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◆共産クーデター以降(別名,「サウル(4月)革命」)
アフ【ガ】ーンFAQ目次

タラキ政権時代のアフ【ガ】ーン国旗
……まんまソ連やがな


 【link】

『アフガニスタン事件』(朝日新聞調査研究室編,朝日新聞社,1980.4)

『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19)

『地獄からの証言』(フランソワ・ミッセン著,サンケイ出版,1980.7)


 【質問】
 反ダーウード・クーデターはどのように始まったのか?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,ダーウード政権の閣僚達が討議を始めたとき,国防省ビルが戦車の砲撃を受けて始まったという.
 反乱軍は微弱な抵抗を一蹴.
 また,共産党の霍乱要員も,宮殿内各所で親衛隊員や官吏を背後から撃って混乱を引き起こしたという.

 以下引用.

――――――
 〔略〕
 〔1978/4/27,〕そして閣僚たちが討議を始めたときだった.篭ったような砲声が静寂を破った.
 が,このアルグ宮殿での会議に出席した目撃者によれば,そのとき誰もこの砲声に注意を払わなかった.
 唯一の例外は商業大臣モハマッド・ハーン・ジャララールだった.
 そわそわと落ち着かない態度を示していた.
 彼は,この日の議題を,会議が始まる前に早くもソ連側に通報していたからだ.

 数分後,大統領親衛隊長サヒブ・ジャン・アチャクザイが入ってきて,ダウド大統領に,国防省ビルが中型戦車の砲撃を受けたと報告した.
 国防省は宮殿の向かい側,約200mのところにある.
 そして,この一見,小規模な反乱行動に対処するため,親衛隊所属の戦車数台の出動許可を求めた.
 大統領はこれに対し,戦車2台の出動を認めた.
 だが,南西アフガニスタンの勇敢なアチャクザイ族出身の,この若いハンサムな隊長は,背後に不審な動きを感じ取り,自らの判断で中型戦車12台を出動させた.

 まもなく届いた報告で,国防大臣のラスリ将軍の執務室が砲撃を受け,将軍は助かったものの,彼の副官が死亡したことが分かった.
 大統領はラスリ将軍が会議に出席するのを待っていた.
 ところが将軍は姿を見せず,しかも国防省が砲撃されたのである.
 この不可解な動きを探るために,大統領はさっそく,補佐官をラスリ将軍のところにやった.
 やがて閣僚会議の場にラスリ将軍自身から電話がかかってきた.
「反乱が起きている.私はリシコール(カブール市南西部,ダルルアマン宮殿近くにある中央守備隊本部)に行くと大統領に伝えてほしい」
 ラスリ将軍は公用車のメルセデス・ベンツを飛ばした.
 中央守備隊を動員して反乱を制圧しようと考えたのである.

 その頃,2階まで届くほどのばかでかいソ連製大型重戦車が轟音を響かせながら,プリチャルキの方角から市内に進んでいた.
 この戦車の兵士たちは,大統領親衛隊による反乱を抑え,大統領を救助するよう命じられていた.
 無学文盲の徴兵達は共産勢力の術策にかかっていたのである.
 彼ら自身は包囲された大統領の救助に急いでいると思っていたが,実は彼らこそ包囲者だということに全く気付いていなかった.

 一方,大統領親衛隊長サヒブ・ジャン・アチャクザイは,戦車を宮殿玄関前に待機させていた.
 来たと東から宮殿に向かって次第に戦車が集まってくるのを見て,彼は砲弾を一発発射した.
 だが重戦車の長距離一斉砲撃を受け,彼の乗っていた戦車は吹っ飛び,ひしゃげた金属の塊の中で,アチャクザイ隊長の肉体は引き千切られた.
 共産主義者たちは野蛮にも,この戦車をその後2週間以上もその場に放置していた.
 そこからはウジがわき,それはアフガニスタンの人々を怖がらせもしたが,死んだ彼の勇敢さをも強く印象付けた.
 カブール市民の前に繰り広げられた悲劇はまた,喜劇でもあった.親衛隊も攻撃部隊も双方で「われわれが大統領を守るために戦っている」と思い込んでいたのである.

 ダウド大統領は,ラスリ将軍のメッセージで事態の深刻さを悟り,閣僚会議を中止し,閣僚たちに宮殿を離れる許可を与えた.
 同時に親衛隊副隊長アブドゥル・ハク・ウルーミに大統領の家族を連れてくるよう命じた.
 その副隊長によれば――彼は筋金入りの人民民主党パルチャム派に属する共産主義者とされており,この言葉は割り引いて受け取らねばならないが――,彼はこの命令を完遂してみせた.
 副隊長はこのときの状況を,次のように語った.
 弾丸が頭上やまわりを飛び交っていたが,私は,大型のランド・ローバーを風のように運転して,ディルクシャ宮殿内にある大統領邸の裏口までたどりついた.
 その途中,小さな集団がやぶづたいに人目を避けるようにアルグ宮殿に向かっているのを見た.
 彼らは,ザヒル・シャー国王の義理の弟,サルダル・タイムール・シャー,それに彼の妻,ビルキス王女(ザヒル国王の妹),そして息子2人(ヤヒヤ・アシフィとヤマ・アシフィ)と娘1人の一団だった.
 私が彼らに戻るように促すと,タイムール・シャーが
「この危機下に私のいとこを1人にしておくことはできない」
と答えた.

 王家の全員は集められ,午後2時までにアルグ宮殿に運ばれた.
 だが,この支配者一族は事態を全く理解せず,ひたすら安堵感に浸っていた.
 彼らは一般大衆,国内の出来事,それどころか宮殿内で起きていることからすら隔離され,何も知らされていなかったからだ.
 こうした彼らの置かれていた状況の一端は,宮殿の周囲で銃弾がうなりをあげていた最中にも,ダウド大統領の弟(サルダル・モハマッド・ナイム)夫人が美容院に行っていたことからもうかがえる.

 すでにこのころ,外部では地獄絵図が繰り広げられていた.
 機関銃と自動小銃の断続音,戦車砲の轟音,それに負傷者や死にかかった人々の阿鼻叫喚は耳を覆わんばかりだった.
 兵力4千の親衛隊なら共産主義者の攻撃に対し,数日,もしかしたら数週間はもちこたえられると見られていた.
 ところが目撃者によると,宮殿内部でも裏切りがあった.
 共産分子の数は少なかったものの,宮殿内各所で親衛隊員や官吏を背後から撃って混乱を引き起こした.
 親衛隊詰め所の内部には死体が散乱していた.

 一方,共産勢力は,実情を全く知らない救援部隊≠フ力を借りて,アルグ宮殿に通じるすべての道を封鎖していた.
 反乱を起こした親衛隊から大統領を守る≠ニの理由で,プリチャルキ兵舎から送られてきた中型戦車,重戦車は,カブール市内および周辺のすべての戦略地点に配備されていた.
 ダウド大統領と弟のサルダル・モハマッド・ナイムの自宅前のサラタン通り26番地は小人数の王国軍分遣隊に守られていたが,その兵士たちは軽装備で,なおかつ訓練が行き届いていない徴兵ばかりだった.
 黒いアスファルトの上には骨と肉が散らばった.
 明かに筋金入りの共産主義者と見られる兵士の乗った重戦車は,ディルクシャ宮殿の時計台と屋根の一部を吹き飛ばした.
 イギリスによって建てられたというのがその理由だった.

 アルグ宮殿では,午後2時に王家一族が運ばれてきた頃,生命の危険を感じて残っていた閣僚たちは会議室から立ち去り,グルクハナ宮殿の裏にある別棟に移っていった.
 そして午後3時頃,ダウド大統領は弟のサルダル・モハマッド・ナイムと密かに会い,40分間話し合った.
 彼らが何を話し合い,どんな決断をしたかは,全く分かっていない.

 〔略〕

――――――『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.102-105

――――――
 〔略〕
 共産勢力はクーデター初日(4月27日)には,アルグ宮殿に無制限に空からの攻撃を加えたばかりでなく,近くのバザールで興奮して見守っていた群集にもロケット砲を浴びせた.
 〔略〕

――――――同,117

 ただし同書は反共カラーが強いため,信頼性を考える上ではその点,留意されたし.


 【質問】
 ラスリ将軍の最期の状況は?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,以下の通り.

――――――
 〔略〕
 国防大臣のハイデル・ラスリ将軍は,リシコールの中央守備隊に増援を求めに向かっていたが,ダルルアマン通りのソ連大使館近くで,警戒体制に入っていた共産勢力部隊の待ち伏せを受け,撃たれて死亡した.
 彼を待ち受けていたのはソ連製ジープに乗った人民民主党員の一団だった.
 〔略〕

――――――
『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.105

 以上,事実の記述と思われる部分のみ引用した.


 【質問】
 ダウド・ハーン最期の様子は?

 【回答】
 フランソワ・ミッセン著「地獄からの証言」(故サンケイ出版,1980.7)によれば,ダウド自ら機関銃を持ち,勇戦の末に倒れたという.

 私(政府高官ジャマル・スルタニ:仮名)は後に,ダウドの地下指令部にどのように突撃がなされ,どういう最期を迎えたか,詳しい情報を知った.
 王宮の周囲は高い壁で固められていて,内部が見えないようになっていた.王宮地下司令部と外部とは,数ヶ所にある哨舎を通じて接触でけるだけであった.

 正午少し前,閣議が開かれていたが,このとき最初の砲撃を受けた.
 攻撃が始まるとダウドは直ちに閣議を中止し,大臣達に,自由にしてよいと言った.
「自宅に戻りたい者はお帰りなさい…….自宅に戻らない者は,王宮にいらっしゃい.
何の遠慮もいらない.忠誠を誓う軍隊が到着するまで戦おう」

 既に戦車と戦闘機の砲撃に晒されていた閣議室をダウドが出たとき,彼に着いていった大臣は3人であった.内相,副大統領,そしてワイド・アブダラーである.
 彼ら以外はさらに閣議室に留まり,ぐずぐず逃亡計画を練っていたため,庭から進入してきたハルクの第一特別攻撃隊の手で逮捕されてしまった.農相,情報相,法相,文相などがそうである.

 ダウドは王宮二階の非常に大きな広間にあって,ますます激しさを増す戦闘機の爆撃から逃れていた.
 篭城軍と大統領一家は,王党軍に一縷の望みを託していた.食糧が支給された.
 大統領にはまだ服を着替える余裕があった.
 彼は格子縞の上着を着,地下司令部の上や,辺り一面に落とされるロケット弾の音に気も狂わんばかりになっている子供達の気を鎮めようと,懸命になっていた.

