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◆◆◆国共内戦以降 Kínai polgárháború
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 【link】

「地政学を英国で学んだ」◆(2013/04/24) (フランス革命の)結論を出すにはまだ早すぎる?
 周恩来語録について

『中華人民共和国誕生の社会史』(笹川裕史著,講談社,2011.9)

 出ていた事自体知らないという不覚を取ったが…
 かの「銃後の中国社会」の笹川氏が,更に数倍パワーアップして戻ってきた!
 文句なしの名著.
 今の中華人民共和国がどうしてこうなったのかが,国府の大後方たる四川省の,戦後状況の滅茶苦茶さから見えてくる.
 档案の研究はなお続けている模様なので,この先の時代の分が待ち遠しい.

-----------------軍事板,2011/10/25(火)

『中国革命と軍隊 近代広東における党・軍・社会の関係』(阿南友亮著,慶應義塾大学出版会, 2012/08/22)
>中国革命=「土地革命」の常識を覆す

『中国文化大革命の大宣伝 上』(草森紳一著,芸術新聞社,2009.5)
『中国文化大革命の大宣伝 下』(草森紳一著,芸術新聞社,2009.5)

『私は「毛主席の小戦士」だった―ある中国人哲学者の告白』(石平著,飛鳥新社,2006.10)

 失意を抱いて留学した日本で彼が出会ったものは,祖国から消えうせた「論語」であり,「礼節」であり,「江南の春」の風景であった.
 自分たちがゴミのように投げ捨てたものが,日本には息づいていた・・・.
 共産党政権に洗脳され,騙され続けた知識人の慟哭と,祖国への決別の手記.

 著者は哲学者です.
 岡崎久彦さんの紹介を通じて知った本ですが,そのご指摘どおり,著者の日本理解の深さは刮目すべきものです.

――――――おきらく軍事研究会,平成18年(2006年)12月18日

●天安門事件

「Military Photos」:Tiananmen 4th June 1989
 天安門事件の写真.グロ注意.

「YouTube」:天安門事件 1/3
「YouTube」:天安門事件 2/3
「YouTube」:天安門事件 3/3

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/06/01)中国  天安門事件から23年  事件を巡る様々な動き

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/06/06)中国  天安門事件から23年  事件を巡る様々な動き(その2)

「古森義久」:天安門事件の大虐殺をアメリカ政府は当初から把握していた

「古森義久」:天安門事件の真相は――装甲車がデモ隊をひき潰した

「古森義久」:「なぜ中国人が中国人を撃つのか」――天安門事件の目撃証言から

「古森義久」:額の真ん中に銃弾を受けた――天安門事件のアメリカ政府報告(4)

「古森義久」:人民解放軍は機関銃の激しい射撃を続けた――天安門事件報告(完)

「大陸浪人のススメ」:北京の20歳前後の連中に天安門の話を聞いてみた

「大陸浪人のススメ」:中国の30代「俺,天安門事件のときに小学生だったんだけどさ」

●劉暁波ノーベル平和賞受賞

「D.B.E. ミニ型」(2010/09/29)劉氏受賞阻止狙い,中国次官がノーベル委に圧力?

D.B.E. ミニ型」(2010/10/10)(情報元;移譲記章) 平和賞,規制くぐってネット上に歓喜の書き込み 反発も

「Togetter」◆(2010/10/08)劉暁波氏ノーベル平和賞受賞,中国側の様子&日本のチャイナウォッチャーTL(追えた分のみ)

「ストパン」■(2008-12-12)[にゅーす]中国の知識人,民主化を掲げた「08憲章」を発表

「スパイ&テロ」◆(2010/10/10)中国民主化運動家がノーベル平和賞

「大陸浪人のススメ」◆(2010/10/09)劉暁波,ノーベル平和賞受賞と「中国の分裂」

「大陸浪人のススメ」◆(2010/10/14)中国女子「ノーベル賞のお礼に万博ノルウェー館に献花してくるわw」→「おや,ホテルに公安が…」


 【質問】
 国共内戦で美式中国軍は,なんで負けてしまったのでしょうか?

 【回答】
 アメリカからの援助が滞り,補給が途切れてしまったから.
 アメリカ式と言うことは潤沢な補給が前提となりますので,それが途切れてしまえば戦力として機能しません.
 まぁ,どこの軍隊でも同じ話ですが.

 その援助が滞った原因は,中国政策における全権大使であったジョージ・C・マーシャルの暗躍が,大きな要因となっています.
 マーシャルは非常に容共的で,共産主義者のシンパと言われていました.
 まず,国民党に不利な停戦協定を持ちかけたり,それを共産党が破ってもスルーしたりしました.
 また,「中立政策に反する」と称して援助を停止し,一方でソ連の共産党の支援は見て見ぬ振り.
 それが原因で戦線が膠着すると,
「戦争での決着をつけるのは無理だから,彼らを政府に参加させるべき」
とまで言い放ちます.
 そして,戦前から中共の脅威を警告し続けたウェデマイヤーの報告を握りつぶし,議会からの援助議決を牛歩戦術で遅らせます.

 そうしている内に国民党の敗北は決定的になり,南京は陥落.
 蒋介石は台湾に逃れることになりました.

 この経緯から,「中華人民共和国の建国者は毛沢東ではなくマーシャル」と言う皮肉もあります.
 この時の援助停止と物資枯渇は,蒋介石にとってトラウマになったようでした.
 その為,台湾に逃れた後に援助や物資が切れても戦える軍隊として,装備は米軍でありながら旧日本軍式の軍隊の構築を始めました.
 それには旧日本軍の将校団である白団(ぱいだん)が大きく関わっています.

ue ◆WomMV0C2P. in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 国共内戦の時,国民党にアメリカはそこそこ支援していたのに,負けた原因はなんですか?

 【回答】
 その支援にも係わらず,敗戦直前まで日本にボコボコにやられていたから,蒋介石の能力を疑問視する声がアメリカから上がっていたのと,戦争が終わって援助が減らされた為.
 それだけでなく国府軍の内部でも,彼に対する不満が噴出していた.
 彼の国内での政治生命はある意味,アメリカからの援助で繋がれていた節があった.

 その間隙を共産党に突かれた.彼らは国共合作と言いつつ大戦中は前線は国府軍に任せ,農村を中心に支持基盤を作り上げ,力を蓄え,他の軍閥への切り崩し工作を進めていった.

 他にもソ連からの支援等,様々な要素が重なり,国府軍は台湾へと追いやられていった.
 共産党が土地改革などの飴をぶら下げて,民衆の支持を取り付けていったのに対し,国民党側はインフレ抑制の失敗や,官僚の腐敗により,民衆の離反を招いたよう.
 また,国民党の支持母体は資本家や地主層.
 でも,日本軍によって東部の資本家は全滅状態.
 農民は土地改革を進める共産党に支持して,地主を追い立てる.
 しかも国民党の役人や軍人は腐敗しきっている.
 これでは勝てんよ.


 【質問】
 中国共産党は戦後の国共内戦を日本軍の装備で戦ったと聞きました.
 これはどうやって入手したのでしょうか?

 【回答】
 入手方法としては時期によって変化しています.

1:戦前~戦時中ですが日本軍が物資調達に阿片を利用しているのに目を付けて,阿片を栽培し,それを中古武器とバーター取引して,これを使用.

2:戦後,北支,満州で武装解除された日本軍の装備を接収したものを使用.

3:内戦の後半は満州の接収したの兵器工廠の生産が軌道に乗ってきて,ここで生産した兵器を使用.

 なお,第一項は中共的には無かった事になっています.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第二次大戦直後の蒋介石の雲南討伐について教えられたし.

 【回答】

 さて,1945年8月,日本が無条件降伏し,日中戦争は終了します.
 中国は戦争に勝利したのですが,国内では政治・軍事の両面で,国民党と共産党の対立が激化しており,経済は長期の戦争により荒廃していました.
 これを打開する為に挙国一致政府を樹立し,難局を乗り切ろう,そして経済再建を行おうとしますが,国民党と共産党,それに諸党派の合作の試みは不調に終わり,国民党が独自に行った経済再建計画も失敗に終わりました.

 結局,日本との戦争が済んで1年もしない1946年から国共内戦が始まり,それから政治・経済は更に混乱を極めました.
 そして,抗日戦争勝利から僅か4年後の1949年には国民党政府の大陸支配は崩壊し,10月には中華人民共和国が成立することになります.

 この時,雲南も激動の波に翻弄されました.
 その最初の動きは,蒋介石による龍雲政権の打倒でした.
 日本が敗北する僅か5日前の1945年8月10日,かねてから雲南を国民党政府の支配下に入れることを狙っていた蒋介石は,昆明防守司令の杜聿明を重慶に呼び,龍雲を雲南から除くための準備をするよう命令しました.
 蒋介石にとって,龍雲を打倒する際の最大の障害は,龍雲に絶対的な忠誠を誓っていた雲南軍の存在でした.

 折しも,フランス領インドシナ北緯16度線にほくに駐屯する日本軍の降伏受理は中国が担当することになり,これ幸いと蒋介石は,第1方面軍総司令の盧漢に雲南軍を率いてヴェトナムに行き,その任務に当たるよう命令しました.
 蒋介石はこうして雲南軍主力を雲南から遠ざけようとしたのです.

 龍雲は蒋介石の命令に疑いも持たず,盧漢が率いる雲南軍をヴェトナムに派遣しました.
 但し,国民政府はヴェトナムに於て宗主国であるフランスの特権を,事実上承認する方針でしたが,盧漢と雲南軍の士官や兵士達はヴェトナムの独立運動に共感し,フランスの植民地行政府を嫌悪していたので,龍雲は盧漢に,もし後方で事件が起きたら大至急軍を帰すこと,また,日本軍を武装解除した武器の一部でホー・チー・ミンを支援することを命じています.

 ヴェトナム派遣の盧漢の第1方面軍は第60軍と第93軍の2国軍と2個師の計8個師で,降伏受理には充分な兵力でしたが,蒋介石は中央軍2個軍と1個師を雲南軍の後詰めとしてヴェトナムに送り込み,1個軍は国境の河口に配置して,雲南軍を後方から監視する体制を取りました.
 雲南に残った雲南軍は,龍雲の次男が率いる第24師と憲兵団,警護大隊のみなのに対し,中央軍は昆明周辺に第5軍を主力とする強力な部隊を駐屯させており,龍雲の昆明留守部隊は事実上中央政府軍に包囲されている状態でした.

