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◆戦史(1946〜1979)
中近東FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

「VOR」◆(2012_10_29) 衝撃の学説,イスラエル‐パレスチナ間の紛争原因は頭部外傷


 【質問】
 第二次大戦後の中東における,英国の影響力の衰えについて教えられたし.

 【回答】

 英国は,各地に軍事基地を持っていました.
 特に,ロンドン〜中国の経路を維持する形で,香港からシンガポール,インド,セイロン,アデン,カイロ,マルタ,ジブラルタルなどの基地を維持していました.

 しかし,第2次世界大戦後の経済状況の悪化,中国情勢の悪化,インドなどの植民地の独立などで東洋や中近東の覇権が怪しくなります.
 1950年代半ばになるとエジプトで革命が起き,それと共に中東でも影響力が衰えていきます.

 これが決定的になったのが1956年のスエズ危機です.
 この危機がエジプト大統領ナセルに名をなさしめ,彼はアラブ・ナショナリズムの象徴的存在になり,英国のヘゲモニーに対抗しようとします.
 英国はこれに対抗する為,紅海の入口アデンに着目します.
 英国はアデンを直轄地とし,その周辺部であるアラビア半島南西部を保護領とし,1959年には此処に南アラビア連邦を形成しました.

 一方,英国は1960年代になると中東に関して2つの安全保障問題を重視しました.
 1つは,英国の保護国で会ったクウェートへのイラク侵攻の阻止することであり,これに付随してペルシャ湾岸の9つの首長国の防衛と対外関係にも影響を及ぼしていました.
 もう1つはアラビア半島の西南地域,つまり,アデンを含む南アラビア連邦を英国の利益を損なわない状態に置いておく事でした.

 とは言え,英国にとって特に伝統的に重視していたのが地中海防衛でした.
 ジブラルタル,キプロス,マルタ,リビアなどの基地はこの観点から従来より重要な基地として位置づけられてきました.
 ところが,財政不足は聖域を許さず,1965年頃にはこれらの基地を費用削減の対象とする事として政府部内でも一般的合意が形成されていました.
 一方で,スエズ以東の基地の費用削減は見送る事が閣議決定されています.

 これは1960年代半ばには既に地中海域での紛争が起きる可能性が低下していた事,またイタリアや米国の第6艦隊を中心とするNATOの海軍力が存在していた事が,地中海防衛費削減の根拠となりました.
 こうした事から,1965年11月にリビアとマルタの部隊を削減し,キプロスの1つの基地に機能を集約する決定が為されていました.

 しかし,この地中海基地の削減は,容易ではありません.
 マルタにある英国軍基地は,地元経済に利益を齎し,雇用を創出していました.

 その為,1966年に,今後3年以内にマルタからの英国軍基地縮小,そして軍事的な中継地点への格下げは,マルタ政府から強く抗議を受けています.
 マルタ政府の抵抗に接した英国は,マルタが安全保障に於いてソ連と協力関係に入る可能性を懸念しました.
 この事態に対処する為に,1967年,英国はマルタへ特使を派遣し,交渉の結果,差当たり撤退期限を3年から5年に延長する措置を執り,基地交渉は3月からロンドンで継続されました.
 この時,英国は代償として経済援助の増額を提案したものの,交渉は決裂寸前まで行き,マルタ駐留軍の削減には漕ぎ着けたものの,1968年にマルタの海軍造船所閉鎖問題でも,英国は譲歩する事になりました.

 リビアでも問題が生じました.
 リビアと英国は1953年に防衛条約を締結し,英国がリビアに軍事的保障を与え,その見返りにリビアが英国軍の駐留を認める関係にありました.

 このリビアでも,1966年2月の防衛白書で英国は財政難を理由に基地を費用削減の対象とする事を公表します.
 これは,エジプトの影響を受けてアラブ・ナショナリズムが高まった結果,1964年以来,リビア政府が英米の駐留軍に公然と反対し始めていたのも基地縮小の判断の根拠となりました.
 こうした事から,1953年の防衛条約の期限である1973年までには完全撤退する事が望ましいと英国は判断した訳です.
 また,北海油田が開発されていない当時,英国にとってリビアは重要な産油国の1つであり,英国としてはリビアとの無用な軋轢を避けようとしていました.
 しかし,英国と共にリビアに基地を保有していた米国は英国の完全撤退に反対していた為,英国政府は石油利権を維持する為に必要な最低限の関与に縮小する方針を採る検討を始めました.

 ところが1969年9月,リビアの君主であるイドリスが国外に滞在中,カダフィを指導者にした軍将校達がクーデターを起こし,王政が転覆します.
 この結果,国王側が権力を取り戻す事は無いと判断した英国側は,カダフィ側と駐留軍問題の交渉を行いました.
 英国のスチュワート外相は,BPを始めとする欧州石油資本が多額の投資を行っている事を念頭に,慎重に交渉を行いました.
 基地問題については,カダフィ側の要求に従って1970年3月31日までに英国軍を完全撤退させる事を受容れます.
 この時,石油利権の維持も然る事ながら,カダフィ政権がソ連陣営に取り込まれる事に強い警戒感を示していましたが,果たしてカダフィ率いる共和国は,社会主義国として成立し,1971年に石油産業を国有化しました.

