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◆◆◆唐朝以降 Tang-dinasztia
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<◆中国
東亜FAQ目次


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 【質問】
 唐の府兵制による徴兵制が崩壊して,節度使の常備軍に軍事力を頼るようになったのはなぜですか?
 徴兵制でまかなっていた中央で統制できて信頼できる軍事力を,軍閥のような節度使の軍事力に置き換えるのは,国内の安定上危険と思うのですが.

 【回答】
 府兵制によって国境を防衛することが困難になったから.

 まず,徴兵で集まるのは戦闘の素人な農民兵ばっかりで,国境にはりつけて防人にするのがせいぜい.
 しかも兵役は義務なので,その間の収入とか給金というものはなく,手弁当で辺境へ行くしかない.
 大事な働き手をひっこぬかれた農家は,納税や労役が果たせず貧窮し,均田制で割り当てられた本籍地を捨てて逃亡するか,大土地所有者の小作人になってしまう.
 そうすると税収そのものも減るし,徴兵すべき成人男子がいなくなる.
 すでに防人にされていた人々は,交代要員が徴兵されなくなるので長い間故郷に帰れなくなる.
 こうして,府兵制システムそのものが国を食いつぶすようになってしまった.

 遠征の時は,こうした防人よりも臨時の募兵の方が役にたち,「行軍」と呼ばれた.
 彼らは騎馬戦闘もこなす戦闘のプロで,お上から給料も出た.
 辺境に置かれた都護府の兵は,だいたい行軍だった.
 そのうち行軍は臨時雇いではなく常備軍となり,彼らをまとめる連中が節度使(藩鎮)となっていく.
 節度使を中央政府が統御できているうちはよかったが,ついに安史の乱が勃発して統制が効かなくなったわけ.

 そもそも,府兵制といった国民皆兵制度は,本来農耕民族には向かない,騎馬遊牧民族向きの制度.
 兵農一致が騎馬遊牧民族に適していて,兵農分離が農耕民族に適しているということ.
 それは世界史的に明白.
 どの騎馬遊牧民族も,農民・武士(騎士)といった職能分離が起きなかった.
 騎馬遊牧民族は成員一人一人が農民でもあり,武士(騎士)でもある.

 それに対し,どの農耕民族も農民・武士(騎士)といった職能分離が起きた.
 それはなぜか.
 騎馬遊牧民族は土地を個人所有しないから.
 領土全体が集団所有の牧場と同じだからだ.
 草原を移動しながら家畜を食べさせていけばよいので,個人所有の意味も無いし,定住が不可能だからだ.
 よって騎馬遊牧民族は,生業と兵役をいつでも切り替えられることができる.
 兵役が終われば,すぐに生業に復帰可能.

 ところが,農耕民族はこうはいかない.
 兵役についている間に,土地が荒れ放題になるか,誰かに奪われるかどちらか.
 兵役から戻っても,生業に復帰することができない.
 種を撒いて,これから収穫に入ろうかという時期に,兵役に借り出されれてしまえば,残された女子供だけでは間に合わない.

 だから府兵制は,農耕民族である漢民族には大変評判が悪かった.
 兵役に動員しても,戦場を離脱して元の土地に舞い戻ってしまう.
 こうして府兵制は機能しなくなってしまった.

世界史板,2010/05/26(水)~05/27(木)
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 遊牧民は確かに移動性に優れるだけど,遊牧民が府兵制を導入していたわけじゃないから説明になってないかと.
 府兵制は唐の専売特許じゃないし,国民皆兵制度が「農耕民族に対して」上手く機能していた状況は,東西の区別無しにある.
 共和制ローマの市民軍も,ハンニバル戦争位までは問題なく機能していた.
 近代ではフランスの徴兵制もある.
 フランスは工業化もしたけど,それでも欧州随一の農業国でもある.
 中国の府兵制の元祖は西魏だけど,その時点では上手く機能していたようだ.

 というか,本来なら農地と一体の農耕民を戦わせるために府兵制がある,つまり農耕民用の制度なわけで,それを語るのに遊牧民を用いるのは違うよね.
 府兵制が立ち行かなくなった理由を語るなら,システム自体の歪みや崩壊について述べるべき.

 【再反論】
>国民皆兵制度が「農耕民族に対して」上手く機能していた状況は東西の区別無しにある.

 一時的になら,どんな制度であろうと巧く機能することは有り得る.
 しかし農耕民族には,本質的に無理があると説明したのだ.
 共和制ローマも自由市民が没落して,軍制改革を余儀なくされた.

 府兵制は,兵農一致の騎馬遊牧民族と,兵農分離の農耕民族の制度を,折衷したような制度だが,それでも漢民族には無理があった.
 無理があったから,システム自体の歪みや崩壊が起こったのだ.

 何が「べき」か知らないが,「システム自体の歪みや崩壊」が何に起因するかを説明して悪い理由が分からない.
 騎馬遊牧民族が兵農一致で何も問題ないのに対し,農耕民族はどんな制度を導入しても,あちらを立てればこちらが立たず,二律背反の問題が生じて,必ず破綻する.
 4000年の中華文明でも,軍制については四苦八苦して,ああでもない,こうでもないと制度を変えまくりだ.
 結局,農耕民族にしっくりくる軍制は無いのかもしれない.

 西魏の府兵制は,もともと職業軍人(府兵)を数家族が共同で支えるというような仕組みだった.
 府兵は納税と労役が免除され,名誉ある自弁の戦士として戦ったので士気も高かった.
 それ以前の魏晋・北朝でも,職業軍人の家は「兵戸」「鎮」として,一般の農民より高い地位を得ていた.

 しかし,隋唐ではこの特権を取り払って,すべてを一般の民戸とし,しかも成人男子3人に1人という高い割合で徴兵した.
 広がりすぎた国土を防衛するために,兵員を増やさざるを得なかったのだが,これでは歪みが生ずるのも当然.
 カラカラ帝がローマ市民と属州民の区別を撤廃してしまったような失政ではなかろうか.