 こうして,軍事上の配備を終えた蒋介石は,龍雲打倒のための司令部を,機密保持のために西康省の静かな山中の都市,西昌に置きました.
 10月2日,蒋介石は宋子文,陳誠,何応欽,李宗黄,関麟徴等を西昌に召集して緊急会議を開催し,雲南省政府の改組を決定しました.
 そしてその日の午後,何応欽,李宗黄,関麟徴は蒋介石の命令書を持って昆明に飛びました.
 その命令書の中味は以下の通りでした.

1. 軍事委員会委員長昆明行営,昆明警備司令部,昆明憲兵司令部は
  一律に撤廃.
  昆明行営主任,陸軍副総司令,雲南省政府委員兼主席兼軍管区司令
  龍雲は解職.
  雲南の地方部隊は昆明防守司令官杜聿明が接収・改編.
2. 盧漢を雲南省政府主席に任命し,その着任までは雲南省民政庁長の
  李宗黄が代行.
3. 龍雲は軍事委員会軍事参議院院長に任命.

 10月3日朝5時,杜聿明は各軍に行動を起こすように司令します.
 龍雲の部隊は不意を打たれ,殆ど無抵抗の儘武装解除されましたが,省政府所在地の五華山にいた警護部隊2個連は頑強に抵抗を続けました.
 中央軍が軍事行動を起こした時,城内東南の威遠街にある公邸にいた龍雲は後門から脱出し,路地を通り抜けて五華山に登りました.
 次いで,龍縄租と龍雲の腹心の軍人である張冲も五華山に潜入し,山上で警護部隊の指揮を執りました.

 杜聿明の第5軍は夜明けには五華山を除く全市を支配して戒厳令を敷きますが,五華山には直ちに進撃出来ず,その周囲を包囲しました.
 突然の攻撃に激怒した龍雲は,至急電を打って盧漢に軍を率いて直ちに雲南に帰還するよう命令し,且つ各県の県長に地方部隊を昆明に派遣して,杜聿明軍を攻撃する命令を出します.
 しかし,無線電信局と電報局は逸速く中央軍と特務によって監視されており,龍雲の命令は発信されることはありませんでした.

 この日,蒋介石はハノイの盧漢の下に使者を送り,盧漢を雲南省に任命するとの親書を手渡しました.
 盧漢はこの親書の意味を疑いましたが,彼の軍隊は中央軍に包囲されて動きが取れず,降伏受理の仕事に専念するしかありませんでした.

 龍雲が五華山を死守する構えを崩さないことから,事態は膠着状態に陥ります.
 この膠着状態により,城外にいる雲南軍や地方軍が新たな行動を起こし,事態が拡大する事を恐れた李宗黄と杜聿明は雲南の元老で省政府委員の胡瑛に調停を依頼し,胡瑛は蒋介石の親書を持って五華山に登りました.

 胡瑛は龍雲に対し,今,蒋介石と戦えば昆明は破壊され,数十万の民衆の生命財産が損失を受けること,盧漢の軍隊は帰路を絶たれており,中央軍と雲南軍の兵力差は隔絶していることなどを説明し,平和的解決の道を選ぶよう説得しました.
 更に10月5日の夕方には,龍雲との関係が良好な行政院長である宋子文が専用機で昆明に到着し,龍雲に軍事参議院院長の職に就任するよう勧め,更に彼の身の安全を保証しました.
 これらの説得の末,遂に龍雲は抵抗を断念し,6日午前,宋子文,何応欽とともに昆明を出発して重慶に向かいました.

 龍雲が去った後,杜聿明の部隊は雲南各地に進駐して民間の武器を押収し,龍雲の腹心の部下達を逮捕し,総ての地方部隊を第5軍に編入して,雲南の龍雲勢力を消滅しようとしています.
 しかし数日後,杜聿明は雲南問題の処理が不適切だったとの理由で,突然杜聿明を免職,処罰し,関麟徴を雲南警備司令に任命しました.
 これは蒋介石の芝居で,龍雲の怒りを鎮めると共に,雲南の人々の不満を和らげるための措置でしかありません.
 結局,杜聿明はその後,東北保安司令長官に任命されています.

 ところで,昆明の民主勢力は龍雲追放の政変には何等有効な対応が出来ませんでした.
 杜聿明は政変の際に西南連合大学の教員と学生に対する警戒を厳重にして,彼等が龍雲支持の動きをすることを防止しました.
 事件当時,西南連合大学も外との通信や交通が完全に断たれた状態であり,教員や学生達が龍雲側の動きを知る事が出来ませんでした.
 従って,龍雲を支持した民衆も余りに事態が急に進んだので,手の打ちようがありませんでした.

 こうして龍雲の18年間の統治は終焉を迎えます.
 雲南の地方政権は,彼が雲南を去ると瓦解し,完全に中央政府が雲南を手にした様に思えました.
 しかし,龍雲が育てた民衆達は,民衆運動を継続させ,新たな局面を迎えることになったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/02 23:27
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南討伐後,国民党政府はどのような雲南統治を行ったのか?

 【回答】

 さて,10月6日,龍雲政権は国民党軍により終わりを告げ,その代わりに中央から統治者がやって来て,雲南は完全に国民党政権に組み込まれることになります.
 その実権を握っていたのは,雲南警備司令で陝西省出身の関麟徴と,李宗黄でした.
 李宗黄は民政庁長の身分で省政府主席代理に任命され,更に国民党支部主任と省軍管区司令の職も兼任します.
 この李宗黄は,省西北の鶴慶県出身で,1910年代には雲南都督府参謀処長,雲南市政督辯を務めていましたが,1924年に国民党中央候補執行委員に当選後は,雲南に帰ることなく,中央の要職を歴任していました.
 特に彼は蒋介石と関係が深く,中統(CC)に属していました.

 蒋介石の意図は雲南省に中央の政令を貫徹させ,再び雲南を半独立地域にしないことにあり,李宗黄はこれを受けて雲南の中央集権化を実現しようとします.
 李宗黄は行政院県政計画委員会副主任,中国地方自治学会理事長などの職にあった人物で,雲南で実施しようとした政治の主たる内容も国民党の施行する地方自治の完成でした.
 彼は雲南省訓団主任も兼任し,1946年度には省政府所属の幹部・職員から各県の保甲長に至るまで69,200余名を訓練する計画を立て,3年間で彼等を「三民主義の闘士」に仕立て上げようと企図した他,更に「三民主義の新雲南」の実現を目標とする施政綱領を作成します.
 それは,雲南を国民政府の支配下に組み込もうとするものでした.

 李宗黄が権力を奪取して真っ先に取り組んだのは,龍雲が培っていた雲南の地方勢力の一掃,及び共産党地下組織と民主勢力の弾圧でした.
 李宗黄は関麟徴と組んで,農村では逃亡した雲南軍兵士を取り締まるという名目で粛清工作を進め,都市では戸口調査を行い,特に昆明では,各学校で左派系の学生を逮捕し,多くの学校の校長を入れ替え,民主派の教師を解任し,新聞出版法を制定し,世論を厳しく統制しようとします.
 しかし,この性急な中央化政策は,雲南の人々の反感を買い,「擁盧・倒関・駆李の潮流」が急速に形成されていきました.

 この様な状況で,雲南の政局は不安定になり,蒋介石は盧漢を起用せざるを得なくなります.
 元々10月の政変に当たって,蒋介石が盧漢を省主席に任命したのは,雲南の人々を懐柔するためで有り,何れ李宗黄を正式な省政府主席に昇進させるつもりだったのですが,その目論見が早くも崩れ始めた訳です.

 11月5日,蒋介石は重慶に到着した盧漢に省主席への就任を求め,これに対し盧漢は雲南省警備司令部を廃止するか,少なくとも別に雲南省保安司令部を設立し,省主席が司令を兼任することを要求します.
 蒋介石は,雲南省保安司令部を設立して盧漢が司令を兼ねることを許可しますが,雲南省警備司令部撤廃は認めませんでした.
 また蒋介石は,盧漢が第60軍と第90軍の人事の調整を行う事,雲南省の政府委員と各庁長の人選は盧漢が行政院長の宋子文と協議して処理することを承認します.
 こうして盧漢は,蒋介石の譲歩を得て省主席就任に同意し,雲南軍を2個軍6個師に再編しました.
 しかし,この雲南軍は1946年2月,蒋介石の命令で東北の前線に派遣されてしまいました.

 11月20日,雲南省政府が改組され,政府委員には盧漢,民政庁長兼任の李宗黄,胡瑛,繆嘉銘,張邦翰等が任命されました.
 盧漢は25日に昆明に飛び,12月1日に正式に雲南省主席に就任しました.
 とは言え,この時期,李宗黄は民政庁長として,関麟徴は雲南警備司令として,尚雲南の政治・軍事に睨みをきかせており,盧漢の権力は未だ弱体でした.
 しかし,昆明の民衆運動はこの頃から大きな昂揚を見せ始め,雲南の政局に影響を与えることになります.

 この時期,国共間で内戦勃発の危機が拡がり,中国各地で内戦反対の運動が活発化していました.
 重慶では11月19日,各界の人々により反内戦連合会が設立され,反内戦運動を全国に拡大するように呼びかけました.
 そして,21日には昆明で,西南連合大学・雲南大学・中法大学・英語専科学校の各学生自治会が連席会議を開き,25日に反内戦時事集会を開催することを決定します.
 これに対し,省主席代理の李宗黄は,その集会開催を阻止するために,24日夜,党政軍各機関の長を召集して連席会議を開催しました.
 会議では,「各団体・学校の総ての集会及びデモは,もし本省の党政軍機関の許可を得ていなければ,一律に厳禁する」との議決が為されました.

 にも関わらず,25日の19時から,時事集会が西南連合大学の図書館前広場で6,000余名を集めて予定通り開催されました.
 集会では費孝通等西南連合大学の4教授が演説し,内戦の制止や連合政府の成立などを訴えましたが,演説が行われている間,大学の外からは繰り返し銃声が聞こえ,時には流れ弾が会場の上空を飛んだりしていました.
 国民政府第5軍麾下の部隊が校舎の周囲を包囲し,集会に対する威嚇射撃を繰り返したのです.
 この他,特務も潜入して集会進行を妨害しました.
 しかし集会は続けられ,昆明4大学全学生の名義で,国共両党に内戦制止を求める通電が採択されました.