 以後,長らくリビアは西欧,特に英米敵対国家として存在し,つい最近も,カダフィを追い落とす為にNATOを中心に空爆が行われ,遂には政権を倒すまでに至るのですが,実にその遠因はこの時代まで遡る事になる訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦で中立的だったトルコが,なぜ戦後,朝鮮戦争派兵やNATO加盟を行ったのか?

 【回答】
 ソ連の強欲のためです.

 ソ連は1945年2月25日に,トルコとの友好関係を更新するという口実の下,モントルー条約の諸条件を変更し,ダーダネルス・ボスフォラス両海峡にソ連基地設定を要求したばかりでなく,東部アナトリアのカルス,アルダハン,アルトヴィンに対するグルジアの返還要求を指示し,さらにブルガリアにトラキア地方の一部割譲を要求しました.
 これは,トルコ国民の間に存在する伝統的な反ロシア感情を呼び起こし,両国の敵対関係に発展します.

 一方アメリカのトルーマン大統領は47年3月,トルコとギリシャに対する経済援助の必要性を強調するトルーマン=ドクトリンを発表.48年以後,トルコへ1億ドルの経済援助を行います.
 こうしてアメリカ傘下にトルコは組み込まれていったのです.

 詳しくは,『世界現代史11 中東現代史1』(山川出版社,'82),P.184-185(永田雄三著述)を参照されたし.

 ついでに朝鮮戦争って「何故この国が?」「この程度の兵力で?」ってなのが目立つよなぁ.
 フランス,オランダ,ベルギー,ギリシャとか一個大隊派遣してるし,笑ったのがルクセンブルクが一個小隊(50名)のライフル兵派遣.ベルギーの部隊内に編集していたみたいだけど.
 エチオピアなんか,いわゆる「近衛部隊」を派遣しているからなぁ.

軍事板


 【質問】
 アラブ=イスラエル紛争とは?
 また,イスラエル,アラブ側の主張とはどんなものか?

 【回答】
 中東での,異なる民族意識を持つ2つの民族間で起きた,猫の額ほどの土地をめぐって,6次にわたり繰り返された紛争,現在も完全に決着が付いたわけではない.

 これについて,イスラエルは,紀元後70年に追放され,世界各地に拡散するまでの間,この土地はユダヤ人がずっと支配してきたという聖書の時代にまでさかのぼり,領有権を主張している.
 近代に入り,イスラエルは2つの世界大戦時の彼らの経験に注意を喚起している,
 WW1中にイギリスは,バルフォア宣言(イギリス政府が,イギリスのシオニスト連合・ロスチャイルド卿に出した書簡)で,パレスチナにユダヤ人の母国を建設することに,イギリス政府が協力するという趣旨のものであった.
 ヒトラーによるホロコーストの悲劇がユダヤ人国家の必要性を証明している,と,WW2後にイスラエルは主張した.
 1948年にユダヤ人移住者たちは,パレスチナの分割を受け入れる用意があったが,その土地のアラブ人はそれに同意しなかった.
 国連は,イスラエルの主張を承認したが,イスラエルは,アラブ人の攻撃から自らを守るために戦うこととなった,
 これがイスラエル人による,イスラエルという国家の歴史的な起源とその正当化の理由である.

 アラブ側では,この土地が何世紀にも渡って自分たちが住んできたことを主張した,
 実際,バルフォア宣言がWW1に出されたときには,パレスチナに住んでいる住人の90%はアラブ人だった.
 1932年になっても,80%がアラブ人であり,彼らは,イギリスには,アラブ人の犠牲の上にユダヤ人に国家建設を保障する権利はない,と主張した.
 さらに,ホロコースト自体は世界史上最大の罪の1つであるとしても,それを行ったのはヨーロッパ人ではないか,なぜアラブ人がその代価を払わねばならないのか と主張した.

 これについて,ナイ教授は以下の見解を述べている.

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 どちらも,もっともな点があるように見える.
 第一次大戦の時,現在のパレスチナはトルコ人に支配されていた.そして,オスマン帝国は解体され,アラブ地域の領土は国際連盟の委任統治下に入った.
 フランスがシリアとレバノンを統治し,イギリスは自らが受け取った土地のうち,ヨルダン川から地中海までの地域を「パレスチナ」と呼び,ヨルダン川を越えた部分を「トランス・ヨルダン」と呼んだ.

 1920年代いパレスチナへのユダヤ人移民がゆっくりと増えていったが,1930年代に入ってヒトラーが登場し,ヨーロッパでの反ユダヤ主義が高まると,移民の動きは急速に加速した.
 1936年までには,パレスチナの人口の40%はユダヤ人になっていた.
 この流入によって,アラブ人住民の暴動が起きるようになったのである.
 イギリスは王立委員会を設置し,この委員会は2つの地域への分割を提案した.
 1939年5月,第二次世界大戦の危険が迫る中でイギリスは,ヒトラーのドイツに対抗するためにアラブ人の支援を必要とした.
 そこでイギリスは,アラブ人に対しユダヤ人の移民の制限を約束した,

 しかし,戦争が終わってみるとこの制限を維持することは困難となった.
 ホロコーストの結果,ヨーロッパの多くの人はユダヤ人の母国という考え方に同情的になった.
 また,ユダヤ人難民の密航も増大していた.
 さらに,パレスチナのユダヤ人入植者の中には,イギリス人統治者に対してテロ活動を行うものも出るようになった.