 【再々反論】
 だーからぁ,胡と漢が入り混じってたのが当時の現状なの.
 漢人だってこんな戦乱時代に,農耕しかしないわけないじゃないの.
 馬超みたいに混血だってするわさ.
 胡人にも没落したり混血したりして,農民だか牧畜民だかやってたのが山ほどいたの.
 そういうのに職を与えて,国内外を安定させるためにやったことなの.

 兵の身分が低いっても,何万人もの官営武装集団に発言権がないてか?
 遊牧民にしか戦闘はできんてか?

世界史板,2010/05/26(水)~05/27(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 安禄山の乱とは?

 【回答】
 755年,楊貴妃の従祖兄の宰相・楊国忠との対立から,平盧・范陽・河東の3つの節度使を兼ねていた安禄山が起こした反乱.
 玄宗皇帝は楊貴妃と共に四川にのがれようとしたが,途中,兵士達は楊国忠を殺し,さらに楊貴妃を殺せと要求.
 皇帝はやむなく宦官の高力士に命じて,楊貴妃を仏堂の中で絹で絞殺させた.

 安禄山は洛陽・長安を占領し,「大燕国雄武皇帝」を称したが,次男・安慶緒に殺害された.


 【質問】
 宋は兵士をたくさん雇用対策で雇ってたから,軍事費がかさんだの
 あと,宋の軍隊は対外戦争向けじゃなくて,反乱軍や盗賊向けの国内の敵に備える軍隊だったの

 【回答】
 いや,対外戦争向け(防衛主体)でもあった.
 遼や西夏と盟約を結ぶ前段階では,何度も戦争があり,そのたびに宋の兵士の数が増えている.
 西夏は一時は長安まで攻め取ろうとしたし,契丹は燕雲十六州にとどまらず,華北への侵攻を重ね,宋が成立する以前には開封を占領したことすらある.
 結局は維持できず撤退したが.

 盟約を結んだあとも,宋で内紛などがあれば,周辺諸国は歳幣を吊り上げるためもあって,何度か攻め込んできた.
 そういうときに,
「平和なので軍隊がありませんでした」
では,国が滅びるか,それこそ属国にされる.
 最後には金に滅ぼされて,皇帝が捕虜にされ,南へ移らざるを得なくなったわけだが.

世界史板,2010/05/02(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 遼はモンゴル高原を根拠地としてしっかり抑えてたけど,金はどうしてモンゴル高原を部族ごとの自治に任せた,間接支配したんでしょうかね?
 遼の領域を引き継いだ金が,モンゴル高原の直接支配だけはしなかった理由が良く分からない.

 【回答】
 契丹が高原に進出したとはいえ,河川があり牧畜や農耕に適した,比較的肥沃な部分を囲い込んだ程度.
 また,契丹とモンゴル系諸部族はともに遊牧民で,言語も文化習俗もよく似ていた.
 しかし女真族は,森林の民であって遊牧民ではなく,草原よりもずっと肥沃なシナへの進出が優先された.
 だから遼はシナの北辺しか支配できなかったが,金は華北のほぼ全域を支配し,征服王朝となった.

 契丹が滅んで圧力が弱まると,遊牧民たちは勢力を増し,モンゴルのカブル・カンを筆頭に金へと攻め込んだ.
 しかしケレイトやメルキト,タタルなどの遊牧国家も強大化していたので,金はこれらを相争わせて間接統治を図った.
 ただ,金の隷属下におかれていた契丹人はのちに南下するモンゴルと合流し,金軍を連戦連敗させている.

世界史板,2010/05/20(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 明王朝の明って国号って,マニ教の中国名称である明教から取ったって本当ですか?
 確かに呉とか漢みたいに,歴代王朝では一度も使われたことのない国号だけど…

 【回答】
 単に縁起のいい字をとっただけ.
 宋以前は,初代の皇帝が皇帝になる前に封じられたり,根拠地としたりした土地の名を国号としたり,あるいは かつて自分と同じ姓の皇帝がいた王朝と同じ国号にしたりする(劉姓の者が国を興すと,たいてい国号を漢にした)というのが原則だったが,モンゴル人の征服王朝はそういう土地や先の王朝がなかったので,原則を無視して,縁起のいい漢字を選んで「元」王朝とした.
 元の次の明も,貧民出身の朱元璋が興したので,やはりそういう土地はなく,同じように縁起のいい漢字から国号を「明」にした
 次の清も,火徳の王朝である明にかわるものという気概を込めて,さんずいのついた漢字を国号にした.
 太平天国にいたっては,もう漢字1文字の国号ですらなく,趣味で国名をつけている.
 とにかく,元が前例を示して以降は,国号は好きにつけてよくなったといっていい.

世界史板,2010/02/24(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 朱元璋の参謀,劉基と椎茸の関わりについて教えられたし.

 【回答】
 中国語で椎茸のことを「香菇」と呼びます.
 これは明代以降,高級食材として用いられ,つい近年も,香港に日本の椎茸が輸出されて凄い高値で取引されていたそうです.

 日本だと本当に掃いて捨てるくらい有るような椎茸を何で中国人が有り難がるかと言えば,明の時代に遡ります.

 明の初代皇帝と言えば洪武帝こと朱元璋.
 元朝が農民軽視,重商主義で末期には叛乱が相次ぎ,最終的には朱元璋によって北へ追われました.
 その朱元璋が明朝を作り上げた直後,旱魃が続いて農作物に甚大な被害が生じました.
 このままでは飢饉となり,一旦手中にした王朝が再びするりと抜けていくかも知れない.
 そう考えた朱元璋は,その対策として必死に手を打ちました.
 最後には,天命を待つべく,天に向けて必死の祈りを捧げました.
 百官の先頭に立って数ヶ月間の雨乞いをしたのです.
 こうした行為を続けたが故に,さしもの彼も過労気味となり,遂には箸をも取れぬ病に陥りました.