 26日,西南連大学生自治会は内戦反対と前日の軍隊や警察の暴行に抗議して,即日罷課,つまり学生のストライキに入ることを宣言します.
 雲南大学など市内の大学,中学の自治会も罷課を決議し,その動きは29日には全市44校の大学,中学の内31校にまで拡大しました.
 28日には,罷課参加校は罷課連合委員会を結成して「罷課宣言」を発表し,直ちに内戦を制止し,平和を要求する,諸外国が中国の内戦を助長することに反対する,民主的な連合政府を組織する,人民の言論,集会,結社,デモ,人身の自由を保障すると言う4項目の主張を掲げました.
 また,雲南の党政軍当局に対しては西南連合大学を射撃した事件の責任追及や,集会・デモを禁止した24日の不法な禁令の取消,学生の身体の自由を保障し任意に逮捕しないことなどを要求しました.

 当然,李宗黄はこれに反発し,27日に各学校及び憲兵・警察の責任者を召集して緊急会議を開催し,各学校当局に思想上問題のある学生の名簿を提出し,28日には授業を再開するように命じました.
 また,27日から30日にかけて特務は至る所で学生を殴打し,憲兵は街頭で反内戦を宣伝する学生を逮捕しました.

 29日,西南連合大学の教授会は,25日の集会の時に軍隊が大学を包囲して発砲したことに対する抗議書を発表,30日には,民主同盟昆明支部が学生運動を支持する声明を出しました.

 こうして,昆明では日に日に緊張が高まっていき,12月1日に遂に暴発することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/03 22:57
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「12.1事件」とは?

 【回答】

 さて,12月1日,昆明の学生に対し,数百名の軍人と暴徒が棍棒,天秤棒,更には手榴弾までも持ち出して,雲南大学,西南連合大学,同附属中学,昆華女子大学,新華日報昆明営業所などを襲撃し,中学校の教員1名,師範学院の男女学生2名,工業学校の学生1名の計4名が殺され,重傷者25名,軽傷者30余名の犠牲者が出ました.
 聞一多は,この事件を聞いて,
「『一二.一』は中華民国建国以来,最も暗黒の一日である」
と記しています.

 この事件の発生後,罷課連合委員会は毎日,100~150組の宣伝隊を昆明の街頭に出し,事件の真相を社会の各界の人々に訴えました.
 12月6日には,34の大学・中学の学生が連合して,「第二次罷課宣言」を発表し,当局に対し,12月1日の首謀者の関麟徴,李宗黄等を厳罰に処すること,当局は殉難した学友の弔慰金と負傷した学友の医薬費を負担する事,総ての公私の損害を賠償することを要求しました.

 更に罷課連合委員会は,4~24日まで4名の殉難者の公葬を西南連合大学の図書館で挙行します.
 公葬には各界から700余の団体,延べ15万人以上の参列があり,国民党や国民党政権に対する一大デモンストレーションになりました.

 そして,学生達は教員達にも罷教を呼びかけ,これに呼応して4日,西南連合大学の教授会は7日間の授業停止を決定,6日には昆明の30の大中学校教員298名が連名で「罷教宣言」を発表し,即日罷教を開始します.
 また,省臨時参議会の昆明委員会も,2日,学生代表の陳述と要求を聴取した後,省政府に対策を講じて暴行を制止し,学生の安全を保障し,社会秩序を維持する事を求める決議を採択しました.

 12.1事件に対する抗議は,昆明だけでなく省内各地に,更に全国に拡がります.
 省内では昭通,大理等10数県の小中学校の教員や学生が抗議集会を開き,罷課と募金によって昆明の学生運動を支援し始めていますし,重慶と成都では,12月9日,昆明で殺害された教師と学生を追悼する数千人規模の集会が開かれました.
 1946年1月13日には,上海で追悼大会が開催され,孫文の妻である宋慶齢を始め各界の要人など2万人が参加しています.
 その他,西安,貴陽,遵義,武漢,広州,長沙,杭州,南京,南昌,福州,桂林,延安の各都市でも大衆的な支援活動が行われました.
 更に事件のニュースは海外にも伝わり,各地の華僑達の間で昆明の学生運動に対する支援の動きが拡がりました.

 こうした抗議行動の拡がりによって打撃を受けた国民党と国民党政権は,昆明の民衆運動に対する対応を変更せざるを得なくなります.
 国民党中央は雲南の党政軍当局に電報を打ち,「暫く武力鎮圧を停止し,事態の拡大を避ける」と命令したと言われており,公然と行われていた特務の活動は弱まっていきます.
 そして,12月7日には関麟徴が蒋介石に自らの処分を願い出て,蒋介石は関麟徴を「停職」に処し,「処分の議を待つ」様に命令しました.

 同時に国民党政権と雲南省政府は罷課を中止させるために様々な方策を打ちます.
 7日,蒋介石は「昆明の教育界に告げる書」を発表し,
「此の度の事件に対しては…公平な責任ある処置を執るべき」
としながらも,「現在の総ての問題は授業の再開」が前提であるとし,
「そうでなければ政府は如何に青年を愛護しようとも,教育を守り,秩序を安定させる職責を放棄出来ない」
と述べ,罷課に対する強硬な態度を取る可能性を示唆します.
 この様な状況下で,盧漢の立場は非常に危ういものでした.
 省主席として表に出ざるを得ず,そして事件収拾に失敗すれば失脚の可能性すらあったからです.
 そこで彼は学生に同情しつつも,蒋介石の意に沿って,学生達に授業の再開を強く求めました.
 11日,国民政府教育部長朱家?は,重慶を訪れた梅貽琦西南連合大学常務委員に対して,政府は必要な時には西南連合大学を解散させる可能性があると迫りました.

 国民政府の圧力が強まる中で,大学当局と教授会は苦しい選択を迫られました.
 11日と12日,西南連合大学と雲南大学はそれぞれ17日に授業を再開することを決議しましたが,学生はこれを拒否,17日,西南連合大学教授会は学生に対し20日に授業に戻る事を求め,さもなければ教授達は已むなく辞職するとの決議を採択しました.
 雲南大学の教授80名も学生に復学を求める文書を発表し,18日,熊慶来雲南大学学長は国民政府教育部に「責任を取って辞職する」と言う電報を打ちました.

 こうした闘争を指導してきたのは共産党の雲南工作委員会ですが,この状況の変化に対応して闘争戦略を変更しました.
 このまま罷課を継続することは,次第に大衆の支持を失い,学校の前途に対しても不利であると判断したのです.
 省工作委員会と西南連合大学の党支部責任者は協議の上,復学条件の内で早期に実現することが困難な李宗黄,関麟徴等の処罰要求は長期の闘争目標とし,其の他の条件について一定の結果が得られれば復学することを決定しました.

 18日,西南連合大学学生自治会は代表大会を開催し,激しい討論の末,復学の条件を変更する決議を採択します.
 更に20日,代表大会は授業再開の条件を正式に決定しました.
 その内容は,以下の通りです.

1. 李宗黄・関麟徴の免職とその後の法による処罰
2. 集会・デモを禁止した11月24日の不法な禁令の取消
3. 人身の基本的自由の保障

 罷課連合委員会の代表大会もこの条件を承認し,西南連合大学と雲南大学の当局もこの学生の要求変更を歓迎し,辞表を取り下げて政府との交渉を進めました.
 折しも中国の内戦を調停する目的で派遣された米国特使マーシャルが20日に上海に到着し,それへの配慮から蒋介石は反内戦運動に対する強硬政策を緩和せざるを得なくなります.

 蒋介石は盧漢に電報を打ち,学生に対し譲歩するように指示しました.

 この結果,24日に雲南の支配者として君臨していた李宗黄は悄然として昆明を去りました.
 そして25日には,罷課連合委員会は「復課宣言」を出し,授業は27日から再開されました.

 この学生の授業放棄に端を発した騒動は,国民党の立場を更に弱めることになります.
 また,雲南を中央政権の支配下に組み込もうとした蒋介石の野望を体現していた李宗黄,関麟徴等は雲南を退去し,再び盧漢を中心とする雲南の地方勢力が権力の座に返り咲きました.

 しかし,成立当初の盧漢政権は尚弱体でした.
 軍事面では,雲南に蒋介石の許可を得て省保安本部が置かれ,4個の保安大隊と独立大隊を組織することが計画されましたが,省政府は経費を負担するだけで,人事・編成・訓練などの実権は雲南警備司令の霍揆彰が握っており,盧漢は部下のいない司令官でしかありませんでした.
 政治面では,盧漢が雲南に帰る前に,李宗黄が政府委員の張邦翰と胡瑛を抱き込み,李宗黄は中央から,張邦翰と胡瑛は雲南で,相呼応して盧漢に圧力を掛けました.
 財政経済面では,龍雲の追放後,蒋介石の命令で雲南全省経済委員会と雲南省企業局の資産は凍結され,空襲を避けて昆明西郊の海源寺にあった富?新銀行所有の金銀は封印されて,省政府は関与出来ませんでした.
 つまり,政治,経済,軍事のあらゆる面で盧漢には,省主席という政治上の地位以外は何もなかったのです.

 ところが,盧漢が蒋介石から雲南の権力を取り戻す機会が間もなくやって来ます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/04 23:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南における盧漢の「新政」について教えられたし.

 【回答】

 さて,盧漢は龍雲から政権を引き継いだ形でしたが,当初,殆ど蒋介石の操人形同然の状態でした.
 しかし,蒋介石とその配下の余りにも無能な統治により,雲南の権力を取り戻す機会が間もなく訪れます.

 1946年1月,平和を願う国内世論と米国の調停を背景に,重慶で政治協商会議が開催され,平和と民主主義への希望が中国国民の間に広まります.
 因みに,この会議には雲南から無党派代表として繆嘉銘が出席していました.

 しかし,国民党内ではこの政治協商会議に対する反発が強く,3月の国民党第6期第2回中央委員会では,政治協商会議の決議を骨抜きにし,国民党の一党独裁を維持する決議が採択されます.
 内戦の危機は深まり,東北では4月上旬より国民政府軍が交通の要衝である四平街を攻撃し,5月半ばに占領しました.

 ところが5月30日,東北で国民党政権の内戦に従事させられていた雲南軍第60軍第184師の1個団が蜂起し,集団で共産党側に寝返るという事件が起こりました.
 これは国共内戦に於ける最初の国民政府軍の蜂起で有り,蒋介石は非常に衝撃を受けて盧漢を南京に呼び,東北に赴いて雲南軍を慰撫するように求めました.
 これに対し盧漢は,この機に乗じて,蒋介石に省保安司令部と保安団に対する実権を自分に与えるように要求します.
 この要求は直ぐには容れられませんでしたが,1つの布石にはなりました.