 五時であった.王宮だけが,否,より正確に言えば王宮二階だけが,市中のあちこちにあった島々を次々飲みこむ大洪水に,最後まで抵抗を試みる島であった.
 商相がメガホンを手に王宮に近付き,降伏するようダウドに頼んだ.
 ダウドは地下司令部の銃眼に機関銃の一斉射撃を命じ,どういうわけかさっきの閣議に姿を見せていなかったこの大臣に,
「総司令官に,私がどこにいるか教えてやれ……」
と言った.
大臣のそばにいた大尉が,警察長官でありながら,急に反乱軍の内相づらをしはじめたカディルに,ダウドの要求を伝えた.
 カディルは最期の突撃を命じ,ダウドを殺せと命じた.
 今度は扉越しに,大尉を従えた電気通信相グラブゾイが,大統領と最後の交渉を行った.十メートルかそれより少しあるかの距離であった…….
 ダウドは,総司令官を連れて来いと,再度同じ要求を繰り返し言った.

 事はあっという間に起こった.
 外部の二人が扉を突き破ろうとした.扉の正面と上部に一斉射撃を食らわせた.
 二人は遂に地下司令部に侵入した.
 自動小銃を持って扉の正面に立っていたダウドが,二人に向けて弾丸の雨を降らせた.グラブゾイが腕に負傷した.
 これがダウドの最後の勇姿であった.
 ダウドは大尉の軽機関銃弾に倒れた.崩れ落ちるダウドの上に,ダウドの妻が身を投げた.
 彼女は,ダウドの弟ナイムや,子供達諸共銃弾の雨を受けた.彼らは主ダウドの上に,折り重なるように倒れていった.

 宮殿内で殺戮が続いていた.夕刻には死者は91人を数えた.
 逮捕された大臣や運転手達は,この死者の数には含まれていない.彼らは後にリンチを受けた.
 夜陰に紛れて脱出を試みたダウド親派のバラ・イサール隊も遂に降伏した.
 ダウドとその家族の遺体は一日王宮に放置され,二四時間経過後,夜,プル・チャルキ刑務所近くの広い土地に運ばれた.
 一つ大きな穴が掘られ,そこに全員がぶち込まれた.

ダウドの宮殿を砲撃した(?)T-62


 【質問】
 なぜダウド大統領は宮殿から脱出しなかったのか?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,ソ連から与えられた保証書を,ダウドは過信していた模様.
 そのため彼は無為に時間を過ごし,とうとう手遅れになってしまったらしい.

 以下引用.

――――――
 午後5時,ミグ戦闘機の放った最初のロケット砲が,グルクハナ宮殿2階にあるダウド大統領の執務室に命中した.
 このためダウド一家は,1階の玄関ホールに移動した.

 日が暮れると,ジェット機に代わってヘリコプターが,宮殿の上を極端な低空飛行で舞い,建物や内部で動くすべてのものに砲撃を加えた.
 暗闇の中から宮殿近くに姿を現した共産勢力は,ラウド・スピーカーで宮殿内の生存者に降伏を呼びかけた.
 腐肉を漁る野犬どもの中で目立った存在は,プリチャルキ守備隊装甲師団副司令官アスラム・ワタンジャルだった.
 彼はラウド・スピーカーを握り,
「ダウドは殺された.これ以上の抵抗は無駄だ.残った親衛隊員は武器を捨てろ」
と呼びかけていた.
 ソ連製ヘリコプターが低空飛行で宮殿にロケット砲撃を加え,ガラスが飛び散る凄まじい音だけが宮殿からは聞こえていた.

 宮殿内部の照明はすべて消され,ろうそくだけがともっていた.

 ソ連指導者はダウド大統領に無気味な呪文をかけたかのようだった.
 つまり証言者によれば,その黒い木曜日の午後6時までは電話が機能していたにもかかわらず,ダウド大統領はまるで金縛りにあったかのように,友好国との接触,少なくともカブール駐在外交官との接触を試みようとしなかったのである.
 現に外務担当国務相サエド・ワヒド・アブドゥラは,大統領に外交団との接触の許可を求めた.
 だが大統領はそれを認めなかった.
 それにもかかわらず,彼はあえて命令に背き,第三国の代表と接触を行った.
 そして,ためらいながらも大統領に,ある外交団に救援を依頼し,相手からいかなる援助を必要としているか尋ねられていると報告した.
 追い詰められ判断能力を失っていたのか,ダウドは怒って言った.
「なぜそんなことをした.私には保証書があるのだ.文書にされた保証なのだ.
 出ていけ.二度と私の前に現れるな」
 大統領が言及した保証とは,ソ連が与えたものだったのであろう.
 だが残念ながら,それが政界に公表されることは,これからもないだろう.

 アルグ宮殿と外部との連絡は午後6時以降絶たれた.
 今や完全に孤立し,希望を失ったグルクハナ宮殿内の人々は,情勢の進展を待つだけだった.
 おそらく奇跡を待っていたであろう.
 だが奇跡の可能性は殆どなかった.

 カブール南西のリシコールの中央守備隊は,共産勢力の蜂起とラスリ将軍(国防大臣の前は中央守備隊司令官だった)が死んだとの報告を受けると,直ちに動員態勢に入り,午後4時,反乱鎮圧への出動を開始した.
 だが経験のある上級指揮官がいなかったため,若い将校たちは決定的な誤りを犯した.
 装甲車の護衛なしで兵士を軍用トラックに乗せて運んだのである.
 最小限の時間で現地に急行しようとしたためだ.
 ダルルアマン通りのソ連大使館近くで共産勢力の戦車は,この隊列をいとも簡単に殲滅してしまった.
 彼らの損失は皆無であった.

 〔略〕

 宮殿の外でラウド・スピーカーは相変らずがなりたてていた.
 次々に飛来するヘリコプターの攻撃も続いていた.
 この市街戦で少なくとも1万5千人が死んだ(ヌール・モハマッド・タラキは数百人と嘘をついた).
 宮殿の中の王家の子供たちは,爆弾やロケット弾が破裂するたびに母親にしがみついていた.
 閣僚たちはこうした光景を目の当たりにして,これ以上,無為に過ごすことはできないという点で一致した.
 午後11時,閣僚たちは大統領のもとに行き,
「反乱軍は急速に攻勢に転じており,大統領と家族の命は非常に危険な状態にある.
 大統領は直ちにアルグ宮殿を離れるべきである」
との進言をした.
 大統領はこれを拒んだが,閣僚たちは説得を続け,日の改まった28日午前1時半になって,大統領はついに同意した.
 そして家族,閣僚と共にグルクハナ宮殿の玄関に向かった.

 王家の最初の犠牲者が出たのは,このときであった.
 まず子供たちが車に乗りこもうとした.
 そのとき,機関銃で武装して宮殿内のモスクに隠れていた2人の兵士が,彼らに向かって発砲した.
 ダウド大統領は車の背後にかがんで助かったが,大統領の長男モハマッド・オメルは首を撃たれて即死した.
 オメルの子供たち,ダウド大統領の娘,サルダル・モハマッド・ナイムの孫も一斉射撃で殺された.
 オメルの遺体は直ちに閣僚会議室に運び込まれた.
 その頬に父親が最後の口付けをした.

 この直後,午前2時,サエド・ワヒド・アブドゥラはダウド大統領の義弟サルダル・タイムール・シャーとともに,友好国外交団の助けを得ようと宮殿を出発した.
 このこと自体,王家および頑固に踏ん張っていた大統領の絶望を示すものといえよう.
 ほんの数時間前に大統領は,同じワヒド・アブドゥラにそうすることを禁じたばかりだった.

 宮殿一帯の情勢は,もはやぎりぎりのところにきていた.
 閣僚たちは改めてダウド大統領に,時間のあるうちに避難するよう懇請した.
 大統領はまたもや拒絶したが,最後には,宮殿の裏門から脱出することに同意した.
 車が再び呼ばれ,宮殿の裏手につけられた.
 サルダル・ダウドは車に乗りこんで,閣僚たちに,どこへ行くのかと尋ねた.
 ところが一人はカンダハルと答えたが,他の誰かはカブール近郊の兵営にすべきだと言った.
 議論は40分間も続いた.
 このためダウド大統領は,「私はここを離れない」と言って車から再び出てしまった.

――――――『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.112-113

――――――
 夜明けと共に,ヘリコプターとジェット機数機が宮殿攻撃を開始した.
 だが,すぐにそれは終わった.
 午前8時,共産主義者の歩兵中隊が宮殿を包囲しているのがわかった.
 その中隊から10人の兵士が宮殿内にやってきて,ダウド大統領に降伏を要求した.
 そのときダウド大統領は,妻,ザイナブ王女,弟のサルダル・モハマッド・ナイム,息子のカレドを従えて閣僚会議室に座っていた.
 副大統領サエド・アブドゥル・イラー,内相アブドゥル・カディル・ヌーリスタニ,情報文化相アブドゥラヒム・ネビンがそのそばに立っていた.
 兵士の一団を率いてきた下士官の要求に対し,ダウド大統領は
「誰に降伏しろというのか.その人間をここに連れてこい」
と答えた.

 女子供たちと他の閣僚たちは,部屋の離れた隅に固まった.
 大統領が何も言う間もなく,兵士たちは,その女子供たちに自動ライフルの銃弾を浴びせた.
 それを目の当たりにして,サルダル・モハマッド・ナイムがとっさに,銃撃を指揮した兵士に発砲した.
 大統領の弟のとった行動は,火に油を注ぎ,兵士の一団は無差別発砲を開始した.
 内相カディル・ヌーリスタニも拳銃を引き抜いたが,副大統領アブドゥル・イラーとともに撃ち倒された.

 グルクハナ宮殿の玄関ホールでそのあと続いた虐殺は,まさに悪夢だった.
 クラシニコフ〔原文ママ〕・ライフル銃の放つ一斉射撃の音と罪のない女や子供の悲鳴が混じり合い,ダウド大統領は弾丸で蜂の巣のようになって血の海に倒れた.
 サルダル・モハマッド・ナイムは口を撃たれ,端正な顔を無惨につぶされていた.
 妻ザイナブ王女,妹アエシャ,娘のシンカエとザルルシト,息子のワイスとカレド(片腕は吹っ飛び,かろうじて皮でつながっていた),小さな2人の孫,そして娘婿のサルダル・ニザムディン・ガジも即死だった.
 サルダル・ナイムの妻,ゾーラ王女は奇跡的に負傷しただけで助かったが,娘のザルミナ(サルダル・アブドゥル・アジームの妻.彼は海外駐在武官だったが,モスクワでソ連人に毒を盛られて殺されたと見られている)は死んだ.
 サルダル・ナイムの死んだ幼い孫の一人は,小さな手で背中からはみ出した内蔵を押えていた.
 ザヒル・シャー国王の妹で,サルダル・タイムールの妻,ビルキス王女,それにダウド大統領の息子の妻シマも死んだ.
 もう1人の息子(オメル)の妻,グララエは重傷を負った.
 ザヒル・シャーコクオウノキニイリノイモウトデ,サルダル・モハマッド・オメル・ゼクリア(オメル王子とは別人)の妻スルタナ王女など,わずかに生き残った人々は,プリチャルキ刑務所に運ばれた.

