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左:「ラーメン二郎」 右:クトゥルフ神話の邪神

(こちらより引用)


 【link】

「痛いニュース(ノ∀`)◆(2013/04/04) 「うどんの刺身」が食通の間で話題に


 【質問】
 うどんの定義と歴史は?

 【回答】
 現在の日本農林規格では機械切りの素麺を含め,乾麺類の麺線の太さは下記の通りとなっています.

・素麺:長径及び短径1.3mm未満
・冷麦:長径1.3mm以上1.7mm未満,短径1.0mm以上1.7mm未満
・饂飩:長径1.7mm以上3.8mm未満,短径1.0mm以上3.8mm未満
・平麺:幅4.5mm以上,厚さyaku2.0mm未満

 このうち,平麺とは,ほうとう,きしめん,稲庭うどん,平素麺の4種類があり,それぞれ幅が異なります.
 饂飩と冷麦の切り口は,やや正方形に近い長方形です.

 切麦は鎌倉中期初めか,それ以前にあった事は先述しましたが,饂飩の名前が初めて出て来るのは,現在の所,法隆寺の『嘉元記』が最初となっています.
 1351年5月10日,南北朝期の何処かの合戦で,その戦に参戦した法隆寺の快賢と言う僧兵に対し,恩賞として,三経院でもてなした記録があり,その祝いの席での酒肴に饂飩が出されていました.
 この時には,最初に茹でた枝豆が出され,竹の子や麩の煮物と饂飩のセットを食べ終わった後に,素麺が出されていました.
 その後,1354年7月2日の三経院の悦酒の饗応でも,酒肴として枝豆や集め汁と共に饂飩が出されています.

 つまり,1300年代には既に奈良の寺院で饂飩が食べられていた事になります.

 そもそも,平安期に庖丁で方形に切るほうとうが京都に存在していましたし,切麦も鎌倉期初めには中国から伝わっていますので,饂飩はこの切麦から派生した麺である可能性が高く,実際には奈良よりも前に京都で食べられていたのでは無いかと考えられています.

 室町期になると,京都の寺院や公家では日常的に饂飩を食べ,その原料にする小麦粉は,先述の様に饂飩粉と呼んでいました.
 また,京都の相国寺では,饂飩を院内で打っていた事が分っており,1439年正月22日の日記には,昼食後に饂飩を手打ちして出す様に命じたとの記録があります.
 その饂飩は,于雲澤軒(うとんさわけん)と言う人物が作っていた様で,彼はその名前からしてうどん打ちの名人だったのであろうと推定できます.

 因みに,相国寺の子院である蔭涼軒の庵主の公式日記である『蔭涼軒日録』には,水滑麺や経帯麺と言うものも作っていると言う記録が残っています.
 この庵主,麺の研究を能くしていたと見えて,『居家必要事類全集』なる料理書を蔵書しており,そこに書かれているものを色々と作ってみていたようです.
 水滑麺は,北魏の頃の水引から進化したもので,小麦粉に水と少量の油を加えて練り,水に浸けて置いてから引き延ばして茹でる麺,経帯麺は灰汁と塩を小麦粉に加えて練り,麺棒で押し広げてから経書を巻く平紐の様に切った麺で,今日のきしめんに通じるものです.
 この灰汁を使う記録の初見でもあり,この技術が明代になって拉麺に変化していきます.

 現在の相国寺では,月例行事として,毎月28日に饂飩を食べる事になっています.
 若い僧が手打ちした麺を,この日だけは食べる時にズルッズルッと大きな音を立てても良いそうです.

 また,公卿の家でも饂飩を打っています.
 お馴染み,『山科家礼記』でも,鶴夜叉丸と言う小童が酒を飲みたいと,この日記の記述者である重胤に頼み,金を渡してきたので,重胤は自分が留守の間,その金で酒と肴として饂飩以下諸々のものを整えて,鶴夜叉丸をもてなす様に手下のものに申しつけています.

 饂飩の打ち方は,現在と然程変わりません.
 塩加減については,以前にも触れた様に,「土三寒六常五杯」に近い比率です.
 最近まで,讃岐では土用の暑い頃は塩1升を3倍の3升の水で溶き,寒の時期は6倍の6升の水で溶く様にしていました.
 これは,昔の純度の低い,不純物の多い塩であるからこの比率でOKなのであり,今は精製度の高い粒子の細かい塩なので,その比率で食塩を溶かそうとしても溶けません.
 塩を夏場に多く加えるのは,グルテンがだれるのを防ぎ,麺体の発酵防止と素麺同様に腰の強い饂飩に仕上げる為でもあります.

 麺体は,その昔は臼に入れて餅を搗く如く搗いています.
 これは,現在では足で踏んでいます.
 しっかり踏み込みをすれば,グルテンが能く出て来ます.
 この作業を徹底的に行うと,手延べ手切りにしなくとも機械で延ばし,且つ切出しても手打ち以上の腰のある饂飩になると言います.
 因みに,麺体を臼に入れて杵で搗くよりも足で踏むと,搗くよりも均一的に麺体全体のグルテンを強靱に出来るそうです.

 そして,寝かせておく時間,つまり,グルテンの熟成時間は,讃岐では2時間が頃合いとしています.

 この工程は饂飩も切麦も同じです.
 『和漢三才図会』によれば,その違いは,切り方の違いです.
 饂飩は紐の如く太く切り,茹でて冷やし洗ってから熱い湯に浸け,付け汁に浸けて食べます.
 切麦は素麺の如く細く切り,茹でて冷やし洗ってから,氷の如き冷水に浸け,付け汁で食べるものです.
 切り方と食べ方の違いが,切麦と饂飩の違いになります.

 饂飩というのは,日本独自に発達したもので,中国には無い食べ方です.
 元々,切麦を熱して食していた訳ですが,これらの麺は太さが足りない為に熱湯に浸けると熱に耐えられず,直ぐに伸びて弾力やおいしさが損なわれてしまいます.
 そこで,熱湯に長く浸けて置いても腰が伸びにくい太切りの麺として開発されたのが,饂飩な訳です.
 謂わば,熱湯漬専用の麺であり,これを冷やして食べると言うのは,実はその興りからして,非常に矛盾した食べ方である訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/21 22:52
青文字:加筆改修部分

 さて,饂飩の本来の作り方である湯漬の作り方は,1702年に刊行された『羹学要道記』と言う本に書かれています.
 先ず,饂飩は普段の手打ちか京都「日野屋」の干饂飩を用いて茹でます.
 茹でる際には,中心部が茹で上がる様に鍋を火から下ろし,落し蓋をして熟まし,この時に酒を加えます.
 茹で上がりまでは非常にシンプルなものです.
 これなら,明日,山田うどんとかでも出来ちゃう様な.

 で,食べる際には,一之膳に梅干しと蓋付の椀を置き,薬味の大根卸しを,皿に盛って折敷に載せます.
 付汁は鰹節を効かせた煮貫で,これは汁次に入れます.
 また,熱を保つ為に熱い差し湯を準備します.

 メインディッシュたる饂飩は,蓋付の漆塗の飯次に熱い湯の中に茹で饂飩を入れて出します.
 飯次から椀に饂飩を取り,湯次から熱湯を掛けます.
 椀の蓋に付汁を入れて,饂飩につけて食べる訳です.
 これの薬味は大根卸しと梅干しになります.

 梅干しは肝(胸)がむせるのを防ぎ,大根卸しは腹にもたれるのを防ぐとされています.
 お代りをする際には,汁こぼしに湯も付汁も捨てて再び,同じ様にして食べていきます.

 こうした食べ方が,室町から江戸中期までは一般的なものでした.

 現在の日本の饂飩の食べ方に無いのが温飩之上吸物と言うメニューです.
 これの出汁は花鰹で取り,味噌で味付けをしています.
 麺の上に食べ物を置く…これを上置と呼びますが…これは豆腐.
 これらを蓋付の椀に盛り,添え肴として塩漬鮑の酒浸(魚や肉を塩で入れた酒で浸したもの…此の場合は鮑)と共に膳に並べて食すると云うものです.

 因みに,現在の様に熱いかけ汁で食べる形式が生まれたのは,江戸後期の事であり,当時流行していた蕎麦切りの影響を受けたのではないか,と考えられています.
 とは言え,麺そのものは饂飩と言われ続け,上置する具材や汁のあつらえ方でその名を冠に戴き,何々饂飩と呼ばれる様になりました.
 例えば,あんかけ饂飩,卓袱饂飩,鍋焼饂飩と言う具合です.