 昆明の12.1運動は,1946年3月17日に挙行された4名の犠牲者を埋葬するための出棺デモを以て終息し,民衆運動は停滞期に入ります.
 と言うのも,5月4日に今まで昆明の民衆運動の中心を担っていた西南連合大学が僅か8年という歴史で終焉を迎えたためです.
 この大学の学生が去った事は民主運動の力量を大いに低下させました.

 また,西南連合大学最後の学生グループが昆明を去った7月11日夜に,昆明を訪れていた李公樸が国民党特務によって暗殺されました.
 昆明の国民党特務は,暗殺リストの筆頭に李公僕と聞一多を載せていたと言われており,李公樸はその最初の犠牲となったのです.
 15日午前,雲南大学の至公堂で,李公樸殉難の経過報告会が開かれ,会場は1000余名の人々で埋まったのですが,その中に国民党特務も紛れ込み,会の進行を妨害します.
 これに怒った聞一多は,
「本日,此処に特務はいるだろうか.君,立ちなさい.立派な男なら前に出なさい.出て話すんだ.何の理由があって李先生を殺したのか!」
と特務達を詰問した後,「暗黒を打ち破り,光明を戦い取る」為に死を恐れぬ決意を表明して演説を結びます.
 果たしてこの日の夕方,聞一多は西南連合大学教職員宿舎近くで,数名の特務に狙撃され,47歳の生涯を終えました.

 李公樸,聞一多の暗殺は,全国に非常な衝撃を与え,全国から抗議と蒋介石及び霍揆彰に対する責任追及の声が湧き起こります.
 対応を迫られた蒋介石は,7月末に事件の調査と処理のため陸軍総司令の顧祝同と東北から帰ってきた盧漢を昆明に派遣し,結果,霍揆彰は免職処分となり,下級の特務2名が下手人として死刑となりました.
 その機会を捉えて盧漢は,顧祝同を通じて蒋介石に対し,再度,軍隊の指揮権を要求すると共に,保安団隊に対する指揮の実権を獲得しました.
 こうして,雲南に於ける軍の支配権の相当部分を取り戻した盧漢は,それまで見かけ倒しでしかなかった省保安司令部を急速に充実させ,蒋介石に申請して2個保安総隊の増強を認めさせます.

 1949年初めには保安団隊は18個団に拡大し,更に省西部には第184師が新たに編成された事で,新雲南軍の兵力は3旅1師の合計21個団,兵員は3万余名に達しました.
 保安団隊の他,省内の省と県の中間行政単位である専区と県の武力も強化され,各専区には常備兵からなる保安営が,各県には予備役からなる自衛隊が設置されました.

 又,盧漢は軍組織だけでなく行政組織に於ても人事制度の確立を主な内容とする所謂「新政」を推進しました.
 盧漢は自ら専区と県の各級官吏の政治実績を調査し,県長試験を挙行し,地方行政員の訓練団を創設して管理の質の向上に努めました.
 重要な専区の責任者には盧漢に長く従ってきた軍人を配置し,重要な交通上の沿線の県長にも,軍人が宛てられました.
 県には参議会が設立され,社会の公論によって地方官の行政体質を正そうとしました.

 民衆支配のためには,都市では戸籍を厳しく検査し,農村では保甲制度を厳密にして連座制を実施し,民間の武器を登記させて,県毎の共同防衛組織を強化しました.
 当時は国共内戦が激化し,社会でも大きな変動が続いていた時期でもあり,盧漢は一連の行政改革と民衆支配の強化によって,雲南の安定を強化しようとしていました.

 1945年末に設立された雲南省参議会に於ても,中央勢力と雲南の地方勢力との尖鋭な対立が存在しました.
 選挙で選ばれた約140名の省参議員の内には,蒋介石に忠実な人々が少なからずおり,国民党の党組織が彼等を指揮していました.
 他の一派は大多数が唐継堯,龍雲,盧漢に従っていた紳士達です.
 彼等には「?人治?」,つまり,雲南人が雲南を治めると言う排外意識が強く,人数も多かったりします.
 その代表的人物は省参議会成立時に議長に選出された?自知です.
 更に軍閥政権にしては珍しく共産党員や共産党シンパの知識人達も少数ながら議席を維持していました.

 共産党の雲南党組織と雲南の民主派は,蒋介石の支配に反対し,国民党勢力を駆逐するという点では盧漢等の地方勢力と利害を一致させていました.
 盧漢が省主席に就任した時,中共雲南省工委は党中央と南方局の指示に基づき,
「蒋介石と盧漢の矛盾を利用し,盧漢をリーダーとする地方実力派に対しては闘争もし味方にもするが,味方に取り込むことを主とし,集中的に蒋介石反動派に打撃を与える」
との方針を採りました.

 それが如実に表れたのが,霍揆彰の後任,何応欽の甥で雲南警備司令を務めていた何紹周の失脚事件です.
 盧漢は尚雲南の軍事指揮権が何紹周の手中にあった為,自ら蒋介石に何の罷免を要求すると共に,省参議会が何の犯罪行為を告発するよう裏工作を行います.
 省参議会内の共産党秘密党員も参議会で何の駆逐を働きかけ,結局,1949年2月に雲南警備総司令部の廃止を宣布し,何紹周を他のポストに異動させました.
 地方勢力はこの様に共産党や民主派の協力を得て中央勢力の排除に成功したのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/05 23:25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南省が中華人民共和国の支配下に入るまでの動向について教えられたし.

 【回答】

 さて,国共内戦は当初蒋介石率いる国民党政権側が優勢でしたが,共産党は指導下の軍隊を人民解放軍と改称し,体制を整えて1947年夏から全面的な反攻を開始します.
 農村では,共産党は全面的な土地改革を実施し,農民層の支持を獲得,都市では,インフレの昂進と戦争の出費による経済危機と生活破壊が進む中で,民衆の内戦反対,飢餓反対の運動が高揚し,多くの資本家達も反国民党の態度を取るようになりました.

 そんな中で,1948年秋から1949年1月にかけての遼瀋,淮海,平津の三大戦役に於て人民解放軍が相次いで勝利し,1948年11月には全東北を占領し,1949年1月31日には北平に入城しました.

 この情勢の劇的な変化は,雲南にも大きな影響を齎しました.
 上海で始まった反米扶日運動…これは日本を反共の基地として育成する米国の政策に対する反対運動です…に呼応して,昆明では1948年6月17日に大学生と中学生が雲南大学で大規模集会を開き,蒋介石をもした人形を焼き,市街デモを行いました.
 これに対し国民党政府は,雲南警備総司令等に命じて7月15日を頂点とする大弾圧を加えました.
 この為,この学生運動は,「七・一五反米扶日運動」と呼ばれました.

 一方,農村では1947年末,中共雲南省工作委員会が全省で武装闘争を開始することを決議し,1948年以後,省内各地に革命根拠地が建設されます.
 1949年5月,人民解放軍が長江渡河作戦に成功すると,広州に逃れた国民政府は雲南,広西,貴州の三省を最後の抵抗拠点としようとしましたが,中共中央はこれを阻止するために三省の党組織を統一し,新たに人民解放軍?桂黔辺縦隊を組織しました.

 また,共産党の統一戦線工作も雲南の各分野で進められました.
 中共雲南省工作委員会は,元共産党員でその後関係が切れていた楊青田等3名を民主同盟代表として参議会に送り込み,省参議会内で反蒋闘争と盧漢獲得工作を進めます.
 また,軍政機関,新聞,保安団隊,更には国民党の軍隊,警察,果ては特務にまでその工作を進め,影響力を拡大して行きました.

 盧漢の立場は複雑でした.
 彼の地位は次第に強化され筒はありましたが,尚強力な中央政府軍が省内に駐屯しており,国民党特務や憲兵が彼の権力を制約していました.
 他方,民主運動が次第に昂揚し,共産党の武装革命勢力が省の南部や東部で発展して,昆明に脅威を与えていました.

 こうした厳しい状況の中で,盧漢は動揺を繰り返します.
 1949年2月,南?街の中央銀行昆明支店が50元の金円券を偽札として兌換を拒否し,怒った一部の民衆が銀行内に乱入し,器物を壊す事件が発生します.
 これを聞いた盧漢は現場に駆け付け21名を射殺し,100余名を逮捕しました.
 盧漢の強硬措置は,各界民衆の憤激を引き起こし,共産党の通信社である新華社も彼に警告を発しました.
 但し,この事件は国民党特務の仕業と判断したとの説もあります.
 兎も角,この事件が盧漢にとって重要な転換点となったと言われています.

 盧漢に対し,共産党は雲南の党組織と党中央,華南局などが多方面からの工作を進めました.
 1949年5月,盧漢は中共中央から北平への代表派遣の要請を受け,早期の共産党員で中共華南局と盧漢との仲介者の役割を果たしていた宗一痕を北平に派遣します.
 宗は蜂起の決心を記した盧漢の文書を持参して,周恩来や朱徳と会見しました.
 周恩来は,盧漢の蜂起についてこれを歓迎するとし,過去のことは咎めない,そして蜂起の時期は直ぐに行わなくても良いとの認識を示しています.
 8月,昆明に帰った宗からの報告を聞いた盧漢は大変喜び,蜂起への確信を深めたとされています.

 盧漢は蜂起のための準備を各方面から進めました.
 広州に遷都した国民党政権は,西南防衛計画を立て,雲南に綏靖公署を成立させて盧漢を主任に任命しました.
 名義上,雲南にある中央政府軍の指揮権を獲得した盧漢は,綏靖公署の命令によって保安団隊を2個軍に拡大編成しました.
 また,四川省の省主席である潘文華と鄧錫侯,西康省の劉文輝等と連絡を取り,同時に蜂起を起こす計画を立てました.

 しかし,国民党と共産党とが雲南を舞台に鎬を削る状況の下で,盧漢の蜂起実行までには未だ時間が掛かりました.
 8月14日,龍雲は香港で記者会見を開いて蒋介石と決裂するとの態度表明を行い,翌日の新聞は,龍雲が雲南での蜂起を策動していると報道しました.
 因みに,龍雲は南京に滞在して特務の監視を受けていましたが,1948年12月8日に南京を脱出して香港に行き,反蒋活動を進めると共に,使者を雲南に派遣して,盧漢に起義を促していたりもします.