 1978年4月28日のこのホロコーストで,合計18人の王室メンバーが殺された.
 すべてが終わると,血の飛び散ったホールに裏切り者の空軍副司令官アブドゥル・カディル少佐(のちに大佐,国防相)がゆっくりとした足取りで入って来て,このけものじみた成果を称賛した.
 そのとき,目撃者によると,窓を覆った重いカーテンの1つがわずかに動いた.
 カディルは拳銃を手にしてまっすぐそこに向かって歩いていき,カーテンを引いた.
 そこから恐怖に縮こまった小さな子供(4歳の王子)が姿を現した.
 カディルがその子を引き出そうとすると,カーテンにしがみつき,全身で泣き叫んだ.
 カディルはまったく慈悲を示さず,間髪を入れずにその子に2発の弾丸を撃ち込んで殺してしまった.

 ダウド大統領一家の血がつながった家族で残されたのは,殺されたサルダル・ニザムディン・ガジに嫁いだ娘トールペカエたった一人となった.
 彼女は当時,スイスに療養に行っていた.
 他に数人の孫がいたが,後継ぎの男の子はいなかった.
 また,ダウド大統領の弟,サルダル・モハマッド・ナイムの息子サルダル・アジズ・ナイミスもロンドンのアフガニスタン大使館に勤務していて助かった.
 アジズ・ナイミス王子はザヒル・シャーの娘婿でもあった.

――――――同,p.113-116

 ただし,「保証書」なるものは他の文献には出てこないので,上記情報の信頼性は「不明」とするしかない.
 他の類書ではそもそも,ダーウードがなぜ宮殿を脱出しなかったのか?について,記述しているもの自体がない.


 【質問】
 生き残った閣僚たちは,反ダウド・クーデター後どうなったか?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミの記述から,事実関係のみを抜き出すと,以下の通り.

――――――
 この〔王室〕殺戮の直前に残った閣僚は捕えられ,国防省に連れていかれた.
 その中にはソ連スパイの元締め,モハマッド・ハーン・ジャララール商業相もいた.
 彼らは地下室に放り込まれた.
 彼らを監視していたのは,モスクワで訓練を受けたアサドゥーラという名の下士官だった.
 彼はダウド大統領の共産主義に対する裏切り≠絶え間なく罵っていたという.

 4月28日午後3時,大臣と将軍たちに食事が与えられた.
 中身はスープ,マトン,パン,砂糖入りのお茶だった.
 情報文化相のネビンは病気で病院に運ばれたが,その夜8時に国防省に連れ戻された.
 内相カディル・ヌーリスタニは重傷を負い,病院で午後7時に死んだ.

 29日午前1時,捕えられた閣僚たちは4階のダイニング・ルームに連れて行かれ,床に寝かされた.
 各自に与えられたのはマットレス1枚,軍用毛布1枚と枕だった.
 ガラス窓は閉じられ,トイレットは使用不能だった.
 将軍たちは閣僚たちからは完全に隔離されていた.

 29日午前5時,閣僚たちは眠りから起こされ,地下室に戻された.
 そして午前8時,再び4階に運ばれ,朝食をとり,また地下室に戻った.

 午前10時,閣僚たちの仲間に元首相ヌール・アーメド・エテマディが加えられた.
 当時は駐パキスタン大使だったが,数日前に打ち合わせのためカブールに戻っていた.
 ほんの10分間いただけで,建物の中の他の監禁場所に移された.
 また,サルダル・ダウドがクーデターを起こした当時の首相ムーサ・シャフィクも,国防省の別の場所に拘禁されていた.
 エテマディがその後も建物内にずっといたことが閣僚たちに分かったのは,月曜日(5月1日)の朝,彼がメッセージで電気カミソリを届けてくれと頼んだためだ.
 それ以上のことは分からなかったが,のちに彼はカブールのバスティーユ牢獄と呼ばれるプリチャルキ刑務所に移送されたことが明らかになった.
 おそらく九日に,そこで処刑されたものと見られる.

 ソ連のスパイ,モハマッド・ハーン・ジャララールは3日目にKGBによって釈放された.
 また,
辺境問題担当相アブドゥル・カヨウム,
高騰教育相モヘビ,
国務相アブドゥル・マジド,
保健相モハマッド・イブラヒム・マジド・セラジも釈放された.
法相ワフィウラ・サエミー,
参謀総長アブドゥル・アジズ将軍,
アブドゥラ・ロカイ将軍,
アブドゥル・カディル・カリーク将軍,
元首相のムーサ・シャフィク,
そしてザヒル王の従者モハマッド・ラヒムは5月2日夜9時銃殺された.
 クーデター9日目,残った閣僚と将軍はプリチャルキ刑務所に移された.
 その晩,
大統領個人秘書モハマッド・アクバル,
大統領従者バズ・モハマッド,
その息子マジド,
さらに大統領軍事補佐官が射殺された.
 〔略〕

――――――『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.116-117

――――――
 〔4月29日午後10時,〕国防省に,ダウド政権の外務担当国務相サエド・ワヒド・アブドゥラが出頭してきた.
 彼はクーデターが発生した夜,アルグ宮殿を出たあと友人宅に隠れていた.
 だがラジオ放送で,ダウド政権の閣僚は国防省に出頭せよとのタラキのコミュニケを聴いて出頭してきた.
 ワヒド・アブドゥラはダウド大統領に可愛がられ,閣僚会議の秘書も務めていた.
 閣議でのあらゆる決定事項の草案を作っていたのは彼だった.

 午後11時,ワヒド・アブドゥラの尋問が始まった.
 タラキ,カルマル,カディル,ワタンジャル,ジョズジャニが矢継ぎ早に攻めたてた.
 そして,そこで話したとする内容を記した口述書にサインをさせようとした.
 その内容は次の通りだった.
「1978年4月27日,木曜日,ダウド大統領を議長とする閣僚会議が,午前9時に召集された.
 ここで決定されたことは,最近逮捕され拘留中の共産主義指導者たちの即時死刑執行である」

 ワヒド・アブドゥラは宗教心が強く,アラーの名を記した金のネックレスをしていた.
 彼はそのネックレスに3度接吻し,コーランの一節を呟いた.
 そして,はっきりと言った.
「これは中傷とデタラメ以外の何者でもない.
 このような決定はまったく行われなかった.
 受難の国家指導者(ダウド大統領)にこのような責めを押しつけることはできない.
 真実が虚偽と選り分けられるべき『復活の日』に,私は恥辱に頭を下げたくはない.
 もしこのようなけっていがなされたとすれば,文書にされた書類が当然あなたがたの手に入ったはずだ.
 したがって,それをもう一度書く必要は私にはない」
 バブラク・カルマルが興奮して叫んだ.
「ばか者め.そこにサインしろ.
 お前が勝手に思いついた『復活の日』などということを喋るな」
 ワヒド・アブドゥラは若い上に,興奮し易い典型的アフガニスタン人だった.
 この侮辱で頭に血が上って,やり返した.
「けがれた言葉はニセ金みたいなものだ.すぐに投げ返される.
 『復活の日』は真実だ.
 それを信じない者は最後には正体を暴かれ,汚名を被ることになるだろう」

 バブラク・カルマルは,この侮辱に怒り,居合わせた下士官にワヒド・アブドゥラを銃剣で殺せと命じた.
 2人の下士官が,その場で背中から彼を突き刺した.
 アブドゥラは金色の絨毯の上に倒れた.
 血の海がそこにゆっくりと広がった.
 カルマルのこの野蛮行為は,居合わせたタラキや他の人民民主党指導者すべての承認のもとに行われた.

 共産主義者の軍事蜂起で,すでに1万5千人が犠牲になっていた.
 だが,政府高官や知識人の抹殺計画実行は,ワヒド・アブドゥラ殺害と共に始まった.
 〔略〕
 軍参謀総長アジズ将軍,陸軍情報局長カディル・カリーク将軍,ダウド大統領の近い親戚に当たる国防省外交局長アブドゥラ・ロカイ将軍は,生きたまま戦車にひき潰された.
 その死体はブルドーザーでプリチャルキの共同墓地に埋められた.
 この夜,著名なカブール市民数百人が捕らえられた.

――――――同,p.126-127

 ただし,当事者同士の「会話」まで登場するところから,カリミの創作が一部に混じっている可能性も,否定はできない.


 【質問】
 クーデター進行時の,反ダウド側指導者の様子は?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,誰が最高指導者になるか,ダウド大統領とその一派をどう処分するかで言い争い,クーデター成功後も,ハルク派指導者タラキとパルチャム派指導者カルマルが,それぞれ自派メンバーを少しでも多く重要ポストに就けようと競い合ったという.

―――――
 アルグ宮殿周辺の情勢は急速に悪化していた.
 やがて外部の激しい戦闘の模様が,ダウド大統領の元に報告された.
 内相カディル・ヌーリスタニは午後になって部下との3度の電話の交信で,服役中の人民民主党指導者を直ちに処刑するよう命じた.
 だが,彼らのいるネザラハトナの刑務所へ共産主義勢力が,彼らの教化を受けた部隊の分遣隊と共に向かっていることは分からせないようにしろと命じた.
 だが結局,刑務所看守の名ばかりの抵抗はあったものの,人民民主党指導者達は解放され,アフガニスタン放送局へ直接連れていかれた.
 そこでは15人のKGBメンバーが本部を構えていた.
 その日の午前2時頃,KGB高官15人がソ連航空機でカブール空港に降り立ち,作戦の指揮に当たっていた.
 つまり,すべての出来事にKGBエージェントが関わっていたのである.
 近くのアメリカ大使館は,外部との連絡を絶たれていた.

 再び合流した人民民主党のハルク派指導者ヌール・モハマッド・タラキ,ハフィズラ・アミンとパルチャム派指導者バブラク・カルマルは放送局に入るや否や口論を始め,誰が最高指導者になるか,ダウド大統領とその一派をどう処分するかで言い争った.
 ハフィズラ・アミンがのちの声明で発表した通り,このとき,ソ連政府の気に入りの息子であり,操り人形であるカルマルは,ヌール・モハマッド・タラキに直ちにアフガニスタンを離れれば命を助けると言った.
 そしてカルマル自身が新たな共産主義政権の指導者になると主張した.
 何年も前にソ連は彼に支持を与えていた.
 カルマルの頭にあるのはそれだけだった.
 もはや陸軍の共産党分子はハフィズラ・アミンの支配下にあること,そのアミンはヌール・モハマッド・タラキと盟約を結んでいたことまでは考えが至らなかった.
 結局カルマルは追い詰められ,ライバルの命令に従わざるをえなかった.

