.

 本来この席上では,枢軸各国の外交団が,重光外相に対し,三国条約による同盟諸国との軍事同盟を拡大しようとするのか,殊に日本が対ソ攻撃に出るのは何時なのかを質問する場になる筈でした.
 と言うのも,彼らは本国政府から何れもその問題について,回答を求められていたからです.
 しかし,その回答を得る事は出来ず,結局,彼らの報告では,日本人は欧州同盟諸国に対して不信感を持っており,米英関係とソ連関係に関する問題には回答を避けているとして,推察するに,日本の為政者の動向は,全てソヴィエトとの軍事衝突を回避する事に向けられており,従って彼らは殊ロシア人に関しては極めて慎重な態度を示していると送っています.

 「バスに乗り遅れるな」,とばかりにやっちゃった日本が,この時に受けた衝撃は如何許りなものだったか,よく分るエピソードです.
 結局,バスから降りそびれて,奈落の底に落ちて行ったのがその後の日本だった訳ですが.

 そして,日本の外交当局は漸く真剣に,戦争の終結を考え始める事になります.
 ただその終結方法は,未だ未だ甘いもので,独ソ間の戦争を終息せしめると共に,日ソ関係の根本的調整を図る為に,ソ連の力を借りようと言うものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/21 22:00


 【質問】
 RSI軍って何?

 【回答】
 RSI(=サロ共和国)が,休戦協定後にドイツの捕虜となっていたイタリア兵や,志願兵,「黒シャツ」部隊などを基幹として再建した軍です.
 最盛期には陸海空合わせて50万の兵員を擁しました.
 RSI陸軍は温存策などにより,予想したほどの成果は挙げられませんでしたが,義勇部隊のほうは士気は高く,イタリア戦線の防衛に貢献しました.

 【参考ページ】
『イタリア軍入門』(吉川和篤/山野治夫著,イカロス出版),p.114-133
http://d.hatena.ne.jp/warszawa/20090123/p2
http://maisov.if.tv/r/index.php?hensei18

【ぐんじさんぎょう】,2009/10/5 23:00
に加筆

海外オクで落とした,RSI時代の絵葉書
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20i20p.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20i20p02.jpg

 それにしても,今どきデチマ・マス師団のオリジナル絵葉書が2枚も出るとは思いませんでした.
 しかも一枚は今製作中のL6軽戦車のジオラマのモチーフとして暖めていたアイデアのソースになった絵で,もう一枚は,以前から持っている当時の日曜版イラスト新聞の縮小版!
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq20i20p03.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月01日03:15


 【質問】
 ボルゲーゼ侯って誰?

 【回答】
 人呼んで「黒い皇太子」こと,ジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼ Junio Valerio Borghese(1906-1974)は,ローマの高名な貴族の生まれ.
 第二次大戦ではデチマ・マス部隊司令官を務め,イタリア休戦後はこれを裏切りとして認めず,枢軸側に身を投じ,RSI海軍や義勇陸戦部隊を編成して,終戦まで奮戦.
 一方で,終戦時にはOSSによってパルチザンから救い出され,戦後もCIAと協力して非合法な反共活動に関与,1970/12/7には内務省占拠クーデターを謀るなど,ある意味愉快な,非常に興味深い人物である.

 【参考ページ】
http://www.comandosupremo.com/forum/lasttopic.php
http://it.wikipedia.org/wiki/Junio_Valerio_Borghese
http://www.facebook.com/photo.php?pid=4616007&id=91367865525
http://www.marina.difesa.it/storia/movm/Parte06/MOVM6018.asp
http://www.ragionpolitica.it/testo.6679.junio_valerio_borghese_decima_mas.html
『Avanti Camerati!』(同人誌),p.8


http://www.comandosupremo.com/forum/lasttopic.php


http://www.facebook.com/photo.php?pid=4616007&id=91367865525


http://www.marina.difesa.it/storia/movm/Parte06/MOVM6018.asp

【ぐんじさんぎょう】,2009/5/25 21:45

 ボルゲーゼ侯のファシズム本物ぶりはガチなので,今でもヴェテランにはムッソリーニより人気が在りますねw.

 ところで,RSI軍について触れるなら空挺部隊も外せませんが,27日発売の「グランドパワー」7月号でRSI空挺についてまとまったページで書いたので,またご覧下さい.
http://www.groundpower.co.jp/GP0907_page.html

よしぞうmaro' in mixi,2009年05月24日 23:35


 【質問】
 第二次大戦イタリアのパルチザンについて,シンプルに教えてください.

 【回答】
1) ファシズム運動に対する反ファシズム運動興る.
2) スペイン内戦に参加する.
3) 弾圧されて地下に潜る,または国外に逃げる.
4) イタリア休戦により,超党派組織『CLN(Comitato di Liberazione Nazionale;国民解放委員会)』発足.
5) ドイツ軍やRSI軍との間で戦闘始まる.
6) 大戦終結後,RSI狩りを行い,復讐を果たす.

------------
 9月11日にドイツ軍がフィレンツェに戻り,私たちのサン・マルコ広場に戦車が唸り声を上げながら列をなした.
 戦車隊はベアト・アンジェリコの僧院の真ん中に配置された.
 その時から私と私の大学の友達にとってドイツ人は敵,連合軍は味方となった.
 しかし,その途端に若者全員に,ファシストの軍隊への参加命令が下った.
 入隊まで5日間しか猶予が与えられず,もし逆らえば銃殺だった.

 私の親友アフルレドとカルメロはすでに徴集され,私はまだ残っている友,アリスト・チルッツィと何時間も,どうすべきか議論した.
 当時パルチザンの運動は非常に混乱しており,私たちにもほとんど知識がなかったが,私は山で自由に暮らすという考えが気に入った.
 同時にパルチザンへの参加は政治的にも明確な選択を行うことになる.

 私たちは決断した.
 実行に移すのは喜劇的と言っていいほど簡単だった.
 バスでフィレンツェの北の山のふもとへ運ばれ,そこから主に脇道を通って山の奥へ奥へと登った.
 最初に出会ったのは村人たちで,彼らは口数は少なかったが,手振りで私たちの行くべき先を差し示した.
 森になっている地帯で,私たちが来るという合図を既に受けていた歩哨に出会った.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.42

 【参考ページ】
吉川和篤『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006),p.137-142
http://resistenzaitalianaeguerrapartigiana.blogspot.jp/
https://kotobank.jp/word/パルチザン

 【関連リンク】
ピレッリ編『イタリア抵抗運動の遺書』(冨山房,1983)
岡田全弘『イタリア・パルティザン群像』(現代書館,2005)

mixi, 2016.8.29


 【質問】
 イタリア・パルチザンにはどのようなグループがあったのか?
Hogy csoportok voltak az olaszorsági partizánokban?