 8月24日,台湾から重慶に飛んだ蒋介石は,盧漢に重慶に来るよう強い圧力を掛けました.
 盧漢は已むなく9月6日,重慶に赴き,蒋介石と会見します.
 蒋介石の国民党政府にも既に往年のような力はありませんでしたが,それでも,盧漢を国民党政府に繋ぎ止めるために,盧漢に雲南軍2個軍分の武器支給を認め,それと引き替えに,雲南省参議会を廃止すること,左派人士と共産党員を逮捕すること,左派系の学校と新聞を閉鎖すること,剿匪指揮部を設置して,?桂黔辺縦隊を攻撃することを盧漢に要求します.

 9月8日,盧漢は昆明に帰り,9日には多数の軍隊と警察が出動して容疑者を逮捕しました.
 10日,盧漢は省参議会の解散を宣告し,左派系新聞社とされた『正義報』『雲南日報』などを閉鎖し,雲南大学を解散させました.
 一見,盧漢が再び日和見に転じたみたいに見えますが,実は盧漢は,予め共産党員や民主人士に対して避難をするよう通知しており,以後,1ヶ月に亘って400余名が逮捕されたのにも関わらず,雲南の共産党責任者は誰も逮捕されませんでした.
 当時の国防部保密局(軍事統計局の改称後の名称)雲南機関長の回想に依れば,この弾圧のために昆明に派遣された保密局長の毛人風は,血の債務を盧漢に分担させて蒋介石に従わざるを得なくさせるために100余名の銃殺名簿を作って盧漢の許可を求めますが,盧漢は,それは人数が多すぎ,証拠も不十分だと判決を延期しました.
 更に,11月始めに昆明に来た代理総統の李宗仁に寛大な措置を要望し,逮捕者全員を釈放させています.

 10月1日,北京で中華人民共和国の成立が宣言され,人民解放軍総司令の朱徳が解放軍全兵士に対して迅速に国民党軍の残余部隊を粛清し,総ての未解放の国土を解放するように命令しました.
 11月,人民解放軍は西南に進撃し,14日に貴陽を,30日には重慶を占領しました.
 この間の21日,解放軍第2野戦軍の司令である劉伯承と政治委員の鄧小平は,西南の国民党軍に対して抵抗を止めて,「光明」の側に身を投じるように呼びかけています.

 この時蒋介石は,国外と通じる雲南を大陸最後の拠点として保持しようと画策し,雲南駐屯の国民党軍兵力は,1万余名から4万余名へと増強されます.
 一方,盧漢は12月始めに蜂起の挙行を決意し,2日,新たに設立した昆明警備軍司令部の命令で昆明に戒厳令を敷くと共に,共産党組織に対し,蜂起への支援を依頼しました.

 12月9日,西南軍政長官の張群が昆明に到着します.
 これを絶好の機会と見做した盧漢は,その日の夜に翠湖東路の盧漢の公館で張群歓迎の宴会を開き,その場で張群始め国民党政権及び国民党の軍政の要人を逮捕しました.
 次いで盧漢は全省の人民と部隊に「雲南蜂起」を宣言し,更に,雲南綏靖公署と雲南省政府の名義で国民党の反動政府を離脱し,中央人民政府の命令を待つように布告しました.
 同じ日,西康省の劉文輝と四川省の鄧錫侯,潘文華も蜂起を宣言し,大陸での大勢が決したことを知った蒋介石は,10日午後2時,成都を飛び立って大陸を離れ,台湾に遷都しました.

 雲南省に残存していた国民党政府軍部隊との戦闘は1950年2月中旬までに終了し,省全土が中華人民共和国の支配下に入りました.
 2月20日,人民解放軍第4兵団が兵団司令の陳?及び宋仁窮,周保中に率いられて昆明に入城しました.
 3月10日には雲南人民政府が成立し,陳?が主席に,周保中,張冲,楊分清が副主席に任命されました.

 因みに,張冲は1938年第60軍第184師師長として武漢に赴いた際,既に共産党に接近し,葉剣英に会って共産党入党を希望していました.
 そして,184師には中京の地下党組織が作られています.
 戦後,1946年末に張冲は延安に赴き,1947年2月に共産党に入党しました.

 以後,雲南省は正式に中華人民共和国の支配下に入ったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/06 23:30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中華人民共和国支配下となった後,雲南省の政治指導者たちはどうなったのか?

 【回答】

 辛亥革命の指導者の1人だった李根源は,西南軍政委員会委員,全国政治協商会議委員などを務め,反右派闘争を生き抜き,1965年に86歳で北京で死去しました.

 抗日戦争を戦った龍雲は,中央人民政府委員,西南軍政委員会副主席,全国人民代表大会常務委員,全国政治協商会議常務委員,国防委員会副主席,国民党革命委員会中央常務委員などの職を歴任しましたが,1957年にソ連の中国支援のあり方と人民政府の雲南に於ける民生・民族政策を批判したため,右派と認定され失脚しました.
 しかし,追放までは為されず,1962年6月27日に北京で病没しています.
 因みに,1980年にその右派認定は誤りであったとされ,名誉回復が為されました.

 1949年に蒋介石に大陸での反抗を諦めさせた盧漢は,雲南省軍政委員会主席,西南行政委員会副主席,全国人民代表大会常務委員,全国政治協商会議常務委員,国民党革命委員会中央常務委員など,龍雲と同じ様な要職を歴任しました.
 また,彼は文化大革命の際でも,国民党政権側で共産党員を弾圧すると言う動きをしたにもかかわらず,その慎重な言動により大した迫害を受けることなく,1974年5月,北京で病没しました.

 省参議会議長だった?自知は,西南軍政委員会委員,雲南省人民政府副主席,雲南省人民政府副省長に任ぜられましたが,1957年に紳士だった前歴を咎められて右派とされ,雲南省参事室参事に左遷されました.
 彼も1967年に病没しましたが,1979年に名誉回復されています.

 雲南省の経済建設の責任者だった繆嘉銘は,1949年に米国に移住しますが,1979年に改革・開放後の祖国に帰国し,全国人民代表大会常務委員,全国政治協商会議副主席,対外経済貿易部特約顧問などを歴任して,祖国の経 済発展の基礎を築き上げて,1988年に北京で死去しました.

 こうして見ると,雲南省の統治者というのは意外に共産党政権下でも厚遇されていたと言えます.
 多分それは,周恩来,朱徳と言った中国共産党の重鎮達と彼等が良好な関係を維持していたからでしょう.
 また中ソ対立後には,四川省と並んで雲南省をソ連からの攻撃に対する兵站後方地域として重視した現れであったかも知れません.

 現在の中国はどうなっているかはよく分かりませんけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/10/07 23:01
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中華民国滅亡後,蒋介石に従っていた軍閥の指導者たちはどうなったのでしょう?
 部下ごと共産党に投降し,地方の重職を得たりしたのでしょうか?
 そしてその後,呉三桂よろしく粛清されたりあるいは北朝鮮への義勇軍に志願させられて使いつぶされたりとか.それとも命からがら台湾に逃亡したのでしょうか?

 【回答】
 兵力90万人のうち,40万人が寝返りましたから,幾人かは要職に就いたものもいたでしょうが, 大抵の場合は,1950年からの朝鮮戦争で中国援朝義勇軍として磨り潰されています.
 また,生き残ったものも,1950年代終わりから60年代末に掛けての大躍進とか文化大革命によって,粛清されています.

 台湾に逃れ得たものは,上級職が主です.
 現地軍の場合は,雲南を経てビルマに亡命し,数万人が其処を拠点に中国に対するゲリラ戦を実施していますが,1950年代にビルマ政府が国連に提訴,1953~54年にかけて,6500人が台湾に引き揚げられ,1961年には更に4500人が引揚げました.
 しかし,奥地で自活を続けた段希文将軍麾下の部隊は,そのタイ北部近辺を実行支配し続け,その部隊が資金源としていた芥子栽培が問題になり,1970年代からタイ政府の討伐を受けることになります.
 但し,タイ側にも残留国民党政府軍が参加していて,彼らはその地方の自警部隊としてタイ政府から認められるものもありました.

 また,香港にも吊頚嶺(首つり村)と言う一角があり,この地域に2万の国民党軍残党が住んでいました.
 1956年に3日間の暴動を起こし,1960年代には台湾にだいぶ吸収されました.
 一部の住民は香港返還後,別のマンションにかたまっているようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 「大躍進運動」の内実は?

 【回答】
http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/china/03/03.html
によれば,大量の餓死者を発生させたという.
 しかもそのことで責任をとらされた指導層は殆どいないという.
 以下,同ページより引用.

――――――
3-3. 大躍進運動とその悲劇
担当:甲南大学 青木浩治 藤川清史

 1957年秋から始まった大躍進運動は,農村経済を混乱させ,食糧不足により多くの餓死者を出すという悲惨な結末に終わりました.
 経済の混乱が,自然災害に起因するものや,景気循環のなかの一局面というのであれば,ある程度のあきらめもつきますが,大躍進運動の失敗は,戦争災害と同様に,全くの指導者の失政によるものですから,やりきれません.
 ましてや,中国では指導部が失政後の責任をほとんどとらなかったために,1960年代には悲劇が再現されることになります.
 中国の近代史を知るときに,気持ちが暗くなるのは,このあたりが原因でしょう.
――――――

世界史板
青文字:加筆改修部分

 責任をとらなかったという点では,当時これを誉めそやした,日本の知識人も同様であるのは,言うまでもない.


 【質問】
 「三年自然災害」とは?

 【回答】
 「三年自然災害」と言う言葉は,1959年から3年続いた中国本土に於ける自然災害の時期の事を指します.
 当時は,大躍進政策の失敗と天候不順などで,国中に餓死者が溢れ,特に農村部では正に餓鬼道の修羅場の様な世界を呈していました.

 知識人達は,表だって毛沢東を批判出来ないものの,影ではこっそり,「三分天災,七分人災」と言っていたそうです.
 天災自体は3年で終わりましたが,1963年でも状況は未だ深刻で,上海などの都市部の自由市場に食糧が出回り始めたのは1964年頃からになります.
 それでもその後,文化大革命の嵐で再び中国は,混乱の中に叩き落とされた訳ですが….