 ところで,「日野屋」の干饂飩と言うのが出て来ました.
 干饂飩は室町期に生まれ,禅寺では手打ちしていましたが,公卿の家や多くの寺院では干饂飩を買って茹で,酒肴にしています.
 また,手打ちをしていた記録のある山科家でも鹿苑寺でも,一方で干饂飩を買ったりと言う事をしています.

 その干饂飩は,京都油小路にある日野屋が有名で名物でした.
 例えば,奈良の漆屋「松屋」の茶会記の1つ『久好茶会記』に,大和郡山の奥平家を訪れた際の記録があります.
 この時,奥平家では,手打ちの蕎麦切りと京都から取り寄せた日野饂飩の両方を用意したことからもその名物ぶりが伺えます.

 日野屋の干饂飩は何故優れていたか.
 元広島藩の藩医だった黒川道祐は,「日野屋の饂飩は茹でて数十町持ち歩いても冷めない」とまで書いて絶賛しています.
 その饂飩の色は潔白で,その理由は京都の水が至って清らかであるからだとしています.

 安土桃山時代,京都には各武将が邸宅を構えました.
 その中でも山科言経と良い関係を保ったのは,徳川家康でした.
 家康も教養の高い言経がお気に入りだった様で,扶持米を献上していますし,言経も家康と気が合ったのか,囲碁の見物,茶の湯,家普請を見る為などと言っては家康を訪問しています.

 ある秋の朝,家康と共に京都南禅寺に赴き,寺から朝食に饂飩を振る舞われ,一日南禅寺で家康と共に遊んだと言う記録も残されています.
 饂飩はこの頃になると,上層階級の食べ物で無くなり,ある程度の階層の庶民でも気軽に手に入る様になりました.
 『言経卿記』には,薬礼として七条の大工吉蔵からうどんを買って持って来たとの記録が残されています.
 また,奈良の寺院でも饂飩は盛んに食べられており,『多聞院日記』にも良く登場します.
 その饂飩,普通に寺院内で食べるだけで無く,何と夜桜見物の弁当として用いている記録も残っています.

 鹿苑寺も負けてはいません.
 桜花の下で饂飩を肴に酒を飲み,締めは一椀の濃茶で参加者全員飲み回し,一味同心となったとあったり,夏に涼を得る為に船遊びを催したときにも,焼酎の水割の肴として饂飩を食べています.

 こうした場の饂飩は茹でて冷やし洗い,水切りして重箱に入れて重ね,遊宴の場に運んだ正に弁当です.
 なお,弁当の本来の字は便当で,持ち運び出来て当座に便利故に便当と言います.

 勿論,これでは冷えて固まった状態ですから,茶を点てる際に湯を沸かした訳で,重箱に入れた冷めた茹で饂飩に熱湯を加えて浸し,付汁を付けて食べたものと考えられます.
 また,夏用には葛入り干饂飩と言うのもあったようです.
 これは食感がつるりとし,且つ透明感が強いので涼感に溢れるとか.
 茹でて冷やし洗い,冷や水を打つことでも重箱のまま饂飩は捌くことも出来ます.

 因みに,重箱にかけうどんを盛る重箱饂飩と言うのが名古屋にはあるみたいですね.
 それにしても,今も昔も坊さんは宴会や酒が好きだったのでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/24 23:02

 さて,江戸の人気作家で食通の滝沢馬琴や1855年から1863年まで大坂町奉行をしていた久須美裕雋等,江戸の人が評価していた食べ物として有名だったのが,上方の饂飩でした.

 久須美裕雋は,蕎麦切りは江戸人の口に適い難しと言った後,こう述べています.

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 温飩は蕎麦に引替,大いに宜し.
 その色合いも雪白にして味ひ甘味なり.
 夫故市中にも温飩店は多く,いづれの店物にても皆宜し.
 予は蕎麦はそもそも嗜好なれども,温飩は素より好まず.
 然れども当地のうどんは江戸に比すれば,格別よろしき故,蕎麦に替えて不断食する事なり.
 麦も江戸近在の産より大いに宜し…
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 政治家としてのリップサービスかも知れませんが,手放しで褒めています.

 一方,滝沢馬琴はこう書き残しています.

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 …京にて味良き物.
 麩,湯波,芋(里芋),水菜,うどんのみ.
 その余は江戸人の口に合わず.
 大坂にて良き物三つ.
 良価,海魚,石塔.
 悪しきもの三つ.
 飲水,鰻,料理.
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 久須美裕雋に比べると,大坂も京都もえらい言われようです.
 これは,江戸と上方の調味文化の違いです.
 江戸中期以後は江戸の味は,味醂や砂糖を醤油に和した甘辛の文化で,幕末になると更に甘味がきいた料理を良しとしました.
 これに対し,上方は甘い味を下品とし,味醂や砂糖は調味料として多く使用することが余りありませんでした.
 この為,甘辛い味に慣れ親しんでいた滝沢馬琴は甘味を感じない上方の料理は,どちらかと言えば塩っぱく感じられ,結果として酷評に繋がったわけです.
 今も昔も,京都の料理屋の調味は酒塩をベースとし,薄口醤油を補う味付けであり,味醂は最近でこそ少し補う形ではありますが,基本は変えていません.

 この薄口醤油は,江戸で多く使われた濃口醤油より塩分濃度が高いので,使用する量も少なくて済みました.
 使用する量が少ないと言うことは,経費も僅かながら安く付きます…そう言う意味では,京都人はケチです.
 ただ,この薄口醤油を使う事で,食材そのものの色と味が生き,京料理の主たる食材に使われる京野菜の味や色が活かされた淡色文化が誕生したとも言えます.

 この様な日本の煮出汁文化は,禅宗が入って以後のことです.
 道元禅師が曹洞宗の教え,特に禅院に於ける調理人の頭である典座になった人の心得を著した『典座教訓』の中に,干し椎茸で出汁を取る話が出て来ます.
 これを道元が新たに記している所を見ると,これ自体が大きな料理革命だった事が分ります.
 道元が宋から帰朝して以後,干し椎茸を用いて素麺の出汁を取る様になり,それ以降,昆布や干干瓢,炒米,搗栗などが出汁として用いられる様になりました.
 この煮出し汁を使用して,味噌や垂味噌で野菜や乾物を美味しく味付けする技術を調菜と言い,室町期になるとこの調菜の技術と庖丁,料理の技術が合体して日本料理が完成します.

 日本料理は,割鮮料理が刺身と名を変え,これを中心に焼物,煮物,和え物,汁,飯を組合わせたものです.
 因みに,「料理」と言う言葉のそもそもの意味は,美しく切って美しく盛ることを言います.

 ところで,鰹節も昆布も奈良時代からあり,平安末期や鎌倉時代になると,武士は搗栗と共にこれらを出陣や勝ち戦の酒肴として用いています.
 即ち,口中調味ではあるのですが,イノシン酸とグルタミン酸,コハク酸と言った複合の旨味を知っていた訳です.
 精進料理では,昆布や干し椎茸が中心であり,両者を混合すればグルタミン酸とグアニル酸の複合となり,これに垂味噌のグルタミン酸が加われば,旨味は更に増幅します.
 第五の味覚とも呼ばれる旨味が日本で見つかったのは決して偶然では無く,鎌倉から室町に掛けてじっくり熟成されてきた日本文化の中で育まれてきたものです.

 このだし汁の原料である鰹節を用いて出汁を取るのは室町時代からで,『大草流相伝書』では,米の2番目の磨ぎ汁である白水に鰹節の佳き所を削った花鰹を加え,良く煮出すとあります.
 但し,この出汁は鮒や鯉の冷汁用であり,その出汁の取り方の説明も粗雑だったりします.

 きちんと出汁を取る事を説明しているのは,更に時代が下って1643年の『料理物語』です.
 これにはこう書かれています.

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 だしは,かつほのよきところをかきて一升あらば水一升五合入せんじあぢをすい見候てあまみよきほどにあけてよし過候てもあしく候
 二番もせんじつかひ候
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 煎じとは煮詰める意味では無く,少時煮る意味ですであり,その出し殻を二番出しに使った訳です.
 『料理物語』では精進用煮出し汁の取り方も紹介しています.
 これは干瓢,昆布,干し蓼,炒った餅米,干し蕪,乾大根を使って出汁を取る方法でした.

 鰹節,元禄以後は燻煙した鰹節,と,北海道を中心に獲れる昆布を一緒に用いて煮出し汁を取る記述は,1668年の『料理塩梅集』に出て来ます.
 この天の巻に,「澄の吸物 水一升に鰹節ひとつ昆布二枚ほど入せんじだしにして…」とあります.
 昆布だしで饂飩を作ったのは更に時代が下り,1806年の『素人庖丁第三冊』に「かみなり温飩」として,紹介したのが最初.
 これには,こう書かれています.

