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「朝鮮日報」◆(2013/04/14) 「北朝鮮による親日派徹底清算はウソ,韓国の方が徹底的に親日派を断罪した」
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『朝鮮総督府官僚の統治構想』(李炯植著,吉川弘文館,2013/2/20)

『朝鮮独立運動と東アジア 1910-1925』(小野容照著,思文閣出版,2013/3/30)

『秘録・日韓1兆円資金』を読み解く (2013/02/03)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」

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 【質問】
 日韓併合前後の朝鮮社会の様子は?

 【回答】
 華僑は,明治初期から来日し,緩やかに増えて来た訳ですが,第二次大戦の徴用でドンッと多くなり,台湾が中国に帰属した時点で更に増え,以後,中国や台湾への帰還などで可成り減って,現在では東京,横浜,大阪,神戸,長崎と言った限られた地点で生活し,それでも日本社会との折り合いをある程度の階層の人々は付けてきていた訳です.
 …バブル以降の最近の流れは又別なので置いておいて….

 一方の朝鮮人は,屡々此処でも取り上げていますが,日韓併合以降に纏まった来日者が増え,1917年に在留者が1万人を超えて在日朝鮮人社会が成立し,その後,日本が戦争に突入するとどんどん増していき,1945年には約230万人を数え,日本の敗戦に伴う帰国で60万人に減少しました.
 在日朝鮮人は全都道府県に居住し,その地域で独自のCommunityを作っています.

 1910年から1945年まで,朝鮮半島は日本の植民地として領有されていた訳ですが,この35年間,最後の10年は北部の豊富な水力発電を利用した工業化が一部で見られますが,産業の基調は農業であり,朝鮮人人口の80%が農民でした.
 李氏朝鮮時代は,南部で米・麦,北部では米が栽培出来ないので,麦・粟・稗・玉蜀黍・豆が育てられていました.
 特に大豆は良質で,日本に移出されていましたし,味噌の原料にもなっていました.
 副食用には白菜,固有種の朝鮮大根,唐辛子などが栽培され,家畜としてはその土地や気候条件から牛が必需品とされており,牛を飼育する農家が多数を占めました.

 海に面した半農半漁の村であれば,鱈や鰯の漁獲を得て,これを干し魚にして内陸で売り捌くことでも生計を立てていました.
 農民達は自分の収穫した農産物からマッカリを作り,そのマッカリを飲ませる酒屋が農村にもありました.
 勿論,物資が豊富であることから農産品の取引を行う商業も盛んで,各地に市が立ち,牛の市場も各地に出来ていました.

 農民達の主食は1日2〜3食で,主食はその地で生産される米,麦,粟が主で,副食は味噌(テンジャン),キムチなどの漬物類が中心でした.
 階層に拘わらず温飯が中心ですが,これは他の食材を混ぜて炊く混飯の為と考えられています.
 副食については,肉や魚を常食していたのは地主,自作農であり,小作農は主食の他,蛋白源として味噌を摂取し,漬物類を食べて栄養を補給し,偶に干し魚が食卓に載る程度でしたが,日本の小作農と違い,救荒作物の利用は広範で多面的であり,紫蘇科の植物である荏胡麻の葉や松の葉,漢方薬にもなる桔梗の根など多種の植物を食用に転化しています.
 又,当然のことながら,近在の川,田で捕獲出来る魚介類,山に自生する葡萄や茸類を利用していました.

 衣類は自家製で,女性が糸を紡ぎ家族の需要を賄い,女性はチマ・チョゴリ,男性はツルマギ・パジを着るのが基本でしたが,後に日本から安い繊維製品が入ってくるのと,戦争による統制経済で個別の家での繊維生産が出来なくなり,こうした光景は見られなくなります.

 地主階層は,李氏朝鮮末期の1894年には既に制度的なものは崩壊していましたが,経済的な基盤の地主制度が残っていた為,両班(ヤンパン)階層と呼ばれる文官・武官の出身者が主で,彼等が支配階層として農村社会に君臨していました.
 地主には,在地地主と都市に住む大地主(不在地主)の2種類がおり,農村には地主(在地地主の場合),大地主の代理人である舎音と言う土地管理者,自作農,小作農,更に農業労働者が居て,山村には火田民が焼畑農業を営んでいました.

 耕地面積当りの収穫率は,1反歩当り日本を100とすれば,米63%,麦は47%にしかならなかったりします.
 従って,小作農でも自分用に2町歩前後を耕作しているのが一般的でした.
 自作農には自分で耕作するだけでなく,自分で耕作しきれない土地を耕作する農業労働者を雇うケースが多く,年間を通じて雇う年雇労働者,農繁期など季節のみ雇う季節雇がいました.
 農村女性も農業労働の重要な担い手でしたが,南部一部地域では例外もあったようです.
 又,小作農にも2種類あって,耕地面積が大きく,経営が安定している農民と,耕地面積が少なく,負債の多い農民がいました.
 後者の場合は,秋に出来た収穫物を次の収穫期に迄保たすことが出来ずに食糧が尽き,春の4〜6月には「絶糧農家」「春窮農家」となり,彼等は木皮草根を集めて食糧を確保する必要がありました.
 逆に言えば,こうした事態が日常茶飯だったことから,救荒作物についての知識が蓄積されたのですが….
 それでも,食糧が確保出来ない状況に陥ると,離村して農業労働者として別の地に流れていくとか,一家離散して流浪する人々が出て,その一部が都市部に流れ込み,住居の形態から「土幕民」と呼ばれる下層社会が周辺部でスラムを形成していました.

 因みに,時代が下りますが,春窮の戸数は1933年1月の段階で総農家数の43.8%に達していたと言うデータもあります.

 学校制度について見てみると,朝鮮総督府は公学校→小学校→国民学校へと変遷した所謂近代学校の制度を整えていましたが,初期の段階から,後年に至るまで,主流を為したのは「書堂」と呼ばれる初等教育機関です.
 これらの規模は小さく,漢文や習字教育が中心で,日本の「読み・書き・算盤」の算盤は無かったのですが,1920年代でも実に25,000カ所に上っており,この教育を通して漢字,漢文の理解水準は高く,小作農迄の農民は極めて教育に熱心であったことが伺えます.
 因みに,当初は,朝鮮総督府は近代学校制度下の教育を余り重視していなかったのですが,1930年代に皇民化教育の必要性,戦時体制下に於ける,工場労働などに動員する際の教育,更には太平洋戦争が始まって,徴兵を実施する必要があるなどの種々の要因があり,朝鮮人の義務教育化方針が打ち出されました.
 但し,これは実現していませんが….

 20世紀初頭はある程度安定した状態の社会でしたが,此処に日本人が入り込んで来た時点で,その微妙なバランスが崩れ,彼等を移動に駆り立てる事になっていくのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/13 21:40

 基本資料は,「日本の朝鮮・韓国人」(樋口雄一著 同成社刊)に依っています.
 後,「差別から見る日本の歴史」(ひろたまさき著 解放出版社刊)を用いています.

 何処かでウトロ地区とか,鶴橋の朝鮮人集落の話を取り上げる予定ですが,この部分の出典は,多分「モダン都市の系譜」(ナカニシヤ出版)となる予定.

差出人 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2008年10月31日 23時52分


 【質問】
 ニュー速〔2ちゃんねる掲示板@ニュース速報〕
「日韓併合は韓国側の要請で行ったんだ!」
って言ってる人が多いんですが本当ですか?
 イギリスの植民地みたいに,国内の警察から徴税権に到るまで行政機能を譲渡したとしても,併合を自分から申し出るものなの?
人口の半分が自民族とかなら分かるけど・・・

 【回答】
 韓国側に日韓併合を望んだ人もいたのは本当だ.
 もちろんそうでない人もいた.
 それ以前の朝鮮は長年の鎖国政策のせいで近代化に遅れ,親露派,親清派,親日派が入り乱れての権力闘争が続いていたが,日清戦争・日露戦争などの対外情勢を受けて,親日派が主導権を握ったということ.

1873年,閔氏一族により大院君失脚する.
1884年,李氏朝鮮は第一銀行に関税収入の管理を委託する.
1894年,甲午農民戦争が勃発.閔氏政権は,清国に援軍を要請する.
1895年,閔妃暗殺事件が起きる.
1896年,高宗は露西亜と内通し露西亜公私館で執政.露西亜に鉱山採掘権・山林伐採権・鉄道敷設権を売り飛ばす.
1902年,第一銀行券が韓国政府公認紙幣として発行・流通する.
1907年,高宗はハーグ密使事件を起こすが列強から相手にされず.
 失敗したクーデター等は省略したが李氏朝鮮の最後はこんな調子だ.

 んで,1910年時点で韓国はすでに日本の保護国.
 韓国政府に日本側の強い圧力があったことは明らか.

 例えばハワイがアメリカに併合されたのも,ハワイにそれを望んだ人が勢力を伸ばしたというわけで,世界史においては全然珍しくも無い有り触れた話なのだ.

世界史板
青文字:加筆改修部分

併合の模様
(うそ)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 韓国併合後の朝鮮半島への日本人の進出ぶりは,どのようなものだったのか?

 【回答】
 1910年に日本が「韓国併合」をすると,新天地に対して,日本から移民が入って行きます.
 1910年には朝鮮人人口が約1,313万人だったのに対し,日本人は17.1万人.
 1914年に朝鮮人人口が約1,562万人に増加したのに対し,日本人は29.1万人と一気に増加します.
 以後,4年毎に朝鮮人人口は100万人づつ増えていきますが,日本人も6万人づつ増えて行きます.
 最盛期は,1942年で,朝鮮人人口が約2,552万人に対し,日本人人口は75.3万人に達していました.
逆に言えば,朝鮮に於ける日本人人口が増えるにつれて,日本に於ける朝鮮人人口が増えていったとも言えます.

 1942年末現在での社会構成は,朝鮮人の68%が農民であり,工業従事者が7%,商業従事者が7%,公務員・自由業が4%,水産業と鉱業従事者がそれぞれ2%,交通業従事者が1%,その他有業者が9%で無業者が2%となっていました.
 同じく,1942年末現在の朝鮮に於ける日本人の社会構成は,40%が公務員・自由業で,工業従事者が19%,商業従事者が18%,交通業従事者が7%,農業従事者は僅かに4%,鉱業従事者が3%,水産業従事者が1%となっており,その他有業者が4%,無業者が4%となっていました.

 即ち,朝鮮に於ける日本人の大半は,支配機構である総督府の官僚,警察官,商人,資本家と言ったホワイトカラーで占められていました.
 彼等は朝鮮総督府機構の有りと有らゆる段階の行政機関の中枢に職を得ており,末端に於ても警察官として,行政の尖兵に立ち,朝鮮人を統制していました.
 警察官は,主要な邑,里などの地域に配属され,朝鮮人が日本に渡航する場合は,駐在の警察官に渡航証明を得なければ渡航出来ませんでしたし,日本に渡航した彼等が郷里と往復する際にも警察官の渡航証明が必要であるなど,警察官の権限は非常に強いものがありました.
 教育の現場についても,校長,教員の主要部分は日本人が占めており,日本語の普及や朝鮮人の日本化政策に大きな力を持っていました.

 土地との関係で言えば,日本の農民は朝鮮に渡った日本人のうち,僅かに4%しか占めていません.
 しかし,1911年,韓国併合直後に実施された全国土地調査事業では,全国422万町歩の土地の内,国有地が27万町歩,日本人所有地が24万町歩となって,日本人の土地所有を合法化したものとなりました.
 更に,日本人は国有地を合法的に払い下げるなどして,朝鮮に広大な土地を保有することになります.
 結果的にこの日本人の土地支配は,地主階級の再編成が為される事となり,従来,朝鮮人地主の下で,安定的な小作を行ってきた小作人,特に上層小作人が小作権を喪失するなど,小作農に大きな影響を与えることになります.