 【回答】
 以下のように,イデオロギーを異にする多数の組織が存在した.

社会党系:マテオッティ旅団

行動党系:正義と自由旅団

共産党系:グラムシ旅団,ガリバルディ旅団

共和党系:マッツォーニ旅団

キリスト教民主党系:自治独立旅団,緑の炎旅団

 中でもガリバルディ旅団は特に戦闘的で,全組織の4割を占め,北イタリアに展開した.

 1944年5月,当時RSI政府の国防相だったロドルフォ・グラツィアーニ Rodolfo Graziani 元帥は,パルチザンの総数は7万~8万人に達するだろうと推定した.
 彼らは直接の戦闘のみならず,ストライキやサボタージュ,破壊工作などにも従事した.

------------
 彼らのぶっきらぼうでそっけない態度は意外だった.
 おそらく私は自分たちが戦いのただ中にいることを十分に理解していなかったのだろう.
 また,隊員の多くが私とは違う理由でそこにいるということも,私にははっきりわかっていなかった.
 初期パルチザンの多くは非合法の共産党員で,運動に後から参加した者達を軽蔑していたのだ.

 しかし唯一人例外がいた.
 皆からボナンテ(有力者)と呼ばれている男だった.
 彼は明らかに全体の指揮官だったが,他の隊員とは違って感じがよく,物言いも穏やかだった.
 特に背は高い方ではなかったが,その金髪と灰色の瞳が際立っていた.
 30代になったばかりだったが,既に伝説の人物だった.
 本当の名前はアリジ・バルドゥッジ.
 フィレンツェの労働者の家庭に生まれ,簿記の学校で優秀な学生だったが,1939年にファシスト党のグリーン・ベレー隊に召集され,ユーゴスラヴィア国境での戦いで目覚ましい功績を上げた.
 ドイツ軍の侵入に対してローマの北のサンタ・マリネッラで応戦し,投降を拒否した.
 敵と撃ち合いの末,山に逃げ延び,その後たちまち地下運動の指導者的人物になったのである.
 言ってみればファシズムから共産主義へ転向したわけだが,真のところは愛国心が彼にとって最も重要だったのだ.
 パルチザンはガリバルディ隊と呼ばれる組織を打ち立てた.
 昔のガリバルディ派が身に着けていた赤シャツが,共産主義者にもふさわしいと考えられたのだ.
 ボナンテは,1920年代のファシストの犠牲者にちなんでランチロット・バッレリーニと名付けられた師団を指揮し,そこに私が参加したわけである.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.42-43

 【参考ページ】
吉川和篤『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006),p.139
https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/csi-studies/studies/spring98/OSS.html
http://www.resistance-archive.org/en/resistance/italy
http://www.italia-resistenza.it/
http://www.anpi.it/storia/120/
http://www.resistenzaitaliana.it/

mixi, 2016.9.2


 【質問】
 対パルチザン戦に伴う,枢軸軍の残虐行為について教えてください.

 【回答】
 イタリアでは,ドイツ軍治安部隊や,民兵を含むRSIの各種部隊が,パルチザンと死闘を演じた.
 その過程で,幾つもの虐殺事件が起きている.
(イタリアだけに限った話ではないが)

 たとえば,1944.3.23,ドイツ軍の警察連隊「ポーゼン」がローマ市内中心部で行軍中,ラゼッラ街にて仕掛け爆弾により,33名が死亡.
 これに激怒したヒトラーの命令により,ロシア戦線での「1対10」ルールを適用して,330名を見せしめ処刑することに決定.
 この命令を遂行するため,ローマのゲシュタポ司令官ヘルベルト・カプラー Herbert Kappler SS中佐が,大急ぎで「処刑者リスト」を作成.
 政治犯や死刑囚だけでは330名に遥かに届かず,不足分はユダヤ人で穴埋めした.
 彼らは食肉運搬車に詰め込まれてローマ南郊のアルデアティーネ洞窟へと運び込まれ,そこで銃殺された.
 手違いにより,実際に銃殺されたのは335人だった.
 処刑後,証拠隠滅のため,洞窟は入り口を爆破された.

 カプラーは終戦直後,ヴァチカンにかくまってもらおうとしたが失敗し,連合軍によって逮捕され,イタリアに引き渡された.
 ところが戦後,イタリアは戦時中の暴力行為の全てを無罪としていたので,カプラーもユダヤ人狩りとアウシュビッツへの移送,アルデアティーネの虐殺,すべて不問にふされた.
 しかし,手違いで5人多く殺した点だけが罪に問われ,終身刑となった.
 1975年,服役中に健康状態が悪化したカプラーは,病院に移送されるが,収監中に結婚した夫人の手引きで西ドイツへ逃亡.
 イタリア政府は西ドイツに,カプラーの引き渡しを求めたが,西ドイツは拒否.
 健康状態を理由に,西ドイツ国内での裁判も行われず,1978年,カプラーは病院で死去した.

 洞窟での虐殺の指揮をとった,カプラーの副官エーリヒ・プリーブケ Erich Priebke SS大尉は,終戦後にアルゼンチンに逃亡.
 1995年にやっとアルゼンチンからイタリアへ引き渡され,1998年に終身刑の判決を受けるも,高齢のため,ローマ市内の担当弁護士宅で拘禁.
 2013年に死去したが,埋葬場所がネオナチ信奉者の「聖地」となる可能性を恐れたイタリア,ヴァチカン,ドイツ,アルゼンチンのどの自治体も,遺体埋葬を拒否.
 結局,法王庁との関係が拗れている聖ピオ十世会にて葬儀が行なわれた.

 また例えば,1944.7.22,ドイツ軍はサン・ミニアート村に対し,「村周辺でのパルチザンの活動に対する報復のため,村を爆撃する」と通告.
 そのため村人たちは,身の安全をまもるために教会に集まったが,その教会に村人たちは閉じ込められ,ドイツ軍により爆破された.
 これにより,女性や子供も含めた52人が死亡.
 その後,村はドイツ空軍機により爆撃された.
 このとき,教会に行かなかったために助かった者の中に,後に映画監督となったタヴィアーニ兄弟がいる.

 1944.8.12にはトスカーナのサンタナ・ディ・スタッツエーマにて,住民400人が虐殺さる.
 犠牲者には,パルチザン活動とは無関係な女性や老人,そして多くの子供たちが含まれていた.