 その朱元璋の側には,参謀役である劉基と言う人が常に控えていて,朱元璋を巧みに制御し,作戦を進言したりして朱元璋の政権取りに協力しました.
 やがて,朱元璋が明朝を打ち立て,南京を都に据えて洪武帝となると,劉基は中央政権から退いて,浙江省の竜泉県に赴任して行きます.
 その朱元璋の病が篤いという知らせを聞いて,劉基は矢も楯もたまらず,あるものを携えて,南京に駆け戻りました.

 そのあるものとは,竜泉県特産である香菇でした.
 即ち,干し椎茸です.
 当時,香菇の産地は,浙江省の竜泉,景寧,慶元の3県でした.
 水で柔らかく戻した香菇は,「紅焼香菇」,つまり,椎茸の醤油煮込みと言う料理となり帝に献上されました.
 洪武帝は何とか病床から起き上がり,一口を口に含みます.
 続いて二口目,次第に気力が湧いてきて,三口目で「食べた」という実感が身体にわき上がってきたと言います.

 この紅焼香菇は,戻した香茹500gに薄切りにした冬笋(冬筍)50gを使います.
 熱した鍋に少量の油を入れて筍を加えて炒め,香菇と醤油,砂糖,鮮湯を加え,最初は強火,後に弱火にして15分ほど煮ると香菇に味が染み,煮汁が絡むようになると出来上がり.
 濃厚な味と香りを持ち,口に入れると火傷しそうな熱さに仕上げられて,弱っていた洪武帝には異常なほど旨く,食欲の出る料理となったみたいです.
 尤も,現在の干し椎茸は機械乾燥ですから,当時の天日乾燥のものとは味が比べものにならないくらいではあったのでしょうが.

 やがて,この料理の力もあってか,洪武帝は健康を取り戻し,祈りの甲斐あってか,帝の人徳か,旱天に慈雨が降り,農民達も救われました.
 以後,洪武帝の毎日の食卓や宴席では必ず「紅焼香菇」が出されるようになりました.
 その伝統は,清代でも上品な珍品としてメニューに残され,特に乾隆帝は大好物だったと言います.

 後に香菇は鴨料理にも用いられるようになり,香蕈鴨や炒冬菇の名で残っています.
 冬菇は,春や秋と言った旬に採れるものでは無く,冬に出た香菇です.
 肉厚で調理すると歯応えがあり香りが最も良い椎茸で,明の宮廷ではこれを食用菌類の上位に位置づけ,?菇皇后と言う称号,即ち皇后の茸と言う名前を与えていました.

 宋代には茸は枸杞の葉の新芽,筍と共に山家三脆の美味として,元代には?菇や松茸を総称して香蕈と呼ばれていました.
 現在の北京料理でも,椎茸や筍を使う事が非常に多いのですが,これは明代の宮廷料理の影響もあります.
 特に寒冷地の北京では,椎茸や筍が手に入り難い事から高級食材として扱われていました.

 最後に,劉基と言う洪武帝の戦友ですが,確かに彼は洪武帝の寵臣となりました.
 しかし,それは他の人物から見れば邪魔な存在でもあり,結局毒殺されてしまいました.
 それが切っ掛けで,洪武帝は臣下を次々に粛清していったと言われています.

 さて,椎茸ヨーグルトを作る作業に戻りますか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/20 22:42

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 土木の変って北京版「ウィーン包囲」って感じでですか?
 教科書見てて,そんな感じがしたんですけど.

 【回答】
 土木の変の方が遥かにやばい.
 ウィーン包囲の時は,神聖ローマ帝国軍は健在だったし,皇帝はオスマンに捕まってたわけじゃなかった.
 だから,普通に粘って援軍を待って,退却に追い込むことができた.

 だが土木の変では,明軍主力壊滅,皇帝はオイラト Oirat 軍に捕まり,北京防衛軍は,乏しい兵力,皇帝が敵中にあるという状況で,オイラトの大軍の包囲に耐えなければいけなかった.
 ▼援軍の当ても無く,あまりの状況の厳しさに北京放棄論まで出たほど.
 あまりの状況の厳しさに北京放棄論まで出たほど.▲
 強引に新しい皇帝を立てて,包囲を耐え抜いた北京防衛軍の頑張りが無ければ,明はオイラトに宋並みの屈辱外交を強いられる羽目になってたかも知れん.

世界史板,2005/01/27

▼ 上記回答には言い過ぎている点があると考えます.

>援軍の当ても無く,あまりの状況の厳しさに北京放棄論まで出たほど. 

 徐有貞が,もともとの都であり副都でもあった南京への遷都を主張したのは事実ですが,援軍のあてがなかった,というのは言い過ぎでしょう.
 明史列伝五十八にある于謙の伝には,河南の軍,山東及び南京の沿海備倭軍(倭寇に対抗するための部隊),江北及び北京の運糧軍(補給部隊)を北京に呼び寄せて各部署に充当し,以って人心をわずかに安んじた,とあります.

 つまり,援軍はちゃんと来ていたのです.

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2012/5/15(火) 13:31

Emperor Yingzong, who was taken prisoner by Yexian, chief of the invading Oirat tribe.
(こちらより引用)



 【質問】
 この時代でも騎馬民族の脅威が凄かったんだなぁ.
 明・清時代では重火器はなかったんでしょうかね?
 あっても てつはう ぐらいとか?
 【回答】
 明は爆弾も火器も豊富に装備していた.
 もちろん銃も.明軍の銃は,火縄銃よりも扱いづらい代物だけどな.

 そんな先進的な軍隊50万が土木堡でオイラト騎兵に殲滅されたのは,事実上の総司令官だった王振が,敵を見ただけでビビって全軍退却を命令するような奴だったから.
 全軍逃げ腰なら,どんなに装備が良くても勝負にならん.

