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東亜FAQ目次


 【Link】


 【質問】
 今の日本の憲法は,アメリカを始めとするGHQに押し付けられた憲法だって言うのは本当なんでしょうか?
 もしそれが本当なら,戦後64年も経過してるのに未だにそんな憲法を保持してることに驚きです.
 当時と今じゃ世界情勢もかなり変わったと思うんですが,矛盾とか生じてこないのでしょうか?

 【回答】
 GHQから示された草案は帝国議会で修正のうえ可決されており,また当時の世論調査では内容は概ね支持されていたので,必ずしも押し付け憲法とは言えない.
 内容が正しいかどうかは別として.

 スルーしようと思ったけど,マジレスが出たので.

 マッカーサー草案自体は,日本の憲法研究団体が私擬憲法案として発表していたものを下敷きにした.
 つまり流れとしては
日本の民間団体→GHQが修正→日本政府が修正→帝国議会が修正
で,今の憲法になっている.

 このように
・原案自体が日本人の手によるものであること,
・芦田修正や2院制の維持など,根幹部分で日本側の主張が受け入れられていること,
当時の世論の支持,
から,「押し付け」という考え方は見当違いであることは明らか.

 ちなみに,その日本の民間団体ってのは真っ赤っ赤な方々なんだけれども,そんな方々ですらこの憲法は緊急避難的に作るものと考えていて,
「10年以内にもう一度新憲法を作る」
ということを.草案憲法典内に補則として入れてあることは,事実として書き記しておく.

 さらに,成立の経緯はどうあれ,日本人の気に入らなければ独立後,いくらでも破棄できたわけで,それを60年も守ってきたという時点で,今さら押し付け論などが通用しないのは当然.

 【反論】
 マッカーサー草案を作ったメンバーは憲法学者が1人もいなかったから,日本人が作った山ほどある改正案や,アメリカの植民地統治憲法の中から,気に入るものを切った貼ったして作り上げているわけで,参考にしたことはあっても,純粋に日本人の案を踏襲したという経緯ではない.

 また,承認されたプロセスもGHQの情報統制下で,表立った反対のできない事情の下だったから,そういう意味では拒否のできない押し付けだったといわれても仕方が無い.

軍事板,2009/10/09(金)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 おいおい,日本国憲法なんてガッチガチの硬性憲法じゃないか.
 お花畑平和主義のブサヨが一定数いるだけで,改憲が困難になるっていう代物だぞ.
 どこがいくらでも破棄できたんだよ?
 護憲教徒うぜーよ.

 【回答】
 いや,国会の3分の2の賛成と国民投票をクリアしなきゃいけない憲法改正は,現実的に困難だが,憲法破棄なら過半数の賛成でもできるから,難しいことではない.
 現にフィリピンは独立後,すぐさまアメリカの作った憲法は破棄しているから,フィリピンにできて日本にできないなんてことはない.

 当のアメリカも,占領下の暫定憲法のつもりで,日本の独立後は破棄されるものと思っていた.
 9条の改正など最初に求めたのはアメリカだったほどだから.

 そうしなかったのは吉田茂の戦略.
 軍備は後回しでアメリカに守ってもらい,経済復興を優先するという判断があった.
 それでも経済復興後には変えるつもりだったらしく,晩年は憲法を聖域にしてしまった自分の判断は誤りだったと,後悔の証言を残している.

軍事板,2009/10/09(金)
青文字:加筆改修部分

 【反論】
>憲法破棄なら過半数の賛成でもできる

には根拠がないのでは?
 憲法の破棄を何故,国会の過半数をもってできるとしているのかの論拠がわかりません.
 少なくとも合法的な憲法の改廃は,憲法98条に従わなければ無理なのでは?

 憲法制定権力と憲法改正権を峻別する立場に立ったとしても,憲法改正によらない憲法制定がなされたとしたら,それは革命であり,憲法が定めた国家機関である国会が出来るものとは思えませんが

 あとフィリピンの例は反論にはなっていないのでは?
 少なくとも当時のフィリピン憲法と日本国憲法の比較を行い,フィリピン憲法と日本国憲法が憲法改正につき,極めて高い類似性を有してでもいない限り,参考にならないでは?

