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<◆シリア
中近東FAQ目次


 【質問】
 シリア内戦の経過は?
 3行で教えて!

 【回答】
 2011年1月から抗議運動が始まり,デモが頻発するが,これを軍や治安部隊が武力弾圧したため,反政府側も武力による抵抗にエスカレートし,6月ごろから本格的戦闘開始.
 だが,反政府勢力は纏まりを欠き,2012年3月には最大拠点のホムスが陥落するなど劣勢.
 2013年8月には化学兵器使用疑惑が取りざたされて,オバマ大統領の「介入するする詐欺」がある一方,2014年6月には「イスラーム国」がシリア領内で勢力を伸ばし,事態は混迷の一途を辿ったまま,今に至る.

【ぐんじさんぎょう】,2015/01/14 20:00
を加筆改修


 【質問】
 シリアにおける民主化アクションの始まりは?

 【回答】
 「アラブの春」のシリアへの波及は意外に早く,2011.1.29には駐シリア・エジプト大使館前で,エジプトの抗議デモへの連帯のデモが呼びかけられている.
 しかし,警官隊はこれを簡単に排除.
 2.4にはネット上において,「国会前で,改革要求,エジプトとの連帯を叫ぼう」というデモ呼びかけがあった.
 これも当日は国会前は私服,制服の警官隊で完全に固められ,集まった少数のデモ隊は簡単に排除されたという.
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3434639.html

 ネット上では,それより更に早く,「アサドに反対するシリア革命」と題するfacebook が,1月末時点で6千のメンバーを集めたという.
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3412962.html

 さらに遡れば,ハサカに住むハサン・アリ・アクレーという人物が,抗議の焼身自殺を試み,ハサカでデモがあったという.
 ただ,この情報は,wikipediaとそこにリンクされたアラビア語の新聞にしか元ソースが確認できず(2015.2.11現在),それがどのように波及したのかは不明である.
「この事件は民主化運動とは関係のない,クルド人問題の中の事件である」
という見解もあったが,こちらもまた元ソースが確認できない.

 3月13日付のエルサレム・ポストでは,「シリアでは民主化運動は起きにくい」と分析されていたのだが…
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3601717.html

https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/564427135473831936?p=p
を加筆改修


 【質問】
 先シリア内戦「デモ漸増期」(仮称)について,3行で教えてください.

 【回答】
 シリア内戦に先立つ反アサド・デモは,報道で確認できる限り,2011.1.29より始まる.
 初期のデモはまだ少数で弱々しく見え,警官隊によってすぐに排除できる規模だった.
 よってアサドは,デモはすぐにでも終息するだろうと見ていたに違いないが,徐々にデモの人数は増えていき,3月,ダラアでのデモ弾圧で初の死者が出たのを皮切りに,
デモ⇒弾圧で市民死傷⇒それに怒った市民によるデモ
の増幅スパイラルが始まるのである.

 【関連リンク】
「Aljazeera」◆(2012/03/15) In Pictures: One year of Syrian uprising|From its beginnings in Deraa to ongoing violence in Homs and other cities, the turmoil shows no sign of ending.

【ぐんじさんぎょう】,2015/04/04 20:00
を加筆改修

<年表(デモ漸増期以降)>

こちらによる死者数の数字は,殆どが反政府側発表のもの)

 2011年1月26日,ハサカに住むハサン・アリ・アクレーが,抗議の焼身自殺を試みたことから,公然とした反政府運動が始まる▼[要検証]
 1月29日,駐シリア・エジプト大使館前で,エジプトの抗議デモへの連帯のデモが呼びかけられるが,警官隊はこれを簡単に排除.
 2月1日,「アサドに反対するシリア革命」と題するfacebook が,1月末時点で6千のメンバーを集めたと報じられる.
 2月4日,ネット上において,「国会前で,改革要求,エジプトとの連帯を叫ぼう」というデモ呼びかけ.
 2月5日, 国会前は私服,制服の警官隊で完全に固められ,集まった少数のデモ隊は簡単に排除.
 同日,▲ハサカにおいても,アル=アサド退陣を求める数百名規模のデモがあり,シリア当局が多数の人々を逮捕したことから,逆にデモは急速に拡大.
▼2月17日,ダマスカスにおいてデモ.
 2月22日,リビア民衆との連帯デモ.
 3月1日,ダマスカスにおいて,物価高騰に抗議する,数百人規模の女性のデモ.
 3月15日,シリア各地の主要都市で一斉にデモ.
 ダマスカスの有名なアル・ハメディア・バザール(屋根で覆われた広大なバザールで有名な観光地)にて,改革と自由を求める反政府抗議集会.目撃者によれば参加者70名程度.
 彼らは多数の警官隊によって直ぐ解散させられ,一部は逮捕.
 バザールでの集会の直後にfacebook が,礼拝後の時間に,近隣のオマイア・モスク(これまた世界的に有名な観光地)に集まるように呼びかけたが,誰も集まらなかった模様.

 北部の町アレッポと,北東部の砂漠の中の町deir ez zol でも抗議集会.規模不明.
 3月16日,ダマスカスのマルジェ地区の内務省の前で,逮捕者の家族ら数十人が,その釈放と自由を求めてデモ.警官隊によって直ぐ逮捕,解散.その後一部のものはそのままデモを続けようとしたが,アサド支持のデモ隊これを阻止.
 3月18日,金曜礼拝の後,オンラインで「尊厳の金曜日」と呼ばれるデモが呼びかけられ,政府汚職疑惑の解決を求めた数千人の抗議者がシリア各地の街路でデモ.地方治安部隊は抗議者たちを暴力的に取り締まり.
 ホムス,バニヤス,ダマスカスのオマイヤ・モスク,南部の町ダラアでは抗議集会.
 オマイヤ・モスクでは,金曜礼拝後,「アッラーの他に神はない」との呼びかけ.
 ダラア Dara'a では,facebook等に載せられたメッセージで,部族代表が治安部隊,戦車部隊,ヘリコプターの撤去を要求し,その要求が入れられなければ,ダラアの総ての警察署,情報機関事務所を焼却すると警告.
 同地のデモでは,治安部隊の発砲で4名が死亡し,数十名が負傷.逮捕者も多数.
https://www.youtube.com/watch?v=21uILDiCgMg
https://www.youtube.com/watch?v=Y_3DAEdf-lY
 3月19日,ダラアにおいて,殺された者の葬儀.参列者は『自由」「腐敗根絶」等を叫ぶ.
 3月20日,数千名がダラアで非常事態法に反対するデモ.治安部隊の発砲により,1名が殺害され,多数が負傷.
 3月21日,ダラアにおける18日のデモで5番目に死亡(負傷後に死亡?)した若者の葬儀が,同地にて行われ,数千人が葬列に参加.
 警察及び軍隊は,ダラアを取り囲み,他の町から葬列への参加者が町へ入らないよう警戒.