 共産勢力は首都制圧後も,すぐにはアルダ宮殿を襲撃し,ダウド大統領を殺害しなかった.
 アフガニスタンを平和的に,ないしは少しでも小さな代償で支配しようというソ連の思惑があったからである.
 ソ連はダウド大統領を生け捕りにしたかった.
 そして可能なら,彼を傀儡もしくはソ連の先棒として使い,その役割が終わった後で葬り去ろうと考えていた.

 ソ連は,ダウド大統領を殺害すれば戦闘が長引き(実際そうなった),平定には財政的にも,また人的・物的にもソ連に大きな負担がかかると見ていた.
 そこでバブラク・カルマルに,情勢がはっきりし,選択が明確になるまで事を起こさないように伝えた.
 だが,その後の現実が示す通り,ソ連は人間的要素≠見誤り,彼らの傀儡の野蛮さによって,避けるはずだった損失をこうむってしまった.

―――――『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.108-109
 〔略〕
 そのころ〔午後5時頃〕にはカブール中の病院が,死にかかった兵士や警察官でいっぱいになった.
 ダウド大統領の娘婿サルダル・ニザムディン・ガジ(シャー・マームード元帥の息子)は,若く有能な将校だったが,顔の見分けがつかないほどのひどい火傷を負った.
 内務省近くのジャムフリャト病院の医師は,彼には緊急手術が必要だと言ったが,共産主義者たちはそれを認めず,若き王子は数時間後に苦しみながら死んでいった.
 その医師の証言によると,重傷の兵士,守衛それに一般市民も,病院に運びこまれると廊下に積み上げられるだけで,死ぬにまかされた.
 人民民主党配下の者たちが医師と看護婦に,
「放っておけ,奴らは死ぬのだ」
と命令したためだという.
 〔略〕

――――――同,p.111-112
 アフガニスタンの知識層は,共産勢力がこれほどあっけなく勝利するとは思っていなかった.
 アフガニスタン人民民主党自身にとっても,これは驚きであった.
 ソ連は人民民主党に,この有利な情勢をそのまま維持するよう指令を出した.
 クーデター翌日の4月28日朝,ダウド大統領一家の殺戮が終了した直後,国防省で,人民民主党指導者とソ連大使アレクサンドル・ポザノフの会議が開かれた.

 首都カブールは混乱はしていたものの,市内の要所要所は共産主義者の舞台が完全に抑えていた.
 市周辺は戦車部隊が掌握していた.
 国防省での会議では,新政権の樹立が決定されることになっていた.
 また,閣僚,党政治局員,最高革命評議会メンバーの選任も行われることになっていた.
 このとき,ポザノフ大使を筆頭とするソ連側は,アフガニスタン人民民主党の足場固めが現状における最優先課題と考えた.
 ところがアフガニスタン側は,人民民主党内のハルク派指導者タラキとパルチャム派指導者カルマルが,それぞれ自派メンバーを少しでも多く重要ポストに就けようと競い合っていた.
 〔略〕
 ハフィズラ・アミンもこの2人とライバル関係にあったが,ここではあくまでも傍観者の立場をとっていた.
 また,空軍副司令官アブドゥル・カディル大佐とプリチャルキの第4装甲師団副司令官アスラム・ワタンジャル少佐は,彼らこそ真の勝者であり英雄だと思っていた.
 そして彼らも指導者の地位をうかがっていた.
 だが,この2人は若く未熟であり,政治的洞察力にまったく欠けていた.
 〔略〕

――――――同,p.118-119

 ソ連とアフ【ガ】ーン共産党との間の連絡をとっていた様子のKGBも,さぞや頭が痛かったに違いない.


 【質問】
 反ダウド・クーデターはソ連が画策したものなのか?

 【回答】
 不明.

 〔略〕
 1978年には共産党理論家の暗殺――おそらくPDPAの争いが原因なのだろうが,ダウドのせいにされた――に続いて,カブール市内の反政府感情がいっきょに流出し,ダウドはパニック状態に陥った.
 彼はPDPAの主要メンバーを狩り立てたが,軍部の共産党員に適切な処置をとることを躊躇した.
 どの程度が計画され,どの程度が先を考えずに即断されたことなのかは明らかではない.
 しかしソビエトがハルク派将校が率いる陸軍部隊に反乱を命じなかったとしても,彼らにはそうなることがはっきり分かっていた.
 1978年4月24日,ダウドは地位を剥奪され,家族全員と共に処刑された.

デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.26-27


 【珍説】
 アフガニスタンでは,外国からの多額の借款供与,信用保証に伴って,いささか通貨増発,インフレの傾向となってきた.
 王政打倒に参加した軍人達の中から,給与引き上げの要求が起こってきた.
 社会主義を志向していた閣僚のモハマド・フェイスらが更迭された.その他,クーデターに協力した軍人達が追放されるに至った(1977年3月).
 そのとき,ダウド政権は,ソ連からイランへと舵を右へ大きく切ったのである.
 そこにはどんな理由があったのか?

 まずダウドは,既に1956年の計画経済推進のときから,強権的な近代主義者であったということである.
 〔略〕

 第2に,あとの「ソ連のアフガニスタンへの軍事支援の前提」のところで触れるが,CIA,イランのSAVAKなど国際情報機関によるダウド政権の路線転換(脱ソ親米化)への誘導が大きな要因として指摘できる.
 つづめて言えば,その転換は,アメリカの石油資本とCIAなどとの提携による綿密慎重な対米従属化デザインである.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.85-86)

 【事実】
 つづめ過ぎですな.
 親米路線をとることが,なぜ従属化とイコールで結ばれなければならないのか,さっぱり理解できません.

 それに何故石油資本が?
 少なくとも2005年現在,アフ【ガ】ーニスタンは産油国になる可能性が全くありません.
 アフ【ガ】ーン北部には油田がありましたが,年間生産量20万tに過ぎず,輸出に廻せるほどの量ではなく,また,精油所もないため,石油製品はソ連やイランからの輸入に頼っていました.

 なお,北部の原油埋蔵量は700万t.その内,可採埋蔵量は240万tと見られています.1972年の生産量は20万tですから,12年で採り尽してしまう量ですね.

 石油胚胎の可能性があると言われている南部Katawaz地域に関しても,採算性は未知数です.

 アフ【ガ】ーンの石油事情については,詳しくは「ARCレポート総集 中近東諸国1」(《財》世界経済情報サービス編集&発行,1975/1)を参照してください.

「中央アジアの石油とパイプラインを介して繋がるため,そのルート上にあるアフ【ガ】ーニスタンを確保したかった」
とでもいうのなら,まだ理解できますが,そのためには1977年の時点でソ連崩壊を予知していなければなりません.
 そんな予知能力を石油資本やCIAが持っていたとは,寡聞にして存じませんな(笑).

 また,ダウド政権がソ連から距離を置いたと言っても,それは程度の問題であり,戦車部隊などはソ連製が主でした.
「不具合修理を名目に,ソ連はアフ【ガ】ーン軍戦車部隊をカーブルから引き離し,クーデターを成功させ易くした」
という陰謀論まで囁かれているくらいです(フランソワ・ミッセン「地獄からの証言」,サンケイ出版).

 他にも経済面・軍事面で,クーデター直前までソ連はアフ【ガ】ーニスタンにおいて圧倒的な存在感を示していましたから,仮に親米化の流れがあったとしても,それは単なるバランス外交思考だったと見るほうが自然でしょう.

 結局,佐々木の論は論拠が皆無に等しいと言えます.



 【珍説】
 しかし,翻って考えると,この国で初めてであり最後でもあったモダーニスト,ダウドは,アメリカ石油資本とCIAとの老獪な共同謀議の犠牲者でもあったのではなかろうか.
 一般に途上国の指導者は,しばしば,自己の思うままに生涯を終えるというよりは,元の宗主国やアメリカなどの外国の政治的都合や圧力によって自由を失うことがある.
 ダウドの場合にも,いくらかそのような暗い影が付き纏っていた.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.91)

 【事実】
 上述の通り,佐々木のこの見解は根拠に乏しいものですが,それにしても,「陰謀論は無知の徒の逃げ場」とはよく言ったものですな(笑).

 【質問】
 タラキ首相ら【ハ】ルク派による軍の粛清は,どのような規模だったのか?

 【回答】
 大規模.
 首脳部逮捕を始めとして繰り返し粛清は行われたため,兵力激減の主因となったという.
 以下引用.

 〔1978年8月〕中旬になると,78年4月のクーデターに功績のあったアブデル・カデル国防相,シャプール軍参謀長といった軍首脳部20〜30人が反逆罪で逮捕された.
 〔略〕
 これら一連の逮捕に関して,タラキは軍の反人民的な性格を変え,今後はもっと建設的な役割を担わせると言明している.
 政権転覆の動きが実際にあったかどうかは定かではないが,これは軍粛清の宣言と受け取ってよかろう.
 〔略〕
 軍の粛清は,タラキの宣言通り何度も繰り返して行われた.
 その結果が,先に見た兵力の激減となった.※
 全体として見れば,【ハ】ルクよりパルチャムに忠誠を誓っていた軍の幹部にとっては,パルチャム派の大掛かりな粛清に対してとれる道は,にわかに【ハ】ルク側に転向するか,それとも逃げるかであろう.
 【ハ】ルクの当局者は前者を期待したに違いないが,党の軍の幹部は後者の道を選んだのであろう.

朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.17-18

※ 1979年には,戦況は政府側にとって悪化の一途を辿ったらしい.
 8月になると,首都のカブールでもベラ・ヒサール兵舎で軍隊の反乱があり,政府側,反政府側双方で300人の死者が出たと報じられている.
 アフガニスタンでは全軍隊の半分がカブールとその周辺に配置されていたと言われるが,それでも首都の安全は危うくなってきたのである.
 こういった軍隊の反乱は,タラキ政権発足以後は決して珍しくなくなっていた.
 反乱や集団脱走,あるいはゲリラ側への投降を防ぐために,タラキ,アミン両政権は軍部の粛清を繰り返すのだが,それは兵力温存に役立つどころか,逆に軍の崩壊を加速する役割を果たしたように見える.
 いずれにしても,この政権が発足する以前には9〜10万人いた軍隊が,79年秋頃には,実際に使える兵力はほぼ半減していたという点では,西側の見方はほぼ一致している.
 ダウド前政権下で陸軍の指揮をしていた上級幹部は,刑務所にいるか処刑されており,空軍の場合には,2000人いたパイロットが500人に減ったという報道もある.
 こういった脱走,粛清は,一面では戦況の悪化から説明されるのだが,別の面から見ると,政府内部の派閥争いからも説明される.

