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◆◆◆総記


 【link】

「textlib @ ウィキ」◆(2010/09/20)空自の要求仕様書発行能力

『翔べ海上自衛隊航空学生 パイロット人生38年の航跡』(岡崎拓生著,光人社NF文庫,2011.11)

 これは良い本だった.
 海自の固定翼関係は,これ1冊でOK.
 単行本の文庫化だが,今年オススメの1冊だわ.

-----------------軍事板,2011/11/23(水)

 【質問】
 なぜ航空自衛隊は独立したのか?

 【回答】
・日本本土空襲によって,大被害を受けたことへの反省
・本土防空戦の際,旧陸海軍航空が一元指揮されたという統合の実績が旧軍関係者に影響を与え,政策提案レベルで両者の歩み寄りをもたらしたこと
・アメリカのクラーク極東軍司令官が,独立空軍構想を推進したこと
・ソ連機による北海道上空の領空侵犯が,空軍独立にとって追い風となったこと
が,要因だとされる.

 後にこれら関係者が,タモ(田母神)さんを見て激しく後悔したかどうかは定かではない.

 詳しくは,
『空軍創設と組織のイノベーション 旧軍ではなぜ独立できなかったのか』(高橋秀幸著,芙蓉書房出版,2008.12.25),p.85-102, 146-148
を参照されたし.

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/12 21:00
を加筆改修


 【質問】
 陸軍や海軍所属だった米軍や日本軍の航空部隊は,戦後になって空軍や航空自衛隊という組織として独立しましたが,空軍を独立させた場合のメリット,デメリットがよく分かりません.
 航空機が陸海を支援するためにはまず空を制圧しなければならない,だからそのために陸海に縛られずに独自に戦闘機を運用するための組織が必要なのかな,と勝手に考えているのですが.

 【回答】
 とりあえず,航空自衛隊は米軍を手本に一から作ったものだし,その米空軍は陸軍航空軍(Army Air Forces)がまるごと独立したもので, 米空軍には海軍航空隊の血は全く入っていない.
 米海軍航空隊は,戦後もそのまま継続して存在してる.
ただし空自の場合は,人材は旧海軍航空隊からも入っている.
 航空自衛隊の幕僚長となった源田実とか.
 もちろん基礎となったのは旧陸軍航空隊の人材だが)

 空軍を独立して運用する場合のメリットは,陸軍や海軍の戦略に左右されない航空戦力運用ができること.
 例えば都市への戦略爆撃は,海軍の基本戦略からも陸軍の基本戦略からも出てき辛い戦略思想.
 もっとも,日本海軍の航空主兵論者は戦略爆撃空軍を構想していたが.

 陸軍・海軍の下に航空隊がある場合,あまりに商売が違う為に,軍種内で浮いて事実上の別組織になっちまう.
 当たり前だが,海自の航空集団も護衛艦隊とは人事の行き来が殆ど無い.
 例えば,砲兵の大尉を歩兵の重迫中隊長にすると行った人事はありえるけど,陸軍航空隊でパイロットや整備や管制をやってる将校が大佐に成ったからと言って,歩兵連隊長に付けると言った事は有り得ないわけだ.
 結局,兵下士官でも将校でも航空隊に配属されたら退役まで航空隊って話になる訳で,予算獲得などの縄張り争いで航空隊(必然的に陸軍のトップには付けない)がワリを食うという話になる.

 あと,海軍航空隊,陸軍航空隊,と分けた場合,それぞれの航空隊は自軍(海,あるいは陸)専属となり,他の軍の航空隊として動くことは考えにくい.
 すると各航空隊がそれぞれ滑走路から給油施設,場合によってはレーダー等まで独自に持つ必要があり,電子戦機,給油機,AWACSといったものも独自に持つことになりかねない.
 「協力しろ,共有しろ」と言うのは簡単だが,同じ国の軍隊でも組織が異なると,そう簡単にはいかないのは,歴史を見ればわかる.

 というわけで,飛行機というものを集中管理運営し,独自に予算を組める組織が必要になる.