 北京防衛軍の場合は指揮官が優秀,士気も旺盛だったんで,火器を有効に生かせた.

世界史板,2005/01/28

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 万里の長城は本当に無用の長物だったのか?

 【回答】
 長城は,援軍を呼び出す&時間稼ぎが主な目的.
 また,侵入自体を防ぐよりも,侵入後の敵を本国と分断し,戦い易くする効果が大きい.

 確かに,騎馬民族は簡単な壁ぐらいなら壊せるし,明代の立派な長城でさえ,壊すことは無理でも壁に登るスロープを作る程度のことはできる.土を掘って壁際にどんどん積んで固めりゃいいだけなんだから.
 ただ,工事に時間をくわれて,その間に反撃の態勢を整えられる.
 特に,長城の南に侵入する時より,帰りが危険.あちこち転戦してると,来るときに確保した侵入ポイントに戻れるとは限らない.そうなると,逃げるに逃げられず,工事をしている間に全滅する危険もある.

 ただ,やってきた援軍が弱かったらどうにもならない.
 土木の変の敗北は,呼び出されてきた援軍がアホの英宗だったからで,長城がどうこうという問題ではない

(世界史板)

The Great Wall, China's premier tourist attraction
こちらより引用)


 【質問】
 王陽明(おうようめい)って誰?

▼ 【回答】
 王陽明(1472~1529)は中国浙江省,上海の南の余姚という所で生まれた,明代の儒学者・政治家.
 会試に合格して役人となり,兵法や詩文や禅宗を学びながら遠く戦線に出かけ,各地で流賊の反乱を鎮圧して功を立てた.
 「知行合一」「致良知」という学説を唱える陽明学派を打ち立てる一方,新健伯(大臣)となるが,病気中に流賊反乱鎮圧を命じられ,出征中に病死.


 王陽明(1472~1529)は中国・明代の思想家.
 余姚(よよう)(浙江省)の人.
 名は守仁,字(あざな)は伯安,陽明は号,諡(おくりな)は文成.

 はじめ明の官学であった朱子学を学び,28歳で進士に合格,官界に入ったが,宦官と対立して貴州の龍場という辺境の地の駅長に左遷さる.
 そこで生活しながら思索し,1508年,朱子学の考えを批判する新しい儒学思想として陽明学を生み出した.
 それは陸九淵の学をうけ継ぐもので,知行合一説・致良知説を主張して一派を成した.

 「知行合一」説とは,乱暴に言うと「心の中で自分がするべきことを知っているならば,それは自ずと行動に表れる」と言うもの.
 また,「致良知」説の「良知」とは,「古来の聖人たちが相伝えた血脈とし,かつ何人にも生まれつき備わっている普遍的なもの」のことであり,「この良知に従えば,物の真偽・是非・善悪は即座に判別せられ,私利私欲の一念も,焼けた炉の中に雪を投じたときのように一瞬に解消し,善を好み悪を憎んで,すべて天理に基づく行をすることができるようになる」と,王陽明は述べた.

 「陽明学」は,従来の朱子学者から激しい批判を浴びたが,明代において,陽明学の直感的で情感的な説は大いに受け入れられ大流行した.

 さらに彼は,
「人間とは弱い者で,多くの人々は人間本来の心を失い功利の念に駆られ,私利私欲に走る.
 この功利の念は人々の心中に深く根を張っていて,これを除去することは容易ではないように思われている.
 しかし,本来人間は誰でも生まれつき心の中に「善」と「悪」を判断する能力が備わっている.
 そして人間は,生まれたときから心と体(理)は一体であり,心があとから付け加わったものではない.
 その心が私欲により曇っていなければ,心の本来のあり方が理と合致し,誰でも物事の本質を見ることができる」
という考え方を基本とした,「抜本塞源」論を展開した.

 その後官界に復帰し,各地の農民反乱や地方豪族の反乱の鎮圧に活躍,宸濠(しんごう)の乱を平定した功により,新建伯に封ぜられ,兵部尚書(陸軍大臣)を務めた.
 …だからと言って,wikipediaのように「武将」呼ばわりするのはどうだろう?

 【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/王陽明
http://yamadahoukoku.com/%E7%8E%8B%E9%99%BD%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF/
http://www.geocities.jp/ichitsubo_de_gozaru/col01.html
http://www.saturn.sannet.ne.jp/fukazawa-k/youmei-160214.htm
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-092.html


 【反論】
 そもそも王陽明は,思想家としての名声が高いが,本当は現場で働く中堅役人兼地方を回って賊を討伐する軍人,という人物.

FAQ BBS,2015/10/12(月)

 【再反論】
 まあ,物凄く広い意味では「武将」に類別されないことも無いでしょうが.
 コーエーのゲームの『三国志』の攻略本によく載っている「武将ファイル」の中に名前がある,的な意味では.

 別項にて述べていますように,反乱鎮圧に当たって王陽明は,自ら剣をふるったわけではなく,実際に戦う武官に対して指示を与え,また,住民や賊への宣撫工作などを行うことを専らにしていました.
 今日的な認識では「軍師」が近いでしょうか.

 そして,たとえば,司馬懿や孔明を「武将」と呼ぶことさえ少々違和感がありますし,彼らを「軍人」と呼ぶのは少々では済まない違和感があります.
 王陽明を「武将」「軍人」と呼ぶのも同じようなものではないでしょうか.

 狭義の意味では,王陽明は科挙首席で合格していますし,武官としての任官ではありませんので,軍人とは到底言えません.
 地方に飛ばされたのも宦官と対立したせいですし.

 どうもこの反論者は,何か色々と勘違いなさっておられるようで.

2016.2.13


 【質問】
 王陽明が鎮圧した,最初の反乱鎮圧はどんなものだったの?
 3行で教えて!