 1944.9.29~10.5には,ボローニャ近郊のマルツァボット Marzabotto 村の住人,約800人が虐殺された.
 9.29,パルチザン「ステラ・ロッサ旅団」撃滅任務を受けたヴァルター・レーダー Walter Reder SS少佐は,敗走するパルチザンを追撃・捜索する中,パルチザンの一味という容疑をかけて,村民を銃殺.
 また,住民のうち456人を強制労働のためドイツへ拉致した.
 虐殺に恐れおののいた人々は,教会へ逃げ込み祈りを捧げたが,武装SSは彼らに対して銃撃と手榴弾とで皆殺しにした.
 また,別に人々を墓地にかき集め虐殺.
 殺し方も残虐で冬の終わりには,首を切断された神父の死体が発見されたという.
 さらにSSは死者を埋葬することを禁じ,弔おうとした神父をも射殺した.
 犠牲者のうち45人が2歳未満,110人が10歳未満,95人が16歳未満,142名が60歳以上の高齢者,316人は女性であった.
 カトリックの聖職者も,併せて5人殺されている.
 マルツァボット村は完全に破壊され,800の建物が焼き払われた.
 7つの道路が完全に破壊され,学校,墓地,橋,教会などあらゆるインフラ設備も同様に破壊された.

 レーダーは戦後,米軍によって拘束され,1951年にイタリア軍事法廷によって終身刑の判決を受ける.
(それなら何故カプラーはああなった?と思うのだが,イタリアの法律のからくりは,編者にはよく分からない)
 1980年に不定期刑が言い渡され,1984年にはレーダーが手紙の中でマルツァボット村の住民に対し「深い後悔」を表明.
 1985年に出所すると,オーストリアの国防大臣によって名誉勲章を受けた.
 1991年にウィーンで死去.

 これらは映画になるなどして後世に伝わっているが,他にも多数の不法な市民殺害事件があっただろうことは想像に難くない.

 1944年6月から終戦までのパルチザン戦において,
枢軸側将兵は1万6000名が死亡
パルチザン側は4万5000名が死亡
ドイツ軍に殺害された市民は1万人を超えたという…

------------
 1944年の復活祭[4/9]の頃には,アメリカ軍とイギリス軍から私達に食糧と武器が送られるようになり,空から投下されたが,ドイツ軍はそれに対して殆どなすすべもなかった.
 しかし復活祭の土曜日,朝の4時に,谷から聞こえる銃声で目を覚まされた.
 谷を見下ろすと火と煙が見えたが,偵察が探りに出かけた間に,今度は反対側から銃声がした.

 ドイツ軍はフィレンツェの北側の山脈地帯からボローニャの北方まで広がる全域を取り囲むよう,二手に分かれて軍隊を送り込んだ.
 我々を一気に,完全に一掃しようと決断したのだ.
 ドイツのSSはあらゆるところに出没し,通りがかりに全てを焼き払い,破壊し尽した.
 村々が全壊した.
 彼らは私たちに食べ物をくれた家族の家々を焼いた.
 私達に協力的だった女達は,ベッドから引きずり降ろされ,火炎放射器が次々に火を放つ中を射殺された.
[中略]

ローマが解放されたときには人々が抱き合い,キスを交わし,通りで酔いながら踊り明かしたのだが,フィレンツェの解放はそんな喜びからは程遠かった.
 ローマでは戦いはなく,流血もなかった.
 しかしフィレンツェでは,大勢のファシスト党員が罠にかけられ,連合軍の到着から数日間は内乱が爆発した.
 ファシストたちは荒れ狂い,噴水のところで水を汲もうとしていた女性たちや,ひとかけらの食べ物のために行列していた罪のない人々に発砲した.
 パルチザンが彼らを捕まえようとすると,ファシスト党員は彼らをどこへでも,教会にさえ引きずり込んで獣のように殺した.
 最後には古い中世時代のゲルフ党員とギベリン党員のように,同胞同士が血で血を洗う争いになっていたのである.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p48-49 & 65-66

 【参考ページ】
吉川和篤『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006),p.114-140
http://ona.blog.so-net.ne.jp/2010-09-27
https://t.co/ZlHzdFrJbq
https://www.ushmm.org/outreach/ja/article.php?ModuleId=10007686
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/02b9603f21437ebc2681013770a4df50
http://d.hatena.ne.jp/fusen55/20131012/1381583541
http://www.eiga-kawaraban.com/11/11091401.html
http://zip2000.server-shared.com/sanlorenzo.html
https://t.co/XskMrDMknK

カプラー
プリーブケ
こちらより引用)

レーダー
(こちらより引用)

mixi, 2016.9.6


 【質問】
 ムッソリーニの最期は?
Milyen volt az Mussolinínek utolsó pillanata?

 【回答】
 1945年4月末には北イタリアの枢軸軍は総崩れとなり,4.27,ムッソリーニはドイツ軍部隊と共に脱出を試みた.
 それより前,ムッソリーニの周囲は彼に政治的亡命を薦め,日本政府も潜水艦で秘密裏に日本に亡命することをムッソリーニに打診したが,ムッソリーニは
「好意はありがたいが,余はイタリアで人生を終えたい」
と返答して丁重に断っている.

 ムッソリーニはスイスに逃げ,そこから中立国でヨーロッパでファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画だったらしい.
 スペインへは既に家族と子供たちを亡命させていた.

 ムッソリーニはドイツ軍の外套を着て,泥酔したドイツ兵に変装させられ,ドイツ軍の高射砲を載せたトラックに乗っていたが,コモ湖畔ドンゴにて「ガルバルディ旅団」のパルチザンに見破られ,山の一軒家に監禁される.
 見破ったのはウルバーノ・ラッザロというパルティジャーノだった.

 「ガルバルディ旅団」指導部は,捕らえた全員を略式裁判で即時処刑することを決定.
 翌日の4.28,ムッソリーニを初めとした15名の政府要人は,ジュリーノ・ディ・メッツェグラ郊外のジュリーノ広場に移送され,そこで並ばされた.
 ムッソリーニから離れようとしなかった愛人クララ・ペタッチ Clara Petacci が,まず射殺.
 ムッソリーニはクララが倒れると,自らの胸元を示して
「心臓を撃て」
と言い,その通りに胸を撃たれて殺害された.
 前述のラッザロによれば,ムッソリーニとペタッチを殺したのはルイージ・ロンゴであるという.
 ロンゴはその後,イタリア共産党の書記となった.

