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「MURAJIの戯れ言」◆(2010/05/24) 貨幣に見る中国の歴史

「Togetter」◆(2011/04/29)芝村裕吏さんによる解説「隋(国家)の寿命はなぜ縮んだ」

「VOR」◆(2012/03/19)古代中国人は黒人だった?

「VOR」◆(2012/06/17)万里の長城 考えられていたよりも2.4倍長かった

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第一話 【仕官】 その1

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第一話 【仕官】 その2

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第二話 【家族】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第三話 【流星】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第四話 【兄弟】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第五話 【戴冠】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第六話 【再会】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第七話 【来訪】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第八話 【進軍】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第九話 【離別】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十話 【転機】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十一話 【初陣】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十二話 【誤解】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十三話 【亀裂】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十四話 【覚醒】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十五話 【虎狼】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 総集編 【幕間】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十六話 【意地】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十七話 【刺客】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十八話 【開戦】

「あんそく」:やる夫が李斯なようです 第十九話 【英雄】

「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫が李斯なようです

「大陸浪人のススメ」:中共の建国以降に帝位についた皇帝たちを挙げたいと思う

「大陸浪人のススメ」◆(2011/02/15)幻の都・パンサン ―謎の中国もどき政権に関する解説―

謎の世界史(中国史)

中国史人物事典

「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/02)櫻井よしこ 「歴史上,日本は中国に負けたことがない.日本人の方が勇敢である」

『抗日戦争と私 元人民日報編集長の回想録』(李荘著,日本僑報社,2012)

 題名通り,人民日報立ち上げ時に首席記者として活動し,1986年には人民日報総編集という高い地位を得て党中央委員まで上り詰めて引退し,2006年に死去した人の回想録です.

 この本では,彼の生まれから1949年の中華人民共和国の建国までを取り上げていますが,実際にはこの後,大躍進政策やら文化大革命,そして四人組失脚から2000年に至る頃までの記述もあり,紙幅の関係から後半は完全にオミットされています.
 どちらかと言えば日本人としては,その辺の内部闘争の部分を読んでみたいなぁと言う欲求はあったりするのですが.

 昨今のような毛沢東礼賛でなく,骨のある記者だからこそ,幾ら建国の父である毛沢東の政策でも,駄目なものは駄目と言い続け,文革の時には人民日報内で8度に亘る大規模な批判大会に引き出されたり,記者や編集者を解任されて,新聞用紙運搬や図書館での便所掃除など約10年に及ぶ肉体労働を余儀なくされたそうです.
 また,朱徳元帥や鄧小平,林彪などの大物幹部の失脚,同僚達の転向や自殺,非業の死を見続けていた大変な時代でも自分の考えはほぼ曲げることが無かったのは,若い頃から人民に奉仕することとは何か,と言うのを考え続け,常に庶民の側に立とうと,終生一記者として仕事をしようと考えていたからかも知れません.
 本書でも色々と心の揺れの描写があったりするのですが,そうした繊細な部分も描かれています.

 元々地主階級の出で,堕落した実家を嫌って家を飛び出し,山西省の閻錫山影響下の雑誌社に入って記者活動を始めたこと.
 ただ,閻錫山影響下と言えど,その内部は共産党の細胞が浸透しており,彼も感化されて共産党に傾倒して日中戦争勃発後に入党するのですが,入党後もどうすれば良き党員となるのか,と言うのを純粋に考えています.
 そして,地主階級出身というのを引け目に感じているのがよく判ります.

 その後も山西省,河北省,河南省の抗日根拠地を根城に記者として,また編集者として仕事を続けていきますが,その中でも朱徳の独占取材をしたり,劉伯承とその相棒だった鄧小平の知己を得,共に抗日戦争を戦ったりと各地を紅軍と共に転戦しています.

 日中戦争については,常に日本軍が破竹の勢いで勝利していることだけが日本では描かれていますが,実際には日本は点しか支配できず,面は中国側が支配していました.
 幾度も日本軍は紅軍に戦争を挑みますが,紅軍は庶民を味方にしているので情報は筒抜け,初期の頃こそいくつかの軍の殲滅に成功しますが,末期になるほどゲリラ戦で体力を消耗していきました.

 記者活動は大体が後方での取材であるのですが,日本軍の勢いが強いときには前線に放り出される事もあって,戦場で迷子になり,味方に遭って司令部の方向を教えて貰う事も屡々.
 また,年中物資不足に見舞われていますが,雑穀であっても食糧は農民達が供出してくれるので,余りひもじい思いをしなかったことも書いてます.
 こんな軍と戦うのですから,苦戦するはずでは無いか,と思ったりして.

 日本降伏後は,劉鄧大軍に属して国共紛争を戦い,遂に北平に入城し,国民党機関紙のビルを接収して人民日報を立ち上げ,各地から集まってきた要人たちに取材する機会に恵まれました.
 面白かったのは国旗の制定過程で,五星紅旗は最初黄色い線が入る予定だったのに,張治中が国家と革命を分裂する様に見えると反対し,結局現在の図案に落ち着いたり,5つの星の解釈についても共産党とそれぞれの階級を表すとしていたのが,社会主義で階級が無くなると星の数を変えるのかと言う意見が出て,人民の大団結を表すと言う風に改めるなど,談論風発の有様を書いています.
 正に新国家が成立するときの息吹が感じられます.

 これらの過程も面白かったのですが,後半分もいつか読んでみたいと思ったりします.
 ただ,今の中国の状況で後半部分の訳出を出版するのは至難の業かも知れませんね.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2020-12-25

 【質問】
 中国史にどうやって面白さを見出せばいいのか教えてください.

 【回答】
「また反乱で王朝潰れてるよプギャーwwwwwwwwwwww」
な感じで.

世界史板


 【質問】
 中国の王朝名が多すぎて覚えきれません.どうしたらいいですか?

 【回答】
 歌に乗せて覚えるのが楽.

殷周秦漢
三国晋南(北朝)
隋唐五代(十国)
宋元明清
中華民国(中華人民)共和国

夏殷周春秋戦国秦前漢新後漢三国晋南北朝隋唐
五代十国宋元明清中華民国中華人民共和国

殷周 東周 春秋戦国 秦 前漢 新 後漢
ア ル プ ス 一万尺 こ  やり の 上で

魏 蜀 呉  西晋 東晋  宋 斉 梁 陳 隋(南朝)
ア ル ペン 踊  り を  さ ぁ  お ど  り  ましょ

五胡十六  北魏 東魏 西魏 北斉 北周(北朝)
ラーラ ラ ラ  ララ  ララ  ラーラ ララ  ラララ

隋 唐 五代十国 宋 金 南宋 元 明 清
ラーラ   ラ ラララ   ラ ラ  ラーラ ラ  ラ  ラ

(世界史板)

faq05d.jpg
こちらより引用)


 【質問】
 わが国では,在位中の天皇に元号付けて呼ぶのはタブーとなっており,国民は,今上と添えてと呼ぶようになっています(注:この議論がしたい訳ではない)が,中国では(特に明~清)在位中の皇帝は,どう呼ばれていたのでしょうか?
 やはり,諱なのでしょうか?

 【回答】
 昔の中国王朝で皇帝の諱を呼ぶなんて,とんでもない不敬.
 へたすりゃ,それだけで首がとびかねない.

 現代日本だって,たとえば,ある会社の社長が鈴木一郎という名前だったとして,平社員がその社長を「一郎」って呼んだら,場合にもよるけど普通は失礼にあたるでしょ?
 普通は役職で「社長」と呼んだり,「鈴木社長」って呼ぶよね.
 「一郎」って呼んでいいのは,親や親友など,目上か少なくとも対等で,かつ非常に親しい人だけだ.

 それと同じで,というか,それ以上に,昔の中国で大の大人を諱で呼ぶのは失礼なことで,そんなことをしても許されるのは,親とか目上の親族とか師とか,とにかく親しくて目上の人だけ.
 さっきの例で「社長」と呼ぶように,高い地位の役職のある人は,その役職で呼ぶのが無難.
 だから皇帝は「皇帝陛下」とか「天子」と呼ぶ.
 天皇とか皇帝というのは,原則としてその国にただ1人の存在(南北朝時代とかの例外はあるけど)だから,陛下とか天子と言えばそれで通じる.

 ただ,故人の皇帝は複数いるので,故人の天皇や皇帝はただ天子と言うと誰のことだかわからないので,死後には彼らを区別するために名前をつける必要がある.
 つまり,それが「煬帝」とか「昭和天皇」などの諡号.
 これは死んだ後につけられる名前だから,まだ生きている皇帝や天皇をたとえば「平成天皇」などと呼ぶのは,もう死んだものとして扱っていることになり,とても失礼な行為なわけ.
 おわかりかな?

世界史板,2010/02/20(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中国の軍隊に関する質問なんだけど
(1) 日本やヨーロッパのように5~6メートルの長柄の歩兵密集陣はなかったのか?
(2) 常に遊牧民による侵攻に頭を悩ませているイメージがあるのだけど,対騎兵用の編成は生まれなかったのか?
(3) 遊牧民系の王朝は騎兵が中心となるのだろうけど,非遊牧民系のそれは歩兵が中心ということはあったのか?
 実際の中国はどんなんだったのかなー,と「レッドクリフ」見ながら思ったもので.