同,p.12-13

 ……誰か,スターリンによる軍の粛清が,独ソ戦にどんな影響を与えたのか,教えてやらなかったのか?


 【質問】
 サエド・ダウド・タルンとは?

 【回答】
 サエド・ダウド・タルンは警察・憲兵隊総司令.
 以下,引用.

――――――
 タルンはモスクワで訓練を受けたパイロットで,ソ連で徹底的に洗脳され,ヒトラーとヒムラー1ダース分以上にも匹敵する残酷な人間に仕立てられた.
 モスクワから持ち込んだ様々な拷問法を数千人のイスラム教徒や愛国者に行使した.
 〔略〕

 タルンは好色な男でもあった.
 高貴な夫人たちを裸にした上で,髪の毛を縛って吊るし,煮えたぎった油を性器に注入するというような拷問を行った.
 乳房を切り落としたり,鉄釘を繊細な部分に打ち込むというやり方もあった.
 夫たちもその場に連出され,配偶者に対する拷問を無理矢理見せられた.
 夫たちは顔を覆ったり目を閉じたりするや否や,尋問者に手足を切り落とされ,目を鋭利なナイフで抉り取られた.
 こうしたやり方は、特に聖職者や宗教指導者に対してよく行われた.
 タルンは観客として常に拷問の場に居合わせ,上機嫌で叫んでいた.
「お前の神はどこから助けにくるんだ」

 タルンは,ソ連に対する献身ぶりと忠誠心を示すために,KGBメンバーやソ連大使館員も接待して彼の仕事ぶりを見せた.
 また,ときにはロシアのパトロンのために女性の紹介まで行っていた.

 〔略〕

 タルンは,こうした残虐非道なやり方でソ連の信頼を勝ち得るのに成功した.
 彼はソ連を欺くのに成功した唯一の人間だった.
 タルンは最後には殺されたが,その最後の瞬間までロシア人たちは,彼がアミンの手先であったことを知らず,タラキの配下の人間だと信じ切っていた.

 タルンは閣僚の秘書から指令を受けては多くのアフガニスタン人男女を捕え,日夜殺し続けた.
 タルンが特に狙いをつけたのは聖職者,インテリ,役人,著名人,およびその家族だった.
 狙われた人々は拷問の末,あらん限りの残虐な殺され方で死んでいった.
 カブールの刑務所は小さなものだった.
 このため共産主義政権の抑圧で捕えられた犠牲者で溢れ,ついに拘留しきれなくなった.
 溢れた数千人の人々は,水や食糧も与えられず,徴用された建物や血に飢えた閣僚の家にまで監禁された.

 地方でも事態はまったく同じだった.
 タルンは警察に命じて,定員4人の房に20人ないしそれ以上の人数を収容させるようにした.
 収容者に対する拷問は,房の中にサソリを放って行うことがよくあった.
 収容者が房から溢れ,廊下まで混み合ってくると,タラキ,アミンそれにタルンは毎晩百人から2百人を処刑するように命じた.
 他の収容者に疑問を持たせないように,刑務所の守衛は処刑に選ばれた者に近づくと,
「おめでとう.釈放されることになった」
と言うのが常だった.
 選ばれた者たちはトラックに放り込まれ,殺されたあと,プリチャルキ刑務所周辺や近くの丘に掘られた穴に埋められた.
 音を立てずに,また弾丸を節約するために,彼らは銃剣で刺殺され,集団墓地に投げ込まれた.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.134-136

 ただし,いささか悪魔化けされた人物描写につき,上述情報もバイアスを考慮する必要あり.


 【珍説】
 農地改革に抗議する最初の狼煙が上がったのは,早くもその3月のことで,ヘラート州では大規模な反政府暴動が起こった(部族のリーダー,イスマイル・ハーンの指揮による).
 それ以来,幾つかの州でもそれが発生した.
 これは農地改革を敵視する地主達による,改革されたにも関わらず,その恩恵を感じない農民を組織しての「復讐(パダル)」の反乱であった.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.214)

 【事実】
 別項で述べているように,抵抗運動が起こったのは
「改革によって起こった問題が多岐に渡った」
ためであり,地主主導の反乱とはとうてい言えない.
 そのような主張では,例えば全守備隊が反乱側に回ったことの説明がつかない.

 しかも以下の記述によれば,学生,公務員,商店主までが反政府側に回っていることが分かる.

――――――
アフガニスタン国内では首都カーブルの他,ジャラーラーバード,ヘラート,カンダハールなど各地でソ連軍侵攻に反対するゼネストやデモが展開された.
 カールマルは急速な社会改革路線をやめ,漸進的な改革の実施を表明し,1980年2月18日には,農村部の反発を押さえるために,農民の土地保有や相続を認めることを発表したが,これで反政府運動が収まる事はなかった.
 21日,カーブルの多くの商店が店を閉め,
「アッラーは偉大なり(アッラー・アクバル)」
の合唱が市内で高らかに響いた(今川・清水・長田 1981: 596).
 これに対し,政府は取締りを実施,夜間外出禁止令を出した他,翌22日にはカーブル市に戒厳令を敷いた.
 23日にはカーブルの公務員もストを開始,状況は混乱する一方だった.
 29日,ソ連軍はクナール州やカンダハール州で反政府ムジャーヒディーンに対する空爆を開始,武力衝突は各地に広がった.

 5月2日,カーブルで学生によるデモが発生すると,政府軍がこれに発砲,57人の死者と100人の負傷者を出した.
 ムジャーヒディーンは様々な場所でゲリラ攻撃を展開したため,14日,カールマル政権はイラン,パキスタンとの関係修復の6項目を提案し,近隣諸国との関係改善で事態を収拾しようとしたが,失敗に終わった.
 同時にカールマルは,部族長やイスラーム団体の代表と会見してイスラームの尊重を訴えることも試みたが,これも成功しなかった.

――――――山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.30-31

▼ なお,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.170によれば,1987年までに戦前の農業力の44%と,生産高の55〜70%が失われたと考えられているそうです.
 ムジャヒッディーンの標的が,都市,街道,飛行場など,ソ連軍に直接影響を与えるもの(同書,p.168)だったことを考えますと,その農業生産力の喪失の原因が誰にあるかは,容易に想像がつくというものです.▲


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンでは共産党は戦前,どのくらいの支持を得ていたのか?

 【回答】
 4議席がせいぜいのミニ政党でしかなかった.
 以下引用.

――――――
 〔略〕
 この変化〔1950年代の,立憲君主制への移行〕が起きている間,2つの対立する地下組織共産党ハルク(「人民」)とパルチャミ(「旗派」)は,「PDPA」を結成した(1965年,書類上でのみアフガニスタン人民民主党として統一された).
 少数の知識人,イデオロギー提唱者,ソビエトのエージェントが党員で,皆アフガニスタンの後退に幻滅を感じていた.
 しかし,選挙では苦戦を強いられ,1965年の議会選挙では216議席のうち4議席,1969年には2議席しか確保できなかった.

 その結果,地下組織活動をこれまで以上に重視するようになり,イデオロギーの違いから彼らは分裂した.
 ハルク派はアフガン社会に向けた破壊活動の必要性を信奉するようになり,パルチャミ派は卑屈なまでに親ソ路線をとるようになった.
 〔略〕

――――――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.23-24

▼ また,アフガニスタンで筋金入りの共産主義者は数百人程度であって,デモ参加者も決して共産主義者ではなかったという.

 〔略〕
 〔1972.12-73.3のシャフィク政権〕当時,アフガニスタンで筋金入りの共産主義者は数百人程度だった.
 数千人の学生がストやデモに参加していたが,彼らは民主的体制を求めているだけで,マルクス・レーニン主義とはまったく関係しなかった.
 〔略〕

――――――モハマド・ハッサン・カリミ著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.50

 某みずぽ党首の率いる,どこかの政党みたいだが,そういう連中に限って,自分たちに問題があるとは決して思わない,というのも日本とアフ【ガ】ーニスタンとで共通のようだ.


 【質問】
 タラキ〜ナジブッラー政権下は,共産主義指導者は特権階級だったか?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,贅沢三昧の特権階級だったと言う.
 以下引用.

――――――
 〔略〕
 余談だが,人民民主党はことあるごとにカクテル・パーティや晩餐会を開いて,ロシア製ウォッカをがぶ飲みし,カブール名物のチキン・ピラフやチキン・カバブをたらふく食いまくる.
 ヨーロッパなどと違い,カブールではチキンは最も高価な食べ物なのである.

 新たに任命された閣僚とその家族たちは,ソ連人が作った住宅地区(ナデル・シャー・メナ)に住まわされた.
 彼らの安全を図るために,この地域は戦車と兵士で固められ,外部からは完全に隔離されていた.
 カブールで最高の「カイバル・レストラン」だけが,新たな共産主義貴族のための安全な食事を提供することをまかされた.
 そこで,町にはこんな話が広がった.
 貴族たちは何がなんでもチキンを欲しがり,チキンをピラフに入れるだけでなく,お茶やプディング,ケーキやクッキーにまでチキンを使えと命じている.
 おかげでチキンの値が高騰し,以前には1羽60アフガニーか80アフガニー(2400〜3200円)だった痩せこけたトリが,200から250アフガニー(8千〜1万円)にもなった.
 また,確かな筋によれば,ソ連国境に近いオクスス川のシェルハーン港に到着するソ連からの輸入の半分がウォッカになったという.

――――――『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.124-125

 ただし,同書は反共トーンで貫かれているため,バイアスがかかっている可能性を考慮する必要はある.
 また,政権に対する糾弾パターンが,イスラーム諸国でのイスラーム勢力による政府糾弾と似ているように思われ,単なるステレオタイプの政権批判である可能性もある.

 しかし一方,カルマル政権下でも同様の報告がなされている点や,アフ【ガ】ーンにおける政治腐敗との親和性など考え合わせるに,信頼性は決して低くはないとは言えるだろう.

 ちなみに,イスラームでは飲酒はハラーム(禁忌行為).


 【質問】
 共産政権の政治理念は,民衆にどれだけ浸透していたか?

 【回答】
 殆ど伝わらなかった様子.
 以下引用.