 ダラアの近郊のジャーシム Jassemの町では,数百人が政府に反対するデモ.
 バニヤース,ホムス,ハマーでも同様の抗議運動.
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3626806.html
http://www.irishtimes.com/newspaper/world/2011/0322/1224292773018.html
http://www.yalibnan.com/2011/03/21/protests-spread-to-southern-syrian-town-jassem/
 3月22日,ダラアと,その近郊の町nawah(注:アラビア語からの音訳)で,5日連続となる抗議運動.
 数千人が腐敗の根絶,自由,逮捕者の釈放,48年間実施されている非常事態宣言の廃止,生活の工場,若者に対する就職機会の提供等等を叫んで抗議.
 多数の警官隊と兵士が配置され,町に入る道ではいちいち身分証明書をチェックする検問が行われ,他方群衆の方では,町のモスクの周りで人間の輪を作り,警官隊のモスクへの立ち入りを阻止.

 3月23日早朝,治安部隊と群衆との衝突で,新たに5名が死亡し,数十人が負傷.
 衝突はal amry(注:アラビア語からの音訳)モスクの近辺でおきたようで,目撃者によれば治安部隊は銃撃や催涙ガスで群衆を鎮圧しようとしたとのこと.

 3月24日早朝,ダラアの町の中心のモスクの周囲で衝突があり,シリア軍が群衆を激しく攻撃.
 人権団体の言では,最低でも14名が死亡したとのこと.
 激昂した群衆も政府の建物や電話局や車両に放火.
 アサド大統領はダラア市長を解任.

 アサド大統領顧問が記者会見して大統領の犠牲者に対する哀悼の意を伝えるとともに,バース党指導部が大統領の議長の下,緊急会合にて改革を進めることを決定したと述べた.
 また,顧問によればダラアの事態が何故発生したのか,犠牲者が多く出た責任は何処にあるのか等について調査が行われるとのこと.
 大統領顧問は,ダラアの人々の要求は正当だとしながらも,抗議運動がダラアで生じたのは,その町が国境に近く武器の密輸が容易だからだと,硬軟相反する説明をした模様.

 3月25日,オンラインで「栄光の金曜日」または「尊厳の日」と呼ばれるデモが呼びかけられ,国内各地の街路で数万人がデモ.シリア南部では軍隊が発砲し,少なくとも2桁以上の死傷者発生.
▼ ダラアでは前日死亡した9名(報道によっては10名)の葬儀が行われ,2000人が行進.
 治安警察と衝突して,群衆は前大統領アサド(現大統領の父親)の銅像を燃やす.
 また,特に大統領の弟(共和国警備隊司令官)と実業家の従兄に対する憎しみが表明され,共和国警備隊に対しては「ダラアではなくゴラン高原に行って戦え」との叫びも.
 これに対して治安部隊は屋上から狙撃したり催涙ガスを使用.
 ダラアの近郊の町では,目撃者によれば同日20名が殺害.
 ダマスカスでは少人数の抗議集会があり,数十人が逮捕.
 ダマスカスの郊外の町では,30名が殺されたとの報道.
 北部の港町ラタキアでは,治安部隊が町を閉鎖し,車両の出入を差し止め.

 活動家がネットに書いたところでは,「ラタキアにて抗議集会出席の最低7名が殺され,治安軍は事態掌握の為に市内中に展開している」
 政府系メディアは,屋根の上から狙撃手が銃撃していると報じている由.

 3月27日,抗議の群衆及び治安軍の間で,ラタキア及び近郊の山岳地帯で40~60名が負傷.
 3月29日,atli内閣総辞職.
 ダマスカス,アレッポ,ハサカ,ホムス,タルトゥース,ハマーで官製デモと思われる,アル=アサドを支持する数十万人規模のデモ.
http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4049313,00.html
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-12892870
 ダラアでは300人規模の抗議デモ.
 3月30日 アサドの「改革」演説直後,ラタキア市内2箇所にて,「自由を!」と叫ぶ数百人規模のデモ.
 治安警察が多数展開し,激しい銃撃音も.


 4月1日,オンラインでの呼びかけにより,「殉教の金曜日」なるデモが発生.軍隊が発砲し,死傷者発生.
▼ ダマスカスの他,南部の町ダラア,北部の港のラタキア,ホムス,バニアス等において抗議デモが行われ,治安警察の発砲等で最低でも13名死亡.
 AFPや目撃者談によると,ダマスカス郊外のドゥーマでは警官隊の銃撃で6名死亡,多数が負傷.別の筋は死者は10名を下らないとしている由.
 ダラアの近郊のsanmin(注:アラビア語からの音訳)では,3名が警官の発砲で死亡し,ダマスカスでも最低2名が死亡したとの目撃者談.
http://www.nytimes.com/2011/04/02/world/middleeast/02syria.html
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3655511.html
 シリアの6人権団体は,ダラアでの衝突後逮捕された者のうち40名が,逮捕直後,または尋問所へ連行される途中で,治安部隊により棒で殴られたと非難.
 4月3日,シリア各地において,4/1の治安部隊との衝突で死亡した者たちの葬儀が行われ,数千人が参加して自由を!とか殉教者を無駄にするな!と叫ぶ.
 4月8日,▼シリア各地において,▲「抵抗の金曜日」と呼ばれる,それまでで最大のデモ.治安部隊の発砲により,死傷者2桁.
▼ 特に激しかったのはダラアで,8日付のal jazeerah net の記事によれば,治安部隊の発砲により16名~数十名が死亡し,75~132名が負傷.
 その他抗議デモが起きた都市はダマスカス(数千人が警官隊により解散させられた由),ラタキア,ホムス,バニアス等,殆ど全土.治安部隊が発砲.

 人権団体によれば,ホムスでは3名,ダマスカス近郊では4名死亡.
 4月9日,ダラアにおいて,前日の死者の葬列に集まった群衆に対し,これを解散させるために治安部隊が発砲.
 北部の町ラタキアにおいても,治安部隊が群衆を解散させるために発砲.
 どちらも死傷者数不明.

 4月10日,シリア各地で抗議運動が続き,これを治安部隊が弾圧して,死傷者多数.
 北部の町バニアスでは,目撃者談によれば,治安部隊の銃撃により,最低4名が死亡し,17名が負傷.
 同市では治安部隊が多数集結している他,町の出入り口の主要道路には戦車が配置され,群衆の集結を阻止.
 他に,ダラア,ラタキア,ホモスでも,抗議運動とこれを解散させようとする治安部隊との間で衝突.

 4月11日,ダマスカス大学(シリアの代表的大学)の理科学部の学生数百名が,自由を叫ぶデモ.
 他方海岸のバニアス市は,治安部隊が完全に包囲し,外部との連絡が断たれる.
 アサド大統領は,ダラアの逮捕者の家族と会見し,約百名の逮捕者を釈放すると約束.