 【回答】
(1)  向こうじゃそのくらいの長さの槍矛類は珍しいものではなかったので,あるにはあったが.特筆されるようなものでも無かったのだろう.

 創作だが,「水滸伝」には鈎鎌槍という特殊武器で,宋の重装騎馬隊を撃破した話があるな.
http://j.peopledaily.com.cn/2003/12/17/jp20031217_35039.html

 また,16世紀半ばの福州での記録だそうだが,

――――――
フアン・ゴンザレス・デ・メンドーサ 『シナ大王国史』 第二部第一巻

 ビレイ(巡撫)はこの日からエスパニャ人たちに何度か見物に出かけることを許可し,そして一行を 特別に歓待することを部下に命じた.
 そのひとつは,月の初めの何日かにわたって,全国内でいっせいにおこなわれる習慣になっている,閲兵の儀式に一行を連れて行ったことで,これはまことにたいへんな見ものであった.

 この閲兵は市の城壁に接している広場で,次のようにしておこなわれた.
 およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)が,ラッパと太鼓の音にあわせて,じつに機敏に行動した.
 まず,合図と同時に進軍隊形をつくり,つぎの合図では密集隊形となり,そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して,整然と射撃をおこない,ふたたびもとの位置にもどった.
 これが終了すると槍隊が散開して,まことに巧妙に目標に襲いかかった.

 その有様を見てエスパニャ人たちは,この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり,もしもかれらの士気が旺盛で,その訓練と兵員数と同様に優っているならば,容易に全世界を征服することができるであろう,と思ったほどである.
――――――

 しかし火器をもたぬ歩兵軍が,騎馬遊牧民の軍隊とオープンスペースで正面からやりあっても,まず勝ち目はない.
 それゆえ万里長城などの途方もない防衛警戒システムを,国家予算を傾けてまで維持したり,内部分裂しがちな遊牧民の一派を,漢土に帰服させたりと,涙ぐましい努力を二千年も重ねてきた.
 それでもやられる時はやられちゃうんですけどね.

(2)  戚継光や孫承宗の編成がそれに当たるかな?
 しかしそれ以前に,小競り合い程度ならともかく,遊牧民のみで構成された軍と戦うようなケースのほうが稀で,たいていは中原の国と遊牧民が手を組んでたり,片方がもう片方を従えてたりってケースの方が多いはず.

 黄仁宇『万暦十五年』に紹介されてた戚継光の対モンゴルの軍編成.

――――――
 敵を迎え撃つ時は,騎兵が前方で敵軍を阻み,戦車が戦闘隊形をつくるに十分な時間を稼ぐ.
 そして敵軍が接近してくると,騎兵は戦車隊の中へ退却する.
 敵の騎兵が百騎以下の場合,この混成旅団はがんとして交戦しない.
 大軍の敵騎兵が襲撃してきて,火器の射程の中およそ二百五十尺以内に入った時に初めて,仏朗機・鳥銃・「火箭」などの一斉射撃を加える.

 火器がその威力を発揮したあとは,歩兵が戦車の後ろから跳び出し,肉弾戦の波状攻撃を加える.
 その際,ラッパの音で歩調が合うよう指揮をとる.
 敵の攻勢が挫かれ,その隊形が乱れ始めると,騎兵も全員,戦車の後ろから出撃する.
 この騎兵は,事実上むしろ馬上の歩兵とも言うべく,地上の歩兵と同様,鴛鴦陣の隊形をとり,さまざまな武器を手に戦う.
 隊伍を組んで突撃し,烈しく迅速に相手を圧倒するモンゴルの騎兵戦法を,戚継光は真似しなかった.
――――――

 ここでの戦車ってのは「車輪付きの大楯」.
 フス派の戦車と似たようなもん.

 ちなみに紹介しといてなんですが,この史料は鵜呑みにするのはちょっとどうかなと思ってます(笑)

(3)  どちらもそんなことはない.
 外来の王朝とみなされるであろう元や清も 多数の歩兵を内包していたし,唐や宋も多数の騎兵を擁していた.
 どちらが中心となるかは,華北と華南どちらに勢力を持っていたかが,分かれ目になると思う.

世界史板,2009/04/13(月)
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
「時は来た!それだけだ」◆(2010/05/02)櫻井よしこ 「歴史上,日本は中国に負けたことがない.日本人の方が勇敢である」
http://tokihakita.blog91.fc2.com/blog-entry-1344.html

 【事実】
 ν速民にまで引かれてるやん.

2010年05月04日 03:37,HASU

 美式中国軍がアップを始めたようです.

2010年05月04日 02:15,島の人

 今,天智天皇が顔を真っ赤にして走っていったんだが.

2010年05月04日 08:09,ゆずこせう

 あの~,白村江で,既に負けてるんですけど.

2010年05月04日 16:06,鉄底海峡

>白村江

 それは『唐』だから違う「中国」じゃない,って言い出しそう.

 さてー,じゃあ,「中国」との対戦成績は,っと.

対中華民国

⇒第二次大戦で負けた.
 降伏文書に中華民国代表の署名があるのは,まるっと無視ですかい……

対中華人民共和国

⇒対戦歴無し.

 ダメジャン.他に「中国」って国はありましたっけ?

2010年05月04日,ゆきかぜまる

>ゆきかぜまるさん

 櫻井よしこ曰く,

> あの時は米国に負けたのであって,中国には歴史上負けたことがない

だそうです.
 ポツダム宣言受諾して降伏したのに,そのポツダム宣言はどの国が出したのかとか,ミズーリ号で降伏文書に調印したときどの国の代表がいたとか,負けてないなら蒋介石が,発生しないはずの対日賠償をなんで放棄できたのか,とかさっぱり説明つきませんけどね(笑)

 ついでに言うと,さすがのよし子さんも日中戦争に「勝った」とは言えないみたいですから,それで清朝以前の王朝を「中国じゃない」と規定すると,中国も日本に負けたことがないことになるんですよね(笑)

2010年05月04日 19:32,HASU

 クライン孝子ファンの僕としては,櫻井さんの人気ぶりに激しく嫉妬しています.

>国民党との戦いは連戦連勝でしたし,人民解放軍は日本軍を見て逃げていきました.

・・・八路軍ってならともかく.

2010年05月04日 20:14,ぴぴ

>人民解放軍

 なるほど,60年余前にタイムスリップした人民解放軍と旧軍が(ry

2010年05月04日 20:18,島の人

 国民党軍は士気が低かったと言われてますが,地方の軍閥の中には士気旺盛で勇敢なとこも有りましたし,八路軍の場合は,へたれだから逃げていたのでは無い訳でして.
 櫻井さんみたいな人が指揮官になったら大変だと思う.

2010年05月04日 20:50,遠吠犬

「戦争は負けたと思ったほうが負けなのだ」

 つじ~んのくせにいいこと言う.
 うう悔しいビクンビクン.

2010年05月04日 21:14,ゆずこせう

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 殷や周の時代の武将が,戦いの最中使ったことになっている幻術の正体って,何なんでしょう?
 催眠術の類ですかね?

 【回答】
 当時の社会は,当たり前ながら非常に宗教色が強い.
 国王や将軍といった人々は,同時に部族の神官でもあり,彼らにとっての戦争とは,現実の世界で人々が闘争するのみならず,神々の世界で互いの部族の神同士が争う,一種の宗教的儀式に近いものだった.
 もちろん,当時の人間だってホモサピエンスでしかないし,神様なんて実在する証拠は(今と同じく)ない.
 しかし,あくまで当時の人々は,常識以前の問題で神々と奇跡を信じていたし,君主の神聖性も信じていたので,そういう意味で,彼らの現実認識が現実以外のものを見せてしまった,ということはありえるかも.

世界史板


 【質問 kérdés】
 婦好って誰?
Ki Fu Hao?

 【回答 válasz】
 第23代殷王・武丁の妻の一人で,現在知られている限り,中国史に登場する初の女性武将.

 甲骨卜辞の記述によれば,武丁在位中は周辺国家・部族に対し戦闘が行われており,婦好も数多く兵を率いて出兵.
 巴方,土方,夷方などの征伐におもむき,羌人征伐のときには13,000の軍勢を率いた.
 また,祭祀も執り行っていた模様.

 武丁に先立ち死去した婦好は,殷墟の宮殿宗廟区内にある婦好墓(現・河南省安陽市殷都区)に埋葬された.
 この墓は殷王族のものの中では唯一盗掘をまぬがれ,1976年に発見され,墓内からは婦好が軍事権を握っていたことを示す鉞や,殷代には珍しい銅鏡,方鼎や長方彝など1,928件の文物が出土している.

2022.3.12


 【質問】
 『史記』ってまるで見てきたように書いてあるけど,春秋戦国時代の記事なんて司馬遷から600~400年ぐらい前の話でしょ?
 紙もなかった時代に,どうやってあんなに資料を集めたの?
 実は司馬遷の作り話が多いのでは?

 【回答】
 左氏伝もあれば戦国策,その他いろいろ参考文献が存在してるし,司馬遷は諸国を巡って裏付け調査を行ってるんだがな.
 甲骨文が解読される以前は妄想だと思われてた殷代の記事でも,王の系譜が史記の通りだったことが分かったりもしている.