「文字を知らない人達が多数を占めるアフ【ガ】ーニスタンにあっては,書き言葉には,大衆が理解できない単語,特に政治的な言葉が沢山あって,当時の国の状況を把握できないでいる人は多かった.
 これを巧みに利用したのがムジャヒッディーンだった.彼らは存在をアピールするために,地下放送を始めたが,そのやり方が人々の関心を呼んだ.時事漫才とでも言えばよいのだろうか,中年と思しき男性が2人,時の政情を語るのだが,堅苦しい単語は使わず,くだけた話し言葉で,時には相手の話の腰を折ったり,やっつけたりしながら政治を批判するのである.
 これが文字を解さない層にも受けて,アフ【ガ】ーニスタンやパキスタンで,この時間を心待ちにしている人が沢山いた.
 〔略〕
 このことからも分かるように,アフ【ガ】ーニスタンではニュース番組は大衆にあまり理解されていなかった.
 したがって,「サウル革命」の理念をラジオで声高に叫んでも,それらは空振りだった,というわけだ.
 政府も,地下放送のあまりの人気に便乗して,同じスタイルで始めたが,どうしても硬さは取れない.懸命な努力にも関わらず,全く盛りあがらない.
 シディック家の人達〔本書の主人公〕だけでなく,難民の多くは,ムジャヒッディーンの海賊放送とイギリスBBCのペルシャ語放送にチャンネルを合わせて,情報を得ていたのである」

(泉久恵「国際結婚 イスラームの花嫁」,海象社,2000/2/21,p.242-243)

[quote]
 ソビエトは理想として,「国民戦線」や「無党派」の人々も交えて,その土地固有の指導者やグループを選出するか作り出すかしようとする.
 東欧を統合したときは,これがうまくいった.
 しかしアフガニスタンでは,1978年から88年にかけてカブール政府の合法性および信憑性が非常に低かったため,「ナショナル・ファザーランド・フロント」や,もっと最近の「国民和解」政策は殆ど成功しなかった.
[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p89-90

 【質問】
 タラキ政権時代の「教育」は,どんなものだったのか?

 【回答】
 当時,その「教育」を受けた女性(シリン・ゴル)の証言によれば,共産政権にありがちな体制翼賛教育だった模様.
 以下,その「教育」内容.

――――――
「ムジャヘド.いいえ,それは自由の戦士ではありません.
 抵抗戦士ではありません.
 民族の敵で,党の敵で,名誉ある政府の敵なのです」

「私たちはカブールに住んでいます.
 アフガニスタンの首都です.
 カブールは3500年の古い都です.
 150年以上前に,イギリス人が私たちの国を支配しようとしました.
 何度も何度も試してみましたが,いつもこの国の勇気ある男の人たちや女の人たちに追い出されました.
 今は,自由を愛するロシア人が私たちを助けに来ています」

「この絵は,私たちの素晴らしい祖国の名誉ある大統領であり,父親である方を示しています」

――――――『神様はアフガニスタンでは泣くばかり』(シバ・シャキブ著,現代人文社,2007.8.31),p.35

 ただし,証言が一つだけでは信頼性の点で心もとないため,今後もデータを積み重ねる予定.


 【質問】
 モジャデディは何故殺されたのか?

 【回答】
 経済学者で,元「パミール」紙編集長のモハマド・ハッサン・カリミによれば,タラキは,鎮圧によって死者の出た,反政府ストライキを宗教勢力の煽動だと濡れ衣を着せ,モジャデディを逮捕させたのだという.
 以下引用.

―――――――
 〔1978/5/1,〕アフガニスタンの新政権は「メーデー」を空前のスケールで祝った.
 高邁なスローガンが,存在しもしないプロレタリアートに浴びせかけられ,労働者のための様々な公約が次々と発表された.
 だが,早くもその日の午後,カブール北方50マイル(80キロ)のところにあるグルバハル紡績工場とジュンガラク繊維工場の労働者はストライキを決行した.
 このストライキは労働者と,共産主義者の手先との衝突に発展し,共産主義者7人,労働者12人が死亡するという騒ぎになった.
 〔略〕

 衝突の翌日,ヌール・モハマッド・タラキはテレビで,新体制に反対して聖職者が大衆煽動を行っていると非難した.
 これを聴いて,宗教指導者として知られ,人々の尊敬を集めていたモハマッド・イブラヒム・モジャデディは,タラキに面会を求めた.
 そしてこの非難は根拠のない中傷だと反駁し,当分の間,国外に出る旨の許可を求めた.
 タラキは偽善的であった.
 ほほえみながらモハマッド・イブラヒム・モジャデディの要望を全面的に受け入れ,彼と彼の家族の安全を保証した.
 モジャデディを安心させるために,タラキはさらに付け加えた.
「私が非難の対象にしたのはイスラム同胞団だ.
 彼らは過去数年にわたって,我々の党に対抗して闘っている.
 あなたを責めたのではない.
 昨夜,イスラム同胞団員を158人捕えた.
 彼らはやがて処分されるだろう」
 モジャデディはタラキの本心を見抜いたが,不動の姿勢を保っていた.

 この会見から6ヵ月後,タラキはモジャデディとその家族を逮捕し,財産を没収した.
 モジャデディ家の邸宅は駐車場になり,そこにあった見事なモスクは取り壊された.
 高潔,実直,神への深い崇拝,博識,献身的人道主義――モジャデディは完全なる人間としてのすべての属性を備えていた.

 彼を捕えたのは,その残忍さで知られていた警察・憲兵隊総司令のサエド・ダウド・タルンだった.
 この男は,のちに自分の仲間によって72発もの弾丸を浴びて殺されるのだが,この時,タルンは名状し難いほどの非人間的侮辱をモジャデディに与えた.
 そして彼が死ぬまで2ヶ月間に渡って拷問を続けた.
 彼の家族も同様であった.

――――――『危険の道』(モハマド・ハッサン・カリミ著,読売新聞社,1986.3.19),p.128-129

 【質問】
 カンダハル,ムーサカラの蜂起について教えられたし.

 【回答】
 タラキ政権の勝手気ままな政策を不名誉と受け取ったカンダハール周辺の住民蜂起.
 4日に渡って続いたが,共産政府軍は航空機や砲兵を動員し,これを鎮圧.
 住民側の死者は約3千人に達したほか,8千人が捕えられ,翌日,6千人が処刑されたという.

 以下引用.

――――――
 タラキ政権の役人たちは,政府軍と警察に守られながら,政府の発布する勝手気ままな政策を実行していた.
 70歳の老女が成人学校に通わされたり,若い女性は政府の選んだ相手と結婚させられた.
 カンダハル周辺の人々は一家の女の名誉を非常に重視し,傷がつくことを絶対に許さない.
 その名誉のために,彼らは地方役人を全員殺害してしまった.
 これに対し政府は,カブールから砲撃部隊,シンダンド空軍基地(訳注・西部のファラー州にあるイラン国境に近い基地)から航空機を派遣した.

 ムーサカラ,ラシュカルガー(以上ヘルマンド州),カンダハル(カンダハル州)の住民は4日間に渡って正々堂々の闘いを挑んだが,この地域の平らな地形は戦車と航空機の展開に有利であった.
 結局,多くの生命と財産が失われて戦闘は終わった.

 だが政府軍の顧問,ソ連人将校21人も殺害された.
 うち17人は食事中に,手投げ弾を持って飛び込んだ6人の住民に殺された.
 この中には准将も一人含まれていた.
 あとの4人は戦闘中に死んだ.
 ムーサカラの反乱では住民側の死者2892人,政府軍側死者651人に及んだ.
 また8千人が捕えられ,翌日,6千人が処刑された.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.142-143

 ただし同書は反共色が強いため,割り引いて考える必要があるだろう.


 【質問】
 プリクムリ蜂起について教えられたし.

 【回答】
 バグラン州ブリクムリにおいて起きた住民蜂起.
 「反イスラム的なため,国民に拒絶されていた新婚姻法の名のもとに,この役人は,町の近郊ダハナイグーリに住む長老マレク・アスラムの娘の名誉を傷つけた」ことがきっかけで発生し,共産党の役人一派が殺害された.
 そして蜂起はナーレインやバグランにも飛び火し,6日間に渡る戦闘の末,鎮圧されたという.

 以下引用.

――――――
 ヒンズークシの北方に位置するバグラン州の工業の町プリクムリは,戦略的に非常に重要である.
 2つの主要ハイウェイがこの町で合流する.
 1つはオクスス川沿いのシェルハーン港から,もう1つはマザリシャリフ,ハイラタン港からのハイウェイである.
 町には大規模セメント工場,大穀物倉庫,繊維工場があり,近くにはイシュプシャート,カルカルの2つの大きな炭鉱も控えている.

 プリクムリの蜂起のきっかけを作ったのは,新しく任命された共産主義者の地方役人だった.
 反イスラム的なため,国民に拒絶されていた新婚姻法の名のもとに,この役人は,町の近郊ダハナイグーリに住む長老マレク・アスラムの娘の名誉を傷つけた.
 その行為は伝統ともイスラムの教義とも対立するものだった.
 この出来事が導火線となって,住民に鬱積した不満が爆発した.
 まず,党の役人とその一派が殺害され,さらにクンドゥーズおよびハイラタン方面へのハイウェイをそれぞれ切断した.

 プリクムリの役人の話は,この地域一帯に瞬く間に広がり,隣のナーレインでは守備隊のイスラム教徒将校も住民側についた.
 地方役人やカブール政権のスパイや手先は,反乱の動きを知ってあちこちに逃げ隠れたが,引っ張り出されて殺された.
 バグラン市民もプリクムリ市民に続いて蜂起し,州知事を初めとする地方役人を殺害した.
 バグランはアフガニスタンで最も豊かと言われるバグラン州の州都である.
 周辺には広大な綿,砂糖大根の畑が広がり,製糖工場,綿の梱包・圧縮工場を備えている.
 プリクムリでは翌日も騒動が広がり,女性も火炎瓶で戦車を攻撃した.

 戦闘は6日間続き,最後には政府軍に追い散らされたが抵抗は継続した.
 政府軍は火元となったダハナイグーリには近付けず,その後,この町は自由の戦士ムジャヒディンの出撃基地の一つとなった.

――――――モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』(読売新聞社,1986.3.19),p.143-144

 ただし同書は反共色が強いため,割り引いて考える必要があるだろう.


 【質問】
 パンジシール蜂起のきっかけは?

 【回答】
 パンジシール住民がバザーラクの守備隊本部を襲撃したのがきっかけだという.
 以下引用.

 〔略〕
 1978年11月26日,夜の寒気がマルベリーやアプリコットの木の葉を金色に変え,トルコ・ブルーの空に輝いていた頃だった.
 パンジシール住民は真昼間,不意をついてバザーラクの守備隊本部を襲い,政府軍将校とソ連人軍事顧問を殺害した.
 民間人スタッフも容赦なく殺された.
 ムジャヒディン側の死者はわずか2人だった.
 この2人は襲撃直前にソ連人に近付き,地元産のペルチと呼ばれるエメラルドやルビーを見せて注意をそらせる役についていた.
 この奇襲で守備隊は制圧され,武装解除された.