 イギリスは第二次世界大戦で経済的にも政治的にも疲労し,1947年の秋にはインドが独立を宣言した.
 結局,イギリスは1948年5月に問題全体を国連に委ねてしまったのである.
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・イスラエルの主張は,紀元前からの歴史的なものと,イギリス政府との約束に根拠を求めている.

・アラブ人の主張は,数世紀に渡って居住してきた事実と,この土地に数多くのアラブ人が住んでいることに根拠を求めている.

・イギリスは最終的に国連に判断を委ねた.

 ・・・いつものイギリス外交というか,ずるいけど国連のうまい使い方だと思う.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 中東戦争について詳しく知りたいのですが,どういった本がおすすめでしょうか?

 【回答】
 後者は「中東戦争全史」(山崎雅弘 学研M文庫).
 紛争の起源から2000年のオスロ合意まで一通り入ってる.
 巻末の参考文献も役に立つ筈.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 中東戦争で軍事面に特化するなら,以下あたりでしょうかね.

「イスラエル地上軍〜機甲部隊戦闘史」 ダビット・エシェル (原書房)
「砂漠の戦車戦 上下」アブラハム・アダン 原書房
「イスラエル・生か死か1-戦争への道」 ジャック・ドロジ/ジャン・ノエル・ギュルガン サイマル出版会
「図解 中東戦争―イスラエル建国からレバノン進攻まで」 ハイム ヘルツォーグ 滝川 義人 原書房
「中東軍事紛争史1〜5 (パレスチナ選書) 」鳥井 順
「ゴランの激戦―第四次中東戦」 高井 三郎 原書房
「第四次中東戦争―シナイ正面の戦い」 高井 三郎 原書房
「ヨム キプール戦争全史」アブラハム・ラビノビッチ 並木書房
「〈図説〉中東戦争全史 (Rekishi gunzo series―Modern warfare)」学研ムック
「中東戦争全史」 山崎 雅弘 学研M文庫

Lans ◆EDLansNRRQ in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
『図解 中東戦争―イスラエル建国からレバノン進攻まで』
ハイム ヘルツォーグ (著), 滝川 義人 (翻訳)
は,最初に読む中東戦争の本としてはどうなのでしょうか?

 【回答】
 最初に読むには重いかもしれませんが,中東戦争を調べるなら,【一度は読むべき道】だと思っておいて良いと思います.

 ですが,最初なら
学研ムックの【〈図説〉中東戦争全史 (Rekishi gunzo series―Modern warfare)】
学研M文庫の【中東戦争全史 (学研M文庫) 山崎 雅弘】
あたりがお進めでしょうかね.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中東戦争全史って検索したら

中東戦争全史 田上 四郎
中東戦争全史 (学研M文庫) 山崎 雅弘
〈図説〉中東戦争全史 (Rekishi gunzo series―Modern warfare) (単行本)

ってあるけどどれがいいの?

 安さで言えば山崎 雅弘の本だけど.

 【回答】
 中東戦争の何を目的とするので変わりますが,詳細戦史としてなら,下記をお勧め

「図解 中東戦争―イスラエル建国からレバノン進攻まで」 ハイム ヘルツォーグ 滝川 義人(原書房)

 イスラエル軍(陸)に特化するなら下記おすすめ.

「イスラエル地上軍―機甲部隊戦闘史」 ダビッド エシェル,ブライアン ワトキンス, 林 憲三(原書房)

って…なに,このamazonの高騰ぶりは!?
去年は2000台だったのに!?

 でも,図解 中東戦争は新版が普通に下落したなぁ.
 前は内容同じなのに,新版が異常に高騰してたし(笑)

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 アマゾンマケプレ出品者はその分野の研究者じゃない場合が多いんで,ハードカバーor文庫とか,同じ内容の本の改題とかには弱い.

 著者名検索で文庫版もあるのかよ!と気付くこともあるが, 専業出品者の手持ちの本はISBNナンバーだけで区別してて,書名はこの本で間違いないな,と確認する時くらいしか見ない.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 山崎氏の本も内容はなかなか充実していていいぞ.
 少なくとも日本国内の中東畑の学者が書いた本よりは,ミリヲタ向けだし内容も確か.

 しっかし日本の中東史学者ってパレスチナべったりな人間が大杉….
 思想的傾向はどうであろうと自由だけど,歴史の大筋はしっかり理解して書いてくれ.
 インティファーダーの話とかになると熱弁を振るうんだが,ゴラン高原の大戦車戦とかになると,いきなり薄味になる.

軍事板
青文字:加筆改修部分

つ【ゴランの激戦―第四次中東戦争】 高井 三郎
つ【第四次中東戦争―シナイ正面の戦い】 高井 三郎

つ【中東軍事紛争史1〜5 (パレスチナ選書) 】鳥井 順

 著者は両方とも陸自系(戦史教官だったり)で学者肌でなはいです.
 なので思想よりも軍事的な部分に重点.

 数は少ないですが,日本でもしっかり出てるので,調べると吉.
 山崎氏を読んだら,次はこのあたりとか如何でしょう?