 第一,司馬遷の作り話ってどんだけ不信感抱いてるんだよ.
 しかもどんだけ紙に拘ってんだよ.
 後漢代に紙が発明されるまで,中華では記録はなされて無かったとでも言いたいのか?
 既に出てるが記録する素材は竹簡,木簡,場合によっては絹や石碑とかもあるんだが・・・

 春秋戦国どころか神代のエピソードまで書いてあるけど,
「史料にこうあるが信用できない」
とか,
「この神話はいろんなところに類型があるから,真実じゃないにしても何らかの歴史的背景があるのかもしれない」
とか評価を書いてる.
 とても2千年以上前の人間とは思えないよ.



166 :世界@名無史さん :2009/01/07(水) 23:39:54 0

 司馬遷はその後も孜々として書き続けた.
 この世に生きることをやめた彼は,書中の人物としてのみ活きていた.
 現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が,魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである.
 あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ,あるいは藺相如となって秦王を叱し,あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った.
 楚の屈原の鬱憤を叙して,そのまさに汨羅に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦を長々と引用したとき,司馬遷にはその賦がどうしても,己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった.

中島敦 『李陵』 より

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 桓公って誰?
Ki az Qi Huan hercege?

 【回答 válasz】
 春秋時代前期の斉の君主 (在位BC685~643) で,春秋五覇の一人.
 兄・襄公が殺された後,異母弟の子糾と争って破り,斉君となる.
 鮑叔 (ほうしゅく) の推薦で子糾の臣であった管仲を用い,その政策で国内の経済改革を断行して富国強兵に成功.
 また,夷狄の侵入をたびたび撃退して中原諸国を防衛する一方, BC656年には諸国連合軍を率いて南方の強国,楚の北上を阻止し,召陵 (河南省) で講和条約を結ばせた.
 BC651年,葵丘 (ききゅう.河南省) の地に諸侯を集めて盟約を結び,覇者となった.
 これを葵邱の会と呼ぶ.
 BC645年,管仲や隰朋 (しゅうほう) らの名臣が相次いで死去.
 特に国政の要であった管仲が亡くなると,桓公は国政を顧みなくなり放蕩に明け暮れるようになった.
 また,管仲が亡くなる時に「引き立ててはいけない」と遺言した易牙・豎刁・公子開方という,いわゆる「三貴」と呼ばれた佞臣らを起用し,国政は乱れた.
 桓公が病床に就くと,桓公は三貴によって病室に閉じ込められ,そのままBC643年10月8日死去.
 食料すら与えられず餓死したといわれる.
 その後の公子達の後継者争いの中でその遺体は放置され,BC642年8月に太子昭が孝公として位につくまで67日の間,遺体は納棺・埋葬される事もなく,そのため遂には扉からウジが這い出してきたという.
 斉はこの後もたびたび後継者争いが起こり,国力が衰退.
 覇権は晋,楚へ移った.

2022.1.29


 【質問 kérdés】
 穆公って誰?
Ki az Mu-kung?

 【回答 válasz】
 中国,春秋時代の秦の君主 (在位BC659~621) で,春秋五覇の一人.
 生年未詳.
 名は任好.
 兄2人の跡を継いで即位すると,他国人の百里奚(ひゃくりけい)や蹇叔 (けんしゅく) ら賢人を任用し,国政を整え,富国強兵に努めた.
 対外政策として晋の恵公,次に文公を擁立して威を張ったが,晋の襄公のためこうの戦いで敗北.
 しかしBC624 年には再び晋を攻撃して大勝する一方,戎人の由余 (ゆうよ) を用いて西方に領土を拡大.
 春秋時代秦の第1の賢君として五覇の一人に数えられ,公の死後,家臣177名が殉死.
 このような,有能な人材の大量喪失は秦にとって大打撃となり,以後約300年間,秦は低迷の時代を迎えることになった.

2022.1.13


 【質問】
 「三舎を避く」って何?

 【回答】
 晋の文公(在位BC636~628)が,城僕の戦いの前に軍を三舎(90里)後退させたという故事からできた言葉.
 晋の文公は亡命中に楚の成王に厚遇され,その返礼として,中原で相対した場合に軍を90里後退(三舎を避け)させるという約束をしていた.
 現在では相手を一目置く,敬遠するという場合に用いられる.
 出典は『春秋左氏伝』.

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 【質問】
 司馬穰苴って誰?

 【回答】
 司馬穰苴(しば・じょうしょ)は中国春秋時代の斉の国の将軍.
 生没年不詳.
 姓は?,氏は田,諱は穰苴.
 斉の景公(BC547-490)に仕えて大司馬となったことから,司馬氏を称した.

 名宰相晏嬰の推薦により,景公に登用された.
 当時の斉は晋と燕により攻められ,領土を奪われ,景公はこれを何とかしたいと思っていたからである.

 出師前,彼は遅刻した監軍・荘賈を処刑しようとする.
 それを知った景公は使者を出して,公の腹心であった荘賈の助命を命ずるが,このとき穰苴が述べたのが,後世に伝わる有名な言葉,
「将,軍に在っては,君令も受けざる所有り」
(将が軍中にいる時は,たとえ主君の命令であろうとも受けない事がある)
 彼は処刑を実行させ,これにより軍規が厳正になったという.

 司馬穰苴は,軍中にあって,「仁を根本とし,仁によって勝つ」を実践した.
 すなわち,
常に兵士と行動し,
兵士と同じ宿舎で眠り,
将軍用の兵糧や物資は全て兵士に分け与え,
食事も兵士と同じものを食べ,
井戸や竃の管理を自ら行い,
病気の者を見舞って薬を与え,
弱い者にも優しく接する
と言うものであった.
 その結果,司馬穰苴は全将兵に信頼され,病人までもが出陣したいと願い出るほどだったという.

 また,彼は戦闘においては,「五慮」の条件を満たすよう配慮した.
 すなわち,
「順天」→有利な天時と時機をつかまねばならず
「阜財」→十分な物資を準備しておかねばならず
「懌衆」→みなぎる士気がなければならず
「利地」→有利な地形を選ばねばならず
「右兵」→優良な兵器を保有して各種の兵器を組み合わせて使用する.
の5つである.

 斉軍が士気旺盛である事を聞いた晋軍は,直接的な戦闘を回避することにして撤退を開始し,燕軍も解散を決めた.
 司馬穰苴はこれを追撃し,失地をすべて回復した.
 なおかつ彼は,首都へ帰り着くまでに武装を解き,軍令も解いて,誓いを行ってから入城した.
 景公は諸大夫を連れて郊外まで出迎え,兵を労い,礼をなし,宮城へ帰り,穰苴を大司馬に任命した.
 こうして田氏は斉においてますます尊敬を集めることとなった.

 しかしその後,司馬穰苴は古くからの貴族である鮑氏,高氏・国子らに讒言を受ける.
 田氏の隆盛を妬んだためである.
 そして司馬穰苴は,讒言を信じた景公に疎んじられ,解任され,その後病気になって死去した.
 中国史ではよく見かける光景である…

 司馬穰苴の無念の死により鮑氏・高氏・国氏を恨んだ田一族は,その後,田常が斉簡公を殺した際に鮑氏・高氏・国氏らも共に抹殺.
 その後,田氏は田因の時代に斉の国権を,建国の祖である太公望呂尚に連なる姫氏より奪いとり,田因は斉威王となり,司馬穰苴の兵法を研究させて「司馬法」の原案を制作した.
 そして田因は,用兵において司馬穰苴の方法を真似たため,諸侯は皆,斉に入朝した.

 同書は全部で百五十五篇あったとされるが,現存するのは『仁本』・『天子之義』・『定爵』・『厳位』・『用衆』の五編のみである.
 司馬遷は『司馬法』を評して
「その内容は広く深く,三代(夏・殷・周)の戦争についてこれほど詳しく書いてあるものは無い」
と書いているが,現在残っている編は残念ながら兵法そのものより,戦争に於ける儀礼的なことを書いた部分が多い.

 【参考ページ】
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%A9%B0%E8%8B%B4
http://juei.kakurezato.com/t-shibajousyo.html
http://www.geocities.jp/sei_taikou/shibajousyo.html
http://kanpihistory.blog.fc2.com/blog-category-22.html


 【質問】
 龐涓って誰?

 【回答】
 龐涓(ほうけん)は,戦国時代の武将にして,孫臏(そんびん)ストーリーにおける咬ませ犬.

 生年不詳.

 若い頃,龐涓は鬼谷の下で,孫臏(当時は孫濱)と共に兵法を学んだ.
 龐涓も秀才だったが,常に孫濱には叶わなかった.
 二人は親友だったが,やがて龐涓は孫濱を妬み,憎むようになった.
 妬みがストーリーに絡むのは,中国の物語では定番.

 その後,龐涓は魏に仕官し,恵王の元で将軍になることができた.
 しかし妬みは消えず.
 そこで龐涓は,偽って孫濱を魏へと招待.
 孫濱を罪に陥れ,彼に脚を切断する刑「剕」と,額に罪人の印である黥を入れる刑に処させることに成功した.
 孫濱は自分の名を孫臏(臏は膝頭の骨の意味)と改め,龐涓への復讐を誓い,斉へ逃亡した.
 当時の斉は,田斉.
 司馬穰苴の一族である田氏が,姜氏から国の支配権を奪った後の斉であった.