通りがかりの名無し in FAQ BBS,2009年10月15日(木) 23時51分
青文字:加筆改修部分

 「過半数」「破棄」でぐぐると,この記事あたりがひっかかってきますかね.
http://f.hatena.ne.jp/inosisi650/20070514113435
 過半数で破棄可能と主張するサイトなどは,大体これを挙げているみたいです.

 確かに「正当性がない」という決議は,過半数の賛成でできます.
 しかし,その決議に法的な拘束力を認める憲法上,法律上の根拠はありません
(法律上の根拠がないのは当たり前とも言えますが).

 石原都知事もそのあたりは巧妙というか,破棄のための手続について,この記事の中では明確にはおっしゃってない様に読めますね.
「国会が『正当性がない』と決議したんだから,国会議員なら政治的にはそれに従うべきだよね.
 だから憲法破棄の動議に対して,まさか反対派が1/3を超えるなんて事になったら,国会議員としての政治的モラルを疑っちゃうよね,という趣旨の事を言いたかったんだ」
という言い抜けの余地を残している様にも見えます.

 憲法破棄は過半数の賛成で可能,という議論は,今まで見た基本書のどれにも載っていませんでしたが,そもそも実務でも学説でも,こんな説は想定すらしていなかったのではないでしょうか.
 私個人は,正直,そんなん無理だろ,と思います.
 憲法と条約のいずれが形式的効力において優位するか,という問題につき,憲法優位説が採られている点に鑑みれば,個々の条文を改正する場合には,憲法96条の手続によらねばならないのに,全体を破棄する場合にはそれより容易な手続きで足りるという説は,到底採り得ないのではないでしょうか.

 ふと思ったのですが,憲法上の根拠に基づく機関である国会が憲法の正当性を否定したとすると,正当でない憲法に基づく機関の法的正当性ってどうなるんですかね.
 更に言えば,法的に正当でない機関の決議は当然法的に正当性を欠く,という結論にならざるを得ないと思うんですけど.

 大屋先生なら何とおっしゃるでしょうか….

ディセプティコン冷酷参謀 in FAQ BBS,2009年10月17日(土) 23時20分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 松本委員会の憲法草案は,どんなものだったのか?

 【回答】

 そう言えば,今日は憲法記念日なんですねぇ.
 改憲が遡上に上がって,しかもそれが現実味を帯びてきているのですが,元々現行憲法はその改正から発布まで僅か1年しかありませんでした.
 その短さゆえに,「GHQからの押し付け」とか何だか言われるのですが,最初,日本側は憲法をゆっくり作るつもりでいました.
 しかも,国民主権の思想など微塵も無く,大日本帝国憲法の文章改訂で済ませようとしていた訳で.
 後に首相となる吉田茂からして,この思想の急先鋒だったりします.
 幣原首相も当初はその考え方で,松本国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会の評価も,そんなに高い評価を受けてのもまともな議論をしてこなかった為です.

 同じ敗戦国でも,ドイツやらイタリアでは結構長く憲法論議を続けてきています.
 ドイツの場合は,基本となるのは連邦制であり,根底に州憲法の制定があって,その積み重ねで連邦基本法が出来ていったのですが,日本ではそれもなく,松本委員会では,松本自身が僅か3日で憲法草案を起草しました.
 しかも,松本自身誰にも相談していません.
 GHQ草案は,僅か2週間で作られた「粗雑な憲法」という批判がありますが,それでも25人に8つの委員会があって責任分担が為されていましたから,それ以上に粗雑.

 結局,松本案は大日本帝国憲法の字句を少し弄っただけでした.
 これに対し,松本案を見たGHQは,日本政府に任せたままであれば,極東委員会から「より急進的な(天皇制廃止を含む)憲法」がそれこそ押しつけられかねないと危惧し,元々日本人が作っていた在野の民間憲法調査会の様々な案を採り入れて「GHQ草案」を作ったのです.
 そう言う意味では,政府の当事者意識の無さは今も昔も変わっておらず,自業自得っちゃ自業自得.