 って…ゴランの激戦がいつのまにか10kに!?うえぁ.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1948年のイスラエル独立時の少し前にダレット作戦というものがあったと聞いています.
 内容は,イギリス軍の撤退後の軍事空白期間をねらって,パレスチナにあるアラブ人社会の破壊と追放を行い,ユダヤ人国家の既成事実化をはかるものだったようですが,その作戦の存在はイスラエル側は認めているのでしょうか?
 または,この計画の存在自体,信憑性のあるものなのでしょうか?

 【回答】
 イギリスにパレスチナから手を引かせるため,そしてパレスチナの地からアラブ人を排除する為 ,独立前後に,ハガナイルグンといった組織がテロ活動を行った事は,広く知られています.

 ダレット計画 Plan Dalet は1948年3月10日,テル・アヴィヴのハガナー本部にて,イシューヴ(パレスチナのユダヤ人コミュニティ)の最高指導者ダヴィッド・ベングリオンが招集する非公式会議体「諮問委員会ha-veadah ha-myaetset」で決定されました.
 これは,「ユダヤ国家」の領域およびその周辺入植地から,できる限り多くのパレスチナ・アラブ人を追い出すことを目的として策定されたマスタープランです.
 この諮問委員会にはベングリオンやヨセフ・ウェイツ(ユダヤ機関入植地局長官),「マトカルmatkal」(軍最高司令部)のメンバーなどの重鎮が参加しており,ここで下された決定は,実質的にはイシューヴ指導部としての決定だと考えられます.

 イスラエル人研究者イラン・パッペ博士は,この計画はアラブ人の居住する都市や村を三方向から包囲して,一つの方向だけは住民の逃げ道として開けておき,住民に発砲して爆弾で家屋を破壊し,住民の所有物を計画的に略奪するというものだったと述べています.
 そしてこの計画には,住民を怯えさせ逃亡させるためパレスチナの村落での住民虐殺も含まれていました.
 事実として,シオニストが大都市を占領する直前に幾つかの村で虐殺を行なっており,ティベリアでは「ナースィルッディーン村の虐殺」,ハイファでは「ティーラ村の虐殺」,エルサレムでは「デイル・ヤースィーン村の虐殺」が起こっています.
 パッペ博士によれば,
「シオニストは半年での計画遂行を目論んだが,多くの場合,遥かに短期間で完了した.
 530の村が破壊され,11の都市が無人化した」
「この民族浄化計画は,1930年代から行なわれたパレスチナ人に関する膨大な諜報情報,具体的には,人口,住民の年齢,名前,更に銃や樹木,家畜,家禽の数から,果ては村々の木々の実の数に至るまでに基づいて行なわれた.
 以上は,民族浄化の準備の一部であった数千の『村落調書』の一部だ」
とのことです.

 1948年の▲デイル・ヤン村の虐殺については,当時のベングリオンがヨルダン国王に謝罪の書簡を送っていたかと思えば,当時のイルグンの指揮官だったベギン元首相が誇らしげに,あの作戦がなければイスラエルの独立はなかったとか発言したともあって,何が何やらよく分からない状態です.
▼ イスラエル側,パレスチナ側の歴史学者共に見解が概ね一致しているのは,記述において概ね一致が見られるのは,シオニスト軍事組織がパレスチナ・アラブ人の村民に対して残忍な殺害行為を組織的に行なったという点です.

 エルサレム北西部に位置するパレスチナ・アラブ人の村デイル・ヤーシーンには,1946 年当時,約610人が暮らしていました.
 この村のムフタール(村民の指導者)は1942年,周辺ユダヤ人入植地との間で不戦協定を交わしており,この村はイシューヴに対して友好的であることが知られていました.
 イラクからの義勇軍がこの村を対シオニスト軍戦略拠点とすることの許可を求めた際も,ムフタールは村民の犠牲を危惧し,その願い出を拒否していたほどです.

 しかしデイル・ヤーシーン村の位置は,「ダレット計画」に基づいてイシューヴ指導部が計画していたエルサレム占領にとって,戦略上重要なものでした.
 ダレット計画のなかで第一に実行されたのが,エルサレム地域で行なわれた「ナフション作戦」でしたが,デイル・ヤーシーンへの攻撃もこの作戦のなかに位置づけられていました.
 この作戦の目的は,「ジャッファ・エルサレム間の道路の両側のパレスチナ人村の占領と浄化であり,それによってユダヤ軍が沿岸部からエルサレムに確実に進むことを可能にし,同時に国連の〔分割〕案の中でパレスチナ人に割り当てられた国家の中心部を分割すること」でした.
 作戦は4月2日から実行に移され,まず,デイル・ヤーシーンから2 マイルの距離にあるカスタルへの攻撃が行われました.
 パレスチナ・アラブ人名望家のアブドゥル・カーディル・フサイニーは,義勇兵から成る「アラブ聖戦軍」を率い,シオニスト軍に対して激戦を展開しましたが,4月8日に戦死.
 この時点において周辺地域での緊張が高まっていましたが,シオニストと不戦協定を交わしていた村民たちはアラブ高等委員会へ援助を求めずにいました.