 1930年末になると,日本人農家10,505戸の大半は,農業を目的に移住した人々ですが,彼等は大地主となり,主に朝鮮人小作人を雇傭していました.
 彼等の出身は,中国・四国・九州と言った西国地区からの移住者が多く,農業だけでなく,漁業に於ても,四国・九州地区の漁民が朝鮮に移住したりしています.
 彼等が土地を買う資本については,地方の資産家,各県に置かれた移民会社,東京にある財閥や横浜の商人などが出資し,資本を余り持たない朝鮮人から土地を買い取った訳です.

 特に大きな地主としては,1918年に設立された国策会社である東洋拓殖株式会社,不二農場が挙げられます.
 彼等は広大な土地を持ち,多数の朝鮮人小作人を雇傭していました.
 そして,その有り様が,朝鮮人の日本渡航を促進した一面を持っています.

 繰り返しになりますが,朝鮮に於て,日本人の殆どはその支配中枢を担い,朝鮮人の多数を占める農民層よりも良い生活水準を維持しており,朝鮮での豊かな生活と利益を享受していました.
 そして,彼等が故郷に送った便りを通じて,或いは故郷に錦を飾った際に朝鮮の実情を知らせ,それが日本人の朝鮮観や在日朝鮮観を形成する上での重要な役割を果たしたと言えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/14 22:35

 基本資料は,「日本の朝鮮・韓国人」(樋口雄一著 同成社刊)に依っています.
 後,「差別から見る日本の歴史」(ひろたまさき著 解放出版社刊)を用いています.

 何処かでウトロ地区とか,鶴橋の朝鮮人集落の話を取り上げる予定ですが,この部分の出典は,多分「モダン都市の系譜」(ナカニシヤ出版)となる予定.

差出人 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2008年10月31日 23時52分


 【質問】
 日韓併合以後の,韓国の度量衡の状況は?

 【回答】
 1910年の韓国併合により,日本は朝鮮半島を直接統治下に置くことになります.
 これにより,日本の度量衡制度は,より明確な形で朝鮮半島に流入することになりました.

 日本に於いては,度量衡制の改革は1870年代に既に手を付けられており,不平等条約改正を目指す日本政府は,西洋の基準で文明標準である物事を順次導入していき,その一環で,自然由来のメートル法を主体的に導入していきます.
 李氏朝鮮や大韓帝国でも,その動きはありましたが,どちらかと言えば消極的な動きであり,日本の模倣によりメートル法を導入しようとしました.

 しかし,それはあくまでも1つの試みにしか過ぎず,実際に導入されたのは植民地化されてからの事になります.
 これは,上からの改革が,全面的かつ強制的に行われるからであり,総督府は日本政府の意図に遙かに敏感で,また,朝鮮社会の内的論理では無く,帝国全体の標準と統一性を重視して,こうした改革を行います.

 勿論,今までの度量衡制よりも,メートル法は遙かに革新的なものでした.
 それは,確実な根拠に依ったもので,世界で通用し,計算が迅速に出来,易解易算の便を有し,面倒な換算が不要で,巨細計算全てに適し,度量衡相互間に連絡し,学俗が一致する上,教育上簡便で,作業上経済的で能率が上がると喧伝されました.

 とは言え,朝鮮半島でメートル法の全面的導入が行われたのは,1926年2月の朝鮮度量衡令に依るもので,併合からかなり後の話です.
 日本では,既に1920年に度量衡法が改正され,メートル法の専用が推進されていました.
 朝鮮度量衡令では,メートルとキログラムを長さ,体積,重さの基本単位と規定しただけで無く,温度,密度,圧力,仕事率にまで拡げてメートル法を導入しました.
 但し,この規則自体はメートル法を唯一の法定度量衡と定めたものの,その専用を直ぐ様強制したわけではありませんでした.

 つまり,経過措置として官公庁と電気・瓦斯・水道・原動機事業などには1939年6月末まで,それ以外には1944年6月末まで従来慣用してきた尺貫法やヤード・ポンド系の単位を併用出来ることとしています.

 朝鮮総督府では,1927年から穀物の販売になどに於いて,メートル法の使用を積極的に推奨しました.
 しかし,その全面実施には,メートル系度量衡器の新規製作,尺貫法に記録された土地台帳とその他の公文書書換,大衆教育など途方も無い費用が予想されましたし,現在の植民地の状況では,この様な改革を行う事が,伝統と慣習の破壊を目論見る陰謀として朝鮮人民に理解され,その抵抗を招く可能性がありました.
 勿論,日本本土に渡った朝鮮人民が多い状況では,本土でも同様の可能性が考えられましたが,他国の植民地政府が常に強権を発動して,政策を推進していくのと同じように,総督府は朝鮮に於いて本国より更に強力にメートル法の使用を強制する意思を表していました.

 とは言え,度量衡器の新規製作や公文書書換,大衆教育の為の費用捻出などの問題が大きく伸し掛かり,1933年11月末,結局は社会全体でメートル法を利用する時期を,1946年3月末までに延期としました.
 尤も,その後の日本の状況を見れば,平和時でさえ費用捻出が厳しいのに,満州事変以来の財政圧迫や恐慌による景気悪化などに伴う,税収不足などの要因で,その実現時期は更に遠のいた可能性があります.

 勿論,戦時体制下では,軍需産業のニーズとして,メートル法の専用を通じた標準化や度量衡の統一が要求されましたが,それにより予想される利益よりも,社会的費用が遙かに大きなものとして伸し掛かっていました.

 1945年8月15日,日本は降伏し,朝鮮半島は植民地からの解放が為されます.
 結局,日本によるメートル法の専用は実施されませんでした.
 しかし,その後新たな支配者となった米国軍政府により,1946年4月に,朝鮮半島南半分では,米国式,日本式,伝統的朝鮮式,中国式度量衡を全て禁じ,メートル法の排他的使用が宣言されました.
 その後,朝鮮戦争などの混乱を経た為,1961年に至るまで大韓民国では計量に関する新たな法律は制定されず,その間,20世紀初頭から日本式体系と入り交じった尺貫法や計量対象によって用いられていたインチやヤードと行った英米系の特定単位が慣用的に使用されていました.

 1959年7月,大韓民国政府はやっとメートル条約に加入し,1960年11月に初めて国際度量衡総会(CGPM)第11次会議に参加しました.
 そして,朴正煕による軍事クーデター直前の1961年5月10日に法律第615号計量法が制定,公布され,その日から施行されたことで,その時点まで法的効力を保っていた,植民地器の朝鮮度量衡令が廃止されました.
 新たな法律では当然,メートル系単位が法定度量衡として定められ,その専用が宣言され,今後の世界的傾向に合わせて,測定と計量全ての分野に,メートル法を根幹とする国際度量衡系(SI)を適用していく予定でした.
 ただ,現実的には暫くは,既存の度量衡系を並行使用するしか無かったりします.

 1961年の法律で定めたメートル法専用の時期は,1964年1月1日だったのですが,土地と建物の面積に関しては,その後も坪の様な非法定度量衡の使用を認め,先述の様に1983年に至ってやっとその使用が法的に禁止されました.

 因みに,貨幣改革に関しては,1950年,1953年,1962年の3回に渡って一括的な交替を行う事で実施されたのですが,度量衡については,既に民衆の日常生活に深く根を下ろしてしまったものである為,中々変更が出来ませんでした.
 これは植民地支配を行った日本の力を持ってしても出来ず,戦後相当な時を経て,やっと実施されたと言う形です.

 とは言え,坪換算の平方メートルは未だに使われていますし,斤も同様です.
 余談ながら,グン(斤)に関しては,牛肉の重さの場合,果物の重さの場合,野菜の重さの場合,それぞれ異なるものになっています.
 牛肉は1グンが600gですが,果物は1グンが400g,野菜の1グンは200gとなっているので,韓国で物を買う際には注意が必要になります.
 また,里については,1里や2里と言った単位は使われていませんが,4km?10里であることから,距離を測る場合,5里以上は未だにその里と言う言葉が用いられています.
 また,ガソリンを給油する際には,そもそも何リットルとは言わず,日本語の「満タン」をそのまま導入した「マンタン」が用いられていたり,或いは「何万ウォン分」と言う貨幣単位を用いたりしています.

 中々,民衆の意識を変えるのは難しいものです.
 ただ,その意識の深部に植付けられている度量衡の単位は,僅か100年程度昔の日本から来た単位ではあるのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/17 23:22
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日韓併合後,朝鮮半島の農村はどうなったか?

 【回答】
 さて,朝鮮人人口の7〜8割は農民から成っていると前回書きました.
 農村には,在村地主,自作農,小作農,農業労働者が暮らしており,小作農の数は1939年末現在,農家戸数全体の52.3%を占めていました.
 更に,自小作農23.8%,火田民2.3%,農業労働者3.7%を追加すると82%は小作農階層でした.
 1914年の段階ではこの小作農は91.1万戸だったのに対し,1939年には158.3万戸となり急激な増加を見ています.
 自作兼小作農は,1914年に106.6万戸だったのに対し,1939年には71.9万戸に減少しています.
 つまり,単純に比較すれば,34.6万戸が自作地を失って小作農へ転落しており,小作農から農業労働者への転換もまたありました.

 火田民は朝鮮中部から北部に掛けて生活していましたが,後に火田が規制されてしまいます.
 彼等の大部分は,小作地を無くしていた人々でした.
 農業労働者になると,小作農上層や自作農に雇傭されて生活を維持していた人々で,農村の中で最も生活に余裕のない階層でした.

 1941年の朝鮮総督府農林局監修『朝鮮の農業』にはこの様に書かれて居ます.

 朝鮮に於ける農家総戸数290万余戸の内,その約8割,230万余戸の農家は何れも小作並みに自作兼小作階級に属する小細農であって,これらの農家の大部分は年々端境期に於ては食糧に不足を告げ,食を山野に求めて草木木皮を漁り,辛うじて一家の糊口を凌ぎつつあるもの亦少なくない
 朝鮮総督府農林局と言えば,公の機関です.
 その機関が既にこうした春窮民の存在を公知の事実としていた訳です.

 元々,日韓併合前は,農民達はその土地に合った作物を育てていました.
 確かに春窮民は居ましたが,未だ生活に余裕のある階層が多かったのです.
 ところが,朝鮮総督府による支配が始まると,彼等は朝鮮半島を食糧供給基地,就中,日本で不足している米の供給源とする基本政策を以て,農業政策を行います.
 その為,朝鮮各道には農事試験場が設置されますが,その主要命題は現地でこれまで栽培されていた作物,特に朝鮮農民にとって需要の大きかった粟,玉蜀黍,南瓜などの在来種農作物の改善は重視せず,米や麦の品種改良が主でした.

 米の生産地帯は,南部から中部に掛けてでしたが,朝鮮総督府は朝鮮米の改良と共に,日本の品種が現地に根付くか否かの研究に邁進しました.
 これにより,米の作付が優先され,生産量も多くなりました.
 更に,北部でも米の生産が奨励され,寒冷に強い品種である「亀の尾」と言う,大正期の東北地方での代表的な稲の品種を持ち込んで,生産を行っていました.
 こうして収穫された米は,安く買われて日本国内向けに移出され,低価格米としての役割を果たしています.
 米の生産高に対する移出高は,1910〜14年までは10%以下ですが,1915年以降は2桁となり,1928年,34年と言った東北の冷害時期には実に半分以上が移出され,1930年代を通じて生産高の40%が日本に移出されるに至っています.
 1939年には朝鮮は大旱害による不作ですが,日本もそれに輪を掛けた不作であり,その為,半分近くが移出されていました.

 移出の為,朝鮮農民には厳しい供出が課せられ,米を供出した朝鮮農民に対しては,満州から粟,稗,玉蜀黍を移入して供給すると言う計画が立てられました.
 しかし,満州からの雑穀移入は計画通り進まず,朝鮮農民は深刻な食糧不足に陥ります.

 朝鮮では,地主と小作の関係は,地主の権限が強大であり,耕作地に対する小作農の小作権が弱かったりします.
 従って,小作農民は負債が増えたり,病気になってしまう等の条件が重なると,簡単に小作地を追われることとなり,他の条件の悪い耕作地へ移動するなり,農業労働者に身を落とすなりしなければなりませんでした.
 また,小作料は高率で,更に肥料代,水利,種籾代など種々の費用を支払わねば成らず,農業経営を圧迫する要因になっていました.
 世界恐慌の進行は,更にそれを厳しいものにし,1930年頃の農家の内,平均で5%弱が春窮農家,特に絶糧農家と言って,全く食糧が手に入らない農家でした.