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 加役(加薬)を油で炒め,豆腐を加えて混ぜ,そこへ昆布だし,酒塩,(薄口)醤油で味を付ける.
 茹で上げた饂飩を太平に盛り,その上から加薬と汁を掛ける.
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 これはけんちん饂飩のこと.

 上方で鰹節と昆布の複合出汁が使われる様になるのは,江戸後期の事です.
 京の文化は,始末する事が生活の掟になっています.
 その為,酒塩で味を付け,薄口醤油を補い,味醂や砂糖は加えません.
 その味を称して,「はんなりしている」と言います.
 はんなりと言うのはメリハリがしっかりしていることを言います.

 ここで1つの疑問が湧きます.
 甘辛の味に慣れた馬琴が何故,京の饂飩を褒めたのでしょうか.
 これは,煮出し汁に鍵があります.
 京都の煮出し汁は,昆布が表に出て来ます.
 鰹節は後に控える形となります.
 つまり,昆布のグルタミン酸が多くなり,その味は甘く感じる様になります.
 酒の旨味である琥珀酸も甘く感じる上,京の酒は甘口になっています.
 酒を飲みつつ,饂飩を啜ると,グルタミン酸,琥珀酸,そして鰹節のイノシン酸と重なり合って旨味が増し,江戸に無いすっきりとした上品な味の饂飩出汁になり,そのだし汁に白い饂飩が浮かぶ事で,蕎麦切りより癖の無い茹で饂飩の味が生き,且つ良く染みることになる訳です.

 薄口醤油は1666年より製造が始まり,18世紀中頃に京への進出を果たしています.
 一方,江戸でも,1700年代には料理に薄口醤油は使われています.

 大坂の饂飩の出汁は,「まったり」しています.
 京都の饂飩出汁に甘味が加わった格好です.
 この味が蕎麦で育った江戸者の久須美裕雋を喜ばせた訳です.

 その原因として,滝沢馬琴が指摘しているのが,「大阪の人の人情」です.

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 大坂の人気は,京都四分,江戸六分なり.
 倹なるは京に学び,活なる事は江戸にならふ.
 しかれども実気ある事は,京に勝れり.
------------

 つまり,大坂の饂飩の出汁は京風の薄口醤油と江戸風の砂糖や味醂を用いての京・江戸折衷型の味付けをしていた訳です.
 良く,大阪の人は関東人を嫌うとか言いますが,意外や意外,江戸期の大坂人は,江戸の文化を採り入れるのに全く躊躇していません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/25 23:38

 さて,江戸末期に於ける,最初期の出汁のきいた饂飩はどんな感じだったか.
 明治末から大正初めに掛けて書かれた『麺類営業者の独案内』に江戸期の饂飩のレシピが掲載されています.
 それによると,こんな感じです.

------------
一,煮出汁の煮方
水 壱斗壱升(壱升徳利十本詰としての割合)(先の分量は総て十分の一の割合です)
昆布 夏は三十匁,冬は四十匁(但し昆布水の内より入れ沸騰する前に引揚げること)
鰹節 下節三十匁,上節二十五匁,極上節二十二匁
    (総て鰹節は粉末の大小を見分けて二十五乃至三十分くらい煮出して上げること)
薄口醤油 夏は壱斗一升に付七合,冬は壱斗一升に付九合
砂糖 夏は壱斗一升に付三十匁,冬は壱斗一升に付四十匁
    (但し,砂糖は更目糖(五温)を使用すること.
     黄更目は苦みと悪臭が入ります.)

 右の分量の割合にて,先ず水壱斗一升を鍋の中へ入れ,指し目を計り,置き昆布を入れて沸へ上る位の時,昆布を引上げ,直ちに鰹節を入れてから良く灰汁を取り,二十五分乃至三十分間沸騰さして,指しで指し目を計り,不足分だけ水を入れて,元の容量に通して,網杓子にて出汁粕を取り去りて後,醤油及び砂糖を入れて,味を付けて加減を見て,暫く煮出して,木綿の布か又は水嚢にて漉し,水気の無い器物に入れ置くべし.
 次に,前の取り去り起きたる出汁粕に,適宜の水を入れ,今一度沸騰さして,これには醤油も砂糖も入れずに取り置くこと,是れは二番出しと言ひます(かやく物を煮るときに使います).

一,鰹節及び昆布に就いての注意
 うどん屋向きの鰹節として古い時分から土佐の小節の折れ,万割,四つ節,目じか,そうだかめ(そうだかつをの亀節),宇和鯖等を削りて使いおりました.
 昆布は,古い時分から天塩,利尻を使いおりました.
------------

 こうしてみると,饂飩のかけ汁は夏はあっさり目に,冬は濃い目にしていた事が分ります.
 旨味の効いた煮出し汁に砂糖も加わっているので,濃口醤油や味醂,砂糖で味付けする甘辛の蕎麦だし(甘汁)に慣れていた江戸の人々にとって,この饂飩は美味く感じたわけです.
 また,大坂には各地域の産地から小麦が入ってきており,それらを何種類かブレンドして饂飩専用の小麦粉として用いていたとも考えられます.
 その小麦粉も上粉を用いていたと思われるので,淡色の出汁の中に浮かぶ饂飩は雪白の如くでした.

 江戸では,蕎麦のかけ汁を饂飩にも掛けていたので,饂飩の色もそのものの味もかけ汁に負けていたと言う事もあり,江戸では蕎麦よりも饂飩はいまいち評価されなかったと思われます.

 幕末頃は上方では蕎麦切りが廃れ,饂飩が主流でした.
 江戸ではその逆です.
 その為,上方ではうどん屋と呼んで,その店舗で蕎麦切りも売り,またかちんここと雑煮も売っていました.
 そのうどん屋は京阪共に繁盛し,4〜5町に或いは5〜7町に1戸,所により10余町に1戸の割合で各地域にありました.

 当時のうどん屋のメニューは,『守貞謾稿』では次の通りです.

一,うどん  代十六文
一,そば   代十六文
一,しっぽく 代廿四文
一,あんぺい 代廿四文
一,けいらん 代卅二文
一,小田巻  代卅六文

 このうち,しっぽくは饂飩の上に焼鶏卵(大坂では巻焼卵),蒲鉾椎茸慈姑の類を加えた物,あんぺいはそれに加え葛醤油を掛けるあんかけ,おだまきはしっぽくと同じ具に鶏卵を入れて蒸した茶碗蒸しで,後,素うどんとしての二八饂飩,本来の熱湯に浮かべる饂飩である出し汁掛け湯漬けもあります.
 こうした饂飩は総て熱物として扱われ,現在上方では小田巻蒸は手間が掛るので扱われていません.
 なお,湯漬け饂飩は,釜揚げとか湯だめと称しています.

 江戸末期にはこれらの他に,鍋焼饂飩や夜に屋台を引いて売る夜鳴饂飩もあり,この内の鍋焼饂飩は後に西南戦争後に東京に伝わっていきます.
 また,明治に入ると茹で饂飩玉を売る行商人も大阪に出現しました.

 ともあれ,大阪で饂飩文化が発展したことは,偏に「天下の台所」として大阪が発展したからに他ならない訳です.
 饂飩の原料である小麦の産地からは換金作物として,大坂に一番良い物が運ばれ,それぞれをブレンド出来たこと,出汁については鎌倉期から始まる京都禅院の影響が,距離的にほど近い大坂に齎されたこと,その出汁にしても,饂飩の煮出し汁は,蝦夷地から齎される昆布と,土佐や日向などから齎される鰹節の集積でそれらを併用した旨出汁へと昇華していきました.
 その旨出汁に味付けする調味料は,播州龍野の地で産した薄口醤油であり,これらに讃岐などで作られた砂糖が加わり,上品でまったりした味付けを作り上げました.

 最後に,京都の始末の文化が大坂の商人文化にも根付き,その合理主義的な特性が,庶民の味でもある饂飩にも要求されました.
 勿論,原材料が,物資の集積によって安く手に入っていた為に,饂飩が庶民の食べ物として広がって行った大きな要因です.
 こうしてみると,都市を構成している人達の気風が,その町の食べ物の味を決めたことがよく判ります.
 京ははんなりで上品,大阪はまったりと安く,江戸は気高く甘辛.