 デメリットとしては,予算がかかる存在が増えてしまうこと.
 軍事予算が果てしなく拡大できる戦時ならともかく,平時には空軍があるだけ陸軍と海軍に廻ってくる予算が減るわけだし,戦時であっても予算や資源の奪い合いによる摩擦が起きる.
 この軍種間の争いは結構シャレにならない.

軍事板,2005/03/07
青文字:加筆改修部分

源田実(右側)
(画像引用元;「よみがえる零戦の雄飛」


 【質問】
 戦後日本の民間航空は,どのように復活したのか?

 【回答】

 戦後,日本国内を初めて日の丸を付けて飛んだ民間旅客機は,日本航空ではなく,読売新聞社の活動でした.

 1951年8月15日,読売新聞社は台湾のCATからカーチスC-46コマンドをチャーターして,その機体を「よみうり平和号」と名付けて日の丸を描き,招待客30名を乗せて,羽田(離陸)〜札幌〜千歳(着陸)〜釧路〜函館〜青森〜盛岡〜仙台〜福島〜郡山〜宇都宮〜羽田(着陸)〜大島〜羽田(着陸)と言うコースで約3,000kmの飛行を行い,翌日には別の招待客30名を乗せて,羽田(離陸)〜横浜〜静岡〜浜松〜名古屋〜京都〜大阪(着陸)〜高松〜広島〜福岡(着陸)のコースで同じく約3,000kmの飛行を行ったのが最初です.

 日本航空はそれより10日遅れ,国内航路の調査と広報活動を目的に,8月25日からフィリピン航空からDC-3をチャーターして機名を「金星」と名付け,27〜29日の3日間,官庁,各界の有名人,関係者などを招待して,羽田〜大阪〜福岡などの就航予定コースを試験運航したのが最初でした.

 その後,日本航空はノースウェスト航空に航空機の提供と運航を委嘱し,10月25日から米人パイロットによる同社のマーチン2-0-2を日航塗装にして東京〜大阪間の路線運行を開始します.
 提供された機体は5機,それぞれ「もく星」,「すい星」,「きん星」,「か星」,「ど星」と名付けられましたが,1番機の「もく星」は,1952年4月9日に三原山の山腹に衝突して搭乗の37名が死亡する大惨事を引き起こします.
 この原因については,松本清張を始めとして色々と書かれていますが.

 1952年4月28日,講和条約が発効した事により,やっと日本の飛行機も自主運航が認められるようになります.
 7月1日には羽田空港が返還されて東京国際空港になりました.
 7月28日からは民間登録記号が復活しましたが,戦前の「J」1文字レターは復活されず,「JA」となって今に至っています.

 そして,マーチン2-0-2は10月までのチャーターだったので,日航が購入しないままとなり,Nレターの儘運航されました.

 代わって日航の主力機となったのが,DC-4です.
 初号機はノースウェスト航空からチャーターしたC-54で,「てんおう星」と名付けられていたのですが,これは後に日航が購入して「十勝」と改称されました.
 他に「白馬」「高千穂」「榛名」の3機も米軍使用のC-54,以後,「阿蘇」「穂高」「蔵王」「雲仙」「三笠」が米国からの中古DC-4,「浅間」「天城」の2機はC-54と何れも新造機ではなく,中古機ばかり11機のラインナップです.
 因みに,マーチン2-0-2は「もく星」号墜落事故で評判を落とした為,結局引き継がれず,日航の主力機はDC-4となっていきます.

 1952年12月27日に設立されたのが日本ヘリコプター航空,略して日ペリです.
 その頃,私の親戚が入ったのがこの会社で,当時は何時潰れてもおかしくないボロ会社であり,結構,親戚も入社には周囲から反対されたそうな.
 機材としては,DH114ヘロンを中心に,DC-3(C-47)が数機という陣容で,今とは比較になりません.
 そのDH.114はインドネシアを経て伊藤忠が輸入した中古機で固定脚のMk.1Bばかりでした.
 この機体の内最初の3機は日航が運航した後,日ペリに移りました.
 他に,東亜航空や藤田航空などに入った機体もあります.