 4月12日,バニアスでは約200名が逮捕され,バニアス近郊の村では治安部隊が激しい銃撃を加えたとの目撃者談.
 また,その農村では停電のため(意図的な電力のカットか否かは不明)パン屋が操業できず,パン危機が生じる.

 4月13日,アレッポ大学文学部の学生約500名が自由を叫びつつデモ行進.
 バニアス近郊の村のひとつ,al beidha では,5000人以上の婦人が,先に逮捕された者の釈放を求めてデモ.逮捕者350名.
 バニアス市では民衆に発砲することを拒否した兵士複数が,軍により射殺された――との目撃談.

 4月15日,数万人がバニヤース,ラタキア,バイダ,ホムス,デリゾールなどでデモ.
▼ ダマスカスでは数千人規模のデモ隊が,市の中心のアッバーシーア広場を目指し,これを解散させようとする治安部隊がこん棒や催涙ガスを使用.
 その他ダラアでも数千人規模のデモがあった他,ラタキア,バニアス,ホムス,ハマ等,CNNによれば15の町でデモ.

 4月16日,バニアスで1000人規模のデモ.警官との衝突等は報じられず.
 4月17日,ホモスの近郊のtelbisah(注:アラビア語からの音訳)の町では,先に死亡した者の葬儀が行われようとしているところ,多数の治安部隊と戦車が町を包囲.
 これに対して一部の青年が治安部隊に向かっていこうとしたが,長老がこれを鎮め,治安部隊に撤退するように求めたが,結局衝突となり,目撃者の談では最低4名が死亡.
 ダマスカス郊外のal maadhamiah(注:アラビア語からの音訳)では,4000人の抗議デモがあり,町を包囲した治安部隊と衝突.
 ドゥルーズが多数居住しているal suweidah(注:同)では400名の抗議者と治安部隊が衝突.
 ダラアでは数千人が,アレッポでは数百人が抗議デモ.

 4月18日夜,ホムスにおいて,治安部隊が引き揚げげると,1万人の群衆が市の中心広場でアサド政権打倒を叫ぶデモ発生.
 同市では,先に逮捕されたときには元気だった長老の遺体が家族に引き渡され,次いで隣の町のtilbisaで4人が殺されたとのニュースが広まり,街は緊張.
 そこへ治安部隊及び私服の傭兵が銃を発射.

 町の広場で抗議の座り込みをしていた群衆に,治安部隊の幹部がラウドスピーカーで解散を呼び掛け,その直後に発砲と催涙ガスの攻撃が始まったとhaaretz net報道.
 目撃者の談では8~14名が死亡,50名負傷.
 4月19日,政府,非常事態法を撤廃.
▼ 4月20日,ダラアとアレッポでは抗議のデモ.
 バニアス市の政治警察の長が解任.

 4月22日,首都ダマスカスと,シリア国内の少なくとも10箇所の街で数万人のデモ.治安部隊の発砲により,数十人以上が殺害さる.
 al jazeerah netによれば,死者は約100人.
 4月23日,前日の死者の葬儀の葬列に治安部隊が発砲,al jazeerah netによれば最低11名が死亡.
 内訳は,ドゥマで4名,ダラア近郊で5名,ダマスカスで2名.
 また,al qods al arabi net によれば,死者は最低14名.


 【質問】
 シリアにおける反アサドの反政府活動は,何か勝算があって始められたの?

 【回答】
 2011.6.22の「そうだったのか!学べるニュース」に出演していた,東京外語大学の飯塚正人教授によれば,シリア人反政府勢力が,戦車にひき殺されても頑張っているのは,
「頑張り続けていれば,リビアみたいな欧米の介入があるだろう」
と期待したからだったという.

 しかし同教授は
現在の状態は,ちょうどイスラエルとシリアの間で軍事均衡がとれており,この均衡を欧米は崩したくないので介入はしない」
「反政府勢力の未来は暗い」
と述べていた.

 放送から3年以上たった2015.1.1現在から見れば,これは的確な予測だった,と言えよう.

軍事板,2011/06/23(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シリアの反政府運動初期におけるダラアの動きを教えてください.

 【回答】
 ダラア,またはダルアー Daraa or Dera'aは,ヨルダンにほど近い,シリア最南端の都市である.[1]
 内戦前の人口は75,500人.[1]
 この街の歴史は古く,紀元前約1400年ごろのエジプトの古文書や,旧約聖書にも登場し,古代ローマの遺跡も市内に存在する.[1]

 この街での反アサド抗議運動は,2011.3.18に始められた[2]というから,かなり早いほうである.
(もっとも,報道がないだけで,もっと前から始まっていた可能性もある)
 特筆すべきは,部族代表自ら,治安部隊,戦車部隊,ヘリコプターの撤去を要求し,その要求が入れられなければ,ダラアの総ての警察署,情報機関事務所を焼却すると警告したことと,報道されている限りでは,治安部隊の発砲により,民間人に初めての死者が出たことであろう.[3]
 市民はもちろん激昂し,更なるデモを呼び込む結果となった.
 治安部隊がまたそれを鎮圧し,死傷者を出す.
 するとさらに市民は激昂し,…というループの始まりである.
 3月19日,ダラアにおいて,殺された者の葬儀.参列者は『自由」「腐敗根絶」等を叫ぶ.[3]
 3月20日,数千名がダラアで非常事態法に反対するデモ.治安部隊の発砲により,1名が殺害され,多数が負傷.[4]
 3月21日,ダラアにおける18日のデモで5番目に死亡(負傷後に死亡?)した若者の葬儀が,同地にて行われ,数千人が葬列に参加.[5]
 3月22日,ダラアと,その近郊の町nawah(注:アラビア語からの音訳)で,5日連続となる抗議運動.[9]
 数千人が腐敗の根絶,自由,逮捕者の釈放,48年間実施されている非常事態宣言の廃止,生活の工場,若者に対する就職機会の提供等等を叫んで抗議した.
 また,群衆は,街のモスクの周りで人間の輪を作り,警官隊のモスクへの立ち入りを阻止したという.[9]
 これに対して警察及び軍隊は,ダラアを包囲し,他の町から葬列への参加者が町へ入らないよう警戒.[6][7][8]
 多数の警官隊と兵士が配置され,町に入る道ではいちいち身分証明書をチェックする検問が行われたという.[9]
 実際,ダラアの近郊のジャーシム Jassemの町では,数百人が政府に反対するデモを起こしている.[6][7][8]

 3月24日早朝,群衆と軍隊とが対峙していた,街の中心のモスクの周囲で,とうとう衝突が起きた.
 シリア軍は群衆を激しく攻撃.[10]
 人権団体の言では,最低でも14名が死亡したという.[10]
 激昂した群衆も政府の建物や電話局や車両に放火.[10]

 この事態に対し,アサド大統領はダラア市長を解任.[10]
 アサド大統領顧問が記者会見を開き,犠牲者に対する大統領の哀悼の意を伝えるとともに,バース党指導部が大統領の議長の下,緊急会合にて改革を進めることを決定したと述べた.[11]
 また,同顧問は,ダラアの事態が何故発生したのか,犠牲者が多く出た責任は何処にあるのか等について調査が行われるとのこと.[11]
 このときはまだ,懐柔策をとる意思がアサドにはあったのかもしれない.
 ただし一方で,この大統領顧問は,ダラアの人々の要求は正当だとしながらも,「抗議運動がダラアで生じたのは,その町が国境に近く武器の密輸が容易だからだ」とも述べた.