 1963年までは主食である米,小麦粉のみならず,肉や野菜,豆腐と言った副食品も極度に不足していました.
 その為,庶民は知恵を絞って,手に入る材料を駆使し,なるべく美味しく食べようとしていました.

 中国に於ては凶作になると,先ず市場から消えるのが肉,つまり豚肉だそうです.
 これは主食と共に逸速く配給制となり,「肉票」と言うものが無いと買えなくなりました.
 「肉票」があっても,深夜から列に並ばないと現物は手に入らず,尤も窮迫した時期には供給が跡絶えました.
 もう一つ,中国に於てポピュラーな肉と言えば,鶏肉ですが,こちらはもっと珍しいものとなり,春節か国慶節でないと目にすることすら無かったそうです.

 食糧事情が窮迫してくると,都市部住民も,1961年頃から鶏を飼い始めましたが,こちらは卵を産ませる為の「設備投資」であって,軽々しく潰すことなど出来ません.

 そう言えば,日本では,肉屋は冷蔵ケースにパックしたものとか既にスライスした肉を陳列していますが,欧米や中国では,解体した部位を其の儘陳列したものが少なくありません.
 フランスなんかでも,切り取った牛の生首が並んでいる中で平然と買物したりね.
 これは文化の違いなのか,それとも肉食を卑しいものとしたのか…
 例えば,イタリア料理の中にも,屡々子牛の脳味噌を使う料理が普通にありますが,日本ではこうした食材は下手物に属すのか,一流のイタリア料理店は適当にアレンジして,脳味噌を入れることはありませんね.

 昔は,日本の肉屋でも解体した牛を鈎に引っかけて冷蔵庫に吊し,買う人からも丸見えでしたが,こうした事をしなくなったからか,命を頂いている有難さと言うものが見えなくなったのかなぁと思ってみたり.
 だから,簡単に人を殺す人が増えてきたのでしょうかね…って飛躍しすぎか.

 話がずれてしまいましたが,豚肉はその頃,国営店よりも闇市の方が入手しやすかったそうです.
 とは言え,値段はべらぼうに高い.
 上海の集合住宅に,近在農民が時々伝手を頼って肉を売りに来ることがありましたが,1斤(500g)が最高で6元もしました.
 当時の高卒初任給が18元の時代ですから,給料全部叩いたとしても,1.5kgにしかなりませんでした.

 肉が不足していたので,何で蛋白質を補ったかと言えば,「豆製品」,つまり,大豆製品です.
 絹豆腐,木綿豆腐のほか,豆腐乾(しめ豆腐),油豆腐(3cm^3程の立方体の厚揚げ),百頁(薄く絞った木綿豆腐),素鶏(湯葉を圧搾して作った食品,但し,当時は代用品を利用)などの大豆製品は勿論,緑豆澱粉で作った「粉絲」(春雨),「粉皮」(湯葉状の春雨)や「水麺筋」(生麩),「油麺筋」(麩の油揚げ),焼麩を水で戻した「?麩」などが配給されています.
 こちらは,各省や直轄市の「蔬菜公司」が発行する「豆製品票」が必要となります.
 但し,実際に国営店の店頭にあるのは,豆腐,豆腐乾,百頁くらいでした.

 これらの内,百頁は使い道が広かった様です.
 肉は半年に1回出て来るかどうかでしたから(これは実際恵まれていた方),春節,国慶節に肉が手に入ろうものなら,一食で平らげてしまうのですが,量を多く演出する為に,豚を角煮にして百頁を追加して量をふやかす「百貢結紅焼肉」が良く作られていました.

 百頁は,原料の豆乳に苦汁を入れ,2枚の木綿布に挟んで,薄く圧搾したものです.
 農村では幾分厚めに作られましたが,都市部のは1mmに満たないほど薄いものでした.
 1枚はハンカチほどの大きさで,両面には布の圧搾痕が付いています.
 これを10cm四方に切り,細く筒状に丸めてからリボン結びにします.
 これは百頁結と言い,これを豚の角煮に混ぜ込む訳です.
 すると,豚肉から出た旨味,脂肪分を百頁結が吸い込み,食べる感触が肉に近く,肉と同数の百頁結を入れることで,肉の量を倍に増やすことが出来ます.
 更に,百頁は豆腐と違い,歯ごたえのあるものなので,肉を食べている様な感覚に陥る訳です.

 この他,百頁包も庶民の好んだ料理でした.
 当時は食品があるだけマシの状況でしたから,どんなに品質が悪くとも配給で手に入ったものは食べなければ餓死することに繋がりかねません.
 青梗菜や大根もやせ細ったり,黄色くなっていたり,虫食いがあってもそれは貴重ですが,そのまま炒めて食べるのは不味くて食べづらい.
 そんな時に活躍したのが百頁包でした.

 野菜はみじん切りにして,細かく切った豆腐乾と醤油,塩,油を加えて具にし,百頁を10cm四方に切って,正方形の対角線に沿って具を入れて包み込み,最後に包みが解けない様に,白糸で軽く縛ると,幅3cm,長さ10cmほどの百頁包が出来ます.
 これを白菜を炒めた後に加え,弱火で7~8分ほど煮込むと,白菜の旨味が百貫包の中に染込み,美味しく頂ける寸法です.

 もう一つ,豆腐を生かした料理で当時良く庶民が食べたのが,「薺菜豆腐湯」です.
 これは春の七草の一つであるナズナと豆腐入のスープで,薺は,何処にでも生えている生命力の強い草でしたから,買わなくとも手に入れることが出来ます.
 この薺をさっと炒めてお湯を加えて煮立たせ,1cm四方に切った絹豆腐を入れ,後は塩胡椒で味付けするだけと言う簡単な料理です.
 薺自身に旨味成分が含まれているので,其の儘炒めても食べることが出来ます.

 これらは現在でも先ずレストランの料理では出て来ませんが,庶民料理としてはポピュラーみたいですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/12 18:56


 【質問】
 「三年自然災害」後の食糧配給制度について教えられたし.

 【回答】
 中国の都市部では,三年自然災害以降,1980年代の改革開放政策開始まで,全ての穀物は配給制を敷いていました.
 年齢,職種,性別によって,毎月の配給量が違い,高校の男子生徒の場合は,1ヶ月30斤(約15kg),主婦の場合は28斤でした.
 確かに穀物に関しては,充分足りている様に見えますが,農村部ではそうした穀物を都市部に移出した為に,餓死者が続出し,中にはその死体を食べて飢えを凌いだ者も居るくらいの餓鬼道状態です.
 都市部でも,肉が無く,副食物も満足に供給されていない為,配給量だけでは間に合いません.
 市の糧食局では,毎月26日に翌月のチケットを配布しますが,それを待たずに食糧が底を突く家庭も多かったりします.

 三年自然災害当時,上海で供給された食糧は7割が米で,3割が小麦粉でした.
 国際市場での小麦粉の値段は,当時米の半分ですから,米を輸出して小麦粉を輸入すれば,理論上,1kgの米が2kgの小麦粉になるはずですが,当時の状況では国家のプライドとしてその様な事が許されようはずもなく….
 徒に餓死者が増えていった訳です.

 その配給された米も小麦粉は,2~3年貯蔵した古々米や古々小麦で,品質が極端に悪く,虫が付いているのは元より,米粒を親指と人差指で挟んで軽く押すだけで,粉々になってしまう様な代物でした.

 特に小麦粉に虫が付くと,取り除くのは先ず不可能です.
 しかも,虫の排泄液で粉が固まったり糸を引いたりしている様な状態でした.

 そこで編み出されたのが,「硬殻餅」と呼ばれた堅焼きパンです.
 先ず,小麦粉を篩に掛け,虫や固まった部分を取り去ります.
 残った部分に水とイースト菌を加え,ペースト状に成るまで混ぜ合わせます.
 熱くしたフライパンに1個分を流し込み,中火で焼くと出来上がり.
 上手に焼くコツは成る可く薄く均すことで,サラダ油を使わなくとも,2~3分でパリッと焼き上がります.
 適当な酸味があって香ばしい食べ物で,これにキャベツのスープを組み合わせることで,何とか質の悪い小麦粉でも処理することが出来ました.

 こうした食糧は,都市部では糧食店で販売されていました.
 一部地域では,糧店とか糧油店などと言いますが,市民達の間では,通常米店で通っていました.
 糧食店では,米や小麦粉の他,各種の拉麺,雲呑,餃子の皮なども取り扱っています.
 麺は多種在り,日本の素麺の様な巻子麺もありますが,これは生の拉麺より値段は3倍ほど高かったりします.

 雲呑や餃子の皮,焼売の皮は,何れも定量生産であり,前日に予約しないと買えない代物でした.
 拉麺は,「切麺」と称され,細麺から極太麺まで少なくとも5~6種類はあった様です.
 とは言え,これにも小麦100%は有りません.
 普通の切麺には30%程甘藷の粉が混ぜられており,見た目は褐色っぽく,茹でると切れやすいと言うものです.
 細麺には向かないので,三年自然災害末期の1963年まで,店頭では極細の「龍鬚麺」は並んでいませんでした.
 1964年になると状況がやや好転し,拉麺は「精白切麺」と「普通切麺」に分けられる様になり,精白切麺として龍鬚麺が復活する様になります.

 三年自然災害の頃は,拉麺の細さなど拘る余裕はありません.
 何しろ,口に入るものがあるだけ有難いことでした.
 主婦達は,限られた食糧を少しでも増やそうと努力していましたが,量そのものを増やすことは出来ません.

 日本でも,米が不足した時代は,「国策炊き」と言って,ご飯をふやかす炊き方が推奨されましたが,この頃の中国でも状況は同じで,最も良く用いられた手はお粥です.
 2人分の米でも,お粥にすれば家族6人を食べさせることが出来ます.

 拉麺も同様の発想の代物があり,「爛糊麺」と言う,のびきった拉麺も作られていました.
 「爛糊麺」は元々「湯麺」から出て来たものです.
 日本の湯麺と違い,日本では拉麺が出来てから炒めた野菜を載せますが,中国ではレストランでこそ,日本と同じ作り方をしますが,家庭では野菜を炒め,水を多めに入れてスープ風に煮て,その間,拉麺を別の鍋でさっと湯通しし,野菜スープの具が柔らかくなったら,拉麺を入れて味を調えると言う作り方…最も一般的なのは白菜の湯麺です.