 とは言え,当時の日ペリは日航に対抗し得ない様な規模で,DC-3を使ってようよう羽田〜札幌線を運航していた時に,その上空を高速で日航のDC-4が飛んでいきます.
 そして,日航の機内ではこんなアナウンスが流れたそうです.
「下に見えますのは,日ペリ航空のDC-3でございます.当機は只今,あの機体を追い抜いて一路札幌に向かいます」

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2013/08/01 23:28
青文字:加筆改修部分

 日ペリがDC-3,片や日航がDC-4で発足した羽田〜札幌線.
 その第1ラウンドは日航の勝利に終わったのですが,いつまでも屈辱に塗れている日ペリではありません.
 とは言え,会社は何時潰れてもおかしくない低空飛行の会社で,機材の更新も儘成りませんでした.
 当時の機材は相変わらずDC-3とDH.104ダブ,それにDH.114ヘロンという陣容で,日航が国内線と近距離国際線用にDC-4が9機,1953年2月からは太平洋横断路線などの長距離国際線にDC-6が10機導入されていましたから,その差は圧倒的でした.

 1958年3月,東日本に本拠を置いていた日ペリは,西日本を根城としていた極東航空を合併して全日本空輸となります.
 そして,路線網を全国に拡大すると共に,翌年から全日本空輸は,機材近代化第1弾として,幹線用に米国からCV-440を2機購入し,後に1世代前のCV-330を2機購入しました.

 この機体は,全日空初の与圧式キャビンを持った機体で,巡航速度もDC-3より100km/h以上速く,日航のDC-4よりも高性能の機体です.
 ただ,CV-340とCV-440ではエンジン出力で100馬力程度,そして速度に至ってはCV-440の方が60km/h優速なのですが,全日空ではCV-340の客室艤装をCV-440に準じて改装を加え,同じ機体として運航しています.
 因みに,この機体の室内艤装は,当時鋭意設計が行われていた国産輸送機YS-11に大いに参考にされています.

 これが札幌線に投入されると,今度は全日空機の方が意趣返しとばかりに,DC-4の後から出発し,東北上空で日航機を捉えて,
「皆様,下方に見えますのは,日航のDC-4でございます.当機はこれより日航を追い抜いて札幌に参ります」
とやったのだとか.

 その頃,日航は1958年4月から太平洋横断路線に,究極のレシプロ機と言われたターボ・コンパウンド・エンジンを採用したDC-7Cを投入したのですが,このエンジンは整備や修理が予想以上に困難で稼働率が低く,DC-6は中々国内線に回すことが出来ませんでした.
 それでも無理してDC-6を国内線に回し,機材の性能を対等に持って来たのも束の間,全日空は二の矢として,ターボプロップ4発,与圧キャビン,騒音振動を抑制した画期的な輸送機である英国製のヴィッカース・バイカウントを投入します.

 実際に全日空が受領したのは1961年6月のバイカウント828でしたが,それに先立つ1960年7月にバイカウント744を2機チャーターして幹線に投入しました.
 当時,ピストンエンジン機はエンジンに起因する騒音と震動が酷かったのですが,対照的にターボプロップ機のバイカウントは震動が少なく,室内騒音も低く抑えられた為,その宣伝文句は「立てたタバコが倒れません」と言うもの.

 全日空はチャーターの744を含めて合計10機を採用して,幹線に投入し,日航との差を益々広げていきました.
 更に支線やローカル線用として,DC-3やヘロンに替えて,同じ月にターボプロップ機であるフォッカーF.27フレンドシップを一機に25機採用し,世界最大のフレンドシップのオーナー企業となります.

 これで国内線に於ては日航と決定的な差を広げていきました.

 時に1960年7月,日航は国際線に日本初のジェット輸送機DC-8-32「富士」号を投入し,世界一周路線構築の野望を抱きます.
 そして,長距離用に投入したDC-8と対になる形で,国内線のDC-6の後継機としてあるジェット輸送機を発注したのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2013/08/02 23:35


 【質問】
 日航のコンヴェアCV-880導入について教えられたし.