 そして二人の遺体は,彼らが発見された場所に運ばれ,そこでまた銃で撃たれた.

 4.29,ムッソリーニたちの死体はミラノのロレート広場で晒しものにされたが,群集が数千から数万へと膨れ上がったため,彼らによく見えるようにと,ガソリン・スタンドの屋根から逆さ吊りにされた.
 群集が散会した後,広場に下ろされたムッソリーニの遺体は,いったん病院に運び込まれた後,ミラノ郊外の墓地に埋葬された.

------------
 4月の終わり頃,戦略事務局[OSS,CIAの前身]は私を通訳として,マントヴァに近いベイリイ橋でポー河を越え,ブレシアに着いた.
 4月29日のことだった.
 ムッソリーニが射殺され,戦争が事実上終結した翌日である.
 総司令部は当然ながら混乱状態で,私たちは殆どすることがなかった.
 状況を知ろうとうろうろしているときに,大男のアメリカ人士官が太い声でがなり立てながらやってきて,軍隊の喧嘩もものともせずに怒鳴り始めた.
「俺に誰かジープをよこせ.アイゼンハウアーにでも頼めって言うのか?」

 彼は司令官の一人に吠えたて,ドナルド・ダウンズ,戦略事務局員で,幾つかのアメリカの新聞に記事を送っている有名な通信員だと自己紹介した.
「ムッソリーニが射殺された」と彼は説明した.「すぐにミラノに行きたい.運転と通訳ができる人間が要るんだ」
 彼の声があまりに大きく,自信たっぷりなので,皆その様子を面白がった.
 そして私が同行することになった.

[中略]

 彼は自分の信念に恐れを抱かなかった.
 1936年,青年時代にローマで彼は,ムッソリーニの「帝国」を示す白と黒の大理石の地図にオレンジの皮を投げつけて投獄されたこともあった.
 その大理石は総統自身が広場に立てさせたものだった.
「で,これからベニートにさよならを言いに行くってわけだ」
 彼は言った.

[中略]

 コルソ・ヴェネチア通りを抜けて,ミラノの広場でも最も平凡なピアッツァーレ・ロレートに出た.
 ドナルドがなぜこれほど状況を把握していたのか謎だったが,確かに広場には騒然と殺気立った物凄い群衆が押しかけていた.
 一方の端に,どこにもあるガソリン・スタンドがあり,その高い柱のてっぺんからワイヤーで,ベニート・ムッソリーニとその愛人クララ・ペタッチの死体が逆さに吊り下げられていた.
 哀れにも忠実なクララは,逃げられたにもかかわらず,見捨てられた総統と運命を共にした.
 コモ湖で捕らえられ,共産党パルチザンの銃殺隊が二人を取り囲んだ時,彼女は恋人と銃の間に自分の身を投げ出したのだ.
 今や二人の体はめちゃくちゃに傷つけられ,まるで肉屋の肉のように吊るされている.
 スカートが頭の下に下がっているので,彼女の下腹部が露わになっていたが,親切なキリスト教徒の一人が群集を押し分け,人々の嘲りと非難を無視して,彼女の服をその両足の間に挟み込み,最低の品位を保たせた.

 彼女の傍らに,文化大臣パヴォリーニの死体が下がっていた.
 彼は政治的な点を除けば,オペラを心から愛し,支援した人物だった.
 我々イタリア人が,互いにこのようなことができるとは信じがたがった.
 私たちは西洋民主主義を裏切り,次にドイツ連合軍を見捨て,そして今お互い同士を引き裂き合っている.

 ドナルドは双眼鏡でこの光景を眺め,何枚のものメモを走り書きした.
 一人の老婆が抱きかかえられ,ムッソリーニの死に顔を激しく打ちすえる有様を,私に向かって話した.
 息子か夫を亡くした人に違いないと言った.
 その場の様相はぞっとするほど野蛮だった.
 私たちの制服に気付いた群衆が殺気立った.
 ドナルドが車で帰ろうと言い,戻りかけた時,中の一人が共産党式の敬礼をして,「次はお前たちの番だ!」と叫んだ.

 私たちは連合軍将校のレクリエーション・センターとして確保されていたホテルへ向かった.
 ドナルドは私に飲み物を与えると,再び当たりの様子を見に出かけ,ウィスキー1本とタイプライターを抱えて戻ってきた.
 そして何時間も飲みながら猛烈な勢いでタイプを打ち,その日の出来事を記事に仕上げた.

 突然,彼は私のほうに向き直った.
 少し酔っていた.
「彼に会いに行こうじゃないか」
 彼は言った.
 誰のことかと私は尋ねた.
「ムッソリーニさ」
 彼が答えた.

 今度はドナルドが運転し,指示に従って何度も迂回し,ふらつきながら道を辿った.
 近くで銃声が聞こえ,いかめしい感じの建物の前に着いたときは暗くなっていた.
 私にはどこだか分らなかったが,病院の感じが一番近かった.
 灯っている明かりはほんの二,三個で,全てが呆れるほどメロドラマチックだった.
 ドナルドが身分証明を示し,守衛が私たちを中に入れた.

 半ば手探りで行き着いた部屋に,総統とクララ・ペタッチの死体が二つのテーブルの上に横たわっていた.
 2人の体を清めようとした者は誰一人なく,そこで見た光景は胸の悪くなるものだった.
 ムッソリーニの顔は充血して膨れ上がっていた.
 眼球から何かの分泌液が流れ出ていた.
 私は吐き気がした.
 肉体的な恐怖にも増して酷かったのは,ブラック・コメディだった.
 死後硬直によってムッソリーニの両腕が頭上に高く上がってしまったのだった.
 パルチザンが片方の腕を抑え込んだが,もう一方の腕は下げようとするたびに跳ね上がり,まるでローマ式挙手の礼のグロテスクなパロディだった.
 私は彼が私たちを支配し,軍隊を得意げに閲兵し,夢中になった群衆に向かって熱弁をふるった何年かを思い返した.
 彼の狂った幻想が,私たちにもたらしたものについても考えた.
 崩壊と屈辱である.
 そして今その彼が,二人のパルチザンの若者がついに彼の腕を折って処置した,腐りつつある肉の塊としてそこにいる.
 私はその部屋で,私の少年時代は終わったと感じた.
「バイ,ベニート」
 ドナルドが言い,私たちはそこを出た.