 そうなると,彼等は新天地を求めて,国外に移動を始めます.
 その総数は,日本の敗戦までに500万人,即ち,1945年時点で2,500万人の人口の実に5分の1が国外に移動していました.
 主な移動先としては,朝鮮北部の人々は,中国(満州)に,南部は日本,又は中国へと移動しており,北部の人々の中にはロシア沿海州方面に移動した人々がいました.
 彼等の数は,1915年に日本に0.4万人,中国東北地区に46万人,1930年に日本に30万人,中国東北地区に59万人,1940年に日本に119万人,満州に134.5万人,1945年に日本に220.6万人,満州に216.3万人と言う形で推移しています.
 この他,1940年には少数ながら南洋農業移住者,1942年から軍隊の軍属としての動員,1944年からは朝鮮人徴兵の進展などで,アジア全体に朝鮮人が見られる状況となっていきました.

 1927年の場合,朝鮮全体で15万名が移動しました.
 移動先は農業労働などの雇用人が47%,日本渡航者が17%,小商人への転業が16%,工場労働者が11%,一家離散者4.7%,シベリアへの渡航者0.7%,その他2.4%となっています.

 逆に,日本が敗戦を迎えると日本や中国東北地区から祖国を目指す大移動が始まり,中国東北地区からは百数十万の人々が帰国しますが,従来から土地を耕作し定住性が高かったこと,朝鮮農民にも八路軍などの共産勢力によって土地が配分されたこと,中国国籍が与えられたことで,約100万人は中国で少数民族としての生活を開始します.
 一方,日本に渡った人々の内,約160万人は帰国し,日本国内に残った所謂在日朝鮮人は60万人余となりました.

 何が要因になったのかは明日触れてみたりして.
 どっちにしろ,戦前期の朝鮮人と言うのは,今で言うワーキングプアに近い存在であると言えるのではありますまいか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/15 22:47

 日韓併合後,土地の所有者に日本人が入り込み,従来から土地を耕作していた自作農が小作農に転落するケースが増えてきます.
 耕地面積が5反未満だと生活の維持が不可能でしたが,小作農家の43%,自小作農家の34%は5反未満の耕地面積耕作者でした.
 つまり,生活がギリギリよりもマイナスになる人たちです.
 小作料の割合は50%と高率で,正式には一定率で毎年の小作料を納める定租法,地主立ち会いで作物が出来た時に小作料を決める執租法,収穫の際の稲束の数,或いは脱穀の結果で小作料を決めるケースもありました.
 とは言え,これだけではありません.
 種籾が支給されれば種籾代を,水利があれば水利代を負担せねばなりませんし,肥料代金も小作人持ち若しくは良くても半額が小作人の負担であり,更に収穫物を詰める俵まで地主から購入させられる土地もありました.

 前に触れた様に,小作契約は極めて不安定であり,働き手が病気になると,直ぐ様土地を取り上げられ耕作が出来なくなり,契約を破棄される事が容易に行われていました.
 契約破棄をされると,新たな耕作地を求めて小作農は移動する事になります.
 因みに,朝鮮では1,000町歩を超える大地主が多く,日本人地主は支配人,朝鮮人地主は舎音と呼ばれる管理人が権限を持って,小作人を統御していました.

 小作人の下位に農業労働者が居ますが,彼等は年雇用,季節雇用でしたから,雇用主の状況が変れば,新たに雇用先を求めて移動しなければなりません.

 この様な状況で,公式記録上も1920年には9件だった小作争議が,1935年に25,834件,1937年には31,000件とピークに達していました.
 これは,世界恐慌下で農産物価格が極端に下落し,小作農にその負債が転化された事にも関係します.
 こうして,零落し,移民に応募した人々は,総督府の手によって負債整理をした後に移民として送り出される位,負債額は日本人農民よりも深刻な状態にありました.
 国内の日本人農民は,経済更生運動や農村救済土木事業などが地域毎に実施され,それなりの効果を上げていましたが,朝鮮ではその様な方策は部分的克つ名目的なもので,効果を上げたとは言い難かったりします.

 基本的にこの様な状況に陥った農民達は,一家で食糧を求めて流浪する人も多いのですが,そのうち一家離散し,一人になって最後には旅先で死亡する人々も居ました.
 彼等のことを「行路死亡人」と呼んでおり,この数は総督府の官報にも掲載されていました.
 それによれば,1920年には2,000名ほどだったのが,1925年に3,500名に達し,1927年以後はほぼ5,000名前後で推移しており,その総数は50,000人に達しています.
 これは完全に身元不明の死体の場合で,実際にはもっと多くの人々が死亡していると考えられます.
 因みに,この死亡原因の大半は餓死,栄養不良,凍死でした.
 冬の京城駅では,毎日の様に凍死者が出ていましたし,この比率は,日本の同時代の行路死亡人の15倍近くに達していました.

 こうして農村が疲弊していくのは,人口増加による耕作面積の狭小化,米中心作付と,その米自身の低価格での出荷による米価値下がり,それによる利益率低下が起こす負債の増加と言った一種の負のスパイラル状況に陥っており,この負債を解決する方法として考えられたのが,移住という手段でした.
 満州,日本への渡航は,朝鮮国内に彼等が働ける場所が充分に確保出来なかったからで,公務員,公共団体などの大半は日本人から成っており,朝鮮国内での工場労働者としての雇用も望めませんでした.

 その為に必要だったのは旅費であり,職を得る為の生活費が必要でした.
 こうした移住者の多くは,先行者が移住先におり,その先行者の手引きで渡航するケースが多かった様です.
 朝鮮には今もありますが,当時も同郷・同族的な繋がりがありました.
 こうして,先ず渡航したのは,旅費を用意出来る余裕と出稼ぎ,移住の手立てを作る社会関係を持つことが出来る階層の人々が主でした(例外的に,小作農下層とか農業労働者でも,親族に旅費を借りたり,就労先の日本企業が旅費を負担して渡航するケースもあります).

 日本に渡航した第一世代は,当初は第一次世界大戦の好景気を背景に,日本企業が朝鮮で労働者を募集し,それに応募したケースでした.
 こうして,日本に渡航した人々が,ある程度の生活の安定を得て,一旦帰国し,今度はその会社のリクルーターとして,再び日本に働きに行く為に近在の人を連れて渡航すると言う事になり,以下そのループという形で,最終的に朝鮮人の暮らす街が成立していった訳です.

 満州については,牛車に家財を積み込んで,徒歩で彼の地に渡ったケースが多かったりします.
 こちらは渡航費こそ要りませんが,長距離の旅の食費,開墾までの生活費が必要でした.

 国内に残って,都市に農民が行って,其処で職業に就くと言うのは,完全に僥倖の世界でした.
 日本人失業者も勿論居ましたが,約2%前後に過ぎませんでした.
 一方,朝鮮人失業者は10%を超える高いものでした.
 1932年で12%,1933年で10%,1934年で9%であって,農村から出て来た彼等は,先ず都市部に住んでいる彼等失業者と戦わなければなりませんでした.

 更に,1919年には黄海道,平安南道,平安北道,京畿道で旱害,1924年には京畿道,全羅南道,全羅北道で旱害,1928年に京畿道,慶尚北道,黄海道で旱害,1929年には全羅南道,慶尚北道,慶尚南道で旱害,1934年には忠清南道,忠清北道,全羅北道で水害,1936年に京畿道,黄海道,平安南道で水害,1939年には朝鮮南部全体で旱害と,被害を回復する暇もなく,自然災害に襲われており,被害面積が狭いものの,他に冷害や雹害なども発生しており,毎年の様に何処かで災害が起きており,これを契機にした離村も多数に上りました.

 例えば,1939年の旱害では,総督府は各道内で21,176名,朝鮮内に30,000名,日本に22,608名の出稼ぎを斡旋し,満州に849戸の破産農家を送り出し,そのほかを併せ10万人近くを総督府が直接移動,移住を行っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/10/17 22:21

 基本資料は,「日本の朝鮮・韓国人」(樋口雄一著 同成社刊)に依っています.
 後,「差別から見る日本の歴史」(ひろたまさき著 解放出版社刊)を用いています.

 何処かでウトロ地区とか,鶴橋の朝鮮人集落の話を取り上げる予定ですが,この部分の出典は,多分「モダン都市の系譜」(ナカニシヤ出版)となる予定.

差出人 : 眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2008年10月31日 23時52分


 【質問】
 戦前の京城放送局について教えられたし.

 【回答】

 さて,今日はラジオの話.
 ラジオのコールサインで,JOAKはNHKの東京放送局の事を指し,JOBKとは,"Japan Osaka Bambacho Kado"…は冗談ですが,大阪放送局を指し,JOCKは名古屋放送局の事を指します.
 しかし,次のJOxxはいきなりJOFKに飛びます.
 JOFKは広島放送局です.

 では,JODKとJOEKは無いのかと言えば,当時のラジオの音質ではEはAと区別が難しいと言うので,実際に公布されませんでした.
 そして,JODKは今はありませんが,昔,存在したコールサインです.

 このJODKは,京城放送局,つまり,当時,日本の植民地だった朝鮮半島のソウルにありました.
 当時のコールサインは,開局順に振られていたので,日本のラジオ放送の歴史でも最初の方に当たります.
 しかも,JOxxの体系で発番されている事からすれば,これは日本のメディア政策の延長線上で誕生したものと理解出来ます.

 京城放送局の送信所は,朝鮮総督府と関係なく設置されたもので,その設置には日本放送協会から43万円の費用を借款を得ており,放送後はJOAKの時報を用いたりしていました.
 つまり,資本と放送コンテンツの大部分は本国側が準備していたものです.
 しかも,驚いた事に,当時の「無線電信法条項」により,無線電信と無線電話は政府が管掌する事になっていた事にも関わらず,京城放送局は民営放送局の形態であり,国営放送ではありませんでした.
 これは,朝鮮総督府が放送局を設立する際に東京,大阪,名古屋各放送局設立の際の基準と関係法律を適用した為です.

 ラジオ放送の編成方針は,文盲率の高かった当時,文を読むよりは直接音(声)で聞く方が早い為,「聞く新聞」と言う位置づけが先ずあります.
 しかし,そのニュースは当時の新聞記事をそのまま伝達する形であり,放送局所属の専門記者すらいませんでした.
 更には1927〜1933年当時には,検閲も作動しておらず,比較的自由な放送が出来ました.
 本格的に監督管理組織を置いて聴取を始めたのは,1933年4月以降です.

 次いで,教養番組がありますが,これは大部分が講演で,外国語と日本語を学ぶ時間で満たされていました.
 講演者は知名度のある専門家達で構成され,その学知は専門家権力として朝鮮各地を教化する切っ掛けとなりました.

 3番目が慰安放送で,3つのコンテンツのうち最も広範囲で詳細分野が多様な項目であり,報道や教養よりも大衆の支持を集め,その内容は多様に発展していきます.
 後には,慰安という項目が余りに多様で範囲が広い為,それぞれの項目に分化されていきます.
 例えば,ラジオ放送劇はそれぞれの劇様式毎に分化され,放送音楽は洋楽,流行歌,伝統音楽などに分化しました.

 この様な放送の為,毎月2度ずつ編成された番組表を各新聞社に発送し,新聞は出演者の写真や慰安放送の説明を添えて掲載しました.

 JODKの放送方針は,「朝鮮に於いて文化の向上発展に貢献する」と言うもので,開局初年度の方針は,先ず「内・鮮両語による均等な編成」と「娯楽放送を重点編成」すると言うものでした.
 教養と報道が重視されなかったのは,聴取者のラジオに対する理解が,娯楽機関としての認識だけだったからとされています.