 【回答】

 先週,日航と全日空との間の幹線バトルについて軽く触れたのですが,日航がDC-4で優位に立ったのも束の間,全日空はコンヴェアCV-330/340シリーズを投入して高度と速度で逆転し,更に4発ターボプロップ機であるバイカウントの導入で乗心地の面でも完全に勝利を収めます.

 これに対し,日航は国際線お下がりの機材で対抗しようとしました.
 初めてのジェット旅客機であるDC-8の導入で,太平洋横断路線や東南アジア路線からピストンエンジン機を駆逐し,「耳の痛くなる飛行機」と言われていたDC-4の代わりに,与圧式キャビンを持つDC-6を5機,そして米国のウエスタン航空から更に3機を購入して国内線用の主力機として投入します.
 更に,究極のピストンエンジンと言われたターボコンパウンドエンジンを搭載したDC-6の改造型DC-7が国際線に投入されていましたが,これも直ぐにジェット機が実用化されて旧式化し,しかも,ターボコンパウンドエンジンは構造が複雑で故障率が高く,稼働率が良くない為,DC-8が投入されると直ぐに引退させられ,国内線に回されて,全日空との競争に投入されました.

 確かに機材は良くなったのですが,全日空は既にタービン化を実現して,一歩先を行っています.
 日航もターボプロップ機を導入しようと思えば出来るのですが,既に全日空がバイカウント,そしてフォッカーF.27と言ったメジャーどころを抑えてしまっているので,今更二番煎じは出来ません.

 とは言え,国内線用に利用できるような中距離ジェット機は,フランスのシュド・カラヴェルや英国のBAC111の様な欧州勢しかなく,米国機材しか運用していない日航では,ボーイングやダグラスと言ったメーカーがその手の機材を開発するまで全日空に水をあけられっぱなしでした.

 一方,当時ピストンエンジン旅客機を開発していたロッキード社は,究極のピストンエンジン機であるコンステレーションを引っ張りすぎ,その後,ターボプロップ4発のエレクトラを製作してタービン化の流れに乗ろうとしますが,既に世の中はジェット化の方向へ向かっており,一旦は売れ掛けたのですが,カラヴェルなどが台頭してくると勢いを失い,且つ,最初の頃に致命的な事故が続発したのでキャンセルが続出してロッキード社に大きな損失を齎した機体になってしまいました.
 まぁ,虎は死して皮を残すと言う例え通り,そのコンポーネントと基本設計はP-3哨戒機に流用され,そこでは元を取った訳ですが,ジェット旅客機の世界では,ロッキードは主流になり得ませんでした.

 余談ながら,1950年代末期には,この他リパブリック社も民間機への参入を計画しており,第2次世界大戦末期から戦後直ぐに掛けて試作したR-12偵察機をタービン化したレインボーを計画しましたが,エレクトラの失敗を受けて計画を中止しています.

 そんな中,ボーイングやダグラスに次ぐジェット旅客機第3勢力として名を上げたのがコンヴェア社です.
 CV-440など日本でも活躍している様に,中距離輸送機の分野では米国でもかなりのシェアを占めていたコンヴェア社は,今までの牙城を崩されまいと,ジェット旅客機コンヴェアCV-880の開発に乗り出します.
 また,旧式化していたDC-6や開発で躓いたエレクトラの後がまを狙うという意味もあり,更に中距離ジェット輸送機としては,ボーイング社が707型を若干スケールダウンした720型を開発中で,それに対する対抗馬としての位置づけもありました.

 開発発表は1956年4月,キックオフカスタマーとしてトランス・ワールド航空から大量発注を受ける等,順風満帆に見えたのですが,愛称が当初スカイラーク,後にゴールデン・アローなど二転三転している様に,当時トランス・ワールド航空の実権を握っていたハワード・ヒューズの意向に引き摺られすぎてスペックなどを改変している内に,先行していたボーイング720が就役してしまい,新鮮味が薄れてしまいます.