 この文化を築いたのは,京都は宮廷,寺院や茶人,町衆であり,大阪は商人と庶民,江戸は武家と町人ではないかと思ってみたり.
 ところが,一億総サラリーマン化してしまった現在は,そうした文化の担い手が何処でも均質化されてしまい,中々新しい食文化は育たないのでは無いかと思ってみたりもするのですが,さて.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/26 22:37


 【質問】
 「うどん」の語源は?

 【回答】
 時に,立川談志さんが遂にお亡くなりになられましたね.
 今後,立川流落語会は誰が継ぐのでしょうか,それとも落語協会とか落語芸術協会と共に合体して,上方落語の様に再度江戸落語も一体化するのでしょうか.
 ちょっと気になる所ではあります.
 何処かの落語家の様に,名跡を継ぐのでゴタゴタしなければ良いのですが.
 今のところだと,立川志の輔さん辺りが後継者の一番手だと思うのですが,志の輔さんはそこまでアクが強くないからなぁ.
 良くも悪くも,立川流落語会は,立川談志の個人商店だったでしたからね.

 さて,落語と言えば,うどんは欠かせません.
 上方では「時うどん」,江戸でも「うどん屋」と言うのが演目にありますね.
 饂飩を如何に美味そうに啜るかと言うのも,落語家さんの腕の見せ所です.
 名人と言われた落語家さんは,このうどんの食べ方が如何にも「食べてる!」と言う感じがあります.

 この「うどん」の語源は「●飩」であると言う説が長らく支持されてきました.
(●=「食」偏に「昆」)
 しかし,うどんという食べ物は,細切にした切麦から派生して,切麦が冷して食べるものであるのに対し,熱い湯に浸けて食べることから専用の太切り麺として発達したことは先述しました.

 最初にうどんの記事が出て来るのは,法隆寺の『嘉元記』ですが,これにはウトムと書かれています.
 南北朝から室町初期になる『庭訓往来』には饂飩,『山科家礼記』にはウトン,うとん,温飩と3つの表記が出て来ます.
 これらは同じ太切りの麺を指します.

 金閣寺こと鹿苑寺は,実は京都の相国寺の子院だったりするのですが,相国寺と言えば,うどんを手打ちしていた事が記録に有ります.
 ですから,鹿苑寺にも良く齎されていたようで,『鹿苑日録』にもうどんが度々出て来ます.
 1536年3月6日の表記は烏飩,1543年8月晦日の表記は饂飩,1549年4月4日の表記はウトン,1591年8月27日の表記はウントン,1592年7月21日は飩,1597年8月18日は温飩,1599年5月24日はウドン,1600年3月9日は烏雲,1601年5月5日になると干曇,1629年10月28日は「●飩」ですが,これは饂飩の誤記と思われ,1639年11月17日には曇華と,まぁ,様々な表記が為されています.

 この最後の曇華は何故うどんなのか.
 鹿苑寺と,同じく相国寺の子院である蔭涼軒との遣り取りで,その謎が明らかになります.

 1462年正月18日,蔭涼軒が来たので,うどんを出した所,そのうどんを優曇と表記しています.
 多分,蔭涼軒の日録の筆者は,当時この優曇をうどんと常々表記していたのでしょうが,蔭涼軒はそれを咎め,以後優曇を饂飩と書く様に指導しました.

 時に,蔭涼軒と行き来していた鹿苑寺では,何故蔭涼軒がうどんを優曇としていたのか不思議に思っていたのですが,1638年3月14日,梵語心経を学んでいた筆者が,その出典を発見してそれを勇んで筆記します.
 優曇華は梵語のudumbaraであり,この花はインドの想像上の植物で,3000年に1度花が咲き,この花が咲けば須弥山四方の四洲を統領されるという聖王金輪王が現れるとされ,転じて極めて稀なことを指します.
 つまり,修行に於いて,優曇華と言うのは理想の悟者を言う訳です.
 で,これを梵語のお経から発見した記述者は,粋がって自らうどんを「曇華」と記す様になります.

 この優曇華は,うどんの美称となっており,江戸期には庶民の間でも知られていました.
 誹風柳多留にはこんな句があります.
「優曇華を小麦の花と覚てゐ」
 そして,この言葉は現在でも,うどん屋の屋号として用いられています.

 前にも見た様に,うどんは1300年代初めに熱湯に浸けて食べる麺として誕生したと考えられています.
 その誕生場所は,料理文化の発達した京都の何処かの禅寺であろうと思われます.
 細い素麺や切麦に比べると熱湯の中で伸びにくく,食べ応えがある麺として,料理方が様々な太さの麺を作り出し,これを食べ比べて太切りの麺を推したのであろう事は想像に難くありません.

 で,その麺の名称をどうするか.
 既に熱湯に浸けて食べる麺として湯素麺や釜素麺,温麦や熱麦があります.
 禅寺で開発されたものですから,甲論乙駁したに違いありません.
 そして,庖丁でトントンと太切りにし,茹でて冷やし洗って熱湯に浸して温めて食べるものであるから,唐代以前の●飩や●飩の飩を取って温飩ではどうか,と言う知恵者がいたのでは無いでしょうか.
 いや,温飩では食べ物としての味わいが感じられないから,いっその事,温の三水偏を食偏にして,饂と言う字を作って饂飩と書けば良いと言った僧がいたのでは無いでしょうか.

 禅院の言葉は濁音が多く,饅頭をマンジュウ,点心をテンジンと読む様に,ウドンまたはウンドンと読み,日記などに表記する場合は,濁音を控え,ウトンあるいはうとんとしたのでは無いかと考えられます.
 元々,熱湯に浸して温める食べ方が本来の食べ方であり,それは麺そのものの真味を味わう禅的枯淡な食べ方で,これは日本固有の食べ方になります.

 このうどんの語源については,中国文学者の大家である青木正児氏が,●飩が●飩になり,そこから饂飩になるとし,饂飩の元祖は,●飩であり,かつ語源だと言うのが定説でした.
 確かに,1487年に出されたイロハ引きの辞書『節用集』に易林と言う人が改訂した1597年の版である『易林本節用集』には,●飩にウドンと言うルビが打たれています.
 しかし,1697年の『本朝食鑑』に於いて,人見必大は温飩を●飩と書くのは間違いであるとし,これは全くの別物であるとしていました.

 諸橋轍次氏の『大漢和辞典』では「?」は「?」に通じ,餡を麺片で包むとあります.
 ●飩は茹でて熱いスープに浮かべて食べるものであり,うどんは太切りの麺である事から,●飩や●飩との共通点はありません.

 青木説の根拠は,伊勢流武家故実家の伊勢貞丈が著した『貞丈雑記』にこう紹介されているからです.

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 ●飩の事.
 ●飩,又温飩とも云う.
 小麦の粉にして団子の如く作るなり.
 中に餡を入れて煮たるものなり.
 混沌云うは,ぐるぐると巡りて何方にも端無きことを云う詞なり.
 丸めた形くるくるとして端無き故,混沌と云う詞を名付けたるなり.
 食物なる故,偏の三水を改めて食偏に文字を書くなり,熱く煮て食する故,温の字を付けて温飩と云うなり.
 これを素麺などの如くに淵高の折敷を組み重ねて出すなり.
 汁并びに粉,醋菜等を添えて出す事.
 そうめん,まんじゅうなどの如し.
 今の世に温どんと云うは,切麦なり.
 古のうどんに非ず.
 切麦尺素往来にも見えたり.
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 ところが,伊勢貞丈さん,●飩と饂飩を混同してしまっています.
 ●飩は,ワンタンみたいなもので,薄く延ばした麺片で肉餡(或いは精進の場合は野菜)を包んで茹でたものですが,温飩は文字も麺も日本で誕生して,その食し方も異なります.
 ●飩は団子状にするとありますが,饂飩は団子にしません…まぁ,製作過程で団子とする部分はありますが…結局それは延ばして,庖丁で太切りにします.
 混沌と言うものの,混とは混ぜることであり,それから類推すると●は小麦粉を水で練ることになります.
 沌は,正しくは■であって,掌で押えることになります.
(■=手偏に「屯」)
 とまぁ,こうした感じで,本来の●飩を見たことも無い人がこうした言葉だけでものを見てしまったが為に,自らが混沌してしまった訳です.

 で,この説が江戸末期の風俗研究家で江戸と上方の文化を比較した喜多川守貞で,彼は『守貞謾稿』の中で伊勢説をそっくりそのまま引用してしまいました.

 以後,日本での饂飩の起源についてはこの2説が一人歩きし,それを中国文学の大学者が深く検討もせずに,採り入れたために誤った知識として普及するに至ったわけです.