 良く,娯楽放送中心の編成に関して,戦後韓国の資料では,「帝国日本の愚民化政策の一環」と言う風に言われているのですが,実際,初期の京城放送局の主な聴取者は,在朝日本人と少人数の韓国人,それに外国人と言った比較的富裕層であり,聴取料を徴収出来ない一般の朝鮮人大衆の嗜好に合った放送をする訳はありません.
 しかも,プログラムを編成したり,企画する資本さえ確保出来る財政状態に非ず,音源を購入してそのまま放送する方法,舞台劇やスポーツの実況放送,東京や大阪で放送された番組を中継する方法などが採られていました.
 また,日本人の聴取者が多い為,「内・鮮両語による均等な編成」を謳いながら,実際には日本語放送が大部分を占めています.
 そう言う意味でも,「愚民化政策」は当を得ない批判です.

 放送第2年目からは,報道方面と娯楽方面を重点編成とし,技術進歩による屋外放送編成を掲げますが,初年度と同じ状況で推移します.

 これが飛躍的な発展を遂げたのが,放送第3年目からです.
 この年の編成方針は,先ず内容の充実,次いで,教養方面に力を入れず,文化の紹介に力を尽し,朝鮮文化の向上発展に貢献する,3番目に報道,教養,娯楽のバランスを均等にし,偏重的プログラムを無くし,4番目に全国中継放送網の完成により,内地各局のプログラム編成も一新される事になりましたが,JODKも天皇陛下即位を迎えて内地中継の必要性を唱えて,夜間の芸能放送に内地の番組を流し,最後にスポーツ人気に合わせたスポーツ放送の回数の増加を挙げています.
 これは本国の各放送局の編成方針とほぼ同じだったのですが,京城放送局の財政難は相変わらずで,新しい番組制作よりは中継放送の増加の方が経費節減になり,日本人聴取者数を確保するのに有利だと判断された為に,日本国内の中継放送の増加意外に何の進展も無く,寧ろ,朝鮮語放送の時間が短縮されてしまいました.

 そう言う意味では,現在の日本の放送局が韓国のコンテンツを買ってきて,そのまま流すのは全く逆のパターンですね.

 この財政難を解消する為には,受信料を払ってくれる聴取者数を増やすほか,手はありません.
 しかし,日本人の数には限りがあり,受信料収入を増やすには,朝鮮人聴取者を確保する必要があると言う課題認識を,京城放送局担当者は持たざるを得なくなります.

 取り敢ず,開局3年目でラジオの普及が進み,朝鮮人聴者達の理解度は増し,日本語可能聴者が増加した為に,日本語を用いた日本の文化を紹介する方針が打ち出されたのですが,これは京城放送局の財政難を加速させると同時に,朝鮮人聴者の反感を買い,朝鮮人聴者の数はこの年,激減してしまいました.

 これも,ある意味,現在の日本の放送局が韓国のコンテンツを買ってきてそのまま流す事で,逆に日本人視聴者を失っていると言うのと相通じるものがありますね.

 そして,開局4年目の1931年の放送方針は遂に,「無方針」となります.
 当時,京城放送局は別名を「缶詰放送局」と呼ばれていました.
 これは,京城放送局の自立的活動よりは,他局のコンテンツを缶詰を開けてそのまま食卓に載せた様な,安易な放送を揶揄していると言えます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/29 22:32
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日韓併合時代,朝鮮人人口を2倍にしたって本当?

 【回答】
 この人口2倍というのは,おそらく事実誤認といわれている.
 理由は主に2点.
(1)増え方が劇的過ぎる.
(2)根拠となってる統計のうち,初期値の数字が,それ以前の年代の統計と比して異常.
  「増えた」後の数字は初期値以前の数値に整合的で,たぶん初期値は暗数が大きい.
 2倍になる前の初期値だけが,折れ線グラフにすると異常にへこんでるんだよな.
 あと,出産人数を計算すると,たしか「女性全員が妊娠状態」になったような.

「日本統治下で人口が倍に増えたというウソ」
および,
「人口増加は善政の証という勘違い」
を,参照されたし.
 人口は増えてるけど,それは同時期のフィリピン(宗主国アメリカ)やインドシナ(宗主国フランス)以下ってこと.

 まあ,倍に増えたって言うより,きちんと人口把握と戸籍管理できるように統治機能をしっかりさせたって意味では,朝鮮王朝より善政敷いたのかもしれんが…
 それはそれで,植民地フィリピンやインドシナに負けてる独立国李氏朝鮮ってどんだけ酷かったんだよ .

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本統治時代の朝鮮半島の人口政策は?

 【回答】
 さて,1910年から1942年に掛けて,朝鮮人の人口は急増しました.
 1312.9万人から2252.5万人へとほぼ1,000万人増えた訳です.
 この人口増加は,朝鮮中部から南部の米作地帯に見られます.
 とは言え,決して朝鮮農村が豊かになったから人口が増えた訳ではありません.

 この人口増加を吸収出来る耕地面積の増加や,生産力の向上があれば,その人口増加分を吸収し得たと思われますが,実際には耕地面積は1919年に452.2万町歩だったのが,1939年には495.8万町歩と約43.6万町歩の増加にしか過ぎませんから,土地所有面積は必然的に零細化の道を辿り,先日見たように,農家数の増加と自作農,自作兼小作農の減少,小作農,農業労働者の増加と言う形になっていきます.

 一方,反当りの収量が増えれば,人口増加を支えることは出来ます.
 反当り収量は,1910年が0.679石なのに対し,1939年(大干魃の年)でさえも,1.163石と約2倍になっています.
 と言う事は,全体の収穫量は約2倍に成るはずですから,人口を支えられる筈です.
 しかし,朝鮮人民の主食である米以外の作物の反当り収量指数は,1910年を100とすれば,1939年に大麦111,小麦143,裸麦154,大豆56,粟95,甘藷126,馬鈴薯89で,殆ど収量が増していませんし,大豆の様に約半分の収量にまで落ち込んだ作物もあります.
 更に,米は平均的には,日本に全体収量の40%を移出していましたから,結局,収量は横這い状態です.

 となると,農家経営が成立せず,農民は出稼ぎ,移住の道を探らざるを得ません.
 又,朝鮮総督府も,「過剰農家」は朝鮮内での米消費を増大させ,其の分日本へ移出する分が少なくなるとして,積極的に「過剰農家」の処分を推進しました.

 先ず,朝鮮総督府が行ったのが,1930年5月25日付で出された総督府令「農地移住奨励規則」です.
 これにより,中南部に居住している「過剰農家」を朝鮮北部へ送り込み,この地で開発移住をさせる事を進めました.
 又,南部各道では「過剰農家」を解消すべく,満州国開拓の為に組織的な斡旋を行います.
 これにより,朝鮮内農業人口を減らすと共に,満州国内に安全村を創設し,満州国での水田の増加による日本向け米輸出量の増大を見込んだものです.
 総督府が募集した集団開拓団は,第一次開拓計画が1937〜41年までで26,807戸,第二次開拓計画が1942〜45年春まで実施され,8,900戸の農家を送り出しました.
 1戸5名見当としても,大体17.9万人となります.
 この他,第一次開拓以前に慶尚北道が1934年に138戸,1936年に99戸など,各道独自での募集と送り出しも行っており,集団開拓団は全体で20万人に達しています.

 更に,分散開拓団と言う名目の個人で満州に行った人々も居ます.
 朝鮮人青年開拓義勇隊,満州開拓女子奉仕団などもこれに含まれ,25万人程度がこうした集団開拓で満州に移住した人々でした.
 彼等は,1945年以後も同地に留まり,中国の少数民族として暮らしているケースも多かったりします.

 満州の他,朝鮮総督府は朝鮮南部各道に選抜させた朝鮮人農民を,当時は日本の委任統治下にあったポナペ,テニアン,パラオ島に移住させています.
 1939年に南洋興発株式会社の依頼で,慶尚北道,全羅北道から約200戸,635名を送り出し,彼等は甘藷栽培の農業労働者として同地で働きました.

 更に日本国内の労働力が不足すると実施されたのが,所謂,「強制連行」です.
 彼等も,朝鮮農村から「供出」されたのですが,この「供出」基準では,予め送出者を登録して置いて,必要に応じて「供出」していました.
 その条件は,
(1)道内で鉱山や重要産業に従事していない者,
(2)自作農設定者ではない者,
(3)「内地」移住を希望する者,
(4)耕作地過小にして労務者として転業を可とする者,
(5)耕地狭小部落,常習的旱水害部落,縁故渡航出願諭旨者多数ある部落の者
と言うものです.
 つまり,戦争経済に必要な人々と,米の生産で採算が取れている者は除外し,不採算農民の切り捨てとして,政策的な農民移動と離村政策の典型でした.

 因みに,(2)の自作農設定者と言うのは,自作農維持創設を図る為に資金を援助する制度であり,日本国内は元より朝鮮でも実施していたのですが,日本国内程効果が上がっていませんでした.
 とは言え,名目上自作農を育成することであるので,彼等は除外の対象になった訳です.

 特に,「供出」の対象となったのが,全羅南道,全羅北道,慶尚南道,慶尚北道の南部4道でした.
 南部4道の耕地面積は27%しかありませんが,水田面積は全朝鮮の44%を占め,生産額は39%にもなり,総農家戸数の42%で,又,米以外にも日本にとって重要な物資であった棉の生産比率は69%に達していました.
 朝鮮総督府としては,朝鮮南部は米と棉を中心とした作物の生産性を上げる方途と対策を練り,中部の忠清南道,忠清北道,京畿道,江原道を加えた地域を農業再編地域の対象として,人口増加分のうち,農業生産性の低い農民の一部を移住という名目で切り捨てる方策を採った訳です.

 もう一つの側面は農業経済の問題ですが,それは明日改めて取り上げてみる.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/10/16 22:44

 基本資料は,「日本の朝鮮・韓国人」(樋口雄一著 同成社刊)に依っています.
 後,「差別から見る日本の歴史」(ひろたまさき著 解放出版社刊)を用いています.

 何処かでウトロ地区とか,鶴橋の朝鮮人集落の話を取り上げる予定ですが,この部分の出典は,多分「モダン都市の系譜」(ナカニシヤ出版)となる予定.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2008年10月31日 23時52分


 【質問】
 日韓併合以降の,朝鮮から日本への渡航の状況は?

 【回答】
 1910年以前から朝鮮からの渡航者はいました.

 主に2つの流れがあり,1つは東京に出て来る留学生,もう1つは労働者としての渡航で,後者は,炭礦などの地方の飯場で暮らしており,鉱山労働者の他には建設労働者として,九州の肥薩線工事,山梨の東京電灯第二水力発電所工事,京都の宇治川電気工事,山陰線の香住〜浜坂建設工事などに従事していました.

 日韓併合以降の渡航は大半が朝鮮南部出身者で,1942年末の時点で,慶尚道出身者が58%,次いで全羅道出身者の25%となり,単純計算では在日朝鮮人の83%が南部出身者であった訳です.
 慶尚道出身者の多さは,地域的に済州島出身者の割合が高かったからでもあります.
 彼等の大半は労働者としての渡航でした.
 因みに,1942年末の時点で,中等学校以上に在籍する朝鮮人は29,427名,うち16,784名は東京で学んでおり,この中には朝鮮北部からの渡航者も多かった様です.
 こうした留学生の出身階層としては,地主や自作農の子弟ですが,苦学していた人も多かったりします.
 更に,日本に渡航して苦労していた在日朝鮮人の子弟も高等教育を受ける様になっていました.

 華僑の稿でも見た様に,日本政府の外国人労働者渡航規制は,1870年代から既に実施されていましたが,それは先ず中国人労働者を対象としていたもので,1910年以前,朝鮮人は一カ所に最大でも100人単位程度しかいませんでした.
 但し,1899年7月内務省令第32号宿泊届けその他の件により,それなりの管理はしていました.