------------フランコ・ゼッフィレッリ『ゼッフィレッリ 自伝』(東京創元社,1989), p.70-73

 ラッザロは戦後,幾度も襲われた.
 「多くの危険なことを知りすぎた」ためだという.
 彼はピエモンテの水力発電会社で働き,2006.1.5,81歳で死去したという…

 【参考ページ】
吉川和篤『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006),p.141
http://ona.blog.so-net.ne.jp/2010-09-27
http://www.y-history.net/appendix/wh1502-108.html
http://senese.cocolog-nifty.com/koukishin/2006/01/post_8790.html

mixi, 2016.9.6

 【質問】
 この↓ミステリー「ドゥーチェ」サークルについて教えられたし.

 【回答】
 イタリアのミステリーサークル……では在りません.
 が,これが現在も残っている事自体がミステリーな国,それがイタリア.

 事の起こりは1930年代,護民義勇軍(MVSN)の森林警備部隊がイタリア半島各地でムッソリーニを称える言葉を植林した事から始ります.
 その言葉はDVXの三文字で表され,DUCE(ドゥーチェ:統帥)を意味しました.

 上の写真は,連休前にイタリアの友人から送られた週刊誌『La repubblica』に掲載の衛星写真.
 アペニン山脈南に位置するラッツィオ州リエーティのモンテ・ジャーノ山中には,1938年から翌年にかけて植林された「DVX」が,今もご覧の様に残っているそうで,その文字も衛星軌道からハッキリと確認出来ます.

 いや~,イタリア人って(笑

 この写真を送って来た友人の住むマッサでも,森林官がDVXの三文字を形にした植林を行ったものの,戦後になると切り倒してしまったそうなので,このモンテ・ジャーノ山の森は,面倒くさい半分と故意半分で残ったものかも知れません(笑)

 以前,ミラノの中央駅やその付近に残るファシスト党のシンボルである束ねた斧の形をしたファッショリットーリオについて言及()しましたが,旧ユーゴ国境近くの街トリエステに旅した時もあちこちで見かけました.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000232.jpg

 写真左は港に面した広場に立つ第一次大戦慰霊塔の表面にA(Anno) X(Dieci):ファシスト暦10年の文字と共に刻まれたファッショ.右はアドリア海を照らす灯台と第一次大慰霊碑が一緒になったもので,無名戦士の像の足下にもファッショが見えます.

 これなどは,第二次大戦直後からチトー共産政権のユーゴスラヴィアと国境を面したヨーロッパ正面であるトリエステの地政学的な見地を鑑みると,なんでこうもあからさまにファシスト政権のものが残されたかのヒントになりそうで興味深いものがあります.

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月09日00:46

▼ ちなみにイタリアでは,今でも戦時中に書かれたプロパガンダのスローガンやメッセージが農家の納屋等に残っています.
 なんと言ってもミラノの中央駅にファシス(斧)のシンボルとファシスト暦のレリーフが壁面に残っている国ですから(笑)

ポー川付近の農家の納屋壁面にあったプロパガンダ・スローガンを見つけて撮影した写真(写真左上)

▼ 大抵は,「イタリアは平和を望むが,戦争も厭わない」とか,「勝利せよ!」とか言った文句が並んでいて,写真の物は上の行の一部は補修で読めませんが,下の行は“PRIMA DURANTE COMBATTUTO”(闘う時の前に~)とあり,ご丁寧にムッソリーニの署名まで残っていますねー.
 その下は以前に入手した写真で,ドヴンクェトラック(奥)とランチアROトラック(手前)の奥に,もっと長いメッセージが見れます.

 写真の右は,写真集『I MURI DEL DUCE/ドゥーチェ(統帥)の壁面』(Ariberto Segala著/ARCA出版)より.
 トリノの郊外のトラヴェルセッラの街に残る壁文字.“ACHTUNG! BANDENGEFAHR!”とは「武装パルチザンに注意!」の意味のドイツ語.
 解説によると,戦争末期に地元に駐屯していた独SS部隊が書き残したものだそうです.

 あちらはホーロー看板が無い代わりに,農家のレンガ塀等に戦前のCINZANOの広告壁画が残っていたりして,何となく日本の「管公」や「金鳥」を思い起こさせますね(^^;

 さらにはこんなドゥーチェ(ムッソリーニ)の似顔絵イラストを壁に残す家々などもあり,もうこれは確信犯だろう!と思わざるを得ません(爆
 確かにドイツのように深いことを考えていないのかも知れませんが,上の日記の最後に追加した様なムッソリーニの壁画を残すあたりは,“政治的な確信犯”を思わせます.
 補修の漆喰をわざと外している点など,残そうという“意思”が見えますねー(笑

 もちろんイタリアでも,公共の場所にファシスを残す事は抵抗が在った様で,ほとんどの場合は消されています.
 そんな中で,たまたま残ったものがこうして日の目を見ている訳です.
 ただ,この“たまたま”が随分と多い割合いなのが,イタリア的と言えましょうか.

 以前にミラノの中央駅のファシスのレリーフを削り取ろうという話は何度も持ち上がったそうですが,結局これも歴史の証人であるという点が論点となり,このままになったそうです.
 それから,このファシス自体がローマ帝国時代の護民官の紋章であった事も今に残された要因(言い訳)かも知れませんが,これは在る意味ズルいですね(笑)

 また,戦後ユーゴ国境に近く,冷戦中に戦争の危機を感じていたトリエステなどは,今もかなりファシスが残っていて,これは故意を感じますね.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000232.jpg

 まあ,“テデスキ(ドイツ人達)が書いたものだから,オラ読めねえし”で終わり,みたいなことかも知れませんが,これも補修の白漆喰を文字部分だけかけて無いんですよね….
 どうなんでしょう,故意に残したとするとそれこそ“村八分”になりそうですが,そこがイタリア人の個人主義の為せる技なのか.
 ただ,こういう事に驚いていたら,戦後RSIから作られたネオファシスト党MSIが国会で議席を確保したり,ムッソリーニの孫娘アレッサンドラがイタリア国会議員とユーロ議員をやっている事自体,ドイツ人から見たらショック死ものですから身が持ちませんが(^^;

 ただ,こういった歴史的な壁画は良いのですが,現在のイタリアでは街中に落書きが大過ぎで辟易としてしまいます.
 ミラノの歴史地区でも,14世紀の建築物にスプレーで落書きしていてたり.
 こういう行為は他国民ながら納得出来ませんねー.