 彼は『饂飩の歴史』と言う著の中で,饂飩の原始的なものは日本で行われている水団の様に,不規則な形をした者では無かったかとしています.
 しかし,日本の水団とは本来,葛粉で作り,長さ10cm,幅7〜8mm程度に切ったものでした.
 小麦粉を固めの糊状に練って,匙で掬って汁に落とす,「すいとん」と呼ばれるものは,戦後東京で生まれた食べ物です.
 そして,●飩については,唐代になると円形の麺片を半月型のものにしたものであるとしています.
 ●飩は◎飩とも書き,◎はコンとかウンという発音をするので,日本の人々はこれをウンドンと発音し,これが◎飩の名称となり,更に?をウンと読むのは不都合であると云うので,饂とか温に改めたのであろうとしました.
(◎=「食」偏に「軍」)
 だから,●飩はうどんの元祖であると言う説に落ち着きました.

 ところが,饂飩の本来の食べ方は熱湯漬であり,雲呑とは一線を画します.
 文字に拘りすぎた大学者が,結局自縄自縛に陥ってしまった説が,定説として一人歩きしてしまったのですね.

(●=「食」偏に「昆」)

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/23 22:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 うどん県は,いつからうどん県になったのか?

 【回答】

さて,うどん県こと香川県での饂飩の発祥は,香川県綾南町滝宮で,それは滝宮で生まれた智泉大師が,師であり叔父でもある弘法大師から,伝授されたものだと言う伝説があります.

しかし弘法大師が活躍したのは平安時代であり,弘法大師が留学した唐には切麺は盛んでなく,手で平たく押し広める麺片か麺棒で薄く押し広めた麺体を方形に切る時代で,即ち,ほうとうやワンタンの時代であり,饂飩には至っていません.
此の事は,比叡山延暦寺の最澄の弟子円仁が書いた『入唐求法巡礼行記』を見ても判ることです.

平安期には出汁や味噌醤油を使って煮炊きする技術は未だありません.
また,宮中や殿上人でも手延べの索餅を二杯酢様のソースや酢味噌で食べるか,小豆汁で食べる程度でした.

では弘法大師が持ち帰ったのはほうとうではないか,ほうとうを智泉大師に伝えて,それが饂飩になったと言う説もありますが,当時,京では麺体を麺棒で押し広め,方形に切るほうとうは盛んでなく,小麦粉をすりつぶした山芋で練り,手延べして小豆汁で食べるものでした.
鎌倉時代になると米粉と山芋で作る細切りの薯蕷?飩となり,これも小豆汁で食べています.
安土桃山時代になってやっと饂飩に倣ってつけ麺型となり,薯蕷ほうとうは,江戸後期まで続きますが,中期頃平麺に様変わりしています.

従って,ほうとうと饂飩の関連性は薄いと言えます.
それに,もし弘法大師が讃岐で饂飩のそを伝授したのなら,彼の活動の本拠地であった京都の高雄山寺や長岡の乙訓寺や高野山で何故饂飩文化が生じなかったのかと言う疑問があります.
更に,智泉大師は37歳で死にますが,24年間もの間空海の側にいて,滝宮にいたのは幼少の頃です.
故に,智泉大師が讃岐に饂飩を伝えたと言う説は成り立たないことになります.

讃岐の饂飩文化は何処から出て来たかと言えば,それは金毘羅宮との兼ね合いと考えられます.
金毘羅の記録は,1573年から出て来ます.
この年に松尾寺に金毘羅神を祀りました.
その後,これは金比羅大権現となり,讃岐の領主の庇護を受け,地元の大名や西国大名の参詣が盛んになります.
参詣者が増えるに伴い,門前には宿泊所や土産物屋が自然発生的に出来,食べ物屋も自ずと出来ます.
その中にうどん屋がありました.

門前町が賑わい出す江戸中期になると,田舎の農村にも手回しの石臼が普及し,農家では饂飩やほうとうを手打ちして味噌煮込みで食べていたと考えられています.
讃岐は,現在でもそうですが水利が悪く溜池が多い状態です.
従って,水田耕作には不向きであり,麦作に適した土地でした.
その小麦を用いた食べ物として,饂飩が自然発生的に出来たのでは無いかと考えられています.

清信が書いた六曲一双の屏風絵である『金毘羅祭礼図』は元禄期に書かれたものですが,既にそこに絵馬型の看板を掲げたうどん屋が描かれており,うどん屋は麺棒を持って饂飩を延ばしていたり,庖丁で饂飩を切ったり,木鉢で饂飩粉を練っている姿なども描かれています.

弘法大師云々は,武田信玄の塩と同じく,後世の人々の宣伝であったのではないか,と思われ,実際には金毘羅宮門前町のうどん屋から讃岐の饂飩の歴史が始まったのでは無いかと思われます.
因みに,発祥の伝承がある綾南町は,金毘羅街道の宿場町であり,明治期に35軒のうどん屋があったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/22 23:05
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「切り麦」の歴史は?

 【回答】
 さて,素麺というのは,小麦粉の麺体を手揉み,手綯いして細く手延べする麺です.

 もう1つ,中国から伝わった「ほうとう」は,水を張った盆の中に麺体の小片を入れ,掌で押し延ばす薄い舌型の麺片でした.
 ところが唐代になると,ほうとうは麺棒で薄く押し広げ,方形に包丁で切られる様になります.
 唐代には,様々な麺が考案されますが,こうした切麺はそんなに広まりませんでした.

 切麺が盛んになるのは宋代になり,南宋以降は更に隆盛し,切麺の料理の種類は驚異的に増加します.
 この理由はあらゆる産業が北宋より発展し,工業や農業技術が向上し,人口が増加した事にあります.
 工業人口が増加し,生産性が求められる様になると,時間の掛る料理についても効率が求められ,主食とおかずとスープが一体になった麺料理の割合も増加します.
 そして,麺についても手延べする手間と時間が掛る素麺よりも庖丁切りが可能な切麺の方が生産性が高いので,切麺は麺の主流になりました.
 また,切麺は庖丁切りであるので,手延べの技術が不要であり,庖丁を使える人であれば少し慣れれば誰でも作れます.

 この切麺は南宋から日本に伝えられます.
 宮中の後,夕にどの御膳の据え方を記述した1295年の『厨事類記』に,ほうとうは麺棒で押し広め,索餅の様に細く庖丁で切るとあります.
 即ち,それ以前に切麺は日本に伝わっていた訳です.
 室町時代には,その切麺は切麦と呼ばれ,小麦粉を原料に,塩水でそれを練り,麺棒で押し広げて細く,長く庖丁切りにした麺でした.
正に饂飩です.
 室町期になると,その切麦は素麺に代って麺の主流となり,時代が下ると名称も饂飩に変わり,小麦粉は饂飩粉とも称される様になっています.

 従来,切麺の渡来は1300年代前後であろうと言われていました.
 最近,素麺と同じ時期の1200年代初めに,切麦は南宋から少なくとも京都に伝わっていた記録が発見されました.
 その切麦を食べたのは,坂東武者で極楽寺殿の北条重時です.
 この重時は,3代執権の北条泰時の弟でした.

 1221年,後鳥羽上皇は執権北条泰時追討を企て,北条時房,北条泰時等に捕えられて,隠岐島に流され,順徳上皇は佐渡へと流され,多くの上皇方の武士や公家が失脚し,配流されるなどしました.
 所謂,承久の乱です.
 この承久の乱の結果,鎌倉幕府の朝廷と西国に対する監視は強まり,京都六波羅の南北2箇所にその監視所,所謂,六波羅探題が設置されました.
 北条重時は,六波羅探題として1230年に京都に赴任し,1247年に退任するまで,17年京都に居住しています.

 この間に何処かの公家の屋形か僧院で饗応を受けたのか,その時に切麦が出された記録が残されています.
 この時の食べ方が坂東武者の風に合わなかったらしく,彼はそれを酷評していたりします.
 兎に角,1295年の記録よりも前に,京都で切麺が食べられていた訳です.

 それから半世紀近くの1305年2月には,比叡山延暦寺の全亀和尚が豊後柚原山に勧請した柞原八幡宮の記録にも出て来る様になり,地方に於ても,1300年代には既に切麺が伝播している事が分ります.

 この切麦は,別名を冷や麦と言います.
 これは夏に集中して食べられているからであり,涼を得る為に茹でてから冷やし洗って食べたからです.
 関白の一条兼良は,「截麺者冷濯」て食す事から冷麦と言うと書いており,『山科家礼記』には1468年2月29日に出て来るのが冷麦の初見で,その表記も,寒麥,ひや麦,ヒヤムキ,冷麦,ヒヤ麦など様々に書かれており,これらは何れも酒肴としての位置づけでした.
 これも,素麺と同じく,葉盛りや笊,皿に盛り,垂味噌の冷汁を付けて食べていました.
 一方,味噌汁,或いは垂味噌の出汁で煮た物もあり,これは入麦と言いました.

