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◆◆第4次中東戦争 Jom kippuri háború
<◆戦史
中近東FAQ目次

これならエジプト軍も攻撃できまい


 【link】

「Togetter」◆(2011/03/02)Nyar_Horten氏が語る『第四次中東戦争における欺瞞と奇襲』

「Togetter」◆(2011/03/02)防御の際の拠点陣地について -中東戦争の例から-

「泳ぐやる夫シアター」★[2009/06/18~]やる夫第四次中東戦争

「リアリズムと防衛を学ぶ」:(2010-01-23)なぜ戦争に気づかなかったか 贖罪日の戦い1

「リアリズムと防衛を学ぶ」◆(2010-04-14)「戦車の限界」 ヨムキプル戦争2

「リアリズムと防衛を学ぶ」◆(2010-04-16)「空軍だけでは戦争に勝てない理由」 ヨムキプル戦争3

『アラブの戦い 第4次中東戦争の内幕』(モハメド・ヘイカル著,時事通信社,1979)

『砂漠の戦車戦 第4次中東戦争』(アブラハム・アダン著,原書房,1991.2)

『ヨムキプール戦争全史』(アブラハム・ラビノビッチ著,並木書房,2008/12)

 佐藤優さんも推薦する話題の一冊.
 こんな高い専門書なのに,売れ行き好調と聞く.

 存亡の危機に立たされたイスラエルが大逆転を演じて国を保った,第四次中東戦争(ヨムキプール戦争)にまつわる全ての記録といってよい.
 著者はジャーナリストで,読み物としても面白いのがうれしい.
 中東政治のキモをつかめることはもちろん,イスラエル,ユダヤ的なるものの「見えない強さ」を知る上で格好の参考書でもある.

――――――おきらく軍事研究会)平成21年(2009年)3月15日

 さすが評判だけはある.
 非常に詳しく纏められてて,個々の戦闘レベルの話から,軍上層部の動き,調停に走るキッシンジャーまでまさに「全史」の名に恥じない出来.

 …けど,『イスラエル地上軍』でお腹いっぱいな私レベルの人間では,個々の戦闘の話はいっぱいいっぱい.
 それでも序盤の奇襲に至るまでの話と,終盤の紛争終結前後の話だけでも非常に面白かった.
 やっぱり奇襲ってのは起こるべくして起こるんだなと.
「偵察衛星/電波情報収集/P3C)があるから日本で奇襲なんてあり得ない」
とか言う連中に1章から10章までを100回ぐらい音読させたい.ついでに書き取りもしておけ.

 とりあえず絶版になる前に絶対買いの本.
 この出来なら5000円は高くない.
 お勧め.

 …でも,一ページ目の一行目でずっこけさせるのは勘弁してくれ(笑)※

――――――アドバンスト杜聖 ◆REH634FRNQ in 軍事板,2010/05/21(金)

 いい本だけど,アラブ側の個々の戦闘に関する話(対戦車ミサイル部隊とか防空部隊,あとシリアの戦車隊とか)とか,もうちょっと欲しかったなあ.
 著者はアラブ系の将校の回想録全否定だし….
 でも参考文献でお勧めされてた『アラブの戦い』を,古本屋で買ったので読んでみる予定.

――――――軍事板,2010/05/21(金)

※ 一ページ目の一行目で吹いた.

>"1973年10月5日午後.中東上空から送られてくる
>偵察衛星のビームイメージに,解析員は困惑したに違いない"

 …あんちゃん,当時はまだアメリカでもフィルム回収式のKH-8/9しかなかったんや…

> あるCIAの解析員はこう回顧している.
>「素晴らしい情景を納めていた.
> しかしそれが入手できたのは,戦争が終わってからだった」
(「世界史を動かすスパイ衛星」より)

――――――アドバンスト杜聖 ◆REH634FRNQ in 軍事板,2009/09/21(月)


 【質問】
 ヨム・キープル戦争(第4次中東戦争)について教えられたし.

 【回答】
 ナセルの後を継いだサダトだが,3回にわたる戦争やらスエズを挟んだ消耗戦争やらで,(常に主戦場を担当していた)エジプトの経済は破綻しており,イスラエルとの争いに嫌気がさしていた.
 ということで,サダトはイスラエルと和平を結び,ソ連を見限ってアメリカに接近する腹を固める.
 しかし対等の立場でテーブルに着く為には,どうにかしてイスラエルにパンチを一発入れなければならない…
 サダトはシリアのアサド大統領と密かに盟を結び,占領地奪還に限定した戦争を仕掛けることにする.
 第四次中東戦争の始まり.

 緒戦はイスラエル政府がモサドの情報を黙殺するという致命的なミスを犯した為,アラブ軍が完全に奇襲という形に.シナイ半島の防衛線はズタズタに裂かれ,イスラエル軍は大損害を被る.
 また北部国境にはシリア軍の大部隊が押し寄せ,ゴラン高原は両軍の戦車の墓場となる.
 イスラエルはまさに独立戦争以来の危機を迎えた…んだけど,南部戦線でエジプト軍が「あーもう仕事終わり」とばかりに進撃停止してしまったのが,相手に貴重な時間を与えてしまう.

 この貴重な時間を利用し,イスラエルは軍を再編するとまず北部,続いて南部で猛然と反撃に出る.
 アラブ軍は敗走し,ダマスカスは射程内に収められ,スエズの逆渡河を許したところで,
「おまい,いい加減にせんと介入するぞゴラァ」
とソ連が乗り出してくる.
 緒戦で痛手を負っていたイスラエル軍も,これ以上の継戦は望むところではなく,和議と相成った.
 この戦争でアラブ産油国により石油が戦略兵器として使用され,世界中に石油ショックを巻き起こした.

 戦後,エジプトの和平意志を嗅ぎ取ったアメリカは,イスラエルとの二国間協議の仲介に乗り出す.
 サダトの電撃的なイスラエル訪問なんてのもあり,両国はイスラエルの承認,シナイ半島の返還で手打ち.
 エジプトは戦争の重荷から解放されたが,ユダヤに通じた裏切り者ということで,アラブ連盟から除名される.
 のち,サダトはイスラム過激派に暗殺され,ムバラクが後を継いだ(現大統領).

イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME in 世界史板

 1973年10月に始まった戦争.

 エジプトではナセルが死去し,後継者として,アンワル・サダト〔Anwar Sadat〕が,後継者となっていた.
 サダトは,エジプトがイスラエルを滅ぼすのは不可能と考えてはいたが,和平交渉の材料として,何らかの心理的勝利を欲していた.
 彼は,スエズ運河を越えてイスラエルに攻撃することを決断したが,シナイ半島すべてを取り返そうとは考えなかった.
 エジプトはシリアと共謀して効果的な奇襲を行い,これに成功した(蛇足ではあるけど,オール・タンク・ドクトリンが失敗したのもこの戦争)

 当初,アラブ側が有利に戦況を進めるが,イスラエルも反撃を開始した.

 ここで再び米ソが介入して,停戦を呼びかけた.
 ここでの両国の動きを,ナイ教授は以下のように説明している.

--------------------------------------------------------
 ヘンリー・キッシンジャー国務長官がモスクワに飛んだ.
 ところが,彼のモスクワ滞在中にイスラエル軍はエジプトを包囲した.
 裏切られたと感じたソ連は,ソ連南部地域の軍に動員をかけてアメリカに書簡を送り,両超大国が直接軍事関与してはどうかと示唆した.
 アメリカは核の警戒態勢を一段高くし[ソ連の直接的軍事的関与を絶対認めない姿勢を示し],その結果,ソ連は要求を取り下げた.
 アメリカの圧力の前に,イスラエルもまた屈し,エジプト陸軍に対する包囲網をゆるめたのである.
--------------------------------------------------------

・ヨム・キープル戦争では,少なくともエジプトは「イスラエルを滅ぼす」ことは断念している.

・アラブ側の奇襲は成功したが,イスラエルも反撃に出て,最終的にエジプトを包囲している.

・米ソが介入し,停戦を呼びかけ,一時は直接的対峙も考えられたが,アメリカが核の警戒態勢を高くしたことによる圧力で,直接対峙は避けられた.

 とりあえず,この戦争で「エジプト」との決着は「一応」ついたと言えるかもしれないが,やはり,泥沼化していると思わざるを得ないな.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

 【関連リンク】

Yum Kippur War

「ワレYouTube発見セリ」:History - Yom Kippur War (1973)


 【質問】
 ヨム・キプール戦争でイスラエルが奇襲を受けたのは,宗教的なものが原因なの?

 【回答】
 ヨム・キプール戦争の際の過ちは
「敵が攻めてくるという情報が入ったにも関わらず,予備役の全面動員ができなかった」
点にあるわけで.
 ボケっとしてて殴られたのではなく,予備役を総動員すると莫大な経済的損失を被るので,空振りだったらギガヤバス,てなわけで,戦時体制への移行が遅れたのです.
 主として政治,軍事面のミスであります.

 加えてイスラエル国内のユダヤ教徒の一部,何が何でも掟は守る超正統派は兵役の対象外ですし,あとは適当に世俗化してますので.宗教はあんま関係ないです.
 日本で言うとお正月三が日に敵が攻めてきた感じかなあ.

イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME :軍事板,2006/04/15(土)
Izrael védelmi miniszter ◆3RWR.afkME :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/15(szombat)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész

▼ 実際,戦争の起こる少し前,軍が予備役動員をして,そのことがイスラエル国内世論から叩かれたことがあるという.
 以下引用.

――――――
 その年(1973年)の5月,エジプト軍は非常待機に入った.
 ダヴィッド・エラザール参謀総長がイスラエルの予備軍を一部動員してこれに応じると,彼は不相応なパニックに襲われて反応し,税金を無駄使いしたとあちこちで取り沙汰された
『イスラエル全史』下,200頁)

Nyar_Horten
――――――

▼ 以下は,カビ中佐(17機撃墜のエース.おそらくセキュリティ上の理由により仮名)の証言.
 攻撃情報はイスラエル側も察知していたことが窺える.

――――――
 金曜の朝,私はレフイデム〔シナイ半島にあったイスラエル空軍基地〕へ行った.
 特に何か予感があった訳ではない.
 その日の午後,基地司令官が待機所に姿を見せ,戦争になるとの話があるので万一に備えていてくれと言った.
 私は待機所では一番上の階級だった.
 そこで整備兵を全員召集し,小火器を配ってから一通りの心構えを述べておいた.

 しかし対策はそれだけで,特別に何かの計画があったわけではない.

 夜,我々は映画を見た後,床についた.
 土曜の朝,私に参謀本部から連絡が来た(当時,私は参謀本部に席を持っていた).
 戦争必至であるので戻ってくれ,とのことだった.
 交代要員が来たので,私は9時半に基地を離陸した.

 ドブ基地から参謀本部までは車である.
 途中,異様な気持ちに襲われた.
 ヨムキプール(贖罪の日)はユダヤ人にとって1年で最も聖なる日である.
 戦争が勃発するというのに,テルアビィブ市中はシーンと静まり返り,まったく人影がなかった.

 こうしてヨムキプール戦争は始まったわけだが,弾が飛び始めたときの私は最前線どころか,一番安全な所にいたのである.

――――――『戦車マガジン12月号別冊 IDFマッハのエースたち』(戦車マガジン社,1988.12.5),p.129

消印所沢

 余談だが,2006年10月9日に当時の北部司令官の日記から判明したところによると,ヨムキプール戦争で,アラブ諸国の奇襲を受けたダヤン将軍が,一時は弱気になりゴラン高原からの撤退を口にしたという.
 将軍は後に考えを変えた.(ハアレツ紙による)
 あのダヤンがねえ……


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ヨム・キップル戦争勃発に際し,イスラエルの核兵器は抑止力にはならなかったのか?
 とある本には「ならなかった」とあるが?

[quote]
 イスラエルは核武装していたにもかかわらず,〔第4次中東戦争では〕エジプトに奇襲された.
 すなわち,核武装は戦争抑止力とはならなかった,というのが事実ではないか.
[/quote]
―――林信吾著『反戦軍事学』,p.149

 【回答】
 セイモア・ハーシュによれば,核兵器を巡るエジプト・シリア軍の反応は以下のようなものだったという.

(1) エジプト・シリア軍は最初から攻撃目標を限定していた模様.
 イスラエル軍の抵抗らしい抵抗がない段階で,すでに進撃をやめていた.
(2) しかしそれは,イスラエルの核攻撃を懸念したからではなく,イスラエル軍そのものの「不敗神話」が抑止力となっていたため.

 詳しくはセイモア・M・ハーシュ著『サムソン・オプション』(文芸春秋,1992/2/1),p.284を参照されたし.
 ただし本書でも,この辺は推測に過ぎず,「まだ解けない謎」としている.

 よって,ホホイに「事実」と断定できようはずがない.

 当方個人としては,イスラエル自身の次にイスラエルの核兵器について把握しており,また,当時のエジプト軍についても精通していただろう(ヨム・キップル戦争の直前に,顧問団はエジプト追放を食らっているが)旧ソ連の,情報公開の進展に期待するしかないと愚考する.

消印所沢 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 なぜエジプトはイスラエル本土侵攻をしなかったの?

 【回答】
 といいますか,侵攻出来なかったというより,侵攻する気が無かったというのが正しいところでしょう.
 それはエジプトとシリアの指導者のすれ違いが原因と,私は見ています.
「5分でわかる戦史」◆1-5 第4次中東戦争
第四次中東戦争 - Wikipedia

 エジプト革命の父・ガマール・アブドゥン=ナーセル大統領は,他のアラブ諸国と共同でイスラエル奇襲計画を立て,イスラエルの占領を計画したものの,それをイスラエルの諜報機関「諜報特務局(モサド)」に察知され,逆にイスラエルから奇襲攻撃を受けてしまいガザとシナイ半島(エジプト),ゴラン高原(シリア),東エルサレム,ヨルダン川西岸(ヨルダン)を占領されてしまいました(六日間戦争・第3次中東戦争).
 この戦争以降,イスラエルはホロコースト(ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策)以来の国際世論の同情を失ってしまいましたが,アラブ側はさらに深刻なダメージを受けました.
 あろう事か,イスラエルに国の領土を占領されてしまったのです.
 パレスチナ人達はアラブに失望し,独力で解放するとしてPLOやその参加組織は,対イスラエルゲリラ活動を活発化させただけでなく,テロ活動をも行い,さらには日本赤軍派やドイツのバーター・マインホーフ(ドイツ赤軍派)など,当時の学生運動から派生したテロ組織とも提携するようになり,ハイジャックや爆弾テロなどテロ活動は過激化・悪質化を見せました.
 そしてミュンヘン五輪でのイスラエル人選手殺害事件や,日本赤軍との合同作戦によるテルアビブ空港銃乱射事件など,各地でテロ活動を行いました.
 ナーセルはそれを止めないばかりか,イスラエルと局地的・散発的な戦闘(消耗戦)を展開,ソ連軍事顧問団が搭乗したMiG-21MFとイスラエル空軍のF-4Eがドッグファイトをする事もありました.

 ナーセルが1970年に死去後,後継大統領となったのはナーセルの親友・アンワル・アッ=サーダートでした.
 サーダートは,ナーセルの失態によりイスラエルに占領されたシナイ半島を奪還すべく,アメリカと接近してソ連が派遣した軍事顧問団を追放しましたが,当時のアメリカはベトナム戦争の後始末やウォーターゲート事件などで,中東どころではありませんでした.
 そこでサーダートは,シリアのハーフェズ・アル=アサド大統領と共謀し,イスラエル奇襲計画を立てました.
 モサドはその事実をキャッチしたものの,イスラエル政府は奇襲作戦の時期がイスラーム教のラマダン(断食月)であった事から,奇襲はないものと判断していました.
 結果はご存じの通りです.

 エジプトはシナイ半島西部に,シリアはゴラン高原の一部を奪還,イスラエル本土への侵攻もありえたものの,予備役の招集やアメリカ政府からの緊急支援もあり,反攻を計画しました.
 中でも特筆だったのはエジプト軍の反応です.
 エジプト軍はRPG-7対戦車ロケットやAT-3対戦車ミサイルでイスラエル軍のM60,センチュリオン戦車を撃破,さらにSA-7地対空ミサイル部隊とZAS-23対空自走砲部隊を護衛任務に就かせ,イスラエル空軍の近接航空支援をさせない軍事体制を作り上げました.
 しかしこの防空体制から,シナイ半島西部まで侵攻したものの,途中でストップした上に防御態勢に入るという,とても信じられないような話があります.
 もちろんこの体制も影響はしているのでしょうけど,エジプトにとってはあくまでもシナイ半島の奪還が目的であり,イスラエルの占領は目的ではなかったのです.

 これを好機とみたイスラエル軍のシャロン少将は,「ストロングハート作戦」(スエズ運河逆渡河作戦)を断行,2個師団がスエズ運河を逆渡河し,シナイ半島に侵攻したエジプト軍の補給線を断つ事に成功しました.
 そればかりかエジプトの首都・カイロへの侵攻も出来る状態にはなったものの,実際にはカイロ侵攻は行われませんでした.
 背後にソ連がいたからです.
 この戦闘では,アメリカからの緊急援助として得たTOW対戦車ミサイルが大いに活躍しました.
 また,イスラエル空軍も体制を立て直し,スエズ運河の橋を空爆して破壊し,エジプト軍の後方補給線は完全に断たれました.

 一方,シリア軍もゴラン高原に侵攻はしたものの,イスラエル空軍によって首都・ダマスカスの司令部は空爆され,さらには地上でも予備役部隊の到着や,アメリカからの緊急援助によるTOWミサイルの活躍で,逆に押し戻され,シリア本土にまで侵攻.
 ダマスカス一歩手前まで侵攻したものの,やはりダマスカス攻略は行われませんでした.
 エジプト同様,シリアもソ連と軍事同盟関係にありダマスカスを侵攻すれば,ソ連軍が参戦する可能性はあったのです.
 ちなみにシリアは,フセイン政権のイラク同様,バアス党の支配下にあります.
 バアス党はアラブ民族主義や社会主義を主張していましたが,反共政党でした.
 ソ連が同盟を結んだのは,アメリカが支援するイスラエルと敵対しているから,敵の敵は味方という事でソ連と同盟を結んだわけです.
 これはエジプトのナーセル率いるエジプト社会主義連合も同様です.
 なお,ナーセルは,やはり敵の敵は味方という事でナチス戦犯を庇護し,軍や秘密警察の高官に任命しています.
 ソ連はそれを黙認していたようです.
 共産主義とは何なのかを考えさせられます.