 それにしても,こういったプロパガンダが今だに残っているイタリアという国,ある意味で素晴らしいとは思いませんか?
 「DVX」(ドゥーチェ:統帥)文字形に植林した森が残っている話等,もはやギャグを通り越していて感動します.
 もう,涙が出ますね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年04月07日21:42
~04月08日 19:36



 【質問】
 このBandenとは盗賊じゃないのですね(汗

南蛮お賀茂 in mixi,2007年04月07日 22:00

 【回答】
 この対Banden戦闘徽章が,ヒムラーによって制定された有名な蛇と髑髏に剣を刺したBandenkampf-Abzeichen(対パルチザン戦闘章)ですね.
http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Orden/ss-bka.html

 主に武装SSと独治安警察部隊に支給されましたが,一部のRSI部隊将兵も授与しています.
 驚くべきはこの徽章,戦中に授与された西ドイツ将兵用に,戦後も制定されて存続している事実!!

 このBandenkampf-Abzeichen(対パルチザン戦闘章)の戦後版ですが,流石にスワスチカと髑髏は廃止されています.先のサイトの物と比較して見てください.
http://www.ritterkreuztraeger-1939-45.de/Bandenkampf-Bronze.jpg

 戦後,西ドイツでは再軍備後に大戦中に叙勲された将兵に対して,スワスチカを取り去った勲章を新たに制定,ドキュメントを提示した申請者に対して再授与しました.
 下は知り合いの方のサイトにあるムンスター博物館のページで,そこに飾られた戦後制定勲章の各種が展示されています.
Bandenkampf-Abzeichen戦後版も6番目の写真に写っています.
http://www.geocities.jp/dokidokigermanhours/newpage9.html

 でも,この徽章の制定の意味を考えると,戦後にも存在している事自体がなかなかなもんですが(^^;

 これを付けて海外の演習や会議に出た猛者がいるかと思うと…(・ω・;)

よしぞうmaro' in mixi,2007年04月08日 00:46
~04月08日 19:36


 【質問】
 ムッソリーニの生家は現存するのか?

 【回答】
 ムッソリーニの場合は,家には入れませんが壁に「ベニト・ムッソリーニの生家」のプレートが貼ってあり,自由に訪ねる事が出来ます.
 写真1は,現在市の公文書倉庫になっているムッソリーニの生家.
 なにせ,プレダッピオの通りには観光客目当てのお土産物屋が5,6軒連なって,ムッソリーニのTシャツやキーホルダー,マグカップなどありとあらゆるファシストグッズを売っているぐらい緩いものです(笑

 そのうちの一軒のサイトがこちらに.
http://www.ferlandia.com/
 グッズ類を見るとドイツでこんな店があったなら,即刻官憲の取り潰しに合いそうです(爆

 ガルダ湖畔のサロに政権が固まる前に暫定政府が最初に産声をあげたのも,救出後にドイツから戻ったムッソリーニが,このプレダッピオ近くのロッカ・デレ・カミナーテの古城に新任閣僚を呼んだことからです.
 そのシーンは,RSI記録映像集でも見られます.

写真1

 ちなみに,某国営放送教育テレビ番組の「イタリア語会話」は,毎週欠かさず見ていますが,その中に半年掛けてエミリア・ロマーニャ州の州都であるボローニャの近郊の色々な街を舞台に,毎回違ったテーマで探訪する「もっと知りたいイタリア ボローニャを歩く」という10~15分ぐらいのコーナーがあります.

 これは上級者のリスニング勉強にも役立つコーナーなのですが,今回のテーマは,なんと『ムッソリーニの故郷』!
 レポーターがムッソリーニの生家と一族のお墓が在るプレダッピオを訪ね,別名「ファシズムの博物館」と言われる同地のファシズム建築やムッソリーニのお墓を紹介します.

 どうかしたのか,N○K!!(笑

 しかもムッソリーニの亡くなった日に集まった,“お洒落な黒いシャツを着た人々”が,墓前で右手を挙げてファシスト式敬礼をする所をバッチリ映し,あまつさえファシスト党のシンボルである,斧を棒で束ねたローマ時代の紋章,ファッショの形や由来,ファシズムの歴史を,「ディスカバリーチャンネル」風映像と共に解説し,ムッソリーニの生家からファシズム建築の市役所やらなにやらを見せ…といった,頭がクラクラする内容でした.

 最後には,ファシズム建築の建物内で暖炉をどけたところに現れた壁のファッショのフレスコ画について,発見者が嬉々として解説.
 思わず,以前に2度ほど訪ねたプレダッピオの思い出がフラッシュバックしましたw.

 (写真2)は,4月28日の命日にイタリア全国から人が集まるムッソリーニの墓前.
 中央には,統帥の頭像を挟んで一対のファッショの立体物も見えます.

 (写真2)は,典型的なファシズム建築の一つである市役所.
 現在もデザイン化された3つのファッショが壁面に残っています.

写真2


写真3

 これらの場所は,ムッソリーニの生家と共に,全て番組内で紹介されました.
 ムッソリーニやその政権に付いて一言も否定的なコメントが無い不思議な映像でした(笑).
 戦後破壊を恐れてファッショに薔薇の花束を描き加えたエピソードも興味深いものがありましたが,それをにこやかに解説するシスターがまた凄い!

 いやー,それにしてもドイツ語講座では考えられない素敵な企画で,仕事疲れで帰宅した自分の頭もガッツり刺激されました(笑)
 なんだかif物で,ファシズム側が大戦を勝利した世界の番組を見る様でした(笑).

 ◯HKの戦略かもしれませんが,ここは「◯HK天然説」に一票!(=゚ω゚)ノ

 以前,ここはワールドカップ・フランス大会の「イタリアvsオーストリア戦」で,放映終了直前にイタリア三色旗の中心にファッショを掴んだ黒い鷲のRSI軍旗と,それを振るネオ・ファシストサポーターを,TV画面一杯に大写しで放映した経歴がありますので(笑

 イタリアでも,今でも都市部では,元ファシストと元パルチザン側の対立があるぐらい(さすがに両者共に高齢になって来た為,次の世代にバトンタッチされている様ですが…)ですが,でも確かに今でもファッショのマークとファシスト歴の表示があちこちに残されていたり,その辺の緩さはドイツとはかなり温度差が在りそうです.

ミラノ中央駅

トリエステにて

 ムッソリーニの孫娘であるアレッサンドラは,下院議員や欧州議会議員を続けながら,数年前に右派国民同盟から離党して極右政党/社会行動党(Azione Sociale)を結成,ネオファシズム運動とも関わりを持ちながらバリバリ活動をやっていますね.