 もちろん,この程度で殺された側の遺族が納得するはずもない.
 3月25日,ダラアでは前日死亡した9名(報道によっては10名)の葬儀が行われ,2000人が行進.[12]
 治安警察と衝突して,群衆は前大統領アサド(現大統領の父親)の銅像を燃した.[12]
 また,特に大統領の弟(共和国警備隊司令官)と実業家の従兄に対する憎しみが表明され,共和国警備隊に対しては「ダラアではなくゴラン高原に行って戦え」との叫びもあったという.[12]
 これに対して治安部隊は屋上から狙撃したり催涙ガスを使用.[12]
 ダラアの近郊の町では,目撃者によれば同日20名が殺害.[12]
 3月29日,ダラアでは300人規模の抗議デモ.[13]
 4月1日にも抗議デモが行われ,治安警察が発砲.[14][15]
 ダラアの近郊のsanmin(注:アラビア語からの音訳)では,3名が警官の発砲で死亡したとの目撃者談.[14][15]
 シリアの6人権団体は,ダラアでの衝突後逮捕された者のうち40名が,逮捕直後,または尋問所へ連行される途中で,治安部隊により棒で殴られたと非難している.[16]
 4月8日には,シリア各地において,「抵抗の金曜日」と呼ばれる,それまでで最大のデモが起きたが,特に激しかったのが,やはりダラアで,8日付のal jazeerah net の記事によれば,治安部隊の発砲により16名~数十名が死亡し,75~132名が負傷.[17]
 4月9日,ダラアにおいて,前日の死者の葬列に集まった群衆に対し,これを解散させるために治安部隊が発砲.死傷者数不明.[18]
 4月10日,バニアス,ダラア,ラタキア,ホモスにおいて,抗議運動とこれを解散させようとする治安部隊との間で衝突.[19]
 4月11日,アサド大統領は,ダラアの逮捕者の家族と会見し,約百名の逮捕者を釈放すると約束した[20]ものの,事態は収まらず.
 4月12日,ダラアで数千人規模のデモ.[21]
 4月17日,ダラアで数千人が抗議デモ.[22]
 4月20日にも抗議デモ.[23]
 4月23日,前日の死者の葬儀の葬列に治安部隊が発砲,al jazeerah netによればダラア近郊にて5名が死亡.[24]
 4月24日,とうとう戦車が投入される.
 戦車を伴う数千人の治安部隊が,ダラアの4方面から無差別発砲しながら町に侵入し,町の主要モスク及び「殉教者の墓」を占拠.[25]
 攻撃にはアサドの弟maher assadの率いる部隊も参加.[25]
 この弾圧は朝から始まり,夕刻まで続いたという.[25]
 一方,目撃者によれば士官5名を含む50名の部隊が市民側に参加し,4台の戦車を市民攻撃に使用されないように破壊したとの未確認情報.[25]
 目撃者によれば死者は最低39名,AFPは最低25名は死亡したと伝える.[25]
 町では通信は完全に遮断されたが,多くの市民がヨルダンの携帯を使用して情報を発信したという.[25]
 しかし遮断されたのは通信だけではなく,電気や水道も同様だった.[30]
 4月25日,アンマンの外交筋によると,ダラアの町には多数の戦車,装甲車が配置され,同市近郊及びnasibの2か所のヨルダンとシリアの国境出入国地点が,シリア側で閉鎖.[26]
 活動家の話によれば,ダラアの町では戦車が民家目がけて発砲,救急車も危険で動けなかったという.[26]
 武力による徹底弾圧をアサドが決断したのは,つまりこの頃だと言える.
 事実,バニアスで装甲車輌が投入されたのも,同じ時期だ.

 他方,ダラア出身のmuhammad al rifai 将軍の率いる第5師団の兵士に逃亡兵が続出し,抗議運動に参加.[27][28]
(他の情報では士官3名,兵士5名).[27][28]
 この第5師団とアサドの弟maher assadの率いる部隊との間で銃撃戦があったとの報道も..[27][28]
 4月26日,ダラアではシリア軍が市民に対する攻撃を続け,25日からの死者は目撃者,人権団体等によれば少なくとも35名に.[29]
 4月27-28日,ダラアでは未だに水,電気も止められ,現地からの電話では食料,医薬品も不足.[30]
 同市では200名がバース党から離れ,その他の地方でも数十人の離反者.[30]
 バース党党員は百万人で,この程度の離反は実質的打撃と言うよりは,象徴的な意味が強いが,しかし前例の無い事態.[30]
 ダラアで第5師団の一部が民衆に合流し,民衆を守るために第4師団の兵士と銃撃戦.[30]
 特にある大隊は大隊全体が民衆の方についたが,これは第5師団の兵士の多くが現地からの徴兵兵士であることが原因で,アラウィ派の士官と対立している為.[30]

 5月2日,ダラアで499名の不穏分子を逮捕したとの,治安当局の公式発表.[31]
 5月3日付のal jazeerah net の記事によれば,シリア当局は全国的に人権運動家,作家,知識人等の逮捕を進めており,18~40歳の市民多数が逮捕.[32]
 特に南部の都市ダラアでは女性数百人を含む1000名が逮捕され,町の競技場に収容さる.[32]
 消えた人物もいるとのこと.殺されたのか別の監獄にでも送られたのかは不明.[32]
 5月4日,シリア当局はダラアから撤収,バニアス周辺に部隊(恐らく第4師団)を移動させた.[33]
 以後,6月17日まで一か月以上,この街に関する報道は途絶える…[34]

 それにしても,なぜダラアではこんなに早くから,部族ぐるみの反政府運動が起きたのだろうか?

 アサドの圧政は当然の理由として,他に,一つには内戦前,ダラアが旱魃で不作となっていたことがあげられるだろう.
 この旱魃は,リソース配分の割り当て不足など,政府の怠慢によって一層悪化したという.[1]
 穀倉地帯であるはずのシリア南部において,旱魃が政情を不安にさせただろうことは,想像に難くない.