 イスラエルの反攻によるシリア軍の劣勢に,アサドはサーダートにイスラエル本土への侵攻を打診したものの,シナイ半島返還が目的のサーダートは無視しました.
 もっとも,エジプト軍もそれどころではありませんでしたが.
 サーダートの目的はシナイ半島さえ返還できれば,イスラエルには手を出さない事を世界に伝えるためでした.

 イスラエル反攻により,米ソの仲介で1973年10月6日からの戦争勃発から16日後の10月22日に停戦協定が結ばれました.
 これにより,米ソ(特にイスラエルの後ろ盾のアメリカ)に戦争目的を伝える事が出来たサーダートは,いよいよシナイ半島返還のためのイスラエルとの和平の総仕上げに乗り出します.
 ソ連・シリアとの軍事同盟の解消に加え,1977年6月にイスラエルでリグート(中道右派政党)のメナヘム・ベギン政権が成立すると,サーダートは和平条約を打診,アメリカのカーター大統領の仲介の下で,ベギンと首脳会談を実現しました.
(当然ながらリビアのカッザーフィーやシリアのアサドは,激怒してエジプトを非難しました)
 そして1978年に,シナイ半島返還を盛り込んだエジプト・イスラエル和平条約が,アメリカのキャンプ・デービットで結ばれました.
 シナイ半島は順次返還されました.
 それと同時にエジプトには,アメリカからF-16A/B戦闘機やM1A1戦車,AH-64A戦闘ヘリなどが供与されました.
 不要となったエジプト空軍のMiG23は,アメリカに極秘に引き渡され,アグレッサー部隊に使用されました.

 当然アラブ諸国は猛反発,エジプトはアラブ連盟から除名され(1989年に復帰),さらにサーダートも1981年に暗殺されてしまいました.
 もっとも,暗殺したのは皮肉にもナーセル支持者ではなく,そのナーセルも弾圧していたイスラーム過激原理主義組織のムスリム同胞団でした.
 彼らにしてみればナーセルの真逆の事をした事より,イスラエルとの和平に踏み切った事が許せなかったのでしょう.

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年04月20日16:02

※ 異説あり.


 【珍説】
 第一,滅亡しかかったにもかかわらず,エジプトに対して核で報復しなかったのはどういうわけか.
 イスラエルの核兵器が,実用に耐えるレベルに達していなかったか,国際社会から総スカンを食らうことで,軍事的な損害よりもはるかに大きいダメージを受けることを恐れたか,どちらかの理由としか考えられまい.

林信吾著『反戦軍事学』,p.149

 【事実】
 イスラエルは滅亡しかかってなどいなかったし,核攻撃準備は実際に行われていた.
 その核爆弾は戦術核としては実用に耐えるレベルであったし,国際社会など気にしてはいなかったと考えられる.

***

 まあ,これは同書で批判の対象にされている兵藤二十八著『ニッポン核武装再論』(並木書房,2004)の記述にも問題がある(らしい)せいでもあるのですが.

 『反戦軍事学』によれば,同書は次のように書かれているそうです.

[quote]

 この企図〔ヨム・キップル戦争緒戦の,エジプト軍の奇襲攻撃〕は世界が驚くほどに成功しかかり,緒戦段階でイスラエルは危うく,国民国家として滅亡しかかった.
 〔略〕
 事実は,イスラエルの核武装は,英仏の核武装と同様に,ソ連からの核攻撃や核恫喝を有効に抑止してきた.
『イスラエルが滅びるときは,モスクワもまた壊滅するときだ』
とのメッセージは,モスクワにしっかりと伝わっており(S.ハーシュ著,山岡洋一訳『サムソン・オプション』を見よ),それで十分だった」(14頁)

[/quote]
 ※中略は編者の判断による

 もしこれが原書を忠実に引用したものだとしますと,『サムソン・オプション』の中身に関し,幾つか兵藤は誤読をしていることになります.

 第1に,『サムソン・オプション』によればイスラエルは滅亡しかかったわけではありません.

 同書p.284によれば,エジプトの軍事目標は当初から極めて限定されていた,すなわち,エジプトは最初から攻撃の的を絞って戦争が国家と国家の全面対決にならないようにし,ゴルダ・メイア内閣が核攻撃準備を命じる1日以上前に,イスラエル軍からの抵抗らしい抵抗がないのに,エジプト軍は進撃をやめていた旨,述べられています.
 一方,同書p.271-272によれば,イスラエルの側は「これで終わりだ……」とパニックに陥り,その中で核攻撃準備がイスラエル軍に対して命じられた,としています.

 つまり,
「イスラエルは滅亡しかかった」
のではなく,
「イスラエルは,自分の国は滅亡すると思い込んだ」
という表現が正しいのです.

 モスクワからエジプトへの警告は行われましたが,エジプト軍はそのときすでに進撃を止めていたので,
>それで十分だった
もへったくれもありません.

 ついでに言いますと,このときイスラエル軍が準備したのは,核爆弾3発と,それを搭載可能にしたF-4ファントム8機だけであり,当時のソ連南部を攻撃可能なジェリコ・ミサイルは発射準備されていません.(同書272-273)
 ゆえに
>『イスラエルが滅びるときは,モスクワもまた壊滅するときだ』
といった類のメッセージは出ていないと考えるべきでしょう.

 以上の問題点を踏まえて,ホホイの珍説を点検していきましょう.

> 第一,滅亡しかかったにもかかわらず,エジプトに対して核で報復しなかったのはどういうわけか.

については,もう簡単に答えは出ますね.
「滅亡しかかってなどいなかったので,実際に報復が実行されるには至らなかった」
が事実です.
 ちなみに『サムソン・オプション』によれば,10月半ばにはイスラエル軍はゴラン高原とシナイ半島での反撃に成功したため,10/14に核攻撃準備体制は解除された(p.280)ということです.
 10/10からはエジプト軍に対するソ連からの武器空輸が始まり,エジプト軍はその後,第2波攻勢に出ていますから,もしこれが成功していたり,あるいはイスラエル軍が体制を立て直す前に第2波攻勢が始まっていたら,もしかしたら核攻撃が行われていたかもしれません.

>イスラエルの核兵器が,実用に耐えるレベルに達していなかったか,国際社会から総スカンを食らうことで,軍事的な損害よりもはるかに大きいダメージを受けることを恐れたか,どちらかの理由としか考えられまい.

については,どちらの理由も最初から考えられません.
 上述のように,核攻撃準備が実際に出されているところから考えて,少なくとも戦術核としては実用に耐えるレベルに達していたことは明らかです.

 また,『サムソン・オプション』がイスラエル政府元高官の話として伝えるところによりますと,
>1971年からは,ミサイルでアラブ諸国の首都とソ連南部
>(油田地帯に近いトビリシやカスピ海沿岸のバクーなど)を
>攻撃できるようになっていた
そうです(p.262)

 また, 国際社会から総スカンを食らうことを恐れていたかどうかですが,恐れていなかった可能性が高いと考えられます.
 なぜなら既に六日戦争の勝利によって,イスラエルは国際社会から侵略者のレッテルを貼られて総スカンを食っていたからです.(上掲書,p.214-215)
 ヨム・キップル戦争ではイスラエルは実際に核兵器を使う気満々だったことを考え合わせても,今更国際社会の評判など気にしていなかった,と見るべきでしょう.

 ホホイにおかれましては,今後はまず相手の主張の引用元を確かめるよう忠告する次第です.


 【質問】
 以下のような意見は妥当なものか?

[quote]

 イスラエルの例を見ても分かるとおり,核武装しているからといって,戦争が防げるわけでも,国家がより安全になるわけでもない.

[/quote]
―――林信吾著『反戦軍事学』,p.150-151

 【回答】
 上述のように,ヨム・キップル戦争におけるイスラエルの事例は,
・イスラエル軍不敗神話がすでに抑止力になっていた
と推測される(セイモア・ハーシュによれば)ものであり,極めて特殊です.
 そのような不敗神話を持つ軍隊は,非常に数が少なく,一般化はできない話だからです.

 したがって,そのような事例を元に,核武装に関する概論を組み立てるのは無理があるでしょう.
 特にホホイは上述を見る限り,中東戦争に関してロクに調べていない疑い濃厚ですから,引用文のような論理展開は「ムチャしやがって……」の部類です.

 強いてヨム・キップル戦争の例から強引に教訓を引き出すとすれば,
「不敗神話ができてしまうほどの強力な防衛体制は,それ自体が抑止力効果を発揮する可能性がある」
といったことでしょうか.
 この「強力な防衛体制」は別段,核武装を含む正面装備に限らず,国家戦略,諜報能力,外交能力,国力などを含めた総合力です.
 不敗神話を作る元になった六日戦争では,核兵器に頼らず,そうした総合力で勝利したのですから.


 【質問】
 石油ショックは幻だったのか?