 日韓併合以降は,在日朝鮮人数が1万人を超えた1917年から,朝鮮総督府によって整備され,1918年1月に朝鮮総督府令第6号「労働者募集取締規則」を管内に通牒して,渡航管理が始まります.
 この翌年の1919年3月1日,三・一独立運動が勃発し,朝鮮総督府はこの運動が広がることを恐れ,4月19日に警務総監部令第3号「朝鮮人の旅行取締りに関する件」を通牒した事で,更に強化されます.
 この通牒では,朝鮮外に旅行する時,居住地所轄警察署若しくは警察官駐在所に目的・旅行地を届けた渡航証明を出さなければ成らず,朝鮮内に帰る際にもその証明を警察官に提示する必要があると言うもので,これは1945年まで一時的に廃止(1922.12〜1923.9(関東大震災発生の為),1924.6〜1927.7)された期間も短期間有りますが,継続され,在日朝鮮人管理の柱になっていきます.
 この渡航証明制度は,内鮮一体と言われながらも,朝鮮人全てがこの証明書所持の対象となり,労働者だけに限らず,学生であろうが,官吏であろうが,知識人であろうが,全員が所持を要求されたものでした.

 これは取りも直さず,日本への朝鮮人渡航者の増大によるものですが,具体的な渡航阻止政策が展開されたのは1925年10月からです.
 8月に内務大臣が朝鮮総督府に対し,就職口確実成らざる者,準備金100円未満の者,国語に通ぜざる者に対する渡航制限を要望し,それに応える形で実施されたものです.
 具体的には,日本への窓口であった釜山に警官10名を配置して,日本人とは別に朝鮮人は並んで検査を受けさせる様になっていました.
 1929年前後には,釜山水上警察署の警察官が渡航者に対し,出航2時間前から証明書の点検,目的地を聞いて口頭調書を作成する質問を行い,乗船の際に改めて署員が本人確認すると言う手順で,その威圧的な態度は日本に渡る朝鮮人達にとって,最初の屈辱的な体験をする場所になったと言われています.
 こうした渡航阻止は,1931年から日韓航路が開設された麗水でも開始されています.

 1928年4月,恐慌が進んで内務省は地方長官に対し,渡航朝鮮人採用制限に関する通牒を,1929年12月には更に大恐慌となり,内務省,拓務省と朝鮮総督府が協議して朝鮮の地元渡航阻止を決定しています.
 1930年には偽造を防ぐ為,「一時帰鮮証明書」に打抜き用スタンプを押すことにしたり,1932年には密航を防ぐ為に日本近海で漁業をする朝鮮人に身分証明書の携帯を義務づけたりしました.
 基本的な渡航阻止は,朝鮮各道警察と管轄の駐在所で渡航を阻止することであり,1934年に渡航制限の基本政策とも言うべき,「朝鮮人内地移住の件」が閣議決定されました.
 これは,日本への渡航制限を加え,満州移民を奨励すると言う主旨でした.
 どれくらいの渡航希望者が居たかと言えば,1933〜38年には地元出願者が年間30万人,諭止者が年間10万人を超える状況でした.

 1939年からは「強制連行」が開始されていますが,自主渡航を阻止された人々が20万人に上っています.
 これは,働く場所があると思い込んだ人々が押し寄せたものと考えられています.

 結局,こうした政策は,日本政府から見れば,朝鮮人に対する治安対策上の不信,無秩序な労働者が日本国内の労働市場に跋扈することに依る混乱を危惧したこと,朝鮮総督府から見れば,農民の無秩序な移動が基幹産業である農業生産に与える影響と,朝鮮内部でも拡大しつつあった工業生産の労働者不足を齎す危惧と言う利害が双方で一致したことが挙げられます.

 勿論,こうした渡航制限が始まった事により,密航,不正渡航と言う手段で日本国内に入り込んだ人々も多くいました.
 1925〜1931年3月末の摘発密航者は556件,3,839名でしたが,1939年がピークで7,400名,以後は平均で5,000名前後の摘発が為されています.
 1939年は「強制連行」が開始されていて,朝鮮人に対する取締りも強化されており,こうした結果に繋がっています.
 あくまでも,摘発者は氷山の一角ですが,乗船地の釜山など朝鮮半島側だけではなく,日本側でも実施されており,発見され,拘束された渡航者達は,94%が強制送還されています.
 これは日本に渡航し,既に生活を確立している朝鮮人たちですら,不正渡航と言う手段を用いただけで,朝鮮半島への送還が為されている訳で,こうした措置に対し,1938年11月付の朝鮮総督府が内務省に出した要望書には,
「密航者と雖も発見当時,相当の年月を経過し,業務に就業しある者に対しては朝鮮送還を差控えられたきこと,尚,これが取り扱いに就いても一般犯罪人と同一視し,過酷に亘るが如きこと無き様取り図られたき事」
と,抗議している位です.

 「内鮮一体」と声高に主張しても,全く実態が合っていなかったと言えます.
 …と言うか,この入管関係のDNAってちょっとやそっとじゃ変わりませんわね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/10/18 21:02

 1917年以後,日本の工業化が大きく進むに連れて,安価な労働力としての朝鮮人の需要が激増します.
 こうして,朝鮮では大企業の募集人が甘言を弄して人々を日本へ誘い,1917年になると,1911年の6倍になる14,502人が日本に滞在することになります.
 地域的には大阪府が2,235人で最も多く,1,000人以上居住していたのは北海道,兵庫県,福岡県でした.
 1〜6月までに朝鮮総督府の許可を受け,実際に渡航し,集団で働いていたのは16カ所,3,365人でしたが,この他に個人渡航者もいました.

 こうした初期渡航者の特徴は,第1に,殆どの人々が日本語を話せなかったこと,第2に,地理や職種,日本の社会慣行に不案内であること,第3に,採用形態から集団生活が多く,寮,飯場,労働下宿などが生活の舞台になっていたことが挙げられます.

 一方で,受容れる日本人社会の差別が厳しかったと言う現実もあります.
 この為,日本に渡航した朝鮮人は,朝鮮人の先輩渡航者(親方)を頼って来日し,其処に同郷・同族の者が集まって社会集団を作る様になります.
 其処では,朝鮮語が通じましたし,病気になっても,失業しても,相談に乗ってくれる人々がいました.
 又,労働者とは別に,朝鮮から渡航した行商人(特に朝鮮飴売り)も多く,彼等行商人が各地に散らばる朝鮮人コミュニティの情報交換の役を担っていました.
 因みに,その家と言うのは華僑の様に大きな家ではなく,大阪では難波,九条,福島辺りにある2階建ての長屋で,階下が四畳半,三畳二間に加え,其処には行商人の為の飴の製造場がある狭い家に,34名が暮らしていると言う状況だったりします.

 あくまでも,この時期の朝鮮人労働者は,江戸開府の頃がそうだった様に,単身・出稼ぎ型で面的な広がりを持つ朝鮮人集住地区が成立していませんでした.
 また,初期は,工場で採用する時から同郷・同族を集め,職場内の組を作るにも同郷者に組合長をさせるなどの労務管理の方法を採っており,同郷者・同族者の集団行動様式が在日生活を支える縁になっていました.

 1918年になると更に渡航者は22,411人に達し,門司の白木崎〜子森辺り,下関では丸山町の光明寺山や桜山に集住地区を作るケースが出て来ます.
 なお,こうした朝鮮人の暮らしをレポートするのに,新聞記者達の多くは,上から目線での啓蒙思想で彼等を見ている部分があり,更に朝鮮人の暮らしぶりを見下す考えや「同化思想」が見え隠れしています.
 こうした報道姿勢は取りも直さず,一般の日本人にも影響を与えて行くことになります.

 こうした中,1917年には日本人との軋轢による大闘争が2件起きています.
 1つは民族的な対立で,日本人の差別的な処遇と発言に対する朝鮮人の反発,もう1つは経済的な対立で,当初の約束通り賃金が支払われないなど,労働争議としての側面を持つものでした.

 1917年以後,日本にはどんどん朝鮮人が渡航してきます.
 彼等は,大阪,北海道,兵庫,福岡,広島,東京,山口の地に多く住みますが,大阪は中小工業労働者の町として,兵庫は土木・工業労働者や沖仲士,北海道は炭坑労働者,山口は渡航の玄関口としての一時的な住処,東京は労働者や学生の居住地,福岡は炭坑や土木労働者として集住していった訳です.
 彼等が集まった地域は,大別すれば,炭坑・鉱山地域,工場地帯,土木工事現場を中心で,特に最後の土木工事現場で働いていた人々が,各地方に定住し始め,1917年12月末に沖縄に2名渡航したのを以て,全国に足跡を印すことになります.

 その後,職を得て定住し,少ないとは言え資本を作り上げた人々によって,各地で特徴的な産業が成立していきます.
 京都の西陣,瀬戸の陶器工場,大阪・神戸のゴム工業などがそれです.
 又,例外的に九州など一部地域では小作人となったケースもあります.

 時代が飛びますが,1942年末には大阪は41万人の朝鮮人が住み,京城に次ぎ第2位の朝鮮人人口が集中する町となっています.
 また,大阪府,山口県,福岡県などでは地域に依っては朝鮮人の比重が著しく高くなる事が有りました.
 これは取りも直さず,小学校の在学者数にも反映し,朝鮮人生徒が多い学校が生まれる訳です.
 1943年3月の朝鮮人居住町村は,徴兵準備に伴う司法省民事局調査に依れば,樺太も含め全町村数10,876町村のうち,7,000町村にも達しています.

 話は戻って,1917年頃,職を得られても,都市部では住宅の確保が困難でした.
 大阪市の統計では1921年には52,080戸が足りないとされていました.
 朝鮮人の場合は更に深刻で,これは今でもそうですが(表面上は無いことになっていますが),日本人家主が朝鮮人には決して家を貸しませんでした.
 これは無理もなく,家を汚すとか家賃を納めない,契約人員以外で大勢で住むと言ったケースが多かった事もあります.
 先述の様に,3部屋の家に34人が住むなんてケースもありましたし….

 結局,彼等は雇い入れた工場の寮の周辺に住む様になり,其処に「朝鮮町」と呼ばれる集住地区を構成する様になります.
 1922年頃には朝鮮人30人以上を雇用していた工場は紡績工場の16カ所を筆頭に33カ所あり,その周辺が全て朝鮮人集住地区となっていました.
 また,空家になっていた条件の悪い所にも,朝鮮人は集住地区を作ります.
 大阪西成郡鷺洲町の兼頭市場は,市場としては失敗し,空家となっていたのですが,此処に済州島出身の朝鮮人が住み始め集住地区を構成しました.
 京都市中京区壬生神明町では,1925年頃あった辻紡績の朝鮮人社宅に人々が住み続け,集住地区を構成しましたし,東京荒川区三河島町は,関東大震災以降から周辺工場に就労する朝鮮人が集住地区を作り,「トンネル長屋」と呼ばれていましたし,横浜市中区宮川町は,関東大震災の翌年から土木業者の建てた3戸を中心に自力で家を建て始め,1935年には集住地区が出来ていました.

 集住地区の条件としては,
 1. 雇用された会社の社宅,寮及び作業所宿舎にその後も住み続ける
 2. 土地の所有者が明確でない,低地,湿地,河川敷,崖下に仮小屋を建てて住み始める
 3. 日本人が住まなくなった空家,工場跡,古い家に住み始め,中を改造,建て増しして大勢で住み始める
 4. アパート・長屋を借りると其処を拠点に広がる
   この場合,朝鮮人が住むと日本人が出て行くので,次第に朝鮮人集落となる
 こうした条件があって,集住地区が広がっていくケースが多くありました.

 当然,こうした集住地区の場所は日本人から見向きもされず,住宅としての条件は悪く,自力での掘建て小屋だと材質も悪いので,家は安普請な上,そもそも水道,排水設備,下水,道路と言った条件は整備されておらず,大半が不良住宅に属するものでした.
 元々が安価な労働力として期待されていた人々なので,賃金は日本人労働者の6割にしか成らず,住宅を借りる資力に乏しくて,結果的に多人数で補いながら1軒の家に住むと言う手段しか取れなかった訳です.