 また,大統領顧問の
「抗議運動がダラアで生じたのは,その町が国境に近く,武器の密輸が容易だからだ」
という発言にも注目したい.
 この手の言いがかりは心理学的に言って,自己紹介であることが多い.
 アサド大統領一族は,密輸を取り仕切るギャングを飼っている.
 これを「シャッビーハ(幽霊)」という.
 密輸を彼らが勝手放題に行っていることに対し,国境の街ダラアの部族との間に,長年に渡る確執があっただろうことは考えられないだろうか?
 もちろんこれは想像に過ぎないのだが…

 【参考ページ】
[1]http://en.wikipedia.org/wiki/Daraa
[2]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3619540.html
[3]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3622007.html
[4]http://www.aljazeera.com/news/middleeast/2011/03/2011320113138901721.html
[5]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3626806.html
[6]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3626806.html
[7]http://www.irishtimes.com/newspaper/world/2011/0322/1224292773018.html
[8]http://www.yalibnan.com/2011/03/21/protests-spread-to-southern-syrian-town-jassem/
[9]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3629775.html
[10]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3633659.html
[11]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3636642.html
[12]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3639201.html
[13]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3648776.html
[14]http://www.nytimes.com/2011/04/02/world/middleeast/02syria.html
[15]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3655511.html
[16]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3662839.html
[17]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3671125.html
[18]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3673313.html
[19]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3675663.html
[20]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3678040.html
[21]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3686451.html
[22]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3690708.html
[23]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3699040.html
[24]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3705203.html
[25]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3710667.html
[26]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3708898.html
[27]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3712768.html
[28]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3713314.html
[29]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3713314.html
[30]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3717576.html
[31]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3726005.html
[32]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3726005.html
[33]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3728088.html
[34]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3804195.html

 【関連リンク】
https://mobile.twitter.com/daraanow


 【質問】
 2011.4.16に打ち出された,アサド大統領による譲歩策は,なぜ反政府デモを鎮静化させるに至らなかったのか?

 【回答】
 too little ,too late,すなわち小出しの出し惜しみ政策だったため.[1]
 その前,3/30に行われた演説が,
「非常事態法の撤廃について研究する」
という非常に後ろ向きな発言で,おまけに抗議運動に対する外国勢力の介入を非難するという,シリアのお決まりの主張であったために,逆に抗議運動に火をつけた.[1][2]
 政府報道官が事前に,大統領の演説内容について,1963年から続く非常事態宣言の解除や新たなメディア関連法の導入の可能性,さらに支配政党バース・アラブ社会党の絶対優位を定めた憲法の改正について言及される画期的なものとなるだろうと触込んでいたために,演説は国民にとっては期待を裏切られた形となった.[2]
 そこで慌てて非常事態法の撤廃を約束したが,もはや効果がなかった模様.[1]

 そもそも,
>シリア国民はおそらく殆どの人が「政権が譲歩を示している」とは考えていないと思います.
と,黒田文太郎(文中敬称略,以下同)は述べている.[3]

 逆に,力で有無を言わさず押さえつけるという強権政策 に緩みが出たということで,若干見くびられたという側面もあるという.[1]

 一般社会においても,
「これだけ誠意を見せたんだから,もう許せよ」
と加害者の側が言い出すことがあるが,被害者側から見てその誠意は「too little, too late」であることが多く,その発言がかえって被害者の神経を逆なでする光景は,しばしば見られる.
 不幸にして加害者側となってしまった場合,よくよく気を付けよう.

 【参考ページ】
[1]http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3690708.html
[2]http://www.ips-japan.net/index.php/news/politics-confict-peace/1061-al-assad-has-dashed-hopes-of-reform-says-uae-paper
[3]http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-1186.html


 【質問】
 先シリア内戦「徹底弾圧開始期」(仮称)について,簡単に教えてください.

 【回答】
 収まる気配がないどころか,逆にどんどん膨れ上がる反政府デモ.
 これに対してアサド大統領は,譲歩案を提示したのに民衆が納得してくれないことに逆ギレした――民衆側から見れば,あの程度の譲歩案など「too little ,too late」でしかなかったのだが――のか,身内から「親父に比べて手緩いぞ」とダメ出しでもされたのか,本気で「外国勢力による陰謀」と信じたのか,恐らくその3つともなのだろうが,とうとう懐柔を諦め,徹底弾圧を決意する.
 まずは最南端の都市ダラアを血祭りにあげ,少しでも「反政府分子」に見える怪しい奴を,片っ端から射殺するか逮捕した後,次いで,バニアス,ホムス…と,順次,諸都市での反政府勢力狩り出しが行われることになり,市民の犠牲者は急増.
 しかし反政府運動側の期待に反し,国際社会からの支援は,殆ど言葉だけの非難に留まった…

<年表(徹底弾圧開始期以降)>

こちらによる死者数の数字は,殆どが反政府側発表のもの)

 2011年4月24日,シリア各地で治安機関が一斉に,人権運動家等,デモに関係したと思われる人物の逮捕に乗り出す.
 北部の地中海に面した町jablaでは,抗議運動に対して治安部隊が9名を殺害.
 jabla 住民の多数派はアラウィ教徒だが,治安部隊は旧市街のスンニ派の居住地区を包囲したうえで,抗議運動を鎮圧しようとしたとの目撃談.

 ダラアでも,治安部隊による弾圧が朝から始まり,夕刻まで続く.
 戦車を伴う数千人の治安部隊が,4方面から無差別発砲しながら町に侵入し,町の主要モスク及び「殉教者の墓」を占拠.
 攻撃にはアサドの弟maher assadの率いる部隊も参加.
 一方,目撃者によれば士官5名を含む50名の部隊が市民側に参加し,4台の戦車を市民攻撃に使用されないように破壊したとの未確認情報.
 目撃者によれば死者は最低39名,AFPは最低25名は死亡したと伝える.
 町では通信は完全に遮断されたがが,多くの市民がヨルダンの携帯を使用して情報を発信した.

 4月25日,シリア政府はダルアーに戦車を展開し,少なくとも25名を殺害し,この街のインフラを破壊.
▼ アンマンの外交筋によると,ダラアの町には多数の戦車,装甲車が配置され,同市近郊及びnasibの2か所のヨルダンとシリアの国境出入国地点が,シリア側で閉鎖.
 活動家の話によれば,ダラアの町では戦車が民家目がけて発砲,救急車も危険で動けないとのこと.
 他方,ダラア出身のmuhammad al rifai 将軍の率いる第5師団の兵士に逃亡兵が続出し,抗議運動に参加.
(一つの情報では士官3名,兵士5名)
 この第5師団とアサドの弟maher assadの率いる部隊との間で銃撃戦があったとの報道も.
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3712768.html
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/3713314.html
 中部の町ホムスでは,前例のない治安措置が布かれ,町中が多数の治安関係者により占拠.
 バニアスでは,周辺の丘陵に黒い制服でAK47をもった部隊(特殊部隊か?)が集結し,装甲車が行きかい,今にも町に突入しそうな気配.
 4月26日,ダラアではシリア軍が市民に対する攻撃を続け,25日からの死者は目撃者,人権団体等によれば少なくとも35名に.
 ダマスカス近郊のドゥマ,バニアス,ホムス等では治安部隊による包囲が続けられ,治安部隊も更に増強.