 さて,その後の紀元前353年,龐涓率いる魏軍は,趙の首都・邯鄲を攻めた.
 窮地に陥った趙は斉に救いを求める.

 しかし斉軍は邯鄲に急行しようとせず,代わりに魏の首都大梁を攻めた.
 慌てたのは魏軍.
 精兵は前線に出払っており,首都の守りは老兵ばかりだったからである.
 龐涓は夜も休まず軍勢を急ぎ引き返させるが,それを待ち受けていた斉軍の攻撃を受けた.
 強兵として知られた魏軍も,連日の強行軍で疲れ切っており,そこを突かれたのだからたまらない.
 惨敗してしまう.
 これを『桂陵の戦い』と呼ぶ.
 しかも,斉軍には軍師として孫臏がついており,これは彼の策(囲魏救趙の計)であったことを,龐涓は後で知り,後悔したという.
「あのとき殺しておくんだった」
と.
 …いや,後悔すべきポイントが間違っているような気がするのだが.

 次に彼が記録に登場するのは,それから13年後のことになる.
 孫臏の「咬ませ犬」の宿命で,孫臏絡みでしか書物に登場しないためだ.
 しかし当時の魏は,他国との戦争が絶えず,魏の武将である龐涓も,多かれ少なかれそれらの戦争に関与していただろうことは,想像に難くない.

 さて,先の桂陵の戦いの後,この戦いで魏が敗退したのを見た韓は,斉と結び,魏と戦うことにした.
 だが,韓は魏の強さを見誤っていた.
 韓は魏と五度戦って五度負け,逆に魏に滅ぼされそうになった.
 このときの韓への侵攻軍の将が龐涓である.

 そこで韓は斉に援軍を求め,斉の威王は,再び田忌を将軍,孫臏を軍師として韓の救援軍を派遣した.
 斉軍は前回同様,魏の都を攻めようとしたが,龐涓もこれに備えて本国にも精強な兵を残しており,斉軍を足止めする一方,韓攻略隊も引き返させた.
 防衛隊と攻略隊で挟撃しようというのである.
 これを知った斉軍は撤退するが,龐涓は打撃を与えるべく追撃する.
 撤退戦であれば,追撃する側が圧倒的に有利だからである.

 斉軍を追ってみると,斉軍の宿営地の竈の数が,次の日には半減,その次の日はさらに半減,とどんどん減っている.
 龐涓には「魏の兵は命知らずの猛者だが,斉の兵は臆病者だ」という先入観があったから,斉軍では脱走兵がどんどん増えていると思い,更に勢いづいて足の速い騎兵だけを連れて追撃を図った.
 そしてやってきたのが馬陵道の渓谷.
 既に夜半になっており,渓谷の隘路は障害物で塞がれていたが,龐涓は障害物を撤去してさらに進撃するよう命じた.

 と,その地にあった木の枝に,板が吊るされている.
 板には何か書かれている.
 龐涓は火を掲げ,これを読んだ.
「龐涓死于此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」
 しまった!罠だ!と彼が気づいたときには,彼が掲げた火を合図に,渓谷の斜面の上から,何千という矢が降り注ぎ,隘路の奥にいた斉軍の伏兵が攻撃をかけてきた.
 自らが負けたことを悟った龐涓は
「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ)」
と言い残して自刎.
 魏の太子・申は捕虜となり,司令官を失った魏軍は,斉軍に蹴散らされることとなった.
 これが世に言う「馬陵の戦い」.
 紀元前341年のことである.

 漫画『キングダム』に登場する龐煖(ほうけん)とは別人なので注意.

 【参考ページ】
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9E%E6%B6%93
http://houzankai.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-bdfa.html
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/sei22.htm

龐涓の最期
こちらより引用)

 最期のエピソードは話が面白すぎるので創作説あり.

唯野 in mixi,2015年05月30日 19:06

 え? ぼうけん??

ギシュクラ in mixi,2015年05月31日 00:10

「上まあ矢張り追撃の好機な訳だろうか」

消印所沢 in mixi,2015年5月31日 14:18


 【質問】
 孫臏の兵法書と孫武の兵法書(孫子の兵法)との,それぞれの特徴や差異などあったら教えてください.

 【回答】
 簡単に比較すると

 孫武
「兵は神速を尊ぶ」「兵は詭道なり」など,精錬された言葉で軍事の基本を簡潔に表す

 孫臏
「防塁が出来る前に敵に攻められたらまずマキビシをまき,馬車や盾で仮の防塁をたて,長槍兵,短槍兵,剣兵,弓兵の順に並べて・・・」
など,かなり具体的で実戦的に書かれてる.
 また,孫武と違って迷信的なことも書かれてるのも大きな差異.
 さらっと流し読みした感じでは,風水や五行説に基づいた兵の運用を書いた書物,という感じ.
 現代日本人が読んでも理解できない部分は多いかも.
 もっとも,その書物が書かれた時代の人間は,そういった事象に行動を左右されていたのは確かなのだから,無意味なものだったとは思わないけど.(現代でも,占いとかそういうものに行動を左右される人間は多いけどね.)
 しかも,現存してるものは1つ(銀雀山の)しかなく,保存状態も良いとは言えない為,虫食い状態で肝心な所が分からない.
 徳間書店から出てるから読んで見てください.

(世界史板)

(画像掲示板より引用)


 【質問 kérdés】
 商鞅(しょうおう)って誰?
Ki Shang Yang?

 【回答 válasz】
 法家であり,秦の政治家.

 生年不詳.
 衛の公室の子孫であったため衛鞅または公孫鞅ともよばれた.
 初め魏の宰相・公叔座に仕えたが,その死後は秦の孝公(在位前361~前338)に仕えた.

 孝公の信頼を得,その承認のもとで,貴族層の強い反対を押し切って,紀元前359年,前350年の2回にわたる大政治改革を断行した.
 いわゆる「商鞅の変法」と呼ばれたその改革の目的は,旧来の貴族層の特権を廃し,君主が官僚を使って民を直接支配する中央集権政治の体制をつくり,それによって富国強兵を実現しようとすることにあった.
 この政策はいちおう成功し,隣国の魏と戦って勝ち,西方の後進国の秦を一躍強国にし,この新しい法の精神は以後も受け継がれ,秦の全国統一達成の基礎になったといわれる.
 その功績によって商の地に封ぜられ,商君と号し,商の姓を名のった.
 反面,その強制的改革は貴族層の強い恨みを買った.

 紀元前338年,孝公が死去し,恵文王が即位すると,かねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し,商鞅に謀反の罪を着せようとした.
 恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので,危機を悟った商鞅は都から逃亡.
 途中で宿に泊まろうとしたが,宿の亭主は商鞅である事を知らず,
「商鞅さまの厳命により,旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」
と断られた.
 商鞅は
「制定的法律竟然遗害到了这种地步/法を為すの弊,一にここに至るか(ああ,法律を作り徹底させた弊害が,こんな結果をもたらすとは…)」
と長嘆息し,いったん魏に逃げるが,公子卬を騙した事を忘れていない魏は,軍を発し,即座に国内から追放.

 やむなく商鞅は封地の商で兵を集めたが,秦の討伐軍に攻められて戦死.
 恵文王の厳命で,その遺骸は黽池で見せしめとして車裂の刑に処せられ,身体は引き裂かれて曝しものとなった.

2022.2.19


 【質問 kérdés】
 恵文王って誰?
Ki az Huiwen király?

 【回答 válasz】
 秦の26代君主(在位BC338~BC311,王としては在位BC324~BC311).始皇帝の高祖父にあたる.

 太子時代に商鞅の法に触れ,その罰として傅役(もりやく)の公子虔と教育係の公孫賈がそれぞれ劓(鼻削ぎ)と刺青の刑にされ,もう一人の太子侍従の祝懽が処刑さる.

 父親・孝公の死後,商鞅に罪を被せて討ち取り,その死体を車裂きの刑に処す.
 ただし商鞅の新法はそのまま使用した.

 また,謀略家である張儀を登用して,度々魏・斉・楚などを討ち,BC324年,王号を唱える.

 BC318年,秦を畏れた韓・趙・魏・燕・楚の5カ国連合軍が秦に侵攻したが,恵文王は弟の樗里疾に命じてこれを破り,その兵士8万の首を切った(函谷関の戦い)

 BC316年,司馬錯の意見を採用し,秦の領域であり,関中の後ろに大きく広がる穀倉地帯・巴蜀を併合.

 BC312年,張儀の策謀に嵌って秦に侵攻した楚軍を丹陽(現・河南省南陽市淅川県)で返り討ちにし,楚の漢中地方に逆侵攻.
 同地に漢中郡を設置する.
 その後,楚が再び侵攻して来た際には,咸陽に近い藍田(現・陝西省西安市藍田県)で撃破して,楚衰亡の端緒を作り出した(藍田の戦い)

 BC311年死去.

2022.2.18


 【質問 kérdés】
 秦の武王について教えてください.
Kérem, mondja meg Wu Qin királyáról.

 【回答 válasz】
 秦の第二七代の君主.
 恵文王の子であり,昭襄王の異母兄.