 でもって,元々,彼等の存在は日本政府の取ってみれば目の上のたんこぶと言うべき存在でした.
 これは現在に至るまで一貫している姿勢で,帝国臣民として彼等を保護するよりも,さっさと送還すると言う感じです.
 生活困窮者の為に,山口県では昭和館,大阪各地に隣保館,横浜や川崎の社会館を設置したものの,これは短期間であり一時宿泊のみで生活の保障までは出来ていません.
 彼等の考える朝鮮人保護救済は,生活出来なくなった者を朝鮮に送還して路頭に迷わすと言ったものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/10/19 21:39

 さて,集住地区を作った彼等朝鮮人が先ず手を付けたのは,食材の確保でした.
 工場や炭坑,鉱山の寮・飯場などにいれば,なるほどご飯は食べられますが,それは和食の話.
 麦飯,沢庵,味噌汁の繰り返しで,食の楽しみが全くなく,その上,彼等の今までの食習慣からかけ離れた食べ物であり,量も少なく,それが元で体をこわす人々もいるくらい.
 一方,土木労働者の場合は,大抵の場合,朝鮮人親方に率いられた人々であり,親方に同行して家族が同行している場合が多く,彼女たちによって朝鮮料理が作られ,提供されていました.

 因みに,1932年当時の在日朝鮮人のエンゲル係数は,36〜65%である人々が全体の64%となっており,賃金が低い分,食費に金が掛かっている事が判ります.

 集住地区が成立すると,食費を安くする為にも賄い付きの労働者下宿が並び立ち,其処ではキムチなども漬けられて朝鮮料理が出されました.
 更に,大規模な集住地区ともなれば,行商人ばかりでなく,朝鮮の物産を商う店も登場し,乾鱈も手に入る様になりますし,食料品店も露店の様に規模は小さいものの多数が出来上がります.
 そして,食料品店,商店が成立すると,その商品を用いて人々に料理を提供する料理店が出てきます.

 朝鮮料理店では,本格的な料理は望むべく有りませんが,キムチやチゲなどの簡単な料理とマッカリが提供されていました.
 こうした店が成立していたのは,当時集住地区に集まった朝鮮人達の多くは単身男子労働者が多かった為でもあります.
 また,後になると肉料理も提供されています.
 と言っても,豚肉や牛肉そのものではなく,食肉処理した後,日本人が食べない内臓や骨を格安で手に入れ,それを調理したもので,朝鮮半島では食材として用いられていてそれなりに高価だったりしたのですが,日本では逆に棄てる部分なので,意外に安く手に入れることが出来たので,これを使った料理,即ち,後に日本でモツ焼とかモツ煮と呼ばれる料理が発達する様になりました.
 因みに,朝鮮本土の人々は牛を調理するのが得意ですが,済州島出身者は豚の調理が得意だったそうです.

 こうして,集住地区では,母国で食べられた大体の料理を提供できるようになります.
 但し,日本では手に入らない,手に入ったとしても高価なものがあり,カクテキに用いられる朝鮮大根は日本の大根よりも堅く,日本の大根を用いたとしても本来の味が出ないとされていました.
 とは言え,幾ばくかの制約があっても,意外にも彼等の集住地区では,1945年に至るまで伝統的な食生活が維持出来ていたと言えます.
 勿論,内鮮一体政策の一環として,日本食の講習会が行われて,朝鮮食は否定的に扱われる場合もありますが,それはあくまでも表向きの話です.

 但し,日本の学校に通う在日朝鮮人子弟が増えてくると,日本人側からの差別により,ニンニク使用の弁当とかキムチが嫌われる様になり,その差別を受けて育った在日朝鮮人二世世代になると,こうした民族食は否定的に扱われる様に成っていきます.

 集住地区の特徴は,所有が明確ではない場所,河川敷,湿地などに自らの手で建てたバラックなどが多く,職があれば集住地区が成立し,拡大していき,その地域で職が無くなれば,集住地区は消滅するケースがありました.
 集住地区が有っても,開発などで日本人居住域が広がるに連れ,日本人から朝鮮人集住地区が,「風俗,習慣が違い,衛生思想低劣(と言っても,元々上下水道,道路,排水設備その他が無い場所に住んでいるから当然ですが)」として屡々立退き要求が出されています.
 勿論,その地域が私有地であれば地主や会社からの立退き要求により朝鮮人は移動しなければなりません.

 例えば,神戸市林田区重池町1-21は市有地ですが,新湊川改修工事に従事していた朝鮮人達が掘建て小屋を建てて集住地区を作り,1934年には33戸155名が住んでいましたが,付近住民の要求で,市は児童公園にすると言う理由を付けて立退きを迫ったり,東京府砧村で砂利採取をして生活していた12戸102人からなる集住地区を,先ず内務省が砂利採取を禁じ,建物を撤去し,東京府は,集住地区に住んでいた朝鮮人を纏めて,江東区塵芥処理場近くの枝川町に住まわせると言う処分を実施しています.
 当然,朝鮮人の抵抗も多く,1934年に発生した土地・家屋立退き反対,家賃値上げ反対,強制執行反対と言った住宅関係の紛争は,内務省調査報告書によれば,2,503件,参加者は7,703人に達しました.
 この数は,この年の朝鮮人労働者の紛争件数が382件なのに比べると格段に多かったりします.
 こうした問題に於ては,朝鮮人は一方的に遣られっぱなしではなく,要求貫徹で相手側に要求を認めさせたり,妥協しながらも一部要求を認めさせたりしている点が結構あったりします.

 これまた意外なことですが,集住地区では朝鮮語が公然と通用し,誰からも奇異の目で見られることなく生活出来ていました.
 序でに,男性こそ日本人に雑じって働くことが多い為,和服や半纏などの労働服,詰め襟などを着用しており,朝鮮服を着ることは渡航時を除けば有りませんでしたが,女性は和服が高価である為,工場は別として,集住地区では日本人に雑じって働くこともなく,従ってチョゴリの着用が多かったとあります.
 集住地区を出ると流石に,和服なり洋装を着なければなりませんが….
 因みに,内鮮一体が叫ばれる様になると,日本人婦人団体の手で,和服着付け教室や朝鮮服の改造,和服の仕立て講習会が盛んに行われる様になり,戦争末期には朝鮮服は一切禁止とされ,公的な集会に朝鮮服での参加は出来なくなり,こうした事もあって在日朝鮮人二世世代になると洋装化に一層の拍車が掛かったと言われています.
 とは言え,集住地区に住む老人は朝鮮服を頑なに着続けており,朝鮮服を着る年配女性が居る様な家で,若い女性が和服を着ることが憚られたりします.
 但し,モンペは労働に便利であった為に広く普及し,現在でも韓国では,「モンペ」と言う名前で販売されていたりします.

 又,私塾的な学校や民族団体,親睦団体が形成されており,就職情報,郷里との連絡も含め,相談出来る窓口がありました.
 更に,こうした集住地区に入っていれば,少なくとも野宿はしないで済み,食もある程度確保出来て少なくとも餓死は免れるなど,セーフティーネットの役割を果たしていたり,後には強制連行から逃亡した労働者の隠れ家として機能したりしています.

 戦前の在日朝鮮人の話になると,朝鮮語禁止とか朝鮮服禁止と言った内鮮一体の狂気の世界ばかり強調される訳ですが,意外にもこうした抜け穴が多くあった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/20 22:31

 基本資料は,「日本の朝鮮・韓国人」(樋口雄一著 同成社刊)に依っています.
 後,「差別から見る日本の歴史」(ひろたまさき著 解放出版社刊)を用いています.

 何処かでウトロ地区とか,鶴橋の朝鮮人集落の話を取り上げる予定ですが,この部分の出典は,多分「モダン都市の系譜」(ナカニシヤ出版)となる予定.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2008年10月31日 23時52分


 【質問】
 日韓併合以後の朝鮮人の教育状況は?

 【回答】
 1910年頃,朝鮮半島では全ての面・里に書堂が存在し,漢文教育を行っていました.
 まぁ,日本の寺子屋みたいなものです.
 1911年から,朝鮮総督府が第一次朝鮮教育令を公布して4年制普通学校が設立され,日本語を中心とした教育を実施しています.
 1922年から普通学校は小学校に,1941年からは国民学校へと名称が変わり,就学率は幾分か向上しますが,入学希望者が居ても,その地に学校が積極的に設置されることはなく,教育水準は低く抑えられていました.
 全ての面(日本で言う村)単位に小学校が1校整備されたのが1936年で,この時点の就学率は25%で中退者も多かったりします.

 1936年,46邑2,325面で公立普通学校数は2,498校ですが,日本人向けには別に公立小学校と呼ばれる教育機関が設置され,501校ありました.
 即ち,朝鮮半島での教育は日本人向けの内地並み教育を実施する教育機関と,朝鮮人向けの植民地向け教育機関の2本立てであった訳です.
 当時の日本に於て,日本人の就学率は100%近い状態だったのに比べると,植民地住民への教育が等閑にされた事がよく判ります.

 日本に渡航してきた朝鮮人も同様ですが,お金に余裕のある人々である分,若干の教育は受けていました.
 1932年に大阪府が実施した調査によると,大阪居住世帯主の教育水準は,大学が0.07%(この辺は地主層が多い),中学・専門学校が2.51%,小学校0.61%で,書堂14.30%,普通学校20.86%,自動車学校・簿記学校・理髪学校など資格校0.06%で無学61.54%となっています.
 1935年の全国調査では無教育者は65%で,若干ですが,渡航してきた朝鮮人の方が教育を受けている率が高かったりします.
 また,14.30%を占める書堂による教育では,その重点は漢文に置かれており,漢字理解の知的水準は高く,日本でも漢字が読める訳で,その為,日本語理解も早かったと言われています.
 一方で意外なのは,中学教育以上の高等教育を受けた比率は,日本人の教育水準と比べても遜色のないものだったりします.
 即ち,教育面では,朝鮮人の中でも結構格差があったと思われます.

 1932年の調査で女性の教育については,10,593名の調査対象の内,無学者は95%,10,097名に上り,教育を受けた人は5%に止まります.
 その教育を受けた人496名の内,高等女学校卒業者は2名,同等の師範卒2名などを加え,19名に達し,女子高等教育の比率についても同時期の日本人と遜色のないものでした.
 この辺りは,女子教育に熱心で無かった事の現れと思われますが,日本渡航者の中からは次第に教育を受けさせる人々が多くなり,戦争末期には動員態勢に朝鮮人女子も組込むべく,家庭の女子に日本語教育を行う様になりましたが,成果を挙げ得ないうちに敗戦となりました.

 日本に渡航してきた朝鮮人にとって,子供の教育は非常に関心の高いものでした.
 1935年12月末現在で高等小学校以上の中学・専門学校に通学している子供が7,292名,小学校に通学している子供は44,332名で,この時期の在日朝鮮人総数が約62.6万人であり,そのうちの5万人が通学している訳です.
 1939年になるとこの数は11.8万人,1942年には20.8万人と多くなりますが,これは朝鮮人徴兵を見越して,当局が就学の奨めがあり,就学率が高くなり,1941年の協和教育実施以後は,更に就学率は向上します.
 但し,この教育というのは日本語主体の教育であり,親の話す朝鮮語は理解出来ても,自らは朝鮮語を上手に操れない朝鮮人となっていました.

 先の1932年の調査では,15歳以下の子供を持っていた世帯は8,481世帯で全体の72%,子供の人数は16,562名でした.
 そのうち,7〜17歳の子供7,225名を分析してみると,就学者3,437名,不就学者3,788名と言う結果,即ち比率にすると48%と52%と言う形となり,朝鮮本土の就学率25%よりも倍近い高さであることが判ります.
 普通の小学校だけでなく,大阪では1922年頃から朝鮮人夜間教育の実践が行われ,1923年から大阪市済美第四尋常小学校で146名収容の夜間部が創設され,難波櫻川尋常小学校でも夜間部が設置されました.
 神戸でも2校同様な学校が創設され,142名が学んでいました.
 夜間学校は以後も拡充されていきます.