 この他,蒸麦と言うのもあります.
 これも冷麦同様,『山科家礼記』に出て来るのは,むしむき,むし麦,ムシムキと記述は様々で,冷麦と一緒に出された記録もあります.
 蒸麦は,切麦を茹でて冷やし洗い,蒸籠に盛って蒸して熱くしたものか,或いは熱湯を掛けたものです.

 また,冷麦と入麦の間の温麦と言うのもありました.
 浄土真宗の蓮如の末子,順興寺実従が記した『私心記』に出て来ますが,この人,花見や藤見と言っては,冷麦を肴に酒を飲み,鶯の声合せと言っては朝から冷麦を肴に酒杯を上げ,月見をしては冷麦を食べています.
 で,彼の食事の1541年4月4日の項に温麦が出て来ます.

 温麦は,漆塗の桶に微温湯を入れ,そこに茹でた切麦を浮かべたものです.

 因みに,山科言継は熱湯にも浮かべた様で,それを熱麦と称しており,これは1557年正月に駿河で食しています.

 鹿苑寺の『鹿苑日録』では,切麦を切麺と称し,筋麺とも書いていました.
 1549年7月7日と8月8日に,切麦を生見玉として冷麦にして食べていたりしますし,『松屋会記』で書かれた茶懐石でも冷麦,入麦,蒸麦が饗されています.

 こうして,『鹿苑日録』『山科家礼記』『私心記』に登場する冷麦を食べた季節は,夏が圧倒的に多く,温麦は春,熱麦や蒸麦は冬の食べ方である事が分ります.

 これらは自邸で打った物では無く,多くは切麦屋から買ったものです.
 従って,この切麦は乾燥品でした.
 一方で,素麺屋も切麦を作っていた様です.

 因みに,鹿苑寺では寺内でも打っていましたが,それを作る小麦粉は粉屋で買うか,小麦を挽いて貰うかの何れかをしていました.
 一方,相国寺には水車がありました.
 当時,寺の横を高野川(鴨川)が流れており,何度にも渡って洪水を起こし,暴れ川と呼ばれていました.
 相国寺にはその流れを利用した水車があり,それで米の搗精や小麦の製粉を行っていた訳です.

 戦国期にはこの水車はかなり普及しており,水車製粉をする粉屋が『多門院日記』にも出て来ます.
 1574年6月10日の記述では,2升の小麦から4升の小麦粉が採れているとあります.
 奈良時代には1.5倍の比率であり,水車の石臼の目立が進歩したからか,その量は多くなっています.
 ただ,切麦を食する事が出来るのは,あくまでも公家や僧院程度のものでした.
 それは製粉を行う水車や挽き臼が高価で入手困難だったからです.

 なお,切麺を製造するには,平たい麺台と麺棒がなくてはなりませんし,大型の庖丁も必要です.
 麺棒は平安時代から存在しますが,長くて精々70〜80センチ程度のものと考えられています.
 麺台は,表面が平で滑らかである必要がありますが,これが作られるのは鉋の登場する鎌倉末期から室町初期と推定されていますが,それ以前の槍鉋でも綺麗な平面に削れるので,寄せ木にすれば大型の麺台は作れます.
 麺切り庖丁は,寺院で使っていた短冊形の薄刃の野菜などを切るのに使う幅広の庖丁である菜刀を使っていたようです.

 こうして,一世を風靡した切麦ですが,江戸期には早くも斜陽になっていきます.
 江戸中期には茹でて冷やし洗い,冷水に浸す食べ方一辺倒で,現在は饂飩や素麺に押されて,その存在価値は薄れつつあります.
 その理由は,太さが中途半端であるからとされています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/20 22:47
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 素麺の歴史は?

 【回答】
 中国にも素麺があります.
 福建省や台湾で作られているもので,茹でた素麺を熱い肉のスープに浮かべて食べるのが一般的で,時にはビーフンの様に炒めたり,はたまた煮込んだりします.
 中国の素麺に使用するのは,準強力粉であり,グルテン含有量が多いものです.
 従って,熱い肉のスープにあっても,伸びにくかったりします.
 なお,中国の素麺は,日本のものと違い,製造した翌日の出来立てのものを販売しています.

 元々,日本の素麺も出来立てのものを販売していました.
 これを「生素麺」と呼び,山科言継の様に,それを好物としていた貴族も多かった訳ですが,何時しか,製造してから半年を経過し,梅雨を1回越したものを出荷する様になりました.
 梅雨を越すことを「厄」と呼び,この「厄」を2回越したものを陳ね物(古物),3回越したものは古古と呼び,古くなるほど高くなり,賞翫されます.
 古物を賞翫する様になった記録は,実は江戸中期以前にはありません.

 江戸中期以降は,素麺の生産地は,鎌倉期の京都・奈良,戦国時代に入っての北陸,瀬戸内圏から,北九州,中京,関東,東北など全国に拡大し,その産地は40箇所にも上る様になります.
 素麺の生産技術は完成期を迎え,従来の太い麺から,極細の白髪とか銀糸と称するものが高級品として扱われる様になります.

 生産地が多いと言うことは,その競争も激烈です.
 特に,素麺は今も昔もそのシーズンは夏季に最も流通し消費されます.
 江戸時代は,七夕や盆の祝儀物として使われることが,その消費量増大の原因でした.
 その消費量を支える為に,各地では生産量を拡大するのですが,何時しか需給関係のバランスが崩れ,供給が需要を大きく上回る様になります.
 特に江戸では,地元で生産されるだけでなく,回船航路によって大坂に集積された他産地の素麺も含め,大量に供給されていました.

 そうなると,季節商品である素麺はだぶついてしまいます.
 冬に煮麺として,味噌煮込み仕立てにすることもありましたが,この為にわざわざ素麺を買う人は皆無で,これは七夕や盆に贈答された素麺の残り物を利用したものでした.

 結局,問屋には大量の素麺が売れ残る結果になります.
 これをどう宣伝して消費させるか….

 ある時,業界の誰かが1年放っておいた素麺が,蛋白質や澱粉の変成で固くなり,透明度が増して,硝子質化していることを発見しました.
 新物と茹でて食べ比べてみると,喉越しが良くサラリとしている.
 こうした偶然の発見により,在庫品一掃の機会が訪れました.

 折も折,丁度時を同じくして,銀糸や白髪と命名された極細素麺が生産される様になります.
 この極細素麺は,新物を茹でると直ぐにだれて水っぽくなり,喉越しが悪い代物でしたが,不思議なことに1年寝かせてみると硝子質化してさらっとして食べやすくなりました.

 因みに,この事象は実験の結果によっても確認され,素麺は古くなるほど硬質化して,破断強度が強くなりました.
 ただ,古い物は茹でた後の澱粉の残存率が僅かずつ減少して行っており,粘力が失われているので,茹で後の弾力の低下は急速に進みます.
 逆に,新物の場合は,茹でた後の時間の経過に伴い上昇し,45分で最大に達します.
 これは,グルテンが生み出す弾力と澱粉の生み出す粘力の絡み合いが強靱になっているためです.
 この為,新物の方は,搗き立ての餅の様なモチモチとした食感になります.

 ところで,「風味」と言う表現は,日本特有の言葉であり,食品から漂う原料の微かな匂いを指しています.
 日本の小麦と言うのは,余り品種改良されてきませんでしたので,小麦特有の匂いが残っていました.
 また,江戸期には現在みたいに製粉技術が完璧でありませんから,どうしても不純物が残り,更に小麦臭が強く残っていました.
 この匂いも,時間が経つと弱くなって,穏やかになっていきました.

 また,昔の素麺の生産に用いた油は,胡麻であれ,胡桃や茅,菜種油であっても精製度は悪く,蝋質が多かったが為に,新物は油気が強いと言われていました.
 この油も1年経つと酸化します.
 この油を取り去るために,長く煮て油や塩を取り去る様指導した料理書がありました.
 つまり,酸化した油は水との親和力が出来,茹で湯の沸騰と共にその泡が油を包含して白泡となり,その泡を取り去ることで酸化した油を取り除くことが出来る訳です.
 そして,最後に冷水につけてもみ洗いすると,油分の多くを抜くことが出来ました.
 当時の油は,蝋質が多かったので,麺の中心部に達せず,周囲を覆っていただけだったので,洗えば落とす事が出来たのでした.
 即ち,エダムチーズに蝋を塗って黴止めとする様なものです.