 で,「爛糊麺」は,この出来上がりの湯麺に更に多めの湯を入れて,弱火で煮込み,麺がのびたら,蓋をして2~3時間蒸らす.
 麺が汁をたっぷり吸収して,結構美味しくなるとか.
 白菜が無い場合は,青梗菜とか咸菜(高菜漬け)でも良く,韮や菠薐草は使いません.

 これは三年自然災害の際に考え出された非常食的な代物でしたが,意外に中国の庶民達には受け,それが終わっても食卓から消えることはありませんでしたし,寧ろ,庶民の定番メニューになっていきます.
 勿論,入れる具は白菜だけでなく,豚肉の細切り,干し蝦,枝豆などを加える事で,豚や蝦のエキスを麺が吸い込んで非常に旨味が出る訳です.

 これだけでも食べられれば未だ良い方で,野菜すら手に入らない場合は,「麺キツトウ」と言う中国風水団を食べることになります.(キツ=やまいだれに乞,トウ=やまいだれに荅)
 中国風水団は,日本のものとは作り方が違います.
 まず,小麦粉に水を入れ,良く掻き混ぜます.
 鍋でお湯を沸かし,沸騰したら,ペースト状の生地を散蓮華ですくい上げて,鍋の中に1個宛入れます.
 最後に生地を少し残し,水を入れて薄め,これを鍋に入れて餡掛けになるように掻き混ぜ,最後に塩で味付けをするもので,小麦粉の風味が残る…と言っても,それが変質した小麦粉であれば,酸味が酷くてまともに食べられたものではなかったそうです.

 そう言えば,大学時代,三宮をふらついた帰り道,中国の人が道が判らず困っているのに出くわした私は,若気の至りですね,彼等を引き連れて,当時未だ開発途上だった六甲アイランドの彼等の船まで連れて行った事があります.
 福建の船の船長さんと一応士官さんご一行でした.
 其処で,「拉麺でも食べていけ」と言われて食べたのが,結構延びきった拉麺だったのを鮮明に覚えていたりしますが,彼等も,三年自然災害の時の味が忘れられなかったのかもしれません.

 その後,神戸に来る度に電話を寄越してきていたようですが,就職して東京に出ていたので,結局再び出会うことはありませんでした.
 今はどうしているのでしょうかね.

 因みに,帰りに中古自転車(今なら自動車でしょうが)を運んできたおっちゃんに住吉の駅まで乗せて貰ったのですが,そのおっちゃんにチャレンジャーと言われてしまいましたっけ.
 今考えると若気の至りであるのですが,当時は中国語も習い立てでなんとかなるなんて思ってたのかも知れません(苦笑.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/13 22:30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「文化大革命」によって死亡した主要人物を教えられたし.

 【回答】
 これについては『歴史群像No.88』,「文化大革命 紅い大地に吹き荒れた仁義なき権力闘争」(山崎雅弘) が,文化大革命を現段階で入手可能な資料を用いて,「百花斉放,百家争鳴」政策から「上海組」の逮捕までを解説しています.

 読んでて思ったのは,毛沢東て恩知らずだなぁ,と.

 名前が挙がってるだけで,

・政治的手腕に優れ,また軍の将官からの信頼も厚い劉少奇
 林彪一派と江青支配下の「医療服従専案」により軟禁状態におかれ,飼い殺しの挙句に「肺炎」で死亡.

・南昌蜂起以来,毛沢東に従ってきた賀龍
 「走資派」の烙印を押されて隔離収容.
 飢え(一日の食事が小さな器の水二杯と小さな饅頭二個.原の足しにする為,反省調書の紙を丸めて飲んだとか)と糖尿病(「医療服従専案」は治療として「ブドウ糖を毎日注射」したそうです)で苦しみながら死亡.

・国共内戦や日中戦争,朝鮮戦争を戦ってきた闘将・彭徳壊
 「大躍進政策」の際に既に失脚してたが,紅衛兵の暴力と直腸癌で半身不随にされ,窓を新聞紙で塞がれた部屋に監禁.
 介護も無いまま放置され死亡.

……と悲惨な最期になっています.はぁ.

 ところで江青の写真を見て,田中真×子に似てるなぁ,と思ったのは余談.

グンジ in mixi,2008年03月23日14:35


 【質問】
 天安門事件のとき,市民側死者300名に対して人民解放軍も50~100名ほどの幅で死者出してるのは何で?

 【回答】
 あの頃PLAは,三八軍や二七軍といった精鋭とされる集団軍でも装甲化が進んでおらず,兵の輸送は無蓋トラックに頼るのが一般的たから,
 特に市街地においての移動中を狙われると,市民の火炎瓶攻撃に抵抗できなかったんだよ.
 また,血の日曜日事件の前日までは,鄧小平は平和的解決を期待しており,戒厳軍には発砲が厳禁とされていた事から,治安部隊の被害は急速に拡大した.

 この辺,プラハの春と経緯がよく似てる.

軍事板


 【質問】
 天安門事件直後に天皇を訪中させた中国の狙いは?

 【回答】
 このご訪問は国際社会におけるシナの印象を良くするべく,シナが絵を書き,協力者に実現させたものといわれています.
 当時の中共当局者も回顧録で明らかにしてますが,このご訪問でシナは絶体絶命のピンチを切り抜け,国際社会に復帰できました.
 わが皇室が世界に与える,比肩するものなき影響の多大さを改めて思います.

 ご立派な皇室とは対照的に,国政は実にお粗末です.
 通常であれば「この代価に●●をしろ」と要求するのが外交ですが,その後のシナを見ていると,一層わが国に対して強硬になっただけで,とてもそんな取引ができたとは思えません.
 何の成果をもたらすこともなく,陛下のご訪シを無にしています.

 〔略〕

 陛下ご訪シ時の当事者はいま現在も国家中枢部におり,われわれの血と涙の結晶「税金」でのうのうと日々を送ってます.

 これはいったいどういうことなんでしょうかね?

 いずれにせよ,陛下まで利用するような愚かな真似を繰り返させないようにするべく国民にできる対処法は,そういう人をそういう立場に置かせないことです.

おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)4月7日


 【質問】
 天安門広場とは元々どういうものなのか?

 【回答】
 北京の姿はその権力者毎に変更されていきますが,最も変貌が激しかったのは毛沢東が中国の覇権を握った時です.
 質素を装っていた毛沢東ですが,実は幾つも邸宅を保有していました.
 その設計を行ったのが張開済と言う建築家です.
 彼は北京に,釣魚台國賓館をも設計しますが,党の要請でこれを広大な規模に拡大しました.
 その狙いは,近代中国の功績に懐疑的なフルシチョフが訪中した折に,フルシチョフを畏怖させたいと目論んだからです.
 折しも,毛沢東はモスクワで行われたボルシェビキ革命40周年記念行事から帰国したばかりであり,ソ連側はクレムリンの中に特別な浴室を準備して毛沢東をもてなしましたが,毛沢東は中国の配管工事技術も,ソ連に劣らない事を悟らせ,ロシア人に大きな顔はさせまいと決意していました.

 この他,張開済は1958年には中国国家博物館の設計も手がけていますが,この建物は人民大会堂と共に天安門広場の長い二辺を形成しています.
 その現代版として作られていたのが,今回の火事で焼け落ちたCCTV本局と,オリンピック・スタジアムです.
 因みに,張開済は毛沢東との個人的な関係を保っていましたが,文化大革命ではその個人的関係も報われず,10年の間,掃除夫として過ごす羽目になっています.

 ところで,天安門広場は,昔からあった訳ではありません.
 元々,義和団事件の前まで,天安門の前は帝都の行政中心地であり,皇帝の遠縁に当る人々が住んでいる場所で,それと共に官庁街を形成し,外交団が居住していました.

 1949年,北京に入った毛沢東がまず最初に手がけた建築は,天安門からの中央軸沿いに南へ丁度260mほど行った地点に打ち立てた人民英雄記念碑です.
 その後,10年を掛けて天安門の城壁と既存の建物は取り壊され,其処に44万平方メートルの空間を造り上げた訳です.
 これが天安門広場と言う名前になった訳です.

 建国10周年に向けて,1958年11月から1959年9月までの10ヶ月で延べ12,000名の労働者によって,広場は舗装され,その周辺に2棟の巨大建造物が建てられました.
 作業は24時間体制でしたが,1958年末の時点で,ソ連人顧問達はプロジェクトは絶対期日まで間に合わないと警告していました.
 6月になると,「ひょっとしたら可能かも知れない」と言いだし,9月には「中国は大躍進を遂げた」と評します.
 そして,毛沢東はちゃっかりそのフレーズを自分のスローガンに使っていたりします.
 元々,こうした巨大建造物の建築は,スターリンの影響を強く受けたもので,毛沢東はスターリンの記念碑嗜好を広大なスケールで反映させる様,自国の建築家に求めた訳です.
 因みに,フルシチョフのスターリン批判では,先任者が妄想に捕らわれた様に巨大建築に資源を浪費したことを論っており,中国を訪問したフルシチョフは後に,先任者の影響とばつの悪い対面を果たすことになります.

 人民大会堂は1958年に張開済のライバルである張鋪が設計したもので,スターリン様式の壮大な柱郎を備え,各省ごとに集会室が果てしなく延々と続き,それぞれの部屋は次の部屋へと続いています.
 1万人収容の大会議場の役割は,指導者に拍手喝采する為の装置であり,連続する集会室の場というべきそんざいです.
 また,誰も不満を持たない様に,5,000名収容の大宴会場もあります.
 これに一種の王宮的な要素も加え,外観を一枚岩的にして,王宮の建物にのみ使われていた鮮黄色をふんだんに用いていました.
 その真向かいにあるのが,張開済が設計した革命博物館と中庭を挟んで対峙する中国歴史博物館であり,両方の建物を対峙させることで,呼応させています.

 外交公館は北京の東側にある野原に追いやりますが,中国が世界に門戸を開くと,ホテルを建てるべき場所は明らかに其処になり,商業ビルがそれに続き,東側一帯は高層ビルが林立する様に成ります.

 西側には北京を自己完結型の都市にする為に各種の工場が建設されていたのですが,改革開放政策が進むと巨大な国営企業はやっていけなくなり,中国最大の北京第一工作機械の工場は姿を消し,2001年から超高層マンション群に取って代わられることになります.
 その近くにあった敷地面積10haのオートバイ工場は更地になり,この地に建てられたのが中国中央電子台本局の新ビルでした.