 実の所,例えば1943年以降のサロ共和国時代には,国内のユダヤ人輸送にムッソリーニの傀儡政権も加担したりしているので,まったくクリーンでもないのですが….
 まあ,これもひっくるめて余りにもその時代について知られていないのが,幸いしているのでしょうか.
 ただ最近のネオ・ファシスト運動の動きを見ていると,その辺の無知を利用して一種の幻想を伝播しようという感もありますが.

 いや~,それやこれやを考えるとイタリアってある意味凄いわ(笑 だから,止められません(^^;

よしぞう(maro') in mixi,2006年09月12日04:40
~2006年09月17日 09:58
より再構成


 【質問】
 1938年のイタリア訪日団について教えられたし.

 【回答】
 このイタリア訪日団一行は北京,満州,上海を訪問した後,長崎に上陸して,春の雲仙国立公園で観光(下掲写真)もしております.

 上京後は日光にも参拝したそうです.

 また,ムッソリーニから預かった品々を皇居で昭和天皇に献上していますので,かなりオフィシャルな国賓扱いだったと思われます.

 下の写真は,3月22日に陸軍大臣官邸を表敬訪問して,杉山陸相と乾杯するパウリッチ団長.
 および,同日永田町小学校を訪れて男子生徒の剣道を見学する,ガエッチニ博士以下7名の教育関係者.

 訪問団が日本で使用したと思われる荷札.
 見ると,日本国旗やサヴォイア家の紋章が付いた戦中のイタリア国旗と共に,ファシスのマークも!
 イタリア訪日団は,満州経由で東京に到着後,京阪方面に移動しているので,そういった際にこの荷札をパウリッチ団長以下22名のファシスト党員御一行の旅行鞄に下げたのでしょう.

 スーツケースに貼るホテルのラベルなども,戦前や戦後すぐの物は良いデザインがあり,こういった旅ものグッズもコレクターが多そうですね.
 こういった収集品なら奥さんの理解も得られそうなのですが…(爆笑

 ヒトラーユーゲントの富士登山などは多数の写真が残されていますが,残年ながらイタさんはあまり記録が戦後の出版物で紹介されていませんね.
 当時の写真を見るとかなり“熱烈歓迎”されているのですが….

 訪日団は,京都,大阪,神戸にも立ち寄っていて大阪での歓迎ぶりは,沿道でイタリアの小旗を降る写真がいくつか残っています.
 写真↓左手の報道員達に混じって,イタリアのLUCEの腕章を巻いてカメラを手にした記録映画班員も,確認出来ます.

 芸者とファシストという取り合わせが粋↓.

 どこかの地方での歓迎パレードの様ですが,場所が特定出来ません.↓

 このイタリア訪日使節団の来日を機に,満州や日本で各種バッジ記念バッジが作られて関係者に配られていますが,日本の勲章物コレクターにもあまり知られておりません.
 以下は,UNIFORMI E ARMI誌Vol.57(1995年12月号)より転載した使節団来日記念バッジ写真の一部です.

 富士山と桜の花にファシスタ党のシンボルであるファッショ・リットーリオの斧とマーガレットの花を組み合わせた高級感のある銀製記念バッジ.
 裏面にイタリア語と漢字で「Missione Fascista Italiana(イタリア・ファシスト使節団)伊国政府派遣ファシスト訪日親善使節団 1938」とレリーフされています.サイズ44×19ミリ.

 その名古屋版↓.富士山と名古屋城のシャチホコとの組み合わせがなかなかユニークです(笑
 こちらは,サイズ38×16ミリとやや小振りで,裏面にはイタリア語のみで「BENVENUTO ALLA MISSIONE ITALIANA DEL P.N.F.(歓迎,ファシスタ党イタリア派遣団)NAGOYA」と刻まれてなかなか本格的.

 この辺のバッジもずっと探していますが,国内より向こうで見つかる可能性が高そうです(笑).

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月10日10:10~05月13日 23:48

▼ 以前,イタリアと深い関わりのある日本人のご遺族を取材した時,仏壇の引き出しから,フィウメ記念章とローマ進軍記念章が出て来て,オーパーツを見つけた考古学者ぐらいたまげた事があります.

 この時も
「是非,次の世代に伝えてください」
と言いましたが,ご家族がその意味する所をどれだけ理解しているかが問題でしょうか.

よしぞう(maro') in mixi,2006年08月08日 02:12


 【質問】
 1938年のイタリア訪日使節団が帰途,満州にも立ち寄ったのは何故?

 【回答】
 イタリアによって満州国が正式承認されたことを印象付けるため.
 1937.11.29にイタリアは満州国の承認を宣言しており,1938年1月の段階では,日満伊間の通商条約締結交渉も進んでいた.
 したがって,このパウルッチ使節団満州訪問は全くの形式だけのものであり,彼らの帰国後の5.7,エットーレ・コンティ Ettore Conti を団長とする経済使節団が来日.
 軍需品との交換物として日本から提示された物資の貧相さに,イタリア側は不満を持ったものの,8.7,日満伊貿易協定と満伊修好通商航海条約とが締結された.

 例の満州大豆の輸入も,たぶんこの協定に拠る.

 【参考ページ】
http://www.seijo-law.jp/faculty/public/info/pdf_slr/SLR-075-073.pdf

【ぐんじさんぎょう】,2010/01/02 23:00
に加筆改修

昭和13年のイタリア親善使節来訪記念の記念バス切符

 神明自動車株式会社は,山陽電気鉄道バス部門の前身
 私が落札したイタリア使節団の切符も,バックには大丸百貨店のビルイラストが入っていたりして,今に繋がるものがありますね.

よしぞう@30西や-12a in mixi,2007年08月19~20日
青文字:加筆改修部分

大珍品!
昭和13年のイタリア親善使節来訪記念の記念写真集,
しかも満州訪問バージョン!!

 パウリッチ団長以下ファシスト使節団が,日本に到着前に満州に立ち寄り,新京を始めといた各地で大歓迎を受ける模様や,満州の自然や農産物,工業や民族を紹介する写真集で,イタリア語と中国語のみの表記ですが,これも後の雑誌「FRONT」を思わせるグラフィックが素晴らしい.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月20日01:44


 【質問】
 LUCEとは?

 【回答】
 LUCEとはL'Unione Cinematografica Educativaの略称でルーチェと呼び,意味は「教育映画協会」です.
 1923年に設立され,記録映画制作を主に行っていましたが,ファシスト政権下ではプロパガンダ映画や戦場ニュースなどを中心に制作していまして,新聞の報道写真も手掛けていました.