 【回答】
 江西・福建省南部で相次いでいた農民反乱や匪賊の巡撫・鎮圧が,その最初のもの.
 この地方には過去にも多くの武将が賊討伐を命ぜられ遠征していたが,成功例は殆ど無く,乱が絶えなかった.
 陽明はその追討の命を受け,説得工作や,「反間」策の活用,民兵の組織化などして,1516年(正徳12年)から5年かけて乱を鎮めた.

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集2 王陽明大伝3』(明徳出版社,2003)
王守仁(オウシュジン)とは - コトバンク
王陽明の生涯 - 山田方谷マニアックス

【ぐんじさんぎょう】,2016/02/11 20:00
を加筆改修



 【質問】
 明の時代,江西・福建省南部では,なぜ農民反乱や匪賊出没が絶えなかったの?
 3行以上で教えて!

 【回答】
 まず地形.
 南贛(なんかん)地方は今の江西省南部に当たるが,その境界は広範囲の深山谿谷で険隘,樹木は深く生い茂り,賊の巣窟となり易いところだった.

 次に官軍の問題.
 賊の拠るところが各省に分散していたため,官軍は各地でそれぞれ対応するだけで,互いに協力せず,統制がとれなかった.
 また,士気も低かったらしく,陽明は上奏文の中で,「『群羊を駆りて猛虎を攻むる』がごときものであった」と述べている.
 官軍の中にも,勇敢であるとされた部隊もなくはなかった.
 これは「狼達土軍」と呼ばれるもので,「狼兵」とは広西の東蘭・那地・南丹など辺境の蛮族の帰順した諸土司(酋長)の兵で,当時最も精悍と称せられていた.
 「達兵」は韃靼の兵と言われるが,詳細は不明.
 「土軍」は土着した夷狄人の兵.
 しかしこれは徴傭に莫大な費用が掛かった上,この部隊が通過した土地での掠奪は,賊のそれ以上だった.
 その上,地域住民は,官軍の兵糧輸送に狩り出され,かえって賊のほうからねぎらい金が住民に出る始末.

 さらに,皇帝・武宗は暗君であり,宦官の専横を許していた.

 さらにまた,賊の背後には,後に叛乱を起こす寧王・朱宸濠が後ろ盾となっていた.

 加えて洪水や旱魃による飢饉が起きたため,四方各地から北京に急を告げて来ない日はないという有様だったという.

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集2 王陽明大伝3』(明徳出版社,2003)
王守仁(オウシュジン)とは - コトバンク
王陽明の生涯 - 山田方谷マニアックス



 【質問】
 江西・福建省南部の乱を,王陽明はどうやって鎮めたの?

 【回答】
 まず,「反間の計」を用い,賊の側のスパイを捕え,逆に彼から賊に通じている全ての者の名を白状させた.

 次に,「狼達土軍」の乱暴狼藉を鑑みてこれを徴傭せず,現地住民から募兵して民兵を組織した.

 さらに,賊の間諜の阻止,地方の治安の維持,民生の安定,民俗の教化を図るため,宋代の「十家牌法」を復活させ,この制度を自衛を図るものにまで発展させた.

 さらにまた,告諭文を発して賊に帰順を促した.

 戦闘においては賊の様子を窺わせては,その隙や油断に乗じ,夜襲や奇襲を多用して賊を打ち破った.

 戦後は住民に対する告諭を発して民心安定・宣撫に務めた.

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集2 王陽明大伝3』(明徳出版社,2003)
王守仁(オウシュジン)とは - コトバンク
王陽明の生涯 - 山田方谷マニアックス

 【質問】
 寧王の乱って何?

 【回答】
 中国は明朝中期の正徳14年(1519),寧王・朱宸濠が帝位を狙って挙兵した叛乱.
 朱宸濠は洪武帝の十七男,寧献王・朱権の5代目の孫だが,弘治10年 (1497),封を継いで寧王となり,南昌に居住していた.
 寧王の家は天順年間 (57~64) ,不法のことで衛兵を除かれていたが,朱宸濠は太監の劉瑾らに賄賂を贈って衛兵を回復させていた.
 その後,彼は中央政府の弛緩に乗じて奸臣たちと通じ,無頼の徒を集め,良民の田宅子女を奪い,正徳12年(1517)にはフランキ砲まで製造して挙兵の機をうかがった.
 正徳帝に対し謀反をおこし,自分の子を正徳帝の継嗣にして帝位を簒奪する計画だった.

 正徳14年,太監の張忠と御史の蕭淮がその罪行を告発すると,正徳帝は衛兵を解散させ,強奪した田畑を返還させる命令を下した.
 ここに至り,6月14日に朱宸濠は南昌で10万の兵をもって挙兵し,江西巡撫・孫燧と江西按察副使・許逵を殺害.
 朝廷を指弾し,正徳の年号を改め,各地に檄を飛ばした.

 7月初め,朱宸濠は南京を占領する計画を立て,水軍を率いて安慶に打って出た.
 しかし,当時,江西僉都御史だった王陽明は,乱の発生を聞き,諸郡に檄を飛ばし,7月20日に南昌を陥落させた.
 朱宸濠は南昌を救援するために引き返し,7月24日に黄家渡で戦闘になった.
 7月26日,陽明は敵の連なった船に火を放ち,3万人余りの将兵を打ち取り,朱宸濠一族を捕らえた.

 8月,陽明が朝廷に報告を行ったところ,正徳帝は「奉天征討威張武大将軍鎮国公」と自称して,8月22日に2万人余りの兵を率いて「親征」を行った.
 朱宸濠を釈放し,改めて正徳帝が捕らえることで,皇帝の威信を示そうとしたため.

 翌年12月,朱宸濠は通州において処刑されている.

 【参考ページ】
岡田武彦『王陽明大伝』4(明徳出版社,2004),p.115-131
https://kotobank.jp/word/寧王の乱
http://baike.baidu.com/view/18424.htm
http://www.kigyo-systems.com/mag/Vol00321.html


 【質問】
 寧王の乱を,王陽明はどのようにして鎮圧したのか?