 4月27-28日,ダラアでは未だに水,電気も止められ,現地からの電話では食料,医薬品も不足.
 同市では200名がバース党から離れ,その他の地方でも数十人の離反者.
 バース党党員は百万人で,この程度の離反は実質的打撃と言うよりは,象徴的な意味が強いが,しかし前例の無い事態.
 ダラアで第5師団の一部が民衆に合流し,民衆を守るために第4師団の兵士と銃撃戦.
 特にある大隊は大隊全体が民衆の方についたが,これは第5師団の兵士の多くが現地からの徴兵兵士であることが原因で,アラウィ派の士官と対立している為.

 4月29日,アレッポ,ホムス,デリゾール,シャイフ・ミスキーン,ダマスカス,及びシリア国内の他の都市で数千名規模のデモ.アルジャジーラによれば,治安部隊による攻撃で少なくとも50名の人々が死亡.

▼ 5月2日,ダラアで499名の不穏分子を逮捕したとの,治安当局の公式発表.
 5月3日,同日付のal jazeerah net の記事によれば,シリア当局は全国的に人権運動家,作家,知識人等の逮捕を進めており,18~40歳の市民多数が逮捕.
 特に南部の都市ダラアでは女性数百人を含む1000名が逮捕され,町の競技場に収容さる.
 消えた人物もいるとのこと.殺されたのか別の監獄にでも送られたのかは不明.


 【質問】
 先シリア内戦「シリア軍分解期」(仮称)について,3行前後で教えてください.

 【回答】
「うわっ…,我が軍の能力,低過ぎ…?」
などと言ったかどうかは知らないが,アサド大統領は反政府運動弾圧に投入した正規軍が,あまり頼りにならないことを思い知らされる.
 何しろ,地方のさほど大きくない都市を一つ封鎖・弾圧完了するだけで,一か月ほどもかかり,しかも,民衆に銃を向けるのは嫌だと言って,将兵がポロポロと離脱してしまう.
 頼りになりそうなのは,弟のマヘル・アサドが掌握している第4機甲師団と共和国防衛隊のみ.
 仕方がないので,前に大統領自身が解散させた,アサド家御用達の密輸ギャング「シャッビーハ」を復活させ,これに武器を与えて民兵として活用.
 また,ヒズボラからも兵力を提供してもらうことに.
 一方,離脱した将兵のほうは,単に武器を置いて家に帰っただけの者もいるが,国境を越えてトルコまで逃れ,そこで自由シリア軍を結成した者もいて,内戦突入必至の情勢となるのであった…

<年表(シリア軍分解期以降)>

こちらによる死者数の数字は,殆どが反政府側発表のもの)

 2011年5月4日,シリア当局は新たな封鎖作戦を始め,ダラアからは撤収し,バニアスの周辺に戦車30台,装甲車70台を集結.
 ダマスカス郊外ではシリア当局が逮捕作戦を開始.数百名のアサドの弟指揮する第4師団の兵士が逮捕に当たり,作戦開始前から周辺の電話等が切断.
 ハマとホムスの中間にあたるal rastinの町(注:アラビア語からの音訳)では,入り口に約100台の戦車及び装甲車が集結.
 同日までに,抗議運動家の行方不明者及び逮捕者の数は8000人に上るとの報道も.

 5月6日,金曜礼拝の後,ダマスカス及びその郊外では数万人がデモ.
https://www.youtube.com/watch?v=ikPFzsyaohM
https://www.youtube.com/watch?v=y-zY3RrIodM
▼ バニアスでも女性多数を含む数千人がデモ.
 これに対して治安部隊は弾圧を行い,全国で約30名を殺害.
 ハマでは6名が殺害.
 シリア東部のdir al zurでは4名射殺.
 秘密警察も人権運動の指導者を逮捕.
 ホムスでも15名死亡.群衆は『自由』[アサド政権を倒せ」と叫んで行進したが,人権団体によれば,数十台の戦車が町中に展開し,また電気,水が切断.

 また,同市では武装グループが軍の検問所を武力攻撃し,11名のシリア軍兵士を殺害.
▼ 5月7日,同日付のal qods al arabi net によれば,バニアスの町では,市民が人間の楯を作り,シリア軍の侵入に抵抗するも,シリア軍は街に侵入し,銃撃して6名殺害.
 また,バニアス郊外の村では,女性約150名が逮捕者の釈放を要求してデモ行進をしていた所を発砲され,婦人4名死亡.
 同日までに,抗議運動が始まってからの死者は,シリア全体で800名超.うち,220名はダラアでの死者.

 5月9日,同日付のal jazeerh net や al qods al arbi net によれば,ホムスの町では戦車を含む部隊が市街地に突入し,すくなくとも12名が殺害されたと報道.
 東部の町dir al zur(注:アラビア語からの音訳)では2名が射殺され(これら遺体は通りに放置され,回収もできないとのこと),バニアスでは250名が逮捕.
 ダラア近郊のtifsの町では,戦車8台が突入し,軍が発砲しながら家家を捜索.

 5月9日早朝,レバノンとシリアの国境を越えたシリア人労働者の車が,待ち伏せ攻撃に遭い,10名死亡,3名負傷.
 同日付のal qods al arabi net は,暗闇の中で走って来る車を,治安部隊が盲目撃ちした可能性を示唆.

 5月10日,同日朝のBBC放送は,戦車を伴った部隊が首都ダマスカスの西部地区にも進入,と報じる.
 ホムス,バニアス,ハマ等でも依然として,戦車を伴った軍,治安関係部隊が,発砲しつつ抗議運動参加者を片っ端から逮捕した模様.

 5月11日,シリア軍は未明からホムスに対する攻撃を開始し,戦車砲及び大口径砲の発射音が聞こえるとの住民情報.
 al qods al arabi net によれば,ホムスのbaba amrou(注:同上)地区で,戦車砲の発砲で9人が死亡し,数十人が負傷.救急車の進入が禁止されているので,負傷者は路上で手当を受けている,とも.
 同市での逮捕者は,夜までに134名.これまでの逮捕者は36時間で500名.
 また,同日付のal jazeerh net によれば,人権団体等の情報として,南部の町ダラアの近くのal harah(注:アラビア語からの音訳)では13人,ホムスでは6人が殺害されたとのこと.