 4月9日未明,イルグンとレヒのメンバー約120 名がデイル・ヤーシーンに攻撃を行ないました.
 デイル・ヤーシーンはエイン・カレム(近隣のパレスチナ・アラブ村)へ続く道を除いて封鎖され,家々の爆破,住民たちの射殺が行なわれました.
 この殺戮は翌日の午後,近隣ユダヤ人入植地の住民によって制止されるまで続きました.
 事件直後の報道では,殺戮行為のほか,女性へのレイプが行なわれたこと,遺体が不当な扱いを受けたこと,生き延びたものもトラックに乗せられ,エルサレムの中心街へと「死の行進」をさせられたことなどが伝えられています.
 すなわち,この攻撃により無抵抗の254人(最近の研究では107人〜120人)の男女・子供が無差別に虐殺され,生き残った者は血だらけの服のまま,エルサレムでの「勝利の行進」に同行させられた,と報じられました.

 シオニスト軍による残忍な急襲が起こったという知らせは,パレスチナ・アラブ人社会に大きな衝撃を与え,その後のパレスチナ・アラブ人の逃走=難民化を後押しすることになりました.
 上述のパッペ博士によれば,

「シオニストは1948年時点のイスラエルの領土から75万人のパレスチナ人を追放し,追放から逃れた10%の住民が,キリスト教徒の村などで起きたように,現場の司令官が命令違反を決めたり,シオニストたちと親しい村の顔役が仲介したりと様々な理由で,残留した」
そうです.▲

軍事板,2005/01/05
青文字:加筆改修部分

 イスラエルとしては,この辺の負の歴史は余り表にしたくないのが現状ではないでしょうか.

 一応,イスラエル軍資料館に一連の出来事の資料はあるみたいで,Tanturaの虐殺については,その資料と当時,虐殺に参加した兵士たちへのインタビューを元にした論文が1998年に,イスラエルの研究者,Teddy Katzの学位論文『いかにしてアラブ人たちは,1948年,カルメル河下流の村を去ったか』というので初めて公にされたのが事件以来,久々にイスラエルからの報告であろうと思われます.

 彼にしたところで,この研究を終わりまで続けるべきかどうか,様々な葛藤があったと書いています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/01/05
青文字:加筆改修部分

▼ 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2010/km01.pdf
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/0296a31b6fa8522a07cea489c543f6b2
http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/Zionism/deiruyasin_gyakusatujiken.html


 【質問】
 第1次中東戦争って何?

 【回答】
 第2次大戦後,英国・ユダヤ・アラブ3者による暴力の応酬が再開.
 泥沼化した事態に英国は,発足したばかりの国連になんとかしてくれと泣きついて,特別委員会で解決策が話し合われることになったんだけど,この時点では,連合国側について大いに奮戦した+ナチスのあまりにあまりな殺戮ぶりが明るみに出てて,ユダヤ人に同情が集まってたのね.
 だからパレスチナを(人口比率からいうとユダヤ有利に)分割するという決議案が採択されたわけ.

 ユダヤ人はもちろん喜んでこれを受け入れたんだけど,アラブ人…この場合は周辺国の…は不公平だと言って怒った.
「こんなもん認めん! 潰す!」
ということで,イスラエルの独立宣言と同時に,エジプト,トランスヨルダン,シリア,レバノン,サウジアラビア,イラクのアラブ連合軍が国境から雪崩れ込んだ(当然,裏には領土的野心込みで).
 これが第1次『中東戦争』の始まり.

 片や小銃とバズーカ,迫撃砲程度しか持っていない雑軍(この時点ではIDF=イスラエル国防軍は存在してない).
 片や中古とはいえ,一応の近代装備は揃えた連合軍.
 下馬評から言えば,イスラエルが瞬殺されて終わるだろうというのが一般的なところだったんだけど…

 徳俵に足のかかったイスラエル軍が,驚異の粘りを見せる.なにしろ彼らはここで負けたら後がない.ユダヤ・ネットワークを駆使し,世界中から武器をかき集め,大戦中に各国の軍隊で前線に立った兵士達が,指揮がバラバラで統制のとれないアラブ軍を蹴散らす.
 で1回の休戦を挟んでイスラエル軍はアラブ連合軍を国境の外まで押し戻し,戦争終結時にはパレスチナの大部分を占領するに至る.これが今のイスラエルの領土ね.
 結果として国連の決議案より,だいぶ増えた.
 残りのウエストバンク(ヨルダン川西岸),ガザはそれぞれトランスヨルダン,エジプトが占領した.これが今のパレスチナ自治区.

 ところでイスラエル国内のアラブ人の多くは,戦乱を避けてレバノンやウエストバンク,ガザに逃げたんだけど,戦争が終わっても,イスラエルは国境を閉ざして二度と彼らを受け入れることはなかった.パレスチナ難民の発生だ.
 そして彼らは未だ帰れないでいる….

(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板)


 【質問】
 「おおエルサレム!」並に詳しい第1次中東戦争の本って,鳥井順氏の『中東軍事紛争史』以外に何かある?

 【回答】
 定番ですが
【図解 中東戦争】ハイム・ヘルツォーグ(原書房)

 独立戦争の章として,全体の30%程度のページが当てられています.

 他に,
【イスラエル地上軍】ダビッド・エシェル(原書房)
も,第1次中東戦争におけるIDF機甲部隊の初期状態について,詳しい記述があります.
 ただし,あくまで軍事・機甲に特化した本なので,政治状況などを期待すると駄目.

Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/10/15(土)
青文字:加筆改修部分



276 : 岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM : 2011/10/15(土) 01:25:30.56 ID:??? [274/981回発言]

 『イスラエル・生か死か』とかはどう?


279 : Lans ◆xHvvunznRc : 2011/10/15(土) 08:33:19.38 ID:??? [277/981回発言]
>276
 「イスラエル・生か死か」J・ドロン/JNギュルガン(サイマル出版会)
は,質問の第1次ではなく,第4次中東戦争の本ですよ.

軍事板,2011/10/15(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次中東戦争の経緯は?

 【回答】
 1947年に,国連がパレスチナ分割を提案したが,アラブ側はこれを拒否した(ここで受け入れていたほうが,結果的にはアラブ側に有利だっただろう,まぁ,結果論ではあるが)

 1948年5月にイスラエルが独立宣言をすると,イスラエル近隣のアラブ諸国は,分割案を覆そうと,イスラエルに攻撃を開始し,8ヶ月に渡って戦闘が行われた.

 以下ナイ教授の解説.

--------------------------------------------------------
 この第一次中東戦争は,戦闘が激化したり低下したりしながら8ヶ月続いた.
 アラブ人は人口ではイスラエルに40対1と勝っていたが,ほとんど組織されておらず,不統一に悩まされた.
 停戦と国連の調停の後,ヨルダンは[ヨルダン川]西岸と呼ばれる地域を,エジプトはガザを支配したが,もともとのパレスチナ委任統治領の大部分はイスラエルの手に落ちた.
 1947年にアラブが国連案を受け入れていれば得られなかった部分まで,イスラエルのものとなったのである.
--------------------------------------------------------

 この戦争の結果,大量のパレスチナ難民が発生し,アラブ人の多くは屈辱感を感じた.
 そして,それはこの戦争の結果の受け入れを拒絶し,イスラエルの正当性を拒否し,指導者たちは「汎アラブ主義」を盛り上げて,次の戦争ではイスラエルを滅ぼすことができるという信念を広めた.

 1951年にヨルダンのアブドゥラー国王がイスラエルと単独講和をしようとしたが,彼は暗殺されてしまったのである.

・国連のパレスチナ分割案をアラブ側は拒否し,イスラエルの独立宣言を認めず,アラブ側から攻撃を仕掛けた.

・国連の分割案を呑んでいたほうが,結果的にはアラブ側に有利だった.

・第一次中東戦争は,イスラエルの勝利に終わったが,アラブ人たちは,この結果に屈辱感を感じ,次の戦争での勝利を欲した.

・ヨルダン国王がイスラエルと単独講和しようとしたが,暗殺された.

 今回は,このあたりがまとめかな?

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第一次中東戦争でイスラエルがあそこまで勝てたのはなんででしょうか?
 当時の地図など見てみると,周り全てを囲まれて戦略的には絶望的に見えますし,武器がたらず戦車を他国からかっぱらったと聞いたので,武装は十分には思えません.
 アラブ側の士気不足?

 【回答】
 ひとことで言うと,士気(戦争に対しての心構え)の差かと.
 ここで負けたらそれこそ海に追い落とされるユダヤ軍と,どだい上からの命令でイヤイヤ戦わされてるアラブ軍とでは,装備の差が多少あろうと話になりませんでした.
 加えて各国とも勝手な目論見で参戦してますから,統一行動がとれるわけもなく.

 そもそも第一次中東戦争勃発当時は,今みたいな「イスラム対ユダヤ」というニュアンスは無くて(この図式もかなり人為的な後付けっぽいけど),(やや広い意味での)アラブ系地元勢力と新参の欧州からやってきたユダヤ系移民との戦争という感じ.

 なので,イスラム教系の宗教関係者や各地域の為政者たちが「ジハード」を宣言しても,当時は「アラブ民族主義」の興隆のほうが圧倒的に強かったから,それに賛同する勢力はむしろ限られてしまう.
 これだと主体がイスラム教徒中心になって,地元のシリア教会とかマロン派住民といったキリスト教住民はおいてきぼりを喰ってしまう.

 結局,移民が大多数で「ユダヤ人だ!」と言う強力なアイデンティティがあって,行動が一本化しやすかったユダヤ勢力の方が士気も高かったけど,アラブ系などの地元住民はこれに対抗できるような自己の枠組みさえバラバラだったので,当然士気も行動も振るわなかったんだと思う.

 ただ,ユダヤ軍もヨルダンのアラブ軍団相手には苦戦しています.
 英国人のグラブ・パシャが指揮し,王家に忠誠を誓う精強ベドウィンで構成されたアラブ軍団は士気も高く,ウエストバンクやエルサレム旧市街はヨルダンの手に落ちました.

イスラエル国防相◆3RWR.afkME in 世界史板

 また,アラブ諸国は部族ごとに独立して国になった状態で,アラブ世界としてのまとまりにも欠けていました.

 イスラム教徒が聖戦に燃えている,というのは根拠のないイメージに過ぎません.
 イスラムの「聖戦」が何なのかをそもそも理解してない人は多い.
 イスラム教徒の「聖戦(ジハード)」は異教徒を攻撃することではありません.
 実際イスラム帝国が興ったときも,改宗を強要したり異教徒を迫害することはありませんでした.税金をかけただけです.
 「聖戦」はイスラムの信仰を守るためにあるのです.イスラムが迫害されたとき,アッラーやムハンマドが冒涜されたとき,イスラム教徒は「ジハード!」と言っていきり立つのです.
 ただ,実際にテロ行為を行うのは一部の原理主義者であり,それをイスラムの標準と考えるのは誤りです.