 そして恐ろしい事にこのLUCEは現在もイタリアに存在し,日々当時の戦争記録映画のビデオ/DVD販売や新作記録映画を発表し続けているのです!
http://www.luce.it/istitutoluce/index.htm

 LUCEのドキュメンタリーものでは,こんなところもラインナップであります.
 『サロの600日』はもう定番アイテムでしょう.

よしぞう(maro') in mixi,2006年09月19日00:53
~2006年09月19日 20:01


 【質問】
 Curzio Malaparteとは?

 【回答】
 こんな家

http://www.architectenwerk.nl/architectenpraktijk02/images/malaparte1.jpg

があったりする.

 Casa Malapartetと言うのが邸名で,イタリアはカプリ島に建てられた,地上2階,地下1階の建物です.
 外観は近代的ですが,1938~43年に掛けて作られたものです.
 イタリアの1938~43年と言えば,一番困難な時期だったりするのですが,一応,設計したのは,Adalberto Libera.
 つまり,ドゥーチェお気に入りの建築家だったりする訳です.
 でもって,1943年に竣工と言うのも象徴的です.
 「20世紀で最も美しい住宅」と言われましたが,実際に着想したのは家主の方で,Adalberto Liberaが提示した当初案は家主に拒否されてしまい,Liberaは手を引いたとか引いてないとかちょっとこの辺曖昧な部分があります.

 で,その家主と言うのは,軍ヲタにもお馴染みかも知れないCurzio Malaparte.
 ファシストでありながらファシズムを批判し,ドゥーチェによって投獄までされていた人物.

 その後,チアノの奔走で復帰したものの,KYな行動は相変わらずで,戦争特派員として,東部戦線に従軍した際,ドイツとイタリア派遣部隊の苦戦を送った為,再び戦線から戻され,散々脅されるも,結局,これまた助け出されて,フィンランド戦線の従軍記者となり,イタリア降伏後は,イタリアに戻ったものの連合国軍に幾度か収監され,最終的に共産主義に共鳴して,連合国側に立ち,晩年には毛沢東に傾倒したと言う,ドゥーチェとは逆の方に行った人だったり.
 『クーデターの技術』や『ヨーロッパの崩壊』,『皮』なんかの作品を残している作家でもあったりします.

 彼は,ドゥーチェと袂を分かってから,『クーデターの技術』でAdolf Hitlerとドゥーチェを批判した為,リパリ島に国内流刑となっていた訳ですが,流刑地の窓から見える教会の階段にヒントを得て,このデザイン,即ち,屋上の3分の1を占める逆三角形の階段と言うデザインに繋げたそうです.
 此の階段は,登るにつれて劇場のように広がり,反対に下ると先細りとなってアプローチに繋がり,更に断崖に沿って降りていくと船着き場へと達すると言う形を形成しています.
 でもって,この階段には手摺というものがありません.
 それはそれで,ファシズムの行く末に危険なものを感じたのかも知れません.

 因みに,この家は,映画監督のJean-Luc Godardの名作『軽蔑』に使われ,Brigitte Bardotが階段屋根を降りるシーンが有名です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/15 21:11


 【質問】
 現代イタリアにおける,WW2軍事絵葉書の市場価格について教えられたし.

 【回答】
 軍事絵葉書の市場は早くからイタリア国内では確立しており,1980年代からこう言った値段付きカタログが,流通しています(写真).

 実際,興味の無い方には何で絵葉書一枚がこんな馬鹿げた値付けなのかと理解不能だと思いますが,一言で語ると,RSI軍関係の実物絵葉書は戦後直ぐに,パルチザンの追求を恐れて,市民や関係者はそのほとんどを破棄したり焼いたりしたため残っておらず,ましてや受取人の名前が判る使用品は,好事家の間では天井知らずの値段になるのです.

 この中のボッカシーレ作の絵葉書カタログ(1994年版)でも,使用済みのデチマ・マス部隊のプロパガンダ絵葉書は200マソ(リラ/当時で160K)の値段が付いています.

 上の1981年版カタログには,デチマ・マス部隊系の絵葉書のリストと,当時の値付け(1000リラ単位)がありますが,□枠マークの未使用より,×印が入った使用済の方がより高いのが判ります.

 例えば下のイタリアSSの絵葉書は,10年近く前にヴェネチアの切手/コインショップの壁に,うやうやしく掛けられていましたが,冷やかしで聞いた私に帰って来た答えが,一枚600マソ(リラ/当時で480K)という破格なもので大ショック!
  。。
 / /
( Д ) スポーン

 まあ,これは,逃げ出したエマヌエレ国王肖像画の上に,赤い共和国ファシスを押した,レアもの暫定RSI国切手を貼り,その上に1944年12月の消印を打っているので,この切手部分もお高いのでしょうが…
 それから,一から軍事絵葉書を勉強し直して苦節10年,漸くここまで来ました(遠い目

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月31日02:38

 オリジナルパネライを買える人は,ほとんど貴族みたいな方です.
 私なんか庶民なので,絵葉書一枚でヒーヒーしています(^^;

 以前,デチマ・マス部隊の慰霊祭で,オリジナルを腕に巻いている方がいて,見せて貰いましたが,ちゃんと裏蓋に当時のヴェテランの名前が刻んであって感動しました.
 ああいうモノは,例えば家でキューベルワーゲンを所有するような,文化的な意義がありますね.

 私は逆立ちしてもそこまでは無理なので,せいぜい軍服や絵葉書で止めています(笑)

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月01日 02:19

  。。
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( Д ) スポーン

Павел in mixi,2007年10月31日 04:08

 私も思わず
  。。
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( Д ) スポポポーン

クラレンス in mixi,2007年10月31日 14:42

 ついつい偽造したくなるような値段ですね.

消印所沢 in mixi,2007年11月01日 21:58

 そうそう,それで昔から,この絵葉書世界にもフェイクがあります.
 ただそれは,何かに似せるのでは無く,似た様なそれでいて今まで無かった図柄の絵葉書を,新しく作るというモノです.

 何故なら,今のオフセット印刷では,当時のグラビア印刷は再現不可能で,もしやったとしてもこの値段で売っても,製版代としても割が合わないからです.
 回収しようとすれば,一杯市場に出回ってバレるし,同時に暴落するのでこれも意味が無い.

 そういう訳で,新規で簡単な線画のイラスト絵葉書をデッチ上げて,さもレア絵葉書が発見されたようにして売り抜ける手口があります.

 まあ,今回のものも表書きが戦後書き込まれたもの,と疑う事も出来ますが,今ではこのベースの絵葉書が激レアなら,別に気になりません.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月02日 00:54


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