 5月12日,「シリアの絹の金曜日」と題して,逮捕された女性に連帯を示すためのデモが呼びかけられている金曜日を明日に控え,当局としてはそれを事前に潰すべく,全国的に治安機関と軍の弾圧が続いており,特にバニアス,ホムス,ハマ等の町では多数が逮捕された上に,ホムスとダラアの近郊の村では20名が殺害された模様.
 5月15日,同日付けのal jzeera net の記事によれば,ホムス近郊で7人殺害.
 5月16日夕刻,数千人の抗議者が,ダマスカスの郊外saqba(アラビア語からの音訳)で,体制の打倒を叫んでデモ.
 5月17日,同日付のal jazeerah net は,先に軍及び治安機関が戦車を先頭に住民の虐殺をした(と言われる)ダラアで,住民が共同埋葬地を発見したと報道.
 それによると,この埋葬地は旧市街にあり,約40名の遺体が発見されたが,その中には子供や女性の遺体も含まれているとのこと.
 このニュースが流れて直ぐに当局が,その地域一帯を閉鎖し,住民の立ち入りを禁止.

 5月20日(金曜日),「自由の日」と称し,全国各地で抗議デモが行われた模様.
 中東のネットによると各地で治安部隊が発砲,多数の死傷者が出た模様.
 20日付のal qods al arabia net によれば,死者21名.
 同日付のal jazearah netによれば死者34名.そのうち12名がホムスで殺されたという.
 また,21日のネット報道によれば,20日の死者は44名.
 ただしいずれも未確認情報の数字.
 5月21日,ホムスにおいて,葬儀の列への参加者に治安部隊が発砲.最低5名が死亡し,数十人が負傷.
 5月27日,抗議デモがほぼ全国的に行われ,ダマスカスでも市内数か所でデモ.
 ホムス及びその近郊数か所,ダラア近郊,ハマ,ラタキア,東部の町等でもデモがあり,治安部隊は彼らを解散させる為に実弾を発射.
 al jazeerah によれば少なくとも8名が死亡.
 そのうち3名が首都近郊のqatana,1名がzabdani,3名がダラア近郊のdail での死亡.
 また,haartz によれば,3名がホムス,3名がダマスカスの郊外のqatana,1名がzabadaniにて殺害さる.

 5月28日,人権団体によれば,ダラアで4名,ダマスカス近郊の農村2か所で計4名,3名がホムスで,1名がラタキアで殺害.
 人権団体は,ダラアで逮捕後拷問されて殺されたという,13歳の少年hamzaの名前をつけたfacebook のサイトを開設し,「殉教者hamzaの土曜日」と名付けた昨28日から毎日抗議デモをするよう呼びかけ.


 【質問】
 ダマスカス治安機関本部自爆テロ事件とは?

 【回答】
 2012.7.18,シリアの首都ダマスカスにある治安本部で起きた自爆テロ事件.
 治安筋によると,自爆攻撃を行ったのは政権最高幹部の警備員の1人で,治安本部で行われていた,閣僚や高官が出席する会議で爆発が発生.[1][3]
 ダウド・ラージハ Daoud Rajha 国防相,アーセフ・シャウカト Assef Shawkat 副国防相(アサド大統領の義兄),政府の反体制蜂起対策部門の責任者ハッサン・トゥルクマーニー Hassan Turkmani 副大統領補(元国防相)の3人が死亡.[1][2]
 ムハンマド・アル=シャアール Mohammed al-Shaar 内相とヒシャム・イフティヤール Hisham Ikhtiyar 国家治安局長が負傷.[2][4]
 イフティヤールはその後死亡した.[6]
 シリア自由軍は動画共有サイト,ユーチューブ(YouTube)に投稿した動画の中で,この爆発で6人が死亡したとしている.[2]
 なお,治安筋によれば,爆発現場にアサド大統領はいなかったという.[1]

 会合は警戒が厳重なダマスカスのラウダ広場にある治安機関本部で開かれていた.[4]
 ここから少し離れたところに米国大使館とアサド大統領の個人邸宅とオフィスがあり,ギリシャ,イタリア,レバノン,トルコ大使館も近い.[4]
 この会合はシリア当局者が「危機組織」と呼ぶもので,ここ数カ月定期的に集まっている大統領のトップの顧問たちの特別委員会.[4]
 この会合には通常,国防相,内相,支配政党バース党の幹部,治安担当幹部が出席する.[4]

 自由シリア軍(Free Syrian Army,FSA)は,今回の爆発は16日に始まった「ダマスカスの火山」作戦の一部だとする犯行声明を出した.[2]
 イスラーム旅団(Brigade of Islam)という別のグループも犯行声明を出した.[2]

 シリア人権監視団(Syrian Observatory for Human Rights)は,反体制派の弾圧で主要な役割を果たしていたシャウカトが死亡したことは,アサド政権にとって大きな打撃だという見方を示した.[2]
 この時期,政府要人・外交官・軍高官が矢継ぎ早に政権から離脱していたこととも合わさって,
「アサド政権崩壊は時間の問題」
とする見方が広がった.[5]
 しかしそうならなかったことは,その後の歴史が示すとおりである.

 【参考ページ】
[1]http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTJE86H00D20120718
[2]http://www.afpbb.com/articles/-/2890360?pid=9264405
[3]http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1805S_Y2A710C1FF1000/
[4]http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/480238
[5]中津孝司「シリア内戦から読み解く中東新局面」,『中東社会のダイナミズム』(創成社,2014)
[6]http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012072000897


 【質問】
 シリア内戦中の,シリア政府高官の政権離脱の動きについて教えてください.

 【回答】
 主なところでは2012年7月,親政府系のSyria Steps(7月5日付)が,治安当局高官の話として,共和国護衛隊のマナーフ・トゥラース准将(第105旅団長)が離反し,トルコに逃走した,と報じた.
 トゥラース准将はアル=アサド大統領の親しい「学友」の一人で,父はハーフィズ・アル=アサド前大統領の「盟友」だったムスタファー・トゥラース元国防大臣.

 次いで同月11日,シリアのナワフ・ファレス駐イラク大使,軍による市民らの殺害に抗議してアサド政権を離脱した.
 CNNによれば,ファレスは与党バース党も離党して革命に加わると表明.
 反体制派の旗を前に,
「軍の兄弟たちよ,あなた方の敵は自分の父や息子や姉妹たちなのか.それがあなた方の戦う相手なのか」
と呼びかけた演説が,中東の衛星テレビ局アルジャジーラで放送されたという.