 【回答】
 小説仕立てであるため,必ずしも全面的に信頼するわけにはいかないが,『靖乱録』によれば,およそ以下の通り.

 鎮圧を命ぜられた王陽明は,準備が整わないので一計を案じ,寧王・朱宸濠の配下の李士実と劉養正に宛てて
 「君らの国に対する忠誠を了解した.
 寧王がいったん城を離れて戻ったときには大事は成功している.」
と書いた親書を偽造し,捕らえていた朱宸濠の間者に,親書の内容を漏らした上で,寧王の下に逃走させた.
 孫子の兵法にある「反間の計」を応用したものだが,陽明は不本意ながらやむを得ず用いたという.

 李士実と劉養正は,早く南京を占領して皇帝を称するよう,寧王に進言していたが,逃げてきた間者の話を聞いた寧王は疑心暗鬼となり,躊躇して動かなかった.
 このとき,南京に官軍は全く集まっておらず,占領の好機であったが,寧王はこれを逃すこととなった.

 その後,南昌城の攻略の際には,まず7.18,朱宸濠軍の伏兵を夜襲で壊滅させた.
 その残兵が城内に逃げ帰って,陽明の大軍が城の四方を囲んでいると告げたので,城内は動揺.
 その動揺に乗じ,7.20,陽明軍は一斉に進撃.
 南昌城の城兵は士気を喪失して退散してしまい,城は落城した.

 その頃,朱宸濠軍は安慶府の府城を攻めあぐねていたが,根城であった南昌城が攻撃されていることを知り,7.22,安慶城の囲みを解いて,南昌城救援に向かった.
 7.23,陽明は,叛乱軍の先鋒が長江から鄱陽湖に到達していることを知ると,黄家渡において,部将の伍文定と余恩の軍勢をもって,一戦してから偽って逃げさせ,敵軍を誘い出した.
 叛乱軍は功名を争って我先にと進み,有利な地歩を占めようとしたため,前後の繋がりが無くなった.
 そこに,官軍の部将・邢珣の軍が,横合いから叛乱軍の中を衝いたので,叛乱軍は混乱.
 これに乗じて伍文定・余恩は軍を返して反撃し,また,官軍の部将・徐璉と戴徳孺の軍勢が左右から挟撃.
 さらに,他の官軍の四面の伏兵も大呼して攻め立てたので,叛乱軍は為すところを知らず,大敗を喫した.

 叛乱軍は士気を喪失し,八字脳の水塞に籠った.
 7.25,先鋒の伍文定がこれを攻めたが,風勢不利なために苦戦して退却した.
 陽明は,官軍の将たちに退却の意があることを知り,命令書を発して剣を中軍官(中堅の官)に与え,指揮官・伍文定の頭を斬り取って皆に示せと命じながら,一方で密かに,もし文定が力戦すれば姑(しばら)く様子を見よと述べた.
 伍文定はこの命令書を見せられて驚き,親(みずか)ら船の舳先に立って兵士を激励し,銃砲で敵船を攻撃した.
 このため,兵士は皆,決死の勢いで戦い,邢珣の軍勢も加わって,叛乱軍を潰敗させた.

 朱宸濠は残兵を集めて樵舎に碇泊し,船と船とを連結して方陣の陣を作った.
 …どこかで聞いたような死亡フラグである.
 これを知った陽明は,25日夜,伍文定らに命じて密かに火攻めの準備をさせ,また,邢珣には左から,徐璉と戴徳孺には右から攻撃するようにさせた.
 さらに余恩らの各官には各々四方に伏兵を作らせ,火攻めが始まったのを見れば一斉に攻撃するよう命じた.

 26日朝,朱宸濠が軍議の最中,四方から官軍の喊声が上がった.
 伍文定は,萩を満載した小船を近寄せ,風に乗じて火を放った.
 火勢は激しく,風も強くなったので,次々と賊船に延焼.
 火光を望見した伏兵が,そこに殺到.
 叛乱軍は敗走し,朱宸濠は捕えられた.

 こうして兵力7~8万を号していた朱宸濠軍は,総兵力34,751名,そのうち屯守の兵を除くと約1万4千名に過ぎなかった陽明軍に敗れたのだった.
 白髪三千丈のお国柄であるから,7~8万は誇張された数字であろうし,総兵力の全部が実働兵力でもないだろうが,『靖乱録』を信頼するとするならば,兵法に通じた陽明に対し,叛乱軍が余りにも無策であったことが,敗北の原因だろう.

 【参考ページ】
http://www.kigyo-systems.com/mag/Vol00321.html
岡田武彦『王陽明大伝』4(明徳出版社,2004),p.153-188


 【質問】
 思恩・田州の乱とは?

 【回答】
 岑氏一族は広西省の有力土着勢力である.
 明代の初めより,思恩・田州などを土官,すなわち土着民出身の世襲官吏として管轄していた.

 ところが嘉靖四年(1525),土官を流官,すなわち朝廷から派遣された官吏に改める政策が採られることとなった.
 当然のことながら,土官にとってはこれは不満であった.
 これまで,流官は弱体であり,賊の討伐には土官の協力が欠かせなかったにもかかわらず,賊が平定されると,軍功は全て流官に独り占めされ,土官は何ら報われることが無かったからである.

 岑氏当代の岑猛は遂に反乱を起こした.
 しかし翌年,都御史で提督軍務の姚鏌が,五路から進軍して,これを討伐し,岑猛とその子を捕えた.
 岑猛は斬られた.

 だが今度は,岑猛の部下で頭目の盧蘇・王受が賊衆を擁して,再び乱を起こした.
 彼らは思恩府と田州府の府城を攻め落とした.
 姚鏌は再び討伐に乗り出した.
 彼は広東,広西,江西,湖広の4省の大軍を率いて攻めたが敗退.