 【回答】
 『戦後50年その時日本は 第5巻 石油ショック・幻影におびえた69日間』(NHK取材班著,日本放送出版協会,1996.6)によれば,実は石油危機などなく,石油は十分アラブから供給され続け,足りていたという.
 にも関わらず,日本国民がパニックに陥ったのは,ろくな取材もしないまま,油を断たれた日本は文字通り「油断」のつけを払わされ経済が崩壊してしまうかのような煽動的記事を,横並びで作って垂れ流したの日本マスコミに原因があったという.

 詳しくは同書書評を参照されたし.


 【質問】
「戦車には随伴歩兵が必要」
と言うのは常識のように語られていますが,なぜイスラエルは第四次中東戦争で,「オール・タンク・ドクトリン」でひどい目に遭ったのでしょうか?
 イスラエルは自軍の戦車部隊にそんなに自信を持っていたのでしょうか?

 【回答】
 「オール・タンク・ドクトリン」はシナイ半島の地形と,敵であるエジプト軍(ソ連流)の戦術に対応して生まれた戦術でした.
 シナイ砂漠では塹壕を掘って対戦車砲などを隠蔽しておくことが非常に難しく,バズーカ砲などの対戦車火器を持つ歩兵が戦車に接近するのも困難と考えられました.
 また,この平坦な地形では戦車の機動力が発揮しやすく,ソ連流の防御陣地も自軍の戦車の長距離砲撃能力を高めることと,機動力を最大限に発揮することで,戦車単独でも敵陣を突破可能と考えられたのです.

 事実,イスラエル軍は第三次中東戦争で,「オール・タンク・ドクトリン」による機動打撃作戦を成功させています.

 ところがこの成功により,戦術を固定化してしまったイスラエル軍に対し,アラブ側は徹底した武器・戦術の練り直しに取り組みました.

 かくして,第四次中東戦争で導入された長射程かつ小型のAT-3対戦車ミサイルにより,本格的な陣地を構築していない歩兵部隊でも戦車に対処が可能になり,イスラエル軍は手痛い敗北を喫することになったのです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2007/06/26(火)


 【質問】
 第4次中東戦争で有名になったサガー・ミサイルは,そんなに戦果を上げたのですか?

 【回答】
 第4次中東戦争におけるイスラエル軍戦車の損失原因;
(シナイ半島方面582両,回収後戦線復帰車を含む)

戦車・対戦車砲・無反動砲 65~70%
対戦車ミサイルおよびRPG-7 20~25%
地雷 5~10%
航空機 2~5%
砲兵火力 2~5%

(学研2005年10月号 オールタンクドクトリン より)

 で,サガー・ミサイルが有名になった戦いは1973年10月6日,エジプトの侵攻に対して反撃に出たイスラエルの第252機甲師団第14機甲旅団が,エジプト軍陣地からの対戦車歩兵によるRPG-7とサガーミサイルの攻撃により壊滅.
 翌日には第252機甲師団の第460・第401機甲旅団も,同様の戦術で壊滅.

 また,10月14日にイスラエルはイスマイリア近辺で,アメリカより供与を受けたTOWミサイルで,10月6日にエジプトにされたのと同じことを,攻勢に出たエジプト軍に対して行い,エジプト軍を敗走させている.

 '70年台後半はこれらのことから,対戦車ミサイルは防衛側に有利な兵器として認識され,特に欧州ではNATOはワルシャワ条約軍の第1撃を受け止める立場から,とりあえずは有線誘導の弱点を防ぐ活用法がいろいろと考えられ,同時に有線誘導や「操縦」からの脱却を目指した開発が行われた.

軍事板,2007/10/04(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 T-34-100って何?

 【回答】
 エジプト軍が,1970年代末にMBTとして御役御免となったT-34-85の砲塔を大きく切断して,砲塔の弾薬室周りのみ残し,ソ連製のBS-3/M1944 100mm野砲を,砲塔に対して後ろ向きに搭載,もともとの砲塔の前後に装甲板を継ぎ足して砲塔を大型化した対戦車車輌(駆逐戦車).
 車体後面にはガンロッキングアームが追加された.
 第四次中東戦争で使用.
 正式名称は不明だが,一般にT-34-100(もしくはT-100)と呼ばれている.
 なおソ連でもWW2中,T-34-85をベースに砲塔形状その他を改め,100mm対戦車砲を搭載したT-34-100を試験的に作っている.

 【参考ページ】
http://www.baumann.co.jp/list/mw/MW7239.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/T-34
http://homepage3.nifty.com/tsaoki/maniacs/t34/taxonomy/arab-spg.htm
http://www.geocities.jp/aobamil/T.html


【ぐんじさんぎょう】,2008/11/26 21:00
に加筆


 【質問】
 シリアのT-34/122自走砲について3行で教えてください.
Kérem, mondja meg a syriai T-34/122 önjáró tarackat három vagy több sorban.

 【回答】
 T-34/122(別名T-34/D-30)は,1970年代始めにシリアがT-34/85をベースに改造した自走砲で,正式名称は不詳.
 砲塔を外し,車体前面装甲板上にD-30 122mm野砲の砲架から上をまるごと後ろ向きに搭載している.
 1973年のヨム・キプール戦争で使用されており,イスラエル軍によって鹵獲された1両が,同国によって博物館展示されている.

 【参考ページ】
http://tsaoki.na.coocan.jp/maniacs/t34/taxonomy/arab-spg.htm
http://www.aviapress.com/viewonekit.htm?MAQ-35036
http://www.primeportal.net/tanks/anon_idf/t-34_122_sph/index.php?Page=1(写真集)

T-34/122自走砲
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】,2016/12/5 20:00
を加筆改修

 ちなみにエジプト軍も100mm砲のみならず,やはり122mm砲を搭載したT-34改造自走砲を実戦投入している.

エジプト軍のT-34-122
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ヨム・キープル戦争では,アラブ,イスラエルはどのように航空戦を考えていたん?

 【回答】
 奇襲で始まったこの戦争だが,アラブとイスラエルでは,航空戦力の使い方に大きな違いがある.

 まず,アラブ側では,イスラエルに比べて航空戦力が劣ることは織り込み済みだったので,SA-2,SA-6,SA-7と言った対空ミサイル陣地を構築し,それによって防空を行う一方,優勢な陸上戦力を分散し,相手へ対処を絞らせないように工夫していた.

 対してイスラエルは,機先を制されたものの,シュライク対レーダーミサイルや,数々のECMを使用して,相手へのジャミングをかけ,防空陣地を無効化しつつ,相手陣地への近接航空支援や,阻止攻撃を行った.

 また,偵察機では,エジプトが使用するMig-25フォックスバットに手を焼き,相当フラストレーションがたまったようだが(この当時,イスラエルにこの機体を迎撃できる機体はない),対抗策として,ファイアービー・ドローンという無人機を低空侵入させて,偵察を行った.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月06日22:12


 【質問】
 第4次中東戦争(ヨム・キプル戦争)における両陣営の航空/防空戦力は?

 【回答】
●イスラエル防空軍/空軍
総司令官:ベンジャミン・ペレド少将

F-4E/RF-4E 127機 4個飛行隊(第69,107,119,201)
A-4E/A-4H/A-4N 162機 6個飛行(第102,109,110,115,116,140)
ミラージュⅢC×35とネシェル×40 2個混成飛行隊(第101,117)
シュペル・ミステール 20機 1個飛行隊(第105)

防空兵器
ハーフトラック搭載20mm機関砲 約700門
同40mm対空機関砲 200門
ホーク地対空ミサイル 10個高射隊

●エジプト空軍
総司令官:ホスナイ・ムバラク少将

MiG-21F/PF/MF 240機 6個航空旅団(14個飛行隊)
MiG-17 80機 2個航空旅団(3個飛行隊)
Su-7B/Su-20 80機 2個航空旅団(3個飛行隊)
Tu-16 30機 1個戦略航空旅団(3個飛行隊)

Mi-8 90機
Mi-6 20~30機
Mi-4 70~80機

エジプト防空軍
総司令官:アリ・ファミイ大将
総兵力:8万人

S-75/SA-2 SAM‘ガイドライン’
S-125/SA-3 SAM‘ゴア’
2K12Kub/SA-6 SAM‘ゲインフル’
ZSU-23-4対空自走砲‘シルカ’
・計150個高射隊.そのうち,60個高射隊以上がスエズ運河沿いに展開.

9M32/SA-7‘ストレラ2’
対空砲
・SAMの他にも数千の対空砲と9M32で間を埋めた.

MiG-21 9個飛行隊以上
・9個飛行隊以上が防空軍に配備され,緊急発進体制についていた.

●シリア空軍

MiG-21 200機
MiG-17 80機
Su-7B  30機

SA-2‘ガイドライン’
SA-3‘ゴア’  計34個高射隊
SA-6‘ゲインフル’ 12個高射隊

 ゴラン高原~ダマスカス地方に25個高射隊を配備.
 更に500基以上の9M32/SA-7と900門の対空砲があった.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5),P229~234

邪夢 in mixi,2007年06月01日03:44


 【質問】
 ヨム・キープル戦争における航空戦は,どんな感じで始まったの?

 【回答】
 いうまでもないが,ヨム・キープル戦争は,イスラエル側のミスで,アラブ側の完全な奇襲攻撃が成功した.
 陸上部隊と時を同じくして,エジプト/シリアのMig-21,Su-7B,Mig-17と,イラクのホーカー・ハンター攻撃機の合計200機が,イスラエル軍陣地に対して爆撃・銃撃を浴びせた.
 エジプトのある将校の証言を,「現代の航空戦」から引用してみる.