 実際に就航してみると,ハワード・ヒューズ好みの仕様で,F-104やB-58が装備していたJ79エンジンからアフターバーナーを取り除いた強力なジェットエンジンを4基装備し,小型軽量な機体を引っ張ってマッハ0.88と言う高速を叩き出しましたが,高揚力装置は貧弱で離着陸性能が悪すぎ,米国のローカル空港でも運用に支障を来す有様.
 加えて,強力なジェットエンジンを装備すると言う事は,民間機に必要な経済性が全く考慮されていないものでした.

 そんな訳で当初300機以上の生産を企画していましたが,トランス・ワールド航空の20機,デルタ航空の17機を筆頭に,全部で65機の生産で終わってしまいました.

 で,そんな機体を購入したのが日本航空.
 国内線のジェット化用機材として,離着陸性能を向上させる為にクルーガー・フラップやスラットを取り付けた改良型のCV-880-22Mを8機導入し,「桜」「楓」「菊」「あやめ」「柳」「すみれ」「銀座」と名付けて1961年から1965年までに国内線初のジェット旅客機として国内幹線に投入しますが,1965年2月27日,「楓」が長崎の壱岐飛行場で離着陸訓練中に横転炎上して2名が負傷,1966年6月26日には羽田で離着陸訓練中の「銀座」が離陸に失敗して炎上し5名が焼死するという事故を引き起こしてしまいます.
 その後も粘り強く各種の対策を施して運航を続けましたが,実用性はDC-8に比べると明らかに低く,1971年には全機引退となりました.

 余談ですが,880型の性能向上型として1958年7月30日に開発が発表されたのがコンヴェア600.
 これはアメリカン航空の要求で990と名称が変更されます.
 エンジンはターボファンエンジンに変更し,エリア・ルールを採用して胴体を延長して搭載力を増し,前縁スラットやクルーガー・フラップを装備して離着陸性能を高めた機体で,これまた強力なエンジンにより,常用限界マッハ数をコンコルドなどの超音速輸送機を除いて世界最高の0.91にまで引き上げました.
 これもまた,ハワード・ヒューズ好みの仕様です.

 ところが,1961年1月24日に初飛行をした機体は,外側のエンジンポッドに振動が発生したことから改修を実施し,その結果ポッド周りの抵抗が予想以上に大きくなってしまい,速度が大幅に低下してしまいました.

 この為,アメリカン航空に保証していた速度性能を当初の値から40ノット以上低くして507ノットとしたのですが,アメリカン航空はこれを見て25機の発注を15機へと減少させてしまいます.
 しかも,引き渡しは当初の契約から10ヶ月遅れの1962年1月になり,その後,保証速度を540ノットに向上する条件で,アメリカン航空が5機引取りましたが,後はスイス航空が採用したくらいで,スカンジナビア航空が発注した2機は同社の経営不振で一旦引取を拒否されたりと散々で,結局37機の生産で終了してしまいました.

 この880/990シリーズの開発費が嵩んだことにより,1961年度のジェネラル・ダイナミクス社(1961年からは傘下の事業部全てがジェネラル・ダイナミクス社に吸収される)の収支は,当時のレートで7,400億円を売上ながら,515億円という米国企業史上最大の欠損を記録してしまっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2013/08/06 23:34
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 自衛隊か何かの戦闘機と接触して,機体が空中分解して全員亡くなったのって何だったけか?

 【回答】
 全日空雫石衝突事故だな.
 1971年7月30日に発生した,航空事故(空中衝突).

------------
 岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸の旅客機と,航空自衛隊の戦闘機が飛行中に接触し,双方とも墜落した.
 自衛隊機の乗員は脱出に成功したが,機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し,乗客155名と乗員7名の計162名全員が犠牲となった.