 BC311年,恵文王が没すると即位.
 不仲だった張儀以外は,恵文王の臣をそのまま用い,司馬錯が楚を討ち,商・於の地を奪って黔中郡を設置する成果を挙げた.
 一方で武王は腕力を自慢とし,腕力自慢の任鄙や烏獲などの武将を大官に任じた.

 BC308年,秦に初めて丞相を設置.
 樗里疾(恵文王の弟,樗里子とも)と甘茂をそれぞれ左右の丞相とした.

 BC309年11月,甘茂らに命じ,詳細に農田と道路の制度を規定し,毎年指定した時期に修復するという為田律を定めさせた.

 BC308年秋,武王は甘茂と庶長封に宜陽を討たせた.
 この戦いは長期かつ激戦であったため,韓だけでなく秦も国力を消尽する結果となった.

 BC307年8月,孟説という大力の持ち主と鼎の挙げ比べを行い,脛骨を折って死去.
 そのため孟説には罪ありとされ,一族諸共滅ぼされた.
 子がないままの急逝だったために後継者争いが起こったが,燕にいた異母弟の公子稷が即位した.
 これが昭襄王である.

2022.2.18


 【質問 kérdés】
 昭襄王って誰?
Ki Zhaoxiang király?

 【回答 válasz】
 秦の第28代君主にして,第3代の王.
 始皇帝(政)の曾祖父.

 紀元前306年の武王急逝後,魏冄らの支援により即位.
 年少で即位したため,母である宣太后が摂政し,在位当初は武王の遺臣・樗里疾や甘茂・向寿・公孫奭などが政務を取った.
(その後は宣太后の弟であった魏冄と華陽君(羋戎)の2人が実権を握るように)

 同年,楚が韓を討ち,韓の雍の地を包囲したため,兵を出して韓を救援.
 同年,向寿と公孫奭の讒言により,魏討伐中の甘茂が出奔し,斉に亡命.
 紀元前305年,先の後継者争いに敗れた庶長の公子壮が反乱を起こすが,鎮圧(庶長壮の反乱,季君の乱とも言う).
 紀元前303年,魏を討ち,魏の蒲阪・晋陽・封陵の地を取った.
 しかし翌紀元前302年に魏の襄王が秦に来朝したため,蒲阪を返還.
 紀元前301年,恵文王の子であり,蜀侯であった公子惲が謀反したとしてこれを追討.
(その後,紀元前298年に公子惲の無実が証明さる)
 同年,楚との仲が険悪になり,庶長の奐(姓は不明)に命じて楚を討った.
 紀元前300年,公子惲の子・公孫綰を蜀に封じて蜀侯とす.
 同年,再び楚を討ち楚の新城の地を取る.
 紀元前299年,華陽君羋戎(宣太后・魏冄の弟)に命じて楚を討ち,新市の地を取る.
 紀元前298年,斉の湣王は孟嘗君を秦に入国させ,昭襄王はその賢を絶賛して宰相として礼遇する.
 紀元前297年,楚の懐王が秦に入朝したが,昭襄王は懐王を信じず,秦に拘留.
 同年,ある人が「孟嘗君が当代一流の人材であることは認めますが,斉の人でありますから,秦の宰相になっても斉の利を優先するに違いありません.さりとて帰せば斉の利の為に働き,ひいては秦の脅威となるでしょう」と進言.
 昭襄王はこれを信じ,謀殺しようとしたため,孟嘗君は食客の力を借りて斉に逃亡(鶏鳴狗盗).
 紀元前296年,懐王が趙に逃げたが,趙が受け入れなかったため再び捕らえらる(その後,秦の地で死亡)
 同年,斉の宰相となっていた孟嘗君は,斉・韓・魏を主力とし,趙(に併合されていた中山)・宋の軍と合わせて秦に侵攻し,秦は函谷関で敗北(塩氏の戦い.五国攻秦の戦とも).
 昭襄王は河北および封陵の地を割譲して和睦.

 紀元前295年,楼緩を免じて魏冄を宰相とす.
 宰相となった魏冄は白起を将軍として推挙し,昭襄王は白起を左庶長に任じる.
 紀元前294年,旧知の間柄であって重用されていた向寿に命じ,韓を討って武始の地を取る.
 紀元前293年,白起を左吏に昇格させ,韓・魏へ侵攻さす.
 白起は伊闕の地で首を斬ること24万を数え,5城を抜くことに成功(伊闕の戦い).
 この知らせを聞いた東周は秦を恐れ,使者を派遣して和議を講じる.
 昭襄王は白起を国尉(軍司令官)に昇格させ,引き続き魏へ侵攻.
 白起は黄河を渡って魏の安邑以東,乾河にいたる地を取る.
 紀元前292年,昭襄王は白起を大良造に昇格させ,再度魏を討たせる.
 白起は垣の地を取り,大小61もの城を落とし,魏の国力を大きく傾かせることに成功.

 同年,魏冄が病のために請うて宰相を辞職.
 昭襄王は客卿の燭寿を宰相とする.
 紀元前291年,燭寿を罷免し魏冄を再び宰相とする.

 同年,左更であった司馬錯に命じ,魏を討たせ,魏の軹と鄧の地を取る.
 そして弟の公子巿(涇陽君)を宛に,同じく弟の公子悝(高陵君)を鄧に,魏冄を陶に増封.

 紀元前290年,引き続き魏を討つ.
 魏は河東の地,方四百里を献じて講和を求めたが受け入れず,魏冄は魏の河内を攻略し,60余りの城を陥れることに成功.
 紀元前289年,司馬錯・白起に命じて引き続き魏を討ち,垣・河雍・決橋を取る.

 紀元前288年,昭襄王は西帝を称す.
 そして魏冄を斉に遣わし,斉の湣王に東帝の帝号を贈ったが,斉がすぐに帝号を捨てたので,昭襄王もとりやめる.

 紀元前287年,宰相を罷免されていた魏冄を再度宰相に任ずる.

 紀元前286年,司馬錯に命じて,魏の河内を攻める.
 魏は安邑を秦に割譲.
 紀元前285年,蒙武を登用し,斉を討たせる.
 同年,蜀侯・公孫綰が謀反した疑惑が持ち上がり,これを誅殺.
 以降は蜀には侯は置かず,蜀郡郡守を置くのみとした.
 同年,昭襄王は都尉の斯離に命じ,三晋(韓・魏・趙)および燕と共に斉を討ち,済水の西で斉を破る(済西の戦い)
 紀元前283年,魏を攻めて魏の安城を取り,大梁に赴いたが,燕と趙が魏を援けたので,秦軍は撤兵.

 同年,再度魏冄の宰相職を免じる.

 紀元前282年,昭襄王は趙の2城を落とす.

 紀元前281年,魏冄を再度,宰相に任じる.
 同年,恩赦を行い,赦した罪人を穣に移す.
 穣は魏冄の封じられている地であり,これにより魏冄の力はますます強まる.

 紀元前280年,司馬錯に命じ,隴西から兵を出して蜀に出て,楚を討つ(黔中の戦い)
 同年,罪人を赦して南陽に移す.
 また同年,白起に命じ,趙を討ち,代と光狼城を取る.

 さらに同年,昭襄王は趙の恵文王の「和氏の璧」を手に入れようとして藺相如に防がれる(完璧).
 その後も藺相如の存命中は,秦は趙に対して大きな行動を取ることができなかった.

 紀元前279年と紀元前278年,昭襄王は白起に命じて楚を討ち(鄢・郢の戦い).楚の鄢と鄧の地を取る.
 そして罪人を赦してこの地方に移し,南郡として秦の版図とす.
 この功で,白起を封じて武安君とす.
 紀元前277年,蜀郡郡守の張若に命じて楚を討ち,巫郡および江南を取り,秦の版図として黔中郡とす.
 紀元前276年,白起を楚に続いて魏の討伐に命じる.
 白起は魏の2城を取るなど魏討伐でも活躍する.
 紀元前275年,魏冄にも魏の討伐を命じ,魏の首都大梁まで迫り,魏将・暴鳶の軍を破って遁走さす.
 紀元前274年,客卿の公孫胡昜にも魏の討伐を命じ,魏の巻・蔡陽・長社の地を取る.
 紀元前273年,魏将・芒卯の軍を破り,首級13万を挙げる(華陽の戦い).
 戦国七雄の一国に数えられた魏は大きく衰退する.
 同年,秦に従わない趙を白起に命じて討つ.
 白起は趙将・賈偃と戦い,その士卒2万人を河中に沈めることに成功.
 続いて昭襄王は白起に命じて本格的な楚討伐に乗り出そうとしたが,秦に使いに来ていた楚の春申君が,
「今,天下には秦と楚より強い国はありません.
 王は楚を討とうとされますが,これはちょうど二匹の虎が互いに戦うようなもので,ともに傷ついてしまい,良策とはいえません.
 また,大王は天下の地を領有し,威力はここに極まったと言うべきです.
 この威力を保守し,仁義の道を厚くすれば,いにしえの三王(三皇)や五覇(春秋五覇)と肩を並べられましょう.
 ここは,逆に楚と和親されるのがよろしいかと存じます」
と昭襄王に上書.
 昭襄王はそれに従い,出兵を取りやめて楚と和親する.