 日本では,「国体護持」にのみ関心が払われ,それ以外の部分を等閑にしていた訳で,憲法に関する広汎な議論を回避していたのではないでしょうか.
 それは日本という国が,沖縄を含む一部の島嶼を除いて真に侵攻を受けなかったこと,更に為政者が全員退場したのでは無く,その支配層がGHQによって温存されたこと,大戦中に明確な抵抗運動が無かった事に尽きると思います.

 誤解を恐れず言えば,この制定過程の短さというのは,国民主権の浸透の差では無いかと思ってみたり.

 ドイツやイタリアは,権力による国民支配の断絶(まぁ,イタリアに断絶があったかどうかは議論の余地がありますが,政体の変更があったと言う意味では断絶と言って良いかと)があったから,憲法論議も国民的議論になったのでしょうし,その後の改憲論議も活発だったのですが,日本の場合,憲法制定後も,国民に対し未だに「知らしむべからず,与えるべからず」で来ている訳で,国民もそれに安住して,全て御上の意のままになっているのではないか,と思ってみたり.

 現在,各種調査では国民の中で改憲を是認している人が半数以上となっているのですが,改憲の手続きを緩和するのは良いとして,さて,実際,全面改憲となって,これがどれくらいインパクトがあるのか,と考えると,そこまで理解している人がどれだけいるのでしょうか.
 政権与党の憲法草案を見ると,「国民」ではなく,お隣の国で触れられている「公民」思想がありありと見受けられる訳で.
 と言う事は,日本が目指しているのは「中華人民共和国の様な国」か,と思ってしまうわけです.
 いや,別の前都知事の党なんかは,明確に「大日本帝国憲法」の復活ですっけ.

 当然,権力者からすれば,上が「右」と言えば,全員が「右」を向く国になるのが理想なのでしょうが,それは歪みを生み出し,やがては弾けてしまいます.
 まぁ,この国の国民は我慢強いので,相当の所まで堪えるとは思いますが,堪えられなくなったらどうなるか.
 そうなった時,日本と言う国の「国体」と言うものがきちんと残るのかどうか,非常に微妙なところではないか,と思います.
 そこまで過激になれるのかと言う意見もありますが,最近の皇室バッシングを見ているとねぇ.

 個人的には今回は,改憲手続きの改正と精々9条の手直しまでに留め,今後,国民的議論が盛り上がってきた時に初めて全文改正に踏み込むべきだと思います.
 勿論,その時には国会の決議だけで無く,投票率を考慮した国民投票が必須でしょう.

 そうして,国民的な関心を盛り上げていかないと意味がありません.

 もしも,全文改訂をするのであれば,期間については現行憲法制定の1年だけでは足りなくて,5年以上かけて行い,長期的視点から,しかも,一部の議員や官僚だけでなく,情報を主権者である国民に対して提供すると共に,国民全てを巻き込んだ形での論議で無いと意味がありません.
 それで纏まるのか,と言う議論があるでしょうが,それを纏め,少数意見にも配慮するのが政治家の力量だし,バランス感覚では無いでしょうかね.
 勿論,憲法は主権者である国民規範の根底なのですから,最後は投票率を考慮した国民投票で決定しなければならんでしょう.

 そもそも,世論調査からして,各マスコミが勝手に数字を出しているだけで,質問の内容によって,いかほどにも数字が操作できる訳ですからねぇ.
 てことで,今日はちょっといつもと離れて書き散らしてみた.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2013/05/03 23:43
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本憲法の起草作業に当たったのは誰か?

 【回答】
 古森義久が1981年4月9日,ニューヨークで当時のGHQの民政局次長チャールズ・ケイディス大佐にインタビューしたところによれば,各テーマごとに委員会を設け,それらを統括する運営委員会を
マイロ・E・ラウエル陸軍中佐,
アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐,
そしてケイディスの3人で務めたという.