--------------------------------------------------------
 エジプト空軍のシャララ大佐(Shararah)は,次のように語っている.
「私は,1973年の戦争の開戦攻撃を行った.ミトラ峠に近いホーク陣地に対する空爆であった.
 クエイシナ(Quwaysina)航空基地を12機のMig-17とともに出発した.
 第2グループで飛行したが,当時私は大尉でしかなかった.
 最初の目標地点で2つのグループに分かれ,戦闘グループが先に攻撃を行ったが,反撃を受けて損失を被っていた.
 その後我々のグループが先に攻撃したが,それは非常に容易なもので何の問題もなかった.
 その後我々は基地にもどったのである.
--------------------------------------------------------

 目標となったのは,前線にある飛行場,各種部隊本部,通信/電子センター,砲兵陣地,ホークミサイル陣地,機甲部隊の補給基地などである.

 また,アラブ側はこの攻撃に際して,数時間後に起爆するような,遅延信管付の爆弾を多くの目標に投下したため,シナイ半島にあったイスラエルの航空基地の大部分が48時間に渡って使用不能になった.
(アラブ側の発表なので,正確さには疑いがある)

 航空基地への攻撃については,以下の証言を引用する.

--------------------------------------------------------
 あるMig-21飛行隊を率いたハフィーズ(Hafiz)准将は,次のように語っている.
「ビルタマダ(Bir Thamadah)飛行場に対する最初の攻撃で飛行隊を率いた.
 第一波には16機が参加していた.
 我々のMig-21MF機は,対滑走路爆弾を使い,低高度での攻撃を行った.
 私の知るところ,反撃を受けたことはない.
 我々は飛行場を爆撃し,滑走路は紛れもなく損傷を受けた.
 我々16機はそれぞれ4発の滑走路穿孔爆弾を搭載していた,
 穿孔爆弾があれば,目標を狙う必要はない.滑走路の上を飛び,投下するだけでいいのである.
 我々が使用したのは,エジプト製の爆弾であった.
--------------------------------------------------------

 これに対して,イスラエルはF-4の一部隊がスクランブルを掛けて,7機の敵機を撃墜したものの,ほぼアラブ側の奇襲攻撃は,完全に成功したと言っていいだろう.

 引用部分はロン・ノルディーン「現在の航空戦」235ページより.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月07日21:41


 【質問】
 第4時中東浅草寺〔原文ママ〕,シリア軍 イスラエル軍 エジプト軍は,それぞれ対戦車ヘリ もしくは対戦車ミサイル発射可能なヘリコプターを装備していたのですか?
 また,東寺〔原文ママ〕の対戦車ヘリは,AH-1と ミル24だけでしょうか?

 【回答】
 当時は,双方共攻撃専用のヘリコプタは装備していません.
 精々,UH-1とかMi-4,Mi-8にロケットポッドを付けるくらい.
 その当時,シリア,エジプトはMi-8を持っていて,これはその気になれば対戦車ミサイルだろうが小型爆弾だろうが装着可能です.
 シリア軍のは実際に対戦車戦に出撃したようです.

 攻撃ヘリコプタが装備される様になったのは中東戦争後です.
 当時の対戦車ヘリコプタとして,専用のものは,AH-1,Mi-24ですが,汎用ヘリコプタに対戦車ミサイルを装備したものもあり,フランスのアルーエトIII(SS11/12)やその後に出たガゼル,ドイツのBo-105,英国のリンクスなどがあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/02/21
青文字:加筆改修部分

94 :名無し三等兵 :05/02/21 12:52:24 ID:???

東寺といったら東大寺を指す
で,ここの僧兵は戦闘的なことでは類を見ないほどの乱暴者揃いで有名



95 :名無し三等兵 :05/02/21 12:53:38 ID:???

って,あ,そうか
質問者は東大寺vs浅草寺と言っていたのか
スマン

軍事板,2005/02/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 奇襲攻撃を受けたイスラエル側の反撃はどのようなものだったの?

 【回答】
 防衛線に痛打を浴びせられたイスラエルは,防衛線を縮小・統合して,エジプトの航空基地,砲兵陣地,浮橋,対空陣地などに対して爆撃を行った.
 442ソーティに渡るCASで相手陣地を破壊していったが,この爆撃で,16機のイスラエル機を撃墜したとエジプト軍は発表している.
 また,シリアに対する爆撃も168ソーティを実施し,CASの反復で,戦略目標を攻撃した,
 この結果,シリア軍はイスラエル軍に押し戻されたが,これは潰走ではなく,撤退は統制の取れたもので,戦車と砲撃,空爆によって,イスラエル軍に損害を与えることに成功している.
 この間,イスラエルは完全に航空優勢を確保しており,反撃してきたシリア機はほとんどいなかったようだ.
 ただし,AAAとSAMによる攻撃,特にSA-6による攻撃による損害が多く,この当時,SA-6は最高の性能をもつソ連の対空ミサイルとイスラエルより評された.

 また,さらにアラブ側からの反撃もかなりの効果を見せた.
 イラクのホーカー・ハンターとMig-21は,ゴラン高原のイスラエル軍に対して,80ソーティの爆撃を敢行し,シリア軍は,FROG地対地ミサイルを,ラマット・ダビデ航空基地に対し,20発打ち込んだが,これは大半がイスラエル側の入植地に着弾した.

 これによって,イスラエル側は戦略爆撃を行い,シリア空軍司令部と,ダマスカス北方のホムズ精油所に対して反復攻撃を行った.
 イスラエルはこの攻撃で大きな成果を上げたものの,開始からの100時間で50機もの航空機を損失した.
 その半分はシリアの構築した防空網によって,撃墜されたようだ.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月08日22:38

▼ 以下はシリア軍陣地攻撃に参加した,イフタク・スペクトル准将(おそらく保安上の理由により仮名)の証言.

――――――
 全く突然の変更であった.
 この日の朝,我々はまだエジプトのベニスエフとビルアライェダの飛行基地を攻撃していた.
 運河域を叩いている隊もあった.
 我々が出撃準備を進めていると,突如として作戦変更の指示が来た.
 目標をゴラン高原のシリア軍ミサイル陣地に変更,緊急性に鑑み全力を以ってすぐ攻撃する,とのことであった.
(10月7日の夜,シリア軍機甲部隊はヨルダン川の線まで10分以内で到達できる地域へ進出していた.
 イスラエル軍の第7機甲旅団は残存戦車7両と壊滅状態に陥り,後退の準備中であった.
 予備役の戦車隊も逐次投入しても消耗し,シリア軍の戦車は八方に広がって手がつけられぬ状況になりつつあった.
 これを食い止める唯一の方法は,航空機による対地攻撃であったが,シリア軍のミサイルに阻止され,悲惨な状況を呈しつつあった.
 そこで急遽ミサイル陣地を叩くことに決まったのである)

 非常な緊急事態にあったので,十分な打ち合わせもないまま決行となった.
 事前に準備してあった攻撃計画書がデスクから引っ張り出され,封を切って,さあこれで行けとなったのだ.
 地図が配られ,簡単な指示を受けた後,我々は待機中の搭乗機へ走った.
 詳しい指示は飛行中に受けるということだった.

 対空ミサイル陣地の攻撃はお遊びではない.
 大編隊で攻撃するのだが,参加機の運動を正確に統制し,かつ各機は僚機をきちんと援護するなど,極めて複雑な作戦である.
 ミサイル陣地の攻撃要領と実施計画は数年かかって念入りにまとめられていた.

 しかし,それが実行されることはなく,その日に至ったのである.
 それが急遽実施となったので,数百人の搭乗員たちが一斉に搭乗機へと走ったのだ.
 緊急も緊急,実に乱暴としか表現のしようがない爆撃行であった.

――――――『戦車マガジン12月号別冊 IDFマッハのエースたち』(戦車マガジン社,1988.12.5),p.135


 【質問】
 第4次中東戦争において,イスラエルの航空戦力は,どのような目的を持っていたのか?

 【回答】
 まず,前置きとして,主戦場は完全に地上戦であったが,航空戦力はこの戦争でも,大きな役割を果たしている.

 ただ,それ以前までと違って,アラブ側の防空網により,イスラエル空軍のCASが阻止されたこともあり,第三次中東戦争より,影響度は下がった.

 この戦争において,イスラエル空軍の第一目的は,アラブ側の航空攻撃とミサイルから,イスラエル本土及び地上軍を守ることであり,(イスラエルの主張を信じるならば)アラブ側の航空攻撃が,イスラエルの防空網を突破できたのは,わずかに5回だった.

 この点からは,確かに目的を果たしたといえる,
 だが,シリアのFROGミサイルが,イスラエルのラマット・ダビデ航空基地を爆撃し,ゴラン高原とシナイ半島のイスラエル地上軍が,アラブ側の戦闘爆撃機の標的となった事も事実である.

 これに対し,イスラエル国防軍/空軍は,F-4・ミラージュⅢ・ネシェルといった航空機や,各種AAA,ホークミサイルといったSAMでアラブ側の空襲に対応し,多くのアラブ機を撃墜した.