 1985年8月12日に「日航ジャンボ機墜落事故」が発生するまで,最大の犠牲者数を出した国内の航空事故であった.

http://ja.wikipedia.org/wiki/全日空機雫石衝突事故
------------

23: 以下,名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/06/16(土) 01:09:42.19 ID:J9jJJNmyi

 パイロットを目指してるリア充の俺だが,このスレを見てニートになる決意をしたわ.

哲学ニュースnwk,2012/06/16(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 他国もしくは他の何かで航空戦力が必要となった場合,どのようにして出撃するの?
 内閣とかが緊急会議を開いて,それで決定ができたら行うのでしょうか?

 【回答】
 航空自衛隊に限らず,自衛隊は「防衛出動」令が総理大臣により発令されなければ戦闘行為はできない.
 防衛出動も「緊急の場合」以外は国会の承認が必要.
 緊急の場合も国会の事後承認がいる.

 ただ,緊急時って言ったって,事前に何の兆候もなしに戦争が始まったりすることはまず無い.
 今一番危ない北朝鮮にしても,戦争するんなら食料を放出して兵士の体力を取り戻して…と準備が必要.
 で,日本だって馬鹿じゃないから,そういう情報はちゃんと掴める(アメさん頼りな時もあるけど).

 だから,「実際に戦争が始まってから会議を開いて反撃するかどうか決める」なんてことは原則無い.原則ね.
 ただ,日本の政治家ってのは…

 国連平和維持活動関係でも,それぞれの特別法の制定が必要なので国会通さないと駄目.
 災害への緊急援助は閣議でよかったかも.

 この辺は自衛隊法をよく読むと,関連する法律が書いてあったり.

軍事板


 【質問】
軍事シミュレーション「日朝もし戦わば」――強力な「北朝鮮空軍」に苦戦する「航空自衛隊」
(軍事ジャーナリスト世良光弘)

 週刊新潮にさっそくシミュレーションが載ったけど,これってどの程度現状に合ってるの?
 簡単に略すると,F2とF15のAWACS付編隊が北朝鮮に先制攻撃,発射台到着前に北朝鮮空軍によって数機が撃墜されるも,テポドン2の発射基地を攻撃,成功するが帰路の際,空中給油を受けるはずの米軍の給油機が情報漏れによる野党の反対で来ず,空自機は全機ベイルアウト.
 その後北朝鮮が報復で地下施設からミサイル発射したため,日本側に多大な被害が出た……という内容.
 なんかこんなシミュレーション,これから大量生産されそうだけど.

 【回答】
 なんかもう,真面目に相手にするだけ馬鹿馬鹿しい内容だが.

>F2とF15のAWACS付編隊が北朝鮮に先制攻撃

 これはまぁいい.

>発射台到着前に北朝鮮空軍によって数機が撃墜されるも

 今の北韓空軍と航空自衛隊が戦ったら一方的な虐殺です.もちろん日本が虐殺する側ね.

>テポドン2の発射基地を攻撃,成功するが帰路の際,
>空中給油を受けるはずの米軍の給油機が,情報漏れによる野党の反対で来ず

 なんで野党が反対すると米軍の給油機が来れないんだかわかんない.
 そもそも,国会の合意も取らず極秘で北を攻撃するのか?
 そんな危ない橋は政府は渡らないって・・・.
 だいたい,帰路に空中給油機と会合できなきゃ帰ってこれない,ってそれ特攻だろ.
 そんな阿呆な作戦,空自が立案するかい.

>空自機は全機ベイルアウト.その後北朝鮮が報復で
>地下施設からミサイル発射したため,日本側に多大な
>被害が出たという内容.

 ノドン,ノドン改が移動式発射台で運用されて補足が困難な事はもう解ってる.
 なのにそれをどうするかも考えず,ただテポドン2だけを破壊できればいい,なんて片落ちな作戦計画建てる訳ない.

 総じて,それ考えた奴は航空自衛隊をバカの集団だと思ってるとしか思えん.

 あと,米軍は? 韓国軍は?
 全部日本と言うか自衛隊だけが作戦するのか?

 というか記事書いた奴の願望だろ?