 更に,朝鮮人集住地区には朝鮮人が教師になり,朝鮮語と日本語を学ぶ学堂が開設されています.
 以前,尼崎の例を取り上げましたが,名古屋にも数校,兵庫県下の槿華青年会夜間部,京都下京区晩覚夜学校などがありました.
 但し,こうした動きは皇国臣民化教育の前には異質なものとして排除され,1936年前後には相次いで閉校されるか,公立学校に吸収されていってしまいます.
 即ち,朝鮮語を公的に教えることが出来なくなった訳です.

 最後の動きは,朝鮮人の間に様々な同郷・同族組織があり,その動きの中で出て来たものです.
 大阪府の1932年の調査では,1932年には同郷・同族組織など様々な28団体があり,住民の約10%が何らかの団体に加盟していました.
 内務省の調査では,1936年には全国で15%の在日朝鮮人が何らかの組織に関係していました.
 その大半は地域の朝鮮人の助け合い組織でしたが,中には全国規模の団体になって,機関紙や雑誌を発行している団体さえ有りました.

 新聞については,1932年の調査では,朝鮮語で書かれた新聞,即ち,東亜日報,朝鮮日報など併せて17部が購読されていました.
 また,大阪朝日新聞,大阪毎日新聞の定期購読者は849名おり,他の雑誌を加えると933名がこうした新聞・雑誌を購読していることになり,これが全体の8%を占めます.
 1940年に東亜日報と朝鮮日報は廃刊となり,朝鮮語で読める新聞は朝鮮総督府御用新聞の毎日新報だけとなります.
 この他,在日朝鮮人労働運動家や東亜日報の記者が大阪で発行していた朝鮮語の民衆時報,東京で刊行されていた東京朝鮮民報も,当局から危険と見做されて弾圧されました.
 こうした新聞・雑誌は1936年には61誌あり,労働組合機関紙,左翼的なものだけに止まらず,キリスト教や地域親睦会の機関紙など多彩なものがありました.
 但し,当局は朝鮮人間の横の連絡を取り合う様な民衆時報を始めとする10誌を発禁処分としています.

 こうした在日朝鮮人の中には知識人もおり,彼等の間からは文学活動を展開する人々も現れています.
 大半は朝鮮人大地主の子弟ですが,1925年に結成された朝鮮プロレタリア芸術同盟は,1927年から雑誌『芸術運動』を東京で刊行しています.
 これには,李北満,林和などの作家が作品を発表し,芥川賞候補作を書いた金史良が多くの作品を発表,又,詩人の金龍済,尹東柱らも活動する様になります.
 演劇では,1936年に朝鮮芸術座が旗揚げし,朝鮮語の演劇を東京各地で上演し,朝鮮人労働者の鑑賞会も行われていました.
 因みに,『芸術運動』には中野重治などの日本人作家も寄稿していたりします.
 意外にも,こうした芸術分野では,朝鮮半島では厳しく弾圧されていたのですが,内地では比較的寛容だった様です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/21 20:47

 基本資料は,「日本の朝鮮・韓国人」(樋口雄一著 同成社刊)に依っています.
 後,「差別から見る日本の歴史」(ひろたまさき著 解放出版社刊)を用いています.

 何処かでウトロ地区とか,鶴橋の朝鮮人集落の話を取り上げる予定ですが,この部分の出典は,多分「モダン都市の系譜」(ナカニシヤ出版)となる予定.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 by mail,2008年10月31日 23時52分


 【質問】
 戦前の朝鮮半島の独立運動は,アメリカに支援されていたの?

 【回答】
 正確に言うと,アメリカではロビー活動で,亡命政権自体は上海にあった.
 ただアメリカがこれに支援していた.
 これは1919年からで,戦争になるずーっと前.
 アメリカは日韓併合の時点から,すでにこれに不満だったらしい.

 たとえば上海の韓国人独立運動組織の教会の集会は,アメリカ海軍YMCAで開かれていた.
 朝鮮半島から亡命してきたテロリストが,アメリカに渡る中間寄港地としてこれは利用された.

 当時の日本政府「密航鮮人をアメリカ海軍青年会館で保護している」と抗議.
 そのため四川路の中国人YMCA会館を,新しく借りる事になった.
 これもアメリカ人宣教師フィッチの斡旋だった.

 『韓国キリスト教の受難と抵抗韓国 キリスト教史1919〜45』(韓国基督教歴史研究所著,新教出版社,1995.2)では,三一独立運動をキリスト教長老派集団が指導していた実体が詳しく書かれてる.
 他に朴烈の伝記なんかも引用すると,
「唯一認められた集会はキリスト教集会で,牧師は説教の合間に独立思想をぶちまけた」
「主義者が信者に化けて説教の合間に民族精神を鼓舞し,帝国主義を断罪する」

 基本的には韓国人を前面に立てて,異人さんはそういうのにレクチャーするだけで,普段は奥に引っ込んでたらしいが,集会がヒートアップして絶頂に達した時,ついに奥から
「アメリカ人宣教師がいきなり登場して,人類としての朝鮮同胞の解放を歌い上げた」
そうだ.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今,ニューギニア島で戦った軍医の本を読んでいるのですが,その中で李鐘セン(最後の漢字が見つからなかったのでカナ)大尉というのが出てきます.
 この李大尉,工兵の連隊長なのですが,創氏改名したはずなのに,何で李なんて名前つかっているのですか?

 【回答】
 創氏改名(1940年施行)は,本名である朝鮮名のほかに通称である日本名を使っても『いいですよ』という制度であって,全ての朝鮮人が日本名を名乗ったわけではない.

 まず基礎知識として,創氏と改名は別のもの.分けて考えること.

・創氏
 日本では古代に位や役職に基いた氏姓(ウジカバネ)が作られたが,次第に廃れ,一般に用いられることが無くなり,便宜的に居住地で呼ぶ「苗字」が主に用いられるようになる.
 これが江戸時代の寺社を通じた「家」中心の民衆把握を経て,明治維新では国民に氏を与えて「戸籍」で管理するようになる.「戸」とは即ち家のこと.

 朝鮮では家単位の「氏」ではなく,一族単位の「姓」と,その出身地方を表す「本貫」が中心の社会だった.
 すなわち,「家」制度や,日本的な意味あいでの「氏」が,朝鮮人にはなかった.

 これを日本の戸籍で管理するため,家単位の「氏」を名乗れというのが「創氏」.届出制であり,どのように名乗るかは自由だが,勿論「家」単位.
 日本風の氏を新たに名乗っても,朝鮮風の姓を流用しても良い.
 ただし,朝鮮風に名乗る場合は,それまで使用していた姓にすることに限られた.
 例えば,金姓の家が朴の氏を名乗ることは出来ない.
 届けなかった者については,自動的に朝鮮風の姓をそのまま氏として登録された.そのため,朝鮮風のままの「氏名」の人も多かった(人口の2割くらい).

・改名
 戸籍作成の際に,日本風の名前に変更することを許可した.
 朝鮮では届出制,台湾では認可制だった.
 これは完全な任意.

 創氏改名後に朝鮮風の氏名を名乗っていた者は,
1) 朝鮮風の姓を氏として登録した or 創氏を届出しなかった
2) 改名を届出しなかった
という事になる.

・強制的?
 当時の朝鮮総督府から,下級官吏の一部が強制的に日本風に変更させるよう吹聴してるが,これは勘違いなので是正せよ,という旨の文書が出ている.
 朝鮮人官吏が,日本風にすれば点数が稼げると考えて,現場で住人に強要していたと考えられる.

 さいわい,ネットには当時の学籍簿や教科書の画像なども転がっている.
 「強制的に改名された」割には,あきらかに朝鮮名の学童は珍しくないし,なぜか「禁止されていた」はずのハングルで書かれた教科書が現存している.
 伝聞に頼るのではなく,御自分で一次資料に当たって見られてはいかがかと.

軍事板,2005/06/10(金)
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 韓国の光復節は8/15だが,これは,1945年のその日に政権が日本から韓国へ委譲されたということなのか?

 【回答】
 No.

 確かに,8月15日は韓国では光復節として祝う(なお,台湾の光復節は10月25日).
 北朝鮮では祖国解放記念日としているらしい.
 「光復」には日本の支配からの解放という意味合いがあるのだが,史実はやや皮肉でもある.

 1945年8月15日以降も朝鮮総督府の統治は続いていた.
 当然といえば当然で,この日を境に体制が崩壊したわけではない.
 沖縄から遅れること2日,9 月9日になって,ようやく朝鮮総督府は米軍との間で降伏調印式を行い,これによって,朝鮮半島は日本から米軍下に置かれることになった.

 この間の1か月に満たない朝鮮の歴史は,かなり紛糾していた.
 朝鮮総督府は,朝鮮が米軍下になる前に,統治機構を朝鮮民衆に引き渡そうとしていた.
 なんらかの日本側の思惑もあったのかもしれない.
 17日に朝鮮総督府は,朝鮮の建国準備委員会に権限を委譲し,市中では太極旗の掲揚を推進させた.
 建国準備委員会では,現在のイラクよろしく,当時のリーダーであった呂運亭と宋鎮禹との政争もあったようだ.

 しかしこの権限委譲の動向を早々に察知した米軍は,16日の時点で暫定的な朝鮮統治を朝鮮総督府に命じていた.
 結局,米軍の命令どおり,統治の権限は18日には総督府に戻されることになった.太極旗も日章旗に戻った.朝鮮の人は嫌な思いをしたことだろう.
 米軍は,朝鮮に主権が発生することを抑制し,朝鮮への支配をそのまま日本から譲渡するという形態を取りたかったようだ.
 米軍には,38度線で朝鮮半島を分割する,対ソ連の思惑もからんでいたのだろう.

朝鮮総督府庁舎
(1994年,画像引用元:「韓国に残る日本」

 その後,国連決議では,南北朝鮮で総選挙を実施し朝鮮統一政府を樹立するよう推奨されたが,ソ連の反対により頓挫.
 仕方なく米軍は,韓国だけで1948年5月10日に憲法制定国会の総選挙を実施させた.

 この結果,李承晩を初代大統領として1948年8月13日に大韓民国が建国した.
 そう,韓国の建国記念日は8月13日のはずである.
 が,現状,韓国では,その2日後の15日の光復節をもって,建国記念日としているようだ.
 日本から独立したという意味合いを込めたかったからなのだろう.

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/


 【質問】
 映画「シルミド」は史実に忠実か?

 【回答】
 こういう意見もある.

■映画「シルミド」の見方  荒木和博

 あらすじはあちこちで紹介されているので,それをご参照いただきたいが,一つだけ指摘しておきたいことがある.
 この映画の中で一番大事な「国家による部隊の抹殺命令」が作り話だということだ.
 確かに隊員は1971年8月23日にバスを乗取ったが,それは待遇の悪化への反抗であり,バスも自爆ではなく,持っていた手榴弾の扱いを誤って爆発させてしまったものと推定されている.
 また,「ほとんど囚人で作られた部隊」というのも誇張らしい.

 安明進氏とこの映画のことを話していたとき,私が
「この映画は日本人には南北関係の深刻さを理解させる良い契機になるでしょう」
と言ったところ,
「韓国では抹殺命令のところが
『軍事政権時代は人権を無視したひどい時代だったのだ,今(の盧武鉉政権)は良い世の中だ』
と受け取られており,深刻な問題です.
 同じ映画でも日本と韓国で受止め方が違うんですね」
と言っていた.

(極東ニュース板)

 なお,史実でも事件から24日後には金鐘泌首相の国会答弁により,反乱者の身分は「特殊部隊の要員」だったことが明らかにされている.
 648部隊による金日成暗殺計画や,計画中止自体が,時の韓国政府,軍部,諜報部のパワー・ゲームによるものなので,政権を弱体化させるために内情を暴露する勢力には事欠かない.

 しかし,実際の実尾島事件の部隊員は囚人出身ではない.
 また,特殊部隊隊員が軍籍を離れて活動するのは,珍しい話でも無い.
 例えばアフ【ガ】ーニスタンでも対ソ戦において,SASを「離れた」軍人が,ムジャヒッディーンの訓練指導に当たっている.ギャズ・ハンター著「SAS特殊任務」参照.