 翌日,隣接するカピサ州住民とグルバハールの紡績工場労働者が地元共産主義者の大量処刑を行った.
 殺された中には,村長や警察署長もいた.
 パンジシールの蜂起は燎原の火のように,この地域一帯に広がった.
 パルワン,グルダラー,シンジドダラー,シャカルダラー,フェルザー,イスタリフ,ミルバチャコテ,カラカンの住民も武器を持って立ち上がった.
 バグラム空軍基地は包囲され,首都のすぐ北面での混乱ぶりは,カブール政府を大いに震撼させた.
 〔略〕

モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』
(読売新聞社,1986.3.19),p.145


 【質問】
 パクティアの反乱とは?

 【回答】
 少女への暴行事件を契機として発生した衝突事件.
 政府軍約5百,ソ連兵約50,住人5千人以上が死亡したという.

 以下引用.

 パクチアの反乱のきっかけとなった出来事は,ある晴れた朝のことだった.
 少女たちが泉の水を桶に汲んで家に向かう途中,ジャドラン地区(訳注:パクチア州中央部)駐留のソ連人軍事顧問が乗ったジープに出会った.
 ソ連人たちは少女の一団を見てジープを止め,案内兼通訳を介して尋問を始めた.
 ところが少女たちは,尋問をしているのがソ連人だと分かると口汚く罵った.
 怒ったソ連人の一人が,少女の一人の束ねた髪を掴んで顔をひっぱたいた.
 知らせを受けた村の男2人が,銃を持って直ちに現場に駆けつけ,瞬く間にソ連人将校2人を射殺し,1人を負傷させた.
 負傷した将校それに案内兼通訳と運転手は捕らえられ,将校は村人たちに撲殺された.

 この事件は野火のようにパクチア州全体に伝わった.
 これがきっかけとなり,ジャドランとマンガルの村人4千人による州都ガルデズの守備隊本部と政府建物の包囲攻撃にまで発展した.
 ガルデス市長もこの攻撃に加わった.

 政府は救援のため,カブールから戦車隊を派遣したが,カブールとバクチア州の中間のロガール州で待ち構えていたアーメドザイ・ワジールの村人の攻撃を受け,18台の戦車を破壊された.
 動けなくなった戦車が道路をブロックし,政府軍側は身動きできない状態になった.
 政府はこの事態を打開するため,新たに300台の戦車を派遣し,ロガールの村村の破壊攻撃を開始した.
 この攻撃によって逆に,アーメドザイ周辺の全住民も結集して蜂起することになった.
 ジハード(聖戦)を宣言した彼らは,直ちに共産主義政権の役人全員を殺害した.
 このときの住民の政府に対する敵意は凄まじいものだった.
 ある父親は自分の息子ですら,共産政権に関わっていたとして自らの手で射殺してしまった.

 住民の武装蜂起で政府側はカブールからガルデズへの地上支援ができなくなり,包囲されたガルデズの守備隊にはヘリコプターのピストン往復で弾薬,その他の物資が補給された.

 このころ,パクチア州ジャドランのムジャヒディンは,パキスタン国境沿いのジャジの守備隊を難なく攻略した.
 これは政府軍兵士が自発的にムジャヒディン側に寝返ったためだった.
 ジャドラン住民は6人のソ連人軍事顧問を処刑し,大量の武器・弾薬を奪取した.
 その頃,ロガールではソ連製戦車が新型Mi24武装ヘリの支援を受けて大量虐殺を行っていた.
 これに対抗して,ついに女性も火炎瓶を持って戦闘に参加した.
 彼女たちは,灯油を浸み込ませた毛布を敵の戦車に投げつけて,火をつけた.

 戦闘は3週間にわたって続いた.
 政府軍がやっとロガール州を制圧したとき,住民4632人が殺されていた.
 政府軍側の死者は492人だった.
 ソ連兵は53人,ほとんどが戦車の乗員だった.
 政府軍は住民6千人を捕え,後にそのほとんどを処刑した.

 だが,ガルデズはムジャヒディンに包囲されたままであった.
 政府軍にとってはその後,12月の酷寒とサタカンドゥ峠(訳注・ロガール・パクチア州境)の積雪もパクチア州制圧の大きな障害となった.

モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』
(読売新聞社,1986.3.19),p.149-151

 ただし,上記中の「戦車」というのは「戦闘車両」の間違いではないかと考えられる.
 戦車であるなら,戦果がゲリラ戦にしてはやけに大き過ぎる.


 【質問】
 ハザラジャートの暴動は何故起こったのか?

 【回答】
 共産政権が炭鉱労働者に対し,残酷な扱いをしたため.
 さらに州知事による宗教侮辱発言が火に油を注いだため,暴動はダラヒソーフ炭鉱のみならず,サマンガン州に広く広がり,さらには隣のワルダク州にも飛び火したという.

 以下引用.

 〔略〕
 アフガニスタン北部のサマンガン州ダラヒソーフには非常に重要な炭鉱があり,ここでもハザラ系住民は働いている.
 この炭鉱で,共産主義者はハザラ労働者に対し,ひどく残酷な扱いをした.
 誇りを傷つけられたハザラ労働者たちは,手に持てるものならなんでも,ツルハシ,シャベル,ありとあらゆる掘削道具を武器にして抑圧者たちに襲いかかった.
 この暴動で,ソ連人技師,技術者,顧問,政府役人など33人が殺害され,何人かは生皮を剥がされ,肉屋の店頭にぶら下げられた.

 州中央部の町アイバクにも暴動が広がり,地元の役人や人民民主党員が襲われた.
 それはちょうど,カブール政府の指示でサマンガン州知事が地元警察司令官と地元住民の集会を訪れたときだった.
 経験不足で緊張していたこの州知事は,集会の演説で決定的な失敗を犯した.
 お祈りをするくらいなら,まず生産的作業に時間を使うべきだと言ってしまったのだ.

 目撃者によれば,州知事に同行してきた2人の警護官の内の一人が,この文字通り異教徒的発言を聞いて突然怒り出し,集会に集まった人々に向かって
「こんな侮辱を黙って聞いていられるのか」
と叫んだ.
 この男は興奮して,州知事を銃剣の先に引っ掛けて群衆の中に放りこんだ.
 続いてもう一人の警護官が,警察司令官を同じように放り出した.
 会場はあっという間に地獄絵図と化し,そこにいた役人全員とその家族たちも嬲り殺しにあった.
 〔略〕

 このあと,情勢はさらに悪化し,ダラヒソーフとタシュクルガン(コルム)の住民は共同行動をとり,マザリシャリフなどアフガニスタン北部一帯にソ連の軍事物資を供給する生命線であるハイラタン・ハイウェイを切断した.
 切断個所はサマンガン(コルム)川が流れるタシュクルガン峡谷だった.
 これに対し,タラキの要請を受けたソ連の将軍は,ミグ21戦闘機20機,Mi24ヘリ14機を派遣し,ダラヒソーフおよびタシュクルガン地域の村村を徹底的に破壊した.
 この爆撃は数週間続き,数千人のハザラ系,タジク系住民と無数の家畜が虐殺された.

 ソ連はこのとき初めてナパーム弾と化学兵器を使った.
 この悪魔の道具は79年に,クナール,ヌーリスタン,パクチア,カンダハルでも使われた.

 この空爆で怒り狂ったハザラ系住民は,ワルダク州との数千人の連合軍を結成し,カブール西部の夏の保養地パグマンに攻め入った.
 この戦闘でも地上戦はムジャヒディン側が圧勝した.
 だが政府軍は空爆で反撃し,ムジャヒディンが首都カブールに進攻するのをとどめた.
 しかしながら,公園や泉がしつらえられた美しい保養地パグマンは,完全な瓦礫と化した.

モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』
(読売新聞社,1986.3.19),p.152-154


 【質問】
 ラグマン暴動とは?

 【回答】
 1979年3月17日,アフガニスタン東部,ラグマン州で起きた反共暴動.
 新任の州知事が殺害された他,住民側は数千人が虐殺されたという.

 以下引用.

 アフガニスタン東部のラグマン州は,戦略的要衝ジャララバードのあるナンガルハル州の北に位置し,アリンガル,アリシング両川の水が流れ込む大きな峡谷から成り立っている.
 ラグマンは米の産地として有名で,数種類の米が耕作されている.

 騒動は1979年3月17日の金曜日,悪名高い司法相(訳注:アブドゥル・ハキーム・ジョズジャニ)の近い親戚に当たる新しい州知事が,ティグリのモスクに現れたときに始まった.
 金曜日の礼拝のため,多くの住民が集まっていた.
 知事はもったいぶった演説で,ヌール・モハマッド・タラキの人柄を誉めそやかし,同時にレーニンを「人類の偉大な指導者」と表現した.
 モスクで,しかも金曜礼拝の場でなされたこの演説は,熱狂的なイスラム教徒の怒りに火をつけた.

 集会の前列にいた多数の長老は,神を冒涜する声明に抗議して席を立った.
 経験に乏しい知事は,その理由がすぐに分からず,腹を立て,イスラムの教義を批判しあざけり,その上,武装した警護隊に誰もモスクから出て行かせないよう命令した.
 警護隊が長老を取り押さえるや否や,集まった人々は「アラー・アクバル」(神は偉大なり)と叫び知事に襲いかかった.
 モスクの外にいた警官たちも,武器を持たないイスラム教徒に加わった.
 怒り狂った群集は,知事のほか役人11人,警護員4人を殺害した.
 イスラム教徒は21人が死亡した.

 このため,その前の週にジャララバード(訳注:隣のナンガルハル州)に送られた新型Mi24武装ヘリ40機と自動化連帯にラグマン住民攻撃の指令が出た.
 この攻撃で数千人が虐殺された.
 かつて人々で賑わい,緑豊かだったラグマン峡谷には,腐乱する死体が散乱した.
 多くの人々が共産主義者の手で生き埋めにされた,との報告もあった.

モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』
(読売新聞社,1986.3.19),p.158-159


 【質問】
 チャンダワル蜂起とは?

 【回答】
 カブール旧市街の一角,チャンダワルで起きた,ハザラ系住民による蜂起.
 鎮圧には延べ3日かかった.
 その後,5千人以上の住民が処刑されたという.

 以下引用.