 紀元前271年,昭襄王は客卿の竈に命じて斉を討ち,斉の剛・寿の地を取り,これを魏冄に与える.
 魏冄の封地は拡大を続け,王族を凌ぐほどとなる.

 同年,昭襄王は范雎を客卿とす.

 紀元前269年,秦に従わない趙を公孫胡昜に命じて討つ(閼与の戦い).

 紀元前267年,長子の悼太子が,人質に出していた魏で薨去.

 紀元前265年,范雎の進言により,昭襄王は宣太后を廃し,魏冄の宰相職を罷免.
 また,魏冄・涇陽君・高陵君・華陽君らを秦の国内であった函谷関の外に追放.
 范雎は宰相となり,食邑の応に封じられ,応侯と号す.

 同年,悼太子の代わりに安国君こと公子柱(後の孝文王)を太子に指名.

 紀元前264年,秦に従わない韓を白起に命じて討つ(陘城の戦い).
 紀元前263年,昭襄王は白起に命じて韓を討つ.
 白起は野王を降服させ,紀元前261年には韓の緱氏・藺を落とすなど華々しい戦果を挙げる.
 紀元前260年,昭襄王は左庶長王齕に命じて韓を討ち,韓の上党の地を取る.
 しかし,上党の民は秦ではなく趙に降ったため,趙は兵を出し,長平に駐屯.
 同年4月,王齕は趙軍を攻めたが,趙の名将・廉頗に敗退.
 范雎は一計を案じ,趙の孝成王に逆宣伝させ廉頗を更迭さす.
 趙が廉頗を更迭し,趙括を将軍としたと聞き,秦はひそかに白起を上将軍とし,王齕を副将として,軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した.
 趙括は着任すると,すぐに兵を進め秦軍を討った.
 白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた.趙軍は勝ちに乗じて追撃したが,秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して,糧道を絶たれた.
 昭襄王は戦果を聞くと,みずから河内の地に出かけて,民にそれぞれ爵一級に任じやり,年15以上の者を徴発して,大挙して長平に行かせ,趙の援軍と糧道をさらに遮断す.
 9月,趙軍の絶食は46日間に及び,互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状となる.
 趙括は精兵とともに白兵戦を演じて打開を図ったが,秦はこれを射て趙括を殺害.
 趙軍40万は白起に降服したが,白起は
「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した.
 趙の士卒も,いつ心変わりするかわからない.
 皆殺しにしなければ叛乱を起すだろう」と考え,趙軍を偽って連れ出し,40万の士卒を穴埋めにして殺害.
(長平の戦い)
 これにより,趙の国力は大きく傾く.

 紀元前259年10月,昭襄王は白起に命じ,再び上党を平定さす.
 白起は軍を二手にわけ,王齕に皮牢を落とさせ,司馬梗に太原を平定さす.
 しかし白起の功績が大きくなるのを恐れた范雎は,
「秦の兵は戦いに疲れております.
 韓・趙が地を割いて和を講じるのを許し,わが士卒を休息させてやりたいと存じます」
と進言.
 昭襄王はこれを聴き入れ,韓の垣雍と趙の六城を取って講和.
 講和の命令を白起は聞き,范雎との間に溝が生じる.

 紀元前258年,昭襄王は五大夫・王陵に命じて趙を討ち,邯鄲を攻めさせたが陥落せず(邯鄲の戦い).
 昭襄王は王陵に代わって白起を将軍にしようとしたが,白起は最後まで辞退.
 紀元前257年,昭襄王は援軍を送ったが勝てず,王陵を更迭し王齕に代わらせる.
 それでも邯鄲は落ちず,多大の損害を受ける.
 白起は,「秦は私の言うことを聴かなかった.今にしてどう思うか」と言った.
 これを聞いた昭襄王は大いに怒り,白起を罷免して士卒に落とし,陰密の地へ移す.
 翌紀元前256年11月,昭襄王は范雎や群臣と論議し,
「白起が陰密へ移る時,不平不満があって承服せず恨みがましいところがあった」
として白起の爵位を剥奪.
 白起に剣を与えて自害を命じ,白起は自刎する.
 同時に,司馬錯の孫で,長平の戦いで白起の副将を務めた司馬靳にも自害を命じる.

 紀元前256年,昭襄王は張唐に命じて国として続いていた鄭を討ち,国都を落とす.
 同年12月,趙の邯鄲を攻略中の王齕に増兵を行ったが,邯鄲を落とすことができずに退き,汾城郊外の軍に逃げ込む.
 そこで鄭にいた張唐に趙の攻略を命じ,趙の寧新中の地を抜くことに成功.
 同じころ楊摎に命じて韓を討ち,韓の陽城・負黍の地を取る.

 同年,周の赧王と,王室の分家の西周の文公が秦と敵対し,諸侯と結んで秦を攻撃.
 昭襄王は楊摎に命じて西周を討つ.
 翌紀元前255年,西周の民は残っていた東周君の領地に逃げ,周に伝わった九鼎は秦に接収さる.
 残った東周君も,紀元前249年に呂不韋によって攻め滅ぼされる.

 紀元前254年,天下の諸侯が秦に入朝したが,魏が入朝しなかったため,楊摎に魏を討たせ呉城の地を取る.

 同年,昭襄王は鄭安平に命じて趙を討つ.
 しかし鄭安平は趙に包囲され,兵と共に投降.

 同年,王稽が諸侯と内通して法に問われ誅殺さる.

 同年,范雎は昭襄王に蔡沢を推挙し,蔡沢は客卿となる.
 また,范雎は病と称し,宰相を辞職.

 紀元前251年秋に没.

2022.2.20


 【質問 kérdés】
 白起って誰?
Ki Bai Qi?

 【回答 válasz】
 秦の名将.

 郿(び,現・陝西省)の生まれだが,生年不明.
 昭襄王に仕え,BC294年に韓の新城を攻める.
 BC293年,韓,魏を伊闕で破る.
 また,2度にわたって楚を破り都の郢を下すなど,連戦に華ばなしい戦功をたて,封ぜられて武安君と称された.
 引続き列国を攻めて七十余城を占領.
 BC260年には,秦の命運を決定づけた長平の戦で趙に大勝する.
 しかし,彼の昇進をおそれた宰相・范雎と不和になり,彼の弾劾をうけて一兵卒に降格された上,BC257年,辺地に流される途中で自決した.

 彼がもっと重用されていたならば,史実のBC221よりも前に秦の中国統一が果たせていたかどうかは,永遠の歴史のIFである.

2022.2.21


 【質問】
 劇辛って何?

 【回答】
1)
 特に辛い料理の辛さを示す言葉.
 「激辛」とも表記される.

2)
 (1)より派生した,辛辣なコメントなどにつけられる形容詞.
 例:「セルジオ越後の劇辛トーク」
 もっとも,そう自称するコラムなどは,だいたいにして単なる「世論に対する逆張り」であったり,ただの「老害」であったりする例も散見される.

3)
 劇辛は中国の戦国時代末期の燕の将軍.
 生年不詳.

 趙の出身だが,燕の昭王が斉に対抗するため,臣下の郭隗の献策により,有能な人材を諸国に求めたとき,それに応じて燕に移った.
 同じように燕に移った者には,魏の将軍・楽毅や斉の陰陽家・鄒衍がいる.
 このときの献策が,現代まで伝わる
「先ず隗(かい)より始めよ」
のエピソードであるが,有名な逸話であるので詳細は割愛.

 劇辛は以後,昭王から喜まで5代の燕王に仕えた.

 BC242年,趙将の李牧により武遂と方城が奪われる.
 しかし,喜は,趙がたびたび秦に敗北し,さらに既に名将・廉頗が,出奔し将軍が龐煖に交替したのを見て,劇辛に趙に反撃するのが良いかを諮問した.
 劇辛は趙にいたころ,龐煖と親しくしていたため,
「龐煖は与(くみ)易きのみ」
と答え,趙に攻め入った.

 劇辛は易水を渡って中山路を取り,常山に至った.
 対する龐煖の趙軍は東垣に屯営して塹壕を掘り,塀壁を高くして守った.
 龐煖は言った.
「劇辛は自らの才能を恃んで来ている.
 必ずや敵を軽んずる心があるだろう.
 今,李牧が代郡を守っており,軍を率いて燕軍の退路を断てば, 彼は腹背に敵を受けることになろう.
 これを迎撃するわけだから,彼を虜にできよう」

 燕軍には栗腹の子,栗元もいた.
 栗元は父の仇を討ちたいと欲して劇辛に言った.
「進撃させて下さい」
 劇辛は言った.
「であれば,もう一人をお前の助けとして附けよう」
 劇辛は武陽靖に,栗元とともに出撃するよう令を下した.