世界史板


 【質問】
 第1次中東戦争における,IDF成立以前のイスラエル側軍事組織について教えてください.

 【回答】
 5月28日発令の政令第4号にてIDFが成立になりますので,それ以前はハガナーやらイルグン,シュテルンが戦ってます.
 政令後,IDFの統一指揮下に入ることを嫌ったイルグンとIDFとの間に戦闘が起こったりもしてますね.
 過激派テロ組織シュテルンを除くイスラエル武装勢力は,6月28日時点で全てIDF統一指揮下になります.

……と『中東戦争全史』には(笑)

邪夢 in mixi,2008年08月19日 20:18


 【質問】
 先日のNHKスペシャル「エルサレム」で,第1次中東戦争の映像が流れました.
 その中で,スツーカのような機体が映っていたのですが,実際に使われたのですか?
 そして,これらはどこからのものでしょうか?
 また,これ以外にどんな枢軸国側の兵器が使用されたのでしょうか?

 【回答】
 実のところ,イスラエル建国時には国軍というものが存在しなかったんですよ…

 とはいえアラブ諸国との対決が間近に迫っていましたから,武装組織ハガナーを母体に軍隊を作ることになったんですが,旧宗主国の英国からはハガナーは非合法組織として取り締まりの対象になってましたので,ろくな武器を揃えることができませんでした.

 1948年の時点で,どうにか兵員は9個旅団を動員できたんですが,その武器といえば,小銃…10000丁,短機関銃…3500丁,76.2ミリ迫撃砲…26門,50ミリ迫撃砲…672門これだけでした.あとは手製の火炎瓶とか.
 空軍力といえば,ハガナがビーチクラフト・ボナンザ,ドラゴン・ラピード各1機,開戦時に保有していただけ(ボナンザは戦争中に更に2機購入).

 んで,これじゃまともに戦えねーYO! ということで,イスラエル側は豊富なユダヤマネーを駆使して,欧州のあちこちの国から大戦終了で余った武器を買い漁ります.
モーゼルライフル,MP40,MG34,ブレンガン,PIATなど,元は連合軍,枢軸軍を問わず数多くの武器が持ち込まれました.

 ドイツの兵器は主に,チェコスロヴァキア,ルーマニア,ブルガリアが売却しています.

 例えば,シリアは,東欧諸国から4号戦車や4号駆逐戦車を購入していますし,イスラエルはチェコスロヴァキアから,第二次大戦中のBf-109G-14をチェコでライセンス生産したけれど,エンジンが無かったので,手近にあった爆撃機用のJumo210を搭載したC.199,C.S.199戦闘機を11機購入しています.
 また,チェコからは同国で使用していたSpitfire戦闘機もイスラエルは50機購入しています.
 近代戦には航空戦力が必須ですが,開戦当時イスラエルにはC47輸送機と旅客機2機程度しかなかったので,これまた急いで買い付けたものです.
 他にもマスタングを4機,モスキートを9機,B-17を3機買い付けています.

 あとは不名誉な手段なんですが…,英国からボーファイター5機,B-17×3機を映画撮影の為と言って借り逃げしたり,あるいは,民間で使うからと言って,南米へ向かう振りをして大西洋を横断,チェコで修理と補給して密輸したり,機械部品と偽ってボーイング・ステアマンPT-17カイデット練習機を20機買ったり(後に禁輸解禁後に更に30機購入),駐留していた英軍からシャーマン戦車を色仕掛けで盗み出したり.……必死だな(藁

 S.199については,イスラエルは結構運用に苦労したようです.元々工作の程度が良くなかった上に低性能だったので….
 Spitfireに関し,チェコから購入する前,不時着機の修理とか,廃棄された機体からでっち上げたとか,そんなこんなで3機は再生していますから,整備の腕が悪かった訳ではないと思います.

 Spitfireは,エジプトでも使用していましたので,同じ機体が戦った訳です.
 エジプトは基本的に英国軍装備で,各種英国製戦車,航空機を持っていました.
 また,イタリアからは,Fiat G.59戦闘練習機(G.55のRRエンジン搭載型),Macchi C.205Vなども入手しています.

 まあそんなこんなで,イスラエルは第一次休戦まで持ちこたえ,時を同じくしてIDF(イスラエル国防軍)が組織され,国防は一本化されました.
 貴重な時間を有効に活かし,さらに近代兵器を増強したイスラエル軍に対し,もはやアラブ連合軍は抵抗することはできず,事態は終戦へと向かいましたとさ.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2
イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME
イラン国防相 ◆2ahDXUlKbw)

FIAT G-55“チェンタウロ”戦闘機

http://www.ottocubano.com/images/MUSEO%20VIGNA%20DI%20VALLE/DSC05656.JPG

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月11日 03:23

シリア空軍のFiat G55A(1949年)


+

 【質問】
 包囲下のエルサレムを救った「ビルマ・ロード」とは?