 しかし,アラブ側の空襲によって受けたイスラエルの被害も,決して小さいわけではなかった.

 イスラエル航空戦力の第二目的は,アラブ側の輸送部隊や軍集結地に対する阻止攻撃や,飛行場や戦略目標に対する爆撃(戦略爆撃)であり,特にシリアの軍事・工業目標に対する戦略爆撃は,非常に効果的な航空作戦を実行できたようだ.
 ただエジプトは,SAMやAAA,迎撃機によって,厳重な防御網が構築されており,イスラエル空軍は,与えた損害に比すると,大きな被害を受ける結果となった.

 だが戦争中期には,ポート・サイド付近の防空網に対し,連続的かつ集中的な攻撃を加えて,一時的に制圧を成功させたし,戦争末期になると,地上戦闘によって,防空網の主要な部分を破壊することに成功した.

 戦争当初,イスラエル空軍は,アラブ側の防空用SAM,各種AAAによる,致命的なほどの密度の攻撃をうけ,一時は致命的といえるほどの損害を受けた.
 情報資料の不足と,アラブ防空網による被害によって,イスラエルの戦闘爆撃機は,期待されたほどの効果を敵に与えられなかったが,その損失にもかかわらず,地上軍に対して,航空支援を行なった,
 また,低空進入や,ECM技術,さらにはスタンドオフ兵器をフル活用した.
 この戦争の間,イスラエルは1日500ソーティ以上出撃を行い,戦争期間中に,1万1233ソーティを行った.

 これの主だった内訳は以下の通り.

--------------------------------------------------------
 3961回のエア・カバーと防空,縦深攻撃任務,1830回のゴラン前線に対する空対地攻撃任務,5442回のシナイ前線に対する空対地攻撃任務が含まれる.

――ロン・ノルディーン著『現代の航空戦』(原書房,2005.5),257ページ
--------------------------------------------------------

 総括すると,イスラエルは,戦争当初,奇襲によって,大きな被害を受けたものの,近接航空支援・阻止攻撃・戦略爆撃を行った.
 だが,第三次中東戦争とちがって,アラブ側の防空戦力も大幅に向上したので,イスラエル側は大きな被害を蒙った.
 また,シリアへの攻撃は効果的であったものの,エジプト国内への攻撃では,かなりの被害を受けた.

 全体的に見ても,第三次中東戦争よりも大きくアラブ側の防空網が発達したことを見て取れると思う.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月14日11:16


 【質問】
 ヨム・キープル戦争において,アラブ側の航空戦力は,どのような目的を持っていたのか?

 【回答】
 これに答えるには,まず,前提となる条件が必要だろう.

 アラブ側はそもそも,この戦争において,奇襲攻撃と,優勢な陸上戦力で攻勢を行っていた.
 そして,戦闘機に代わりに対空ミサイルを大量に配置することで,これらの戦力を防衛していた.

 シリアとエジプトの航空戦力は,第一にイスラエルの航空攻撃から,自国を守ること,第二にイスラエルの陣地を攻撃することに用いられた.

 シリア空軍は,戦争初期において,地上軍の前進を支援するため,大挙して出撃したが,イスラエル陣地の防空網で,多くの被害を出し,出撃頻度は下がっていった.

 エジプト空軍は,戦争開始から数日は,イスラエルの飛行場と司令部に激しい爆撃を加えたが,それを長期間維持することはできなかった.
 エジプト軍機は,本国の防衛以外は,防護庵体にとどまったままであり,終戦が近くなり,運河西岸にイスラエル軍が橋頭堡を築いてから,ようやく出撃した.(2000ソーティほどの任務を行った)
 アラブ側の発表では,エジプトのソーティ数は6815ソーティとされるので,これより規模の小さいほかのアラブ諸国のソーティ数は,これより劣ると推測される.

 アラブ側のヨム・キープル戦争での総ソーティ数は約9000ほどと思われ,イスラエル側より,かなり少ないと言えるだろう.
 積極的に攻撃を行ったイスラエル航空戦力と違って,アラブ側は,いいところCASがせいぜいで,後はほぼ本国防空を行っていたと言える.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月17日22:24


 【質問】
 第四次中東戦争において,アラブ,イスラエルの航空機損害はどんなもんだったの?

 【回答】
 最初に触れておきたいのは,アラブ,イスラエル双方とも,発表に対する損害が極めて不確定な数字で,はっきりとは信頼できない.
 しかしながら「一応」数字を挙げると

イスラエル側の損害
損失115機(損害235機,うち1週間以内に復帰したもの215機)
ただし,アラブ側は,イスラエル機を180機~280機撃墜したと主張している.

アラブ側の損害
損失:エジプト242機,シリア機179機,イラク21機

 イスラエル側は,ほぼ空中戦で,相手に損害を与え,アラブ側は80%までが,AAAとSAMによってイスラエル側に出血を強いた.
 特に,SA-6はイスラエル側にとって脅威であった.
 というのも,イスラエル側のECMは,SA-2と3用に設計されたもので,SA-6に対しては,ほぼ無力だったからである.

 さらにZSU-23-4(シルカ)AAAは,その強力な火砲でイスラエル側に脅威を与えた.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月19日22:00

▼ 以下は上記を裏付ける証言.
 当時のファントム戦隊長,アシュケナージ准将(仮名の可能性あり)の手記より.

――――――
 ヨムキプール戦争の緒戦時,エジプト軍は数十の対空ミサイル中隊を展開していた.
 スエズ運河の北はポートサイドから南のスエズ湾に至る地域に,各中隊の威力圏が重なる形で,対空ミサイル網が形成されていた.
 水も漏らさぬ布陣である.
 ミサイルもSA-2,SA-3,SA-6といろいろ種類があった.
 特にSA-6は,戦争直前にこの地域に初めて登場したので,能力や性格が全然分かっていなかった.

 緒戦段階で我々はエジプト,シリア両軍が展開した対空ミサイルに対し,総合的な手段を以って対処しようとした.
 しかし,苦戦する地上軍から矢のような催促があり,さらにまた戦力バランスが我々のほうに極めて不利という現実もあり,個々の対応に追われていた.
 我々は十分な対策を以って対応できず,言わば両手をくくられたような形で,その日暮らしの攻撃をやっていた.
 敵の対空ミサイル網で,我がほうは多くの損害を出し,空軍の戦力は減少していった.
 我々はミサイル網を突破し,回避運動をやりながら攻撃するのだったが,ミサイルのため十分な活動ができなかった.

 敵の先制攻撃を食い止めた初期の拘束戦段階から反撃に転じるに従い,我々は制空権の確立のため,徹底した努力をすることに決めた.
 そうしてこそ,イスラエル空軍の伝統は守れるのである.

――――――『戦車マガジン12月号別冊 IDFマッハのエースたち』(戦車マガジン社,1988.12.5),p.143

消印所沢

 ZSU-23-4(シルカ)AAAは,当時としては画期的な対空自走砲でしたからね.
 まさかアラブ側に供給されてるとは思ってもみなかったのか.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年08月19日23:07

SA-6があるなんて聞いてないぞ!!

じゃあミサイルが狙えないぐらい低空侵入すればよくね?

おまえあたまいいな

しかしシルカに蜂の巣にされる

 こうですか!わかりま(ry

RADYUS in mixi,2007年08月20日03:39


 【質問】
 ヨム・キープル戦争における空中戦はどんな感じ?

 【回答】
 当然ながら,激しい空中戦が行われた.
 シナイ砂漠,スエズ運河,ゴラン高原上空では,40機~60機の戦闘機を巻き込んだ大規模空中戦が行われた.

 115回以上の交戦があり,65回はイスラエルvsシリア,52回はイスラエルvsエジプトもしくは,アラブ連合国軍機の間で空中戦が行われた.

 イスラエル筋の情報では,エジプトで157回,シリアの前線で120回の勝利を収めたと言われている.(割り引いて考える必要はあるだろうが)

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月28日20:30


 【質問】
 ヨム・キープル戦争におけるイスラエルの空中戦能力は?

 【回答】
 アラブ軍機を完全に阻止することは出来なかったものの,アラブの防空体制が整っていない地域では,かなりの航空優勢を確保し続けた.
 格闘戦のみを見ても,イスラエルは,公式に277機のアラブ側航空機を撃墜したと主張している.
 これに対してイスラエル機の損失は4機で,これが正しいなら,撃墜比は70対1となる.

 ただしアメリカの情報筋では,21機がアラブの戦闘機に撃墜されたとしているし,アメリカ空軍の分析では12機が撃墜されたと推定されている.

 にしても,圧倒的な撃墜比率であり,太平洋戦争での日vs米の撃墜比4対1,朝鮮戦争でのセイバーvsMig-15の1対6,ベトナム戦争での米vs越1対2.4を圧倒的に上回る撃墜率である.

 イスラエルによると,この一方的な撃墜比の原因として

1.パイロットの技量
2.優れた指揮官
3.機体の性能差
4.優秀な空対空兵器

を挙げている.

 20人以上のパイロットがこの戦争でエースの地位を達成し,中でも,ジオラ・エブスタインが17機(撃墜確認済み)でトップの撃墜数を記録している.

 飛行隊別で見ると以下の通り.