 CCTVの本局はコールハースと言う建築家が設計したものですが,彼は何か壮大なものを生み出す目的のコンペに招待されました.
 指示書には,ビルバオのGuggenheim美術館に触れており,中国人は明らかにランドマークを欲しがっていたと思われます.
 同時期に召集されたのは,金茂大厦の尖塔と,上海環球金融中心を設計した2名のアメリカ人建築家で,彼等はこのコンペを同じ様な超高層ビルを建設するものと理解していました.

 コールハースは,そうした考えに与しませんでした.
 300もの高層ビルが建ち並ぶ商務中心区で,301番目の超高層ビルを建ててもランドマークにならないと見抜いたからです.
 コールハースの説明にはありませんでしたが,コンペ検討委員会の委員の中に英国人建築家がおり,彼の言によれば,コールハースの建築は,「中国の月華門,つまり縁取られた穴,あるいは何千年も昔に中国で後漢のシンボルとされていた青銅や翡翠で作られたずっしりしたものなのである」と説明されました.
 そして,「これはポップなイメージであり,パリの凱旋門や,グランダルシュを連想させるものとして見る事が出来る」と説得し,彼は勝者になりました.
 因みに,アメリカ人建築家の他に,日本人建築家と華東建築設計研究院の案もあり,日本人と華東建築設計研究院の案は最終コンペまで残りました.
 費用の方は,圧倒的に日本人と華東建築設計研究院案が安かったのですが,コールハースは建築模型を造り直して,その模型をCCTVの幹部宅の間で巡回させ,彼等の理解を求めました.

 しかし,それでもコンペ勝者決定から公式発表まで3ヶ月,定礎式まで更に1年が経過しています.
 これは,CCTVが「党の声であり,国家プロパガンダの中枢であり,十億の人々に何を考えるか語っている機関なのである」と言うものであると考えられていた為,国家中枢の了解を得るのに手間取ったからだと言われています.

 ところで,コールハースはグラウンド・ゼロのコンペは参加を拒否しました.
 これは自己憐憫の為の記念碑をスターリン主義的な規模で建てる試みだと述べています.
 正に同時期に,コールハースは,北京で最も高いビルを建てる仕事を手に入れようと虎視眈々と狙っていた訳です.
 倫理的な含みに対して質問された時,彼は,「中国の制度は急速に変わっているので,この建物が完成する頃にはCCTVは民営化され,中国は抑圧を政治の道具とするのは諦めていることだろう」と述べていたりする訳で.

 コールハースは建築家としては米国で挫折しています.
 その屈折が,独裁主義国家とも言うべき中国への進出を行わしめたのではないかと言われています.

 CCTVの構造は2つの主要なタワーからなっており,最上部の10階分は空間に突き出したL字形の翼部で連結されています.
 そして,地上にも釣合を保つ部分があります.
 素人目にはとても不安定に見えますが,実際にはそれによって2つのタワーが安定し合うので,これを建てるのに必要な鉄筋の量が減ることになる訳です.
 また,タワーの外部は一見でたらめなパターンで斜めの筋交いが網の目状に入っています.
 最も力が加わる部分に筋交いの線が最も集中する様に造られており,外壁(スキンと彼等は呼んでいる)と支え合いの双方によって2つのタワーの内部は柱が不要になり,例外はエレベータ周囲の一列だけで,これが建物の背骨の役目を担っています.
 当初のアイデアでは,エレベータをタワーの傾きと並行に6度の角度で傾ける,急傾斜のケーブルカーみたいなものにする予定だったりしますが,これを実現すると,全ての階は同じ図面でありながら数メートルずれたものとなるはずでした.
 流石に,これは余りに費用が掛かりすぎ,複雑になりすぎるので,エレベータは垂直に改め,傾いたタワーはケバブの様に串刺しにすることになりました.

 コールハースは実はこのプロジェクト以上のものは手がけたことがありません.
 つまり,コールハース一世一代の賭けだった訳ですが,その賭はどうやら無残に潰えることになりそうですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/02/10 23:50


 【質問】
 偽師団事件とは?

 【回答】
 1個師団規模の大規模な偽軍隊が駐屯地までこしらえて存在していたことが,90年代半ばに発覚した事件.
 地元の警察も役場でも偽とは気づかず,部隊長は名士として公の集まりにも出席していたという.
 税金を使って公社まで設立して完全に事業化しており,なんと正規のルートで武装まで配給されていた.
 その為装備品はすべて本物で,格安で射撃場を貸し出しており,日本からの射撃ツアー客も大量に訪れていたという.

 これほどは規模も大きくはないが,偽軍隊事件は珍しくなかったらしい.

 例えば,中国での尋ね人には,こんなものがあった.
「○○村××辻に戦車を乗り捨てた兵士に告ぐ.
 早く取りにきて下さい.皆困ってます.
                 ○○村役場」

 解説)どうやら,演習途中で人民の財産である戦車を置き去りにした兵士が居たらしい.

 また,中国の新聞のこんな記事を紹介してくれた友人が居た.どうやら頻繁にあることらしい.
「兵器の遺棄相次ぐ
 ○月×日
 人民解放軍の1部隊が■村の付近を通過したときのこと,
 現場に一台のトラックが乗り捨てられているを同村の村人が発見した.
 ただちに警察に届けたが,所属部隊がわからず大変困っている」

2chの散兵 in 軍事板


 【質問】
 偽兵馬俑事件とは?

 【回答】
 ドイツ人美術学生が,西安の兵馬俑の一つになりすまし,警察に見つかるまでの数分間,まばたきもせず,そのままじっと立っていた珍事件.
 彼は杭州に送還されたという.

ドイツ人美術学生,西安の兵馬俑に扮するも御用

 [北京 17日 ロイター] 中国の杭州でパフォーマンスアートを学んでいたドイツ人の美術学生が,世界遺産に登録されている西安の兵馬俑(へいばよう)のある場所に侵入し,兵士の1人に扮(ふん)したものの,すぐに警察に捕まった.
 この男性(26)は16日午後,約2000体の兵馬俑が保管されているくぼみに侵入.自作の軍服を着用し,持参した台の上に立った.
 中国の新華社によると,警察に見つかるまでの数分間,まばたきもせず,そのままじっと立っていたという.
 この男性は,軍服を没収され,杭州に送還された.

ロイター,2006年9月18日19時46分

 パフォーマンスのつもりだったようだが,ハズしたね……


 【珍説】
昨日中国で起きた地震はアメリカの攻撃の可能性が高い.昨日だけで28回もの地震があった.
そして地震の震源地は31.099°N, 103.279°Eであり,グーグルアースで見ると三峡ダムのすぐ左隣だとわかる.
 偶然にしては無理がある.新潟地震で見つかったプラズマ映像が中国でも発見されれば,真実は明らかになる.

http://earthquake.usgs.gov/eqcenter/recenteqsww/Quakes/us2008ryan.php

ロシア議会の証言によると,アメリカとソ連は1970年代に地震兵器を使用しないという調停を結んでいる.

http://www.bariumblues.com/haarp_geophysical_weapon.htm

しかし毎日世界各地で震度5以上の地震が平均12回程起きている.全てが自然現象だとはいい難い.
また,先日日本に接近した大型の台風についても,アメリカの脅しである可能性が高いという情報も入っている.

親友が精神病になり,犯罪者へと陥るのを見るのは悲しいが,今のアメリカはそういう状況である.
中国,ロシア,日本など各国が,至急に国連でアメリカの地震兵器,天気兵器,生物兵器,餓死政策について取り上げ,全世界の世論を動員し,アメリカの異常行動を止めなければならない.

ベンジャミン・フルフォード

 【事実】
 その地震兵器とやらの巨大なエネルギーは,どうやって発生させているというのでしょうかね(笑)
 「無理がある」「言いがたい」などという,フルフォード個人の印象に過ぎない,証拠にもならない「傍証」はもうおなかいっぱいですので,まず地震兵器が物理的に,現代の技術で可能なことを説明してください.

――――――
中国地震:四川省でM7.8,死者1万人に迫る

(前略)
>台湾の中正大学地震研究所は「今回の地震はユーラシア・プレートとインド・プレートが衝突して起きたもので,長崎型原爆252個分のエネルギーが放出された」との見方を示した.
(後略)
――――――

 原爆252個分というのはエネルギー量としては,人工的に発生させるのはそう困難な数字とは言えません.
 15キロトン×252=3.8メガトンですから.
 人類が産み出した最大の核弾頭は50メガトン超えてますしね.

 ただしこの巨大なエネルギーを,「震源地」で発生させる必要があります.
 加えて,現代の観測技術は爆発(核を含む)と地震の震動を厳密に区別することが可能です.
 皮肉にもその技術発展を促したのは,冷戦時代に繰り返し行われた核実験ですけどね.

 ついでに.
[[ツァーリ・ボンバ]]

 M7.0に相当する巨大なエネルギーを「地震計で観測した」,人類史上最大の核爆弾(50メガトン).
 地震波(地球を3周)どころか空中「衝撃波」を日本の測候所でも観測したという,まさに地球を揺るがした大爆発.
 地下核実験かと思ってたら,空中投下したのね・・・

ゆうか in FAQ BBS

 地震の発生エネルギーは,logE=4.8+1.5Mで近似的に求められます.
 E=エネルギー(J),M=マグニチュードで代入します.

 今回,M=7.8ということで計算すると,3.16*10^16Jになります.
 TNT火薬1kgで約4.2*10^6J,長崎型原爆で22ktとした場合,340個分に相当します.おおむね近似してますね.

 ちなみに合計で7.5Mtであり,トライデントⅡがW88核弾頭(475kt)を最大14発つんだ場合の投射力が6.65Mtなんで,おおむね同等となります.
 ただし,仮に地震を越す場合,これを地下10kmに埋める必要があり,また核が放出するのは単純な熱的エネルギーであって,それを地震の震動に変換するには莫大なロスが生じると思います.

極東の(以下略 in FAQ BBS

 古歩道氏(ベンジャミン・フルフォード氏の,2ちゃんねるでのあだ名)も,オウム真理教みたいなことを言い出すようになってしまったか.
 今から13年前,オウム真理教は
「阪神淡路大震災が地震兵器で起きた」
と言って地震兵器の研究をしていたね.
 そもそも,ニコラ・テスラというマッドサイエンティストが地震兵器を言い出したのがきっかけらしいのだが.

90式改 in FAQ BBS

 【関連リンク】
【中国・大地震】「地震は米国の地球物理兵器によるものだ」ネット上にデマ氾濫

OOM-7大佐 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


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