 しかし,趙軍は強弩を乱射して応戦.
 武陽靖は箭で死に,栗元は燕軍陣地に逃げ帰った.
 劇辛は大いに怒り,全軍を率いて趙軍の陣地に突入を試みた.
 龐煖は強弩でこれを防ぎ,燕軍には相当の損害が出た.
 龐煖は使者をやって 劇辛に言わせた.
「代の李牧が退路を塞ぎに兵を動かしている.この地にいれば帰れなくなるぞ」
 栗元が劇辛に言った.
「将軍,もし,使者の言うとおりだとすれば,大変危険です」
 劇辛は言った.
「なんぞ李牧を恐れることがあろうか」

 だが,劇辛は兵を退かせた.
 龐煖は兵をやってこれを追跡させる.
 劇辛が龍泉河に至る頃,
「前面に旌旗がはためいて路を塞いでいる」
という報告が入った.
 聞けば,代の李牧の軍だという.
 劇辛は驚いて言った.
「龐煖は私を欺かなかった」
 そこで劇辛は進路を変えて東に進んだが,胡盧河に至ったところで, 龐煖の軍に追いつかれ,戦となった.
 劇辛は兵破れ,言った.
「今更何の面目あって趙の虜囚となれようか」
 劇辛は自ら頸を刎ねた.

 【参考ページ】
http://page.freett.com/lunarwarfare/jin/enn.html
http://www.geocities.jp/shokatusei/QinShihuang/25.html


 【質問】
 古代中国の都市について研究しているんですが,都市を囲ってる城壁ってあるじゃないですか?
 あれって古代はどんな形をしてたんですか?
 現在,南京とかに残っている高さ10メートルぐらいの壁が長方形に何キロも街を囲ってるっていうスタイルは,漢代辺りから変わらないのでしょうか?

 【回答】
 自分の記憶では春秋時代頃には,既に城壁で四角い形に都市を囲っていたと思うよ.
(都市の規模については大から小まで様々)

 一応,四川省成都市郊外にある龍馬古城宝敦遺跡は,長辺110m,短辺600m,高さ7~8mの長方形の城壁に囲まれた,巨大な遺跡であることが判明している.
(約4500年前に形成されたと言われている)

 また,湖南省の城頭山遺跡も龍馬古城宝敦遺跡と同様に,高い城壁(最大高5m)を持った城塞としであることが分かっている.
 城頭山遺跡は直径360mのほぼ正円の城塞都市で,東西南北に城門があり,周りを環濠に囲まれていた.
 その環濠は現在も西側半分が残っていて,中国の発掘調査で,この城壁の最古の物は今から6300年前に築造されたことが判明している.

 中国の城壁都市の形は,前17世紀のエン師遺跡(商のハク?)で固まった.
 この都市から,東西南北を意識した方形の城壁を築き,碁盤の目の道路網を整備し始めた.

 しかしそれ以前(~夏)は違う.
 前26~23世紀の初期の都市は,方角を完全に無視していて,形も楕円形のものすらあった.
 しかも垂直に城壁を築いていたのではない.
 台状に土地を盛り上げて,すり鉢状に凹ませたところを都市にしていた.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 漢代を初めとして,中国の都市は基本的に超巨大な城砦都市ですよね?
 なのに,なんで超巨大で分厚い城壁がいま残ってないんでしょうか?
 あれだけでかければ漢代どころか春秋時代のもあっていいんじゃないですか?

 【回答】
 城壁なら一部は残ってるが・・・
 超巨大じゃなくても,中国からヨーロッパまでユーラシア大陸では,都市を城壁で囲むのは防御のための基本.
 大きいものからショボいのまでいろいろ.
 「超巨大」とまで言っていいのは秦の咸陽,唐の長安ぐらいじゃないかな.
 どちらも滅んだときに破壊しつくされた.

 近現代に入ると城壁が都市発展を阻害し始めたから,洋の東西を問わず一部を史跡としてのこしたりしつつも,基本的には全部ぶっ壊すのが主流.
 ウィーンとかも近代に入ると,城壁ぶっ潰してる.
 北京のもでかかったけど,近代になって邪魔だから壊した.

 また,春秋~漢代は板築.
 土をつき固めていく方法で,秦代の万里の長城もこれ.
 都市が放棄されたら土に還(かえ)っていく.
 後にレンガを積んで作るようになった.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 春秋戦国時代や漢の時代の攻城戦について,漫画とかで見ると
「完全に包囲してる」
とか書いておきながら,包囲中に簡単に外交使節を他国に送ったりしてます.
 一体,あの頃の攻城戦はどんなものだったんですか?

 【回答】
 包囲,といっても城の外周をぐるりと取り巻くようなことはしない.
 せいぜいで,城門前に各部隊を配して交通を遮断.部隊間を哨戒するというのが普通.

 強襲する場合も,城門からそんなに離れた場所を攻めるわけじゃない.
 城門を乗り越えるための攻城装備や衝車,投石器といった城壁の破壊兵器を駆使して,城内に何とか兵の一団を送り込み,城門を中から奪取して開け,本隊を呼び込むというのが普通の攻め方.

 まあ,特殊な攻め方としてはトンネルを掘って,中に兵を送り込もうとしたり,城壁をそこへ落とし込もうとしたり……あとは水攻めに火攻め……

 それと,中世までの中国や欧州,中東で,「城」といった場合,たいていは,「都城」であって,都市一個を丸ごと囲ったもの.
 現存する日本の城だって,ほとんどは天守閣だけが残っているせいでちっぽけに思えるが,実は城下町の中心市街地のほとんどを丸抱えで囲っていた.

 そういった都城をぐるりと,本当の意味で水も漏らさぬように囲い込むのは,中世までの兵隊の動員規模を考えれば,かなり困難.
 まあ,城(都市)の規模にもよるけどね.

軍事板,2005/10/07(金)
青文字:加筆改修部分

包囲中
(画像掲示板より引用)


 【質問 kérdés】
 楽毅って誰?
Ki az Gakuki?

 【回答 válasz】
 楽毅(生没年不明)は前3世紀前半に活躍した,戦国時代の名将.
 紀元前295年,燕の昭王の招きで燕に行き,燕軍を指揮して斉を滅亡寸前まで追い込んだ.
 昭王死後,恵王に仕えたが,斉の田単の離間策により紀元前279年,趙に下った.

2022.1.2


 【質問】
 質問です.
 中国の春秋戦国時代,燕の侵略を受けた斉は,田単将軍の下,墨城に2年にわたって篭城して反撃,失地をすべて挽回したとありますが,これほど長期間にわたって一城に篭城し,その間も戦力を保つというのは可能なのでしょうか?
 食糧,武具などはすぐに底をついてしまうような気がしますが.
 日本では三木合戦の際に2年間篭城していますが,食糧輸送できずに最後は食糧が尽きて飢え死に寸前となって降伏ですよね.
 その他の篭城作戦はほとんど数ヶ月です.
 何か食糧輸送などの後方支援部隊がいたということなんでしょうか?

 【回答】
 完全包囲ってのは当時の動員数や戦術では難しく,大抵は包囲側の隙を突いて物資の搬入を行っていたりする.
 三木合戦も2年篭城できたのは支城からの支援と,連絡線が保たれていたから.
 それが断たれたから最後は食糧が尽きて,飢え死に寸前となって降伏する事になった.
 日露戦争の旅順要塞でもそんな感じだったから,戦国時代でもそんなもん.

 後,田単の戦いぶりを見ればわかるが,彼は軍の士気の維持に腐心してる.
 当時の篭城戦は武器や兵糧よりも先に,守備側の士気崩壊の方が先に訪れる.

 また,中国の城は,城というより城塞都市で,都市1個を中に囲んでいる.
 そのうえ,長期戦を想定して1年~数年分の食糧・武器・資材を貯めこんでいる.
 都市だから貯めこんだ資材が尽きるまでは,中で色々な物を作れるし,住民が普段から生活している場だから,日本の城のように城内に避難した領民の居住環境が悪化ということもさほどではない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 スープが原因で大敗した国について教えてください.

 【回答】
 鄭の隣にあったのが宋という国.
 両国とも小国で,大国の晋と楚の間に挟まれています.
 こうした小国であれば,両国とも連携し合って大国との距離を取って,相手が倒れるのを見ていれば良いのに,何故かどちらも大国の保護を当てにして,相手を蹴落とそうとします.
 結果,宋は晋と,鄭は楚との同盟を結成し,両国は晋と楚の代理戦争を起こす羽目になりました.
 特に,楚の庄王は宋が晋の側に立ったのに腹を立て,鄭に宋を攻撃させることにしました.

 決戦を前に,宋の最高司令官である華元は,部下の士気を奮い立たせる為に,「羊の羮」を振る舞います.
 この羮というのは,米入りのスープで,米を煮ることで澱粉がスープに溶け込み,ポタージュやクラムチャウダー状のものになります.
 ところが,これに有り付けなかった奴がたった1人いました.

 さて,いよいよ出陣の時.

 華元は戦車に乗り込み,意気揚々と部下に出陣命令を下そうとします.
 しかし,戦車を操る御者の羊斟が,「羊の肉を配ることは貴方が仕切ったが,今この戦場では私が仕切る!」と叫ぶや,華元が乗った戦車を敵国である鄭の陣地のど真ん中に突っ込ませました.
 華元は呆気なく捕虜となり,宋は大敗を喫してしまいます.
 『春秋左氏伝』によれば,この戦いで宋が失った戦車は460台にも達したそうです.

 そう,たった1人「羊の羮」に有り付けなかったのは,華元の御者である羊斟だったのです.
 たかが1杯のスープが大敗を呼び込んだ訳で,正に「食い物の恨みは恐ろしい」を地で行く話です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/16 22:13


 【質問 kérdés】
 呂不韋って誰?
Ki Lu Pu-wei?