 なお,現在の油はそんなに低質な物では無いため,2年,3年と置いておくと素麺の中心部にまで浸透してしまっており,茹でて冷水に曝してもみ洗いしてもその匂いは消えにくく,古くなるほど酸化臭は強くなります.
 更に,茹でると中心部の温度が上がり,臭気成分が活動して余計に油っぽさが鼻に付く感じとなります.

 兎も角,江戸時代の素麺は,例えば,『和漢三才図会』では,「煮て生じた泡を除去しろ」と書いており,中には杉原紙の奉書を湯の上に載せて油を吸い取る様記述した料理書もありました.

 因みに,現在の素麺での油の酸化臭の元は,刺激臭を特徴とし,インクの香りがするペンタナール,強い脂肪臭を持つ2−ドデセナール,牧草や堆肥の匂いがするヘキサナール等,人が余り好まないアルデヒド類が主です.
 他に,ヘーゼルオイルの様な甘い香りのする1−ペンタノール,嫌な枯れ葉の匂いのする1−オクテン−3−オールと言ったアルコール類,ワインの様な香りを出すジメチルコハク酸類などのエステル類も検出されています.

 こうした匂いについては,食べる方にとって実は余り気にする事はありません.
 素麺つゆの醤油や鰹節などのフレーバー,それに薬味を入れることによってマスキングされてしまったからだったりします.

 つまり,素麺を食べる際に薬味をつゆに入れて,そのつゆを付けて食べると言うのは,実に理に適ったことでもある訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/17 23:16

 さて,昔の人は素麺をどの様に食していたか,と言えば,味噌をベースとする付け汁を付けて食べたり,味噌汁で煮る方法が主でした.
 鎌倉期になると,僧院での調理や調味の技術が進歩し,中国帰りの留学僧が持ち帰った干し椎茸や昆布,搗栗などを用いた出汁を用い,それまでは嘗物であった味噌は,すり鉢に入れ,擂粉木できめ細かく擦って調味料へと変貌します.
 また,この擦り味噌に水を加えて煮詰め,麻の布で漉した垂味噌が調味料として用いられ,味噌汁は煮汁に直接味噌で味付けする調菜の技術が発達しました.

 垂味噌の技術は鎌倉中期からあり,『東寺百合文書』の1460年12月29日,1461年12月30日,1462年12月30日の記事に,「擂粉木,擂盆(すり鉢),味噌垂袋」の記載があり,これらは正月の雑煮用であったと考えられています.
 当時の京都には未だ白味噌は無く,唐味噌と呼ばれた大豆と小麦で醸す辛味噌でした.
 皇室の内蔵寮と御厨子所を管掌していた山科家の事共を記した『山科家礼記』には雑煮の味付けとして,この垂味噌を用いたとの記述があります.

 垂味噌の作り方は,1643年の『料理物語』に紹介されています.
 それによれば,味噌1升に水3升5合を入れて煎じ,3升ほどになると袋に入れて滴り落としたものとあります.
 味噌そのものにアミノ酸が含まれているので,鰹節や昆布を入れなくとも十分に旨味は出ます.
 因みに,味噌1升に水3升を煎じずに単純に袋に入れて滴り落としたものを生垂と言い,それに鰹を入れて煎じ,漉したものが煮貫と言う名称になります.

 この垂味噌を付けて食べたのが,室町から戦国期にかけての素麺の食べ方でした.
 素麺は,現在と違って酒肴としての位置づけであり,冬の場合は,「風呂素麺」として,漆塗の御櫃に湯を入れ,それに茹でた素麺を浸けたもの,夏の場合は冷やし洗って,涼を得るために,梶の葉や笊などに盛りました.
 そして,冷汁と呼ばれた垂味噌を付けて食べた訳です.

 ところで,山科言継と言えば,権大納言として織田家等と昵懇にしていた公家であり,その詳細な日記が資料として貴重なものとなっていますが,戦国期は天皇家や他の公家と同様に,蚊帳を質に入れるくらい貧しています.
 しかし,何かにつけて酒を連日の如く飲んでいます.
 それも,鯨飲に近いものがありました.
 因みに,言継は音曲の大家であり,家元でもありました.
 町衆の為に,盆踊りの作詞作曲,振付までやっているという,秋元康かつんく♂かと言うくらいのマルチな人です.
 しかも,庖丁も出来て,自ら料理などもしていたりします.
 勿論,酒肴を時に作っています.

 その日記,『言継卿記』の1527年正月〜1571年12月までの酒肴を拾ってみると,一番多いのが吸物で159回登場します.
 言継は吸物と汁物を明確に分ける拘りがあり,汁物は飯のおかずにした場合のみ記されています.
 吸物は酒肴故,汁と実を少なくし,蓋付の漆椀に上品に盛ります.
 汁物は実も汁もたっぷり盛って,蓋を付けません.

 次が田楽の102回ですが,麺類,特に素麺が数多く登場します.
 日記では,最初のうちは麦麺と記入され,これは中原師守が用いていたので素麺の事です.
 続いて,素麺,並行して麦麺と変化し,これはどうやら冷やし素麺の事と考えられています.
 その後天文年間から,元亀2年,つまり,この日記が終わるまで冷麺と書いています.
 この冷麺は,冷索麺の事で,冷麦と言う研究者もいますが,冷や麦の場合,言継は切麦や冷麦,寒麦などと書き分けており,これは冷麦では無く,素麺であろうと思われます.

 入麺は煮麺とも書きます.
 茹でた素麺を味噌汁に入れて煮た物で,直接素麺を入れて煮る場合もあります.
 現在でも郷土料理で茄子や茗荷などを味噌汁に入れ,素麺と煮込む料理がありますが,これは室町時代の素麺の食べ方の名残です.

 言継の日記でも,冷やし素麺は当然夏に集中し,煮麺は冬に集中しています.
 「冷麺」「素麺」「麦麺」を足すと94回,一方の「煮麺」は74回,言継の日記に出て来ます.

 その息子である山科言経は,以前書いた様に,1579年に心筋梗塞で言継が死んでから家督を継ぎますが,何か不興を被ったらしく,正親町天皇により左遷されて大坂に逃亡し,秀吉の時代になってやっと帰京しています.

 言経も父同様に酒を好み,その酒肴として素麺が並びました.
 生素麺,乾燥素麺も多く贈物として送られ,父と同じく『言経卿記』には1576年から1606年までの間に,数多くの素麺が出て来ます.
 これも数を数えてみると,冷やし素麺が5〜7月に集中しており,7月には何と72回,登場しています.
 一方で煮麺はそうでもなく,精々月平均10回程度となっています.

 また,茶席の後段に出される料理として,素麺が用いられる事もありました.
 1558年11月13日の奈良の漆屋の茶湯日記である『久松茶会記』に,懐石が終わり,菓子が出て来て濃茶を飲んだ後に出される後段に,
「湯ソウメン,スイモノカイ付」
と言う記述があります.
 これは,先述の風呂素麺の事で,桶に張った湯に浮かべて食べていたと考えられています.
 これを釜の儘出したのが釜素麺で,これは鹿苑寺の鳳林承章和尚が1640年正月20日の日記に記しています.

 室町時代の関白である一条兼良は,『尺素往来』と言う祭礼や式事,仏法などの語彙を収録して,正月から歳暮に至る消息文を擬作した書で,「…索麺者熱蒸…」と言うものを書いています.
 これは茹でた素麺を冷やし洗って蒸籠に盛り,再び蒸すか,熱湯を掛けて暖めたものです.
 『東寺百合文書』にも,素麺を盛る蒸籠を修理した記録が残っていますし,『多聞院日記』でも,素麺蒸籠の簾の記事が何度も出て来ます.

 つまり,室町から戦国時代に掛けては,素麺は現在と同じく茹でて冷やす形式も然る事ながら,稲庭うどんの様に,釜揚げにしたもの,更に素麺を蒸したものも食べられていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/18 23:28

 さて,昨日は安土桃山時代までの素麺の食し方について書いてみたりしたのですが,今日は江戸時代の素麺の食し方について書いてみたり.

 1643年に武蔵国狭山で書かれた『料理物語』には,煮麺が出て来ます.
 この作り方は,垂味噌に鰹を加えて小菜,根深(葱),茄子と共に茹で素麺を入れて煮るとあり,薄味噌にして煮立てるとあるので,この頃はまだ室町期の特色を残しています.
 なお,薬味は胡椒か山椒とあります.