 【回答】
 城壁の外にひろがるエルサレムの新市街には,10万のユダヤ人がいて,アラブ軍に包囲されながらも戦っていた.
 そのエルサレム新市街への補給路を確保するために,六月一日からユダヤ機関が密か始めたのが,イスラエル建国の最大の叙事詩と言われる「ビルマ・ルート」の建設である.
 これは,アラブの制圧する死の谷を迂回してエルサレム救援の山岳道路を切り開こうとするものであった.
 このアイデアは,ある聖書学者が,聖書の中に「山羊の通る山道」があると記されていることを思い出したところから出た.

 大勢の人々が動員され,夜,月の光をたよりに急斜面に道をつくる作業に従事したが,六月七日の時点でまだあと五キロが手つかずであった.
 六月七日,エルサレム新市街のユダヤ人地区の備蓄も,あと三日分となった.
 ベングリオンは,ユダヤ人地区の責任者から
「金曜日までに小麦粉が届かなければ,エルサレム10万のユダヤ人は餓死する」
との電報を受け取った.

 非常事態に直面し,ベングリオンらはひとつの作戦を決行する.
 それは,エルサレムの陥落をとどめるために,道のないところは人が荷物を背負って運ぶ輸送作戦であった.
 ユダヤ機関は,この五キロの山道を毎晩20キロの食糧袋を背負って往復する600人の男を召集した.
 一人の背負う小麦粉は,100人のユダヤ人の生命を一日は生き伸びさせるはずであった.
 長い蟻のような行列が夜中の補給路となった.

 ユダヤ機関の中で,ベングリオンの下にあったペレス元国防相は当時をこう語っている.
「イスラエルは寸断され,エルサレムは包囲されていました.
 エルサレム新市街には,水も食糧もありませんでした.
 私たちは,小麦や小麦粉を集め,真夜中に月明りをたよりに,小麦粉袋を背負って,山羊の道を運びました.道なき道は人間の背中が道になったのです.
 軍の幹部もみな袋をかつぎました.エルサレムへの補給こそが戦いであったのです.
 ちっぽけな国が四方から攻撃されて,散り散りになっていました」

「あの時,世界は・・・ 磯村尚徳・戦後史の旅<II> NHK取材班」より


 【質問】
 シリアで使用されていた4号戦車などの詳細を教えてくれないでしょうか?

 【回答】
 シリアは1946年仏より独立後,ブルガリア・ハンガリーといった東欧諸国やスペインなどからW号戦車・W号駆逐戦車・V号突撃砲等を,数は不明ですが購入しています.
 これらの戦車のスペアパーツは,フランスにあった撃破されたドイツ車両のスクラップヤードから調達された部品でした.
 しかし60年代にはパーツも尽きたのか,ゴラン高原に作られた陣地にトーチカ代わりに配備されました.

 1965年のイスラエルとシリアの「水戦争」(ヨルダン川の水利を巡る紛争)において,W号戦車はゴラン高原からイスラエル軍に対して射撃を行いましたが,イスラエルのセンチュリオン戦車に対しては明らかに力不足でした.
 生き残ったW号戦車は,さらに1967年の六日戦争でもイスラエル軍に対して砲撃を行いますが,ゴラン高原はイスラエルに突破され,最後のW号戦車がM50アイシャーマンに撃破されて,その生涯を閉じました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2004/07/29
青文字:加筆改修部分

 【関連リンク】
http://www.axishistory.com/index.php?id=3519

faq25n01b.jpg
faq25n.gif
faq25n01b02.jpg
faq25n01b03.jpg

CRS in mixi支隊他


 【珍説】
 人口の5%しかいなかった(しかも2万人ちょっとしかいなかった)連中が,なんで土地を多く割り当てられるんだ?
 国連を何ものが動かしたんだ? 五大国の拒否権もないまま,とおったんだろ?
 ユダヤの実力すげーどころじゃないじゃん.

 当時冷戦の直前で,1946年か7年の総会で,ユダヤ嫌いのスターリンはまだ健在だったし, この時期は中華民国つまり蒋介石が国連の全権を持っていた時代だし,アメリカもマーシャルプランで欧州の復興,そして服属化をねらっていた.
 ソ連も衛星国家建設つうか各国の王政を解体していて,確執ありまくりだぞ.
 そこに決議案と中東戦争だ.
 大国の思惑がないと思う方がどうかしているつーか不自然過ぎ.

 【事実】
 パレスチナを直接統治してたイギリスが,ユダヤとアラブの独立闘争テロに耐えかね,「なら勝手にせいや」と投げ出したのが大きい.
 英国の後は,誰もそこにフォローしに行く事に利益を見出さなかった.

 当時はまだ中東全域が仏英の事実上の植民地で,ソ連にしてもわざわざ介入するだけの余力も余地もなかったっつー事.
 それどころか,ソ連は国内のユダヤ人が処分できて言う事なし.移住に物凄く熱心だったし.

 要するに,ユダヤ嫌いのスターリン,毛沢東の戦争でそれどころでない蒋介石,共産圏うざいね赤狩りはじめようか?と考えているトルーマン,鉄のカーテン演説をしたばかりのチャーチルらが,自分達の思想,都合,二枚舌外交,ポクロム政策,シオニズムテロらをすべてアラブに丸投げした事が原因.
 「国連が悪い」以外,なんと言い様がある?

軍事板


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