 そこで朝廷は王陽明に命じ,乱を鎮圧させたのだった.
 陽明の伝記では,後の藤峡の乱と合わせて,「陽明の三征」の内の最後の一征として扱われている.

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集5 王陽明大伝5』(明徳出版社,2005),p.193
<研究ノート> 思恩田州叛乱始末記[PDF]
岑猛- 维基百科
姚鏌- 维基百科


 【質問】
 思恩・田州の乱を王陽明はどのようにして平定したのか?

 【回答】
 嘉靖陸年(1527),陽明は両広および江西・湖広の軍務提督に命じられ,軍政全般を処置する権限を与えられた.
 当時,王陽明は56歳.
 結核により咳の発作を発して重篤となることもしばしばあり,健康状態だけ見れば,軍務に適しているとは到底言えなかった.
 にも拘らず,陽明に命が下ったのは,朝廷の輔臣たちが陽明の才能が高く人望が厚いことを妬み,陽明が入閣せぬよう地方に追払いたかったためだと見られている.

 一方,盧蘇・王受らは陽明に対し,帰順の意を示した.
 陽明が赴任して直ちに守備兵数万を撤退させたこともあって,嘉靖柒年(1528)正月7日,部下の頭目の黄富ら,主だったもの十数名を南寧府の陽明軍門に遣わして投降を願い出た.
 陽明はこれを受け入れ,盧蘇・王受の二人を百叩きにしただけに済ませ,7万の賊衆全員をそれぞれ帰郷せしめた.
 つまり,この平定事業において,死者は誰も出ていない.

 戦後,陽明は,同地域における治安維持と民生安定を図るための,種々の方策を献言したが,必ずしも全てが朝廷に嘉納されることはなく,そればかりか朝廷内では盧蘇・王受への措置が姑息であるとの非難も出た.
 げに恐ろしきは,人の妬みと言えよう.

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集5 王陽明大伝5』(明徳出版社,2005),p.191-229
<研究ノート> 思恩田州叛乱始末記[PDF]


 【質問】
 藤峡の乱って何?

 【回答】
 広西省中部に発生した少数民族の賊乱.
 明朝8代皇帝・英宗によっていったんは討伐されたものの,すぐにまた叛乱側が盛り返し,やがては官軍にも鎮圧しきれないようになる.
 王陽明によってようやく撫諭平定(1528年4月~6月)されたが,その後も叛乱は続いた.

 藤峡は柳州府武宣県と潯州府桂平県の境界部分に位置する.
 都泥江を東に下った黔江の両岸で,激流渦巻く断崖絶壁に設けられた賊巣であって,苗族の叛乱であった.

 この乱賊は,八寨の賊とも互いに通交連絡した.
 八寨は広西省柳州府上林県の北に位置する.
 その北端部で北側の慶遠府忻城県との間を流れる都泥江(現在の紅水江)の両岸にそびえる断崖絶壁の中に,徭族の乱賊が8つの要塞
(思吉,周安,古鉢,古蓬,剥丁,羅墨など)
を設けてそれを拠点としたため,八寨と呼ばれた.
 もっともその後,拠点は2つ増えている.

 この二つの乱賊合わせて数万を擁したという.

 その上彼らは,南はヴェトナム北部の交趾(コーチ),西は雲南・貴州省の諸賊と通じ,また,東北の徭族とも連携して,広い地域に出没.
 強奪流劫を働いたという.

 そのため英宗は1465年,都御史・韓雍らに20万の兵をもって藤峡を攻めさせた.
 韓雍麾下の諸将は4方面より進軍し,山中では激戦が展開された.
 韓雍は火計を用いて山寨へ攻め入り,3200余人を斬首,賊将・侯大狗ら780人余りを捕虜にして,同地を平定.
 数か月後に帰還した.

 ところがである.
 兵が引き揚げて間もなく,叛乱は勢力を盛り返した.
 勢力を盛り返しただけでなく,潯州府の府城を陥落させてしまった.
 再び官軍が派遣される.
 城は取り戻され,撫諭された賊は賊巣に戻ったが,強奪流劫はさらに甚だしくなった.
 要は,敵が来れば民衆の中に逃げ込んで敵をやり過ごす,ゲリラ戦の基本を踏襲していた模様.

 一方,八寨のほうは,上述の韓雍が数万の兵をもって攻略したが,賊巣を破ることはできなかった.
 その後,9代皇帝・憲宗の代に,土官の岑瑛が八寨に侵攻して,200人余りを斬ったものの,賊の大軍に抗しきれずに敗退.
 以後,この地方の賊を討伐できない状態が続いていた.

 そこで王陽明に命が下る.
 陽明は徹底的な討伐を行い,藤峡・八寨の賊乱を撫諭平定する.
 しかし陽明は高齢の上,炎暑の地である広西省への遠路出征により疲労困憊し,皇帝に無断で帰郷しようとして途中で死去.

 するとまたぞろ反乱勢力が勢力を回復してくる.
 これに対して金品を送って懐柔しようと試みるも,かえって藤峡以北は反乱勢力が猖獗を窮めるようになった.
 そして県城を夜襲して城兵200名が死亡する事件も起こる.
 このため,官軍は約5万を以てこれを討伐したという.

 時に1538年,英宗の時代から約70年が経っていた…

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集5 王陽明大伝5』(明徳出版社,2005),p.232-233
https://zh.wikipedia.org/wiki/藤峽盜亂
http://baike.baidu.com/view/8477318.htm


 【質問】
 王陽明はどのようにして藤峡の乱を撫諭平定したのか?