(軍事板)


 【質問】
 映画シルミドはもちろんフィクションですが,元になった実話があり,ウィキペディアによると
「・・・2005年12月に韓国国防省が発表した調査結果によると,部隊は青瓦台襲撃未遂事件に対する報復計画の実行部隊として編成された.
 映画では重犯罪人や死刑囚が,特赦と引き換えに隊員として動員されたように描かれているが,実際には特別報酬によって集められた一般人が大半であった.
 部隊の創設は中央情報部(KCIA)の指示によるものであり,実際の管理運営は空軍が担当した.・・・」
との事.
 なぜ陸軍でも海兵隊でもなく,空軍が担当したのでしょうか?

 【回答】
 2006年1月21日(土)に放送されたNHKのBSドキュメンタリー,「韓国・シルミド部隊の真実国家に葬られた若者たち」について書かれたブログ
http://blog.livedoor.jp/ken_taro/archives/50356104.html
によると,当時の空軍参謀総長の台詞として,
「陸軍が出ては戦争になる.
 海軍は当時,北朝鮮まで侵入出来る潜水艦が無かった.
 だから空から行く事になり,空軍が管轄した」
という証言があったそうです.

軍事板,2007/06/29(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
>日韓戦後処理は不十分=「改めて決着必要」―官房長官
>http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1268453&media_id=4

ですが,本当に不充分なのですか?


 【回答】
 相変わらず,この隣国は何をしているのやら.
 場合によっては国交断絶や戦争にすら繋がりかねない行為です.
韓国・ソウルで講演を行っていた日本大使に男が投石 大使館員がけが:FNNニュース

 よりにもよって,講演中の外国の大使に投石で大使館員を負傷させましたか.
 ワールドカップでの韓国の対戦国(アルゼンチン,ウルグアイ)の国旗を冒涜したり,日の丸や星条旗,五星紅旗への炎上抗議もそうなんですが,何で抗議するにしても,相手国の神経を逆なでする事ばかりするのでしょうかね?
 私の会社の韓国人の先輩はまともですし,多くの韓国人とも交流がありましたが,まともな方々でしたが,何で集団になるとヒステリーになるのやら.
 まあ,我が国にも慰安婦問題で,星条旗に鉤十字描いて抗議した愚か者がいたぐらいですから,韓国人がそうしたとしても不思議ではないんでしょうね.

 そして我が国の政治はというと,この有様.
日韓戦後処理は不十分=「改めて決着必要」―官房長官
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1268453&media_id=4

 いや・・・それ日韓基本条約に違反していますよ,仙谷さん.
 何故なら日本は,日韓基本条約や付属協定で個人補償分を支払ったのですから.
 そしてあろう事か,韓国政府は個人補償分を経済再建に流用しました.
 早い話がネコババです.
戦後個人補償は韓国側の反対で見送り:週刊オブイェクト(楽天広場ブログの過去記事から)

 しかし民主党保守派の仙谷さんが,何でこんな事を言ったのでしょうか?
 まさか保守層だけでなく,革新層にもアピールしないとダメなくらい,民主党の支持率は低下しているのかも知れません.

 こりゃ自民党に負けるな.間違いない(;´Д`)

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年07月08日18:18

※ 大敗しました.>2010年参院選


 【質問】
 文世光事件とは?

 【回答】
 在日朝鮮人による朴大統領暗殺未遂事件.

 DJ(金大中)の躍進で危機感を募らせた朴政権.
 KCIA部長李厚洛の活躍で南北融和のムードを作るも,南侵トンネル発見などもあり,おジャン.
 しかも,大統領は維新体制を敷き,内外からの批判を浴びる.
 これに対抗するように,KCIAは,半亡命の形で日本滞在中のDJを拉致殺害を試みる.
 しかし,米軍らに阻まれ,弱冠40代の国務総理のJP(金鐘泌)は,謝罪訪日するものの,所謂進歩的文化人の論陣で,日本世論は嫌韓の度合いを増していった.

 日韓関係は険悪になっていた.
 そんな中迎えた1974年光復節.
 総連の手引きで,大阪の交番から盗んだ拳銃を手に入れた南条こと文世光は,朴正熙暗殺の企図し,京城の光復説記念祭会場に向かう.
 IDも無いまま,警備員が誘導し潜入が出来た,誤射で自らの太腿を打ち抜いたのに,ド近眼なのに,射撃に成功,等の不可解さが残る中,凶弾は,大統領ではなく,国母陸英修夫人と女学生を打ち抜く.
 現代史に残る「画」となるが,要人警護としては最低な,世光と「ピストル朴」こと警護室長朴鐘圭との対峙シーン.

 朴正煕大統領は,夫人を失った悲しみを怒りに変え,東京爆撃を本気で考え,JPが必死に抑えたということだった.
 数ヵ月後,有名な総理裁定を行う,自民党副総裁椎名悦三郎が謝罪特使として訪韓.
「私の政治家史上,最大の屈辱」
と言わしめた.

 この事件を機に,朴正煕大統領は孤独と維新体制をより深める.
 更迭した鐘圭に代わり,警護室長となった「奸臣」車智Kと「暴君」KCIA部長金炯旭の暴挙とともに,維新体制は5年後,次代KCIA部長金載圭による朴正煕大統領暗殺(10・26),12・12粛軍,新軍部台頭に帰結するのである.

 盧武鉉政権は,やたら,朴正熙時代を否定したがり,また,親日反民族特別法や,私(筆者)自身も半信半疑の,金載圭民主革命義挙説等を掲げ,過去の否定に躍起になっている.

(水上攝提 みずかみせってい)


 【質問】
 崔圭夏とは?

 【回答】
 1979年,韓国では二人の「圭」が活躍した.

 一人めの「圭」.金載圭は,言うまでのなく,1026首謀.
 二人めの「圭」.いくら,韓流ブームといえども,日本人が最も名前が出せない歴代韓国大統領であろう崔圭夏だ.

 朴正熙の次が全斗煥じゃないの? いえいえ,とんでもない!
 1026後,首相(国務総理)だった彼は,直ちに,盧武鉉弾劾時の高建のように大統領権限代行に就任.
 そして12月6日,統一主体国民会議により,正式に大統領に選任.
 当人も,過渡的政権であることは認識していたようで,就任時,改憲と民主化を目標に掲げた.
 維新政権により抑圧されていたものが,払拭されると思った.
 待ちに待った「ソウルの春」が訪れると思った.

 しかし,たったその6日後.
 12月12日,保安軍司令官の全斗煥は,ハナ会同期の盧泰愚らとともに,戒厳軍司令官鄭昇和を逮捕するという粛軍クーデターに打って出た.
 ただの軍の主導権争い?
 いえいえ,これが,かの国の民主化が8年遅れる因となるのである.

 時は流れ,YS時代,正義と言えども,法に逆らってまで全・盧を裁いた時,崔圭夏にも,証人として出廷命令が出た.
 彼も高齢.また,折角就いた大権.
 しかし,何のイニシアチブを発揮できぬまま,粛軍を追認せざるを得なかった,張勉を思い出すような形でしか,歴史に名を残すことができなかった,そんな彼に出廷を求めるのは,東方礼儀の国として,どうか?と思ったものである.

(水上攝提 みずかみせってい)


 【質問】
 光州事件とは?

 【回答】
 韓国湖南地方・全羅南道最大の都市,光州.
 この光州の東に聳える無等山.
 全羅道が生んだ韓国球界の至宝,宣銅烈は,若き日,毎日のように,無等山に登り,足腰を鍛えたという.
 彼が「無等山爆撃機」と呼ばれていたことは,韓国野球通ならご存知であろう.

 12・12粛軍クーデターで軍権力を掌握し始めた,全斗煥・盧泰愚始めとする新軍部に対し,朴正煕独裁後の民主化を待ち望んでいた韓国民の大半は拒否反応を示した.
 ましてや,長年,反朴運動を展開してきたDJ(金大中)のお膝元,ここ光州ではなおのことであった.

 10・26後,ポスト崔圭夏(実質,ポスト朴正熙)に向け,YS(金泳三),JP(金鐘泌),李厚洛らが,大統領選出馬宣言する中,翌80年2月,DJも,停止されていた公民権が復活し,まさに,「ソウルの春」の役者が揃った.
 一方,12・12粛軍クーデターで政権を掌握した全斗煥・盧泰愚ら新軍部は,これらの動き,統一候補を見出せない民主化は,北韓による赤化統一にも繋がりかねないとし,彼らを自宅軟禁などの処置で封じ込めた.
 1980年5月17日,ついに新軍部は,DJを逮捕.
 これに反発した光州市民は,大々的なDJ釈放と民主化要求のデモを行い,道庁などを占拠した.
 鎮圧の為に派遣された軍隊と対峙する過程で,デモ隊は武装する.
 当時,北韓の襲来に備えて民防体制が敷かれており,韓国では一般市民でも比較的容易に武器を手にすることが出来た.
 そして武装したデモ隊と軍隊は,流血の事態となり,多くの犠牲者を出すに至った.
 この事件で,「ソウルの春」は,まさに終わりを告げ,韓国の民主化は,あと7年の歳月を待たねばならなくなった.

 DJは,この事件が元で新軍部政権から,すぐに無期懲役に減刑されるものの,死刑判決が下され,数年間,米国亡命生活を余儀なくされ,新軍部も,彼らで,この事件は暗い影として残り,全斗煥,盧泰愚とも,政権下野後,12・12とこの事件について,法の裁きを受けることとなる.

 余談だが,昨今,親日派言動で韓国内で糾弾されている金完燮(キムワンソプ)も,民衆側として,この事件に参加している.

 この事件の最中の,5月24日,10・26首謀,金載圭の処刑が執行された.

 あの日から四半世紀,血に煙る光州の街を,大きな謎を残したまま絞首台の露と消えた金載圭を,そして,半島両国を,無等の山は,どんな思いで眺め続けているのだろうか?


 なお,突っ込まれどころ満載ですが 一応,韓国人のローマ字表記.(fromウィキ.除く李厚洛)
金載圭=Kim Jaekyu
JP=Kim Jong-pil(私は勝手にJPは,「JAPAN」=親日の略と覚えてますが)
崔圭夏=Choi Kyuha
朴正熙=Park Chunghee
全斗煥=Chun Doo-hwan
盧泰愚=Roh Tae-woo(南はリウル(r)を発音しないので,「ノテウ」,北だと「ロテウ」と発音)
YS=Kim Young-sam
DJ=Kim Daejung
李厚洛=Lee HooLak(南はリウル(r)を発音しないので「イフラク」,北だと「リフラク」と発音)

(水上攝提 みずかみせってい)

▼ なお,黒田勝弘によれば,事件はその後,80年代末からのいわゆる民主化の流れと,金泳三政権(1993〜98年)以降の歴代政権により,「民主化運動」だったと評価が逆転し,デモ鎮圧に出動した軍が悪者になったという.
 そして,この歴史的評価の逆転と,当時の民主化運動を担った人びとが政権を握ることで,光州事件は反政府デモ側の見方が“正史”となり,それに対する批判や別の見方はタブーとなったという.
 2007年に大ヒットした映画『華麗な休暇』に至っては,丸腰の群衆に向かい,軍部隊が整列して一斉射撃し,逃げまどう市民がばたばた倒れるという,史実に反する虐殺シーンがクライマックスになっているという.
 詳しくは『SAPIO』,2007/10/24号を参照されたし.▲


 【質問】
 三清教育隊事件とは?

 【回答】
 1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が暴力行為を行った,人物や社会風土を乱すとみなした人物を一掃するとの名目で進めた事件.
 当時,新軍部は6万755人を逮捕,軍部隊に強制収容した後,強制労働や暴行など深刻な人権侵害を行い,この過程で少なくとも 54人が死亡したと言われている.

(聯合ニュース,2005/9/5)

 【参考サイト】
http://dai5kyo.hp.infoseek.co.jp/23.htm


 【質問】
 緑化事業事件とは?

 【回答】
 1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が,急増する大学内外での集会やデモが政権維持に深刻な脅威となると判断し,民主化を主張する学生らを強制的に徴集し,特別な精神教育をするという名目で,秘密活動を強要した事件.

(聯合ニュース,2005/9/5)


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