 江戸後期の文化年間に書かれた『素人庖丁』には,昆布や大豆の出汁に干し椎茸の付け汁を加えた上等の精進出汁を醤油と酒塩…これは酒に塩を飽和状態になる様に入れて煮立て漉したもので,現在でも京料理の基本調味料となっています…にて味付けをしています.
 これに水溶きの葛粉で濃度を付け,茹でおいた素麺を入れて煮ています.
 殆ど現在の形になってきています.
 この薬味も,お好みのものをトッピングする様に数多く挙げています.

 『素人庖丁』には他にこくせう麺というのもあります.
 これは昆布だしに摺った白味噌で味を付け,重湯でとろみを付けるとあります.
 重湯が無ければ,餅を入れて煮た汁,或いは蕨粉や白玉粉を用いる,要するに白味噌仕立てのあんかけです.

 現在でも残っているのが,揚げ鯛麺です.
 鯛を水洗いして2つに切り,胡麻油で揚げて薄口醤油で味付けした出汁で煮ます.
 その汁で茹でた素麺を温めた後,大きな鉢に煮た鯛を盛り,その上に素麺を載せて煮汁を掛け,刻み葱をトッピングすると言う卓袱料理の1つで,この揚げ鯛麺は瀬戸内界隈に広まり,各地の郷土料理になりました.
 これが,醤油と水で煮るだけの鯛麺です.
 このバリエーションとして,酒で下味を付けて焼き,胡麻油を付けて再び焼いて仕上げると言う方法もありました.

 また,素麺ちゃんぷるうの原型は,青菜と豆腐を炒めて茹でた素麺を加えたものです.

 変わり種として,素麺を折って油で揚げて茶事の菓子にした例もあります.

 元々,室町から安土桃山期には,寺や公家社会では,冷やし素麺でも煮麺も酒肴として用いられていました.
 素麺の流通量も少なく,それは高級品でした.
 因みに,当時の貴族の家や寺院では,何時も湯を沸かしており,いざという場合は即茹でられ,しかもゆで時間は短く,冷麦や饂飩に比べて高級感があったものだったので,来客の持て成しにも格好の食べ物でした.
 更に,付け汁や煮汁の旨味や塩気は,酒の味をより旨くしました.
 その上,夏は風流と清涼感を増す為に,梶の葉や桐の葉,笊などに盛り,冬は暖かさを演出する為に漆塗の桶に湯を張って茹でた素麺を浮かべたり,釜で茹でたまま出したり,蒸籠盛りにしていました.

 それが素麺の生産量が増加する江戸中期以降は,冷やし素麺や煮麺と言った単純な料理に加え,隠元禅師によって齎された黄檗宗の普茶料理や豆腐と炒める料理も登場してより食し方の幅が拡がり,酒肴としてよりも料理として食べられる様になります.
 しかも生産量が増すと,値段も下がり,公家や寺院だけの独占物ではなく,庶民にも手が届くものになります.
 こうして,素麺は大衆料理となっていったのです.

 しかし,現在では再びそのレパートリーは冷やし素麺が主流となり,煮麺は余り作られなくなりました.
 現在では食べ物が豊富になり,手間の掛る調理が敬遠された為です.
 また,調理のスピード化と簡略化と言う側面もあります.
 とは言え,日本のパスタとも言うべき,素麺は色々な料理の素材として利用できる様な気もしますが….

 では,素麺にもう少し気の利いた食べ方はないのかと言えば然に非ず.

 愛知県の南知多には「菱蟹素麺」と言うのがあります.
 これは夏の漁で爪が取れた菱蟹の甲羅を外して,4つに切って出汁を取り,それを素麺に付けて食べると言うシンプルなものですが,切った後に叩いた方が味が良く出ますし,更に蟹味噌を溶いて加えるとより美味いものになります.

 富山県の富山湾周辺では「白蝦素麺」.
 白蝦の髭を取って,薄切りの玉葱と醤油味で煮て冷やし,これを冷やし素麺にぶっかけて食べるもので,白蝦を素揚げにしてトッピングすると芳ばしいものになります.

 滋賀県野洲,香川県西さぬき,福岡県筑紫野にはそれぞれ「泥鰌素麺」があります.
 獲れ獲れの脂の乗った泥鰌を丸の儘,茄子や人参と味噌汁で煮て素麺を加える煮麺で,泥鰌を油で炒めて煮ると夏の暑気払いに打って付けのものです.

 広島県の瀬戸内沿岸では黒目張や雀鯛の煮汁を使います.
 更に,身を解してトッピングもします.

 滋賀県朽木は,若狭小浜と京都を繋ぐ鯖街道の中継地です.
 此処の盆時期の馳走は,若狭小浜の焼き鯖を姿煮にして冷索麺と相盛りするもので,焼き鯖では無く焼き鮎を用いた同じ様な料理は,岐阜県の長良川筋や南紀の古座川筋でも見受けられます.

 鹿児島県の奄美大島だと,塩漬けした豚の足の塩抜きをして出汁を取り,これに素麺を浸けて食べます.
 この豚足で取った出汁はコラーゲンたっぷりのものになります.

 冷やし素麺の南の限界は此処までで,意外にも暑い沖縄や台湾になるとそうした食べ方はありません.
 暑すぎて冷やし素麺では身体が保たない訳です.
 台湾の場合は,奄美大島と同様に豚の足でスープを取り,更にそれを具にして,煮麺にして食べていました.
 これが冬になるとシーズンの牡蠣になります.

 沖縄で素麺が食べられる様になったのは,琉球が薩摩の支配下に置かれた17世紀頃であり,『琉球由来記』では,国王が七夕にお付きの者に素麺を与えている記述があり,それ以後,旧暦の7月13日から始まる祖霊祭の盆食に民間でも食べる様になりました.
 その後,長寿の祝いや結婚,昇進,出産,屋根葺き,仏事など冠婚葬祭の際には素麺は欠かせないものとなっていました.

 琉球地方では,福建省の影響を受けた如意そうみんもあります.
 出汁は鰹節と豚のスープを合わし,千切りにした茹で豚,干し椎茸,大根,冬瓜,島菜(高菜),人参,錦糸卵の赤,白,黄,緑,黒の5食の具を茹でた素麺の上に置き,先のスープを掛けるものです.

 素麺ちゃんぷるうは実は古くて新しい料理であり,元々は素麺では無くマンギリ,つまり饂飩が用いられていました.
 手打ちした細切りの饂飩を茹でて冷やし洗い,油で炒めて塩や醤油で味付けしていました.
 八重山諸島では更にヒハツの若葉を刻んで混ぜています.
 素麺ちゃんぷるうとなったのは戦後の事で,米軍払下げのコンビーフやツナ缶を使い,一緒に炒めて味を付け青紫蘇の千切りや刻み葱を加えたものです.
 中にはこの料理は「ちゃんぷるう」ではなく「だしゃー」であると言う沖縄の人もいるみたいですね.
 因みに,「ちゃんぷるう」とはインドネシア語で和える事を意味するそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/11/19 22:56


 【質問】
 焼きソバの起源は?

 【回答】

 焼きそばと言っても蕎麦粉を使っている訳ではありません.
 沖縄すばをルーツとする固めの中国福建風茹で麺用中華麺です.

 その中でも定番中の定番が,ソース焼きそばです.
 ソース焼きそばの発祥は大阪で,固茹で蕎麦を鉄板の上で油で炒め,どろっとした焼きそばソース(と言うか元々はお好み焼きソース)で味付けた麺料理です.
 そのソース焼きそばを薄焼き玉子で巻くオムそばもあります.
 ついでに書けば,オムライスも大阪生まれ.

 ご飯と茹で麺と微塵切りのキャベツを炒め,焼きそばソースで味付けしたのがそばめし.
 これは神戸発祥で,長田区のお好み焼き屋「青森」が最初.
 そもそも,近所の工場の社長が社員の給食のために残り少ない冷や飯を持って来て,何とか増量してと依頼されて考案した結果です.
 そう言えば,神戸に勤めていた時は,毎日そばめし食べてたなぁ.

 最近,B級グルメで横手焼きそばとか太田焼きそば,富士宮焼きそばなんかも出て来ていますが,横手市は卵の目玉焼きと何故か福神漬けがトッピングされ,黄身を潰して絡めて食べる点が特徴.
 太田市は上州名物の蒟蒻の煮物が入るのですが,現在は無くなっているそうです.
 富士宮焼きそばは一躍有名になったもので,ラードを取った後の豚の油粕が加わるなどの工夫が為されています.

 この他,奥会津にはスープ焼きそば,青森黒石にはつゆ焼きそばがあります.
 これは,焼きそばにスープがかかっているものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/01/05 23:23
青文字:加筆改修部分


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