 【回答】
 まず参将(総兵官の補佐官)・沈希儀に対し,八寨・藤峡と,周辺の村寨との通交連絡を絶つため,要路を抑えるよう指示した.
 次に広西省右布政使の林富と副総兵官・都指揮の張祐に対し,官兵を率い,盧蘇・王受の土兵と共同して,八寨・藤峡に侵攻するよう命じた.
 ただし,
・攻撃前には必ず,
「お前たちは長年にわたって良民を殺害し,郷村を劫奪した罪がある.
 ただし,我々は罪が大きい賊首どもを,天に代わって討つのであって,その余の脅従する者は全て許す」
と大声で叫ぶこと.
・今回の征討は乱を平定し,民を安んじることを目的とするものであるから,賊の首級を多く獲ることを功とするものでなく,ましてや良民の一木一草たりとも傷(そこな)ってはならぬ
と命じた.
 また,各指揮官に対しては,攻撃前に会同して,軍を進める道路の険易遠近,各賊巣内の賊徒の多寡強弱などを十分に検討して攻撃日時を確定した上,軍旗を伏せ,太鼓は使用せず,静粛に無人のごとく攻撃開始予定地点に集合した上,密かに夜陰に乗じて進軍し,疾風迅雷的に攻撃するよう命じた.

 討伐作戦は,まず藤峡から始まった.
 広西省の兵と湖広省への帰還途上の兵,合計6200余名は1528.4.2,密かに藤峡近くに集結し,それぞれ道を分けて進軍.
 4.3早暁,各賊巣への一斉攻撃を開始した.
 叛乱軍は攻撃に気付かず,奇襲となった.
 王陽明は南寧府に駐留していて出陣する気配がなく,兵士を調集し,糧食を準備する模様も見えなかったためである.
 兵士が調集されなかったのは,帰還途上の兵を投入したからであり,糧食を準備する様子が無かったのは,経路の関係各官に糧食と旅費を手配するよう陽明が命じていたためである.

 それでも叛乱軍は頑強に抵抗したが,結局仙女大山に退却.
 官軍は引き続き各賊巣に対する掃討作戦を行い,4.10までに藤峡の賊巣をほぼ制圧し終えた.
 主だった賊徒で斬られた者275名.
 官兵の追撃が急なため,黔江に落水して溺死する者も約600名に上ったという.

 さらに,藤峡周辺の賊巣に対する掃討作戦が行われ,4.24にこれも完了.
 その間に斬られた,主だった賊徒は829名と報告された.

 他方,八寨に対しては,盧蘇・王受以下の思田の土兵を含めた広西省の兵,約6100余が4.22晩,近くに集結し,人馬の口に枚(箸のようなもの)を咥えさせて音を立てないようにし,深夜に進軍させた.
 そして翌日早朝,賊巣を奇襲.
 敗走する叛乱軍を官軍は追撃し,6.7までに八寨の賊巣の全てを攻略した.
 主だった賊徒で斬られた者は1901名.
 また7日には,叛乱軍残兵のうち約千余名が舟で対岸の柳慶地方にある賊巣に逃れようとしたが,たまたま強風が起こって船は全て転覆し,殆どの叛乱兵が激流に呑まれて溺死したという.

 このようにして反乱を鎮めた陽明だったが,元々結核体質だった彼の病状はいよいよ悪化して,危篤に近いほどの状態になった.
 やむを得ず,朝廷の許可が得られぬまま,広西省南寧府を彼は離れ,郷里に向かったが,帰郷を果たせず,11.29午前8時ごろ,舟中で57歳の生涯を終えたのだった.

 【参考ページ】
岡田武彦『岡田武彦全集5 王陽明大伝5』(明徳出版社,2005),p.234-271
https://zh.wikipedia.org/wiki/藤峽盜亂


 【質問】
 劉念台って誰?

 【回答】
 劉念台(1587~1645年)は中国の明末の儒学者.
 名は宗周,字は起東.
 山陰(浙江省紹興)の人.
 幼い頃は貧窮のため,母に従い,会稽の外祖父,章穎(しょうえい)の家で育てられた.
 万暦29年(1601年),24歳で進士に及第し,行人を授けられた.
 26歳の時,王陽明の学友,湛若水の弟子である許孚遠に師事.
 34歳の時,紹興の北,蕺山(しゅうざん)に書院を開き講学した.
 天啓元年(1621年),44歳の時,礼部主事となり,光禄寺丞,尚宝少卿,太僕少卿を歴任.
 天啓4年(1625年),右通政となるが,東林党を弁護したため,彼自身も東林党と見做され,魏忠賢に弾劾されて罷免された.

 1628年,崇禎帝が即位すると,再び召されて順天府尹,工部侍郎,南京左都御史を歴任.

 儒者としては陽明学の思想的遺産を活用しながらも,朱子学の固陋,陽明学の横流を忌避して,独自の哲学的立場を樹立.
「天地の間に盈ちるは一気のみ」
「理は即ち是れ気の理,断然として気の先に在らず,気の外に在らず」
と気一元論を唱え,万物は「即有即無」の気が変化してできると主張した.
 また,
「心を離れて性なく,気を離れて理なし」
と,心を主宰として気が性・理を貫通するとし,王陽明の「致良知」説を改め「慎独」説を唱え,「善を好み,悪を悪む」誠意を工夫する実践学を主張した.

 そして彼は証人書院を開き,張楊園ら多くの弟子を養成.
 児童啓蒙書『人譜』は日本でも刊行された.

 清の脅威が迫る中,国運を憂えて崇禎帝に上書したが通ぜず,明滅亡が決定的となるや絶食して死亡した.
 明末の儒者には,他にも入水自殺した者や,清朝へ仕えることを頑として拒否した者が多い.
 朱舜水の影響を受けた水戸学もそうだが,これら明末の儒学思想が日本にもたらされ,勤王思想となって明治維新の思想的原動力となった.
 一方,江戸幕府の御用儒学者のほうは,この勤王思想の下,幕藩体制の存在をどう言い訳するかに苦慮したという.

 【参考ページ】
岡田武彦『劉念台文集』(明徳出版社,2005)
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E5%8A%89%E5%AE%97%E5%91%A8_%E5%8A%89%E5%AE%97%E5%91%A8%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%89%E5%AE%97%E5%91%A8-149704


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