 【回答 válasz】
 戦国時代末の秦の政治家(生年不詳~BC235)

 元は潁川郡陽翟(ようたく)県(現・河南省禹県),一説に濮陽 (河南省濮陽) 出身の大商人.
 趙に人質となっていた秦の公子・子楚を助け,子楚が秦の荘襄王となるや,その丞相となる.
 他方,すでに呂不韋の子を宿している愛姫を偽って子楚に献じ,政を生ませたとする俗説あり.

 次代の秦王・政が即位すると,中国史上初めて相国となり,また,仲父の称号を与えられ,栄華をきわめる.
 また,彼は道家や陰陽五行家に傾倒していたらしく,BC240年,傘下の賓客たちに当時の儒,墨,法,道,陰陽五行などの諸子百家の思想を『呂氏春秋』としてまとめさせた.
 だが,嫪毐(ろうあい)の乱に連座して蜀に流されそうになり,自殺.

2022.3.8


 【質問 kérdés】
 嫪毐(ろうあい)って誰?
Ki Lao Ai?

 【回答 válasz】
 戦国時代の秦の偽宦官(生年不詳~BC238)

 当初は秦の宰相・呂不韋の食客.
 巨根で知られ,宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという.
 この芸によって呂不韋に見出された.

 呂不韋は嬴政の母の趙姫(太后)と長年不倫関係を続けていたが,太后を老年に差し掛かった彼が満足させることは難しくなり,同時にその関係は非常に危険なことであった.
 そこで関係を清算したがっていた呂不韋は,自身の身代わりとして彼を後宮に送り込んだ.
 王以外の男性で後宮に出入りできるのは,男性器を切除した宦官のみだったので,その性器を切除しないまま嫪毐を後宮に入れるにあたり,髭を抜き取るなどして宦官のような容貌に変えさせ,さらに宮刑を執行されたという記録をでっちあげるなどの裏工作をした.

 呂不韋の思惑通り,嫪毐は後宮に入って太后の寵愛を受け,2人の息子を儲けた.
 やがて,太后の後ろ盾をもとに次第に権勢を握り,紀元前239年に嫪毐は長信侯に封じられ,河西太原(後の毐国)を封地とした.
 また,多くの食客を擁するようになり,呂不韋に次ぐ権勢を誇った.

 だが,房事での出世は周囲の評判が悪く,密告により政に知られることになって,内偵により太后との密通が露見.

 そこで嫪毐は御璽及び太后の印璽を盗み出して,兵を集めて反乱を起こそうとした.

 しかし,既にそれに備えていた,政の命を受けた楚の公子である昌平君と昌文君の叔姪によって,咸陽で返り討ちに遭った.
 嫪毐は逃亡したものの,捕らえられて車裂きの刑に処され,その一族や太后との間のふたりの息子もことごとく処刑された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%AA%E3%82%A2%E3%82%A4
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%AA%E6%AF%90
https://en.wikipedia.org/wiki/Lao_Ai

2022.3.6


 【質問】
 秦が中国初の統一王朝とか言いますが,なんで統一できたの?

 【回答】
 秦=プロイセンとイメージすれば分かり易いな.
 現在「ドイツ」とイメージされる国を作ったのがプロイセンであるように,現在想起される「中国」という範囲を作ったのが秦.
 国のあり方も成立の仕方,全国の「統一」の経緯も良く似てる.
 両国とももともと非中国,非ドイツでほとんど外国.
 まっとうな中国人ドイツ人とは扱われず,よくて中央の文化地から離れた辺境の野蛮人.

 プロイセンの軍国ぶりとそれを支える軍隊と国家システムは有名だが,秦も国家体制を整備していく過程では富国強兵が主軸.
 人口増加促進,取った首の数で出世が決まる等,プロイセン張りの富国強兵政策を取って強大化した.
 ただでさえ蛮地に入植した状態で,王族自体が西戎出身じゃないかという説があるぐらいで,自民族や軍隊の構成員が,異民族の蛮族出身者である所に,この半文明の野蛮な民族が完全に文明化されず,もとの荒々しさ,野性が温存された状態であるため,軍隊も精強で戦争に強い.
 国の政策もそれに拍車をかけた.

 プロイセンは厳格な法秩序や体制重視,峻厳な社会体制で知られるが,秦もそれに劣らず「体制」バリバリの国家権力がものすごかった,
 人民にとっては重苦しく,しんどい国だった.

 これら「半スラブの野蛮人」「半西戎」が次々にドイツ諸国,中国の諸国を併合していき,それによって逆に中国化,ドイツ化されていき,固有の言語や文化も喪失していったのも似ている.

世界史板


 【質問 kérdés】
 王翦って誰?
Ki az Wang Jian?

 【回答 válasz】
 戦国時代の秦の将軍で,戦国時代末期を代表する名将.
 生没年不詳.
 頻陽県東郷(現在の陝西省渭南市富平県の北東)の人.
 秦王・政の11年に初めて史書に登場し,楊端和らと共に鄴を攻め,様々な計略を用いてこれを陥落.
 以後,政に重用され,趙・楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献したが,老年になってからは重用されなくなった.

2022.1.20


 【質問 kérdés】
 李信って誰?
Ki az Li Xin?

 【回答 válasz】
 李信(生没年不詳)は戦国時代末期の秦の将軍.
 字は有成.
 秦王・政(後の始皇帝)に仕え,諸国の統一に貢献した.
 現存する史料は『史記』白起・王翦列伝や刺客列伝などしかなく,李信の事跡には不明な点が多い.

2022.1.19


 【質問 kérdés】
 荊軻って誰?
Ki Jing Ke?

 【回答 válasz】
 秦王・政(始皇帝)を殺害しようとした刺客.

 生年不詳.
 衛の人.
 沈着冷静で剣術を好み,諸国遊歴の末に燕の太子・丹に仕える.
 当時,秦に人質となっていた丹は,秦の待遇が悪かったため,逃げ帰ってきていた.
 丹は,小国の燕が大国の秦に勝つには,秦王を脅迫して土地を諸侯に返還させるか,あるいは暗殺するしかないと考え,荊軻に暗殺を依頼.
 荊軻は,秦から逃亡してきた樊於期(はんおき)将軍の首と,燕の督亢(とっこう)の地図を携えて出発した.
 易水のほとりで太子らとの別れに際し,
「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し,壮士一たび去ってまた帰らず」
と歌った詩は有名.
 秦王は地図を献上されたものと喜んで広げたが,その瞬間,荊軻は地図の内に隠していた匕首を取り出して秦王を突いた.
 秦王は驚いて身を引き,剣を抜こうとしたが抜ききれず,逃げ回る.
 武器の携帯を許されていない臣下たちも,とっさのことで手をこまぬいていたが,やがて秦王自ら剣を抜いて荊軻に切りつけ,続いて従臣たちが彼を殺害した.
 前227年のことであった.

 その後,燕は秦に攻撃され,前222年に滅ぼされたという.

2022.3.14


 【質問 kérdés】
 李斯って誰?
Ki Li Si?

 【回答 válasz】
 秦の統一に功績のあった法家の政治家.

 楚の上蔡(現・河南省)の生まれだが生年不詳.
 初め郡の小役人となり,のち荀子について帝王術を学んだ.
 しかし楚や東方の諸国には天下を統一する望みがなかったので,西の秦に赴き,丞相・呂不韋の食客となる.
 その後,秦王・政(後の始皇帝)に仕え,東国離反の策を進言.
 それが成功すると客卿(他国出身の大臣)にあげられた.
 また,逐客令(他国出身者の追放令)が出されたときは,李斯が反対論を唱え,これは廃された.
 以後,李斯の策は重用され,秦王を助けて天下の統一を実現させ,丞相に就任.
 法治主義をとり,その内政外交は秦帝国確立の大きな基礎をつくった.
 郡県制,焚書坑儒,文字・度量衡の統一などの政策は,彼の進言による.

 始皇帝死後,趙高が末子・胡亥を二世皇帝にたてる謀略に荷担したが,のちに2人の無道ぶりを非難して投獄さる.
 前208年,腰斬刑により死亡.
 また,三族誅滅されている.

2022.3.13


 【質問】
 始皇帝以外の兵馬俑って発見されていないの?
 戦国時代の君主なんて腐るほどいるんだがら,少しぐらい見つかってもいい気が…

 【回答】
 始皇帝の兵馬俑の発見自体が,偶然の産物だからね.
 単に見つかるチャンスが無いだけなんでしよう.

 一応,木製の俑なら陝西省韓城市梁帯村にある周代墓地より発掘されている.
(始皇帝の兵馬俑より500年くらい前の物)

 ちなみに陶俑を副葬品とするのが盛んになるのは秦・漢~隋唐頃だそうだよ.
 漢~隋・唐代は王侯の墓に俑を副葬品にするのは普通で,その中には軍隊を表した兵馬俑もある.
 ただ,サイズがかなり小さい.
 「人形」といって丁度いいぐらい.
 等身大のものは今のところ始皇帝のものだけ.

 また,春秋時代には馬を生きたまま副葬品として墓に埋葬していたとの事.

世界史板
青文字:加筆改修部分


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