 したがって,最終的に言えばこの3人がそうだということになるだろう.

 以下引用.

------------
古森 ケイディスさん,あなたが日本憲法の起草作業斑の実際上の長だった,と考えてよいわけですね.

ケイディス 厳密に言えばホイットニー将軍です.
 私はホイットニー将軍に次ぐ次席だったのです.
 彼が民政局長で,私がその次長というわけです.

古森 しかし現実にはホイットニー将軍自身は,憲法の草案づくりそのものにはたずさわらなかったわけでしょう.

ケイディス それはそのとおりです.
 彼は私にその仕事をゆだねました.
 私たちは憲法草案のうち,天皇に関する部分についてひとつの委員会,国会についての一委員会,司法について一委員会というふうに各テーマごとに委員会をつくりました.
 そしてそれらをまとめる調整組織としての「運営委員会」を設けました.
 この「運営委員会」を構成するメンバーが,マイロ・E・ラウエル陸軍中佐,アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐,それに私だったのです.
 陸軍大佐の私が最上位の階級だったので,運営委員会の委員長となりました.

古森 この運営委員会にはルース・エラマンという女性も,秘書とか補佐官という形で加わっていたわけですね.
 彼女がなにか重要な役割をはたしたというようなことがあるのですか.

ケイディス 彼女はGHQの民間従業員でした.
 そう,もともとはハッシー中佐のアシスタントだったのです.
 運営委員会では彼女は秘書,書記官として働きました.

------------「古森義久iza」,2007/05/28/03:42

 【質問】
 占領中に作られた憲法は無効じゃないんですか?

 【回答】
 確かに国際法では,占領者が勝手に占領地の法律を変えることを禁じている.

 しかし憲法改正自体は,GHQの「命令」という形式は踏んでいない.
 あくまでも「示唆」という形をとっている.
 「マッカーサー草案」は出し,その多くが,それに基づいて作成された「日本政府草案」にも引き継がれているが,日本政府が最終的な起草者となる形式を踏んでいる.

 しかも改正手続は,「大日本帝国憲法」の規定をキチンと踏んでいる.

 GHQも阿呆揃いじゃないから,後々ケチをつけられても正当化ができるように,その辺の形式はちゃんと整えてんだよ.

 まあ,それをどう思うかは,個々人の感情の問題だがな.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マッカーサーは非武装なんていう妄想憲法を押し付けて,どうやって日本防衛をするつもりだったのですか?
 永続的に日本を占領するわけじゃあるまいし.

 【回答】
 非武装・戦争放棄の提案に関しては,憲法制定以前のマッカーサー・幣原会談が発端と言われており,そのイニシアティブをとったのがいずれであったのかは,現状でも判明していません.
(幣原というのが最近の説のようです)

▼ また,当時のGHQの民政局次長で,憲法起草運営委員長のチャールズ・ケイディス大佐は,
「天皇の発案ではなかったか」
と推測しています.

 以下は,ケイディスのインタビュー.

――――――
古森 〔略〕
 あなた方の憲法起草のガイドラインとなったSWNCC228には「戦争の放棄」に関する言及はなにもなかったわけですね.
 一連のJCS関係の指令書にも同様に戦争の放棄についての記述はまったくなかったのですね.

ケイディス そのとおりです.

古森 ではあなたは「戦争の放棄」という考えをどこから得たのですか.

ケイディス ホイットニー准将からです.ホイットニー将軍はそれをマッカーサー元帥から得た,と私に告げました.
 この点はあなたも多分,知っているように,そもそも戦争の放棄のアイディアがどこから,だれから考え出されてきたのかをめぐっては,いろいろ異論があるわけです.
 マッカーサー元帥は回顧録のなかで,それは幣原男爵(首相)が発案した,と述べている.
 幣原氏自身の回想録のようなものが,その点どう述べているか,私は定かではないが,学者など他の多くの人たちが,戦争放棄は幣原氏の思いつきではなかった,と私に告げました.
 私自身にはたしかなことはわからないのです.
 ただし私には自分自身のひとつの推測があります.
 もっともその推測にはほかのだれも同意してくれませんが.(笑い)

古森 そのあなたの推測とはどんなものですか.