第117飛行隊(ミラージュ,ネシェルの混成部隊):55機
第101飛行隊(同じくミラージュ,ネシェル):48機
第144飛行隊(ネシェル):44機
第113飛行隊(F-4):32機
第69飛行隊(F-4):20

 この他にも,第119,201飛行隊(どちらもF-4)も相当の撃墜数を挙げている.

 イスラエルの航空優勢確保で,広範囲に張られたイスラエルの監視システムと一元化された指揮統制が大きな役割を果たした.
 以下引用.

-------------------------------------------------------
 イスラエル空軍の作戦は,必要なデータと通信装備が与えられた一人の指揮官によって指揮され,新しい脅威に対しても,直ちに部隊を指向できる柔軟性を備えていた.
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 ただイスラエル防空は,効果的な指揮,統制,通信によって支えられていたため,アラブ側はこれらの機能を妨害することに注力し,イスラエルの通信をモニターし,妨害できる電子システムを有していた.

 ミラージュⅢとネシェルは,制空戦闘と,攻撃部隊の護衛を主任務としていた,
 イスラエル国産のDEFA機関砲2門とシャフリル/サイドワインダー空対空ミサイルを2発装備し,これらの高速・高運動性デルタ翼機は,イスラエルの空中戦において,スコアの3分の2を記録した.
 F-4も,多くの制空戦闘に加わった.
ファントムは通常,AIM-7スパローとAIM-9Dサイドワインダーを各4発装備し,機内には20mm機関砲を持っていた.

 イスラエルの一般的戦術については以下のとおり.

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 一般的に言って,イスラエルの戦闘機はまず赤外線ミサイルを使い,次に接近してから機関砲を発射した.
 大規模にして混戦気味の空中戦では,イスラエル軍パイロットは機関砲よりもミサイルのほうを多く使用している.
 ミサイルなら発射後,すぐ自分の身を守るための離脱行動が取れるからであった.
 それでもなおイスラエルのペレド将軍によると,50機以上のアラブ軍機がイスラエル機の機関砲によって撃墜されたと言う
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 イスラエルのが記録した撃墜の多くは,サイドワインダーとシャフリルの後期型に占められている.

 シャフリルは,ラファエル兵器研究所で開発されたIR誘導の短距離ミサイルで,高Gという条件下でも,極めて有効に働いた.
 弾頭重量は11kgであり,触発/近接信管のどちらでも作動し,51%(176回発射で89機撃墜)もの撃墜率を誇った.

 また,米国から引渡しを受けたAIM-9D/Gサイドワインダーミサイルも優秀な成績をあげ,40%の撃墜率(132回発射・52.5機撃墜)を記録している.

 これに対して,セミアクティブレーダー誘導のAIM-7スパローは,撃墜率25%(12回発射・3機撃墜)にとどまっている.
(そもそも,スパローは爆撃機を撃墜するためのものだが)
 これは,セミアクティブ故の弱点であり(ミサイル発射後も,相手に命中するまで,目標をロックオンし続けなければならない),この傾向は,結局湾岸戦争まで続くこととなる.

 引用部分はロン・ノルディーン「現代の航空戦」269-270ページより.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ミラージュⅤの設計図をパクって作ったと言われるネシェル


ミラージュⅢ

 正直,違いが分かりません ><

ますたーあじあ in mixi,2007年08月30日21:09


 【質問】
 ヨム・キープル戦争における,アラブ側の空中戦能力はどんなもん?

 【回答】
 アラブ側が制空戦闘に使用したのはMig-21で,Mig-21フィッシュペッドC(初期型)とMig-21MFフィッシュペッドJ(後期型)を使用している.
 これらに共通した装備はR-13アトールミサイルであるが,アラブ側のパイロットの技量では,最適射撃位置にいるときでさえ,このミサイルを発射するのに必要な,赤外線のシーカー・ロックオンを行うことは難しかった.
 また,NR-30 30mm機関砲,Gsh-23 23mm機関砲を装備していた.
 これらの機関砲は,ゆるい旋回中であれば発射可能だったが,2.75G以上での旋回では,照準器のバランスが崩れるので,肉眼での照準が必要であった.
 エジプトのMIG-21PFフィッシュペッドDは,ソ連のアルカリ(K-5)ミサイル(レーダー誘導)を装備していたが,これもアトールミサイルと同じく,高速で運動する目標に発射することは難しかったようだ.
 この理由から,イスラエル機を空中戦で撃墜するのは,かなり困難だった.

 イラクのホーカーハンターも空中戦に参加した.
 これは30mmアデン機関砲四門という火力を持ってはいたが,イスラエル機に対抗できる機体性能は持っていなかった.

 アラブ軍のパイロットの特徴としては,ソ連式の地上管制式要撃方式の訓練しか受けていなかったので,戦術的な主導権をとる能力に欠けていた.
 また,警戒待機,整備,消耗の抑制と言った理由から,訓練飛行は制限され,イスラエルと互角に戦えるパイロットはほとんど居なかった.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

MIG-21MF

ホーカーハンター

ますたーあじあ in mixi,2007年08月28日20:30


 【質問】
 イスラエル航空戦力は,どのようにしてアラブ側に攻撃を行ったのか?

 【回答】
 中心になったのは,F-4,A-4,シュペル・ミステールなどの攻撃機,もしくは戦闘爆撃機である.
 F-4は,阻止攻撃に関して中心的な役割を果たした.
 この阻止攻撃は,アラブ軍の補給輸送部隊,地対空ミサイル陣地,その他の後方戦略目標に対する爆撃などである.
 さらに,状況しだいでCAS,制空任務等にもファントムを使用した.
また,ファントムは最も困難とされるSEAD任務にも使用された.

 消耗戦争後に,イスラエル側は,相手防空網に対する制圧手法を多数開発していたが,やはり,SAM,AAA陣地を攻撃するには,大きな危険が伴っていた.
 これについて,イスラエルのシャビト退役大佐(当時基地司令官の一人)の証言を引用する.

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 戦争2日目の日曜日,北部でミサイル陣地の一掃が始まった.
 これには時間がかかった.6時間,7時間,8時間.
 まず,おとり,そして高射砲,それからミサイル.
 作戦の途中で,「エジプト前線で大変なことになっている.行ってくれ」と言われた.
 そこに行くということは,ミサイルを相手にするということだ.同じ作戦をまたやるのである.
 結局,ゴラン高原では成果もないまま死傷者を出した.エジプトに行ったものの,限られた成果に代価を支払ってしまった.
 空軍がまるで歩兵隊のような動きを強いられた.
 これはあってはならないことだった.
 空軍は見返りもないまま死傷者を出した.
 地対空ミサイルを一掃する際の対価は統計的に,1つの高射陣地につき1機程度のものだ.
 我々はそれを支払った.というのも,シリア前線からエジプト前線,それからまたシリア前線と,動かされ続けたからである.
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 結局,この戦争でファントムは,その優秀性を証明したものの,アラブ側により33機が撃墜されることにもなった.

 A-4スカイホークは,主としてCASに投入された,
 緒戦においてA-4は,シナイ半島と,ゴラン高原両前線でのアラブ軍新劇を遅延させ,イスラエル予備役召集のための時間を稼いだ.
 A-4はきわめて丈夫で,サバイバビリティに優れ,他の機体であれば,当然撃墜されるような損害を受けても,基地に帰還することができた.
 また,型によっても損害に差があり,エンジンパワーの小さいA-4F・Hの損失率は,エンジン強化型のA-4Nよりも大きい.
 これは,エンジン出力が大きいほうが,小さな半径で旋回でき,兵器を搭載していても,低空で高速を発揮できたからである.

 だがA-4は,そのほとんどが最前線に投入され,そこはアラブ側の防空網が最も発達した地域であるがゆえに大きな被害を蒙り,戦争中に少なくとも52機が撃墜された.

 シュペル・ミステール(B-2)は,旧式であるがゆえに,1個スコーロドンしか残っていなかったが,A-4を補填する形でCAS任務に投入されることとなった.
 この戦争を通じて,6機が撃墜された.

 引用部分はロン・ノルディーン「現代の航空戦」265ページより

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

A-4スカイホーク アメリカのAナンバーは名機が多いな

ますたーあじあ in mixi,2007年08月27日11:58


 【質問】
 ヨム・キープル戦争でイスラエルが使用した空対地兵器は?

 【回答】
 戦争前半は通常爆弾(無誘導の)がほとんど,
 500lbのMk-82と750lbのM117とか,CBU-24のようなクラスター爆弾を,地対空ミサイル陣地,高射砲陣地,輸送部隊などに使用した.
 また,シュライク対レーダーミサイルや地上部隊には,ナパーム,非誘導のロケット弾などを使用した.

 後半になると,アメリカから供給された「スマート」な武器を使用することになる.AGM-65Aマーベリックなどの,テレビ誘導,レーザー誘導弾である.
 マーベリックに関しては,終戦直前の数日間に投入されただけであったが,30ないし50輌のアラブ軍戦車,その他車輌,庵蔽壕などを破壊したといわれている.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月27日16:03


 【質問】
 具体的に,アラブ側の対空ミサイル,対空砲火は,イスラエルにどんな被害を与えたん?