軍事板,2012/07/06(金)~07/12(木)
青文字:加筆改修部分

▼ さらに25日には「アル・ジャジーラ」が,シリアの在キプロス大使館トップのラミア・ハリリ臨時代理大使と,ハリリ氏の夫,アブデルラティフ・ダバグ駐アラブ首長国連邦大使が,アサド政権を相次ぎ離反したと報じた.
 ハリリ氏は,シャラ副大統領の姪.
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120725-OYT1T01140.htm

 AFP通信によると,隣国トルコに亡命したのは将官だけで25人.
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2012072302000086.html
「スンニ派指揮官は冷遇され,逮捕や殺害が相次いでいる」.
 代わりに指揮官に就くのは階級の低いアラウィ派出身者.
 追い詰められつつある政権が,スンニ派の寝返りを警戒,忠誠心の厚いアラウィ派で組織固めを図っているとみられる.

軍事板,2012/07/23(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ムナフ・トラースって誰?

 【回答】
 ムナフ・トラース Munaf Tlass (日本語メディアでは,マナフ・タラスと表記されることが多い)[2]は,シリアの「共和国防衛隊」の幹部.[1][3]
 イスラム教スンニ派に属し,アサド氏を頂点とするアラウィ派主体の政権を支えるスンニ派の代表格.[1]
 46歳のアサドと同世代で,軍の士官コースで一緒に学んだ友人同士.[1]
 父ムスタファ・トラースは,ハフェズ・アサド大統領時代からバシャール・アサド政権の2004年まで30年以上,国防相を務めた元政権重鎮.[1][3]

 2011年から,スンニ派主体の反体制派を武力弾圧するアサド政権の方針に反対して,アサドと対立し,首都ダマスカスの自宅で事実上,軟禁状態に置かれる.[1]
 2012年7月,政権を離脱してトルコに逃亡.このとき准将.[1][3]
 彼はアサド政権中枢から初めての離反者となった.[1]
 当時,ムスタファ・トラースは病気治療を理由にフランスに滞在中であり,ムナフもフランスに渡った.[1]
 トラース一族の多くがパリに集結しつつあった模様.[2]

 また,
「シリア国民評議会」が反政府勢力を結集させる見込みがなくなったことから,オバマ米政権のほか,一部アラブ及び西側諸国の当局者は,シリアのアサド政権崩壊後の政権移行時に中心的な役割を果たす人物として,ムナフ・トラース准将を据えることを検討したという.[4]
 ただ,続報がないことから,この構想は検討段階どまりだったようだ.

 ちなみにムナフの姉のナーへド・オジェ(53)は,18歳のときに,サウジアラビアの武器商人で富豪のアクラム・オジェ(当時60歳)と結婚.[2]
 オジェ財団を率いて投資,経営,文化事業などに精力的に取り組み,ドピルパン元首相など,フランス政界にも知己が多いという.[2]

 【参考ページ】
[1]http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASGM0601Q_W2A700C1EB1000
[2]http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-793.html
[3]http://www.afpbb.com/articles/-/2888328
[4]http://jp.wsj.com/World/Europe/node_484199

軍事板,2012/07/21(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ムハンマド・アフマド・ファリスって誰?

 【回答】
 ムハンマド・アフマド・ファリス Muhammad Achmed Faris はシリア人宇宙飛行士.

 1951.5.26,アレッポに生まれる.
 1969~1973年,ネイラブの空軍士官学校で学ぶ.
 1973年,アラブ社会主義復興党(バアス党)員入党.

 1973年からネイラブ空軍基地で,パイロット教官として勤務.
 1985年9月末,ムニール・ハビブ Munir Habib(右側写真――こちらより引用)と共に宇宙飛行士候補に選抜され,10月よりガガーリン宇宙飛行士訓練センターで訓練.
 1986年12月,主乗組員に指定さる.

 1987.7.22,「ソユーズTM-3」に搭乗して宇宙へ.
 ちなみにこれはシリア人初の宇宙飛行となっただけではなく,アラブ人としても2人目の宇宙飛行だった.
打ち上げ前の「ソユーズTM-3」搭乗員たち.左端がファリス.
こちらより引用)
 同年7.24,同機は宇宙ステーション「ミール」とドッキング.
 同年7.30,「ソユーズTM-2」で地球に帰還.
 帰還したとき,地球は猿の惑星になっていた…なんてこともなく,同日,ソ連邦英雄称号とレーニン勲章が授与された.

 その後は,シリア空軍に復帰.
 2001年,ハレブの飛行士訓練学校の校長に就任.
 2012年8月,アサドの「恐怖政治」を忌避して,トルコへ亡命.亡命時,少将.
 同年9月にはTV出演し,シリア空軍将兵に対し,市民への空爆をやめるよう訴えた.


 ちなみに妻と3人の子持ちだが,亡命に際して妻子はどうしたのかは,当方の情報収集不足により定かではない…

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9
http://www.dailystar.com.lb/News/Middle-East/2012/Aug-05/183459-syrias-first-astronaut-defects-to-turkey-report.ashx#axzz22fQMvihh
http://www.spacefacts.de/bios/international/english/faris_muhammed.htm
http://francona.blogspot.jp/2012/08/syrian-astronaut-defects-who-knew.html

宇宙飛行士時代のファリス
(こちらより引用)

軍事板,2012/08/07(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シリアの化学兵器禁止条約加盟について教えてください.

 【回答】
 シリアが反政府勢力に対し,化学兵器を使用するのでは?という疑惑は,2011年から既に取り沙汰されていた.
 2011年12月には
トルコ紙が,
「シリア政府軍が,化学兵器の弾頭を弾薬庫から引っ張り出して中射程弾道ミサイルに装着した」
と報じている.
(DID 2011/12/12;kojii.netより孫引用)
 ロシアがシリアにガスマスク 300 万戸を供与したとの情報もあった(同紙)

▼ 反政府勢力に対して化学兵器を使用しようとしたシリア政府に対して,ロシアが制止したとの報道も出た.
 シリアは化学兵器禁止条約に調印していないが,1968 年にジュネーブ議定書 (1925 Geneva protocol) に調印しており,その点をシリア外務省の代表に指摘したとの旨.
(SpaceWar 2012/7/24;kojii.netより孫引用)▲

 一方,アメリカ諜報機関は,化学兵器が過激原理主義系の武装組織に渡ることのほうを警戒していた.
>シリアの化学兵器監視強化=反体制派分析も-米情報機関
>http://article.wn.com/view/WNAT167179121b7b586de31e26d1701878b1/(リンク切れ)

 2013年8月には,シリアで実際に化学兵器が使用されたという疑惑が高まり,米英仏による空爆が現実味を帯びた.
 そこに登場したのがロシアのプーチンである.
 ロシアはアサド政権との仲介役を果たし,シリアをCWC(化学兵器禁止条約)に加盟させ,その化学兵器を全廃させるという約束を取り付けた.
 これにより空爆は回避され,アメリカのオバマ大統領の「空爆」発言は,「するする詐欺」に終わった.

軍事板,2011/12/15(木)&2012/02/19(日)
軍事板,2012/07/26(木)
青文字:加筆改修部分


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