ケイディス 私はそれ(戦争放棄のアイディア)が,幣原男爵と天皇との間の会話から出てきたのではないか,と思うのです.
 なぜなら天皇はすぐ直前に,みずからの神格を放棄し,そんな神格というのは伝説にすぎないと述べました.
 さらに天皇は日本が,こんご“完全な平和主義に徹する”ことによって,復興し,最繁栄するのだと述べています.
 天皇はこの“完全な平和主義”という表現で,一体,なにを意味しようとしたのでしょう.
 私が察するに,それは戦争とか軍国主義のタネとなりうるものをすべて取り除く,という意味だったと思うのです.
 もっともこれは私の完全な推測です.(笑い)

――――――「古森義久iza」,2007/06/04/04:28

 ただし,一読していただければ分かるように,この推測について,根拠と呼べるものはほとんどありません.

 同じブログの中で古森義久は,幣原首相の息子が「マッカーサー説」を唱えていることも紹介しています.

――――――
古森 幣原首相と憲法第九条については,ごく最近,幣原氏の子息(幣原道太郎元独協大学教授)が,日本の雑誌に寄稿して,憲法第九条を発案したのは父ではない,マッカーサー元帥こそがその発案者であり,幣原首相に発案者たることを強要した.
当時の政治的理由により幣原首相はそれに調子を合わせてそういうふりをせざるえなかった――と激情あふれる筆致で書いています.

――――――「古森義久iza」,2007/06/04/04:28

――――――
古森 一九四六年一月の,マッカーサー元帥と幣原首相との会話についてですが,そこで幣原氏が“日本が戦力を持たない”,あるいは“日本が戦争を放棄する”と言ったとされているのは,実は“世界中が戦力を持たない”あるいは“全世界が戦争を放棄する”という理想論を述べたのであり,とくに日本だけに限定して戦争放棄を語っていたのではない,という指摘があります
(週刊文春八一年三月二十六日号の幣原道太郎氏の手記,「日本国憲法制度の由来」に記載の“羽室メモ”を引用している).
 この点についてなにか記憶していますか.

ケイディス さあ,そういうこともあったかも知れない.
 あなた方の真相解明の助けになれなくて申し訳ないが,その点は私は知りません.

 しかし,それに関してもうひとつ,別の可能性もあります.
 幣原男爵は国際的な考えの持ち主でした.
 ベテラン外交官でもあり,一九二〇年代に米英日三国の海軍が軍縮交渉をした時,それにかかわった経験もある.
 その幣原氏や吉田氏(当時外相)がやがては日本を国連に加盟させることを望んでいたことは間違いない.
 その国連は国際紛争解決の手段としての戦争を放棄しているのです.

 だからここで私に考えられるのは,幣原氏が戦争の放棄を日本の憲法でうたえば,将来それによって日本の国連加盟,つまり世界各国への再度の仲間入りが容易になる,と考えたのではないかということです.
 国連の精神と同じことをはっきりと憲法でうたえば,国連に入るのがよりやさしくなると考えたのではないか.
 武力の行使ということも,同様に放棄するわけです.
 しかしもちろん国連は現実には力の行使や戦争をすべて放棄する,というふうにはなりませんでした.
 けれども一九四六年当時,国連は平和維持の手段として,いまの現実よりはずっと効果的な機構になるだろうと期待されていたのです.
 その国連に入れてもらうには,日本は国際紛争解決の手段としての武力の行使を放棄する,といわざるをえない.
 だから幣原氏が日本の国連入りを真剣に望んでいたのなら,戦争の放棄を打ち出すのは,ごく自然だったとも考えられるのではないでしょうか.
 もちろん私はここで単なる推測を述べているだけです.