 【回答】
 ミサイルだけで,40機以上のイスラエルを撃墜したが,このために2100発のミサイルが発射された.
 イスラエル機一機を撃墜するのに,平均55発のSA-6が必要だったといわれている.
 これが正しいなら,ベトナム戦争において,アメリカ機を一機撃墜するのと,同じ数のミサイルが発射されたことになる(平均60発,もっとも当時はSA-2だったが)

 肩打ち式のSA-7は,イスラエル機にとって邪魔な存在ではあったものの,撃墜記録となると,かなり少ない,
 30機以上に損害は与えたが,撃墜したのはわずかである.
 航空機がある程度高速でとべば,この手の後方追尾式ミサイルを振り切るのは,そんなに難しくはないからだ.
(ただし,相手の攻撃を阻止するといった目的は達成できる)

 これに対し,イスラエル軍は,チャフ散布やECMによって対抗し,何度も対空火力制圧任務を行わなければならなかった.
(リソースをこっちに向けたという意味でも,防空網の意味があったとも言えるだろう)

 しかしながら,対空防御効果をもっとも有効に減じたのは,地上からの妨害作戦,すなわち,イスラエルの地上攻勢だったようだ.
 この攻勢によって,ゴラン高原のアラブ軍は撤退を余儀なくされ,それに伴ってECM,ワイルドウィーゼルを行い,長距離隊空砲を持っていたシリアの防空システムを弱体化させた.
 これによって,発電所,石油製油所,飛行基地などの戦略目標が攻撃できるようになり,シリアに防空部隊の再配置を強要した.(ここにリソースを使わざるを得ない状況を生み出した)

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月21日22:02


 【質問】
 アラブ側のイスラエルに対する航空攻撃って,どれくらいの規模で,どんな方法を採ったの?

 【回答】
 開戦当初に,イスラエルの航空基地,司令部,補給所を爆撃したし,エジプトのTu-16がAS-5空対地ミサイルで攻撃を行った.
 また,戦争が進むにつれ,アラブ側はSu-20(Su-17の輸出派生型)やリビアのミラージュも使用して,シナイ半島のイスラエル軍陣地に攻撃を行った.

 戦争の最後の週には,エジプト軍はイスラエルのスエズ運西岸(エジプト側)に築かれたイスラエル軍の橋頭堡に対して,激しい爆撃を行っている.(18回の空中戦,2500回以上の出撃)
 この時,エジプトはとりあえず飛べるものは何でも投入したといってもいい.(戦闘機・爆撃機は言うに及ばず,L-29練習機,Mi-8輸送ヘリコプターまで使用した)

 アラブ側が使用した戦術に関しては以下の通り

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 イスラエル陣地に対するアラブ空文の攻撃には,いろいろな戦術が用いられたが,多くの場合は低空から高速で進入して,ローアングルから機関砲やロケット弾を発射する方法がとられた
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 また,アラブ側の攻撃機やパイロットもイスラエル側に対して,劣勢だった.

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 リビア空軍のミラージュを例外とすれば,アラブ軍の攻撃機には,その性能,ペイロード搭載能力,爆撃照準システムにおいて,イスラエルの戦闘爆撃機に匹敵するものはなかった.
 またアラブ軍のパイロットの大部分はイスラエルのパイロットに比べて経験不足だった.
 加えて,味方の防空部隊とやりあったり,イスラエルの防空網を回避する必要性が,味方地上軍に対する近接支援や,イスラエルの後方目標攻撃の有効性を減じることになった.
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 アラブ側が航空攻撃を行った際に蒙った被害の一端を証言としてあげておく.

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 このラマダン戦争でMig-17に搭乗したエジプト空軍のシャララ退役大佐は,彼の部隊が余儀なくされた犠牲について次のように述べている.
「私の飛行隊には24人のパイロットがいたが,戦後は8人になっていた.
 4人は脱出して捕虜となったが,それ以外は全て死亡した.
 我々の部隊は16機を戦闘機や防空網によって失った」
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 このように大きな被害を出しながらも,アラブ軍は攻撃作戦を止めなかった,
 低空攻撃はしばしばイスラエルに対する奇襲攻撃の役割をはたし,成功した場合,イスラエル軍に大きな被害を与えた.
 この攻撃について,イスラエル軍のシナイ師団長,アダン退役少将の証言を書いておく.

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 大胆さを誇示するために,エジプト軍は10月11日停戦ラインを超える短時間の,低高度攻撃任務に航空機を出撃させた.
 これらのうち2機が1400時,マーディム・ロードにある1つのポイントで,ナトケの大隊から派遣されていた4両の戦車が弾薬を積み込んでいるところを攻撃した.
 2人の小隊長が死亡し,乗員一人が負傷した.
 別の敵機2機が前線の約15キロ東のポイント,マーディム・ロードを爆撃した,
 ここは,我が軍の武器中隊が駐在し,戦車の修理などが行われているところだった.
 給油車が出火し,あちこちで弾薬が爆発し始めた.80人が負傷した.
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 アラブ側は基本が防空戦とCASだったが,小規模ながら後方目標への攻撃を成功させたと言えるが,その際に大きな損害を蒙ったことも事実だろう.

 引用部分はロン・ノルディーン「現代の航空戦」263-264ページ

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月24日11:16

Mi-8(画像はポーランド軍のもの)
これを爆撃に使った?
無茶過ぎる……


 【質問】
 イスラエルの防空体制はどんな感じだったの?

 【回答】
 ホークミサイル10個高射郡,数百基の20mm及び40mmAAA,鹵獲品のSA-7ミサイル,35mmAAAを運用していた.
 これによって,12機のアラブ軍機を撃墜している.
 特に,ホークミサイルは,ソ連式の対空ミサイルよりも,数倍有効だったと考えられている.

 戦争末期にイスラエルはアメリカからレッドアイ地対空ミサイルの引渡しを受けた.
 レッドアイは,ソ連のSA-7と同じ肩打ち式の対空ミサイルである.

 また,チャパレル対空ミサイルシステムの引渡しも同時に行われた,
 これは,装軌車両に,サイドワインダー四発を積んだシステムである.

 まぁ,投入時期が遅かったので,戦果としては,Mig-17を一機撃墜するに留まったけど.

 【参考文献】
『現代の航空戦』(ロン・ノルディーン著,原書房,2005.5)

ますたーあじあ in mixi,2007年08月22日22:44


 【質問】
 ヨム・キープル戦争後の推移は?

 【回答】
 いくつかの外交工作が行われ,最終的にエジプトはイスラエルとの交渉をサダトが纏めた形になる,
 ただし,サダトはその数年後に暗殺されてしまった・・・.

 まず,アメリカがイスラエルに対し部分的撤退を要求,国連監視軍が,シナイ半島とゴラン高原に設置された.
 ただ,合意を取り付けるのに,数年を要した.

 この時の経緯について,ナイは以下のように述べている.

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 1977年になってサダトはイスラエルを訪問し,イスラエルとの単独講和の用意があることを宣言した.
 1978年から1979年にかけて,ジミー・カーター大統領の調停を受け,イスラエルとエジプトはキャンプ・デーヴィット合意の結果,反イスラエル連合の最大の国家がこの連合から降りることになったのである.
 エジプト・ナショナリズムが汎アラブ主義に勝利した.サダトは汎アラブ主義の連合を壊したのである.
 しかし数年後,サダトは,彼の政策に反対する宗教的原理主義者の手で暗殺された.
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・アラブ側(というかエジプト)とイスラエルとの合意には数年かかった.

・これで,エジプトとイスラエルは一応の合意を取り付けた.

・ただし,合意を取り付けたサダトは暗殺されてしまった.

 まぁ「エジプト」とは決着がついたものの,アラブ側との紛争はまだまだ続くことにはなるが.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 キム・ヨープル戦争とは?

 【回答】
 中東で起こった,ヨーグルト・プルーンを巡る国家間紛争.

 ことの起こりは,ある日の金正日の晩餐会.
 彼がプルーン入りヨーグルトを食した際,
「このヨーグルト・プルーン最高! 中でも,ベドウィンの持ってる皮袋に入ってたヤツ最高!」
と一言言ったから,さあ大変.
 彼のご機嫌をとるために,中東各国に駐在する北朝鮮大使館員は,我先にと,砂漠の民ベドウィンからヨーグルトの入った皮袋を買い取っては,せっせと本国へ送り届けることに.
 たちまち皮袋価格は高騰.
 けれど,元々数に限りがあるものだから,しまいには品薄に.
 その数少ない皮袋を奪い合い,しまいにゃチンピラゴロツキを外交官達は雇って,同じ北朝鮮大使館同士で殺し合いを始める始末.
 しかもその最中,彼らを雇うために払っていたドル札がが全て偽札だとバレ,事態は一変.
 ベトウィンもチンピラゴロツキどもも北韓大使館へと押し寄せ,とうとうご当地の軍隊が鎮圧のために出動.
 RPGが大使館の壁を壊したり,政府軍のT-72戦車がベドウィンに騙し取られたり,その戦車を極彩色で飾り立ててみたり,戦車で大使館の車をひき潰してみたり,戦車砲撃ってみたら大使館の2階を炎上させたり,そこに保管されていた密輸麻薬が燃えちゃってみんなラリってみたり,燃えた腹いせに北朝鮮本国ではミサイルを発射して威嚇してみたり.

 一方そのころピョンヤンでは,金正日が
「ラーメンの缶詰,んまぁ~~い」
と言い出していましたとさ.


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