 カブール旧市街の一角にチャンダワルという地域がある.
 ジャデマイワンドの名でも知られる土地で,カブール川沿いのシェルダルワゼー丘に近い.
 ここのほとんどの住民は,イスラム教少数派のシーア派を信仰するハザラ系の人々であった.
 彼らはまず,共産政権の役人を手当たり次第に殺害し,警察署を襲って武器と弾薬を略奪した.
 タラキはソ連人が指揮する部隊を派遣し,反乱地区にある1万戸の家屋の破壊と叛徒の殺害を命じた.
 完全装備の政府軍と実質的には素手のチャンダワル住民の戦闘は,1979年6月23日に始まった.
 最初の衝突は6時間続き,午後3時に終わった.
 政府軍はソ連人将校7人,政府軍兵士53人の死体を残したまま,いったん引き上げた.
 この時,チャンダワルのムジャヒディンたちは政府軍から大量の武器,弾薬を奪うのに成功した.

 午後4時,政府軍は再び攻撃を開始した.
 Mi24武装ヘリと戦車40台がこれを支援し,日没と共にカルガ師団がチャンダワルを包囲した.
 そのあと夜通し,決着のつかないまま白兵戦が展開された.
 シーア派住民たちは恐るべき勇猛さで,武力に関しては圧倒的に不利な戦闘を戦い抜いた.
 大砲のうなり,機関銃やロケット砲の音がカブール中に響き渡り,市民は一晩中起きて成り行きを見守っていた.

 翌24日朝,政府軍はシェルダルワゼー丘を占拠し,チャンダワルを4方面から攻撃した.
 このときも住民は徹底的に抗戦し,政府軍がやっとチャンダワル占拠に成功したのは,その翌々日の26日の午後になってからであった.
 政府軍側がチャンダワル占拠にこぎつけたのは,住民側が弾薬を撃ち尽くしてしまったからに過ぎなかった.
 政府軍は直ちに5千人以上の住民を捕え,処刑した.

モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』
(読売新聞社,1986.3.19),p.161-162

 ただし,証言が一つだけでは信頼性の点で心もとないため,今後もデータを積み重ねる予定.


 【質問】
 「チャグハセライの勝利」とは?

 【回答】
 共産政府軍がチャグハセライの町で,ムジャヒディンの待ち伏せ攻撃を受け包囲された戦い.
 歴戦のソ連人将校が指揮しながら政府軍が敗北したことに,ソ連は衝撃を受けたという.

 以下引用.

 〔略〕
 〔アフ【ガ】ーニスタン東部,〕サフィとクナールの住民は,共産主義と外国支配に対しジハード(聖戦)を宣言し,地元の役人や人民民主党員を全員殺害し,ジャララバードへ進攻した.
 カブールのソ連大使館はこの報告に驚かされ,モスクワに,ソ連人将校を前線へ派遣する許可を求めた.
 ポザノフ大使の要請を受けたクレムリンは,キューバでめざましい成功をおさめた,ソ連でも最も経験豊かな将軍を派遣し,アフガニスタンの軍と行政部門の再編成に当たらせることにした.
 全権を与えられたこの将軍は,「人民の家」と名前を変えられたアルグ宮殿(大統領府)に本部を設置し,アフガニスタン各地のムジャヒディン掃討作戦を練った.
 検討の結果,アフガニスタン政府軍とジャララバードに本部を置く第11装甲師団に,クナール州の州都サーダバードの攻撃を命じた.
 だが赴任したばかりのこの将軍は,アフガニスタン人の不屈の精神についても,キューバとの違いについても,まったく理解していなかった.
 彼が実に無謀な命令を下し,それが大失敗に終わろうとは思ってもみなかったであろう.

 政府軍は,ジャララバードとサーダバードの中間の戦略上重要な町チャグハセライで,ムジャヒディンの待ち伏せ攻撃を受け包囲された.
 ムジャヒディンは「アラー・アクバル」を叫びながら政府軍に襲いかかった.
 中央守備隊に所属していたイスラム教徒の将兵も,ゲリラ側に寝返ってこの攻撃に加わった.
 ソ連の将校は多数のアフガニスタン兵と共に殺され,生き残った兵も大損害を蒙って撃退された.
 「チャグハセライの勝利」で,アフガニスタンの民族主義者たちは莫大な量の銃と弾薬を,敵の贈り物として受け取った.
 ソ連人将校が指揮しながら政府軍が敗北したことは,ソ連にとって大きな衝撃となり,それまでの見込み違いを身をもって知らされた.
 新任のソ連の将軍は,失地回復のために軍の再編に乗り出さざるをえなくなった.

 「チャグハセライの勝利」に続き,クギアニ,パイワル,ジャララバード,サロビ,テジンの住民もサフィとクナールの住民の支援で立ち上がり,首都カブールとパキスタンを結ぶ最重要道路(カブール=ジャララバード=カイバル峠=ペシャワル)を切断した.
 〔略〕

モハマド・ハッサン・カリミ=経済学者・元「パミール」紙編集長=著『危険の道』
(読売新聞社,1986.3.19),p.163-165


 【質問】
 なぜタラキは殺害されたのか?

 【回答】
 以前から対立があったところに,偶発事件(?)が起こり,武力衝突となった結果だという.

 革命政権は前述〔割愛〕のように,以前からハルク派とパルチャム派の対立が根底にあった.その上,ハルク派内部でタラキとアミンの対立が火を噴いた.
 クレムリンの意向を受けて,パザノフ駐アフガン・ソ連大使が両者の仲介を行ったが,伝えられるところでは,アミンの護衛官がタラキの護衛官に射殺される事件が生じた.
 そのため,アミンは自派の軍隊を動員,タラキ一派を大統領官邸に包囲し,混乱の中でタラキは負傷し,9月17日,死亡した.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.125)


 【質問】
 アミンはどんな人物か?

 【回答】
 ハフィジイラー・アミン Hafizullah Amin は,1929年,カーブル生まれ.
 カーブル大学卒業後,米国コロンビア大学卒(教育学専攻).
 カーブル教員養成大学副学長,教育省初等教育局長を歴任,国会議員となった.
 1978年のクーデターで副首相兼外相に就任.
 以上のように典型的インテリで,性格的にも教育者に時としてある狂信的理想主義者だったと見られる.

 以上は,松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」(光人社文庫,2002/1/18,p.123)より抜粋.


 【質問】
 アミンはソ連にとって歓迎すべき存在だったか?

 【回答】
 独自路線をとろうとするなど,必ずしもそうとは言えなかった.
 以下ソース.

1979年9月17日,ハフィズ・アミンは,タラキに不満を持つ,アフガン軍の約半数5万人を味方につけ,クーデターを起こし,政権を握った.
 アミンのクーデター成功は,ソ連を困惑させた.
 アミンはタラキと違って,人民民主党の大半の支持を得ており,国防相としてアフガン政府の多数の支持を得ていた.
 さらに,ソ連が握っていたアフガン政治警察に頼る危険性を知っており,新たに政治警察を新設するに至った.

 ソ連の外国支配の要は,旧東欧諸国の支配に見られるように,軍と警察を握ることにあった.
 アミンの登場は,これを壊すものであった.
 アミン政権は実質的に,脱ソ連の自主独立路線を採り始めたのである.

 〔略〕

 そこで79年11月,パプーチン・ソ連邦内務省第1次官が派遣され,アミンと会談している.
 ここで注目すべきは,内務省高官が派遣されたということであろう.
 MVD=ソ連邦内務省とは,ミリシャ(一般警察)の指揮管理,国内警備,ラーゲリ(強制収容所)の管理などを任務としている官庁.
 対外的工作と国内の高等治安はKGB=国家保安委員会の任務であり,実際KGBは,東欧,キューバ,モンゴルなど,ソ連圏諸国の治安機関,情報機関に顧問を送り込み,指導していた.

 かつてMVDは,ソ連の独裁者スターリンが死んだ後,1953〜54年に中央アジアで発生した大規模な人民蜂起に対し,V・V=国内軍と言われる治安軍を投入し,その重装備で鎮圧した実績がある.
 V・Vは今日,チェチェン紛争などで活躍している.
 そうした点を買われて,MVDの第1次官たるパプーチンMVD中将が送り込まれ,ソ連領中央アジアと同じ民族が多く,かつ同じイスラム教を奉じるアフガン反政府部族の鎮圧とアフガンの治安機関再編成のための会談に当たったと見るべきであろう.

 だが,パプーチンの使命は失敗したと推察される.
 アミンはパプーチンの提案,特に,アミンの創設した政治警察の統合または廃止に強く反対したと見られる.
 暫く後,ソ連がアフガンへ軍事介入を行った翌日,MVD第1次官パプーチン中将は「死亡」と発表された.
 おそらく,使命達成に失敗したパプーチンは,自殺に追い込まれたと見られる.
 ソ連流の厳しい実績主義人事の犠牲となったのであろう.

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」
光人社文庫,2002/1/18,p.123-125)

ロシア国内軍


 【質問】
 アミンという名前がウガンダのほうのアミン大統領とまぎらわしいのですが,どうにかなりませんか?

 【回答】
 そうですね,まずアミン大統領御本人に,改名を依頼してみましょう.
 ……と思って当人を探したのですが,発見できませんでした.どうやらすでに故人と思われます.

 次に,アミンを他の表記をしてある書籍を探してみましたが,当方所有のダリー語会話帖をはじめ,アミン以外の表記をしてある書籍は皆無でした.

 第3に,アミーンまたはアーミンと表記を変更する事を検討してみましたが,
・エジプトの知識人アフマド・アミーンと紛らわしい
・パレスチナ人民族主義者アミーン・アル・フサイニと紛らわしい
・アッバース朝の第6代カリフ,アミーンと紛らわしい
・岡田あーみんと紛らわしい
・柴田亜美のニックネーム「あーみん」と紛らわしい.
等の弊害が予想されます.

 以上,3つの理由により,変更はしないほうがよいのではないかと愚考いたします.

 「アミン」が日本では一般的ゆえ,それを変えると,かえって「アフガニスタンのアミン大統領」について検索している人が,このサイトを見つけることができなくなりますし.


 【質問】
 駐アフ【ガ】ーニスタン・アメリカ大使誘拐事件とは?

 【回答】
 1979年2月,カーブルが不穏な状況にある中,米大使がマオイスト派の反政府軍によって誘拐された事件.
 政府はサランドイ警備隊を使い,救出作戦を決行したが,作戦は失敗して大使は殺害された.
 失敗の原因として,同隊は前身が西ドイツと連合していた憲兵だったにも関わらず,政変後は東ドイツによる訓練に変えられたためと考えられる.

 デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.28-29に,この件に関する記述がある.
 フランソワ・ミッセン著『地獄からの証言』のほうは,ほとんど「事件があった」ということのみの記述しかない.


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