 【質問】
 極論すれば,戦闘用の艦船は不要で,戦闘機だけ揃えて制空権を握った後に,爆撃機で相手艦戦をたたけば,日本近海では海軍なしで制海権も握れるのでは?

 【回答】
 航空機は基本的に,「必要な時に必要な場所に呼ぶ」以外の使い方をすると物凄い手間と物量(それと予算)が掛かるため,常時性を必要とする戦力にはなれない.
 対艦攻撃力で優れる航空機で制海権を握るには,その握りたい海域に常に対艦攻撃機が飛んでる必要がある.
 そして,その攻撃機が攻撃する目標を捕捉して攻撃する指示を出すため,常に海上哨戒機を飛ばさなければならない.
 それこそ24時間ね.

 それだけでも膨大な労力が掛かるわけだが,さて,その海域に嵐が来たらどうするのか?
 その「制海航空隊」を運用する基地上空の天候問題で,航空機を飛ばせなくなったらどうするのか?
 制圧される側にしても,それを見越して行動できる.
 「制海権が握れるのは天気が安定してるときだけです」では,「制」しているとは言えない.

 したがって,航空機だけではどんなに制空権を握っても「土地」を支配できないのと同様,航空機だけではどんなに対艦攻撃能力が優れていても「制海権」は握れない.

 宗谷海峡や対馬水道みたいに「陸地に挟まれた狭い水域」なら,制空権を握れば限定的ながら制海権を握ることも出来なくはないが,東シナ海の制海権を航空戦力だけで握ろうってのは無理.

 これが潜水艦とか水上艦なら,「いつもその辺にいる」「常にその辺をパトロールしている」ことができるから(例え悪天候に見舞われたら戦闘どころではないにしても,)常時「制」が維持できる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海上自衛隊から航空自衛隊に移るのって難しいですか?

▼ 【回答】
 陸・海・空共同の部隊や機関はありますが,他の自衛隊への転属は出来ません.
 基本的に,新隊員又は一般曹候補生を受験し直すかたちになります.
 その際,1士や士長の場合は,前の所属していた自衛隊の階級のままで,基本教育(新隊員課程等)を受ける形になります.
 ただし,今後は新隊員についてはなくなって,自衛官候補生となります.
 自衛官候補生は階級以外での身分が異なるために,どうなるかは地方協力本部にて確認された方が良いです.

自衛隊板,2010/06/02(水)
青文字:加筆改修部分

 絶対数が少ないから何とも言えね.
 上司に相談するのが一番.

 ただ,もう一度,採用試験を受験しなくてはいけない.
 曹候補生や,幹部候補生などの採用試験を受験して合格すれば,航空自衛官になれます.
 ただし,既に海曹である場合,又は2等空士を受験する場合は,一度退職しなくてはいけません.
 現在は,組織要求での転官というのは無いようですよ.

 詳しいことは不明ですが・・・・
 毎年3月4月には,陸海からの転官者が何人かいることは事実です.
 最近では,満期退職と同時に空自に入隊してくる人もいると聞きました.
 現職だから・・・と言う理由での有利不利は無い様です.

自衛隊板
青文字:加筆改修部分

▼ ある同期の学生N(仮名)は海希望でしたが,2年の進級の際に,残念なことに僕と同じ陸上要員になってしまいました.
んで,僕は学生を辞めてしまい,年月を経てNと同じ学科(大隊)にいた別の同期K(仮名)と連絡をとることができたのですが,そのときにNのことについて尋ねると,
K「ああ,Nなら江田島に行ったよ」
僕「え?Nって陸じゃなかったっけ」

 卒業後幹部候補生として任官する際に,もし海や空に深刻な人員不足などが認められた場合,陸上要員が引っこ抜かれることがあるという未確認情報を,1年の頃耳にしたことがあるのですが,陸に行くことを決めていた僕自身は内心,「誰が好き好んで行くか」と思っていました.
 ひょっとしたらそういう裏技を使ったのかもしれません.

 僕の思い違いかもしれませんので,未確認情報ということでお願いします.

クローム・ツァハル in mixi,2008年09月23日12:22


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