 しかし幣原氏の子息の言うことを信用するか,あるいは先見の明のある外交官が多分意図しただろうことを信じるか,さらにマッカーサー元帥が
“日本占領は大成功である.日本はあれほどの軍国主義から完全に一転した.
 これなら国際紛争の解決手段としての武力の行使あるいは戦争を放棄するのが自然である”
というふうに考えたのかも知れません.
 だから私には幣原,マッカーサーいずれの側にも,(“戦争放棄”を打ち出す)動機を見いだすことができるのです.
 また同じことが天皇にも同様の動機を与えたかも知れないのです.

――――――「古森義久iza」,2007/06/07/12:39

 あとは新事実発掘に期待するしかないでしょう.▲

 また,憲法改正当時は米英中ソ4大国協調+国際連合による国際安全保障というのが,現実味のある提案として語られていました(特に米国において).
 アジアにおいては米中(中華民国)が共同で地域の安全保障を担うはずでした.
 そのような国際情勢においてなら,日本の戦争・軍備放棄も可能と考えられていたわけです.

 この辺が急変して再軍備が促されることになるのも,アメリカがパートナーとして期待していた中国が共産化し,更に冷戦が構造化してかつての構想の一切が不可能となった状況変化によるものでした.

 櫻井よし子は,アメリカは「日本がずっと憲法改正しないなどとは想像さえしなかったようです」と述べています.
 以下,引用.

------------
 53年12月に来日したニクソン副大統領(当時)は公式スピーチで,
「私は合衆国が1946年に誤りを犯したことを認めます」
と語り,非武装化を定めた憲法は誤りだったと認めました.
 それ以後も,米国政府は折に触れて憲法改正を示唆してきました.
 最近では,クリントン大統領政権下の2000年にアーミテージ現国務副長官らが発表したアーミテージ・リポートも,21世紀の日米関係は日英関係に学ぶべきだ,日本は集団的自衛権を行使せよと指摘しています.

------------( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.8)

 また,松野頼三は,「昔の議員は皆,改憲論者だったが,実現の可能性がなかったので,言わなくなった」と証言しています.
 以下引用.

------------
 私が吉田茂首相の秘書官を経て衆議院に初当選したのは,新憲法公布の翌年(1947年,当時30歳)だが,議会はGHQ,すなわち占領軍の意向を逐一聞かなければ法案なんてできなかった.
 往々にして護憲論者は,民意を反映したというが,そんなものは嘘っぱちだ.
 当時,心有る代議士はみな,いつか自主憲法を作りたいという気持ちを持っていたんだ.

 思想的に偏向していた政党は別.
 日本社会党(51年に左右両派に分裂し,55年に再統一)は現憲法に反対した.衆議院で投票のときは反対投票をした.
 これはアメリカの憲法だ,言葉が大体冗漫だ,英語で書いたのを翻訳しただけだと,社会党は大反対した.
 日本共産党はもちろん反対,自分たちは共産憲法を作るといって,この憲法に反対した.

 社会党はその後,護憲のほうに入った.大変な変節をしたんだ.

 その点,自民党では皆が自主憲法を作りたがっていた,殊に,鳩山一郎・吉田茂の保守合同の際,政策綱領に合同の目的は,自主憲法を作るとした.
 結党の精神なんだ.
 それをすっかり忘れてしまって,現行憲法のままこれを当然だと思って,今日まできてしまった.

〔略〕

 吉田〔茂〕さんはサンフランシスコ講和条約(1951年)に調印したとき,憲法改正をしたかった.
 しかし,衆議院で憲法改正発議に必要な3分の2の議席が取れなかった.
 それで憲法改正を現実に政治に載せられなかった.
 戦後最大のタイミングだったけど,駄目だった.

 私が総務庁長官や労相として入閣した岸信介さんも心中ずっと憲法改正.
 皆そうなんです.私と初当選同期の中曽根康弘も憲法改正論者,しかし残念だけど力が足らないものだから,憲法改正を言っても駄目ということで,とうとう言わなくなった.
 だから若い議員は,それを当たり前だと思っている.

------------( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.14)

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